(かあさん)
目を開けると、自分の腕が浮いているのが見えた。その向こうの晴れた空には、雲がひとすじ流れている。
からっぽの手の中には、母のあたたかい手のあわい感触だけが残っていた。カダージュは惜しむように、握りしめた手を胸元へ引き寄せた。こちらへ差し出された母の手は少し華奢で、たしかに頼りがいがあるとは言い難かった。けれどそんな些細なことは、カダージュの喜びを揺さぶる力もないのだ。
これからは、母のそばにいられる。自分だけが母の望みを叶えてやれる。
その喜びは全身を力強く駆け巡り、カダージュをより満たしてくれた。
(母さん?)
上半身を起こすと、昇りたての朝の光がまぶしかった。体は充分休んだあとのように軽い。
脛の高さほどの草が生い茂る平原は余るほどに広く、端が見えなかった。瑞々しい風のほかに、目につくものはない。
いちばん肝心の母の姿が見えず、カダージュは落胆した。
(どこにいっちゃったんだ、母さん)
おそらく、なにか手違いがあったのだ。
自分がこんなところで眠りこけてしまったから、きっと母も困ってしまったのだろう。そう考えていると、風になびいた草の先が脇腹をこすった。やけに鮮明なくすぐったさに、カダージュは体は勝手に曲がった。すると、わずかに草が倒れているのが目に入った。
すぐさまカダージュは立ち上がり、足下を注意深く観察しながら、誰かが通ったらしい跡を追いかけた。
青々とした草は、踏むたびにさくさくと音がする。北の地を踏みしめたときも、こんな音がしていた。だが、あちらのほうが耳障りだった気がする。
(そうだね、母さん。ここは悪くないよ)
自分はともかく、母がいる場所としては悪くない。
日差しはまんべんなくふりそそいでいるし、やわらかい草の寝心地もそこそこだった。何よりこの広さがいい。
母にはいつでも自由でいてほしいと望むカダージュにとって、遮るものがないのはとてもいいことに思えた。
(そうか、母さんはここが好きなんだね。だから僕を連れてきてくれたんだ)
カダージュも気づかないうちに、歩調が少しずつ早くなっていく。母が近くにいるかもしれないのに、悠長に歩いてなんかいられなかった。何度も何度も母を思い描いてきたカダージュは、うれしくて仕方ない。
とうとう母と話せる。
母に聞きたいことが山ほどあった。自分は母の役に立てるか、母が喜ぶことをしてやれるのか。母が自分を愛しているか。頭の中に次々と尋ねてみたいことが浮かぶ。
(母さんは僕を見たら、どんな顔をするかな)
ふと浮かんだ疑問の一つが、ほとんど走っていたカダージュの足をぴたりと止めてしまった。胸の内に、焦りが生まれたのだ。セフィロスと比べても、自分が劣っているとは思わない。母の望みなら、どんなことでも叶えてやれる自信もある。
カダージュは、どうしても自分を選んでほしかった。
だって、母が必要としてくれなければ、母が愛してくれなければ、自分はいらなくなってしまう。
(けど、母さんが選んだのは……)
立ち止まった靴の踵が、思い切り草を踏みつける。草が土とぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。
この単純な苛立ちは、小さな子供が母を独り占めしたがる嫉妬に近い。
(母さんには僕だけいればいい、僕だけが!)
母の愛は、全て自分のものでなければいけない。他のやつに注がれるなんて、考えるのも嫌だ。あのやさしい声で、ずっとずっと自分の名を呼んでくれなければいけない。
ひとつ風が流れた。
ふいに、自分を呼ぶ母の声が耳の中でよみがえる。
(そうだよ、母さんは僕を迎えに来てくれたじゃないか)
ふしぎなもので、カダージュの内に渦巻いていた怒りは、簡単にほどけてしまった。肩肘張ってむきになっているのも、なんだかばからしくなってしまう。落ち着きを取り戻したカダージュは再び歩き出した。
一歩行くごとに癖のない髪がゆれ、少年らしい無邪気さをたたえた瞳をのぞかせる。
足下ばかり見ているのも飽きたので、カダージュは顔をあげていることにした。
しばらく追いかけてきたから方向を間違えてしまうこともなかったし、てのひらに残る母の手のあたたかさが、またはっきりと感じられるようになっていた。それに、こうしていれば母をすぐに見つけられる。母も自分を見つけやすくなる。自分の姿を見て喜ぶ母を思うと、カダージュの胸は痛いほどに高鳴った。
小高い丘のてっぺんに足をかけると、思いがけない光景が広がっていた。
色鮮やかな花が、数え切れないほど咲いている。後ろを振り返ってから視線を戻すと、色の多さに目がちかちかした。
明るい日の光の下で咲く美しい花畑は、やはりどこまでも続いている。母以外の夢を見たことがないカダージュにも、夢のような光景だった。花畑からただよってくるほのかな甘い香りに、なぜだかばつの悪い気持ちになる。わけがわからないまま、カダージュは額を押さえた。
(たかが花だろ、どうして僕が)
こんな、人間みたいな気持ちになるなんて、生まれて初めてだ。
払いのけるように頭を振る。この場を去ろうと踵を返しかけたカダージュは、不意をつかれたように動きを止めた。
花畑の中に、誰かが座っている。
うすく開いた唇に入り込んでくる空気はひどく冷たかった。
「母さん!」
花に囲まれた小さな人影から、カダージュはけして目を離さずに駆けた。
(母さん、母さん!)
なぜだか思うように走れない。距離はなかなか縮まず、ただの草に足を取られそうになる。情けないほどに息が上がり、喉がひりひりと痛んだ。今までに、カダージュはこんなみじめな状態になったことはなかった。
だがそんなことはどうでもいい。母が、そこにいるのだ。
人影が声に振り向いたのを、カダージュの目はとらえた。少し首をかしげただけで、座ったまま動く気配はない。
(僕を待っているんだ)
そう確信すると、鼻の奥がしぼられるようにつんとした。これも、初めてのことだった。
母のそばにくると、カダージュはようやく立ち止まるうことができた。
(母さん)
カダージュが思い描いていたよりもずっと、母は美しかった。
肩で息をしているカダージュに、母はやさしいまなざしを向けてくれる。
まっすぐ見つめられて、カダージュの鼓動はますます早くなった。こんな風に、やさしい瞳を向けてほしいと望んでいた。望みが叶った喜びは、とても言い表せない。線のやわらかい輪郭を支える首は白く、全体的に華奢な感じがあった。だが、けして打たれ弱そうには見えない。
近くだと、瞳がとくに美しいのがわかる。ここにある花なんか足下にも及ばない、とカダージュはごく素直に思った。
これほど美しい人は、他にいない。
栗色の髪をまとめるリボンがやや可愛らしすぎる気もするが、母の美しさを損なうものではない。
(やっと会えたね、母さん)
思うままに母に会えた喜びを口にしようとしたカダージュは、ふとある違和感があるのに気付いた。
(……母さん?)
感情になるまえの感覚が、ごく小さな違和感をカダージュに教えている。体はすぐにでも母を抱きしめたいのに、奥まったところにある意識が待ったをかけている感じだ。妙な感覚に困惑するカダージュに、エアリスはほほえんでみせた。
「そんなに急いで、どうしたの?」
聞き覚えのあるやさしい声に、カダージュはぎくりとする。違和感は依然としてカダージュの中に残っていた。
「なんだか、困った顔してるね。どんな顔していいか、わからないみたい」
ちょっと考えたエアリスは、のぞきこむように視線を上げた。
「あ、もしかして、わたしは探してる人じゃなかったのかな?」
からかうような言い方に、カダージュの頬がかっと熱くなる。言い当てられて、ものすごく悔しかったのだ。
「……そうだよ。僕が探してるのはあんたじゃない、母さんだ」
ごまかす為にはき出した言葉は、カダージュをひどく悲しい気持ちにさせた。
この女が母ではないと、認めるしかなくなったからだ。違和感は最初から、母ではないと告げていたのだ。
けれどこのやさしい瞳を見たときから、カダージュは自分の名を呼んでほしいと、焦がれるほどに望んでいた。
だがそう認めるわけにはいかない。母を裏切ることは、できない。
「母さんはどこ。あんた、知ってるんだろ?」
「あなたの、お母さん? うーん、ここにはいないんじゃないかな」
「嘘は嫌いだよ。僕の目の前にはあんた以外いないんだ。言い逃れはさせない」
カダージュの目は次第に冷酷な色を帯びていく。低めた声にも不穏な響きがただよう。
「ずいぶん一方的な言い方、ね。なんだか、損した気分」
カダージュの態度に、エアリスは子供のようにそっぽを向いてみせる。
「は、なんだって? あんたがどうしたって言うんだよ?」
「すっごく気持ちよさそうだったから、起こしたらかわいそうかなーって思ったけど、起こしちゃえばよかった」
ぎょっとしたカダージュは、改めてエアリスを上から下まで眺めた。口ぶりからすると、自分が眠っていたのを知っていたらしい。けれど迎えに来てくれたのは母だ。母が、自分のそばにいたはずだ。
「それは、どういう意味?」
「お昼寝のじゃま、しちゃえばよかったってこと」
「はぐらかされるのも嫌いだよ」
双刃を鞘から抜くと、白い喉元にぴたりと突きつける。
「わかった、それじゃあもう一度だけ聞いてあげるよ。母さんはどこ」
だが、どうもうまくいかない。刃先が小刻みに揺れ、狙いが定められない。それどころか、腕が万が一にも女を傷つけまいと注意を払っている。
(くそ、どうなってるんだ)
母の居場所を聞き出さなければいけないのに、意識と体がちっとも噛み合わなかった。
「カダージュ」
ゆっくりと名を呼ばれると、カダージュの手は、あっけなく力をなくしてしまった。
手からするりと落ちた双刃が、花々の間に埋まる。
喉の奥からこみ上げるものに、カダージュは歯をくいしばった。
この声を頼りに、ここまで来たのだ。もっと声を聞きたい。もっと名を呼んでほしい。
けれど、この女は母ではないという事実が、カダージュを混乱させる。
刃を向けられても、エアリスは落ち着いていた。カダージュからは傷付けようという意志が感じられなかったからだ。
エアリスは自分の隣の、花がない場所をぽんぽんとてのひらで示した。
「ちょっと、座らない? それともわたしとおしゃべりはしたくない、かな?」
断るのは簡単だった。母が望むこと以外に、カダージュが従う道理はない。
なのに、体は言われるがままに座り込んでしまった。エアリスがうれしそうにほほえむ。自分のことながら情けなくて、カダージュの眉は不機嫌そうにゆがんだ。
「あんたに言われたからじゃないよ。そろそろ休もうって考えてたところだったんだ」
「うんうん。あんなに走ったら、くたびれちゃうもんね」
「紛らわしいあんたさえいなければ、無駄に走らなくてもよかったんだけどね」
「そう? なら、わるいことしちゃったね」
エアリスは笑ってかるく肩をすくめた。
どうやら皮肉は通じないらしい。カダージュも呆れたように肩をすくめた。
今更ながら、急いだことが後悔される。どうしてこの女を母だと勘違いしたのだろう。こんなに子供っぽくて、ちっとも母らしくないのに。
「そんなに、似てる?」
「は?」
少しぼうっとしていたカダージュは、ぽかんと口をあけた。
「わたしと、あなたのお母さん。まちがえちゃうってことは、似てるのかなって」
ふざけている気配はない。むしろ、知りたくてしかたないという様子だ。
(なんなんだよ、こいつ)
変な女だとカダージュは思った。そんなことを聞いてどうするのだろう。
「もし似てたらどうだっていうのさ」
「うーん、どうもしないかな。けどやっぱり、気になるじゃない?」
「どうでもいいよ。下らないね」
すっぱりとカダージュは言い捨てる。
するとエアリスの瞳がわかりやすく曇ったので、カダージュは仕方なくといった風に付け加えてやった。
「どうでもいいけど、自惚れてもらっちゃ困るよ。母さんは絶対にあんたみたいな能天気じゃないからね」
絶対に、を強調して言うと、ぱっとエアリスの表情が明るくなる。
「じゃあつまり、似てないってこと?」
いきなり無邪気な笑顔を向けられて、カダージュはびっくりしてしまった。
さっきまで悲しそうだったくせに、変わるのが早すぎやしないか?
「似てないってさっきから言ってるだろ。あんたと母さんは全然違うんだからね」
「そっか、よかった」
ほっとされたらされたで、なんとなく腹が立つ。
カダージュがむっとしていると、エアリスはあわてて首を振った。
「あ、ごめんね。わたし、そんなにお母さんみたいに見えるのかなって、ちょっと心配で」
「どこが? 僕にはそう思えないし、全然見えないけど」
「んー、どうしてなんだろ。なんでかわからないけど、よく母さんって呼ばれるから」
「そんなの簡単なことさ。人間の男は基本的にマザコンだからね。それかあんたの」
台詞を中途半端なところで終わらせると、カダージュは俯いた。
(こいつが、なんだって?)
いつの間にかくだらない話に付き合っている自分が苛立たしかった。カダージュの手が、掴んだ草を無造作にむしると、青くさいにおいが鼻まで届く。全身を包む花のあまいにおいが薄れ、本来のやるべきことをようやく思い出せた。
「もう、行っちゃうの?」
立ち上がりかけたカダージュに、エアリスが手を伸ばそうとする。
「うるさいな、おしゃべりの時間はもう終わりなんだよ」
触れられる前に、カダージュはその手を払いのけた。
「生憎だけどあんたみたいにぐずぐずしてる暇はないんだよ。母さんは今も僕を待ってる。だから僕が見つけてあげなきゃいけないんだ」
意識してエアリスを見ないようにしながら、カダージュは投げやりに言った。
「見つけて、それから?」
「さあね。母さんが望むことなら、僕はなんだってするよ」
エアリスは小さく息をついた。
「ね、カダージュ」
母だと思っていたやさしい声に名を呼ばれると、カダージュの体は意志に反して動かなくなってしまう。払われた華奢な手は再び伸ばされ、そっとカダージュの手を握ってくれた。ほっそりした手は、振り払うのに力がいらないほど軽い。
「がんばるなら、自分のためにがんばろうって、思わない?」
「はあ?」
「うんとたくさんがんばるのって、大変じゃない? なのに誰かの分までがんばったら、走るよりくたびれちゃうよ」
静かに話すエアリスの瞳から、カダージュは目が離せなかった。
まっすぐこちらを向いているのに、エアリスはもっと先を見ているような気がしてならない。自分が透明になったかのようで、カダージュは動揺した。何もかもをさらけ出しているみたいで、落ち着かない。
ふふっと、エアリスがこらえきれなかったかのように笑った。
「ゆっくりお昼寝もできないし、ね」
動揺を見透かされた、とカダージュは奥歯をかんだ。
「……お説教も嫌いだよ」
こめかみがずきずきと痛む。きっと、この声のせいだ。やさしすぎて、鼓膜に直接響いてくる。
「母さんの望みは僕の望みだ。あんたにとやかく言われる筋合いはないよ」
「ほんとうに? 無理、してない?」
これはカダージュの痛いところを的確に突いた。
カダージュに与えられたのは体を引き裂かれる痛みだけで、依り代でしかないことを思い知らされた。母は、自分を選んでくれなかったのだ。それが、どうしようもなく辛い。胸が痛くてたまらない。
(母さん、どうして、どうしてだよ……)
エアリスの手に、力が込められる。カダージュはぼんやりと、その白い手を眺めた。
自分はこの手をとり、ここまで来た。なぜだろう?
「あんたと話してるとイライラするよ」
「あ、ひどいなあ、それ」
「えらそうに言ってくれるよね。僕をまるで知らないくせに」
「そうでもないけど。いじわるなこと、たくさん言ってくれたし」
「だけど僕を連れてきたのはあんただ。今更文句は受け付けないよ」
エアリスは目をぱちぱちさせる。カダージュが気が付いていたのが意外だったらしい。
「ねぼけてて、覚えてないかと思った」
「あんたの声は忘れようにも忘れられないんだよ」
皮肉めいた口調だったが、どこかやわらかさも持っている。唇の端をかるく持ち上げたカダージュは、ぐっと腕を伸ばした。たった今気付いたが、天気はすこぶるよく、下草は丁度よくぽかぽかしている。
「まあいいや。そこ、借りるよ」
返事もきかずに、カダージュはさっさとエアリスの膝を枕にしてしまう。草の上に寝転がるより、ずっと具合がいい。カダージュは満足そうに息をついた。
「あんたがうるさいせいで頭が痛くなったんだ。休ませてもらうからね」
実際考えることは山積みで、カダージュの額にはにぶい痛みが居座っている。
母への思いは簡単に変えられる類のものではなかった。かといって、くすぶる悲しみも消せそうにない。
(がんばる、か)
折り合いをつけるのは、自分の為にがんばることになるのだろうか。やったことがないから、どれほど時間がかかるのか見当もつかない。
「わかった。ちょっとだけ、貸してあげる」
ついでにとばかりに、カダージュは手探りでエアリスの腕をつかむと、あたたかいてのひらを自分の額にのせてしまった。思った通り、にぶい痛みが和らいでいく。これならよく眠れそうだ。
まどろみながら、カダージュはふと思い出し、たずねた。
「名前」
「え?」
「名前だよ。僕だけ知られてるのに、こっちは知らないなんて不公平だろ」
ああ、とエアリスはほほえんだ。唇からやさしい声が紡ぎだされる。
「わたし、エアリス」
「ふうん、エアリスか」
つまらなそうに口の中で繰り返したカダージュは、ついでのように付け加えた。
「まあ、悪くないよ」
- 09.05.03
あとがき