「どうしよう、リクが」
それから先は聞き取れなかった。
言い終わる前にカイリは駆け出し、杜松の木陰でぼんやりしていたリクの首に飛びついたからだ。
驚いたのは同じだけれど、ソラは口を開けたままカイリの華奢な背中から目が離せず、リクは状況がわからないまま頭を撫でてやるくらいしかできなかった。
それくらいカイリの行動は突拍子がなく、おまけに涙を堪えるために肩が震えている。ただごとではない。
(おまえ、カイリに何を言ったんだ?)
(俺じゃない。リクが悪いんだよ)
かちんと音が聞こえそうな目と目の会話が交わされている間も、カイリはリクの首から離れられない。
首も肩も驚くほどたくましくなったリクが、ふつりとその姿を消してしまうのではないかとおそれていた。
「ねえソラ、どうしよう」
振り返ったカイリに助けを求められ、ソラは困ったように頭をかいた。
説明が苦手なソラにはひどく難しい仕事だ。
何もかもリクが悪いということを、簡単な言葉にするにはどうまとめればいいのだろう。
カイリがこんなに取り乱すのは珍しい。本人だってびっくりしている。
どこまでも晴れ渡った空を行き交う風はしらんぷりで、三人の間をすいすいと通り抜けていくだけだ。
あまりの他人行儀にやつあたりもしたくなる。
「ずるいよ、ずるい」
ふくれて言うカイリにリクはまた驚かされた。泣きそうになったり怒ったりと今日のカイリはおかしい。
「ずるいって、何のことだ? 意味がわからないぞ」
ソラとカイリを出し抜く真似はけして出来ないリクには、責められる理由がわからない。
とにかくなだめようと頑張るが、カイリはますます頬を膨らませるばかりだ。
機嫌を損ねることをした覚えは全くない。
「まいったなあ」
ソラはカイリの気持ちが痛いほどわかる。けれど、リクがわかってくれるだろうか。
恨めしげな視線を二人分向けられてリクは俯くしかなかった。
なんでいつもの待ち合わせがこんな調子になってしまうのだろう。


午後を一緒に過ごす約束をしたことはない。
杜松の木の下でリクがソラとカイリを待ち、ソラとカイリはリクを迎えに行き、その後はどこで遊ぶかを決めて連れ立って帰り道を歩くのだ。
自然と昔から続く決まりごとのように、三人とも日課ができている。
勢いよく飛びついたせいでブラウスに土がついてしまった。
それを落とそうとしてくれるリクの手はやさしい。
一年見なかった間に随分大きくなっていたが、手付きは少しも変わらない。
そんな些細なことにほっとしながらカイリは無性に悔しかった。
取り乱したのが恥ずかしい。
けれど説明しようにも、うまく言葉にできる自信はなかった。
木陰にいるリクの表情は静かで、遠目から見ればまどろんでいるようにも見える。
おしゃべりをしながらやってくる自分とソラを見つけると、顎を少し引いて口の端をうっすらと持ち上げる癖は今も変わっていない。
「ソラならわかるよね?」
三人は杜松の下でちょうど会議をするように顔を向かい合わせにしている。
ソラが頷いてくれたのでひとまず安心した。
この世界が闇に呑まれる前からカイリの胸に沈んでいた不安をわかってくれるのは、どこを探してもソラしかいない。
カイリの不安を気のせいだと励ましてくれるソラでなくては、理解するのはちょっと難しいことだ。
ソラは天を仰ぎながら後ろに手をついている。が、いきなりリクに詰め寄った。
「あのさ、リクにはわかんないかもしれないけど」
そこから先が続かない。
もどかしかった。
せっかくカイリが自分を頼りにしてくれてるのに、こういうときに限って格好悪い姿を晒してしまうなんて。

リクが俯くと、ソラはどうしていいかわからなくなる。
いつだってふてぶてしく構えるリクがそうした仕草をするようになったのは、帰ってきてからだ。
さんざん遠回りをしながら探してやっと会えたリク。それはカイリも同じだ。
二人を探して随分遠回りをしたと教えてもらったとき、ソラはうかつにも涙ぐんでしまった。
探してくれたことが嬉しく、けれど会えなかった分だけカイリが辛い気持ちになったのだと思うと抑えられなかった。
「もう、変わっちゃったんだよな」
しみじみと呟いたソラにつられて、カイリもうなだれる。
他でもないソラの導き出した答えは想像以上に威力が大きい。
サンタクロースがいないと知ったときに似ている。
淋しさが持ってくるきゅうと絞られるような感覚に、カイリは胸を押さえた。
「勝手に話を進めるな」
訳が分からない、とリクは大声でわめきたかった。
詰め寄られた挙句、話が一人歩きしてソラとカイリが落ち込む事態になぜなるのか。
何事も一つ一つ解きほぐしていくリクには全くこの状況が読めなかった。
少なくともカイリを落ち込ませたままにするわけにはいかず、自身が悪いとほとんど認めていた。
カイリに泣かれるのはリクにとって一番痛いところを刺激されるのと同じだった。
「泣かれるのは、辛い」
健気にもリクは頭を下げる。ソラとカイリは顔を見合わせると、リクから少し体を離して囁きあった。
これにはさすがにむっとする。自分だけ置いてけぼりにされるのは我慢ならない。
もちろん二人も悪意を持ってやっているわけではなかった。
リクがずっと昔から一人のけものにされることを嫌がるのはよく知っている。
だが、事情は少し込み入っていた。

「どうしたらいいかなあ」
とソラ。
あくまでものんびりとした調子にカイリは微笑まずにいられない。
ソラが深刻なことに対しても悲壮にならないでいてくれることが、どれだけ励ましになっていることだろう。
「ちょっと、難しいよね」
顔にかかる髪を耳にかけながらカイリは考えた。
うんざりとした表情で溜息をついているリクは一から説明すればきちんとわかってくれる。
その一をどう表現するかが難しいのだ。

カイリをどうしようもなく切なくさせるリクは、大抵何か考え事をしている。
地面に視線を向けているのにちっとも焦点があっていない。
思慮深い性質を頼りに思っていてもその表情は昔のリクと同じではなかった。
遠い場所へ心が離れてしまっている。
離れて過ごしてきたときのことを残さず教え合ったとカイリは思っていた。けれど実際はそうではない。言葉にするのが難しいことは、山ほどある。
たとえば、杜松の木の下にいるリクには考え事をしてほしくない。
いつもの場所で待っているリクは考え事なんてしてはいけないのだ。
ほんの少し眉を寄せ、顔を俯かせるリクは見たくなかった。
それ以上のことはカイリにはわからない。どうしてだろうとあれこれ考えるのに、いまいち理由が掴めなかった。
ソラも同じらしく、腕を組み頭を悩ませている。
多くを経験したリクが作る大人びた愁傷を感じ取るには、ソラは幼く、カイリは受け入れる準備ができていなかった。純粋さは思わぬ弊害をもたらすことがある。
つまり、リクが一人で先を歩くのを拒んでいるのだ。
置いていかないでとすがりつくこともできないし、かといって引き止められない。
まだまだ一緒に歩いてほしいと理屈で説明できない気持ちを、二人はずっと持て余している。
「変わってもいい」
突然ソラが声を上げた。思いついたら口に出さずにいられないソラは、急ぎ足に続ける。
「けど、リクはリクのままだって約束してくれ」
置いてけぼりにされたあげく、無茶な注文を受ければリクだって困ってしまう。
自分は何があろうが自分のままだ。
「なんだよそれ?」
リクは笑った。
いきなり飛びつかれて深刻な雰囲気になっても、結局ソラに笑わされてしまう。
筋の通らないことを平気で言うソラが、嫌いではなかった。むやみやたらと羨ましがる時期はとうに過ぎている。
カイリはうんと頷いた。手っ取り早くわかってもらうのが無理なら、約束してもらえばいい。
「ね、もう考えごとはしないって約束して」
カイリが必死に頼むことを、リクが断れるわけない。
ゆっくりと首を縦に動かしてやると、ソラとカイリは手を取り合って喜んだ。
良かった、良かったと無邪気にはしゃいでいる。
「おまえたちが心配だ」
きょとんとする二人に苦笑する。
カイリにも落ち着きのない部分があることをよく知っているから、リクは自然と役割を悟っていた。
手を引く役目は、自分以外に務まらない。一度手放したはずなのに、すぐに戻ってきてしまう。
「俺がいなかったら、どうなるかわかったもんじゃない」
それを考えるとソラは急にめそめそしたい気分になる。
慌しくしていたせいで、日が暮れかけていた。まだ遊ぶ場所も決めていない。
それもこれも、リクがいかにもな顔で悩むせいだ。
「だってリクが」
はっとカイリは口を押さえたがもう遅い。
ソラは不機嫌にリクをにらみつけ、負けじとリクが見返すものだから、また雰囲気が悪くなってしまった。
話し合いはふりだしだ。
難しいとカイリはつくづく思う。
しばらくは遊ぶよりも、考えたほうがいいかもしれない。
まずは全部を吐き出すことだ。ソラとリクのことは、どんなことでも知っておきたい。
かるく握りこぶしを作って決意を固めると、カイリはにらみ合う二人の間に割って入った。

 

  • 07.03.12