はじめは、目が覚めたのだと気付かなかった。
 かすれていた視界が少しずつはっきりしてくると、体を横たえていたのを思い出す。
 これほど深く眠ったことが、カダージュにはなかった。地上にいたときは、ただ肉体を休めるだけで、人のいう眠りとは違ったように思う。
 目の奥が重く、体がだるい。眠るといちいちこんな面倒な感覚になるのかと、カダージュはうんざりした。
 少し上にある白い首筋に目をやると、カダージュが膝を拝借している人物が、空を見上げていた。
「なにを見てるのさ」
 はっとして、エアリスが視線を下ろす。
「起きた?」
「見ればわかるだろ」
 ひねた子供のような返事にも、エアリスはやさしい瞳をそっと細めるだけだった。
「よく、眠ってた。おっきな赤ちゃんみたい」
「へえ、そんなに僕を怒らせたいわけ」
「あ、おこった?」
「そんなわけないだろ」
 膝を借りていたのも忘れたように、カダージュは体を起こした。
 すでに日は沈んでいるのに、あたりはぼんやりと明るい。地表一面に咲く花があわい光を放っている。白く立ち上る光は昼間のそれとは違い、どこか冷えたような印象を与えた。普通ではけして見られない光景が、ここはやはり地上ではないのだとカダージュに教えてくれる。
 けれど、カダージュの感情はほとんど動かなかった。頭のどこかで既に理解していたからだろう。
「あんた、まだいたんだね」
「んん? それって、わたしがいたら、悪いってことかな?」
「別に」
 エアリスがまだ傍にいたことが、カダージュには意外だった。このおかしな女が幻のように消えていてもおかしくはないとさえ感じていた。
 それに、カダージュが探しているのは、母だった。母の目的は、まだ達せられていない。ならば自分が、母の望みを叶えなくてはならない。
 だからカダージュにとって、母ではない存在はなんの意味も持たない。この場所に連れてきたエアリスも例外ではなかった。ただの女に用はない。母が必要としてくれること以外、あとはどうでもよかった。
「でも、起きてくれてよかった。そろそろ足、しびれてきちゃって、どうしようかな〜って思ってたの。落っことしちゃうのも悪いしね」
 なのにこの女はのんきに笑い、まだおしゃべりをするつもりらしい。
(変な女)
 けれど不思議と、傍を離れる気にはならなかった。額に触れてくれたあたたかいてのひらが、妙に惜しい。
「さ、行きましょ」
「は?」
 立ち上がったエアリスが、カダージュをうながす。おしゃべりの続きのように言われて、カダージュは一瞬呆気にとられた。
「行くって、どこへ」
「もちろん、家に」
「家?」
「そ、家。あ、お花、踏まないでね」
 カダージュはまじまじとエアリスを眺めた。妙な女ではあったが、気がふれているというわけではない。癪ではあるが、美しいと思った瞳には、簡単に揺らぎそうにない意志すら感じられる。
 エアリスは、先に歩き出してしまった。足元に気を付けながら歩いているエアリスの後ろ姿を、カダージュはぽかんと口を開けて見つめていたが、結局追いかけるしかなかった。
(家だって? あいつ、何を言ってるんだ)
 一歩踏み出そうとしたカダージュは、ふと思い出して、足を下ろす場所に注意を払った。花を踏まないように足を運ぶのは、意外に難しく面倒だった。
 白っぽい光のともった花は、ゆったりとふく風に頭をゆらしている。風にゆれる度に光の粒子が夜の中に溶け、雪の結晶のように儚く消えていく。
 昼間(ここに時間の概念があるとすればだが)は普通の花だったのが、どういう理屈でこうなっているのだろう。そんなことを考えていたカダージュは、視線を感じて顔を上げた。エアリスが、こちらを向いて笑っている。なぜかかっと頬が熱くなり、カダージュはあわててそっぽを向いた。
 しばらく行くと、花畑は途切れ草地に変わる。月と星が照らすとぼしい明かりだけでは、普通の人ほどしか目が利かない今だと、足元が覚束ない。代わりにさくさくとした音がカダージュに道を教えてくれた。影のように見えるエアリスも、ときどき振り返ってはカダージュがついてきているか確かめてくれている。
 家は、たしかにあった。
 エアリスが向かう先に見えた小さな明かりは、近づくと家の窓からもれる明かりだとわかった。
 こじんまりとした家だった。持ち主に大切にされているからか、あまり痛んだところはない。家を囲む木の柵は、一部だけ真新しいところがある。最近新しく直したというのだろうか。
 玄関に、誰かが立っている。家からの明かりで、その誰かが人待ち顔なのにカダージュは気付いた。
「エアリス!」
 母親を見つけた子犬のように、その男は駆け寄ってきた。
「今日は遅かったな、心配したんだぞ?」
「ちょっと、ね。いろいろ、やることあって」
「あんまり遅かったら迎えにいこうかと思ってたんだ」
 二人の口調は、あまり深刻そうではない。男は、ごく普通に、いたわる言葉をかけている。
 それがカダージュには妙だった。
 ここは、地上ではない。役目を果たせなかったカダージュの肉体は、地上にいられなくなったからだ。ならばエアリスも、あの男も、同じのはずだ。
 内側から意識がほどけていく感覚は、まだ生々しく残っている。だが恐ろしさはなかった。差し述べられた手が、自分を母のいる場所へ導いてくれるのだと思っていた。
 だがとにかく、待たされるのは気にくわない。
「あんたさ、いつまで僕を待たせる気?」
「あ、ごめんね。こっち、入って」
 脇によけた男のほうは、わざと無視した。こちらから声をかける義理もないし、気を遣う必要もない。
 ただ、黒髪の男が思いがけない顔に会った、という顔をしたのでにらみ返しておいた。
 家の中もよく手入れされていた。多く飾られた生花が目を楽しませるように鮮やかな色を見せている。板張りの床の木目は自然になじみ、窓には白いレースのカーテンがかけられていた。
 居心地のよい『家』というものに初めて触れたカダージュは、なんだか頭がくらくらした。
 ダイニングテーブルにも花が飾ってある。先程見た花ではなく、ごく普通の花だった。
 座って、と示された椅子に腰掛けると、エアリスもカダージュの前の椅子に腰掛けた。あの黒髪の男は少し離れたところに立っている。そのまま、話を聞くつもりなのだろう。
「じゃ、どこから話したらいいかな」
 何もかもだよ、と言いたいのを、カダージュはぐっとこらえる。
 エアリスと話していると、どうもペースが乱されてしまうのだ。確かめたいことはいくつもある。
「この茶番は一体いつまで続けるつもり?」
 冷ややかに言うと、エアリスは少し驚いたようだった。
「だってそうだろ。家だって? 下らないよ。あんた、自分がおかしいって気付いてないわけ?」
 死んだ者が行く場所があるなど、カダージュは信じていない。あるのは、この星が作り出した潮流くらいなものだ。
「そんなに、変?」
「どう考えても変だね」
「変、かなあ。うーん、もしかしたら、そうなのかも」
 頬杖をついて真剣に考え込むエアリスの表情は、少し年上のはずなのに幼く見える。気が付くと、その瞳ばかり見つめているのに、カダージュは内心舌打ちしたい気分だった。
「でも、変なのも悪いことばかりじゃないよ? キャンプして野宿も楽しいけど、ふかふかのベッドも気持ちいいし、暖炉の前で夜更かしするのも悪くないし」
「お、それは俺も賛成だな」
 横から口を出してきた男に、きっと鋭い視線を向ける。この軽薄そうな男が、カダージュは心の底から気にくわなかった。とにかく虫が好かない。顔を見るのも嫌だ。
「つまりね、ここ、そういうとこなの」
 なにがつまりなのだ。カダージュにはさっぱり理解できない。
「明日、また、いろいろ案内するね」
 やわらかい口調に、カダージュは何も言えなかった。声が、やさしすぎるからだ。
 母だと思っていた声は、やさしすぎた。



「ほんというとね、わたしも、よくわからないの」
 昨日の花畑は、普通に戻っていた。花の手入れをしながらエアリスは続ける。
「朝になって、夜になる。それってすごく普通なことだから、はじめはびっくりしちゃった」
 それは、びっくりしたで済むことだろうか。
 眉をひそめながら、小さな背中をカダージュは見下ろしている。空高くからふいてくる風に、髪をかざるリボンが揺れた。風はそのまま、草独特のあおくさいにおいをまきあげ、また空へと運んでいく。
 はるか高くまで澄んだ空に、かすれた雲が流れていた。時折小鳥が横切っていくのを、カダージュの幼さを残した瞳は無意識に追った。
 鳥は、離れたところにある森をねぐらにしているのだろう。よく見れば、草原を割るように白い小道が続いている。黒々とした森へ繋がる道の先までは、見えなかった。
「こら、足元、気を付けて。よそみしない」
 言われて、一歩踏み出していたことに気付く。ぎりぎりのところで踏まれるのを免れた花は、一瞬強くなった風にぶるりと体を震わせたようだった。
 ぐっと、カダージュは奥歯に力をいれた。それほど強い調子ではなかったが、母親が子供をたしなめるような言い方が、ひどく悔しくてならない。
「花なんか、育ててどうするつもり」
 ふてくされたようにぽそりとつぶやくと、エアリスはすぐに振り返った。エアリスは、カダージュがびっくりするくらい、うれしそうな顔をしている。
「何、その顔」
「なにって」
 ふふっとエアリスがほほえむ。美しい瞳を向けられると、カダージュはなぜだか、その場から逃げ出したい思いにかられた。
「やっと、口きいてくれたから。カダージュ、朝から、黙ったまんまなんだもん」
 起き抜けに、あの軽薄な男の顔を見れば誰でもそうなる――。とカダージュは胸の中で毒づいた。またにらみつけてやったが、やはりこちらの顔を物珍しそうに眺めるので、無視することにした。鈍感とはきっと、ああいう男のことを言うのだ。
「ここじゃ、あんたの話に付き合わないといけない決まりでもあるの」
「たった今、できましたって言ったら?」
「ばかばかしくて付き合ってられないね」
「もう、かわいげないなあ」
 エアリスがすねてみせても、カダージュは涼しい顔だ。段々、慣れてきていた。
「それより質問に答えてよ。なんで花なんか育ててるのさ」
「それ、ちょっと違うかな。わたし、ほんの少し手伝ってるだけだから」
「手伝う?」
「そ。花も木も虫も動物も、全ての命は星から生まれて、いつか星に還る。そしてまた新しい命に生まれ変わる。命の流れは、ずっとずっと昔から繰り返されてきた」
 ほとんど受け売りなんだけど、とエアリスは少し照れくさそうに笑った。
「でもときどき、迷ってしまうみたい。そういう子達、ここに来るの。だからそう……手伝ってるのかな? ここはまだ途中ですよーって声をかけてあげれば、気付いてくれるから」
 エアリスが触れていた花から、小さくまとまった白い光が立ち上る。太陽の下でもはっきりとわかる光は、エアリスからカダージュの顔の前を横切り、すうっと空気に混じるように消えた。
 喉の奥から乾いていく感覚に、カダージュは全身から力が抜け落ちていくような気がした。
 ゆっくりと草の上に座ると、エアリスもその隣に腰を下ろした。
「僕は迷子じゃない」
「そうね、今日はちがうもの」
「星に還る気もこれっぽっちだってないよ。だって僕が母さんを探さなきゃいけないんだ。母さんには僕が必要なんだ。僕がいなきゃ母さんは――
 言葉と意識が、全く一つにならず、空回りしている。
 母に見限られたのを認めたのを全身が拒んでいた。
 カダージュには、母しかいない、母だけしかいないのだ。
 けれど、自分で自分を哀れむことだけはしたくない。そっと伸ばされた手を、カダージュは振り払った。哀れまれるのもまっぴらだ。
「わたし、先行くね。ちゃんと、暗くなる前に戻ってきて」
 さくさくと草を踏む音が、次第に遠くなっていく。時々立ち止まり振り返っているのは、見なくてもわかった。それでもカダージュは顔を上げる気にならなかった。
(戻る?)
 戻る場所なんて、どこにもない。母のいる場所さえカダージュにはわからないのだ。
 両腕を広げながらカダージュは草の上に転がった。悲しみなどは一切ない。ただ、疲れてしまった。
 生まれた意味など、カダージュにはどうだってよかった。自分は母の為に存在し、母の為だけに生きるのだと思っていた。疑う余地すらなかった。
 昨日は具合が良かったのに、背中がちくちくして、草のベッドはすこぶる寝心地が悪い。だが起き上がるのは億劫で、そのまま目を瞑った。目蓋の向こうがまぶしくてたまらない。なぜこの光は、目蓋を焼こうとするのだろう。
 と、光が突然途切れた。呼吸を数回するほどの間に光は戻り、また上からじりじりと降ってくる。
 忌々しげに息を吐いてから、カダージュは瞼を持ち上げた。
 太陽の光を遮ったのは、雲ではなかった。空の高いところにいる飛空挺はすでに、彼方の山間に姿を消そうとしている。ここは、どうやら思っていたよりは地上に近いらしい。
 だが、地上ではないことははっきりしている。今更あんなものが見えたところでなんの意味があるのだ。
「……」
 ふと頭にひらめいたものに引かれるままに、カダージュは立ち上がった。
 急に起き上がったせいか、血が下りくらくらした。以前は感じたこともない、人間のような感覚だった。
 草原の高みにのぼると、左手にこじんまりとした家が見えた。その反対には代わり映えのしない草原が広がっている。
 その中にぽつんと立っている姿はエアリスはとても小さく、頼りなかった。
 カダージュは気配を消さずに近寄った。エアリスはまたすぐに振り返り、カダージュにただほほえみかけた。
「なにを見てるのさ」
 もちろん、とエアリスは天を指さした。
「空、見てたの」
「嘘だね」
 エアリスの表情が、初めて動いた。ふいをつかれ、驚いているようだった。
「あんたが物欲しげな目で見てたのは空じゃない」
 昨日と同じ目で、遠くへ消える飛空挺を、エアリスは見つめていた。
 けして手の届かないものを見つめる瞳を、カダージュは知っている。鏡を見るよりも、嫌な気分にさせられることも。
「あの鉄の塊が気になるなんて、僕には理解できないね」
 エアリスは、少し照れたようにほほえんだ。
「わかっちゃった?」
「単純でわかりやすいんだよ、あんたは」
 むっと眉を寄せたエアリスは、ふいと顔をそむけてしまう。けれどその子供っぽい仕草に、本気で怒っている様子はなかった。カダージュが隣に立って顔をのぞきこんでみると、口元が楽しそうにほほえんでいるのがわかった。
「あんたみたいな図々しい奴が遠慮してるなんてね。そっちのほうが驚きだよ」
「なあに、それ。失礼しちゃうな」
「僕は本当のことを言ったんだけどね」
 欲しいものがあるなら、手に入れようとすればいい。単純な話だとカダージュは思う。
 空を飛ぶだけのものが欲しいとは、思わないが。
「もう、いいの。今は届かなくてもいつかは叶う。わたし、そう思うから」
 エアリスはかるく首を振った。
「バカじゃないの。随分諦めがいいんだね」
「諦める、なあんて言ってないけど?」
「眺めてるだけなら同じだろ」
 そうかなあ、とエアリスは肩をすくめる。それから黙ってしまうと、美しい瞳は風に誘われるままに空を見上げた。カダージュは、エアリスから目をそらさなかった。なぜだろう。すぐそばにいるはずなのに、ひどく遠い。あんなにあたたかい手に、もう二度と触れられないような気がして、カダージュの背筋を冷たいものが通った。
「ねえエアリス」
「な〜に?」
 声をかければ、こうしてすぐに答えてくれる。だが、それだけでは足りなかった。自分のほうを向いてほしい。あの瞳が、自分を見てくれないのは、嫌だ。
「いつかって、どれくらい先」
「うーん。明日か、明後日か、百年先か、千年先か」
 大げさに指折り数えながら、エアリスはカダージュを振り向いた。
「ほんと言うとね、わたしもわからないの」
 ならエアリスは、明日もここで空を駆ける船を見上げるだけなのだろうか。
 途中という場所で、一人ぽっちでいるのだろうか。
 そう思うと、自分のことでもないのに、カダージュの胸は張り裂けそうなほど痛んだ。
「かわいそうだよ」
「え?」
「あんたがかわいそうだ」
 カダージュは腕を伸ばし、エアリスの細い体をきつく抱きしめた。体が勝手に動いていた。細い体は、腕に力を込めれば折れてしまいそうだ。このやわらかくあたたかい体を、壊したくないと、カダージュは強く思った。
 これほど星を憎いと思ったことはない。母からもらった思いではなく、自らの内から生まれた思いだった。
 どうして、エアリスなのだろう。
 エアリスがなぜ星を手伝っているのかは知らないし知りたくもない。
 ただ、エアリスがかわいそうでたまらなかった。
「カダージュ、ね、カダージュ」
 身動きがとれないので、エアリスは少し困ってしまった。
 返事代わりなのか、背中に回されたカダージュの腕に力が込められる。苦しくないように力が加減されているのに、エアリスの口元がほほえんだ。
「そんなことない。つらいとか、思ったことないよ。だってそう思っちゃうのって、もったいないじゃない?」
 聞こえているのかいないのか、カダージュはますます強くエアリスを抱きしめる。
 カダージュの腕は、エアリスを離してくれるつもりはなさそうだった。