サイクスははるか頭上に輝く月を見上げていた。
降り注がれる朗々とした光には、ある種の疎ましさがある。月から滲み出る光は覆いに過ぎない。男、あるいは女であった、もはや個々に所有されていたと判別もできない肉片の寄り集まったものが隠されている。
月が自らの輝きでもって周囲を照らしている光景は、見目良い錯覚でしかなかった。
穏やかに静かに、見守る様子さえ伺える青白い月光。汚濁した臭気すらも美しく内包する殻。
鋭さを奥底に秘めた目が、わずかに視線を下げる。
(…下らない)
自らが必要とするものの性質について考えを巡らせるのは、サイクスにはひどく無益なことに思われた。
土の中へ埋めたものを掘り返す行為を、サイクスは元から好まない。飢えた犬が食糧である骨を安全な場所に隠すようないじましい行動に貴さは覚えても、共感はしなかった。
そしてそれも、遠い昔のことだった。
半端に濾過された月の光がぼんやりとサイクスの体を浮かび上がせる。広い肩は頑丈そうで、人が放り込まれる過酷な流れもものともせず泳いでゆく力を持っていた。そこに連なるたくましい首は無機質な表情を支えている。全身に殺伐とした雰囲気を眠らせていた。
(お前はあとどれほど必要としている)
生前の記憶をなぞって問いかける度に、サイクスの額に刻まれた傷はしくりと痛んだ。死者の群れへ呼びかけるサイクスを嘲笑う肉体の笑い声かもしれない。
それでも問いかけずにいられないのは、彼の内に巣くう渇きが耐え難くなりつつあったからだ。
渇くのは心なき空虚な身であるからか、時にも風化しない記憶のせいかは定かではない。だが渇きは明確にそこにあり、加速度的に進んでいる。
渇きが知らせるのは、あくまでも公平な残り時間だった。現世の境目に立てる猶予が生々しい形になっていくのをサイクスは感じている。一度迎えた死は再び歩み寄ってきていた。
(揃えてやる。いくらでも、必要とするだけな)
吐き捨てるように胸の内で毒づくと瞼を閉じた。周囲に、ぴりっとした空気が漂い始めている。心が乱れなくなった代わりに、肉体の方が呆れるほど簡単に熱くなってしまうのだ。昂ぶる血を鎮めるのには視覚を塞いでしまうのがいいと経験上知っていた。
サイクスの中には獣が住み着いている。
記憶にある、かつて心が感じていた激情がそっくりそのまま息づいているかのような、凶暴な獣だった。自ら輝く月が骨を透かし浮き彫りにさせるのだ。
その荒ぶる獣の扱い方は記憶の中でも新しい部類に入る。自身のことで真新しい発見をするなど、サイクスは想像もしたことがなかった。
そういうものは長き歳月の中でおぼろげに気付いていくものであり、ある日突然理解できるものではないと思っていた。だが一度知覚してしまえば、飼い慣らすのはそれほど難しくはない。何より獣は、使いこなすほどに便利なものだった。
水を打ったように静かな広間に佇む間も月は変わらず光を放っている。
集められてはか細く増えてゆく光は、そろそろ目を眩ませてくれる頃合いだった。
と、サイクスの背後で空気がかすかに動く。大儀そうに目を開けたサイクスは振り返った。自我の欠落した種類の同志ダスクが、やや大げさな動きである異変を知らせている。
サイクスが頷くともいえない動作を返せばダスクはすぐにその場を去った。
動くものが闇の回廊へ潜り込むと、静寂が戻ってくる。
サイクスが振り向いたときに胸元にある鎖の、同胞として与えられたものの中で唯一の飾りの、高く澄んだ音だけが余るように残っていた。
獣が深い眠りについていれば、この音はどこへいようと必ず耳に届くのだ。掌の隙間からも抜けていってしまう曖昧な自我を思い出すことが出来る。付随された欲望も確固たるものとなる。
少なくともサイクスにはそう捉えられていた。
異変がある場所へ足を向ける前にサイクスはもう一度月を眺めた。薄い赭色の瞳の表面までもが乾いていた。



数日前。命令の通りになら動けるダスクどもは敬意すら感じられる丁寧さを併せて、裏切り者からの報告をサイクスに届けた。
そしてアクセルはカイリを連れ姿を消した。
挑発にしてはあまりに安っぽい。しかし煽るかのように変動を始めた事態を静観できるほどサイクスは無私ではなかった。それにとても珍しいことだったが、サイクスにはわずかばかりだが興ずる気分があった。
彼の中に根を張り巡らせた渇きも一役買っていたのだろう。子供騙しの誘いに乗って足跡を辿りながら、サイクスの頭にあった考えの一つは確かなものになった。
裏切り者に与する者の存在である。
最も御しやすいであろうソラに直接確かめてみると、早々に外れた。第一アクセルが手土産を使わずにいる理由も無い。彼は捜索の手を緩やかに広げながら内部の動向も観察した。
半ば期待していた裏切りの兆候は同志の誰にも現れなかった。ロクサスに滅ぼされたリクは数に入れる必要もない。残りは片手で足りた。
(目障りな鼠か)
サイクスは思わず笑いたくなった。敵であれ味方であれ、なんと数の少ないことだろう。裏切り者の行動は思いがけなく互いの貧相な勢力図をはっきりとさせたのだ。
数に入らないのはカイリも同じだった。せいぜい利用されるしかない無力な小娘になにができる。
地下の一室が暫定的にカイリに与えられた。行き先に迷っていたのを保護した形だったが、カイリはそう思っていないだろう。
箱を思わせる作りの部屋は清潔に保たれ、居心地はそれほど悪くない。身の回りのものも一通り揃っている。窓と扉がない点は慣れてもらう以外ない。手をつけられていない食事はすっかり冷めてしまっている。水の入ったガラス瓶には水滴が浮き、時折思い出したようにすうっと垂れた。
「ここが気に入らないようだな」
サイクスが回廊から部屋へと入ってきてもカイリは顔を上げなかった。
白い膝頭に顔を埋め小さな背中を丸め、部屋の隅で自分を守るようにうずくまっている。サイクスは気遣わしげな口調のまま続けた。
「では別に用意する。君には不便をさせるが」
諄々と言い聞かせる低い声はサイクスの鼻先にまで紛い物然としたにおいをぷんぷんさせていた。
「それもそう長くはない」
長くは、と言ったところでカイリは顔を上げた。憔悴しきった顔には血の気がない。
ふっくらした頬が青ざめている様は、カイリが生きるのに必要な力を失いつつあることを教えていた。だが、紺碧の瞳はちっともへこたれていない。
「そっか、じゃあ明日になれば帰れるんだね。ならいいよ、ここで我慢してあげる」
サイクスはすっと目を細めた。
「それは助かる。君には快適に過ごしてもらいたい。足りないものがあれば用意させよう」
「ありがと。でも、何にもいらないよ。それより早く外に出たいな。なんだか息苦しくって」
「善処する」
はっきりと向けられる敵意を歯牙にもかけないサイクスの態度は、カイリの神経を逆撫でるのに充分だった。
立ち上がって詰め寄ろうとしたカイリはすぐに壁にもたれた。熱のせいで吐く息が荒い。めまぐるしく変わる状況に体のほうが音をあげかけていた。立っているのもやっとだ。
サイクスはグラスに水を注ぐと差し出してやったが、カイリは頑なに首を振った。
「無理はするな」
「無理なんか」
悔しそうにする口元にグラスを添えてやる。それでもカイリは嫌がったが、サイクスが手で顎を上向かせ乾いた唇を水で湿らせてやるとようやく口を開いた。
細い指がグラスを掴み、喉をこくりこくりと鳴らし水を飲み干していく様をサイクスはまばたきもせずに眺めていた。ほんのりと赤い唇が水に濡れている。小さな生き物が水を求めるのは自然であるが、カイリは恥じるように視線を伏せた。
無用の拘束を受けている現状にどんな手段でも抵抗を試みずにいられないカイリを、サイクスは正常だと思った。食事を摂らないとか水を飲まないとか幼稚な手段ではあったが、カイリは今が自分の意志に沿っていないと訴えるのを止めなかった。
(つまらない意地だ)
その意地は生命を繋ぐ綱にもなる。疎ましくもある光から見出せる希望に、似通ってもいる。
おもむろに頬へと手を伸ばすとカイリは体をびくりとさせた。怯えた様子はすぐに引っ込められたが、こうして面と向かい合って話したことがなかったのをサイクスに思い出させた。ダスクが知らせてくるまではこんな小娘のことなどほとんど忘れていたのだ。
「体を休めるといい。君は疲れている」
やさしげな低い声は気遣う節さえある。生き餌には新鮮なままでいてもらいたかった。
「ひきょうもの!」
渾身の力を振り絞りカイリはサイクスの手を払った。我慢していられなくなったのだ。
水をもらった自分がカイリはどうしても許せなかったし、卑劣な仕打ちをするサイクスはもっと許せない。
大切な大切な友が自分のせいで追い詰められるなんて、絶対にあってはならない。
「どうしてソラ達に集めさせるの? 自分達だけでやれないから? だからって押しつけるのはやめて!」
サイクスは冷ややかに聞き返した。
「何をだ」
「なにをって…」
突きだした拳をなんなくかわされてしまったようでカイリは口ごもった。詳しいところは、まだ聞いていない。
その様子でサイクスはカイリがある程度事情を知っていることを察した。アクセルが話したのはさわり程度のようだが、世間話のついでではないだろう。こちらの目的ならいつでも明かせるという脅しのつもりだろうか。
「誤解させたくはない。我々は押しつけているのではなく光の勇者の手助けをしているだけだ」
「やめて、聞きたくないうそばっかり言わないで!」
「そうだな。信じるかは君に任せる」
「やめてってば!」
文字通り心無い言葉にカイリの感情はかき乱されるばかりだ。サイクスにはそれが手に取るようにわかった。
心を通した言葉は蓄積された記憶から生まれた想像力に研がれることになる。作り出した凶器に自らの心が痛みを感じるこの矛盾。だがその矛盾が無ければ人は生きていけない。
具合が悪いのに大声で叫んだカイリはくらりとよろめいた。サイクスは両手を差し伸べ体を支えてやった。血の気のない割に伝わってくる体温から熱っぽいのがわかる。胸元の布地を掴む指が小刻みに震えていた。サイクスが宥め方を思い出していると、カイリはふと顔を上げサイクスを見つめた。
紺碧の瞳が憎悪に燃えている。サイクスは少し胸を突かれたようになった。
苦しめるものへの単純な憎しみがカイリから伝わってくる。もし白い指に力があるならサイクスの首を絞めるくらいはするだろう。カイリはサイクスを押しやって後ずさった。
光の世界を支える闇なき心も憎しみを抱く。それはサイクスに新しい驚きを与えていた。
世界に愛された穢れなき魂の正体はこんなものなのだろうか。月が覆い隠す腐肉と何ら変わりない、ありふれたものなのだろうか。
「ねえ、本当のことを教えて。押しつけてるんじゃないなら何を集めてほしいの?」
「おまえが知る必要はない」
敬う態度をとる気は失せていた。ようやくサイクスは自分がかすかでも興味を抱いていたことに気付いた。
この娘がまもなく得るものを持っていると。だが、ここにいるのは脆弱な骨の小娘だ。
「だってあなたたちは勘違いしてるよ。魚をとるのがうまい人でも無理矢理集めさせようとしたってうまくいかないでしょ?」
「なるほど、ソラでは力不足ということか」
サイクスがせせら笑うと、カイリはむっとしながらもゆっくり頷いた。
「そ、思い通りにはならないってこと。けっこう頑固だからね。それは私を捕まえてても同じだよ」
いかにも子供が思いつきそうな嘘をつくカイリをサイクスは冷めた目で見下ろした。
「会えるのが楽しみだな」
そう一言落とすと踵を返した。カイリは慌てて回廊に消えようとするサイクスの大きな背中を追いかける。
「待って、まだ教えてもらってない!」
声が震えていた。所詮ただの小娘だ。他愛ないことで怯え萎縮する。心という透明な格子があるのにも気付かず安寧な世界しか知らない愚かな存在。
「そっか、教えてくれないんだ。わかった、そういうことなら私にだって考えがあるから」
サイクスの足が止まった。
「何が言いたい」
振り返ると必死なまなざしにぶつかった。
カイリの膝は落ち着きなく震えていたがそれでも真正面を見据えている。その姿は捕食者が放つ呪縛に囚われた小動物を思わせた。瞳の奥に宿る強い光がなければサイクスは話を聞く気にもならなかっただろう。
「あの小さいお月さま、あなたにとって大切なものなんでしょ。こわいくらいやさしい目で見てたもんね」
同時に感心もしていた。部屋をあてがうまでのほんの短い間も、この娘は自分を見ていたらしい。サイクスはカイリの目を見ながら低い声で答えた。
「そうだ。我々にとってはな」
「やっぱり。じゃあ気をつけたほうがいいかもね」
「壊せるとでも言いたいのか。あれはおまえの手に負える代物ではない」
「できないと思ってる? どうかな、思いきってやってみたらできるかもしれないじゃない」
カイリがあんまり自信たっぷりに言うのでサイクスは呆れてしまった。
可愛らしい脅しを用い戦いを挑む幼稚さに呆れたのではない。わざわざ真っ正直に立ち向かおうとするカイリに呆れたのだ。手をかけるのがいかに簡単かもわかっていない。
「愚かだな。今のおまえに何が出来る。それとも逃げる算段でもあるのか」
軟禁されている張本人はうっと一瞬ひるんだが、負けじと胸を張った。
「それはまだだけど、ちゃんと考えてるよ」
「ならば口数の多さもどうにかしたらどうだ」
「いいの、わざと言ってるんだから。あなたは私を捕まえて安心してるのかもしれないけど」
いつのまにかカイリの体の震えはおさまっている。瞳の中に鋭い光があるのをサイクスは見た。
「ひどいことするなら、噛みついてだって止めてみせる。それを忘れないで」
自棄気味の台詞をサイクスは黙って聞いていた。
(この娘)
眉をかすかにひそめるという些細な動作でも、カイリはびくりと体をすくませてはまたサイクスを睨んだ。味方も皆無で、ましてやあの細い腕では自分も満足に守れないだろう。
容赦なく踏みつぶすのは難しくはない。首を晒しておくのも悪くない手だ。だが、カイリは自分が傷つくのを少しもおそれていなかった。決然とした覚悟が浮かぶ表情には容易に意志を覆しそうな脆さは見られない。
サイクスは初めてカイリを正面から見据えた。相変わらず衰弱した姿は頼りない。その姿こそが、異質なものであるような気がした。
幼さと細い線で繋がりながらも誇り高くあろうとする魂なら、あるいは、別のものになりうるのだろうか。
サイクスは幾分か考えを改めた。
「昔、ある男がいた」
「え?」
「その男は自分が殻に覆われているとわかっていた。当たり前だ、常に纏わりつかれていれば嫌でもわかる。殻は狭かったが不快ではなかった。それが盾でもあったからだ。殻の中では苦痛も憎しみも等しかったが赦しもあった」
「ゆるし?」
眉をひそめるカイリに獣がむくりと頭をもたげた。目覚めさせた光の所在を探し当てようと神経を研ぎ澄ましているのがサイクスにはわかる。
「ああ、男はそう呼んでいた。赦しの対価に男は殻へ信頼を寄せた。その信頼は殻の崩壊で消えた。男は殻と共に滅びながら怒りを覚えたそうだ、これほど弱いはずないとな。だが殻は最初から不完全で脆かったのだ。最後に殻を見た男はそう笑っていた」
「どういうこと、わかんないよ、それってなんの、誰のはな」
獲物に伸びた手がカイリの言葉を中途で奪った。冷たい壁でしたたかに背中を打ちつけられ小さく咳き込むのを獣は敏感に聞きつけている。大きな掌が白い喉から滑り降り華奢な鎖骨を探り当てた。
「それが俺の覚えている話の全てだ」
見開かれた紺碧の、美しい瞳がサイクスを見上げている。少女の混乱を乗せた叫びを獣は頭から呑み込んだ。

 

  • 09.05.16