うとうとして、そのまま寝入ってしまったらしい。
深い深い夢から静かに戻った意識の外で、カイリは海風を聴いた。
頭上高くのからりとした太陽がくれる日差しは、ココヤムの葉が具合良く遮ってくれている。
風はおだやかで、肌をそっと撫でては、やさしげにささやいてくれるようだ。
寝転んだままで体を伸ばし力を抜くと、抗いがたい眠気がカイリを再び包み込む。
風通しのよい部屋で一枚のタオルケットを分け合っていた頃と同じで、快く、少しくすぐったい。
(もうちょっとだけならいいよね)
だってこんなに気持ちいいんだから、もったいない。
ソラは今頃、食料集めに奔走しているだろう。
一人だけさぼってずるいぞと悔しがるソラを思うと、カイリの心は軽く弾んだ。
ソラだって昨日はさぼったんだから、こうしていても怒れない。
怒るに怒れないソラを想像すると、おかしくてしかたなかった。
唇がしあわせそうにほほえみ、こらえきれなかった笑い声がもれる。
しかし、その笑い声を聞きつけてほしい人物は傍にいないようだ。
耳に馴染んだ小島のおしゃべりの中に、気配はない。
(せっかく良い場所を見つけたんだけどなあ)
お昼寝に絶好の場所なのに、ソラもリクも傍にいない。
身勝手ながら、カイリはちょっとふくれた。明日は出発だというのに、息が合っていないではないか。
船を操るには協力し合うことが第一だ。
風を読み、帆を確かめ、舵を取る。
どれも3人がぴったり息を合わせなければ上手くいかない。
こんなことでは、船はあっという間に迷子になってしまう。
溜息をついたカイリは木の香りが強く残った板に頬を寄せた。
風が気持ちよかった。木陰にしては、ずいぶん薄暗いが。
(え?)
出立に備え、後は押し出すだけにしておいた船がいつの間に木陰にしまわれたのだろう。
がばりと身を起こすと白いものが視界を覆った。
「わっ」
顔にはりついてきたものを慌てて剥がすと、布の切れ端だった。
昨日カイリが帆に針を通す際切り落とした部分が、どうしてこんないたずらをするのだろう。
よく見れば、イカダは完成したままの位置にあった。
お腹の上にあったはずの作りかけのお守りが、体の横に置いてある。サラサ貝と結び合わせる紐がきちんとまとめてあった。
起こした上半身に日差しがちりちりとあたる。
いたずらを仕掛けたと勘違いされかけた布の切れ端は、親切にも寝心地を保障してくれていたようだ。
帆を揚げるマストとイカダの端をぴんと張り詰めた紐が結んでいる。カイリはそれを指でつつきながら、手の中にある布と見比べた。
誰かがカイリの為に、日を除けられるようにしてくれていた。
勝手に顔がにやけてしまう。ちょっと変な自分に誰も声をかけてくれなくても、怒りたいとは思わない。
だってこんな顔は誰にも、特にソラとリクには絶対に見られたくなかった。
ぺちんと自分の頬をたたくと、表情を引き締める。まだ緩んでいたが、カイリにはそれ以上直しようがなかった。
お守りをポケットにしまいながら立ち上がる。眠気の覚める太陽の明るさに目を細め、白い砂を早足で行く。
海の向こうから吹く風は、雲も空高くへ押し上げている。見慣れたいつもの景色だった。
あの雲の向こうはいくら目を凝らしても見えない。だからこそ、いくら見ていても飽きないという。
橋の壊れたところを身軽く飛び越えたカイリはにこにこしながら、今も海を眺めているだろうリクを、どうやって驚かそうかとばかり考えていた。

慎重に、息を殺して。
そろそろと背中に近づきながら、カイリはふきだしそうになる自分と戦っていた。
リクはまだこちらに気付いていない。ずっと遠くの海の向こうを見ている。
この調子でいけば、背中を押してやることはそう難しくない。うまくいけば、リクは海へ飛び込むことになる。
手がすぐ届くとこまで来るとカイリは一旦立ち止まった。
息を止め、重心を前に倒し、突き出した両手でリクの背中を押しやる。
はずだった。
「わっ」
押しやるはずの背中がひょいと身をかわす。
今日二度目の驚きの声をあげ、カイリの体が前につんのめった。勢いがついたせいで踏みとどまることができない。
そのまま段差を超えてしまい、目の前に海が迫る。衝撃に備えてカイリはとっさに目を瞑った。
水に落ちるよりもやわらかい衝撃がカイリの体を捕まえる。
「変だな。さぼってたんじゃないのか?」
リクが腰に手を当ててちょっといじわるに笑って、呆れてみせる。
「んー、そろそろ休憩もおしまいにしようかな」
落ちかけたところを助けられ、脇に抱えられたまま、カイリはとぼけてみせた。
いたずらしようとした割に、悪びれたところはない。
やれやれと苦笑したリクは抱えていたカイリの体をそっと離すと、木のあとがついた頬を指で触れた。
「じゃあ俺も休憩は終わりにするか。誰かさんと違って、さぼったりしないからな」
「まだ準備も終わってないのに、さぼるなんて困っちゃうよね」
動かぬ証拠を示しても、カイリがうんうんと真面目に頷くものだから笑うしかない。
ちょっと肩をすくめ、リクは明るく笑い声をあげる。カイリも一緒になってくすくす笑った。
「あのね、よく眠れたよ。リクのおかげだね」
にこにこしながらありがとうと言うと、リクはそっぽを向いてしまう。
「丁度良かったから試しただけだ。あれなら水も節約できそうだな」
涼しく過ごせれば喉が渇くことも少なくなる。これから海原へ漕ぎ出そうとする者として当然の心構えだ。
と大人びた横顔が淡々とカイリに語る。
冒険に旅立とうとするリクは、好奇心とともに分別も持ち合わせていた。ソラが浮き足立つ分、自分がしっかりする必要があると考えているらしい。
けれど、カイリには全部お見通しだ。
(照れることないのに)
何でも軽くこなせるからだろうか。リクは褒められるとやたらに照れる。
内心くすぐったくて仕方ないのに、当たり前だという顔で隠してしまう。
いつしかリクはどんなことも涼しい顔で受け止めるようになっていた。
だからこんな風に照れる姿を見られると、得した気分になる。
もっとよく見ようと体を傾けて覗き込もうとすると、リクはもう表情を戻して、いつもの涼しい顔になっている。
形のいい眉が、どうしたんだ? とカイリに向けて持ち上げられている。
(かなわないなあ)
カイリはうれしいと思ったらにこにこしてしまうし、面白くなかったらすぐふくれてしまう。
気持ちの整理が人一倍上手なリクを驚かしたり照れさせるのは、やっぱり難しいと降参することにした。
「ね、何見てたの?」
後手を組んだカイリが尋ねる。
島の子供達にとって、海は空気と同じだ。顔を上げればいつでも目に入る。
鼓膜に心地よい潮騒に耳を傾けていると、気付かぬうちにたまる心の澱みもいつの間にか洗い流されていた。
くよくよ溜め込まない性質を育てる手助けをしてくれていると知っているのは、大人になったことを知る大人達だ。
けれどリクはずっと、遠くを見ていた。
海へと注がれている視線が、実は違うところを見ているのをカイリは悟っている。
「さあ、何だろうな」
曖昧に濁すと、リクは俯いた。カイリが落ちかけた段差の向こうでは水が楽しげに遊んでいる。
なんだか他人行儀に聞こえて、カイリは意識してその音を遮った。
「俺にもよくわからない。同じ景色には飽き飽きしてるのに、最近は気が付いたらこうしているんだ。
 だから俺は、待っているのかもしれない。わかるか?」
リクがカイリを振り返る。カイリにはよくわからない。
「待ってるって、なにを?」
「風だ」
完成したばかりの船のほうへ目をやってから、風に押しやられている雲を指差す。
「カイリは俺達のところへ来た。だから今度は俺達が行く番だ。その為には、風がいる」
カイリ達から見てやや右に流れている。不思議そうに首を傾げると、リクは教えてくれた。
「明日は追い風になる」
リクほど風を読むのが上手い人を、カイリは知らない。
だからリクが言うなら、良い風が自分達の船を運んでくれる。
出発にこれほど相応しい風はないと、リクは無邪気に喜んでいた。
カイリもうれしかった。昔から、ソラとリクがうれしいと、カイリは人一倍うれしい気持ちになる。
「それではリク船長、目的地はどちらに?」
かしこまって敬礼すると、リクは軽く顎を引いて背筋を伸ばした。
「この海の果て、まだ見ぬ世界へ向けて」
良く通る声が出立を告げる。広大な海も、今なら簡単に超えられそうだ。
見上げるほどたくましく成長したリクを、カイリは頼もしく感じる気持ちで一杯だった。
「ははー、どこまでもお供させていただきます」
大げさに頭を下げる。ここまではいつも繰り返してきた、楽しいおふざけだった。

「そういやまだ聞いてなかったな」
にくたらしいくらい落ち着いた調子でリクが水を差すので、カイリはむっと頬を膨らませた。
折角面白くなってきたところだったのに。
「カイリはどうするんだ? まさか、俺達にも内緒にしたままのつもりか?」
ぎくりとする。幸い、リクは遠くを眺めたままだったので見咎められることはなかった。
「ん…」
言葉を濁し爪先で砂をいじる。
ソラは外の世界を自分の目で見ること、リクは外の世界で確かめたいことがあるという。
漠然としたものだが、二人にはきちんと目的があった。
もちろんカイリにだって無いわけじゃない。ただ、上手く言い表す言葉が見つからなかった。
焦っているのかもしれない。
「リクは、海の向こうってどんなものがあると思う?」
質問に答えず聞き返しても、リクは気を悪くしたようではなかった。
「さあな。結局は見るまでわからない」
「そっか」
静かに頷きながらも、カイリはどこか物足りない。
リクの言うことは正しかった。足で地面を踏んで空気を味わうまで、海の向こうを実感できることはない。
カイリが知っているのは、この島の景色だけだった。見慣れた色以外の海があるなんて、想像もつかない。
(でも、違うかもしれない)
もしも昔いた場所に行けたなら、ソラとリクとは違う風に感じることになる。
カイリはそれが、ほんの少しだけ怖かった。
些細なことなのに、どうしてこんなに胸にひっかかるのだろう。
黙ってしまったカイリに目をやりながら、リクが唐突に言い出す。
「二目と見れない化物を知ってるか? 洞窟に何十年も住んでいて、髭は伸ばし放題。
 おまけにそいつ、ものすごく臭いんだ。鼻がいらなくなるくらいに」
カイリは紺碧の瞳をぱちぱちさせた。
「なーに、それ」
「近くの人達も困ってる。これじゃあ息も出来ない、ってな」
「そうじゃなくて」
いきなり何を言い出すのだろうともどかしそうにするカイリに、リクはいじわるく笑う。
「でも実は気の弱い巨人で、人見知りなだけなんだ。そこで俺達は言ってやる」
目がカイリを促していた。明るい日差しの下で、子供っぽさを残した瞳が笑っている。
あっと気付いて、カイリは唇を湿らせた。
「お風呂に入ったらさっぱりするよ。って?」
そう、とリクは楽しそうに相槌を打った。
「きれいになって巨人は大喜び。お礼にと取り出してきたのは」
「抱えきれないほどの宝石かもね。ぴかぴかに光ってて、まぶしいくらいの。
 ソラなら泳ごうとして飛び込んじゃうかも」
「ばかだな。そんなに沢山あったら船に積みきれないだろ」
「あ、そっか」
うっかりしてたと舌を出すカイリの額を、リクはこぶしでちょんとこづいた。
「あくまでも想像だけどな」
うん、とカイリは素直に頷く。
想像だけなのに、もう冒険した気分になっていた。頬が火照って熱い。
さっきまで不安に似た気持ちが居座っていたのに、明日を楽しみにする気持ちに取って代っていた。
リクの言うことはいつも正しい。冷静で、誇張がなく、ごてごてに飾り立てたりはしない。
けれどこういう砂糖をまぶした夢のような話をしてくれるリクもいる。
ふわりとくすぐったいものがカイリを包んだ。日除けの役をしてくれた布に包まれているみたいだ。
「それで、ここに帰ってくるんだよね」
確かめるように呟いたカイリにリクがふきだす。
「気が早いな。まだ行ってもいないだろ」
リクはまた遠くを見ている。
外の世界へ思いを馳せる瞳は大人びていて、なんだか手が届きそうにない。
時折見せるリクのこの瞳は、まるで知らなかった。
常に前を見据えている瞳がカイリを心細くさせる。
(何が見えるの?)
視線を追っても、大きな雲を肩に背負った見慣れた景色しかない。
その向こうを、リクは見ている気がしてならなかった。
「でも、」
言いかけたカイリは、海から飛び出してきた大きなものに驚かされた。
「わっ」
よろめきそうになったカイリの腕をリクが支えてくれる。
今日は何度びっくりしているだろう。腰に両手を沿え、顔を出したソラを見下ろす。
「もう、おどかさないでよね」
髪の先まで濡れたソラが、手に活きのいい魚を捕まえている。
「ごめんごめん。でもほらこれ、でっかいだろ!」
得意げに掲げると魚が飛ばした水がかかる。元気に尾びれをじたばたさせる魚は、確かに大きかった。
「ほんとだ、これならじゅうぶんだね。おつかれさま、ソラ」
褒められてうれしかったのか、ソラが頭の後ろをかく。
当然隙を見逃すわけなく、活きのいい魚は渾身の力を込めてソラの手から逃れた。
「あっ!」
慌ててソラが水の中に戻っていく。
「このバカ、何やってるんだ!」
叱りながらリクも海へと飛び込む。
「逃がしちゃだめだよ!」 
水の中に潜っていったソラとリクはまだあがってこない。一分ほど待ったろうか。
カイリが何十分も待ったように感じていると、沖のほうで二人が同時に顔を出した。
どうやら、きちんと捕まえられたらしい。
ソラの失敗をしかりつけているリクの様子がおかしかった。
ほっとして笑顔になったカイリに向かってソラが大きく手を振り、リクが軽く手を上げている。
(でも、必ず一緒に帰ってこれる)
リクの言うとおり、まだ行ってもいない。何を心配していたのだろうとカイリは不思議だった。
ポケットにしまったお守りにそっと触れると、より安堵が広がる。
ソラとリクがいれば、ソラとリクさえいれば。
「一緒に行こうね」
まだ見ぬ世界を、ソラとリクと一緒に見る。
こんなにもはっきりとした目的が、カイリにはあった。

 

  • 08.04.30