「どういたしまして、またどうぞ」
 エアリスのはずんだ声とかわいらしい笑顔に、客は最初から最後まで、でれでれだった。三十代そこそこのやや髪が寂しい男は、ワゴンに残っていた花を抱えて、満足げに帰っていった。
 数歩後ろで見ていたザックスは思わず感心してしまった。
「いやすごいな、かなりふっかけたのに全部お買い上げだ。なんとも鮮やかなお手並み」
「これでもスラム育ちですから」
 得意げに深い碧の瞳が見上げてくる。たしかにこの瞳に敵うやつなんていない。とっくに白旗を掲げているザックスは、今の客が山ほど花を買っていった気持ちがよくわかる。
 天使の笑顔が見られるなら、どんな買い物も安いものだ。
 けどなあ、とザックスはいまいち気分が晴れない。
(俺がいなくても問題ないってのはいいことなんだけどさ)
 出番はなかった。エアリスに下心を持って近づいてくる、客扱いしなくていい奴は容赦なく追っ払おうと、にこにこしながら目を光らせていたザックスは、とくに役に立ったようには思えない。
 結構なことではないか。エアリスが危ない目にあわず、花は飛ぶように売れて、売上も上々だ。この分なら次はもっと客が来るだろう。
「なあエアリス、人畜無害そうなふりしてる奴ほど腹の底に一物持ってたりするから気を付けたほうがいい。ちょっとでも怪しいと思ったら隙は見せちゃだめだ」
「そっか、なるほど」
 と、エアリスは素直に頷いた。そんなに大したアドバイスでもないのに真面目に聞いてくれるから、ザックスは落ち込みそうになる。俺って役に立ってるのかな。
「わかった。いい人そうでも、気を付ける。わからなかったら、ザックスにすぐ聞く」
 あのね、とエアリスはまぶしそうにまばたきをした。
「ザックスがいてくれるから、とっても心強い。なんでもできるぞーって気がする。すごく楽しいの。なんかいま、わたし、無敵すぎて、浮かれてるかも。これって、隙になっちゃうかな?」
 小首をかしげて、確かめるように見上げてくる瞳がなんともかわいくて、ザックスはでれでれになった。
 出番がなかったからと半ば拗ねていた気持ちは消し飛んでいた。そうだった、何よりも大事なのはエアリスのそばにいることだ。
(まいったな。俺がいちばん怪しい奴になりかけてる)
 ザックスは軽く頭を振って表情を引き締めた。
「いいや、心配ご無用。悪い奴を警戒するのは俺の仕事だ。いつだって俺がついてる。怪しいのは一歩たりとも近寄らせない。大丈夫だって、やばそうな奴は直感でわかるんだ」
「さすが。頼りにしてるね」
「任せとけって。どんどん頼ってくれていいからさ。そうだな、役割は分担しつつ臨機応変にいこう。お客さんだってかわいい女の子から花を買いたいよなあ。ある程度ニーズには応えていかないと」
「がんばろ。お花、たくさん買ってもらえるように」
「ああ、目指すは世界制覇だ。ここらは攻略できたし、俺達なら楽勝だな」
「あれ、話、大きくなってる?」
「宇宙制覇もあながち夢じゃないだろ?」
 明るく笑ったザックスに、エアリスもくすくす笑った。
 幸い、人通りは途切れていた。モンスターの気配もない。自分達を邪魔する奴はいなさそうだ。
 そうっと手を伸ばして、包むように手を握る。エアリスの手は信じられないくらい小さい。小さくてやわらかい。あちこち固いザックスとは大違いだ。うっかり力加減を間違えないように、いつになく慎重になる。
(女の子なんだな)
 と、ザックスは当たり前のことを思う。
 世界にたったひとりの女の子が、不思議なほどザックスを強くしてくれる。誇張ではなく、エアリスを守りたいと思うと、感覚が研ぎ澄まされ、素早く動くものもはっきりと見えるようになる。いつだって誇り高く、どんな敵より強くなれた。
 恥ずかしそうに少し目を伏せたエアリスが、手を握り返してくれた。



 それにしたって出番などとつまらないことを考えたものだ。
 なにかしら怪しい思惑を持って近寄ってくる奴は、つまり、どこかで事前にエアリスを眺めているのだ。エアリスがいやらしい目で見られていると想像しただけで、ザックスは胸がむかついた。もっと早くにこの事実に気付くべきだった。
(だめだだめだ、論外だな。俺の目が黒いうちは、いや今は青いか、とにかくだめだな。すけべ野郎は片っ端から追っ払わないと)
 揚げたてのドーナツを頬張りながら、ザックスは胸の中でうそぶいた。まだまだ青臭さの残る青年は、天使のことになると、案外に嫉妬深かった。
 少しの遠出から引き上げて伍番街スラムに戻ると、午後の遅い時間だった。空気は埃っぽく乾いていたが活気がある。スラムの住民はみな忙しげに、たくましく暮らしていた。
 半端な時間だったので、二人がときどき立ち寄る店は比較的空いている。
 エアリスのお気に入りだという店を、ザックスも気に入っていた。狭い通りでテーブルと椅子を並べただけの簡素な店だが、メニューはどれも抜群に味が良い。いつ来ても作りたてを出してくれる。
 人通りがない側に座っているエアリスも、同じドーナツを食べている。ほっそりした指が唇の端についた砂糖の粒をささっと払った。あの砂糖はやっぱりものすごく甘いのかなと不埒なことが頭に浮かぶ。
(口ちっちゃいなあ)
 リスとかウサギみたいだ。小さな口に運ぶ仕草をザックスはまじまじと見ていた。見ていて飽きない。正直ずっと見ていたい。
 エアリスはこほんと芝居がかった咳払いをした。
「それで、どうするの?」
「え? あー、ああ! そうだった、大事な相談をしてたんだったな」
 ザックスはあわてて椅子に座り直した。花の売上金はひとまずザックスが預かることになったが、使い途についてはまだなにも決まっていない。二人で稼いだ金は二人で使おうと力説していたとこだった。
「どこまで話したっけ?」
「行き先を決めよう、ってとこまで」
「そうそれ。いまお時間よろしいでしょうか、損はさせないからプランについてぜひともご案内させていただきたい。もちろん聞くだけでもいいから」
 ザックスの大げさな口調がおかしかったのか、エアリスはほろりと笑った。
「もう、しょうがないなあ」
 エアリスが笑ってくれると、ザックスはうれしくてたまらなくなる。なんといっても天使の笑顔は特別だ。もっと笑ってほしい。
 テーブルには軽食のほかに地図が広げてある。ミッドガルを中央にした神羅製のどこにでもある地図だ。いくつか丸印がつけてある。二人で行くなら、と厳選に厳選を重ねた旅先候補だ。
 海へ突き出ている街を、ザックスはとんとんと指で示した。エアリスも地図をのぞきこんだ。
「俺のおすすめは断然コスタ・デル・ソルだな。青い空、白い雲、どこまでも続く海、開放的なビーチ、かんかんのお日様はまさに南国、別世界。時間を忘れてひたすらのんびりできる。寝そべって波の音聞いてるとマジで気持ちいいんだこれが」
「ふうん、のんびり。すてきな時間だね」
「観光スポットも多いから一日中遊べるぞ。おしゃれなカフェとか珊瑚礁とか、夕陽がきれいな丘とか。でかいショッピングモールもあって、なんだって揃ってるから買い物も楽しめる」
「ふむふむ、夕陽にお買い物」
「ジュノンから直行便が出てるから気軽に行けるのもいいな。ちょっとした船旅であっという間に到着だ。せっかくの旅行なのに移動で疲れたり、時差のせいでどうも体の調子が悪いってのは大変よろしくない。初心者向けに手堅くいくなら、やっぱりコスタだな」
「うんうん。船旅、わるくないかも」
 熱の入った力説に、エアリスはかわいく頷いてくれるのだが、あと一息反応が欲しいところだ。
「いまならもれなく恋人兼ボディーガード付き」
「こいびと」
 エアリスの唇が小さくつぶやいたのを、ザックスは見逃さなかった。
「どう? 魅力的なおまけもついててお得だろ?」
「ちがうの、いまの、ちょっとした失言、口がすべって」
 頬の高いところがぽうっと赤くなって、紅茶の入った紙コップを握る白い指がそわそわしている。なかなか良い反応にザックスは表情をくずした。こぼして火傷してしまわないように、さりげなくエアリスの手から紙コップを取り上げて、テーブルの端に置いた。
「いいや、しっかり聞いてた。呼び方はなんでもいいんだけど、うん、恋人ってのは悪くないな」
「ザックス、困るかもしれない」
「なんで?」
「わたし、束縛するタイプだったから」
「いいね、どんどん縛ってよ」
 あくまで軽い調子のザックスに、エアリスはもどかしそうに首を振った。
「もっといっしょにいたい、お仕事が中止にならないかな、いまわたしのこと考えててくれるかなって、最近ずっとそう。気が付いたら、そんな風に思ってばっかり」
 思いがけなく、エアリスからとんでもなく愛されているのを確かめられて、ザックスはなんとも贅沢でしあわせな気分を味わった。人目がなければキスしていた。
「なんか、重たい気がして」
「ぜんぜん平気。むしろ大歓迎っていうか、めちゃくちゃうれしい」
「ほんとに?」
「ほんとほんと。うれしくない奴なんかいないって」
「ある日とつぜん、重たい子は苦手だなって、いやになるかも」
「ぜったいにならない。俺にはどんどんわがまま言っていいんだ」
 きっぱり言い切ると、碧色の瞳が揺らいだ。うれしいのが半分、戸惑いが半分といったところか。
「ありがと。でもね、甘えてばかりいたくないんだ。わたし、もっと、しっかりしたい。強くて、頼もしくて、そう、ザックスみたいになれたらなって」
「え、あ、そ、そっか、ならお手本にならなきゃな」
 真剣に悩んでくれているのがわかったが、浮かれずにいられない。
(うわ、かっわ、かわいい。つまりそれってさ、俺が大好きってことだよな?)
 あまりにもキザっぽいので、さすがに口に出すのはやめておいた。
 教会で初めて会ったときからとびきりかわいかったが、その頃よりずっとかわいくなっているのが不思議だった。エアリスの仕草ひとつに目が離せなくなる。
 エアリスの気持ちを全部知りたいと、ザックスは喉が渇いたようになることがある。エアリスのことはなんだって知りたい。
(俺だって相当重いな)
 と、ザックスは苦笑した。
 だが、胸の内側にあるものを打ち明けるのは、とても難しい。自分達の間に広げてある地図のように、すでに地名が印刷されていて、見れば誰でもわかるという風に、単純ではないのだ。誰にでも、当人にしかわからない思いはある。全てをさらしてみせることが恋人の条件だとも思わない。
 ほんとうはとても傷つきやすいエアリスを、必要以上に困らせたくはなかった。いまは、かわいい言葉だけで、充分だと思った。
 テーブルに乗り出していた体を引きながら、ザックスはさっぱりと笑った。
「とまあ、以上が俺からの提案。もちろん候補は他にもあるからさ、暑いのが苦手なら涼しいとこにしよう。エアリスが行きたいところに行くんだ。希望があったらなんでも言ってよ」
 白い指がそっと地図をなぞる。
「いきたいところ……」
 小さな女の子の手。花を撫でるときの、とくべつにやさしい手つきがザックスはとても好きだった。この小さな手を守りたいと、日々思いが強くなる。
 気落ちしたように、エアリスは溜息をついた。
「……ごめん、わからない。ミッドガルの外のこと、よく知らないから」
「謝ることないって。こういうのはじっくり決めるのが楽しいんだ、焦んなくていいからさ」
 夕方のニュースが始まったのか、街頭テレビがいっそう騒がしい音をまき散らした。この店の不満点を挙げるなら、立地が少々悪いとこだろう。一日の締めくくりに一息つこうという客で席は埋まり、落ち着いて話すには、やや騒がしい。
 地図を小さくたたんでエアリスに手渡すと、ザックスは立ち上がった。
「ま、今日のところは要検討段階ってことで」
「わかった。考えておくね」
「ひとつ前向きによろしく。家まで送ってくよ」
 ザックスは先を歩いて行き交う人をかきわけた。すぐ後ろにエアリスがついてきているか、ザックスは振り返っては確かめた。心持ち顔を上げて、エアリスはザックスの視線を受け取ってくれる。人垣が途切れたところで、歩調をゆるめると、エアリスの隣に並んで歩いた。
「いい一日だったな」
「うん、いい一日だった」
 二人はしみじみとつぶやきながら、なるべくゆっくり歩いた。離れがたい気持ちは同じだった。
 明日、ザックスはミッドガルを離れる。
(どこぞの田舎の魔晄炉に入り込んだモンスター退治と原因調査。逃走劇もいい加減ケリをつけてやる)
 遠方へ赴く任務は数え切れないほどこなしてきた。
(大したことじゃない。仕事なんかさっさと済ませて、エアリスのいる教会へ帰るんだ)

 日が沈みきってしまう前の銅(あかがね)色がかすかに残っている横道に入ったところで、ザックスはエアリスの肩を引き寄せていた。エアリスの小柄な体は、すっぽりとザックスの背中に隠れてしまう。
「こそこそ隠れてないで出てこいよ。ふいうちするつもりなら残念だったな、お前らの待ち伏せなんかばればれだっての」
 エアリスを後ろにかばい、不敵に口の端を持ち上げながら、ザックスは油断なく相手を観察していた。物陰から現れたのは少年三人組。エアリスと同じくらいの年齢だろうと見当がついた。精一杯不良っぽく装っているが、どこか板についていないかんじがある。
「へんっ、よそ者のあんたに用はないね」
 リーダー格らしい、そばかすが目立つ少年が、ふてくされた声で言った。
「へえ? じゃあそのよそ者をよーく見てみろよ。この通り、頼りになる彼氏だ。この子とお話したいってんなら、まず俺を通してもらわなきゃな」
 と言ってザックスは親指で自分を差した。なんとも不遜な態度だ。
「か、彼氏?」「うそだろっ」「信じないぞ」
 口々にわめいた三人組は額を寄せ集めて相談事を始めてしまった。怪しいすけべ野郎にしてはやることが子どもっぽくて、ザックスは毒気を抜かれてしまった。エアリスが服を引っぱるので、念のため注意を払ったまま、体をかがめる。
「待って、ザックス」
「平気だって、こんなのすぐ追っ払うからさ」
「ちがうの、そうじゃなくて」
「ん? 彼氏って言い方は気に入らなかった?」
「ううん、それはすてき、なんだけど」
(お、好感触。彼氏ってのも悪くないな)
 ちょっぴりうきうきしていると、三人組が動いた。近寄らせないとザックスが鋭く目で制すると、とたんに及び腰になる。元から勝負にはならなかった。場数を踏んでいるザックスに、相手は明らかにびくついている。
「ねえエアリス、そいつが彼氏なんてうそだよな?」
 えっ、と驚いたのはザックスだ。
「もしかしてエアリスの知り合い?」
「うん、友達。だから心配しないで、ね?」
「なあんだ、そうだったのか」
 ザックスは人懐っこい笑顔になって、喧嘩する気はないと、手のひらを向けた。
「悪かったな、エアリスにちょっかいかけようとしてるんじゃないかって勘違いした」
 三人組が向けてくるうさんくさそうな視線も甘んじて受けた。するりとエアリスが前に出ると、ようやく警戒が解かれた。
「ごめんね、おどろかせちゃって」
「そいつ信用できるの?」
「うん、とってもいい人」
「実は危ない奴かもしれないじゃないか」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。ザックスは、スラムを守ってくれてるソルジャーなの。モンスターだってかんたんにやっつけちゃう」
 いやあ、と照れてにやけると、非難の目が集まった。
「お調子者っぽい」「性格が軽そう」「なれなれしい」
「さっきから言いたい放題だな、おい」
 ザックスがつい口を挟んでしまうと、エアリスは静かに、という風に唇に人差し指を添えた。騒ぎを起こしかけたのは自分なので、大人しく引き下がるしかなく、ザックスはしょんぼりとうなだれる。
「それにね、いっしょにいると楽しい人なんだ」
 いたずらっぽく笑って、ザックスを見上げる瞳はきらきらしている。三人組は複雑そうだった。もじもじとしながら、どこか悔しそうにしている。
 少年達の様子はやや気の毒ではあったが、ザックスは安心もしていた。彼らがエアリスを大事に思っているのがわかるからだ。ここにはエアリスの居場所があった。家族、友達、無邪気に慕う子ども達。
(俺はなにが出来るんだろうな)
 歯がゆさがあった。たくさん笑って、ときにはやりきれないときも訪れるが、そんな普通の日々をエアリスが過ごせるようにするには、まだなにか、自分の力は足りないのではないか。胸の底でうずくものが、ザックスにはあった。

「もうすこしいっしょにいたい」
 エアリスにそう言われてしまったら、ザックスはもうお手上げだ。かわいいおねだりがなくたって、ザックスも同じ気持ちだった。少し離れたところの、あたたかな明かりがもれる窓に心の中で謝る。
(すみません、お嬢さんをお借りしてます、誓ってなにもしませんからっ)
 手入れが行き届いた花畑の隅で腕を枕に寝転がると、草や花のにおいに包まれる。深呼吸すると体に淀んでいたものが入れ替わるようで、至極気分がよかった。エアリスに似ているなあと思う。エアリスのそばにいると、ささくれた気分が落ち着き、ほっとするのだ。
 ザックスのすぐ隣で膝を抱きながら座っているエアリスは水の流れる音を聞いているのか、目を閉じている。薄青い夜が落ちてきた庭にいると、天使の寝床はこんな場所ではないのかとも思う。もちろん、整えられたベッドがいちばんなのだが。
「出世かなあ」
 頭上に広がる分厚い鋼鉄のプレートを眺めながら考えていたことが声に出た。
「急に、どうしたの?」
「出世して重役になって権力ってやつを使いこなして世界中を牛耳る力ってどんなものかと思ってさ。ほら、悪役はルール無視のなんでもありありで好き勝手できるだろ?」
 我ながら現実味がなくて笑いが込み上げてくる。権威や特権などというのは、常にザックスの興味から縁遠い存在だった。欲しいのは、たぶん、そういう力ではない。
 おかしそうにエアリスは細い肩をすくめた。
「悪役? ザックスが?」
「はは、柄じゃなかったな。忘れてくれ」
「だね。ザックスには似合わない。もっと、いいものだよ。たのもしいヒーローで、かっこいいソルジャーで……」
 膝頭に片頬をのせたエアリスはそっとほほえんだ。
「わたしの、ボーイフレンド」
 思わず手が伸びていた。細い腕をつかまえると、少しのためらいのあと、エアリスも横になってザックスの肩口に頬を寄せた。ザックスがゆっくり背中を撫でてやると、エアリスの緊張はほどけていくのがわかった。しあわせだと思った。寄り添う二人のそばから、小さな虫があわてたようにぴょんと跳ねて逃げていった。
 あまい匂いがする。集めた花の蜜よりずっとあまい匂い。
 くすぐったそうに笑うのが伝わってきて、ザックスも照れ笑いした。
「雪、見たことある?」
「ああ、現場で何回か」
 ごそごそと動いて、エアリスが地図を取り出す。薄暗いので二人は顔を近づけ合って地図をかざしながら見た。小さな爪が北の大陸にあるアイシクルロッジを指さす。
「ここって、どんなところ?」
「そりゃもう寒いのなんの。体動かしてないと凍っちまうくらい寒かったなあ」
 大氷河の入口に位置する村に印はつけていなかった。寒すぎるというのが選外の理由だ。エアリスが風邪を引いてしまったらかわいそうではないか。
「わたし、ここでうまれたんだ」
 しずかに、遠い遠い景色を見るようにエアリスは続けた。
「まだ赤ちゃんだったし、ほんとにすこししかいなかったから、なんにもおぼえてないの。お母さん、話してくれたな。家が押しつぶされちゃうそうなくらい何日も雪が降って、吹雪いて、嵐があって、その後に晴れると、真っ白ですごく明るくて、きれいだったって。しあわせで、辛いこともあったけど……」
 ほうっと息をついたエアリスの肩を大きな手がさすった。
 母親が二人いることは聞いていたが、昔のことをこうして話してくれるのは珍しい。
「あの景色を、わたしに見せたかったって」
 聞き入っていたザックスは、すぐに言葉が出なかった。
 母親が語る話を、まだ幼いエアリスが瞳をかがやかせながら聞いているのが想像できて、胸がきしむように痛んだ。
 地図を放り投げると、いまのエアリスをぎゅうっと抱きしめた。きゃっというかわいい声もまとめて抱き込んだ。
「決めた決めた、次の仕事が終わったらぜったい休暇取る! 長期休暇! 労働者の権利を大いに行使してやる!」
 胸に沸き起こった強い感情がザックスに大声を上げさせた。「見に行こう、夢みたいにきれいな景色をさ。船乗り継いで四輪借りて……ま、どうとでもなるか。人間やろうと思えばどこへだって行けるしな」
「いいの? 印、ついてなかったのに」
「べつに旅行は一回こっきりって制限があるわけじゃなし、何回行ってもいいもんだろ」
 こらえきれない笑い声の中で、そうだね、とエアリスが答える。
「あーあと、ついでに一緒に行きたいところがあるんだ。すごい田舎でなんもないし、かなり遠回りになるけど、エアリスなら大歓迎してくれる」
「うん、いいよ、どこでも。ザックスといっしょなら」
 ザックスみたいな軽い調子でエアリスが頷いた。飛び出したっきりの故郷を思い浮かべているのが、エアリスにはわかっているだろうか。こんなにかわいいガールフレンドを連れて行ったら、両親はそれこそ蜂の巣をつついたみたいな大騒ぎをする。
「お花、たっくさん売らないとね」
「だな。市場調査に宣伝もして手広くやるんだ、忙しくなるぞ」
 あんまり強く抱きしめたらエアリスが痛がるかもしれない。それでも、いとおしさがあふれて、抑えきれなかった。
 芯のないような髪を指で絡めとって、額に額をこすりつける。間近にあるエアリスの碧色の瞳に、かがやくものが一つ映っていた。それはよく見ると魔晄の青い色をしていた。ザックスは息を詰めて見入った。