階段からひょいと顔をのぞかせたエアリスは、静かに息をのんだ。
 こちらに背を向けたエルミナの肩が、ごく小さくふるえているのに気づいたからだ。住む人をあたたかく包んでくれる居間で、何かをこらえるように俯いている。
 エアリスが意識するよりも先に、足は残りの階段を足音をしのばせながら下り、腕は後ろからその肩を抱きしめた。
「おや、どうしたんだい?」
「ううん。急に、甘えたくなって」
「困った子だねえ」
 声はかすれてもいなく、しっかりしている。母のいつもどおりのはきはきした口調にエアリスはほっとした。ちらりと視線を下ろしたのに気づいたのか、エルミナは口元に困ったような笑みを浮かべる。
「これかい? あの人からの手紙さ。掃除の途中だったんだけど、懐かしくてついね」
 色の落ちた封筒の束には、きれいな字でエルミナの名が書かれている。エアリスはうっとりと目を細めた。
「お父さん、まめな人だったんだね」
 頷くと、エルミナは自分を抱いている白い腕をてのひらでそっと撫でた。
「ああ。結婚する前なんかは、しょっちゅう手紙が届いてね」
「ふうん。で、お母さんは?」
「返事を書いてる間にまた届くから、さすがに申し訳なく思ったことがあるよ」
 くすくすと笑い声が重なる。
 母の表情に、悲しみはない。瞳の色は、ただ懐かしさにやわらいでいる。母がこうした話をしてくれるのは珍しい。ときおりのろけ話をからかいながら、エアリスは何気なく手紙の束に手を伸ばした。
「これ、どこから?」
 見慣れぬ消印が押されているものがある。ミッドガルの機械で処理されるものとは違い人の手で押されたらしく、二重になっているのがほほえましい。
「ウータイだよ。……ここからずっと遠い国さ」
 遠さを思い浮かべると同時に、エアリスは思い出していた。
 まだ幼かった頃。窓の外を眺めていたエアリスがふっと振り返ると、とてもやさしくほほえむ人と目が合った。その人はしばらく部屋を懐かしそうに見回し、最後にエアリスを見つめた。エルミナを、母を呼ばなくてはと、ひどく焦ったのを覚えている。だが声を出そうとすると、その人はやんわりと両腕でエアリスの肩をおさえた。そよ風が体に触れたような感覚だった。ごく自然な仕草で娘にするように額に口付けたその人は、そのまま扉を開けずに部屋を出ていった。エアリスが大急ぎで下の階をのぞくと、食事の支度をするエルミナの隣でほほえむその人の唇は、ただいま、と動いたのだ。
 ふいに幼いエアリスは、遠い場所の空気を感じた。乾いた風が吹き上がり、なすすべもなく体が浮く。自分を支えられるものさえない。鮮烈な青に全身を覆われる。高く、高く、どこまでも高く……。
 詰めていた息を吐きだしかるく首を振った。望もうと望むまいと、エアリスに流れる血は幻を見せる。やさしくほほえむ人が見た色が、エアリスの網膜に焼き付いていた。
「どれくらい、遠いのかな」
「さあねえ。ジュノンから船に乗ってまた乗り継いで、って書いてあったけど」
「ウータイって、どんなところなんだろう」
「戦争だ英雄だって新聞も騒いでいるんだ。平和じゃないってのは、悲しいことだね」
 投げやり気味に言うエルミナを抱く腕に力がこもる。その腕をぽんぽんとかるくたたいてくれる感触が、やさしかった。
「自分が父親だったらよかったのにって寄こしたこともあったっけ」
「どうして?」
「自分より若いのが死んでいくのが耐えられなかったんだろうね。父親なら、自分の子供に言い聞かせられるだろ。命を粗末にするなって。神羅からの知らせにも、先頭に立った若いソルジャーを庇ったってあったよ」
「ソルジャー……」
 確かめるようにエアリスはつぶやいた。
「こう言っちゃ悪いけど、戦争にはてんで向かない人だった。ソルジャーは特別な手術だって受けてるんだし、庇う必要なんてなかったんだ。でも、ほっとけなかったんだろうねえ」
 手早く手紙をまとめ始めたエルミナから体を離す。
 肩をふるわせ涙を流していた母の背はしゃんと伸び、もうほうきに手を伸ばしている。働き者の母らしい。
 やさしくほほえむ人を思うと、エアリスの胸はつきりと痛んだ。そして母を愛した人が、とてもほこらしかった。
「あのね、お母さん。あんまり、泣かないでね」
「またそれかい?」
「うん、またそれ」
 エルミナはの指がそっとエアリスの頬を撫でた。
「さっきはね、うれしかったのさ」
 首をかしげるエアリスの頬を、エルミナの手がそのまま包み込む。
「あの人の手紙が、私を駅へ向かわせてくれたんだ。だからありがとう、ってね」
 思わずエアリスは母の首に抱きついていた。
 胸の中に生まれたばかりのわずかな嫌悪感は、エルミナの笑顔ですっかり忘れてしまった。






 暗闇の中は、うっすらと土のにおいが漂っていた。
(何が、どうなってるんだよ!)
 心だけでもがきながら、ザックスは思い切り叫んだ。怒りとも憤りともつかない感情が、胸の内に渦巻いている。
 古代種、プロジェクト・G、G系ソルジャー。……わけがわからない。
 アンジールから受けた攻撃は、訓練の比ではなかった。直接受けていれば、体中の骨がばらばらになっていただろう。目にしたおぞましい実験の数々とアンジールの背に現れた白い翼がだぶる。ザックスは、ぞっとした。
(ちがう、アンジールはアンジールだ。モンスターでも、天使でもない)
 彼は、戦えといいながら、戦おうとしなかった。ザックスだって同じ気持ちだった。なぜ自分達が戦わなくてはならないのだ。必要なのは、何が起こってるのか、きちんと確かめることだ。
(俺には何もできないのか? くそ、動けよ俺の体!)
 遠慮のない拳を放り込まれたみぞおちに、鈍い痛みが残っている。その痛みは動かない手足のもどかしさの中で一際強く感じられた。この痛みが、アンジールの怒りなのだ。自分ではどうすることもできない流れに、もがくしかできないでいる。自分も、そしてあの、アンジールが。
 抑えようもない感情のうねりに、ザックス自身が呑み込まれそうだ。食いしばった歯からうめき声がもれる。
―何があったの?
 やわらかい布のようなものにふわりと体を包み込まれ、ザックスは驚いた。
(……母ちゃん?)
 頭上から降ってきた声は、ザックスを幼い少年に引き戻した。じんわりと腹に染みる響きをしているからだろう。声が促すままに、体から余分な力が抜けていく。気持ちを乱していたあちこちの痛みが、ゆっくりと引いていった。
(俺、友達を助けてやりたいんだよ)
 母を思わせる声に、ザックスは少し落ち着きを取り戻していた。ゆっくりと呼吸を整え、自分の体を確かめていく。肩の付け根、足の指、てのひらと順に力を込めれば、反応しようとしているのがわかった。駄々をこねていた子供が、母親にたしなめられ聞きわけがよくなったようだ。
(でも、どうしたらいいのかわからないんだ)
 八方塞だった。自分の目では見ることができない場所で、様々なことがいっぺんに進行している。ザックスは、自分の無力さに唇を噛んだ。悔しいが、何の手立ても思い浮かばない。
―うんうん。それで、どうしたいの?
(待ってくれよ、そんなにいっぺんに聞かれても、わかんないって)
 ふいに、体に残っていた痛みが全て消えた。新鮮な冷たい空気が、頭のてっぺんからふきこんでくるようだ。
―……もしも〜し?
(え、誰だ?)
 声に聞き覚えが無かったことに気付き、幼い少年だったザックスは我を取り戻した。自分は今、どうなっているのだろう。
―もしも〜し!
 暗闇に漂っていた土の匂いが強くなった。水の中から浮かび上がるように、ぐんぐんと意識が上っていく。幾度かまばたきをすると、淡い日差しがまぶしかった。
「やった、動いた!」
 やさしい声の持ち主が、無邪気に喜んでいる。今までいた暗闇の中とはまったく印象の違う景色についていけず、ザックスの意識はぼんやりとした。ここはどこだろうと、純粋な疑問が浮かぶ。
「……天国?」
 かすれた声で尋ねると、声の持ち主はかるく首を振った。
「はずれ。ここ、スラムの教会」
 ザックスが上半身を持ち上げている間も、どうしてか声の持ち主から目が離せなかった。
(教会……)
 ああ、そうかとザックスは納得した。教会なら、なんの不思議もない。
「天使?」
 ザックスを迎えに来たはずの天使はほほえみながら、もう一度首を横に振った。
「残念、それもはずれ。わたし、エアリス」
(エアリス)
 ザックスは無意識に胸の中で繰り返した。天使の名前らしい、ふしぎな響きが胸になんとも心地よい。
 ぼんやりとしたままのザックスを、エアリスはのぞきこんだ。
「だいじょぶ? 頭、うった?」
「あたま?」
「そ。君、あそこから降ってきたの」
「降ってきた?」
 エアリスが指差した頭上には、確かに大きな穴がぽっかりと開いている。まぶしい日差しに目を細めたとたん、暗闇の前の記憶がどっと押し寄せてきた。とっさに自分の体を見下ろす。細かい木片と黒い土で汚れているが、どこにも怪我はなかった。あれほど高いプレートからスラムへと落ちたのに、奇跡に近い。みぞおちにあった鈍痛もきれいに消えている。
「……そっか、あんたが助けてくれたんだな」
「別に〜。もしも〜しって、言ってただけ。君を助けたのは、あの屋根」
 エアリスの言い方がおかしくて、ふきだしてしまう。肺の奥に溜まっていた澱みまで、笑い声といっしょに流れてしまった。
(やれやれ、任務は大失敗だな。俺は攻撃を受け負傷、そんでターゲットは逃亡ってとこか)
 本来なら反省するべき立場であるザックスは、とても清々しい気持ちだった。ザックスが追っていると知れば、アンジールならぐずぐずと留まってはいない。軍が到着する頃には魔晄炉の怪しい研究所も、もぬけの殻になっているだろう。残りの処理は、軍がすればいい。
(あーあ。この分じゃ、セフィロスも失敗しただろうな)
 愉快な展開に笑い出したくなる。今回の報告書だけは丁寧に、心を込めて書こうと、ザックスは決めた。ラザード統括の苦い顔が目の裏に浮かぶようだ。
「もしも〜し?」
「おっと」
 エアリスの呼びかけに、物思いが途切れる。俯いていたザックスは勢いをつけて立ち上がった。
「本当にありがとう、エアリス。俺、空から降ってきたザックス」
 冗談ぽい口調に、エアリスは口元に手をあてる。ザックスがソルジャーだと名乗らなかったのは、天使のいる場所に合わないと単純に判断したからだ。それに、不用意に一般人を巻き込むべきではない。
「いきなり、降ってくるんだもん。びっくりしちゃった」
「うっかり道に迷っているうちに足元がなくなってさ」
「ふうん。それはそれは、大変だったんだねえ」
「ほんと助けてくれてありがとな。よし、なんかお礼しなくちゃな」
「いいよいいよ。気にしないで」
「そうはいかない、俺の気が済まないからな。うーん、何がいいかな」
 物を渡すのは味気ない。かといって現金なんかじゃ、台無しだ。なんといっても助けてくれた天使にお礼をするのだ。並みのお礼じゃとても足りない。顎に手を添えながら真剣に考えるザックスの頭に、いい考えが浮かぶ。
「な、デート一回てのは?」
「……それ、ほんとにお礼?」
「もちろんそのつもり、だけど?」
「ふふ、変なの。ばっかみたい」
「へ? あ、そう……?」
 我ながら良い案だと思ったが、お気に召してもらえなかったらしい。
 めげずに再び考え込んだザックスの足がうろうろと歩き回る。考え事をしているとき、体が動いてしまうのがザックスの癖だった。
「お、それじゃあにか」
「ストップ!」
 別の提案をしかけたザックスを、エアリスはきっとにらんだ。
(な、なんだ?)
 姿勢が不自然に固まる。天使のふくれた顔は、ものすごい破壊力だ。
「お花、ふまない! 前、ちゃんと見る!」
「え、あ、悪い悪い」
 出しかけた足をそろそろと戻す。難を逃れた花が、どこからか流れ込むかすかな風に揺れていた。
「ふう、踏まなくてよかった。……ん、花? へえ、花なんて珍しいな」
 怒った表情が、やわらかくなる。ザックスが珍しがるのがうれしかったのだろう。
「ここ、特別な場所だから。きれいでしょ? うちのまわりに植えたのも、みんな元気に育ってる」
「どれくらい?」
「こーんなに、たくさん」
 腕を大きく広げる無邪気な仕草に、ザックスの顔がほころんだ。淡い日差しの中で、栗色の髪がやわらかく揺れている。
「そんなにあるなら商売にすればいい。俺ならそうするね。ミッドガルじゃ花は高級品だからな」
「お花を、売る?」
 ザックスの具体的な意見はあまり伝わらなかったらしい。頷くと花畑の前で腕を広げる。
「ミッドガルは花でいっぱい! ついでに財布もお金でいっぱい! な、どっちもいいことづくめだろ?」
 いかにこの案がすばらしいかを続けようと振り向いたザックスの舌が、かわいて口の中にはりついた。
 きょとんとした瞳が、ザックスを見つめている。幼さの残る淡い翠の瞳はひどく深かった。その深さがザックスの意識を飛散させ、土のにおいも日差しも感じられなくなる。目が覚めたまま夢に落ちたようだった。
「考えたこともなかった。だって、今のままで十分だから」
 少し細められた瞳から幼さが消え、代わりにふしぎな影を作った。ちりぢりになった意識が元に戻る。
「商売には興味無い?」
 困ったようにエアリスが首を傾げる。花達に向けられたやさしいまなざしに、ザックスは無性に喉が渇く感覚をおぼえた。
「教会があって、お花達がいて、同じ毎日で。わたし、それでいい。そういう普通が一番」
 まるで自分に言い聞かせるような口調に、ザックスの勘がこれ以上踏み込むことを躊躇わせた。普通がどんどん縁遠くなっている分、すこし耳に痛い。
「……そうだな。確かに普通じゃないよりはずっといい」
 ほんの数ヶ月前まで、ザックスは普通だった。その普通が呆気ないものだと知っているからといって、エアリスまで巻き込むことはない。そう考えていた。

 うーんとザックスは天を仰いだ。日差しの具合からいえば、気を失っていたのはそれほど長くはない。
「な、俺上に戻らなきゃいけないんだ」
 一応は、本社へ戻らなくてはいけない。せっかく会えた天使とのお別れを思うと、ザックスの男としての部分がやけにさびしがった。そんな正直な反応は、仕事中の身にずいぶんと堪える。
「出口はあのドア。ちょっと歩けばスラム。スラムから少し行けば、駅があるよ」
 細い指がいちばん大きな扉を指差す。
「そっか、サンキュ」
 ザックスは改めて教会を見回した。扉のあたりはエアリスの花畑から比べるとずいぶん薄暗い。扉と並行して整列された長椅子も薄暗さと相まって少し不気味な印象があった。花畑のまわりははがれた床板が散乱している。その中には、ザックスがまき散らしたものもあった。
「……いつもここにいるのか?」
「うん。好きなんだ、ここ」
 エアリスがそう言うと、暗くくもっていたステンドグラスも透きとおって見えるから不思議だ。
(天使のお気に入り、か)
 らしくない詩的な表現が我ながらおかしかった。
「色々世話になったな。ほんと助かったよ。じゃあ」
 言いかけてザックスは自分がかるくうろたえていることに気付いた。
(じゃあ?)
 その次にある言葉が喉の途中で外に出るのを拒否している。花に触れている白い指先を、呆然と眺めた。
「じゃあ、行こっか」
 台詞を続けたエアリスの背中がすたすたと歩き出す。ザックスはあわててエアリスの隣に並んだ。
「もしもし、お嬢さん? 行くってどちらまで?」
「ひとまず、伍番街スラムまで、かな」
「へ?」
「送ってく、ね?」
 まぶしい笑顔だった。一瞬息をするのも忘れたザックスも、すぐ笑顔になる。ザックスが一歩前に出て進路をふさぐので、エアリスはちょこんと首を傾げた。
「ははーんわかったぞ、そういうことか。つまり俺ともっと一緒にいたいんだろ?」
 顔を寄せのぞきこむと、深い翠の瞳が大きく揺れた。繊細な睫毛が作る影がうつくしい。まぶしいものを見るかのように、ザックスを見つめていた。
「……うん」
 短く頷いたエアリスの頬はうっすらと赤く染まっている。
「はあ、そうだよなあ。ま、わかってたけど現実はそんなもん……」
 肩を落としうなだれたザックスは、自分の耳を疑った。
「え!?」
 大げさにのけぞったときには、華奢な背中はもう出口に向かっている。
(天使って、わりと大胆なんだなあ)
 頭をかくと、ザックスは足早に背中を追いかけた。



 ミッドガルには二つの顔がある。プレート上の地上と、プレート下の地上。
 同じ地上のはずなのに、印象はずいぶん違う。スラムという場所が初めてのザックスには珍しかった。
「スラムって、ちゃんと街の形してるんだな」
「あたりまえ。みんな、ずっとここに住んでるんだから」
 隣を歩くエアリスが、ふっと表情をゆるませる。
「もしかして、変な想像しちゃってたかな? スラムは危険がいっぱい、とか」
「なんつーか、どこもかしこも荒れ放題の無法地帯だと思ってた」
 腕を左右に広げ正直に答えるザックスを、エアリスはくすくす笑った。気を悪くしたわけではない。
「ザックスって、おもしろいね」
「そ、そうか?」
「普通なら、あたりさわりなく言うと思うけど?」
「うーん。それ、苦手でさ。肩が凝るっていうか、柄じゃないっていうか」
「うんうん、ザックス君、すなおでよろしい」
 褒められれば悪い気はしない。
「おう! 人間素直が一番だからな」
 得意げに胸を張ると、エアリスはやはり楽しそうに笑う。無邪気な笑顔をまっすぐ見れなくて、ザックスは少しだけ歩調を早めた。
 スラムの街はほどなくして着いた。大人二人分以上の高さがある門はいかにも頑丈そうで、またザックスの印象を変える。粗っぽい作りである道と比べれば、やけに厳重な守りに見えた。
「ここがスラム。人もたくさんいるし、お店もあるからにぎやかだよ」
 そう言いながら、エアリスの視線は門から外れている。そわそわして落ち着かないようだった。ザックスはその様子にすぐ気付いた。
「どうした? どっかで用事があるとか?」
「ううん、そういうわけじゃ、ないんだけど」
 どうも歯切れが悪い。エアリスの視線は、教会とは反対へ行く道へと続いていた。同じように視線を追ったザックスは、何気ないふうを装い尋ねた。
「ん? 向こうにも何かあるな」
「あっちは公園。ちっちゃいころ、よく遊びに行ってたんだ」
「ふうん」
 ザックスの気のない返事に、華奢な肩が心持沈む。あまりにも素直な反応にザックスはふきだすのをこらえなければいけなかった。
「なあエアリス、時間まだあるか?」
「……なくも、ないけど?」
 素っ気ない返事だったが、ザックスにはわかる。うっすら染まった頬は、白い肌に繊細なうつくしさを添えていた。
「おっし、じゃあ行くか」
 目的地を反れて歩きだしたザックスに、エアリスはうれしさを隠しきれないでいる。
「でも、いいの? 急いでたんでしょ?」
「平気平気、問題ないって。それよりデートの予行演習のほうが大事だからな」
 すると、白い手があわてた様子でザックスの肩にかかった。
 にこにこしながら振り返ったザックスの表情が、すぐに戦士の顔に変わる。エアリスの手首を掴むと用心深く引き寄せた。
「ザックス、逃げなきゃ」
「しっ」
 ひどく焦るエアリスを自分の体で隠してから、ザックスは溜息をついた。無法地帯というのはある意味では間違いではない。話に聞いた通り、ミッドガルという巨大な街は、自らの大きさで日陰を作ってしまうのだ。
 不気味な唸り声をあげる赤い皮膚のモンスター達は執拗にザックスとの距離を詰めようとしていた。顔の半分まで裂けた口からはねばねばした唾液とだらしのない長い舌が垂れている。視線だけエアリスを振り返ったザックスは、モンスターの気持ちがなんとなくわかるような気がした。
「俺の背中から離れるなよ」
「でも」
 大きな口が、邪魔なザックス目がけてとびかかる。
 呼吸を乱すことなく刀身を噛ませると、がらあきになったやわらかい腹に拳を叩き込んだ。背中できゃっと小さな悲鳴が上がる。それに引き寄せられた、まりのように体で地面を跳ねた仲間を、顧みもしないもう一匹がザックスの後ろに回り込もうとした。ザックスはこういう卑怯なやり方が好きではない。むっと眉をひそめてから、わざと左腕から力を抜いた。これ幸いと噛みつこうとするモンスターは、隙だらけの背に剣を振り下ろされ断末魔の声をあげることもできなかった。
 剣にねばついたものがこびりついている。エアリスに怪我がないのを確かめると、ザックスはほっとした。
「ったく、あいつらどこでも湧いてくるんだな」
(これからデートの練習だってのに)
 極めて個人的な理由から文句を述べるザックスに比べ、エアリスの表情はくもっている。
「けが、ない? だいじょうぶ?」
 声がわずかに震えている。ザックスはびっくりしてしまった。それから失念していた自分を責めた。いくら見慣れているからといって、一般人であるエアリスにとってモンスターは恐ろしいものに違いない。
「あんなの楽勝、楽勝! それよりさ、さっきの俺、ちょっとカッコよかったろ?」
 元気づけようとしてくれるザックスに、エアリスの強張った口元がやわらかくなる。
「うん、すごく頼もしかった。かな?」
「エアリス、こういうときはもっと素直に褒めていいと思うぞ? きゃー、ザックスすてきー! とか」
 遠慮はいらないと待ち構えるが、エアリスはただふしぎな色の瞳を細め、ザックスを見つめるだけだった。

 公園もやはり少々薄暗かったが、その代わり明るい色の遊具がザックスを楽しい気持ちにさせてくれた。それは天使も同じようだ。
「なつかしい。全然かわってないなあ」
 うれしそうに駆け出すエアリスに、ザックスは苦笑する。先ほどの騒動はすっかり忘れてしまったらしい。
「ザックス、こっちこっち!」
 エアリスは無邪気に手招きしている。その笑顔を見ると、ザックスの心は安らいだ。
 やることは、山ほどある。だがそれにどう向き合えばいいかわからない。そういう苦しい状況にあったはずが、今はふしぎと気持が軽くなっている。
 ブランコに腰かけたエアリスが近寄ったザックスを仰ぎ見た。
「さっきはありがとう。助かっちゃった」
「いいって。あれくらい軽い軽い」
「ふうん。わたし一人守るくらい、どうってことないって聞こえるけど?」
「ぜんぜん問題なーし。エアリスなら百人だって守ってみせるね、俺は」
 冗談めかしたついでに、エアリスのブランコを揺らしてやった。くすぐったそうに笑う声が耳に心地よい。
「ザックスって、強いんだね。ソルジャーみたい」
「……だといいけどな」
 曖昧に答えたのは、ザックスが迷っていたからかもしれない。
 ザックスはときおり、ただやみくもに生き進んできたと、自分を責めてしまいたくなる。
 英雄になりたい。それはアンジールやセフィロスのような、誰もが憧れるソルジャーを目指すことを意味していた。だがその夢は、取り巻く環境の変化に追いつけもしない自分にはあまりにも遠かった。
「勇敢なソルジャー、子供たちのあこがれ、世界を守るヒーロー。だからきっと、なにも怖くないんだね」
 エアリスには似合わないやや突き放すような言い方に、ザックスは首を傾げた。
「……なんか、わけあり?」
「ううん。すごいなって、思っただけ」
「そうは聞こえないけど?」
 引き下がらないザックスの視線から逃げるようにエアリスは立ちあがる。
「よく知らないけど、ソルジャーって、特別な手術、受けるんでしょ?」
「……らしいな」
「逃げたくなったときは、どうするのかな。それでもやっぱり、戦うのかな」
 細い肩がひどく心細げなのに、ザックスは動けないでいる。
「普通じゃないかもしれないけどさ、そういうもんだろ? どうしても逃げられないときだってある」
「でも、そんなのだめ、ぜったいにだめ」
 自分の腕で体を抱いたエアリスは一息に吐きだした。
「逃げなきゃいけないときは、逃げなきゃ。傍にいる人はどうすればいいか、わからなくなる」
 ずきずきとこめかみが痛む。一言一言が、今のザックスにはずしりと重く響いた。
「ソルジャーは苦手?」
 くるりと振り返ったふしぎな色の瞳がザックスを見据える。
「ちがうよ。こわいだけ」
 きっぱり言ってもらえて、むしろ気持ちよかった。ザックスは朗らかに尋ねてみる。
「俺は?」
「え?」
「俺、ソルジャーなんだ。ソルジャー・クラス1st、ザックス」
 ふしぎな色の瞳が凍りつく。
「ごめん、わたし……ごめんなさい」
 黙っていたのは自分なのだからエアリスが謝る必要はない。何よりこわがられることよりも、ふしぎな色の瞳がくもってしまうほうが、ザックスには痛かった。
「気にすんなって。そんなに心配してもらえるなら、俺もソルジャーも本望だからさ」
 エアリスは力なく俯いたまま首を振った。重苦しい雰囲気に囲まれ、ザックスは頭をかく。
「うーん、なぁんか息苦しいな。お、分かったぞ、空がないからだ!」
 ぽんと手を打つと分厚いプレートを見上げた。
「そうだよなあ、年中プレートの下だもんな。気持ちも暗ーくなるって」
 そうかそうかと一人納得するザックスに、エアリスはやっと顔を上げた。
「空なんて、なくていい」
 口調がどことなく拗ねている。
「どうして?」
「すいこまれそうで、こわいから」
「はは、エアリスには怖いものがたくさんあるんだな」
「どうせ、こわがりですよーだ」
 ぷいとそっぽを向くところも子供っぽい。ますます声をあげて笑いながら、ザックスは気付いていた。
 エアリスが普通にする仕草は、自分をひどくしあわせにしてくれる。そのエアリスの華奢な肩に、重いものがずっしりとのしかかっているのなら、軽くしてやりたいと、ザックスはごく素直に思う。
 確かめさせてやりたくても、頭上はもちろんプレートに覆われている。しばらく辺りを探したザックスは、自分が似たものを持っていることを思い出した。
「じゃ、よく見てよ。これが魔晄を浴びたソルジャーの証だ」
 なにを? と顔を上げたエアリスが息を呑むのがわかる。驚いた瞳の中にザックスの顔が映っていた。
「……きれいな青い色」
 たった一言が、ザックスの胸にたまった澱みを全て洗い流してくれた。ソルジャーだったから、エアリスにこの色を見せることができたのだ。戦うときとは違う高揚感に包まれるのを感じながら、ザックスは続けた。
「空みたいな色だろ?」
「うん……」
 熱に浮かされたようにぼうっとしていたエアリスは、ザックスとの距離が近いことにかわいらしくあわてた。
「もうっ」
 ぐいと肩を押しやられながらザックスは笑う。
「それとも、まだ怖い?」
 感情の読みづらい声に、エアリスは静かに首を振った。
「こわくないよ。こんな空なら……見てみたい、かな」
「なら俺が見せてやるよ。もっとキレイで、もっと広い、本当の空を」
 なかなか、頷いてくれない。一歩の距離がこれほどもどかしく感じたことはなかった。エアリスにただ一言、うんと言ってほしかった。ザックスは、辛抱強く待った。エアリスがうなずいてくれるまでいつまでも待つつもりだった。
 はたとザックスは気づいた。そういえば、準備のことをまるで考えていなかった。
「いや、その前に練習だな」
「んん? また、デートかな?」
「それもあるけど、空を見に行くための準備だ」
「どんな? 目を、きたえるとか?」
「色々だな。たとえば―」




 スラムには二つの顔がある。互いに助けあって暮らす住民と、歓迎されないよそ者。
「これだろ、おまえのサイフって」
「うわ、ほんとに取り返せたんだ。兄ちゃんて意外とやれるタイプだったんだな」
「あったりまえだろ! 俺を誰だと思ってるんだ」
「見た目より財布の事情が厳しい兄ちゃん」
「かわいくないガキ!」
 ザックスと少年のやりとりに、エアリスがくすくすと笑う。
 午後のスラムは人通りも多いが、皆ザックスを遠巻きに眺め近寄ろうとしなかった。
 自分に向けられる視線に冷たいものがあると感じたのは、勘違いではなかったらしい。そのせいかザックスは財布をすられ、街を何周もさせられ、住民達の心やさしい応援のおかげで足はへとへとだ。
 ねちっこいやり方は苛立たしいが、ザックスがいちいち目くじらを立てることはなかった。スラムの住民にとって、自分はよそ者でしかない。おまけに神羅の人間は、憎まれているか羨まれているかの二種類しかないと聞いている。これもまたミッドガルの日陰だと、割り切るしかない。
「ずっと前に、約束したよね。もう誰からも盗まないって。忘れちゃった?」
 目線を合わせたエアリスがやさしく言い聞かせると、少年はぶんぶんと首を横に振った。
「おぼえてる。ごめん、エアリス。ごめんな」
 あからさまに違う少年の態度は、なんとなく面白くない。エアリスと少年の間に漂う雰囲気に、とりあえず傍で見守るしかないのも腹立たしい。
「わかった。じゃあもう一回約束、ね?」
「うん……!」
 やさしく頭を撫でてもらった少年がエアリスにしがみつく。ザックスはますますもって面白くない。やきもちだとわかっているだけに、始末に負えない。ばかげた所有欲とはできれば無縁でいたかった。柄じゃない。
「いいか、今度困ったらまず俺に相談しろよ。特に盗みは絶対禁止だ。じゃないとエアリスが困るんだからな」
 我慢しきれず横から口を出したザックスに、少年は顔だけあげて生意気そうな視線をよこした。
「気持ちはうれしいけどさ、どうやって? 世の中はカネがものをいうんだよ」
 空いた口がふさがらない。
(こいつ、ほんとにガキか?)
 スラムに住んでいるとこうもひねくれるものなのだろうか。となると、エアリスもずいぶん手強いということになる。だがそれに関しては一向に腹立たしくない。むしろ、ザックスの中の闘志が燃え上がるばかりだ。
「おまえ、バカにするなよ。俺とエアリスで色々計画してるんだからな」
「え?」
 これに驚いたのはエアリスだ。ザックスの言う計画については、何も聞いていない。
「まずは手始めにミッドガルで花を売る。そうすりゃ金でも薬でも用意してやるさ」
「うっそだあ」
「嘘でも冗談でもないって。なあエアリス?」
 やや間を置いてから、うん、とエアリスはうなずく。
「そう。すごいの考えてるから、期待してて。ミッドガルはお花でいっぱい、お財布もお金でいっぱい計画!」
 どうだと言わんばかりにザックスは胸を張る。エアリスとザックスを交互に見比べた少年は、少し傷付いたような、それでも心から祝福するように笑った。
「エアリス、あんまり隙みせちゃだめだからな」
 これみよがしな台詞に、げっとザックスは嫌な顔になる。
「うーん、油断してるつもりは、ないんだけどな」
 今度はぎょっとした。下心が無いとはいいきれないが、そこまでがっついていないつもりだ。
 取り戻してやったべとべとの財布を握りしめ去っていく少年の後ろ姿を複雑な思いで見送り、おそるおそるエアリスをうかがった。
「ありがとう、ザックス。また助けてもらっちゃったね」
 ザックスとは反対に、エアリスの表情は明るい。成り行きとはいえザックスが少年の為に動いてくれたことがうれしいのだろう。
「いや、たいしたことしてないし」
「そんなことない。あの子も強いソルジャーさんに、すごく感謝してるよ」
 かすかな痛みがザックスの胸の中でうずく。
(ソルジャー、か)
 誇りとは何だろう。夢はどんなものだったろう。
 ふらりと目の前にあらわれたアンジールを再び見失ってから、ザックスはますます悩むようになっていた。道に迷った子供のような自分が、情けなくてたまらない。
「じゃ、まずは何から始めよっか」
 顔をのぞきこまれ、ザックスは何度かまばたきした。
「始めるって?」
「計画、あるんでしょ?」
「ああ、それか」
 悩むのは後だ、と頭の隅に押しやる。今日はエアリスのことだけを考えようと決めていた。
「まずはワゴンを作る。花売りワゴンで運べば、ミッドガル中で売り歩けるだろ?」
「うん! それ、いい考え! スラムもお花でいっぱいになるね」
 手を叩いてよろこぶエアリスにザックスは目を細める。エアリスの笑顔が、あまい薬のように胸に染みた。
「ま、これは準備段階だけどな。本番に備えてやることはまだまだあるぞ」
 うんうんとエアリスは真剣に頷く。気を良くしたザックスはもったいぶりながら腰のポケットを探った。
「こんどはなあに?」
「まあ待てって」
 いくつかマテリアを取り出すと差し出す。ザックスの大きなてのひらの上で転がるマテリアを、エアリスはじっと眺めた。
「こいつを持ってると便利なんだ」
「マテリア、でしょ? わたしも持ってるんだ」
 ん? とザックスは首を傾げたが、すぐに思い当たる。神羅の技術力は誰でも簡単に魔法を使えるようにしていたのだ。
(ああ、それでか)
 プレートから落ちた時、ザックスは自分が無傷でないと自覚していた。今思えば、天使が治療してくれたのだとわかる。やはりお礼は一回では足りないらしい。
(俺より使いこなせてるなあ)
 ザックスはごく普通に感心した。いっそエアリスから習いたいくらいだ。
「それで、これをどうするの?」
「どうするって……。使い方、知ってるだろ?」
「ううん。わたしのは、何の役にも立たないの」
 へ? とザックスがあまりにも変な顔をするから、エアリスは困ったようにほほえんだ。
「そんなに変、かな」
「いや、変じゃないけど。でもいざというとき困らないか?」
「いいの。持ってるだけで安心できるし」
「ふうん」
 変わっている、と思うと同時にザックスは不思議だった。
(じゃあ誰が助けてくれたんだ?)
 エアリスが言ったとおり、屋根が助けてくれたのだろうか。瞳をきらきらさせながら次の計画を待っているエアリスに、ザックスは尋ねることはできなかった。



 見慣れれば、教会は薄暗いわけではなかった。花畑に降り注ぐ日差しがまぶしすぎるのだ。
 花畑の傍らで、ザックスは声をかけた。
「で、下半身に力を入れる。違う違う、足じゃなくて太腿全体を意識するんだ」
「こう?」
 よろよろとエアリスの裸の足がもつれる。後ろに倒れかけた体を支えると、ザックスは苦笑を浮かべた。
「こりゃ大仕事だなあ」
 基本的な構え方から教えるつもりが、それより前のことから始めなければいけないらしい。守ろうと引き寄せた手首の細さが今更ながら思い出される。
「むずかしい、できない、むりだよ」
 エアリスが頬をふくらませる。
「ぼやくなぼやくな。要は慣れだって、そのうちできるようになるからさ」
 そうかなあ、といぶかしむ表情があどけない。淡い光が肩にふりそそぎ、体の細さを浮き出させている。抱き締めれば折れてしまいそうなはかなさに、計画はいとも簡単に揺らぎそうになる。ザックスは雑念を払うように頭を振った。
「こういうのは体で覚えるしかないからな。よし、もう一回だ」
 あまり乗り気ではなさそうだ。身の丈ほどのロッドを、エアリスは持て余している。
「どうしてもやらなきゃ、だめ?」
 うーんとザックスは腕を組む。そんな風に上目遣いで見つめられると、ますます計画が揺らぎそうだ。
「もしまたモンスターに襲われたらどうするんだ?」
「だいじょぶ、全速力で逃げるから。わたし、これでも足はやいんだよ」
「じゃ、逃げ切れなかったら?」
「そういうときは、ソルジャーさんに頼もうかな」
 なるほど、自分が守ってやればいいのかとザックスは納得しかけた。小首をちょこんとかしげたエアリスにねだられたら、つい請け負いたくなる。だが計画の為に、どうしても必要なことなのだ。
「もう一回、だ」
 きりっと顔を引き締めザックスはきっぱりと言う。エアリスも、それ以上不平を言うことはなかった。ザックスが教えた通り呼吸を整えロッドを握り締める。日差しに照らされたそれは、戦いの構えというより、祈る姿に似ていた。細く頼りない手足を、侵しがたい、尊いものが包んでいる。
(……天使)
 ふいにザックスは罪悪感を覚えた。自分は、自分の欲の為に、天使を連れ出そうとしているのではないかと思ったのだ。あわてて背を向ける。
 天井を仰げば目がくらんだ。偶然なのか知らないが、プレートは具合よく隙間を作り、ここまで太陽の光を届けている。同じように彼女の暮らす家にも光があふれていた。エアリスのいる場所は、あたたかいもので満ちている。
(俺は、うらやましいのか?)
 羨ましくないといえば嘘になる。エアリスが、羨ましい。
 アンジールの不可解な行動は、ザックスがいくら考えてもわからず、彼の母も助けられなかった自分への怒りは胸に溜まる一方だ。どこかでこの澱みを吐き出してしまいたい、楽になりたい。
 だからもし自分が、空におびえる天使にその青さを教えてやれたら、煩わしい悩みからも解放されるに違いない。ごく無意識に、ザックスは自分にできることを確かめたがっていた。
 眉間に寄ったしわに指を添えると、ザックスは肩で溜息をついた。
(どうかしてる。何考えてるんだ、ソルジャー・クラス1st、ザックス?)
 これではまるで、エアリスで試そうとしているようではないか。そんな自分に心底吐き気がした。
「あっ」
「ん?」
 焦った声にザックスが振り返る。エアリスがしゃがみこんで足を押さえているのを見て、ザックスは険しい表情になった。
「怪我したのか」
 すぐさま駆け寄ると華奢な体を抱き上げた。廃墟となった教会の長椅子に座らせると、無造作に足首をつかむ。白い足の裏に、小さいが鋭い木片が深々と刺さっていた。
「ごめん、失敗しちゃった」
 またエアリスに謝られてしまう。裸足になったほうがいいと勧めたのはザックスなのだから、非は自分にある。手袋を口で外すと、傍らに投げ捨てた。
「悪い、少しの間じっとしててくれよ。それからごめんはもう無しだ」
 細心の注意を払って指先で引き抜くと、細い足首からエアリスがふるえるのが伝わってきた。かすかなふるえは、瞬く間にザックスの手を伝い全身に広がる。静かにはきだされる呼気が、いやにはっきりと聞こえた。
「はあ、まいっちゃうなあ。背中見てて、ぼうっとしちゃった」
「背中?」
「うん。ザックスの、背中」
 顔を上げると、ふしぎな色の瞳が、ザックスにほほえみかけた。
「広くて大きくてたのもしい、ちょっとだけこわがってる背中」
ザックスの手から小さな足はいつの間にか離れている。
「だいじょうぶ。ザックスなら、きっと力になってあげられる」
 何もかも見透かしたようにやさしく言い聞かせる声は、ぼんやりしていたザックスにかすかな反発心を芽生えさせた。
「なんか、変な言い方だな。それって予言?」
 エアリスはこの質問にはこたえず、ただザックスにまなざしを向けた。
 とたんに手足から力が抜けてしまう。おどろくザックスの理性とは裏腹に、体は実に正直だった。
「でも俺は、何もわかってやれない。友達の考えてることだって、わからないんだ」
 いつになく疲れたようにつぶやいた自分が、自分で信じられない。これが、本音なのだろうか。
 エアリスは、ゆっくりと目を細めた。
「最初はね、逃げちゃおうかなーって思ったんだ。ザックス、いきなり降ってくるから、ほんとにびっくりしたんだよ?」
 思わずふきだしてしまう。こんなにも聞きたくない告白は、後にも先にもないだろう。
「それ、普通は言わないぞ」
「だよね。わたしもそう思う」
 こういうはっきりとした物言いは、嫌いじゃない。陰謀めいたものに辟易していた気持ちが洗われるようだった。
「じゃあどうして俺を助けてくれたんだ?」
 ちょっと、いや、だいぶ間の抜けた質問だなと、ザックスはおかしかった。命の恩人に対して、かなり失礼だ。
 エアリスは小首をかしげ笑った。ふしぎな笑いかただった。
「わからない。でも、なんでかな。ほっとけなかった」
「降ってきたのが珍しかったってわけ?」
 ザックスが茶化すように尋ねると、エアリスはゆっくりと、力を込めて首を振る。
「うなされてたから」
「え?」
「お友達を助けたいって、ずっと言ってた」
(俺が?)
 あの暗闇の中で何を考えていたか、ザックスは覚えていない。ただひどく苦しかった呼吸が、ふしぎと楽になったのは覚えている。
「そんなに悪い人じゃなさそうだったし。うん、やっぱりこれと同じ、かな?」
 エアリスは手を伸ばすと、髪を結えているリボンをほどいた。ふわりと、髪がひろがる。てのひらの中に大切そうにおさめたものを、そっと差し出した。
「役に立たないマテリアってこと?」
 ザックスは拗ねたように口をとがらせる。
「すねないすねない。これはね」
 やさしくさとす瞳をのぞきこまれ、ザックスは自分が子犬にでもなった気分だった。
「お守りみたいなもの。ほら、誰かさんと、そっくり」
 首筋がくすぐったくてしかたない。うまく芸をおぼえられたね、と褒めらた子犬はこう感じるのだろうか。
 気を紛らわそうと頭をかく間も、エアリスが肌身離さず大切にしているものは、誰からの贈り物かと詮無いことまで考えているあたり、手に負えない。ザックスの口元に、らしくもない自嘲気味の笑みが浮かぶ。
「買い被りすぎだ。俺はそんなに、すごい奴じゃない」
 気になる女の子に聞いてもらうには情けない台詞だったが、胸にとどめておけなかった。
 だがふしぎと恥ずかしくはない。心地よい虚脱感が全身に行き渡り、水の中に浮いているようにも思える。
(なんだ、これ)
 頭がぼうっとなる。エアリスの淡い翠の瞳から目が離せない。
 頬に、白い指が添えられる。直接頭の芯に届くあたたかさに、めまいすらした。
「わたしね、ちょっと前まで、いろんなことを知るのがこわかった。ソルジャーも、空も、まだこわい」
 なぜ、と聞き返す暇もなく、エアリスは続けた。ザックス自身にも聞いてやれる余裕が無かった。
「でも今は知りたい。きれいな瞳を持ってる人のこと。すごーいザックスさんじゃなくて、ね」
 気がついたら、体が動いていた。やわらかい栗色の髪に指を埋め、ほとんど力任せに引き寄せていた。
 腕の中におさまった体のあたたかさは紛れもなく人のもので、天使ではない。
 今更のように理解したザックスは力なくつぶやいた。
「あんましかっこよくないからイメージ悪くするかも」
「もしもーし、かっこいいザックスさん。ふつうのザックスさんはいらっしゃいますか?」
「いざというとき守れないかもしれない」
「練習、むずかしいけど、がんばるね」
「へこむときはへこむし、さっきみたいな愚痴だって言うし」
 ぽんぽんと白い手がやさしく背中をたたいてくれる。
「でも、全部ザックスでしょ?」
 腕に力を込めると、ザックスはかすれた声でうめいた。
「なんでもお見通し、か」
 エアリスには、どうやっても敵わない。
 最初から、ふしぎな色の瞳にとらわれていた。奥底まで見透かすまなざしはザックスを落ち着かなくする。けれどいつまでも自分を見ていてほしい。そう思うことが何を意味するか、ザックスにはわかっていた。
「そんなことない、わからないことだらけだよ」
 きつく抱きしめられ、窮屈そうにしている華奢な背中が、無邪気に笑った。
 栗色の髪に指をすべりこませれば、いとおしさが胸の中でふくらむ。やわらかくてあたたかくて、天使のようにするりと逃げてしまうことはない。
「その分楽しみが増えるだろ?」
「知ることの?」
「そういうこと」
 まずは、空だ。
 エアリスに本当の空を見せてやりたいと、ザックスは心から思った。

  • 08.12.28