ソラの手から離れた木剣は乾いた音を立てて地面に転がった。
腰に手を当てうっすらと笑うリクが憎たらしいといったふうに地団駄を踏むソラは、ひとしきり悔しがると腰を下ろした。頭を下げ気落ちしている。
しかし慰めなんて口にする気はさらさらなかった。
遊んでいるように見えるかもしれないがこれも立派な訓練なのだ。
「自分すら守れないようじゃ、一緒に行けないな」
左手に持った木剣をひたりと突きつける。
リクのその仕草に血が上ったのか、落とした木剣を拾うとソラも構えた。
座り込んでしまったのが嘘のように瞳が燃えている。
そうこなくちゃと、リクも構えた。
「もう一回」
「やるぞっ」
刃のない木剣でもぶつかれば怪我しないはずがない。
体中至るところに打ち身ができるが、二人とも気にも留めなかった。

激しい打ち合いは日が暮れるまで続いた。
終わる頃には疲れきっていたし疼痛があちこちにあって熱を持っている。
動けないことと、すぐさま動く気分ではなかったので、リクはすぐそばのパオプの木に体を預けた。
お気に入りの場所だ。沈む太陽がよく見える。ソラもそれに習い木に腰掛ける。
隣一人分をあけてしまうのは、いつもの癖だろう。

「カイリ、大丈夫かなぁ」
ここにいない二人の大切な友達の名を口にするとソラは天を振り仰いだ。
性質の悪い夏風邪にうなされているカイリを思うと切なくなる。病気なんかしないソラもリクも辛さがわからないのだが、会わせてもらえないほど具合が悪いと聞くとなんだが寒気がした。
「どうだろうな。熱は下がったって聞いたけど」
ずぶ濡れになったのが悪かったとリクは思う。
突然の驟雨はこの島ではしょっちゅうだったし雨宿りできる場所もたくさんある。
それをしなかったのは作りかけのイカダがあったからだ。横殴りの風と打ち付けてくる波からイカダを守ろうと必死でカイリのことを考える暇が無かった。
雲が割れ明るくなりやっと周りを見る余裕が出来た時には、三人とも髪の先から爪先までびしょぬれで、水で作られた道を歩いてきたようだった。
あの時は、お互いひどい姿だと無事だったイカダの周りで笑いあっていた。
後悔はしたくない性分のリクだが、カイリのことを考えると堆く積もった砂が肩に乗っているように思う。
すぐさま乾かして暖めていればと耳鳴りのように響く自分の声に、軽く頭を振った。

「おまえは踏込むときに左側ががら空きなんだよ」
ソラは首を傾げた。
いつもならリクは助言をするようなことをしない。
しかし今は尋ね返すのも遮るように自分の弱点を挙げている。
珍しいこともあるものだと最初はおとなしく聞いていたが、段々と落ち着いていられなくなった。
「つまり腕力が弱いんだ。わかるか? 力不足なんだよ」
全くの実力不足だと言われソラは悔しかった。
確かにリクは大きくなったしそれに比べてこの細い腕ときたら。
毎夜ベッドで腕立て伏せをしていてもちっとも効果が現れない。
密かに羨ましく思っているなんて死んでも口にしたくないが、言われてばかりなのも面白くない。

「リクだって、油断しすぎだろ」
負けじと言い返すソラにリクは少し驚いた。
声色にかなり意地が混じっているがソラの言っていることは本当だったからだ。
ソラに打ち据えられた肩に手をやると腫れていた。弾かれた一瞬の隙に打たれたものだ。
といっても、数えるほどでしかないけれど。
「勝たせてやらないと拗ねるからな」
木の上で横になってしまったソラを眺め、リクは含み笑いをしてからまた海を眺めた。
すっきりしない頭が嫌で口から出てくるままにしていたが、今度はソラを落ち込ませることになってしまった。
しかし今度は後悔がない。これくらいでへこむソラではないとわかっているからだ。
分かりやすい態度がおかしくてたまらないのだが、一向に気は晴れない。
後ろ向きに悩む情けない自分の背中を誰かに押してもらいたい気分だった。

最後の日が沈もうとすると背後に迫っていた薄暗さが濃くなってくる。
いつもなら、カイリが帰ろうと、促し三人は家路に着く。
けれど今日はいない。
ずるずるとここにいても仕方がないと、リクの頭の中で命令が出ているのに足が動こうとしなかった。

「もっと、強くならないとだめだ」
突然言い出したリクにソラは起き上がった。
さっきからリクはおかしい。からかわれているのかと思えばこういう変なことを口にする。
もう十分強いだろと言うソラの言葉を、リクは強く否定した。
例えば外の世界に怪物がいたらどうするとソラは問いかけられ、ちょっと考えてから明るく言った。
「倒せばいいんだよ」
こうしてああしてと身振り手振りで怪物と戦っている風に動くソラに、リクは溜息をついて肩をすくめる。
大げさな仕草にソラは抗議した。彼が怒り出すのも無理はない。
これから行こうとしている外の世界に、どんな生き物がいるのかさえ二人は知らないのだ。
海の向こうにもしかしたらいるかもしれない怪物に立ち向かうのは間違っていないはずだ。
空想の上でしかないが、怪物は牙を剥いて自分達に襲い掛かってくるだろう。
そうしたら勇気を持って立ち向かえばいい。怪物相手に怯まない自信がソラにはあった。
「それだけじゃない。カイリが怪我をしないように守るんだ」
言いながらリクは得体の知れなかった悩みの正体が見えたような気がした。
昨日の雨のときからそのままになっているイカダに、今日は、触れていない。
カイリがいないから二人だけで作ったとしても作業の進み方は芳しくなかったろうと簡単に想像が付く。
いない間に作り進めるなんてともリクは思っていた。
目指す外の世界のことはいくら考えてもわからない。
何もないかもしれない。安全ではないかもしれない。
漠然とした期待に潜むこうした不確定要素に今更気が付いたのだ。
突然の雨に倒れてしまったように、手の及ばないところで、カイリに危険が迫ることを考えるとぞっとする。
今の自分は彼女を守れるんだろうか。二人を引っ張っていけるんだろうか。
水平線に吸い込まれた太陽を見届けると、リクは自分の船へと歩き出した。

何も言わず行こうとするリクの後を慌てて追いかける。
やっぱり変だ。
カイリを守るというのには賛成だが、ひどく真剣な言葉にソラは一言だって挟めなかった。
冒険をするのが夢だったソラにしてみれば危険なことがひとつくらいあってもいいと思っていた。
三人一緒なら、どんなことでも楽しいはずだ。
「なんだよリク、怖気づいたんじゃないだろうな!」
あちこち痛む体のことを考えないようにしてソラはリクの背に向かって叫んだ。
外の世界へ行こうと言い出したのはリクだ。
考えてもみなかったことを易々とこなしてみせるリクは嫌いだけど好きだった。
急に考え込まれるとソラだって考えなくちゃいけない気分になる。こんなもやもやした感覚はごめんだった。
波の音にも負けないくらいの大声だったから、涼みに出ていたカニがさっと砂の中に隠れてしまう。
構わず歩を進めていたリクは振り返るとソラが来るのを待った。
そしてソラが嫌いな人を小ばかにしたような笑みを浮かべて言った。
「誰が怖気づいたって?」
油断していたのかリクの顔が一瞬で消えて代わりに薄墨色の空が目に飛び込んできた。
背中に鈍い痛みが広がる。ひっくり返した亀のようになったソラの顔を覗き込むとリクは遠慮しないで笑った。
「そんなんじゃ、どっちが倒されるかわかったもんじゃないな」
起き上がる反動を利用して飛びかかるも簡単に避けられてしまう。
また大声をあげながらリクを追いかけ、結局船までのかけっこも負けてしまった。
今日何度目かの地団駄を踏むソラを横目に、カイリの様子を見に行こうとリクは考えていた。
ついでに果物も持っていこう。それで、カイリが元気になったらまたイカダを作ろう。
緩く曲がった水平線の向こうが見たくてたまらない。
不安や悩みをかき消してしまうほど強い想いをリクは持っていた。




すぐ近くにある優しい気配にリクは目を開けた。
うつらうつらしていたせいか視界がぼやける。
意識して視点を集中させると、二つの瑠璃紺と目が合う。
訳が分からないことに、リクは頬に血が集まるのを感じとっさに目を逸らせてしまった。
カイリに寝顔を見られたのが恥ずかしかったのかもしれない。
「ごめんね、起こしちゃった」
「寝てたわけじゃないさ」
今日は、特に風が弱い。
いつもやまないはずの潮風も軽く葉を揺らす程度のもので、とても穏やかに晴れた日だった。
静かな陽気につい眠気を誘われてしまったらしい。木に背中を預ける恰好で座り込んでいる。
油断しすぎだと、リクは自分をこっそり叱った。
本来ならパオプの幹に腰掛けるはずなのに、いつもと違い隣に座るカイリを不思議そうにリクは眺める。
その視線に気が付いたのかカイリは照れくさそうに笑った。
たまにはいいじゃない、と瞳が言っている。
弓形に優しく形作る瞳にリクは勝てた試しがない。
昔よりも目を引く影を作る睫毛や、肩に触れる髪がもたらすくすぐったさは考えないようにしようと決め、目の前に広がる海に視線を移した。
ソラはどこにいるんだろうと尋ねるまでもなくカイリは彼が遅れてくるということを教えてくれた。
そうか。
うん。
短いやり取りの後は続かない。沈黙がすっぽりと二人を覆ってしまう。
けれども、決して居心地が悪くなるとかそういったものではなく、長い距離を歩いているときの小休止のようなものだ。再び襲ってきた眠気にリクは舌打ちをしたい気分だった。
パオプの葉が立てるざわざわとした音が耳に心地よく、隣にある暖かさが先ほどより強い眠気を引き寄せる。夜更かししたわけでもないのになぜだろうとぼんやり考える。
するとリクの視界を白いものが塞いだ。
自分でも情けなくなる程うろたえたリクにカイリも手を引く。
体ごと強張っている彼女の様子に深い自己嫌悪に襲われた。
触れられたことに反応したわけでなく、つい気を抜いていたところに予想もしなかったことが起きたから、驚いてしまったのだ。
カイリが手に持っていたものを拾いながらどう謝ろうかと思案する。
「悪い、ぼーっとしてて。大丈夫か」
いきなりの事とはいえリクの手は容赦なく白い手をはじいた。赤く残る痕にあばら骨が縮んでしまいそうだ。
それなのにカイリはちっともそんなことを気にせず心配そうにリクを覗き込む。
長く伸びた銀色の髪が遮っていても、真っ直ぐ届く視線に、リクはなんだか落ち着かなかった。
「気に入らなかった?」
「まさか、そんなわけあるか」
カイリに触れられることが嫌な訳ない。

熱を込めて言うリクに面食らい一瞬目を見開いたものの、カイリはすぐに勘違いに気が付いた。
違う違うと微笑みながらやんわりと訂正する。
じゃあなんのことだと言いたげなリクの表情に負けて、彼の手に納まっているものを指差した。
もう少し焦らせてやろうかとも考えたけれど、リクは待たされることが好きではない。
彼は、昔から結論を急ぎたがる。
どんなに大きくなっても、そこは変わらないんだなぁとカイリは安堵感に満たされた。
「そ・れ。リクにぴったりだと思って持ってきたの」
掌を広げてみると簡素な髪留めがあった。
青白色の光沢を持ったそれは小さく、リクが身に着けてもそれほど目立たないと思わせる。
きっと似合うからと楽しそうに言うカイリの言葉に嫌な予感がよぎる。
さっさとリクの手から髪留めを取り上げるとカイリは手を伸ばしてきた。
細い指が前髪を掻き分け、手櫛であちこちに跳ねた髪を整えていく。
こうなってしまえば嫌とも言えず大人しく目を瞑って待つことにした。
すぐ近くにある華奢な鎖骨のおかげで、目の遣り場にも困ってもいた。
細い指が髪を梳く感触は丁度頭を撫でられることにも似ている。
しかしあっという間に手は離れてしまった。額にあたる涼しい海風にリクは目を開ける。
満足げな笑みを浮かべるカイリにリクは曖昧に笑ってみせた。
いつもしない髪形に戸惑ってしまうのだが、わざわざカイリがやってくれたことに水は差したくない。
伸び放題だった髪はもはやリクの視界を塞ぐことはない。
目が悪くなるといけないからね、とカイリは指で軽くリクの額を小突いた。
「うんうん。かっこいいよ、リク」
面と向かって言われればリクだって照れてしまう。
ふいと顔を逸らすが、カイリは気を悪くした様子も無く笑っていたので内心ほっとしていた。
色んな角度から眺めるカイリの忙しない仕草につい口元を緩める。
礼を言おうとしたが小声で呟かれた言葉に息が詰まる。
「髪、伸びたね」
たったそれだけなのにリクは胸を突かれたときのように息苦しかった。
カイリの耐えてきた寂しさとか離れていた時間の長さを、全部詰め込んでも足りないだろう。
思い返せばあんなに長い時間離れていたことはなかった。
ちりぢりになってしまった自分とソラは対立しあい見据える先も違うと思っていた。
けれど、カイリは自分を見つけ出し会いたかったといってくれた。
二度と話すこともないと思っていたソラと語り合うことも出来た。
長い道のりに残してきたものの大きさが胸に染みる。
待つのはいやだとカイリが隣に立ってくれたとき、初めて外の世界への冒険が実現したのだ。皮肉なことに全て自分が招いたことの結果だった。
「すまない、カイリ」
太い骨を覆った腕が勝手にカイリを引き寄せた。
簡単に納まった体は柔らかくて、ぎゅっと胸を締め付けられるようだ。
いつだって守っているつもりで、置いてけぼりにしてしまった。
置いていかれるのが、どんなに人を複雑な気持ちにさせるかリクは知っているのにカイリに課していた。
喉の奥から込み上げてくる苦いものを、抑えようとリクは何度も謝った。
そうしなければ気が済まなかった。
腕の中に納まっている小さな体がリクには何よりも愛しく思える。
もう二度と先へは行かない。ちゃんといるかしつこいくらい後ろを振り返ろう。
闇を巡り大切なものにやっと気が付いたのだ。

いきなり抱きすくめられたかと思えば、何度も謝られカイリは困惑した。
寝起きだったから気弱になっているのだろうか。
小さな子供にするように、背中を優しく叩いてやるとようやく力を抜いてくれた。
思いつめたような瞳に声が出せない。リクはいつだって一人で背負い込んでしまうのだ。
けれどすずしげな目元が彼の変化をよく表しているかのように、ちょっとは背負い込まなくなったということなのだろうか。
だからといってたくさん遠回りしたことを謝られても困ってしまう。
カイリがリクから聞きたい言葉はもっと別にあった。
それをどう説明したらいいだろうと思いあぐねる。戻ってきたんだと証明してほしい。
もう離れ離れにならず、穏やかな天気の下でのんびり出来る日がこれからずっと続くのだと、言ってほしい。
カイリが欲しいものはたったそれだけなのに、躊躇われるのはリクはもうどこへでも行けるからだ。
変わっていくことを喜んでやれないのがカイリは悲しかった。
リクを縛ることはしたくない。けれど必ずここへ戻ってきてほしい。
相反する願いに思考がますます焦げ付いていく。
「悪い。迷惑だったか?」
「そんなことないよ」
迷惑だとかなんて一度も思ったことがない。
帰ってきてくれてどんなに嬉しいか、カイリは思いつく限り挙げた。
今度はリクが屈託無く笑う番だった。
考えなしに抱きしめてしまって悪かったと言ったつもりなのに、てんで見当違いだ。
急に笑い出したリクにカイリは頬を膨らませる。
遊ばれているのだとわかったからだろう。
じたばたとするカイリを器用に膝の上にのっけるともう一度確かめるように腕を絡める。
息づくカイリがここにいる。
「リクの寝顔が可愛かったこと、ソラに教えちゃうからね」
子供のように扱われて機嫌の悪くなったカイリが声をあげた。
海まで笑いだしそうな子供っぽい抗議をリクはますますおかしく思った。
そんな脅しが通用するのは、ソラぐらいなものだ。
「じゃあ俺はカイリの寝顔をのぞきにいってやるさ」
可愛い悲鳴が耳に優しい。
戻ってこれたと、リクは長く息を吐いてカイリの髪に頬を埋めた。

 

  • 06.02.01