地下から大きな岩の溝に湧く水を勢いよく喉に流し込んだソラは、大きく息をついた。
 冷たい水は、動きっぱなしだった体をほどよく冷ましてくれる。
 ついでにとばかりに、ソラは大岩の間から流れ落ちる水に頭をつっこんだ。
 隣でてのひらに水をすくっていたリクが、形の良い眉をひそめる。
 同じく小さなてのひらで水をすくって飲んでいたカイリが、顔を上げた。
「そろそろ帰ろっか。もうすぐ日も暮れるしね」
 ゆるやかな海風は遊ぶように、カイリの前髪をふわりと浮かばせた。
 うすい紺色が空の端から広がりつつある。もう片端は、太陽と海が肩を寄せ合うように、ゆるゆると溶けあっていた。
 この世界で暮らす子供たちには、ごく当たり前の景色だった。それでも、三人とも目を細め、同じ方向に視線を向けていた。
 幼い頃は、こんなふうに暮れる時分になると、遊べる時間が終わってしまうと切なくてたまらなかったが、ソラとリクとカイリは、もうそう思うほど幼くはなかった。
 淡々しい光は、それぞれの心にすうっとしみこみ、束の間の物思いの時間を作る。
(明日こそリクに勝つぞ。今日だって、あと少しだったんだからな)
 木剣で打たれた肩のじんとした痛みに、ソラのお腹には勝手に力が入った。
 負けたくない、という純粋な少年らしい思いが、胸の中に生まれている。
 幼い頃からいっしょに育ってきたリクに、いつの頃からか張り合う気持ちが生まれていた。いつも一歩先を行くリクに、少しでも追いつきたい。単純明快な思いは、木剣を使った勝負という単純な遊びをうながし、少年達を夢中にさせていた。
「あの向こうには、何があるんだろうな」
 一足先に一五歳の誕生日を迎えたリクが、物思いを続けるようにつぶやいた。
「え?」
 ぼんやりとしていたカイリに、リクは詳しく説明する。
「ここには俺達の島がある。それであっちには、カイリのいた街があるかもしれない。少なくとも、別の世界があるんだ。見えないから、どんなところか気になって仕方なくなる。けど見えないから、結局わからない。いつもこの繰り返しだな、と思ってさ」
 すずしげなままの目元に、夕陽の色がさしこんでいる。
 ソラは、胸の底がむずがゆくなったように感じた。リクの言っていることと比べると、勝負にこだわっている自分は、ひどく子供っぽい気がする。
「じゃあ、直接見てみればいいんじゃないか?」
 ソラが早口に言うと、リクはうれしそうに唇の両端を持ち上げた。
「ああ、俺もそう考えてたところだ」
 利発さをそなえた瞳が、はるか遠い場所を見つめる。
「何があるかを確かめに行くんだ、俺達で。誰も、父さん達も知らないこの海の向こうを」
 ソラは無意識に、カイリをちらりとうかがった。
 カイリは、島で生まれた子供ではない。夜空を数え切れないほどの星が流れた夜、たった一人だけで、この島に流れついたのだ。それまでいた場所のことを、幼いカイリは、ほとんど覚えていなかった。
 幼い頃からはきはきとしゃべるカイリと、ソラとリクはすぐにうちとけた。以来三人は、いつもいっしょに過ごしている。
 ソラもときどき、カイリが別の街からやってきたことを忘れていることがあった。いっしょに過ごしてきた時間のほうが、ずっと長いからだ。
 カイリは、胸元のペンダントにそっと指先でふれた。
「海の向こう、か」
 この島では採れない石は、別の世界のものであるという、唯一の証だった。
 ペンダントは、美しい乳白色の側面をカイリに見せるだけだった。
 かわいらしい唇が、ほうっと小さく息をつく。
「どんなとこなんだろうね。たしかに気になるなあ」
「だろ?」
 同意を得られて、リクの表情がますますうれしそうになる。
「別に禁止されてるわけじゃない。なら確かめたっていいはずだ」
「でも、どうやってだよ? 泳いでいくのか?」
「だめだめ、それじゃ着く前にくたびれちゃうよ」
「だよなあ」
 子供たちは沖まで泳いでいくこともあったが、広がる水平線以外に、小さな物影ひとつ見えたことがなかった。なにより、沖へ行くほど潮の流れは早く、泳ぎが得意でもかなり体力を使う。上手いやり方とはいえない。
 黙って考え込んだリクが、静かな声で言った。
「まずは、船を作る」
「船?」
「俺達の使ってる小舟じゃ小さすぎて、波が高くなったときに危険だからな。もっと大きくて重さのある船がいい。積み込まなきゃいけない荷物もあるしな」
「なにを?」
「決まってるだろ、旅に必要なものだ。まずは……食料だな。それから野宿もあるだろうから、その準備もいる」
 旅と聞いたソラの瞳が、無邪気にかがやいた。なんて面白そうな響きだろう。
「なんか、冒険みたいだな」
「みたいじゃない、本当の冒険だ。俺達三人は、外の世界で本当の冒険をするんだ」
 きっちりと訂正しないでいられないリクがおかしくて、カイリはくすくすと笑った。
 近頃急に大人びたリクの、昔から変わらないところを見つけられたのが、うれしいのだろう。
「ね、どんな船を作ろっか?」
 尋ねられて、リクも少し機嫌をなおしたらしい。
 頷くと、手近にあった棒を拾い、砂の上に簡単な図面を描いていく。ソラとカイリも、それを真剣な表情でのぞき込んだ。
「俺達が三人、積み込む荷物も三人分。なら最低限これくらいの大きさは必要だろうな。帆を張るマストもいる。これはこの間よさそうなのを見つけたから使えばいい。あとは……」
 リクは、ずっと以前から頭の中であたためていた計画を話した。
 イカダを作り、海原へこぎだし、誰も知らない大陸を見つけ、自分達の足で乗り込む。
 そう想像した三人は、日が暮れていくのも忘れて夢中になった。海風が急かすように周りをすりぬけるが、当人たちはちっとも気付いていない。
「じゃあ丸太とロープと、大きい布もたくさんいるね。分担すれば早く集まるよ。そういえば物置にも道具があったよね、じゃあそれも使わせてもらうとして……」
 次々と計画が決まっていくにつれ、ソラはだんだんじっとしていられなくなった。
 それは、紛れもない冒険の予感だった。
 海の果てを見に行く。
 ごっこ遊びではない、本物の冒険が、間近にある。すぐにでも旅立ちたいと、足の裏がうずうずしてたまらなかった。
 近くにあるだけでは、ソラは到底満足できない。もっと幼い頃からも、そうだった。
「なあ、今から作らないか? 俺、明日まで待ってられないって」
「バカだな、こんなに暗いのに作れるわけ」
 え? と子供たちは同時に顔を見合わせて、同時に顔を上げた。
 とっぷりと日は暮れて、一番星が藍色の空にきらめいている。太陽は完全に姿を隠して、濃い赤の光をわずかに残しているのみだった。帰らなければいけない時間は、とっくに過ぎている。
 子供たちを叱るように、ココヤムの葉がざわざわと揺れていた。
 しまった、とリクが苦い顔をする。イカダの設計図を、急いで靴の底でなぞった。
「消しちゃっていいのか?」
「消すから砂に書いたんだ。後に残るものだとばれたときが面倒だからな」
 なるほど、とソラは大いに納得する。この計画が、おしゃべりセルフィにばれたら、あっという間に島中に広まってしまう。そうなれば、大人達に止められるのは目に見えていた。せっかくの冒険なのに、そんな無粋な話があってはたまらない。
 ソラは、おおげさに頷いてみせる。リクも、唇の端を持ち上げて頷き返した。
 慌ただしく桟橋に向かおうとすると、なぜか、カイリがついてこない。
「どうした?」
 ソラとリクはすぐに立ち止まり、振り返る。
 カイリは上を向き、硬い表情をしている。きゅっと結ばれた唇は、楽しそうに話してくれるいつもの様子とは違った。
(カイリ?)
 ソラは、胸にいきなり冷たい風が吹きぬけたように感じた。紺碧の瞳が、何を見ているのか、わからなかったからだ。カイリは、夜空に何を見ているのだろう。
 ソラも急いで上を向いてみるが、ひときわ明るい一番星と、薄い雲がきれぎれに広がっているだけだった。
「ほら行くぞ、これ以上帰りが遅くなったら外出禁止にされるからな」
 リクがかるく腕を引っ張ると、カイリは、はっとしたように二人に視線を向けた。それもすぐに引っ込み、いつもの、いたずらっぽい笑顔に戻る。
「そうそう、急いで帰らなきゃ。明日から準備で忙しくなるしね」
 そう言うと、立ち止まっていたのも忘れたように、カイリはすたすたと歩き出した。
 リクが、呆れたように肩をすくめる。
「なんだよそれ、ぼうっとしてたのはカイリだろ」
 おかしくてしょうがないという風に笑うリクに、ソラの気持ちはすぐに落ち着いた。
 今の変な感覚も、気のせいにしか思えなくなっている。
「おなかが空いてて、それでぼうっとしてたんだろ」
「それはお前だろ。まあ、間違ってないだろうけどな」
「なんだよ、リクだって同じじゃないのか?」
 互いにふざけた調子で空腹の具合をからかいあっていると、本当にお腹が空いてきてしまった。
 お腹をおさえたソラの耳に、かわいい声が届く。
「二人とも、おそいぞー」
 先に行ったカイリが、二人が来るのを待ちくたびれたように、桟橋で手招きをしていた。
 ソラとリクは、走って桟橋に向かう。
 二人は知らなかったし、気付くこともなかった。
 一番星が消えた夜空に、新しい一番星が現れ、ゆっくりときらめいていたことを。



 別れというのは、いくら経験を積んでも辛い。
 涙もろいソラは、つくづく痛感していた。
「デイジー達にもよろしくな」
 泣きべそをかく手前のソラを見て、ドナルドまで涙ぐみそうになっている。
「ソラ達も元気で。それから、僕達がいないからって無茶はだめだからね」
「俺、もともと無茶なんかしてないぞ」
「そうだよ、僕らが心配しなくても、リクとカイリがいるから大丈夫だよ」
「もう、なんだよグーフィーまで」
 何かしゃべっていないと泣けてしまいそうで、ソラはなるべく口を動かしていた。
 世界をおびやかす存在は、退けることができた。
 世界も、人々も、なんの不安もなく、明日を迎えられる。キーブレードの使い手としての役目を立派に果たし、ソラは今、故郷に戻ってきた。それは同時に、長かった旅の終わりを意味していた。
 こみ上げてくる切なさに、ソラはすっかりまいっていた。悲しみとは違う、胸の奥がすかすかになってしまう感覚は苦いばかりで、気を緩めると涙腺を刺激し、ソラを泣かせようとする。
 ソラは奥歯を噛みしめると、ごまかすように目元をこすった。
 気持ちがふらふらとして定まってくれないのには、ちゃんと理由がある。
 ソラは何度も何度も、島に……この小さな島に帰りたいと、望んできた。
 なつかしい塩辛い海水が口の中に入ってきたとき、ソラはたとえようもなくほっとしたのだ。一度は遠のいた場所が、間近にあると感じられ、直接少年に教えてくれた。故郷というのは、いつでも自分を迎えてくれる、特別な場所なのだと。
 あわい色に染まった海水をかいて水面に浮かび上がったとき、ソラの目はすぐに見つけた。浜辺で一人しょんぼりと俯いていたカイリは、ソラとリクが名を呼ぶと、宝ものを見つけたかのように、ほほえんだのだ。
(俺達は、帰ってきたんだ)
 切なさとは別の、すごくうれしいと思う感情は、しっかりとソラの胸に根を下ろしている。
 カイリの小さな背中を見下ろすと、ほっと心が満たされ、ソラはようやく落ち着くことができた。
(だって、会えなくなるわけじゃないんだ)
 別れは、辛いばかりではないと、旅の途中に学んだことをソラは思い出していた。ドナルド達とだって、また会える。
 なぜなら、一度ははなればなれになった自分達が、こうしてまた会えたのだ。
 それを教えてくれたカイリは、さきほどからプルートをぎゅっと抱きしめて、ぽろぽろと涙をこぼしている。
「私達のこと、忘れちゃ、やだよ、絶対だからね」
 しゃくりあげるカイリに、プルートはくうんと困ったように鳴いている。
(泣いてる場合じゃないぞ)
 自分が泣くより先に、カイリをなぐさめてやらねばならない。
 ソラは、そっとカイリの肩に手を添えた。
「もし会えなくなったとしても、なにもかも忘れるわけじゃないさ」
 眉をきりっとさせたソラに、カイリは涙にうるんだ目をぱちくりさせた。
「だろ?」
 ソラが元気づけるように笑顔を浮かべると、カイリも、ゆっくりと頷いた。
「そっか、そうだね、忘れたりするはずないもんね」
 笑顔を取り戻したカイリの頬に、プルートが頭をすりよせる。言葉は通じなくとも、ソラはプルートが何を言っているのかわかった。
(そうそう。笑ってくれたほうが、うれしいよな)
 元気になったカイリは、グーフィーにも抱きついた。
「きっと僕ら、またすぐ会えるよ」
「うん、うん、わかってる。きっと、すぐだよね」
「そうだよ、あっという間さ。もしかしたら、明日にも会えるかもしれないよ」
「んー、それはうれしいけど、ちょっと早すぎるかも」
 ぽんぽんと背中をたたいてもらい、カイリは小さな子供のように笑った。次に、膝をついてドナルドにも抱きつく。ドナルドはくすぐったそうに身をよじった。
「ええと、その、これでお別れじゃないよ、僕の恋人もまだ紹介してないしね」
「私とリクが会いたがってるって、伝えてくれる?」
「もちろん。デイジーも君達に会いたがるよ」
「じゃ、約束だよ。ほら、前に言ってたよね、世界一のお茶の時間なんだって。私達を誘ってくれるの、すっごく待ってるからね」
「そうさ、デイジーの選ぶ紅茶は世界一おいしいんだ」
「ずるいなあ。それを聞いちゃったら、待ちきれなくなっちゃうよ」
 更に力強く、カイリはドナルドを抱きしめた。ドナルドの手はよしよしと、カイリの頭をやさしくなでている。
 なんとも泣かせてくれる場面に、ソラの胸は熱くなった。
 ふと、カイリが肩越しに、意味ありげな視線をソラによこした。紺碧の瞳が、いたずらっぽくほほえんでいる。カイリは内緒話の割にははっきりとした声で、ドナルドに尋ねた。
「それで、さっきのソラの台詞、誰から借りたの?」
「やっぱりわかった? あれはね、レオンのだよ。ソラには似合わないよねえ」
「だと思った。ソラにしては、かっこよすぎるもんね」
 ソラは、すぐに声を出せなかった。
「あ、あのなあ!」
 かっかするソラを、カイリ達が明るく笑う。
 日暮れの湿っぽい空気は、いつの間にか、からりとしていた。
 しばらくして、グミシップと連絡を取りに行ったリクと王様が、戻ってきた。
 二人は、いろいろと話したのだろう。リクの目元が、めずらしく赤くなっている。ソラとカイリは、それに気付いても、からかったりはしなかった。にこにこしているソラとカイリに、リクは照れくさそうな笑顔を返した。
 世界にむやみに干渉しないようにと、グミシップは普段目に見えないようになっている。科学の粋を集めた技術だとシドに説明されたが、ソラはいまいちよくわかっていない。
 ともかく、イカダよりもすごい船なのだ、と思っていた。
 本来なら、星の海を行き、世界を渡り歩ける船は作り出せない。世界を覆っていた壁の欠片の使い道を知っているのも、ほんの一握りの人達だけだった。
 はるか昔、小さな光によって再生された世界は、頑なに壁を作ることで、世界同士が交わらないようにした。世界を覆う壁は、星を見上げる人々を、世界の中だけにとどめたのだ。おそらく、深い闇に呑まれた歴史を、繰り返さない為なのだろう。
 だが、キーブレードが例外的に道を繋げることもある。必要とされる時がくれば、自らの力を使わせ、鍵を開かせるのだ。
 王様がキーブレードをかかげると、ひとすじの光が雲の合間に吸い込まれる。
 船はどこからやってくるんだろうと、カイリはきょろきょろした。
 と、浜辺の白い砂が、真上から吹き飛ばされるように丸く広がっていく。ソラとリクは、カイリの前に立つと、体で砂と風をさえぎった。
 しゅうっと音がすると、星を渡る船が形を現す。初めて実物を見たリクの瞳に、おさえきれない好奇心の色が浮かんだ。
 操縦席から、小さなメカニック、チップとデールが、転がるように飛び出してくる。
「王様ー!」「ほんとに王様だー!」
 王様がどんなに慕われているかを、ソラ達は改めて知った。
 小さな二人に勢いよく飛びつかれた王様を見て、ソラはふっと、別れは単純なものではないことに気付いた。
(俺達にとってはお別れかもしれなくても、また会える人もいるんだ)
 ソラの脳裏に、やさしくも凛とした王妃様の姿が浮かぶ。さみしさは微塵も見せずに、常に王様を想っている、とてもやさしい人だった。王が戻るまで城を守ってみせると、あの小さな背中に覚悟を背負っていたのが、昨日のことのように思い出せる。
 王妃様とカイリが重なって、ソラはたまらない気持ちになったこともある。
 だがそれも、今日で終わりだ。
 王妃様やデイジーの、帰りを待っている人達のよろこぶ姿を想像するだけで、むくむくとうれしさがこみ上げてくる。
(よかった―)
 ほっとしたところで、また涙腺が緩んでしまう。涙を見せるはかっこわるくて、ソラはとっさに、両隣にいるリクとカイリの手を握りしめた。リクは少し怪訝そうに、カイリは少しびっくりしていたが、ソラが鼻をすすると、何も言わずに強く握り返してくれた。
 帰れることをよろこびあう王様達が、ソラ達を振り返る。
 三人は、さっと姿勢を正すと、明るい笑顔になった。
「ソラ、リク、カイリ。君達のおかげで世界を守ることができた。ほんとうにありがとう」
 ソラはでれでれになって、頭をかいた。
「いいっていいって、俺達、あたりまえのことをやっただけなんだからさ」
 リクが肩をすくめて、丁寧に言い直した。
「王様がそう言ってくれるのはありがたいけど、俺はただ……」
 物言いたげなカイリの視線がじっと向けられているのに気づき、リクは言い方を変えた。
「俺達はただ、自分がしたいようにしただけだ。結果的には世界を守ったのかもしれない。けど、最初から立派な志があったわけじゃなかった。だからそんなに改まらないでほしいんだ。それに、調子に乗るやつもいるからな」
「誰のことだよそれ」
 ぷんぷんと腹を立てるソラと、いたってすずしげな表情のリクに、王様はにこにこしている。
 満足そうにほほえんだカイリが、リクの言葉を続けた。
「私達こそお礼を言いたいくらいです。だって王様達がいなかったら、何も知らないままだった。帰ってこれたのも、王様達がいたからだよ。ほんとうにありがとう、王様、ドナルド、グーフィー、ジミニーさん」
 視線を下げたカイリは、にっこりと笑いかけた。
「それから、プルートもね」
 頭をなでられ、プルートはちぎれんばかりにしっぽを振っている。
「それでも、ありがとうは言わせてほしいな。君達がいなければ、運命は動かなかった。世界はもっと大変なことになっていたかもしれない」
(え、そうなのか?)
 と、ソラは目でリクとカイリに尋ねた。わからない、と二人とも小さく首を振る。
 全てが終わった今となっては、悪い結果を想像しようとしても、子供たちにとっては難しいことだった。
「これは僕の個人的な考えだけど、想い合う心こそが、どんな運命も変えてしまう力になると思うんだ」
「なるほどなあ」
 ソラ一人だけが、うんうんと頷いている。
「わかるよ、王様。俺もそう思う」
 リクはソラだけが王様の話を理解していることにひどく不機嫌そうだったが、王様はそこで運命の話を打ち切ってしまった。ソラ達には、運命を与える存在を知らないままでいてほしかったのかもしれない。
 それぞれ固い握手をかわすと、いよいよお別れだ。
 高く上がっていくグミシップに、ソラ達は手を振り続けた。あちらも、ずっと手を振ってくれている。ココヤムの木ほどの高さになると、グミシップは、空気に溶け込むように消えてしまった。機械独特の音も、しだいに波に紛れ、聞こえなくなった。後に残ったのは、なつかしい海風の鳴る音だけだった。
 ふうっと、苦しそうに息を吐き出すのが聞こえる。
「また会えるさ」
 涙ぐんだカイリを見ないまま、リクが静かにつぶやいた。



 見送ってしまうと、ソラの中で、無性に切ない気持ちが生まれてきた。
(終わったんだな)
 リクとカイリの手を握っていた両方のてのひらは、ぽかぽかとあたたかい。
 なのに、心の奥には、大きな穴が、ぽっかりと開いているような気がする。
 王様達が行ってしまった方、途中からグミシップが透明になってしまったので確かな方向はわからないが、一番星がきらめくたそがれた空を、ソラは見上げた。
(これでほんとうに、おしまいなんだな)
 心の中で自分に言い聞かせるようにつぶやくが、ソラの素直な気持ちは、実にはっきりと反発していた。頭を振って無理矢理追い払おうとするが、しつこくこびりついて、なかなか離れてくれない。
「あんな船もあるんだな」
 ん? とカイリが目元をぬぐいながらリクを見上げる。
「お前の言った通りだったよ、ソラ。たしかにすごい船だな。海の果てだけじゃなく、星の果てまで行けそうだ。あんな形も初めて見た。風が無くても進めるのも不思議だ。それにあれだけ重そうなくせに、どうやって浮かんでるんだろうな」
 リクの疑問は尽きない。まったく見たことがないものへの新しい驚きは、成長した体をぐるぐるとめぐっている。リクが持つ知りたいという欲求は、この一年でますます磨かれていた。重責がなくなった途端、さっそくリクをそそのかし始める好奇心に、自分のことながら呆れてしまう。好奇心が、別れを惜しむ気持ちも、さっさと追い出そうとしているからだ。
 カイリは、ふっとほほえんだ。
「つまり、乗ってみたかったんだ?」
 少し赤くなったリクは、うん、と正直に首を縦に振った。
「けど、王様達を引き止めるわけにはいかないからな」
 がまんしていたが、やっぱり気になって仕方ない。ついぼやいてしまうリクの背を、カイリは励ますように、ぽんぽんとたたいた。
「だいじょうぶ。だっていつでも会える、でしょ? ちゃんとお願いすれば、王様達、きっと乗せてくれるよ。そうそう、あの船ね、すっごく早くて楽しいんだ。走っても追いつけないくらいでね、流れ星みたいなんだよ」
 なんだ、そういうことか。と、リクはおかしそうに笑った。
「つまり、カイリも乗りたかったんだな」
「あ、バレたか。そ、私もまた乗ってみたいんだ」
 ごまかすように、カイリは笑う。
 笑い合っていると、別れに伴う痛みは、するすると消えていった。
 というよりも、一時の寂しさが、体の内側をちくちくと刺してくるだけなのだ。
 なにより、三人で故郷に戻れたよろこびは、どんなものより代え難い。
 もうそれぞれに、きちんと向き合っての別れを、受けとめつつある。子供たちは、悲しみに浸るばかりではない、柔軟な心を持っていた。
(ま、いっか)
 カイリの変わらない笑顔は、ソラの胸にぽっかりと空いた穴に、じんわり染みる。
 物足りなく感じるもどかしさより、ソラはうれしいと思う気持ちを優先した。
「さ、うちに帰ろう」
 いつものとおり先に立って桟橋へと歩き出したカイリの後に、二人は続いた。
 日が暮れてきたから、帰る。
 まったくいつもと同じで、何も変わっていない。様々なことを考えているリクに比べれば、自分はやっぱり子供っぽい気がする。でも、気分は清々しく晴れやかだった。
(これが俺達だもんな)
 いつになく大人びた風に受け取っている自分に、ソラはちょっと驚いた。
 案外自分も、子供っぽさは卒業しているのではないか?
 そのとき、カイリがくるりと二人を振り返った。背中で腕を組み、まぶしそうに目を細めている。
「どうした?」
 うん、とカイリはくすぐったそうにほほえんだ。伸びた髪が、風にさらりと流れる。
「ソラとリクが、ちゃんといるなあって」
 しあわせそうに言うと、また前を向き、カイリは歩き出した。
 二人は、火照った頬を冷ますために、少しの間立ち止まらなければいけなかった。



 ひょいと乗り込んでから小舟をこぎ出し、小島までの短い距離をさっさと進む。腕を伸ばし、小舟と桟橋を支える杭とを縄で結ぶ手つきはいかにも慣れていて、迷いがない。子供たちを遊び場へと運ぶ小舟が、主人を運び終えて木の体をきしませた。
 少し喉が渇いていたので、ソラは水が湧き出す岩のとこまで行った。身軽く段差を超えて、身長の何倍もある大岩の前に立つと、流れ出る水にてのひらを差し入れた。澄んだ水の冷たさを、肌はしっかり覚えている。
 水を飲み終え一息ついたソラを、きついほどに晴れた天気が見下ろしていた。寄せる波は残響のようにつづき、はるか遠い水平線へとかえっては、また小島へと寄ってくる。海からふく風は潮のにおいをまとっているが、かぎなれているので、普段はあまり意識しない。
 ふいに、ソラはあることを思い出した。
 カイリがこの島へきたばかりの頃、やたらと変な顔をするので、ソラとリクは不思議がったことがある。どうしたのだと尋ねると、
「このにおいはなあに?」
 幼いカイリは、紺碧の瞳をくりくりさせ、ソラ達に尋ね返したのだ。
 自分達にとってあたりまえのことを説明するのは、とても骨が折れた。
「おれたちがうまれる前からこうなんだ。どうしてかは、海がうまれたころを知ってるやつじゃないと、わからない」
 幼いリクは、自分でもこの曖昧な説明が相当気にくわなかったらしく、むっつりと眉を寄せていた。幼いリクの不機嫌そうな声、あれこれ知りたがる幼いカイリの瞳を、ソラは鮮明に思い出すことが出来た。そういう話をしたのは、この小さな滝の前だった。
 なつかしさに、ソラの顔はひとりでににやけてしまう。お腹のまんなかあたりも、なんだかこそばゆい。
(俺達の場所は、やっぱりここなんだな)

 ―他に世界があるのなら、どうして俺たちは、ここでなくちゃダメだったんだろう?

 ゆっくりと、問いかけるようにつぶやかれたリクの言葉が、以前のソラはわからなかった。
 もし答えがあるとすれば、今胸に浮かんでいることが、そうだろう。
(舟をこぐのだって、縄を結ぶのだって、あたりまえにできるだろ? そりゃ、わかんないこともあるけどさ、別にいいんだ。えーと、ほら、最初からそうだっていう、運命、みたいなものなんだろ。たぶん、な)
 旅は、ソラに多くのものを与え、教えてくれた。辛いこと、悲しいこと、おもしろいこと、思いがけないおどろき……。
 その中でもソラが特に大切に思い浮かべるのは、やっぱりリクとカイリだった。
 二人とこの小さな島は、常に自分の根っこにあって、それを、ソラは意識せずに大事にしていた。
 戦ったり、気持ちを奮い立たせなくてはいけないとき、根っこはいつも自分を助けてくれる。そうわかったことが、ソラにはとてもいいことに思えた。
(……もっといろいろ、見てみたいって気はするけどさ)
 やりきれない切なさが、またわいてくる。
 目の前にある滝のように澄んでいるなら、ソラも気にしなかっただろう。
 だが、嵐の後の海みたいに濁っているのだ。旅はおしまいだと納得しようとすると、わざとはぐらかすように、胸の内にしみ出してくる。
 世界の秩序は、けして乱してはいけない。理屈でなく、体でソラは理解していた。
 世界には、いろんな人がいる。一風変わった人達もいれば、自分達とそれほど変わらない人達もいる。共通しているのは、それぞれの世界に染まって生きている、ということだ。
 海に暮らすものは海に、砂漠では砂漠に適応し、暮らしている。
 それを乱す権利は、誰にもない。
 おそろしい魔力を持った魔女達や、XIII機関と呼ばれる組織は、人々の普通の暮らしへ、無造作に介入した。
 親しくなった人達が苦しめられているのを、見過ごせるはずがない。だからこそソラ達は、厳しい戦いに身を投じてきた。
 そして、もはや脅威はない。外の世界を旅する為の理由は、無くなってしまった。
 助けたかったというのは本当だ。旅立つ前に持っていた、外の世界を見たいという思いは、親友達を探すのに必死で、ソラ自身がすっかり忘れていたくらいだった。
 でも、いざ旅の終わりを突きつけられると、ソラは泣き出したい気分になってしまう。
 異なる世界に干渉してはいけないとわかっている。けれど、まだまだ旅を続けたい……。
(まいったなあ)
 せっかく帰ってこれたのに、これはうまくない。
 頭を冷やそうと、流れ落ちる水に頭をつっこんだ。ざぶざぶと水をかぶっているうちに、旅を続けたがる気持ちを、さっぱりと忘れてしまいたかった。
(……ん?)
 髪から水をしたたらせながら、ソラは顔を上げた。
 ぴゅい、と口笛のような短い音が、再び聞こえた。
(え、なんだよ?)
 ソラはリクが自分を呼んだのかと思ったが、あたりを見回しても、誰もいない。
 いぶかりながら、ソラの耳は音が聞こえた方角を探している。旅で鍛え上げられた感覚は、音がどうやら樹の根本からきているらしいとソラに教えた。
 視線を向けたほうに、ソラの心に空いた穴のような、秘密の場所へ続く入り口が、ぽっかりと開いている。
 木の根に覆われたこの入り口を、最初に見つけたのは幼いソラだった。
 大きなうなり声みたいな音が聞こえたときは、すごい怪物がいるに違いないと思った。すぐさまリクを呼びに行き、生け捕りにしてやろうと、わくわくしながら進んでいった。
 そして判明したのは、怪物のうなり声の正体は洞窟をふきぬける風で、棲処だと思われたのは小さな洞窟だったということだ。
 幼いソラとリクは、ひどくがっかりさせられた。
 中に入るまでの、木の根を払っていく作業だけが冒険なんて、物足りない。大きな困難がどこまでも続き、ひとつひとつ自分達の力で乗り越えていくことこそ、本当の冒険だ。
 子供たちに初めて冒険を意識させた秘密の場所は、それからソラ達の場所になっている。 ……そこから呼ぶような音が聞こえたのは、どういうわけだろう?
 ソラは警戒せずに、入り口へ近づいていった。かがんでのぞき込むが、相変わらず薄暗くて様子がわからない。
 洞窟の中を吹きぬける風が、入り口から絶え間なく吹き出してきている。ひんやりとした風に、音は混じっていない。
「ソラ?」
 遅れて小島にやってきたカイリが、ソラを見つけた。いっしょにきたリクも、うずくまっているように見えるソラに気付いた。
「あいつなにやってるんだ?」
 さあ、とカイリは首を傾げる。
 近寄ってくる近しい気配にソラは、手を上げた。髪がびしょぬれのまま、ソラは二人に聞こえた音について説明した。
「さっきさ、音が聞こえたんだ。たぶん、ここから」
「音? どうせ、風の音だろ」
 と、リクは取り合わない。ソラは、へたくそな口笛をふいてみせた。
「違うって。こんなんで、なんか呼んでるみたいだったんだよ」
「ほんと? じゃあ、中に誰かいるのかな」
「それはないな。俺達以外の舟は無かっただろ」
 じゃあ一体なんだろう。
 顔を突き合わせて話し込もうとした三人の耳に、ぴゅいい、と長い音が聞こえた。
 高い口笛はこもるように響き、すぐ近く、入り口の奥から聞こえている。
 リクの吹く口笛ととてもよく似ているので、ソラとカイリの視線は、自然とリクに集まった。もちろんリクは、自分じゃないと首を振った。
 三人とも、何も言わなかった。
 ここで正体を議論している場合ではないと、同じ考えでいるのがソラにはわかる。
 瞳をかがやかせたソラは、リクの瞳が楽しそうにゆれ、カイリの瞳がきらめくのを見た。



「……狭いな」
 岩の壁にこすった肩先を手ではらいながら、リクがつぶやく。
「そう? なんにも変わってないはずなんだけどね」
 ぶつけてしまわないよう慎重に頭を低くしているカイリが、からかうように答えた。
 先に洞窟のひらけたところに出たリクは、カイリに手を差し出しながら肩をすくめる。
「仕方ないだろ」
 誰しも成長しないままではいられない。ただ、こんなに狭かったのかとリクはかるい驚きを覚えていた。一年前にも小さな洞窟だったのが、ますます小さく狭く感じている。
 さっと洞窟内を見回して、それから岩陰ものぞき込んだソラは、首を傾げた。
「誰もいない、よな」
 口笛は、はっきりとこの秘密の場所から聞こえた。
 それがどういうわけか、人っ子一人いない。
 やたらに狭くなった洞窟の中に、隠れる場所はあまりなかった。太陽の光が差し込む頭上にもよく目をこらしたソラは、もう一度首を傾げた。
「これってどういうことだ?」
 リクが眉をひそめる。
「簡単にわかったら苦労はしない」
「だよなあ」
「まあ、悪ふざけにしては手が込んでるほうだろうな」
 三人まとめて幻聴を聞いた、とは考えにくい。腕を組んだソラは、先程聞いた音をよく思い出してみた。
(やっぱり、俺達を呼んでたんだよな。……ここじゃなかったのか? でも、聞こえたのは、間違いなくここだったよなあ)
 いくら考えてもわからない。ソラはとりあえず、あれこれ考えるのを中断した。リクがじっと考え込んでいるみたいだったので、任せようと思ったのだ。物事を的確にまとめるのは、幼い頃からリクの仕事だった。
「あ、もしかしてこれじゃない?」
 下半分が地面に埋まっている岩を、カイリが笑いながら指さした。岩に描かれた幼いころの落書きは、しかつめ顔をしているようだった。
「なあ、そうなのか?」
 くだけた口調で尋ねてみるが、落書きは当然なにも答えない。くすくす笑っているカイリに、ソラもほほえんだ。
「なつかしいなあ。いっぱい落書きしたよね」
「だな。あ、これカイリが描いたやつじゃないか?」
 古い落書きをてのひらでなぞっていくと、あたたかみを帯びた思い出が呼び起こされていく。
 幼い頃の自分達が描いた、無邪気な想像達。あの頃のわくわくする感じは、そのまま胸に残っている。ソラの中に居座る切なさが、ますます耐えきれないものになっていった。
 まずいまずい、とソラは頭を振ってふりきろうとした。
「外の世界って、どんなとこかなって考えると、どきどきしたなあ。ね、ソラは?」
「うん、まあ」
 ちょっとぎくりとしながら頷くソラに、カイリは打ち明け話をするように声をひそめた。「ほんとはね、今もそうなんだ」
 え? ソラは目を丸くした。カイリはちらっといたずらっぽい視線を向けると、落書きだらけの岩壁を、いとおしそうに眺めるのに戻った。
 そのしあわせそうな横顔をじっと見ていると、ソラはなんだか恥ずかしくなってきた。心臓がどきどきして、痛いくらいだ。
(カイリも、俺と同じなのか?)
 冒険を望む気持ちが同じならいいなと、ソラは思った。
 秩序を乱すつもりは、これっぽっちもない。ただおもしろいものを見たいだけだ。
 自分達が夢見ていた冒険は、けして悪気がないのだから……。そう考えてしまうのは、傲慢なのだろうか。
 洞窟の奥には、扉がある。
 あの扉を開けてやろうと隙間に棒っきれを差し込んだことを思い出して、ソラの顔がくしゃりとなる。
 どうしても開かなくて、幼いソラは地団駄を踏んだものだ。
 遊び心で中を見てやろうとして、ずいぶん無茶をした後、子供たちはようやく、ひどいことをしているのに気付いた。扉が鍵をかけているのは、何かを守ろうとしているのだとわかったからだ。あのときのばつの悪さときたら、両親に叱られたのと同じくらいだった。
 扉が守っているものがなにか、今のソラにはわかる。世界の中心、この世界の心を、大切にしまっているのだ。
 胸に手を当てたソラは、ちょっと想像してみた。
(俺だったら腹が立つよなあ。頼んでもないのに勝手なことすんな、ってかんじだ)
 と、鍵穴を縁取る金色が、きらりと光ったようだった。
 あれ、と思ったソラはよく確かめようと扉に近づいた。太陽が反射したにしては、光かたが少し妙だったのだ。
 鍵穴を囲む金色の細工は、長い間洞窟の中にあるはずなのに、くすんでもいない。
 ソラは、何の気なしにそれに触ってみた。
 用心は、まったくしていなかった。幼い頃から過ごしてきた場所で、警戒心を持つほうが難しかったのだ。
「さっきの、なんだったのかな」
「さあな。結局、何にも無いんだよ、こんなところには」
「ふうん。ちょっと、残念かな。せっかくおもしろそうだったのに」
「なあソラ、お前俺達をだまそうと」
 振り返ったリクとカイリは、飛び上がるほど驚いた。
 ソラが、扉に、すうっと吸い込まれるように、消えてしまったからだ。叫ぶ声は聞こえなかった。
「ソラ!!」
 リクもカイリも、考える間もなかった。二人はすぐさま走り寄り、ソラが吸い込まれた扉に、ほとんどぶつかるように触れてしまった。
 扉は受けとめた勢いそのままに、音もなくリクとカイリも吸い込んだ。
 先に扉に触れたソラは、眠るように意識を失っていた。何が起こったかも、リクとカイリが色を失って追いかけたことも、知らなかった。
 ただ、ぴゅいい、と呼びよせる口笛だけが聞こえていた。   
 何事もなかったかのように、洞窟内に静寂が戻る。そこに子供たちがいたなど、誰もわからないだろう。



 よく響く靴音と、夜のにおい。
 まどろみの中にふわふわと浮かんでいたカイリは、外からの気配を感じ取った。
 扉に吸い込まれてしまった後、自分達はどうなったのだろう。また、どれほど経ったのだろう。確かめなければいけないことは、いくつもある。
 けれどカイリは、自分でも意外なほど落ち着いていた。すぐそばに、慣れ親しんだ気配があったからだ。眠っているカイリを気遣うようにささやかれる会話は、よく聞き取れなかったが、間違いなくソラとリクの声だった。
 とりあえず、二人がいるなら何とかなるだろう。
(けど、びっくりしたなあ。やっぱり普通の扉じゃなかったんだね)
 思えばあの扉の前では、ほんとうに様々なことが起こる。
 思い起こしながら、カイリはけだるい手足に力を入れた。ぼやけた視界がはっきりしてくると、自分が石畳に横たわっていたのがわかった。月があるのか、辺りはそれほど暗くない。横になっていたカイリの頭のところには、なぜか枕が置いてあった。糊のきいた枕カバーは真っ白だ。
 堅い石畳に寝ていたのに、頭が痛くなかったのはこのおかげかと、カイリは納得した。
 でも、なんで枕があるのだろう?
「ソラ? リク?」
 先に目に飛び込んできたのは、しっとりした街並みだった。
 右手側には誇らしげに自慢の品をかざるブティック、左手側には人待ちげにしているホテル。石畳の舗装は見事で、ちょっと歩くだけでも中々のものだ。一段が低く作られた階段の下は広場になっていて、建物から見下ろせる構造になっていた。規則正しく石畳を照らす街灯は、夜を彩るように明るい。
 二番街を見通せる場所に、カイリはいた。背後には、大きな観音開きの扉がある。
 カイリは目をぱちぱちさせながら、腰の高さほどの壁の向こうをのぞきこんだ。すぐ下には、地下から水をくみ上げる構造の噴水があり、新鮮な真水のにおいが鼻までとどいた。 トラヴァースタウンは、一年前と少しも変わっていない。
(ねぼけてる……わけない、よね)
 意識は、はっきりとしている。少し前の出来事も、ちゃんと思い出せる。記憶が抜け落ちていないことを確かめたカイリは、ひとまず二人を探そうと歩き出した。
 ほおが勝手に、ぷうっとふくれてしまう。さっきまでいたのに、二人ともどこへ行ってしまったのだろう。
(置いてくなんてひどいなあ、待っててくれてもいいじゃない)
 一人きりで置いていかれた気がして、カイリはおもしろくなかった。
 建物の中をのぞきこみ、広場にいるのではないかと見下ろし、からくり屋敷の前から身を乗り出して路地裏も確かめた。
 街はひっそりとしていて、人の気配がない。街灯が明るいだけに、それが不自然なのだが、カイリはソラとリクを探すことで頭がいっぱいだった。早く、二人を追いかけなければいけない。
 カイリは思いきって、からくり屋敷の屋根に上がってみることにした。二番街は建物に隠れた死角が多く、高い場所から探した方が早いと思ったのだ。
 誰も見ていないのを確かめてから、足場になりそうなところに手足をかけて、身軽くのぼっていく。屋根の上にでると、夜の風がカイリの体をあおった。バランスを崩さないよう気を付けながら、屋根をつたっていく。慣れたもので、小島で遊んできたカイリは、こわがることなく進んでいった。
「おーい!」
 途中、大きな声で呼びかけると、口笛での返事があった。はっとして下を見ると、足早な人影が、三番街へ続く角を曲がっていくところだった。ちらりと見えたあの髪の色は、リクに間違いない。
「待って、待ってってば!」   
 降りるための足場を探すより、カイリは手っ取り早い方法を選んだ。少し後ろに下がって勢いを付けると、そのまま路地へと飛び降りたのだ。



(どういうことだ)
 意識を取り戻したリクは、すぐさま周りの状況を確かめた。そしてわかったのは、自分が紛れもなくトラヴァースタウンに放り出されているということだった。
 街灯もネオンも消えた三番街は、やけに薄暗い。幸い月があったので、目が慣れれば不便はなかった。
 釈然としない思いがリクの中にある。突然この場にいたこともあるが、気持ちばかり前に言っていた未熟な自分が思い浮かぶこともあるのだろう。暗さもあいまって、長くいたい場所ではない。
(誰かが俺達をはめようとしているのか?)
 残念ながら、自分達をはめようとする人物に、リクは心当たりがあった。漆黒の衣をまとった魔女は、自分を良くは思っていないだろう。
(……いや、こんな面倒なやり方はしないはずだ)
 敵方ながら、マレフィセントは誇り高い魔女だ。
 それに彼女が仕掛けた罠にしては、あまりにも手ぬるい。リクの体は怪我どころか、異常もみられなかった。今も五体満足で立っている。
 が、自分が一人きりなのが、どうにも気にかかった。
(ソラとカイリは―)
自分の考えは間違いで、捕らえられた可能性もある。力なく横たわったカイリの姿が脳裏をよぎり、リクは思わずぞっとした。もう二度と、あんな目にあわせたくない。
 とにかくこの街に二人がいるかを確かめようとしたリクは、背後に現れた気配に、振り向きざまに剣を向けた。
 鋭さをひめた瞳が、あっけにとられる。
「お前、いつからそこにいたんだ」
 二番街に続く階段をのぼったところで、ソラがリクを見下ろしている。上半身だけ乗りだし、組んだ腕にあごをのせて、やけににこにこしていた。笑っている顔はあまりにも無邪気で、子供っぽい。
 心配していたのに呑気な、と一瞬腹を立てたが、リクは先に確かめることにした。
「カイリはどこだ? 一緒じゃないのか?」
 ふと、以前同じように尋ねたのを思い出した。
 あの頃と違い、自分達の立ち位置はもろい。なぜこの街にいるかもわからない、迷子と同じだった。
 だからといって、不安がるリクではない。やらなければいけないことを的確に見定め、行動していける。物事を一歩置いた場所から見る冷静さも、身につけていた。
 置かれた状況も確かめなければいけないが、何よりも大切な二人を気にかけたままでは、自分は落ち着いていられないと、リクはよくわかっている。
 ソラは、にこにこしたままだった。リクの声はよく通るので、聞こえていないはずがない。
「わからないのか? なら早く探して」
 リクが言い終わらないうちに、ソラはくるりと背を向けた。特徴的な後ろ頭は、視界からすぐに消えてしまう。
 背中を、嫌な感じがかけのぼった。
(……どういうことだ)
 この嫌な感覚がなにかは、とっさにわからなかった。今のは確かにソラだったし、見間違えるはずもない。だが、はっきりとしない違和感があった。第一、あの態度はどういうつもりだ。
 口元を引き締めたリクは、後を追いかけた。石畳の階段をすばやく駆け上がると、二番街へ通じる扉がきちんと閉じられていないのを確かめる。先程のソラはやはり、こちらに行ったのだ。
  周囲に敵意を持った気配がないかを探ってから、リクは二番街の路地へと向かった。



 かさこそと、軽いものを差し入れるような音が、耳元で聞こえた。
 中途半端に目ざめたソラは、自分がどうして眠っていたのかも、なぜこんな場所にいるのかも、よく思い出せなかった。
 あたりは、ぼんやりと明るい。島で、夜に灯す明かりと似ていた。
 おしりの下は堅くて冷たく、目の前には大小の石で組まれた壁がある。
(……夢か)
 以前にも、こんなふうに目ざめたことがある。島が闇にのまれ、ソラ自身も外へと放り出され、見知らぬ街にたどりついたあの日。あまりによく似ているので、ぼうっとしているソラは、夢だと思った。また寝入ろうと目をつむる。
「いってえ」
 いきなりぽかりと頭を叩かれ、ソラは声をあげた。
 乱暴な起こし方にようやく目が覚め、夢ではないこともはっきりする。
「なにするんだよ、カイ」
 カイリも、誰もいなかった。急いで見渡しても、どこかに隠れた形跡すらない。
(変だな、ちゃんとカイリだったのに)
 そばにいた気配は、たしかにカイリだった。どうしてわかるかは説明できないが、ソラの感覚は近しい存在を間違えたりしない。それに自分をこんなふうに起こすのは、カイリ以外に考えられなかった。
(今のも夢だったのか?)
 叩かれたところはまだちょっとだけ痛い。
 けれど、頭をさするソラの疑問に答えてくれそうなものは、なにもなかった。
 じっとしていても仕方ないので、ソラは路地裏から出ることにした。
 一年前と変わらない街が、そこにはあった。
 生まれて初めて見た外の世界ということもあり、トラヴァースタウンはソラの記憶に深く残っている。くすぐったいような懐かしさと、なぜまたここにいるだろうという疑問が、同時にわき起こる。うーんと腕を組んで考え出したソラは、大変なことを思い出した。
「リク! カイリ!」
 二人は、どこにいるのだろう。
 洞窟の中で扉に触れた瞬間に、指の先からはじまり全身の感覚が失われ、自分は気を失ったのだ。そこから先は、思い出せない。
(とにかく探さないと)
 この街ならよく知っている。先にいちばん近い三番街から回ろうとソラは勢いよく走り出す。大きな扉を押し開こうとして、ソラは意外なものを見つけた。
「あれ、なんだこれ? 『こっちはハズレ、正解は二番街』?」
ちょうどソラの目線の位置に、白いチョークで文字が書いてある。かわいらしい文字の最後には、案内するように二番街方面を指した矢印まであった。
 そちらに視線を移したソラは、狐につままれたような顔になった。
 文字を読み直し、もう一度声にも出してみて、夢でないことを確かめる。
 ソラは、二番街へと足を向けた。
 行動を読んでいる文字に対して、ソラだってほんのちょっとは怪しむ気持ちはある。
 それでも従ったのは、それがとても見慣れた、カイリの字だったからだ。



 ソラは慎重に二人の姿を探しているうちに、街が無人であることを知った。ひっそりとしていて、静かすぎる。街灯が時折立てるじじっという音が、変に大きく聞こえていた。
(まいったな、また離ればなれになっちゃったのか?)
 自分がそう思ったことに、ソラは俄然腹が立った。
(また、なんて、絶対にあってたまるかよ!)
 こわい顔のまま、二番街を走り抜けていく。その視線はしっかりと、動くものがあれば必ず見つけられるよう、周囲に配られていた。
 しかし走っていると、どうしても気配を読み取るのがおろそかになってしまう。
 勢いをそのままに角を曲がろうとしたところで、ソラは目の前にさっと飛び出してきた人影にぶつかりそうになった。あわてて重心を後ろにし、立ち止まる。
「リク!?」
 険しい表情をしたリクは、こちらを凝視している。片腕は、すぐ剣を呼び出せるように構えられ、穏やかとは言い難い。ソラが本物であるかを見極めようというのか、触れれば切れてしまいそうな瞳をしていた。
 ともかく、とソラは胸をなで下ろす。
「どこにいたんだよ、探したんだぞ? ま、見つかったからいいけどさ。で、カイリは?」
(またなんて、そうそうあるはずないよな)
 リクはリクで、相変わらず呑気なソラをいぶかしげに眺めている。
「さっきのは冗談にするつもりか?」
「へ、さっきって?」
「とぼけるなよ、だらしない顔でにやにやしてたのを忘れたとは言わせないぜ」
「はあ?」
 リクが、本気で怒っている。
 あまりの珍しさに、ソラは一方的な台詞を怒るのも忘れてしまった。
 リクの場合、怒っているときと、普段の態度はそれほど変わらない。違うのは、少し細められた目に、強い色が浮かぶことだった。
 怒っているとまわりがなにも見えなくなる、と幼いリクが分別ぶった顔でつぶやいたのを、ソラははっきりと思い出せた。取っ組み合ってあざまで作った理由は、覚えていなかったが。
「おーい!」
 頭上から聞こえてきた声に、二人は同じタイミングで、はじかれたように視線を上げた。
 真上にある建物のてっぺんに、月明かりを背にした小さな人影が見える。後ろに下がった人影は、勢いをつけてこちらへ飛び降りてきた。
 ソラとリクは考えるまでもなく、両腕と体でカイリを受けとめようとした。
「うわっ」「ぐっ」「きゃっ」 
 三人は折り重なりながら、どさどさっと石畳の上に転がった。
 つらそうにうめいているが、幸い怪我はないようだ。
 先にカイリが頭を振りながら体を起こし、下敷きになったのでより衝撃が大きかったソラとリクを認めると、うれしそうな声をあげた。
「あ、いたいた。二人ともどこにいたの? さっきから探してたんだからね」
 頭をくらくらさせながら、ソラはしみじみ思った。
(なんか、ずっと探してばっかだなあ)
 一年と少し前から、こんな調子で、互いを探してばかりいる。
 あてもなく探す間、ソラの心の底にはいつも不安がひそみ、気持ちをはやらせた。
それも、カイリの明るい声を聞いていると、さほど気にならなくなるから不思議だ。お互いの居場所さえわかっていれば、不安になることは、けしてないのだ。
 石畳にぶつけた腰をさすりながら、ソラはカイリに笑いかけた。
 上半身を起こしながら額を押さえていたリクは、元気なカイリを見てほっとしたようだ。その瞳に、怒りの色は浮かんでいなかった。



 どういう仕組みか、噴水は地下から絶え間なく水をくみ上げ、また地下水路へと戻していく。循環を繰り返す水音は、よく耳をこらさなければ、聞こえないほど小さい。
 美しい蝶達が描かれたフレスコ画を備えた噴水は、縁に腰掛けた子供たちの議論に、文字通り水を差すような真似はしなかった。
「ちがうって、カイリが俺を起こしたんだろ。伝言まで書いてあったじゃないか」
「そっちがちがうよ。二人がいなくなっちゃって、そしたらリクが行っちゃうのが見えたんだから」
「行動と言ってることの辻褄が合わないぞ。ソラ、お前は三番街にいただろ。それにカイリ、俺はここに向かっていたんだ」
 合流した三人は、ひとまず現状の整理から始めた。
 秘密の場所にある扉から、トラヴァースタウンに放り出されたという認識は、一致している。だが目を覚ました後は、まったく一致しない。
「どういうことだよ? 俺達夢を見てたのか?」
 まさか、と三人とも思っている。
 ソラとリクとカイリは、普通とはちょっとちがうところがあった。
 夜空に浮かぶ星のひとつひとつには、世界があると知っていることだ。また、様々な出来事があるということも、知っている。それは大いに不思議で、突拍子もなく、ふいに目の前に現れるのだということも。
「とにかく、島に戻らなきゃ話にならない。こうしてても仕方ないからな」
 話は自然と、島へ戻る手段のことに絞られた。
 船がいるだろうな、とリクは思った。
 もちろんイカダではなく、星の海を渡れる船のことだ。だが、いきなり放り出されたのに、都合良く準備されているはずがない。
 闇の回廊を開く力は失っていたし、さりとて帰り道が用意されているわけでもない。
 果たして自分達はこの状況を切り抜けられるのかと考えたリクは、さすがに暗澹とした気持ちになった。やっと故郷に戻れたと思ったら、息をつく暇もなくまた外の世界に放り出される。取り巻く状況に対する疑問も、ますます深まっている。自分達を惑わすかのような存在も気になった。
「そういえばさ、シドの店にならなんかあるんじゃないか?」
 いいことを思いついたという顔になったソラが、さっと立ち上がった。
 指先で噴水の冷たい水にさわっていたカイリも、頷く。
「そっか、いっぱいあったもんね。探してみよっか」
 一番街にあるシドの店に向かおうとしたソラとカイリが、ついてこないリクを振り返る。
 リクはひとつ息をつくと、苦笑しながらつぶやいた。
「また真面目にやってるのは俺だけか」

 シドの店だった場所は、気っ風のいい店主が不在だと、ずいぶんさみしい。
 品物はほとんど引き上げられたようだが、古ぼけた木箱をあけてみると、船の素材になりそうなグミブロックがいくつか残してあった。
 他には、アクセサリーがいくつか入れられたままの金庫(鍵はソラが開けてしまった)がある。中に大切そうにしまわれていた、銀を細い輪にして重ねたブレスレットを手に取りながら、カイリはあたたかい気持ちになった。
(シドさんらしいなあ)
 おおざっぱな性格のシドだが、彼が作るものはどれも精巧で、星を渡る船にしても、アクセサリーにしても、心がこもっていた。
 ものってやつは、作り手に嘘をついちゃくれねえからな―
 物珍しがるカイリに、シドはめんどくさそうにしながらも、大きな声で説明してくれたものだ。
 シド達だけでなく、この街に流れついた人々は、世界の理が正されたことで、皆故郷に戻れた。
 そして、故郷を失ってしまった人達が作り上げたトラヴァースタウンは、なにも変わらずに、こうして残っている。
 無人になった今も、丁寧な案内板は石畳が向かう方向を示しているし、街を明るく飾るネオンもきれいだった。
 造りは一見ごちゃごちゃとしているが、街を作った人達は手を抜かずに、一から、トラヴァースタウン〈立ち寄る街〉を建てていったのだ。いろんな人の、故郷への思いが込められた街は、そっけないようであたたかい。わずかな間しかいなかったカイリも、この街が好きになっていた。
 ホロウバスティオンに戻る前に、シドは柄にもなく、自分が作り出したものを手に取り、物思いにひたったのかもしれない。きれいに整頓されたお店が、シドの残していった思いをあらわしているようで、カイリの口元をほころばせる。同時に、ほんの少し心が絞られたようにも感じていた。この街には、誰もいない。つまり、思い出になった街なのだ―。
 アクセサリーをきちんと元に戻すと、カイリは金庫の扉をしっかりと閉めた。
「お手上げだな」
 リクが珍しく投げやりに言った。
「こんなの初めて見る。設計図を見てもさっぱりだ」
 同じく木箱に入っていた色褪せた設計図を広げながら、リクはゆっくりと前髪をかきあげた。口ぶりのわりに、利発そうな瞳がかがやいている。
 実際リクは興奮を抑えられないでいた。グミブロックをしげしげと眺めては、難解な設計図に目を移し、どう使うのだろうとあれこれ想像している。
 すっかり設計図に見入ってしまったリクに、カイリは思った。
(リクって、シドさんと話が合うかも)
 熱く語りあう二人を想像してみると、意外でなかなかおもしろい。
 くすくす笑うカイリの隣で、ソラは退屈そうにしていた。
「じゃあグミシップもだめかあ」
 一方ソラは、難しいものに対して、あまり興味がない。頭の後ろで手を組んで、がっかりしたように天を仰いだ。黒々とした夜空に、星が宝石のように散らばっている。星の数は、以前よりも増えているようだった。
 あれ? とカイリがなにかに気付く。
 ソラは、フードの中を探りはじめた小さな手に、くすぐったそうにした。
「なんだよカイリ」
「いいから、ちょっとじっとしてて」
 カイリが取り出したのは、一枚のハガキだった。
 一体いつの間に入っていたんだろうとソラはびっくりするが、目ざめたときのことを思い出し、もっとびっくりした。
「それ、カイリ……っぽいやつが起こしてくれたときのだ」
 かさこそと音がしていたのは、ソラのフードの中にハガキをしのばせていたからだろう。
 宛名は書かれていなかったが、ハガキをひっくり返すと、黒いインクで書かれた文面があった。
『ここのカフェはおいしいって評判なんだよね。それに街でいちばんおしゃれなんだって。いつも閉まってるから残念だなあ。ときどき開いてるみたいなんだけど、まだお茶したことはないんだよね。だから今度、いっしょに行ってみない? 約束だからね』
 読み終えたソラとリクは、じっとカイリを見つめた。
 自分の字だったが、こんなハガキを出した覚えは、もちろんカイリにはない。
 ハガキが誰かに宛てられているのは確かだった。もしカイリが出したのなら、ソラとリクに宛てた文面なのが伺える。けれど、カイリはちがうちがうと首を振るばかりだ。
 他に手がかりになるものはないかと、リクはハガキをよく観察してみたが、変わったところは特にない。
「どう思う?」
「どうって……どう考えても変だよなあ」
 カイリに尋ねられ、ソラはしきりと首を傾げた。旅の中で不思議なことは数多く経験してきたが、こんな妙なことは初めてだ。
「いや、これではっきりした。誰かが俺達を惑わそうとしている。わざと俺達の姿を真似て、混乱させようとしているんだ」
「どうして? そんなことできるの?」
「それは俺もわからない。ただどんな意図があるにしろ、俺達が乗ってやる必要は無いってことだ」
 きっぱり言い切ると、リクはハガキを手の中でくしゃっとにぎりつぶし、グミブロックといっしょに木箱へしまった。ぱたんとふたを丁寧にしめる。
 少なくとも、今のトラヴァースタウンでは住人も、ハートレスすらも見かけていない。どこかに隠れながら窺われているのだと思うと、腹立たしかった。
「いいか、絶対に一人にならないよう気を付けろ。あっちは陰でこそこそするのが好きみたいだからな」
 リクがわざとらしいほど大声で言っても、自分達以外の気配が動き出すことはなかった。
 内心嘆息しながら、リクは最初に聞いた口笛を思い出していた。
 興味がわくままに行動したのが悔やまれる。今更後悔してもしかたないが、自分がもっと警戒すべきだったのだ。
 どのみち、警戒は怠るべきではないだろう。
 ふたがきっちりとしまった木箱を見下ろしながら、存在をにおわせている、自分達の前にちっとも姿を現そうとしない相手を考えた。リクにしてみれば、こそこそ隠れているのが、断然おもしろくない。
「こんなものを隠れて渡すくらいなら、堂々と俺達の前に出てくればいいんだ」
 リクの機嫌はすこぶる悪く、手がつけられない。
 カイリは、しょうがないなあというふうに肩をすくめた。いろいろと思うところもあるのだろうと、簡単に想像できる。カイリだって、さすがにこれは変だと思い始めていた。
(なにか、してほしいことがあるのかな?)
 結局は、相手の意図がわからないかぎり、どうにもならないのだが。
 考えこんだ二人に、ソラもあわてて考え込むように腕を組んだ。
 島に戻るための方法探しは、またふりだしだ。話し合っても埒が明かないので、三人はとりあえずその場を離れることにした。他にいい手立ては思い浮かばないが、じっとしている性格ではなかった。こうなったら街中をしらみつぶしに回るしかない、と覚悟に近いものを決めている。
 と、三人の行く手に、白いものがひらりと落ちた。高い壁に囲まれたトラヴァースタウンに、風はふかない。
 くしゃくしゃになったのを広げたようなハガキは、文面を表にしている。木箱から這い出すときについたのか、かすれたような汚れもついていた。
『おすすめのメニューは生クリームたっぷりのココアなんだって。疲れたときとか、あとは、いらいらしてるときにいいんじゃない? でもお客さんがきてくれないなら、冷めちゃうかもね』
 新しく浮かび上がった文字は、ちょっと怒ったように、強めの筆圧で書かれている。
 ソラは驚くよりも、ふきだしそうになった。カイリが怒って手紙を書いたら、きっとこんな風に書くだろう。見えない相手が仕掛けてくることが、自分達を忠実に真似ているのが、おもしろくてしかたない。いったいどういう仕掛けだろう?
「なあ、試しに行ってみようって。じゃないといつまでも追いかけてきそうだしな」



 カフェには、開店中の看板がかけられている。装飾の明かりは嫌味にならない派手さで、客を待っていた。どこからか甘いにおいもただよっている。
(ほんとにすてきだなあ)
 このカフェが開いているところを、カイリは見たことがない。昔はにぎやかだったらしいのだが、ハートレスとの戦いが激しくなり、それどころではなくなってしまったのだと聞いていた。カイリは、居心地のよさそうなカフェがなくなっていたのを、素直に惜しんだ。
 ソラが警戒せずに椅子に腰掛けると、リクは不満そうだったが、カイリも楽しそうにテーブルについたので、諦めたらしい。
「で、なにが始まるんだ?」
 リクが音を立てて椅子に座ると、テーブルの真ん中にあるろうそくに、ぽっと火が灯った。それを合図にしたかのように、カフェの店内から、人数分のカップが運ばれてくる。
 ウェイターはいない。カップはふわふわと浮かびながら、ソラ達の前に並んでいった。ココアの上にたっぷり盛られた生クリームが、ゆったりと揺れる。
 ソラは、この不思議な光景に見覚えがあるような気がした。だが記憶の隅っこを探している間に、ジャムをのせたスコーンのかごも並べられたので、思い出すまでいかなかった。
「わ、おいしそう」
「やめろ、手を付けない方がいい」
 店内に人の気配はない。鋭い視線であたりを見回しながら、リクは次になにが起こるか待ち構えた。もし気配があれば、捕まえて、なんの目的があるかを吐いてもらうつもりでいる。
 ソラは手を伸ばすと、ためらわずにスコーンをほおばった。
「うまいなあ、これ」
 ココアはすこし熱めだったが、甘めのスコーンとの相性は抜群だ。ハガキにあったとおり、生クリームが溶けたココアを口に含むと、疲れがとれていく。
「おいソラ」
「待てって。ほら、また変わってる。はは、『おかわりはいくらでもどうぞ』だってさ」
 ソラはポケットからくしゃくしゃのハガキを出すと、テーブルに置いた。文面はかわいらしい字でやわらかく書かれていて、好意的なものになっている。
 ソラは、真面目な顔つきになると、椅子に座り直した。その目はまっすぐリクを見ている。リクも、厳しい瞳のまま、ソラを見返した。
「大丈夫、毒とか入ってないって。……たぶん。ま、いいや。あのさ、俺思ったんだよ。リクは俺達を惑わそうとしてるやつがいるって言ってたけど、なんか、違う気がするんだよな。もし悪いことしようって思ってるなら、いちいちこんなハガキ渡したり、ちらっと顔見せたりもしないだろ?」
「どうだかな。油断させる手かもしれない」
「そりゃ、本当に悪い奴なら俺達を怒らせたり、不安がらせたりするだろうけどさ、なんか、そういう感じはしないんだよなあ」
 ソラは、話をまとめるのが少し苦手だった。リクのように、口に出しながら整理するのは、もっと苦手だ。だが、トラヴァースタウンに呼び寄せられてから、引っかかっていたことを話さなければいけないと思っていた。
「えーと、ほら、つまりあれだって、リクは少し考えすぎじゃないかってことだよ」
 形のいい眉が、むっとつり上がる。
「誰だか知らないけど、俺がリクとカイリを探そうとしたら、ちゃんといる場所も教えてくれたしな。だったら、そんなに悪い奴じゃないはずだろ? まあ、勝手に連れてくるなんてふざけんなって思うけどさ。それは俺が扉に触っちゃったせいもあるし。……ごめんな、二人とも」
 カイリは、笑って首を振った。ソラは照れくさそうに頭をかいた。
「だからその、ちゃんと話してほしいんだよ。怒ってる理由とかさ」
「怒ってる? 俺が?」
「目が、こーんなにきりきりしっぱなしなんだもんな。誰だってわかるって」
 ふざけて目尻をつり上げると、リクの遠慮がないこぶしが飛んできた。「おっと」と大げさな動きでよけると、ソラは明るい笑顔になった。
「ってことは、図星なんだろ?」
「うるさいな」
 リクは、観念したように肩を落とす。
 まったくソラの言うとおりだと、認めざるをえない。こんな状況になってしまったのは自分の力不足が招いたのだと、自身が腹立たしくて仕方なかったのだ。それがまさか、ソラに見透かされていたとは。
「腹立たしくもなるさ。やっとの思いで帰ってきたのに、こんな状況になるんだからな。疑り深くもなる」
 言葉を選ぼうとしたが、なかなか浮かんでこない。そんなリクに、カイリはココアのカップを、手に取りやすい位置に押し出してくれた。リクは笑って、ほろ苦いココアを口にふくんだ。
「目が覚めたらおまえ達がいないんだ。そのとき俺がまずどんなことを考えたと思う? また同じだって思ったんだ。また、だぞ? 同じことを繰り返してる自分が、情けなくてたまらなかったな」
 ソラは、リクがそんな風に考えたのが意外で目を見開いたが、カイリは、わかっていると言うように、そっと頷いた。
「それで今気付いたのは、やっぱり俺は間違いを繰り返してるってことだ。また周りが見えなくなりかけて、闇雲に進んでいる。決めつけていたら正体を見極めるどころか、振り回されるだけだってわかっていたのにな。俺は何も変わってないんだ。……すまない」
 素直に口に出したことで、緊張がとけたのだろう。リクの瞳に、少しずつ、穏やかな色が戻ってくる。
「ううん、リク、ちょっと変わったよ」
 少し待ってから、カイリが口を挟んだ。いたずらっぽくほほえんだカイリは、てのひらでカップをくるんだ。
「考えてることはわかっても、なんだか不安だったよ。リクが遠くにいっちゃうんじゃないかって、ずっと怖かったんだ。でもね、やっとわかった。リクって、もっといろんなことを考えるようになったんだね」
「そうか?」
「うん、そう。もっとね、かっこよくなったよ」
 ちらりとカイリはソラに視線をやると、片目をつぶってみせる。
「それから、ソラもね。おっかしいなあ、ソラは全然変わらないと思ってたんだけど」
「俺、変わった?」
「うん、変わったよ。あんまりかっこいいから、びっくりしちゃった」
 カイリは、ふうっとココアの表面に息をふきかける。ココアは、エアリスが用意してくれたのと同じ、やさしい味だった。
 彼女から故郷の話を聞き、心が荒波のように乱れたのを、カイリは忘れられない。そのとき心に浮かんだのは、ソラとリクの姿だったことも、けして忘れたことはない。
 そんな二人が、胸に抱いているものを、見せてくれた。カイリはそれがたまらなくうれしかった。
「ね、間違ってないよ。リクは、私達のこと探してくれたんだから。ソラだって探してくれたじゃない。……でも私ね、目がさめたときは二人がいるから大丈夫だって思ったんだ。だから今は、ちゃんと反省してる。任せてばっかりじゃなくて、私もいろいろ考えなきゃいけないなあって。……ごめんね」
 カフェに、やさしい沈黙が下りる。
 胸にためていた思いを外に出したからだろうか。ココアのほのかな甘さが、舌にじんとしみる。
(やっぱり、俺達は同じなんだなあ)
 ソラが発見したのは、リクもカイリも、そして自分も、形は少しずつ違えど、お互いをこの上なく大切に思っているということだった。以前にも増して、距離が近くなったように感じる。
(俺達の心は、繋がってる―)   
 思いがけないところで確かめられて、ソラの胸は鉄よりも熱くなった。
 とはいえ、幼なじみ同士だからこそ、こういう真面目な話は恥ずかしくなってしまう。
「なあそれでさ、なんの話してたっけ?」
 茶化すように言ったソラに、リクもカイリも内心ほっとしていた。
「ああ、どうやったら島に戻れるのかってことだ。俺達を連れてきた奴の目的もわかってないしな」
「そう、それなんだけど、私達にしてほしいことがあるんじゃないかな」
「え、なんでだ?」
「ほら、私達が聞いたあの口笛、呼んでたみたいだったでしょ? もしかして私達に用があって―」
 そのとき、テーブルに置かれたくしゃくしゃのハガキが、三人の目の前に浮かんだ。
 ハガキがくるんと内側に丸まったと思うと、空になったカップ達が一斉に動き始める。がちゃがちゃと音を鳴らしながら、カップ達は順番にカフェの店内に戻っていき、ろうそくの炎が煙をのこして消えていく。すると今度はがたがたと椅子が揺れ出したので、ソラ達はあわてて飛びおりなければいけなかった。カップ達に続いて、行儀よく並んだテーブルと椅子も、店内に戻っていく。
 三人はぽかんとしながら、それを見送っていた。最後に店先に下げられた看板がくるりとひっくり返って、カフェの『閉店』をしらせた。
 シドの店、アクセサリーショップ、アイテムショップ、石畳を照らす街灯、そして最後のお客を送り出したカフェの明かりが、順々に消えていく。残ったのは月明かりだけで、あとはしんと静まりかえっている。一番街は眠りについたように、ひっそりと暗かった。
「……これが俺達に用があるってことなのか?」
 まだ信じられないといった様子で、リクがつぶやく。
「……かも、ね」
 カイリも、半信半疑といった様子だ。思いつきで言ってみたことに、街がこんなふうに反応するなんて、考えてもいなかったのだ。
「あれ、ハガキは?」
 宙に浮かんでいたハガキが、いつのまにかなくなっている。ソラがきょろきょろと探し出すと、カイリはまた気付いた。カイリはくすぐったがるソラに構わず、フードの中に手を伸ばす。
『からくり部屋っておもしろいよね。ずっと見ててもあきないよ。知ってた? あの部屋で街の電気を全部作ってるんだって、すごいよね。けど、ときどき故障もしてるみたい。壊れたままじゃ、困るんじゃないかなあ』
 新しく浮かんだ文面に、ソラ達はまた顔を見合わせた。



「部品は見つかったか?」
「なんとかね。これ使えそう?」
「充分だ」
 機械の下にもぐりこんだリクが、腕だけ伸ばして部品を受け取る。かちゃかちゃと部品をはめる音が聞こえると、ソラとカイリはなにか大変なことが起こるのではないかと、ひやひやしていた。
 固唾をのんで見守っていた二人は、リクがすずしい顔で出てきた後に、機械が問題なく動き出すと、すっかり感動してしまった。
「リクってすごいんだな」
「ほんと、すごいすごい!」
 ただ部品をはめ直しただけなのだが、リクもまんざらでもなさそうだった。

 たくさんの歯車が忙しなく動いているので、からくり部屋では話す声が聞こえにくい。
 だが、動力を伝える部品が欠けているのか、一部働いていない場所があった。
 高いところにのぼったソラが、歯車が噛み合っていない箇所を見つけた。ハガキは、故障していたら困るなあ、とのんびりした様子の文面を繰り返すばかりだ。
 修理をしてほしいらしいことは、ソラにもわかる。
 けれど複雑な機械というものに、どう対処していいかがわからない。カイリも同じく、機械のことはさっぱりわからなかった。
「どこかで部品が外れただけだろ。だったら直すのは難しくない」
 リクは事も無げに言うと、動いていない箇所を確かめ、ソラとカイリに使えそうな部品を探してくるようたのんだ。
 そして、あっという間に直してしまったのだ。

「すごいよなあ、俺、リクを見直したよ」
 ごつんとソラの頭を殴ってから、リクは改めてからくり部屋を見回した。
 複雑な機関は、始点から終点までよどみなく動いている。
(なんでも学んでみるものだな)
 と、リクはつくづく思った。記憶を失い眠りについたソラを助ける力になれるようにと、手当たり次第に学んだが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
 胸の中で、リクは殊勝に感謝を述べる。ディズが教えてくれた知識がなければ、修理などできなかっただろう。
(けどひねくれ者のあんたは、知識が役に立つってことを否定するんだろうな。いい年して頑固でいるほうが、よっぽど役に立たないぞ)
 届かないであろう言葉も、重くはなかった。悲しみという激情は、ゆっくり透過していき、今はリクの胸に小さな小さな痛みとして残るばかりだ。いずれこの痛みも、なつかしく思い出すものになるのだろう。
 少しの物思いから覚めたリクは、ソラを振り返った。
「どうなった?」
「それがさ、おかしいんだ。さっきと変わんないんだよ」
 ソラの手の中にあるハガキの文面は変わっていない。リクは不機嫌そうに眉を寄せた。
「要求しといて、今度はだんまりを決め込むつもりか」
 相手方に声が届くかはわからないが、ぼやかずにいられない。
 自分達に用があるらしい人物は、一向に姿を現そうとしなかった。用向きを直接伝えようとせず、ハガキを通して、リク達に何かをさせようとしている。
 元々頼まれることを苦にしないソラとカイリはともかく、リクはやはり疑いを捨てきれなかった。何もわからないまま荷担させられるのは、まっぴらだという思いもある。
(それとも、おどしているつもりなのか)
 リク達には、島へ戻る手段がない。ならば、自分達を連れてきた人物に、島へ帰してもらうしかなかった。
 リクは、くしゃくしゃのハガキに、嫌なものを感じた。自分達は、否応なしに従わされているのではないか―。
「あ、待って。『さん、三番、街』? わかった、次は三番街だね」
 リクの胸の内の声を聞いたように、ハガキに新しい文字が浮かぶ。自分の字が勝手に浮き出てくるのにも慣れたカイリが、行こうと二人をうながした。
 すたすたと先に歩き出すカイリの小さな背中を、リクはじっと見つめている。リクは、カイリに聞かれないよう、小声でぼやいた。
「嫌になるな」
 隣を歩いているソラが、不思議そうにリクを見た。
「こうも次々何かさせられるのは気に入らない。目的を明かさないところも気に入らないし、カイリの字を勝手に使われてるのも気に入らない。まったく、苛々させられるな」
 うーん、とソラは首を傾げる。
「リクって、実はあんま変わってないんだな」
「は?」
「怒ってるとなんにも見えなくなるって、言ってたまんまだよな」
 ソラはときどき、リクも覚えていないような昔のことを言い出すことがある。そう言われても、覚えがない。今度はリクが首をひねった。
「でもま、いいんじゃないか? 壊れたまんまじゃ誰かが困るだろ。人助けって思えば、腹も立たないって」
 にっと笑ったソラに、リクは何も言い返せなかった。
(そうか、ひねくれ者は俺のほうだったな)
 頬が少しだけ熱くなる。落ち着いて考えてみれば、自分達がやっているのは、人助けの部類に入るものだった。だったら、それほど深く考えることはなかったのかもしれない。
 ふっと笑ったリクは、からかうように言った。
「街には誰もいないぞ。なのに誰の役に立つんだ?」
「あ、そうだった」
 じゃあ何のために修理をしたんだろうと、ソラは悩み出した。そしてやっぱり、広い視野を持ったリクには敵わないと思うのだ。

 ぶつりと途切れている電線に雷の魔法を放つと、三番街は元に戻った。
 色とりどりのネオンがまたたき、小さな噴水がライトアップされる。広場はお祭りのような明るさを取り戻していた。いきなりのまぶしさに、月明かりに慣れた目がちかちかする。
 これで、故障した箇所はなくなったはずだ。
「今度は何が起こるのかな?」
 わくわくしたように、カイリが首をめぐらす。どこからか音楽でも聞こえてきそうな、にぎやかな雰囲気が、楽しいのだろう。
 ソラの手からハガキがひとりでに離れた。
 広場の中央にふわふわと浮かんだハガキは、また内側にくるんと丸くなる。
 丸くなったハガキは、指揮者が合図をするかのように、ふるふるっとふるえた。
 と、三番街がひときわ明るさを増す。三番街の明かり全てが、ガラスやレンガの壁を通り抜け、屋根の高さほどに浮かんでいた。
 街灯のぼんやりとした明かりも、ネオンのまたたく光も、今は空き家になった秘密基地の明かりさえも、行儀よく列になり、地上へ降りてくる。
「わあ……」
 夜空に浮かぶ星が地上に降りてくるかのようだ。
 その美しくも不思議な光景に、ソラ達はただただ見入った。
 光は粒子の帯を引きながら宙をすべりおり、ゆっくり、ゆっくりと、小さなハガキに集まっていく。筒状になったハガキの片方から入っても、もう片方から光が出てくることはなかった。
 どれくらい時間が経ったろう。数え切れないほどあった光が最後の一つになり、そして消えた。三番街は、リクが目ざめたとき以上に、薄暗くなっていた。こちらも眠りに落ちたように、ひっそりしている。
 月明かりに目がなじんでみると、広場が狭くなったように思えた。リクは無意識に息を止めていたのに気付き、肺に新しい空気を吸いこんだ。
(なるほど、明かりを消していくのが仕事らしいな)
 一番街に続き、三番街の明かりも消えた。少しずつ自分達がするべきことが読めてきた気がする。
(でも今更なぜ? こんなことは誰だってできる、俺達でなくてもいいはずだ)
 三度フードの中を探られながら、ソラはやっぱりくすぐったがっている。
「もう、なんで俺のとこに入ってくるんだよ」
 ハガキは収まりのよさが気に入ったのか、一仕事終えると必ずソラのフードにもぐりこんだ。
「あれ、これなんだろ?」
 取り出したのは確かに紙だったが、ハガキではなくなっていた。てのひらに乗るほどの大きさで、なにかのチケットのようだ。
 今度はカイリの字ではなく、きれいな刻印が押されている。角度を変えると、刻印は月明かりを何倍にもしてきらきらと反射させた。カリグラフィーの文字が、二番街にあるホテルの名を、誇らしげに飾っている。


「すいませーん!」
 受付の呼び鈴を鳴らし、声もかけてみるが、カーテンを閉めきったスタッフルームには、やはり誰もいないようだ。
 長い廊下には、趣向の違った扉がいくつか並んでいる。その壁には、宿泊客の目を楽しませてくれる絵画がかけられていた。
 どれも味があって奥深い。このホテルの主人は趣味がいい。……と、ドナルドが話していたのをソラは思い出した。
 朝焼けの丘を写し取った絵をまじまじと眺めてみるが、いまいちぴんとこない。
「今度は何をすればいいんだ?」
 リクの声にもう不機嫌な様子はなく、むしろ楽しんでいる気配がある。
「ここには壊れたとこなんてなさそうだけどな」
「とにかく探してみようよ。ほら、あの部屋とかあやしいんじゃない?」
 一番街、三番街と明かりが消え、残った二番街だけが、住民がいたころと変わらないでいる。大きなガラス窓の向こうには、ブティックの大きな看板や、通りを照らす街灯が見えていた。
 その通りを歩きながら、ソラは聞き慣れた海風がないことに違和感をおぼえ、やはりここは外の世界なんだなあと思った。常に夜をまとうトラヴァースタウンは、冒険というにはちょっと地味で、少年の心を踊らせる派手さはない。
 それでもソラは、あちこちかけずり回っている今が、けっこう楽しかった。
 三人は、ホテルの客室も念入りに調べた。ベッド下をのぞきこみ、可憐な一輪挿しをよけ、絵画の額縁をひっくりかえしてみる。
 子供の頃にした宝もの探しを思い出し、ソラの顔は勝手ににやけてしまった。
 一度は諦めなければいけなかったのに、思いがけず別の望みが生まれ出でた。
 はるかに広がる海に囲まれた島で育ってきたソラは、呼び寄せる口笛から始まったこの妙な旅を、新しい風のように感じていた。
「なんにもないぞ」
「まだ探し足りないのかもしれないだろ。口より手を動かせ」
 きれいに整えられた客室は、いたって普通だった。
 ソラ達を呼び寄せた人物は、とても変なハガキを使い、遠回りな意図を伝えてきた。それが今度は、何もない。
(さっきので終わりだったのか?)
 だとしてら、ちょっとつまらない。ソラはポケットから、フードの中に入り込んだハガキだった紙を取り出した。しわもないぴんとしたきれいな紙は、刻印を意味ありげにきらりとさせるだけだ。
「―誰だ!」
 突然鋭く声をあげたリクは、バルコニーに続くドアを振り向いた。ソラは、かすかに開いたドアから、こちらを窺っていたらしい人影がさっと離れるのを見た。
 ドアの一番近くにいたカイリは、すぐさまバルコニーに飛び出した。遅れずソラとリクも飛び出す。逃げた後なのか人影はなく、気配も感じられない。
 身を乗り出し階下をのぞいてみると、裏通りもまた人気がなかった。だが月明かりは、地下洞窟へ続く水路の水面が揺れているのを教えてくれている。ゆらゆらと揺れる水面の流れゆく方から、水が跳ねる音がかすかに聞こてきた。
「どうする?」
 あまり確かめる意志が感じられない声で、ソラが尋ねた。
「決まってるだろ。やっと尻尾をつかんだんだ」
  リクが言い終わると、カイリはひらりと裏通りに飛び降りた。二人を見上げた紺碧の瞳が、二人を急かしている。
「さ、早く追いかけないと逃げられちゃうよ、急いで!」
 と言うやいなや、カイリはぱしゃぱしゃと水を跳ね上げながら水路の奥に行ってしまう。
 ここで待っているようにという前に先手を打たれ、ソラとリクは苦い顔になるが、ちらりと視線を合わせ笑うと、人影とカイリを追いかけた。

 真水は、重い。
 実際は浮力の違いなのだが、海で泳ぎ慣れているソラには、冷たい真水は重たく感じられた。透き通っているのは同じなのに、真水は肌によりまとわりつくようなのだ。その分、水中にいるのが楽だった。しおからくない水に一度ぐっと潜ってから、ソラは水面に顔を出した。
 地下の洞窟は、月明かりがある街よりも明るい。腕で抱えられるほどの大きさの壺に、赤々とした炎が揺れ、洞窟の高い天井まで照らしていた。
 髪と服から水をしたたらせたリクは人影を探すが、それらしい気配はない。先に水から上がったカイリは奥の階段から戻ってくると、小さく首を振った。洞窟は水路と地上に出る道があるだけで、他に逃げられる道はないはずだ。だが人影は、ほんとうの影のように消えてしまった。
「また逃げられたか」
 火の燃える音は、しゃべる声とどこか似ている。ぱちぱちとした火は、洞窟の中に小さくこだました。
 今度こそ正体を確かめてやるという意気込みがあっただけに、三人は少なからず落胆していた。自分達をここに連れてきたのは、どんな人物なのか。好奇心と、真意を確かめたい思いだけが残り、気持ちが落ち着かない。
 濡れた前髪をかきわけながら、カイリはかるく肩をすくめた。
「どんな人なんだろうね、すごく足が早いみたいだけど」
「逃げ足が早いの間違いだろ」
「なあ、これからどうする? とことん追っかけてみるか?」
 これで今日何度目の相談かわからない。
 カイリはふと思い出し、視線を洞窟の奥に向けた。壁画はやはり変わらずそこにあり、夜空から月と星とを借りている。
 不思議な壁画で、長く見つめていると、壁画自体が動いているように感じるのだ。おそらく水面に反射したかすかな光が、そう見せているのだろう。洞窟の奥まったところにある壁画はそのあわい色合いもあって、かすかなもの悲しさがある。壁画の白く描かれた月と、トラヴァースタウンを包む夜の月とはどことなく違うようだった。カイリは目を細めると、不思議な壁画に見入った。
「とりあえずここから出るか。まずこの近くにいないか探してみるぞ」
「じゃあさ、別れて追い詰めればいいんじゃないか? 魚みたいに行き止まりに追い込めば簡単につかまえられるって」
「そうだな、やってみる価値はある」
 いかにも男の子らしい作戦を立て終えたソラとリクは、カイリがぼうっとしているのに気付いた。
「カイリ、ぼうっとしてると置いてくぞ」
 呼ばれて、カイリがはっと振り向く。
「え、なに?」
 どうやら話を聞いていなかったらしい。いつも二人の話には耳を傾けてくれるカイリにしては、珍しかった。
「どうした?」
 少し心配そうなソラに、ああとカイリは笑いかけた。
「壁画がね、見てるとすいこまれそうだなあって」
 どれどれとソラも視線を向ける。リクも、カイリの指さした方へ顔を向けた。
「あっ」
 誰ともなく驚きの声があがる。壁画が三人の見ている前で、ゆっくりと動き出したからだ。白く描かれた月と星が、夜空と同じようにゆっくりと傾き、水面に吸い込まれていく。
水中に沈んだ月と星は、ぼんやりとした白い光を一時発したが、それも溶けるように消えていった。夜空だけ残った壁画は、藍色をソラ達に見せるばかりだ。
「おお、そろそろ月もしずむ頃合いじゃったか」
 背後からふいに聞こえてきた声に、三人はいっせいに振り返った。
「あ、マーリン様!」「マーリン様!」
 青いのっぽな帽子と地面まで届きそうな長いひげ。魔法使いマーリンが、鼻にかけた黒縁眼鏡の奥で、お茶目に片目をつぶって見せた。
 リクだけが、誰だ? という顔をしている。
「どうしてここに? それに今のは、あ、私達ここに連れてこられて」
「まあまあ落ち着きなさいカイリ。話は一つずつするもんじゃよ。じゃがその前に」
 ほれっとマーリンが杖を一振りすると、びしょぬれだったソラ達の服がたちまち乾いた。
 階段の奥から、重いものが動く音がする。地上に運んでくれる床が下りてきたらしい。
「話はすっきり乾いて、お茶を飲みながらするとしよう。三人とも来なさい」



 山積みになった本に、ごちゃごちゃと物が詰められた棚、ソラ達には何に使うかもわからない細い筒(最新の望遠鏡だ)、鳥の形に似ているが鳥ではない模型(赤が自慢の複葉機だ)、アルファベットが書かれた黒板―。魔法使いの家は相変わらず不思議なものばかりだった。
 家の真ん中は少し高くなっていて、白いクロスのかかったテーブルが置かれている。
 一番背もたれの大きな椅子にマーリンが、大きさも形もばらばらの椅子に、ソラとリクとカイリが腰掛けた。食器棚から人数分のカップが飛び出し、テーブルに並ぶ。ポットが熱い紅茶が入れてくれるのを見て、ソラは思い出した。カフェで見たのは、マーリン様の魔法に似ていたのだ。せっかちに前に出た砂糖つぼが、ソラ達のカップに砂糖を入れていく。リクがいらないと首を振ると、気を悪くしたように自分のふたをしめた。
 パイプを一口すったマーリンは、早く話を聞かせてほしいという瞳をした三人の子供たちを、ぐるりと見回した。
「さて、では話すとしよう。最初から知っておったよ。お前さん達がここに来ることはな」
「どうしてですか?」
「それは、わしだからとしか言えん。ま、ちょいちょいと、見に行っておったからな」
 なんとも意味深な発言に、ソラとリクとカイリは顔を見合わせた。
「お前さん達は不思議なんじゃろ? どうしてここにいるのかが」
「そう、俺達いきなり扉にすいこまれて、気付いたらここにいて。どうして俺達はこの街に来なきゃいけなかったんですか?」
 早口に尋ねるソラに、マーリンは深く頷いた。
「それはな、世界に聞かねばなるまいて。ま、今もいたずらっ子どもはこそこそ隠れておるからな、そう簡単につかまえられんじゃろう」
 マーリン様が杖で示したほうを振り向くと、さっと隠れる影があった。ドア代わりの大きな布の向こうに消えた人物に、ソラ達はひっくり返るほど驚いた。一瞬だったが、見えたのは間違いなく自分達だった。それも、一年前の少しだけ幼い自分達だ。
(今の見たか?)
(ああ、この目で見た。俺が見たのはあのソラだったんだな)
(俺じゃないって、いや、たしかに俺なんだけどさ)
 こそこそと会話をするソラとリクの頭を、マーリンの杖がこつこつと叩く。話の腰を折ってしまったソラとリクは、神妙に椅子に座り直した。
「世界同士が見えない壁に阻まれていることは知っておるな。もしこの壁が壊れれば、世界はとても危険な状態になるんじゃ。君達の持っているキーブレードは、その壁を修復する力を持っておる。世界の中心に繋がる鍵穴を、閉じることによってな。そして鍵穴を閉じたこの世界も、壁に包まれた。だがの、そのせいで少し困ったことになったんじゃ」
「困ったことって?」
「世界が眠ってしまったんじゃよ。この世界はいま、深い深い眠りについておるんじゃ」
 ソラ達の顔は、疑問符でいっぱいだ。その顔を見て、マーリンはほほえんだ。
「おまえさん達が活躍してくれたおかげで世界は守られ、そして戻った。闇にのまれた世界に住んでいた者も皆、帰ることができた。感謝しておるよ、若いのに大したもんじゃ」
 へへっとソラが照れ笑いを浮かべる。その脇腹をカイリは肘でつついた。
「だがの、元に戻るべきなのに、戻らなかった世界もあった。世界の欠片で作られた、本来は存在しない世界がな」
「……それが、この世界なんだな」
「ご名答。なかなか賢いぞ、君」
 こつっとまた杖で頭を叩かれ、リクは不満げに眉を寄せた。
「じゃあ、俺が鍵を閉じたせいで、戻れなくなったのか?」
「いやいや、おまえさんは使命を果たしただけだ。でなければ、この世界もハートレスの手にかかっておったよ。闇に放り出された者達の行く場所まで無くなるところじゃった」
 だがソラは、納得した顔をしていない。自分が当たり前にやってきたことが、急に不安になってきたのだ。世界が、元に戻れなくなっただって?
「そんな顔をするもんじゃない。使い道を誤りさえしなければ、強い力は善きものとなる。キーブレードも同じじゃ。おまえさんはいつも正しい道を選んでおるよ」
 パイプから、丸い煙が上がる。煙は細長い屋根に向かいながら、かすれるように消えていった。
「眠ってしまった世界は元に戻れない、さて困った。だが偶然か運命か、この世界はプリンセスを送り届ける仕事していた。そう、君じゃよ」
「私を?」
 そうとも、とマーリンはやさしく頷く。
「君が望む場所へと送り届けてくれたじゃろ?」
「はい。私、ソラ達が帰ってくるのを待ってたんです。そしたら地面が動き出して……」
「世界にとってプリンセスは特別じゃからな」
 特別と言われても、カイリには実感がわかない。けれど、世界が自分をあの島に送り届けてくれたと知って、うれしかった。
「さて話を戻すぞ。元に戻るには、どうしたらいいか。そこで世界は夢を見ることにしたんじゃよ、君達の夢をな」
「夢だって? 信じられないな。それじゃまるで俺達と同じじゃないか」
「違うなどという証拠はあるかね? 人に心があるように、世界にも心がある。人が眠るように、世界も眠る。人が夢を見るように、世界も夢を見る。全てはこんな具合でうまくいっておるんじゃよ。それにこの街はな、まだまだ子供みたいなものじゃ。ちょうどおまえさん達くらいだろうな。ああもういい、話の腰を折らんでくれ。ええと、どこまで話したかな?」
「夢を見て、それから?」
「おおそうじゃったそうじゃった。世界は夢を見ることで、元に戻ろうとしたんじゃ。君達の夢を見たのは、よく覚えていたからだろう。わしだって質問ぜめにしたがる君達を夢に見そうじゃからな。夢は、元に戻るために動き出した。だが世界は壁で覆われているので、外に探しにいくわけにはいかん。そこで送り届けたプリンセスの近くで、待っておったんじゃよ。キーブレードを持つ者がいつか戻ると知っておったからの」
 気を失う前に扉の中で聞いた呼ぶような口笛を、ソラは思い出した。
「世界が呼んだおまえさん達は、きちんとやってくれたよ。街が眠ったことで、時が進み始めた。あの壁画を見ただろう? 真夜中の次は、朝じゃ。太陽の光を浴びれば世界も目を覚ますじゃろう。そのときがおまえさん達の出番じゃ」
「待ってくれ、それじゃあ俺達がどう行動するかが、わかっていたっていうのか? あんな回りくどいやり方をされたら、疑うのが普通だろ。俺達が何もしなかったら、どうするつもりだったんだ」
「だが今ここにおることは否定できないじゃろ? あるものは右に進み、あるものは左に戻る。すべての世界はこれを繰り返すことで、成り立っているんじゃ。それにな、リク。世界は本来、わしらとは違うところにあるんじゃよ。世界の心があるところへは、人が入りこめないような深い場所にある。とてもとても深い、それこそハートレスでもなければ入り込めない場所にな。人と世界は、けして触れ合うことができないんじゃよ。だから夢という形で、君達を呼んだんじゃ。人はな、思い上がったりしてはいかん。領域を超えようとすれば、人は少なからず闇にとらわれることになる。そして世界もな。とはいっても、世界はそんなにやわじゃない。闇などというものから身を守る術をちゃんと知っておるよ。腹黒い魔女や、とんでもない企みを持ったやつらが悪さしない限り、お互いうまくいくようになっとるのさ」
 ほっと、リクの肩から力が抜けた。都合よく受け取るわけではないが、自分が島に闇を引き入れたという思いが、ほんの少しだけ軽くなった気がしたのだ。
「世界か。なんだか想像もつかないな」
「俺達が見てきたものって、ほんのちょっとだけなんだな」
「いろんなことが一つに繋がってるんだね」
 それぞれがこぼした言葉に、マーリンは満足そうだ。
「それでいい。まず知ることじゃ。君達が思い続けるなら、夢ではなく本当の姿を見せてくれるかもしれんぞ。しかし今回ばかりは、ちいっとばかし運が悪かったとも言えるな。やり方がまどろっこしかったのはほれ、おまえさん達を真似したからじゃろう」
 三人は、えっという顔になった。
「朝になったら、思いを込めて鐘をならしなさい。世界が元に戻れば、君達も帰れるじゃろう」
「はい」
「ホテルのチケットは持ってるかね? ああそれじゃそれ。今夜は月もしずんだ。ゆっくりと休むといい。わしも引き上げる時間じゃ」
 マーリンが立ち上がると、ソラ達も席を立った。マーリンが杖を一振りすると、家具達がいっせいに動き出す。ミニチュアのように小さくなった食器棚や本が、バッグの中へ一列に入っていく。本当の魔法に、やはりソラ達は見入った。本家本元は、ひと味違う。
 小さくなった砂糖つぼが、挨拶をするかのようにスプーンを振り上げるので、リクは反応に困ってしまった。
「マーリン様、ひとつ聞いてもいいですか?」
「おお、なにかね」
「世界を元に戻すってことは、つまりあの、ええと」
 カイリにしては歯切れが悪い。だがソラもリクも、カイリが何を尋ねようとしているかわかってしまった。
 答えを求めるように、子供たちの瞳が、まっすぐ魔法使いに向けられる。その瞳には強い光が宿っていて、ささいなことでは揺らぎそうにもなかった。
「世界は君達を選んだんじゃ。だから自信を持って進めばいい。もちろん、ときには立ち止まって悩んでもよい。悩みは誰にでもあることじゃからな。わしはな、このいまいましい長いひげがしょっちゅう絡まるのが悩みでな」
 くすっと笑ったカイリは、ソラとリクを振り向き、頷いた。二人も、力強く頷き返した。



 真夜中の空に、月はすでに隠れていた。二番街の明かりもほとんど消え、残っていたのはソラ達を待っていたホテルの看板の明かりだけだった。
 気持ちはちっとも疲れていないが、あちこち歩き回ったおかげで体はくたくただ。
 カイリは毛布にくるまりながら、小さくあくびをした。
 ソラは隣室から拝借してきた枕をぽんぽんと叩いた。糊のきいた枕カバーが、なぜか少し汚れていたのだ。床に広げた毛布に転がり、天井を見上げる。自分の部屋の見慣れた天井ではないのが、なんとなくうれしかった。こういう違う天井は、旅の間だけしか見られない。
「おもしろくて、長い一日だったね」
「そうだな。疲れる一日だった」
 壁と背の間に枕をあてたリクが、くつろいだ姿勢のまま答えた。こちらもしっかり毛布を拝借している。
 一部屋にかたまって眠ることを提案したのはリクだ。話したいことがたくさんあったので、ソラもカイリもすぐ賛成した。
 ちなみにこれは余談だが、ベッドを誰が使うかでひと揉めあったのは言うまでもない。結局、カイリが使ってくれないと自分達が落ち着いて眠れない、というソラの意見が多数決で採用された。
「ね、外の世界に行きたいって、リクはいつから考えてた?」
 はずんだ声で、カイリが尋ねた。
「いつから、ってのは覚えていない。けど……カイリが島にきたときから、考え始めてたのかもしれないな」
「そんなちっちゃい頃から?」
 そっか、とカイリが小さく溜息をつくので、ソラは気になった。
「カイリは?」
「んー、いつからかな。……忘れちゃった」
 実は割と最近だったのだが、白状したくないので、カイリはとぼけてみせた。
 それよりソラは? と目で尋ねる。
「俺も、けっこう前から考えてたんだよなあ。だって、わからないんだから、見たくなっちゃうだろ?」
「単純なんだよ、お前は」
 リクがふきだした。ソラは思わずむきになる。
「なんだよ、悪いか?」
「いや、悪くはない」
 リクは少しだけ遠い目をすると、イカダを作ろうと決めた日を思い返した。あの日から、もう何年も経っているような気もするし、ほんの少ししか経っていないようにも思える。
 外の世界を冒険するのだと信じていた頃の自分達は、たしかに何も知らなかった。けれど知らないからこそ、知りたい気持ちが強かった。その気持ちは今も胸の中にあり、日に日に存在感を増している。今だってどんどん大きくなっていた。
 見てきたものは、ほんの一端でしかなかったのだ。世界は大きく広く、とても深い。
 その深みに触れたいと願うことは、危険なのかもしれない。何よりリク達はその目で、闇に触れた者の行く先を見てきた。
 こわい、と思う。
 底知れないものに触れるおそろしさは、頭の中に警鐘を鳴り響かせていた。
(世界が俺達を呼んだ?)
 今までは、運命の示す道のままに進んできた。だがこんなふうに、自分達が動くことで世界が変わるなんて、思ったことはない。キーブレードを手にしたときも、なぜと深く考えたことはなかった。その自分達を、世界は選び必要としている。大きな流れの先頭になって、知らず知らずのうちに進もうとしている……。
 だがその流れを行くことは、こわくなかった。なぜなら自分にはソラとカイリがいる。自分を支えられなくなったとき、二人はどんなことがあろうと助けてくれる。
 どんな運命の流れも乗り越えられると、リクには確信があった。
「俺も同じだからな。ちゃんとした目的があったわけじゃないし、確かめてどうするかなんて考えてもいなかった」
「今は?」
「今は……やっぱり、あんまり考えていないな」
「あ、私は考えてるよ」
「なにを?」
「前は外の世界に行くのがちょっとこわかったけど、どんなとこなんだろうってわくわくしてた。それで今はどうかなって考えてみたら、そんなに変わってなかったんだ。世界と並んじゃうと、私達はちっぽけなのかもなあって思うよ。たくさんがんばっても、出来ることはちょっとしかないのかなって。でもね、マーリン様の話を聞いたら、もっと知りたいって思ったの。あ、もちろんずるはしないよ。私ね、もしも何かあっても、わからないままでいるほうがこわい。だからちゃんと向き合えるようになりたいの。それに―」
「それに?」
 リクがうながすと、カイリはさっと毛布をかぶってしまった。
「ううん、なんでもない!」
 これ以上言うと、以前よりずっとかっこよくなった二人は、きっと機嫌を悪くしてしまうだろう。だからカイリは、心のだけでつぶやいた。
(それにもし何かあっても、今度は私がソラとリクを守れるように―)
 ふんふんと聞いていたソラは、ごろりと寝返りを打つと、腕を顔の上にのせた。
「今のって、リクにちょっと似てたな」
「はあ?」
「リクっていっつも難しいこと言うだろ。けど俺、カイリのはなんとなくはわかった」
 カイリの言葉は、ソラの胸に痛いほど染みた。ソラも、同じに思うからだ。
(だってリクとカイリがいれば、大丈夫なんだ)
 単純な結論がソラの中で導き出される。
 キーブレードに選ばれた日に、ソラは外の世界に行くことができた。それは複雑な意味を持っていたのだろうと、今ならわかる。その複雑さにまではちょっと思考がいかないが、運命という言葉はきっとこういうことを意味しているのだと、ソラは思った。
 世界が呼んだり、必要とするなら、キーブレードを持つ自分達は応えなければいけない。
ときには辛いこともあるだろう。だがソラは、悲観はしていなかった。今日のようにリクとカイリがいれば、なんでも楽しくやれる。つまり二人さえいれば、自分は大丈夫なのだ。
 ソラの瞳はしっかりと、これから先の、キーブレードや、運命が運んでくるその先にあるものを、見据えていた。
「おまえがわかってないだけだろ。それに、似てない」
「似てたって」
「似てない」
「似てたって」
 ぽんぽんと言葉でやりあっていると、先にリクのほうが黙った。
 すうすうと、小さな寝息が聞こえる。
 ソラとリクはちらっと顔を見合わせると、毛布の中にもぐりこんだ。まもなく二人も疲れから、深い眠りに落ちた。

 朝は、ソラ達がたっぷり休んでからやってきた。
 三人とも言葉少なに身支度を調える。元々荷物はほとんどない。客室のテーブルには寝ている間に、朝食用なのかサンドイッチが用意されていた。三人はありがたくいただいたが、それほど喉を通らなかった。胸のなかにある思いで、お腹がいっぱいだった。
 ホテルを出ると、街は一変していた。
 朝もやに包まれた街は、まぼろしのように美しい。一歩踏み出すと、もやは靴が踏んだ分だけふわりと浮かぶ。石畳の通りを歩いているのに、雲の中にいるようだった。めったにできない体験に、子供たちは明るい笑顔になった。
 そのソラとリクとカイリを、見守っている人影がある。死角になったところで、こっそりとのぞき見をしている人影達は、一言二言ささやきあった。そして、朝もやの中に鐘が三度鳴り響くと、人影の一つはぴょんぴょんと子供のように跳ねて、喜びを全身であらわした
 噴水の壁画が動き出し、鍵穴が現れる。鍵穴に向かっていくしっかりした三人分の足音が聞こえると、人影達は隠れるのをやめた。
 間もなく世界は元に戻る。隠れる必要は、もはやなかった。
 トラヴァースタウンの白々と明けはじめた東の空を見上げたカイリが、あっと声をあげる。
 光をまとった三頭の蝶が、じゃれあうようにしながらこちらに飛んでくる。
 蝶が翅を動かすと、きらきらした粒子が朝の光の中に舞った。蝶はソラ達の頭にそれぞれとまったかと思うと、すぐに離れていく。かるく触れたのは、お礼のつもりだったのかもしれない。蝶達はそのまま高くのぼっていくと、朝もやにまぎれて、見えなくなってしまった。
 ますますきりっと表情を引き締めたソラは、鍵穴の前に立つ。キーブレードをにぎりしめる手に、リクとカイリの手が重ねられた。
 ひとすじの光を受けた鍵穴は、ゆっくりとその形を散らせていった。
 するともやが濃くなり、腕の先も見えないようになる。足元が不安定に揺れて、立っているのがやっとだ。
 ぐらりと地面が一度大きく動くと、それからぴたりと揺れは止まった。
 三人は、何が起こったのかと顔を見合わせた。それから、自分達が見慣れた場所にいるのに気付いた。
 明るい太陽がの光がさす洞窟の中で、いっしょに尻餅をついている。ソラの髪は、すこし濡れていた。滝の水を浴びてから、それほど時間が経っていないのだ。
 ソラは頭をかくと、深く考えずに扉に触れてみた。何事も、起きない。こぶしでどんどんと叩いても、洞窟内にかわいた音がひびくだけだった。
 扉は、かたく閉ざされている。たとえ子供たちが無理に開けようとしても、けしてその鍵を開くことはないだろう。

 

  • 09.08.15