砂を握っては、掌から滑らせる。
小さな粒が山となり、しかし重みに耐え切れないのか、すぐに転がってしまい大きくはならない。
用事のない右手が命令もしないのに何度も砂を掴んではこぼしている。
昔は飽きもせず高く積み上げ、壮大な城壁を作ろうと頑張ったものだ。
海水を含ませた砂は、上手くすれば簡単に壊すことも出来なくなる。
加減が難しかったりと制約はあるのだが、完成したときの達成感はひとしおだ。
その感動がぼんやりと浮かんでくるのだが、ソラはもう一度作り上げてみようとか童心に返ろうとか、思い出の類に触発されることはなかった。
麻糸で結い合わされていくサラサ貝は段々とその形を変えていく。
ひとつっきりのサラサ貝は、光沢の少なさと僅かな色味のおかげか地味な印象を与える。
それを全く別の印象に変えてしまうのだから、カイリは魔法使いなのではないか。
お守りの完成を楽しみに待つ気分と、もっと長く彼女の手が動くところを見ていたいという相反する欲求のせめぎあいに、ソラはくすぐったさを感じていた。
丁度背中の真ん中、手が届かないところを乾いた雛の羽毛でくすぐられる感覚に近い。
麻糸を操る指は細く、形の良い爪が地面を啄ばむくちばしのように動いている。
それがとても可愛いと、ソラは思うのだ。

「何かお話しようか?」
唐突にカイリが口を開いた。
順調に進んでいた作業が中断され、ソラは残念だと言うかのように声を上げた。
意味をなさない溜息がカイリにはおかしかったらしく、くすくすと笑われてしまう。
「いいよ、俺、子供じゃないんだしさ」
「なんだか退屈しているみたいだから」
退屈と言われてもソラは訳がわからなかった。
むしろ中途半端にされたことのほうが面白くない。
岩場の陰になる快適な場所でも波の音は耳に籠り、嗅ぎ慣れた潮の香すらも煩わしかった。
好奇心の強いソラが夢中になっていた小さな工房は活動を止めてしまったのだ。
それが悔しくてならない。
一人でむずがったりがっかりしたりとソラは忙しかった。
どうしたら彼女の指が止まらないでくれるだろう、子ども扱いされなくなるだろう。
独楽鼠のように頭を働かせていると、とても良い事を思いついた。
これ以上ないというほど良い思い付きだと、鼻を鳴らす。
「じゃあ俺が話をするよ。ほら、カイリは続けて」
こうすればカイリの手は止まらず、子供みたいにじっとしていられないなんて思われなくなる。
彼女が喜んでくれる話をすれば見直してくれるかもしれない。
とびきり楽しくて心を躍らせるお話をしよう。それにはカイリが泣いてしまうような恐ろしい化物も出てくるといい。本当に泣いてしまったら慰めればいいのだ。
そんなのはいないし、いたとしても軽く倒してみせるさと。
でも実際に泣いてしまったらどうしようとソラは不安になる。
けして泣かせたいわけじゃなく、ちょっと驚かせたいだけなのだから、あまり怖いのは駄目かもしれないとソラは首をひねった。
「わ、冒険のお話だね?」
身を乗り出すカイリの肩をソラは慌てて抑えた。
カイリにしてみれば、離れ離れになっていたときの話は、いくら聞いても聞き足りない。
ソラが何を見てきたか、何を思ったか、何をしていたか。
聞いていくうちにカイリはよく知ったソラのことをまた一つずつ知ってゆく。
言い表せない充足感を得ることが出来るのだ。
けれどそんなカイリの嬉しさを嗅ぎ取れないソラにしてみれば、話に重心が傾くのは本末転倒になってしまう。
手を動かしててよ、と前置きしてからソラは話した。


ソラにもカイリにも馴染みの深い海の話だ。
止むことのない海風が頬を軽く叩いたときに頭に浮かんだ、お転婆で好奇心旺盛で美しい声の人魚姫。
彼女がどれだけ地上に憧れていたかということ。
海の上にあるものは人魚や魚には不思議で使い方もわからないものだらけだったこと。
これは何に使うのかしらと声真似をしながら人魚姫に尋ねられたことを再現する。
「はは、おっかしいだろ。海の底だとフォークは櫛にしか見えないんだってさ」
見たこともない世界に憧れるのは、誰しもが持つ自然なことなのだと、ソラは同時に安心もしていたのだ。
それが好奇心からでも足元の砂を疑問に思うことでも根本的には変わらない。
つまりリクは真剣に考えているようで、実際は俺とそんなに変わりないんだ。
と言った所でソラは咳払いをした。
いつのまにか話題がずれてしまっている。カイリの手も止まってしまった。
のんびりと語っていたソラがいきなり立ち上がり、むきになりながら握りこぶしを作っているのだから、呆気に取られるのも無理はない。

カイリは吹出すまいと口元に手を当ててこらえていた。
顎の線から子供らしさが失われつつあっても、ソラは頭の中のことをすぐに口にする。
立ち上がったまま気まずそうに頭を掻くソラに手を伸ばすと指が絡まった。
手がここまでしか届かないんだとカイリは少し驚いた。
砂をいじっていたせいかざらざらとした感触がカイリの指に移る。
その砂がこすれる感触のむず痒さに、膝を支える力が弱くなり、ソラはまたカイリの隣にあぐらをかいた。
指先がぶつけたときのように熱を持っている気がした。

「それで、お姫様の夢はどうなったの?」
広い世界を望んでいた人魚姫の切ない願いは叶ったんだろうか。
記憶にうっすら残る彼女の姿が目に浮かぶ。慣れない感覚を持て余しているソラをカイリは促す。
話の続きが聞きたかった。
「もちろん叶ったさ。たくさん大変なことがあったけどね」
夢から覚めたようにまた語りだす。
カイリの手の動きが随分とゆっくりしたものになったので、ソラは概ね満足していた。
時折顔を上げるカイリはその度に頷いたり一言二言相槌を打ってくれる。
その仕草がソラをますます饒舌にさせた。
語り手にとってカイリはこの上なく良い聞き手だ。
腰を折ることもなく、しかし詰まればさりげなく促してくれる。興味深く聞き入ってくれる姿にきっと何時間でも話し続けられるとソラは思った。
聞かせたいことはたくさんあるのだ。
いよいよ山場に差し掛かったとき、ソラは雨雲を見つけた気分になっていた。
恐ろしい海の魔女が彼女を怯えさせやしないか。
自分はちっとも怖くなかったが、あの魔女のために海が恐ろしい渦に飲み込まれたのだ。
のろのろと魔女のことを口にすると、カイリは一瞬だけ目を伏せたがまた聞き入ってくれた。
指を動かすリズムがほんの少し乱れていることにソラは気が付いたけれど、とにかく早く通り過ぎてしまうことばかり考えていた。

カイリがまだ海の楽しさしか知らなかった頃、急な嵐が小さな遊び場を襲ったことがある。
船が流されてしまい、家にも帰れなくなったソラとリクとカイリは一晩を秘密基地で明かした。
雨粒と強風が生み出す音、黒々とした海の恐ろしさ。
そういったものに慣れていなかったはずのカイリは泣き言や不安を一切口に出さなかった。
ソラとリクもまた幼く、急に始まった夜遊びを楽しむ気持ちが大きすぎたのか、カイリが怯えていることの半分も理解できていなかっただろう。
朝になり何事もなかったかのように穏やかになっていた海をカイリは綺麗だと言っていた。
ソラも同感だった。リクも頷いていた。
ただ朝の光に照らされた瞳が潤んでいたことは、今でもソラの記憶に焼きついている。

「そんで、王子の投げた鉾が勢いよく飛んでいった!」
手近にいたヒトデを掴み上げるとソラは思い切り遠くへ投げる。
くるくると回転しながら水しぶきを上げ海へと戻されてしまったヒトデはともかくとして、かなり遠くまで飛んだなぁとソラは自分でも感心した。心の中で舌を出しながら謝ると、今度は天を仰ぎながら苦しむ振りをする。
魔女の最期だ。
大仰に倒れこむソラに思わずカイリの手が止まる。
顔を砂に突っ伏してしまったソラは身動き一つとらない。
随分熱が籠もった演技だ。
起こさなければと手を伸ばそうとしたカイリは、急に起き上がったソラに手を引っ込めた。
驚いた? とでも訊くように彼の眼が笑っている。
引っ込めた手はソラの頬を軽くつねった。
悪戯の色に染まっていた表情が情けなく歪む。
冗談だと弁解すると今度はカイリの瞳が悪戯の色に染まった。桜色の唇を弓なりにしてじっとソラの目に視線を注ぐ。
その場でじたばたしそうな足をなんとか押さえながら、話の続きを思い出そうとした。
紺碧の瞳に見詰められているとまともに物を考えることが出来ないようだ。
どこまで話したかなと尋ねる前に、カイリは促してくれる。
そうそう、人魚姫と王子はねとうわずった声でソラは続けた。
怖がらせなくて本当に良かったと安心もしていた。
口の中に砂が入ったのか、舌の上に嫌な感触があるけども、そんなのは気にならない。

地上と海底は手を取り合った。
ソラが締めくくると、お守りを膝に置いてカイリは手を叩いた。
心からの賛美に頭を掻く。
たどたどしい部分もあったけれど、カイリが喜んでくれたことが何よりも嬉しい。
しかし彼女の膝の上のお守りを見てソラははっとした。ほとんど完成間近だ。
いつの間にか話をすることに夢中になっていたらしい。カイリは自分の話にとても満足そうに微笑んでいる。
肝心の目的を果たせなかったことにソラはがっかりしたが、まあいいかとも思った。
「ね、歌をもう一度聞かせて」
「いいよ。どの歌がいい?」
海の中の歌が聞きたいというカイリにソラは喜んで答えた。
どの歌も好きだが明るくテンポのいい歌はもっと好きだ。
最初の一拍子を歌ったところでソラは歌をやめた。
どうもやりにくい。首を傾げるカイリもその隣にいる自分も座ったままだ。
ああそうか、と立ち上がり、足に付いた砂を払うとカイリの腕を掴む。
リズムが肝心なんだと言うと左右に体を揺らしまた歌いだす。
初めは戸惑っていたカイリも次第にソラに合わせ体を揺らす。
海の中のように自由自在に動けないことも気にならない。手を握り合い一緒になって歌うことがとても楽しい。
くるりとカイリが回るとほのかに甘い香りがする。頭の芯がくらくらした。
歌い終えるのが勿体無いと思うのだけれど、どんなものにも終わりがある。
一回り小さい手を離しながら、彼女の頬を伝う汗に目を奪われた。
頬から首筋、鎖骨へと流れていくそれがどうしてこんなに気になるのだろうと頭の片隅で考えるが、やっぱり視線は外せなかった。
「いいな。私も海の世界を見てみたい」
馴染んだ海が目の前にある。
それに視線を注ぎながら肩を上下させ息を切らせるカイリが呟いた。
魚のように自由に動ける人魚姫に対する純粋な憧れだった。
「ソラが羨ましいな」
切なげな響きにどぎまぎしてしまう。肺の辺りがかっかして、息苦しい。
「じゃあ、じゃあさ、見に行こう」
制するカイリの声を無視してソラは走り出した。
片手にはしっかりと彼女の手を握っている。考えなんてひとつもなかった。
もしかしたら火照った体が我慢できなくて飛び込みたかっただけかもしれない。
すぐに波が、ソラとカイリをさらっていった。
泳ぎが得意なソラは彼女の手を引きどんどん島を離れる。浅瀬を越え足が届かなくなると、ソラは大きく息を吸い込んで潜った。
陽光があちこちに飛び散りながら珊瑚を照らしている。
透き通った水を色とりどりの魚が優雅に泳いでいた。突然現れた二人に慌てて珊瑚の中に引っ込む魚もいる。

人魚はいないけれど、ソラが見てきた海の中によく似ている。
足りない分はまた話せばいい。
ふと握り合わせたはずの手が軽くなった。
不思議に思いカイリを振り返ったソラの目にまず飛び込んできたのは、銀色のイルカだった。
あっと思う間もなく彼女の手が離れ、連れ去られてしまう。
海面へと向かっていく姿を目で追うが反射する光が眩しくて、赤い色しか見えない。
後を追ったソラはかなり深いところまで潜っていたのだと初めて気が付いた。
間違えて吸い込んだ海水が冷たい。
やっと上がったと思ったら今度は頭に石が降ってきた。目の前に星が散り、息を吸うのとぶつかったところを抑えるのとで、ソラは周りを見る余裕すらなかった。
カイリを呼びながら痛みに耐える姿は自分でも心底恰好悪いと思う。
とりあえず呼吸を整えると今度は耳が痛くなった。
「ばか! もう少しで溺れるところだったんだぞ!」
大声で罵倒されたのだ。すぐ近くで叫ばれ鼓膜が痺れたように痛む。
カイリを片手で抱きかかえるリクはこれ以上ないというほど怖い顔をしていた。
激しい怒りにソラは少し気圧された。ぶつかってきたのは石ではなくリクの拳骨だったらしい。
その腕の中で咳き込むカイリにソラは血の気が引いた。
「カイリ」
波に揺らされながらカイリの顔を覗き込む。
青ざめているが、なんでもないよと笑ってくれた。
さっきまでカイリの手を握り締めていた自分の手が恨めしい。
息が出来なくてどんなに苦しかっただろう。情けないやら悔しいやらで、鼻の奥が痛い。
「準備運動もしないで泳ぐなんて、溺れにいくようなもんだ」
吐き捨てるように言うとリクはカイリを抱えたまま島へと戻っていく。
その後ろをソラはのろのろと泳いだ。
水が冷たい。手足の先がじんじんする。
先ほどまでいた岩場に戻るとリクが、何事かを尋ねていた。
たぶん、大丈夫だとか、苦しくはないかとかだろう。
近寄るソラをリクは容赦なく彼を睨んだ。勝手に一人突っ走ったお前が悪いんだと、目が言っている。
「リク、そんなに怖い顔しないで」
カイリはすぐ近くの銀色の髪を梳る。
水が滴り落ちる髪は重く海水のおかげか固くなってしまっている。
ほったらかしにしていた髪はひたりとリクの額に張り付き、頑固にも離れようとしない。
それを一房ずつ指に絡めては耳の後ろへとかけていく。
まともに潮風を浴びるようになったリクの瞳に、なんともなかったんだからとカイリは微笑んだ。
なおも言い詰めようとした口は閉じられた。本人がそう言うのならリクとしても言う必要もない。
「とにかく、ソラは反省しろよ」
「うん。すごくしてる。ほんと、ごめんな」
申し訳なくてうなだれるソラにカイリもまた申し訳なく思った。
海の世界を見たいといったのはカイリなのだ。
この島から離れていた時間は泳ぐ感覚を忘れるのに十分だったらしい。
しかしソラが見せようとしてくれた世界はちゃんと見ていた。
いきなり飛び込んだときは。ちょっとだけ驚いてしまったけれど。
「きれいな世界なんだね」
ますます憧れが強くなる。

うっとりと目を細めるカイリにソラは少し心が軽くなったような気がした。
今度はちゃんと体を慣らしてからにしよう。
もう二度と一人で先走るまい。
また見に行こうとソラが言うとリクは苛々としながらたしなめた。だいだい考えが甘いんだとソラを叱る。
「人魚でもなきゃ、行けるわけがないだろ」
それを聞いてソラとカイリは顔を見合わせた。リクの口から聞くにはあまりにも珍しい単語だ。
「俺の話、面白かった?」
「別に面白くは」
言いかけてリクは口をつぐむ。
しまったという顔をするリクをソラは笑った。
それなら最初から出てくればいいのだと。
どうしているって教えてくれなかったの、と無邪気に尋ねるカイリから顔を背ける。
一つ年上の彼にしてみればとても照れくさかったのだ。
いつもの場所にいない二人を探してみれば、岩陰でおとぎ話に興じている。
そこへ割り込んでいくのも気が引け、そのままずるずると姿を現せずにいた。
しばらくそうしていたが居心地は悪くなる一方で帰ってしまおうかと考えた矢先、彼女を連れソラが海へと消えた。悪い予感がして追いかけてみれば危うく溺れそうになっているカイリが見え、とっさに引き上げたのだ。
「なんでもいいだろ。ほら、カイリ」
砂の上に置き去りにされていたお守りを渡す。
少し汚れてしまったそれを受け取ると、カイリは素直にお礼をいった。
裏のない笑顔にリクは視線を外すしかなかった。
二人に知られてしまったことが恥ずかしい。どうして隠れてしまったんだろう。
「リクも一緒に聞こうよ。ソラのお話」
「まだまだたっくさんあるからさ」
顔を覗き込んでくる二人の顔は明るく一人で悩むことのほうがばからしい。参ったなと溜息をつく。
「気が向いたらな」
ソラの話には突拍子もないところがあって、そこをリクが止めたりカイリが軌道修正するんだろう。
そんな光景が頭に浮かんでリクはこそばゆい感覚に襲われた。

 

  • 06.02.01