眠りこんでしまったカイリに上着をかけてやる。起こしてしまわないようにとソラの動きは慎重だ。
静かにしろよと小声で言われリクは呆れてしまう。
万が一でも自分がそんなヘマをすると思っているんだろうか。
リクが不満げにしているのを無視して肩にもたれるカイリの顔にかかっている髪を拾う。
白い肌に睫が黒い影を落とすのに見惚れてしまう。
向かいの高い位置にある窓から差し込む夕陽が自分達を赤く染めあげていた。
景色と雲が素早く流れているのをリクがぼんやりと眺めている。
何の障害物もなく電車は順調に街へと向かっていた。

ほとんど規則正しい揺れに身を任せているとついぼうっとしてしまう。
カイリも疲れていたのだろう。ずっと歩き通しで休む暇がなかった。
ちっとも自分のことを省みないから気が付くのが遅くなってしまう。
街に着いたらすぐ宿を探さないと。ぱりっとしたシーツの上で寝かせてやりたい。
それから力のつく食べ物も用意してもらおう。ここは、旅慣れている自分がしっかりしなくては。
と、あれこれ考えてはいるがソラの頭は気が付くと違うことを思っている。
「なあ、明日は出発しないよな?」
穏やかな寝息に聞き入っていたリクが顔をあげる。
口の前に人差し指を立ててやるとソラは慌てて口を塞いだ。
すうすうと眠り込んだままなのを確かめてほっとしている。
そういえばまだ予定を決めていない。
急ぐ旅でもないがそうのんびりもしていられない。しかし、とリクは思案顔で顎をおさえた。

すぐに寝入ってしまうのはよほどくたびれていたのだろう。
いつもなら初めて見るものにはしゃいでじっとしていない。その度にたしなめるのはリクの役目だった。
ソラみたいにうるさく騒がないけれど目を離すとふらふらとどこかへ行ってしまうから厄介だ。
それがないのだから相当しんどいのだろう。
休ませてやりたいとソラの目が言っている。一も二もなく賛成だ。
「そうだな、休ませてやろう」
するとソラは首を静かに振った。
てっきり同じように考えていたとばかり思っていたので面食らってしまう。
怪訝そうにするリクにソラはにいっと笑った。
「一回でいいからやってみたいことがあるんだ」
またかとリクはうんざりした。面白い遊びを思いつくとソラはこんな顔をする。
「なんだよそれ?」
「あとで言う。リクは絶対ばかにするから」
はいそうですかと簡単に認めるリクではない。
顎を少し持ち上げて探るような目をされ無性に腹が立つ。
けれどこういうときは食って掛かってもたちまち打ち返される。
絶対に言うものかと頑張ってみたが、段々と冷たい色を帯びてくるので諦めた。
ソラは隠し事をするのは下手だった。
「俺たち、ちゃんとしたデートってしたことがないだろ」
突拍子もないことを言うソラにはいつも驚かされる。
哀れみを込めた視線を向けられソラは鼻白んだ。聞きもしないで結論付けたがるリクの悪い癖だと思う。
ソラには思い付きがふらふらしていて定まらない自覚はあまりないのだ。
良いと感じれば舌が自動的に乗せてしまう。
「別にしたくないならいいけどさ」
半分拗ねるようにしながらソラは言った。
眺めの良い時計台に登ったり賑やかな大通りを甘いお菓子をつまみながら歩いてみたかった。
島ではけしてできない。気の利かない奴に見つかれば面白くないし、今更目新しい場所もない。
でも自分達を知る人の少ない場所なら。
単純で大人びた計画。ソラはいつも感じていた。
大人がするキスをすると体の真ん中にある芯が溶けてしまう。
それからは新しいことばかりに気持ちが向いてしまっていた。
頭の中で描くだけで笑い出したくなるほど楽しい気分になる。
カイリが嬉しそうにしているとお腹が減っていても幸せになれた。
リクだって呆れながらも結局笑っている。
絶対に楽しい。そういう確信があったからリクの反応は面白くなかった。
恨みがましい視線を送ってしまうのも仕方がない。

「一人で話を進めるな」
深々と嘆息するとそうっとカイリの頭を自分の肩に移した。
かすかに声をあげたが目を覚ます気配はない。
ソラみたいに落ち着きのない枕では眠りにくいだろう。
彼が言いたいことを大体汲み取ったリクはどう言い聞かせようかと悩んだ。
ソラの思いつきが魅力的なのは認める。
小さめの頭に鼻先を寄せていると甘ったるい匂いがする。
少し熱があるのに気が付いたリクはますます冷静に考えた。
ソラが言い出せばカイリは一も二もなく賛成するだろう。多数決では不利だから諦めさせるしかない。
というのも働き者の想像力がはじき出したのはあまり良い光景ではなかった。
手を繋ぐのは構わない。いつもと違うことが出来るのはリクだって嬉しい。
しかし人通りが多いところでは話が別だ。
慣れない旅は体力の消耗が激しい。
自分達ほど丈夫に出来ていないカイリを連れて回るのは良いことには思えなかった。
これほどぐったりしているカイリに無理をさせるなんて。ソラの開放的な性格では考えつかないのだろうか。
「これ以上辛くさせるつもりか?」
効果はてきめんだった。
顔色をさっと変えるとカイリの細い肩に触れる。腕を振り上げ続けていたせいかいつもより体温が高い。
指先から伝わってくる熱っぽさにソラも体温が上がってしまう。
根本的に自分達と作りが違うのだと、いつも一緒だからつい忘れてしまう。
かき抱いているときはいやというほどわからされるのに。
どう扱っていいのかいまだに戸惑うところがあって、得体の知れない不安が常にソラの背につきまとっている。
「そんなつもりじゃなくて、ただ、楽しいだろうなって」
ぼそぼそと口の中で呟くソラにリクはなるべく優しい口調を心掛けた。
「わかったらカイリには言うなよ」
無言で頷く姿にやれやれと軽く息を吐く。
楽しいのがこちらだけでは本末転倒だ。休息を取りながらでもできることをいくつか思い浮かべる。
うなだれているソラも楽しめるのはなんだろう。どこかで面白い本でも手に入れようか。
調整が上手くいくとリクは心地よい充足感に満たされる。
こうやって一つ一つ良い方向になっていくのは好ましい。


大きく電車が跳ねた。線路に長年の歪みが文句を垂れているのかもしれない。
ぐらりと体が傾いたので同時に手を伸ばしてカイリを支えようとした。
そのことにすっかり気を取られていたから、脇腹ががら空きだった。
細い指につつかれてソラは派手に、リクは普段使わない声をあげる。くすぐったいのと不意打ちに驚かされた。
二人の前に立ちにっこり笑ったカイリをただ見つめるしかできない。
やさしく形作られているはずの瞳には隙が全くなかった。
ソラはとっさにリクを振り向いた。
なんとかしてくれと無責任に投げ出されるのは慣れっこだ。カイリのことなら手に取るようにわかっている。
リクは脇腹をさすりながら意識して頬を持ち上げた。
「立ってると転ぶぞ」
腕を背で組みながらにこにこしているカイリの腕を掴む。
前に後ろにと引っ張られるように揺れていた。
もう一度大きな曲がり角があればどこかに転がっていってしまうかもしれない。
元の位置に座らせると、なんとも言えない沈黙が降ってきた。
ソラのすがるような視線が痛い。余計な口を出さないでくれるといいが。
開かれようとしたリクの口が塞がれる。細い指はぴたりとくっついて離れてくれそうにない。
「私はアイスが食べたいな」
途切れていた続きをするみたいに話出す。取り払うことはできないのでリクはされるがままだ。
「甘くてしょっぱいアイス。3人で食べようね」
ゆっくり手が外される。
言うべきことが見つからない。
話を2人で進められたことに怒っているんじゃないんだろうか。頷いてやると機嫌を直してくれたようだ。
すると伸ばされた腕が体に巻き付いてくる。
頬をリクの胸元に寄せると幸せそうな溜息をつき聞き取れない声でなにか言った。
聞き返すそうとしたリクを紺碧の瞳が手招きしている。内緒話をするときの合図だ。
言われるがままに耳を近づける。やさしい手つきでいじられるのは悪くない。
自分達以外誰もいなくて良かったとリクは思っていた。
だから頭の後ろをしっかり押さえられ逃げられなくなったのにも気が付かなかった。
吹きかけられる熱っぽい吐息に首筋が粟立ち、軽く歯を立てられて声が出せない。
弱いところを知られているのをすっかり忘れていた。

低いうめきをソラは確かに聞いた。カイリが内緒話をしただけなのに、彼は絞り出すような声をあげている。
こわごわ状況を見守っていたのが次第に強い好奇心に変わる。
顔が赤いのは窓から差し込む陽光のせいだけじゃなさそうだ。
とみに増した体格差を気にしてか引き剥がせないでいる。
ぴったり体をくっつけているからカイリの顔が見えない。どんな話をしたんだろう。
困りきった表情のリクなんて見たことがない。
待ちきれなくて呼びかけようとしたソラはやっとリクが助けを求めていることに気が付いた。
内緒話はなんなのか聞くどころじゃなさそうだ。
「カイリ、ちょっとたんま」
案外簡単に離れてくれた。
すっぽり胸に収まったささやかな重さにこそばゆい感覚をおぼえる。
リクの荒い呼吸も気になったがいまはカイリだ。体の向きをくるりと変えてソラと向き合う形になってくれる。
よかった、もう怒ってないや。
とても親しい人に向ける眼差しに安心する。
その距離は小指の長さもない。ゆったりと瞳が閉じられる一こまは芸術的だ。
熱い舌が絡まり電車の固い座席に押し付けられる間も心が満たされたときの余韻にソラは酔っていた。
首の後ろがくすぐられて身をよじる。
笑い出したくても溶けて固まった飴みたいにカイリの唇が塞いでいるから肺の中でぐるぐる回るだけだ。

行き場を失った喘ぎが脳の底にたまっていく。浮かび上がろうとしてもがく人のようにソラは腕を伸ばしていた。
今度はリクが助け舟を出してくれた。
やっと息ができるようになって慌てて肺が働き出す。いきなりのことでソラはむせてしまった。
軽く羽交い絞めにされてカイリはむっとしていた。
手足をじたばたさせるのでリクは困ってしまった。
怒り出すのも無理はない。なんでも話し合って決めようと約束したのに、早速反故にしてしまった。
心の底から申し訳なく思う。
「怒らないで聞いてくれ、悪気はなかったんだ」
ぴたりと動きが止まる。
離してやると、物静かな表情のまま黙ってしまった。
先程のおしおきは堪えたがカイリが笑っていないのはもっと嫌だ。ソラは思うままに感情を口に出した。
「ごめん。カイリが疲れてるんじゃないかって」
だからデートも諦める。そう続けようとすると、カイリは静かに首を振り二人の頭を抱え込んだ。
「もう怒ってないよ」
不覚にも顔が赤くなってしまう。
すぐ近くで聞こえる心臓の音は鎮めようとする意思に反してリクの神経を昂ぶらせる。
やさしい声に慰められなければどうにかなってしまいそうだ。
「ほんと?」
おそるおそる顔を上げたソラの鼻の頭にそっと口付けてから微笑む。
ソラは自分が溶けてしまうんじゃないかと思った。
ぽうっとなるソラをくすくすと笑っている。
同じようにリクも見惚れているのに安心した。二人はカイリの笑顔にめっぽう弱いのだ。

 

  • 06.07.17