仕上げまであと一歩のイカダのまわりを、カイリはぐるりと周った。
円周の始まりまで戻ってくるのを目で追いかけていたリクはかるく肩をすくめる。
完成までに残ったこの僅かな間を、もう一度噛み締めたいとカイリが再び歩き出したからだ。
ここで放っておいたら何周でもしそうな気配だ。
(目が回っても知らないからな)
止めるべきだとは思わない。まぶしい笑顔に目を細めながら、リクもしばらく余韻に浸ることを選んだ。
試行錯誤を繰り返した船は我ながら良い出来だ。
「カイリ、すっごくうれしそうだな」
「やっぱりわかる?」
頭の後ろで腕を組むソラにいたずらっぽくほほえんだカイリは、ようやく足を止めた。
三人がかりでもまっすぐ立てるのに苦労したマストに手をかけ、その堅いさわり心地を確かめてはしあわせそうに目を細めている。
ソラも習い、切り口が真新しい板の上に寝そべった。
頭の後ろがちょっと痛いことをのぞけば寝心地はおおむね快適だ。
「枕、たくさん用意しないとな」
足元のソラの頭を、こつんとカイリが小突く。
「いてえ」
「私の話、ちゃんと聞いてた?」
「聞いてたって。えーっと、木の実と、卵と、キノコと、それから枕!」
「ほら忘れてる。魚と水を集める担当は誰だったかなあ」
「あ、そっか」
ばつが悪そうに頭をかくソラに背中を向けたカイリはこっそりと笑った。
出発はもうすぐなのに、ソラときたら全然心構えがなっていない。
(だらしないなあ)
カイリの中には相変わらずだらしないソラに、呆れるのとほっとする気持ちが半分ずつある。
凪いだ海風の向こうには深い群青が広がっていた。
泳いでも泳いでも尽きない海が、この小さな島を囲んでいる。
楽園の外に広がる海の終わりなんて、カイリには想像もつかない。
頑丈に丸太同士を縛った縄はなんとも頼もしい。きっとこの船が、自分達を連れて行ってくれるのだ。
「ずいぶんかかったけど、ようやく完成しそうだね。私たちの船」
指折り数えたカイリは改めて驚いた。計画を立ててから季節がひとつ過ぎようとしている。
その仕草をやさしい眼差しで眺めていたリクが不意に、利発そうな瞳を輝かせた。
「あたりまえだろ。俺が真面目に作ってたんだからな」
むっと口を尖らせる。ちょっとはさぼったかもしれないが、頑張ったのは三人とも同じだ。
「じゃあ、リク一人で行っちゃうんだ。ふうん、私たちは置いてけぼりなんだね」
いじわるの仕返しとばかりに胸をそらすカイリに、リクは破顔する。
「ばかだな。それじゃあ船を作った意味がないだろ。それとも置いていかれたいのか?」
「まさか。それに置いてけぼりにしたって、絶対に追いつくからね」
こうやってふてくされたふりをしてみせるのがカイリの癖だった。
むくれるだけでなく、わざと泣き真似をすることもある。リクにはそれがよくわかっていた。
顔を見合わせくすくす笑い合う。出発を思うと、訳も無くくすぐったい気持ちになった。
「あと少しだ。俺達はもうすぐ、外の世界に行ける」
調子を落とした声が耳に染みる。確かめるようにつぶやいたリクをソラは振り仰いだ。
「外の世界ってさ、すっごいものがあるんだよな?」
とてもすごいものと準備するものを一緒に考えていたら、あれこれと思いついて収集がつかなくなってソラの頭はいっぱいになっている。見たこともないものを想像しようとすると、枕の山が浮かんできた。
「さあな。行ってみなきゃわからない」
「カイリの元の世界って、どんなとこだと思う?」
「それもわからない」
「あったかいのかな。あ、それともめちゃくちゃ寒いとか」
「いい加減しつこいぞ」
尽きない質問をリクが手で振り払う真似をすると、ソラは不機嫌に口をへの字に曲げた。
「だから確かめるんだろ。同じ景色しか見えないのは、つまらないからな」
リクが目を向けているのは毎日眺めている水平線だ。ゆるやかな曲線は右を見ても左を向いても続いている。
リクの視線をなぞり、ゆっくりと視線を戻したカイリは、ため息をもらさないよう上を向くと小さくかぶりを振った。

南風にまばたきを一つするとカイリは気持ちが少しさっぱりする。
外の世界もいいけれど、それより船の完成にはもう一つ大事な仕事が残っていた。
「ね、名前考えた? 船の名前!」
とびきり明るい声にソラとリクが振り向く。
にこにこしながらマストの隣に立ち胸を張るカイリの周りを、ソラはきょろきょろ見渡した。
「船って?」
今度はリクにぽかりとやられた。
「いてえ」
イカダとはいえ立派な船だ。ソラのちょっと考え無しなとこに、リクは困ることがある。
カイリが気を悪くしていないことを確認して、やれやれと肩を落とした。
「いいの、いいの。イカダでもちゃんと名前つけるの」
するといきなり、風に大きくふくらんだ帆がカイリの背を押す。バランスをくずして前につんのめってしまった。
「わっ」
「おおっと」
寝転んだままのソラに受けとめられ、カイリは照れくさそうに舌を出す。
「まったく、カイリもだらしないな」
手際よく起こしてくれたリクがからかうので、ぷうっと頬をふくらませてやった。
3人がどたばたしたのに、イカダは平然と帆を揺らしている。
思っていた以上の丈夫さだった。
これなら嵐が来ても耐えられる。船として立派にやっていけると、ほこらしい気持ちになった。
「そういやまだ俺達の船に名前をつけてなかったな」
「ね、いい名前考えて。3人だけでつくった、3人の船なんだから」
カイリにねだられたら断れない。腕を組んで考え出したリクに、ソラも慌てて続く。
しかし、名前と言われてもそう簡単に思いつけない。元々考えるのは苦手な性質だった。
「イカダ…。じゃなくて船の名前かあ」
あぐらをかきながら後頭部をマストにこすりつけても中々思いつかない。
「俺は…。そうだな、ハイウィンドなんてどうだ?」
期待に満ちていたカイリの瞳がますますかがやいた。
「うん、カッコイイじゃない!」
手を叩いて喜ぶカイリに片手で応えていると、ちらちらとこちらを窺い見ていたソラと目が合う。
焦りが見えるソラに、リクはわざといじのわるい視線を返した。
「ソラならどんな名前をつける?」
思わぬ風向きに焦りが募る。カイリに期待の眼差しを向けられているのに、下手は打てない。
「俺? 俺はええと…」
(カッコイイ名前、カッコイイ名前)
心の中で繰り返し唱えていると、この間読み聞かせてもらった物語がぼんやりと浮かんできた。
真面目に聞いていたリクと違いソラは夢うつつだったから、後でカイリに叱られてしまったのだ。
「エクスカリバー!」
二振りの剣の響きはしっかりと覚えていた。
どうだ、こんなにカッコイイ名前はないぞ。とソラは得意げだ。
「いかにもソラがつけそうな名前ね。ま、いいか!」
カイリにはいまいちらしい。がっくり頭を下げたソラにリクは笑い声を上げた。
「よーし、それじゃ…いつものな!」
すぐに気を取り直すとソラは勢いよく立ち上がり島の奥に見える愉快な形の木を指差した。
案が分かれたとき、ソラとリクはいつものあれで決着をつける。
「やるか?」
自信と余裕があるようで、リクは軽く顎を持ち上げた。
「またやるの? じゃあ、私が審判してあげる」
船の余った材料の棒を拾うとカイリは身軽くイカダから離れた。
引退間際の橋のたもとまで走っていき、手前にソラとリクが両腕を広げた分の線をきっちりと引く。
それが終わるのを待ちながら、ソラは体をほぐし万全の準備を整えた。
「俺が勝ったら、船長な!」
カイリのほうをじっと眺めるリクの横顔にきっぱりと宣言する。
船の名前を決めるのなら、こっちも決めておかなければならない。
「おまえが勝ったら」
「カイリとパオプの実、食べる」
強く吹いた南風のせいで、聞き間違えたのだろうか。
「はあ?」
「いいだろ? 勝った方がカイリとパオプの実を食べさせあうんだ」
ソラの驚いた顔を写真にとっておきたかった。と、後にリクは楽しそうに語った。
突然の提案にうろたえたソラが魚のように口をパクパクさせている姿がとてもおかしかったからだ。
「な、何言って…」
真剣勝負なのに頭がついていかない。かっと頬が熱くなる。
カイリとパオプの実。これらが結びつけるものは、ソラの好奇心にはちょっと容量が大きすぎた。
「いい? 位置について!」
大きく息を吸い込んだカイリが腕を上げる。リクはとっくに前を見据えていた。
「よーい、ドン!」
ソラとリクは同時に走り出した。

「なあリク」
「なんだよ」
ムキになって走り通したソラは膝をつき、なぜか本気を出してしまったリクは手近にあった木に片手を預けている。二人とも息が荒い。
「こういう場合はどうするんだよ」
ソラの機嫌はすこぶる悪い。それもそうだ。突拍子も無い提案にお互いに後に引けなくなった揚句
「考えてるわけないだろ」
結果は不本意ながら引き分けだなんて。
リクも不機嫌を隠さなかった。
言い出した手前格好がつかないのだろう。勝った負けたの単純な結果ではないから余計に性質が悪い。
「こまったな。船の名前、どうしよう」
と、ちっとも困った風でもなくカイリが勝敗を書き付けている。
引き分けの綴りが書き込まれるのをソラとリクは複雑な思いで見守った。
勝敗表になんとも情けない結果を刻んでしまったものだ。少年達の心は砂を飲んだようにずしりと重たい。
とりあえず、楽しみにしていた完成はもうちょっと先になるらしい。
背中で腕を組み名前の無いままのいかだを振り向き、カイリは小さな肩を軽くすくめた。
「ま、いいか。じゃあ、みんなで仕上げちゃおう」
ぽかんとソラが口を開ける。イカダは完成したのではなかったろうか。
「だってあとは名前だけだろ? エクスカリバー号かハインド号か」
「ハイウィンドだ」
ぴしりとリクが訂正する。容赦の無い応酬にふくれっ面を見せるソラに苛々もどこかへいってしまったのかいつもの意地の悪い笑顔を浮かべていた。
「あの時のお前の顔。面白かったぜ。どうだ、ソラ、まだやるか?」
そう仕掛けておきながら勝負するつもりなんてないのだろう。視線はソラではなく別のほうを向いている。
「やめとく」
ソラもまた違うものを目で追っていた。

小走りで、先に立って歩き出したカイリの背中を追いかける。
追いついたリクが右隣で歩調を合わせながら尋ねた。
「食料を集めるんだろ。他に足りないものなんてあったか?」
入江から浜辺へ続く戸をくぐるとカイリが足を止める。
「もう。リクまで忘れちゃったの?」
いたずらっぽくほほえみかけられ、リクは珍しく頬を染めた。
まずいことに残っているということを覚えていない。
「ふーん。だらしないんだなあ」
左隣を歩いていたソラがここぞとばかりに言い返す。カイリが真ん中にいなければリクは手が出ていた。

「海の向こうへいくの、少し怖かったけど、今はワクワクしてるんだ」
南風と波がしんと声をひそめる。あるいは、そう感じただけなのだろうか。
少し低めの声が静かに語るのに、ソラとリクも自然と耳を傾ける。
「どこへ行っても、何を見ても…私、かならずここに帰ってこれる」
真面目にソラとリクが顔を覗き込むからカイリは照れくさかった。
「でしょ?」
「まかせとけよ」
どんと胸を叩いて請け負うソラに目を細める。
ソラのこういうところが、どうしようもなくカイリをしあわせにするのだ。
「だから、二人とも迷子にならないでよね」
「えー?」
「なんだよそれ」
ソラとリクが同時に不平の声をあげるのでカイリはおかしくてたまらなかった。
こういうときばかり息が合うと教えたら、もっとふくれることだろう。
「だいじょうぶ、いいもの作ってるから。ほら、見て」
ごそごそとポケットを探り作りかけのお守りをとりだす。
「もし旅の途中で誰かが迷子になっても、必ず同じ場所に戻れるようにね」
まるで自分達が迷子になることを前提とされているようで、ソラはちょっと面白くない。
「そんなの、なくったって平気だって」
「はいはい」
てんで信用されていない。不満げに口を尖らせると、カイリが面白そうに笑った。
「ほらほら、仕上げ仕上げ。ソラも手伝って」
「手伝うって、なにを?」
「リクはもう手伝ってくれてるよ?」
いつのまにか傍を離れていたリクが、波打ち際をきょろきょろしている。
カイリの手元と見比べてやっと気がついた。大慌てで自分も探し始める。
なんといっても、リクにばかり良い恰好はさせたくない。
これまで引き分けにされてたまるかと、ソラは俄然張り切った。

言い合っている声を聞きながら、作りかけのお守りをてのひらで包むと、ざらざらした感触がくすぐったい。
旅の無事を祈り、願いを込めるのだ。
「それから、3人がいつまでもいっしょにいられるように」

 

  • 07.12.31