本棚の陰から小さな頭を出したり引っ込めたりしているのに随分前から気が付いていた。
ページを繰りながらまるで存在を感知していないという風に振舞うのは慣れている。
幼い目がこちらの様子をじっと窺っているのは微笑ましい光景だ。
おそらく重大な議決をする前と似ている会合が頭の中で開催されているのだろう。
難しい顔をしながらそれでも好奇心のために瞳には幼い煌きが漂っている。
人が持つ純粋さが少しも損なわれていない目だ。

軽く咳をした拍子に手に持っていた本を取り落す。
革表紙が乾いた紙を押しつぶし本を愛する人間には悲しげに聞こえる音を立てた。
殊更静かなここではよく響く。
表情いっぱいに驚きを現してカイリは動きを止めた。やっと決心してこちらに近寄ろうとした矢先のことだったのでぽつりと小さな体が浮いて見える。
見上げるほどの本棚が整然と並ぶ図書室には異質な存在だった。
長い年月をここで過ごしもはや誰にも疑われること無く納まっている本達がいっせいに立ち止まったカイリを眺め品定めをしているようだ。しんとした会話が囁かれ興味深げに行動を見守っている。
アンセムが本を拾い上げほこりを払うのを見てカイリはおずおずとまた近寄る。
ほんの数歩の距離にきたところで初めていることに気付いたふりをしながら笑いかけた。
「丁度良かった。カイリ、手伝いを頼めるかな?」
迷子になっていた子供がやっと親を見つけたときのような顔をして足元に寄ってくる。
預かっていてくれと拾い上げた本を渡すと大きく頷き両手で抱え込む。
小さい体にはずっしりと重いであろう本をそれはそれは大事そうに扱う姿はいじらしいの一言に尽きる。
役に立てることが嬉しくてしかたないのだろう。
腕がしびれるのも構わずに別の本棚の前へ移動するアンセムの後ろにぴったりとくっついている。
含み笑いぐらいしてもこの幼子にはわからないだろうが、ここで打ち切ってしまうのも惜しい気がした。

違う本のページを繰る自分を見上げ次は何をすればいいのだろうと待つ姿は子犬にも似ている。
急ぎ足に資料を探し続けるアンセムに何度か口を利こうとしてその度に視線を落とすことを繰り返していた。
賢者の邪魔をしてはいけないと忠実に教えを守るカイリは今、その小さな頭で何を考えているのだろう。
鈍痛を引き寄せる文字の群れから目を離し一息つくと足元に視線を落とす。
健気に待っていた瞳がアンセムを一心に見詰めていた。
子供らしいねだるような視線ときっちり結ばれた口元の意思の強さは気の遠くなるような時間を限りなく短いものにする。
きっと美しく成長するだろう。
いつかこの子は手に持った本に愛情を注ぐようになるだろう。
そうなるのならこの図書室を丸ごと譲ってやってもいい。
成長の遅い肢体に不安を隠さないでいる者も多いがアンセムは僅かの危惧も抱いたことはない。
このあどけなさが失われず静かに育っていく様を見守るのも悪くないではないか。

いまや人々には微笑が溢れ世界には光が降り注いでいる。
それを保つための研究は生きがいであり使命だ。アンセムにはその心組みがとうの昔に出来ていた。
あまりにも多くの知識を吸収したことにより自身への飢餓感すら忘れていた。
賢者と呼ばれる自分にいかにも人らしい喜びを与え、収集家にありがちな食傷を新鮮な水で浸してくれるカイリの成長はいまや唯一の愉しみだ。
目に入れるもの全てを信じる幼い瞳がたまらなくいとおしい。
ねぎらいを込めて頭を撫でてやるとくすぐったいのかカイリは首を縮めて笑い声をあげた。

預かってもらっていた本を受け取り礼を言う。すると遠慮がちにカイリは尋ねた。
「アンセムさま、もうおしまい?」
「そうだな。今日はここまでにしよう」
花びらが開くように嬉しさをにじませるとカイリはアンセムの腕を引っ張った。
体と同じ細い腕を精一杯伸ばす。
節くれだった手に絡む小さな指は体温が高いせいか熱っぽく感じる。興奮のせいもあるのだろう。
どこへ行くのか図書室の奥へとカイリの足は向かっていた。
二つの足音に本棚に納まっている本達がわざとらしく目をそらす。
先程までは遠慮なくカイリの振舞を観察していたというのに主であるアンセムが彼女の傍に立つと揃って隠したがった。無言の会話はこうだろう。

あの子が手に取るのは私だよ。
いいやきっと私さ。

どれも的外れでおかしなものばかりだ。
長く同じ場所にいると誰かに開かれ余すことなく中身を晒さなければいけないという役目も忘れてしまうのか。
ここの奴らは自惚れが過ぎるとアンセムは思った。
選ばれたいという主張を隠さないでいるのもわからなくはないが。
手を引かれるままに笑みをもらすのにも気付かずカイリは迷路のような本棚をすり抜けていく。
最初に招き入れた日のことをよく覚えている。
聳え立つ本棚に怯えるかと思えばあれはこれはと次々と質問をしては弟子を困らせたものだ。
カイリは好奇心をすこしも隠さなかった。
読めないはずの字を穴が開くほど眺め字を覚えるのだと地団駄を踏んではまた弟子を困らせる。
読み聞かせられないほどの話があると教えたのは自分だったので多少の罪悪感はあった。
全てに目を通すまで弟子が振り回されるのだろう。そのときは文句の一つくらいなら受けてやるつもりだ。
「このごほんをよんでほしいの、です」
古びた金色の箔で鮮やかな表題を綴っている本をカイリが差し出す。
敬語を使うように言いつけられているのだろう。
たどたどしく付け加える様子にアンセムはとうとう笑い出した。
肩を震わせ口元に手を添えているのを大きな目をさらに大きくしてカイリが見上げている。
それもそうだろう。いつも優しい微笑みを向けてくれる人がいきなりそうなれば誰だって面食らってしまう。
涙を浮かべるまで笑い続けているのだから尚更だ。
「アンセムさま、どこかいたいの?」
ただ幼いカイリにはどうして笑っているかまではわからない。
笑っていることもわからないのだろう。指で目を擦るアンセムの白衣を掴んで不安げに尋ねる。
本を取り落としたのも気が付いていないようだ。
軽く咳き込んでまともな顔に戻す。
小さな手の上に自分の手を重ねてやるとやっと安心したのか瞳が細められる。
この表情を見るためなら、演技なんて軽いものだ。
「ほら、カイリ。読んであげよう。それで待っていたんだろう?」
はっとして慌てて落とした本を拾い、しかし差し出すのに戸惑いがあるようだ。
小さな頬が赤く染まっている。
陰から窺っていたことを知られたのが恥ずかしいのかもしれない。
紺碧の瞳と目線を合わせると顔を本で隠してしまう。普段物怖じしないのに珍しいことだ。
見ていないのをいいことに手を伸ばしひょいと抱える。
可愛い悲鳴をあげてカイリがしがみついてきた。
自分の身長よりもずっと高い目線に驚きが隠せないのだろう。
服を掴む手は小さいながら力強く、頼れるものに寄りかかるカイリの姿はアンセムを満足させる。
小さなカイリこそ今のアンセムが守るべきものだった。

彼女がお気に入りのテラスに面した部屋に向かうために階段を上がる。
毎日少しずつ重くなっている体を抱き上げられるのはいつまでだろう。
紅茶を飲む間にこの子は大きくなる。いつか手を引かれこの階段を上がるときもくるだろう。
暖かい頬を寄せてくるカイリの頭を撫でながらふと窓を見上げる。
どこからか湿った、それでも乾いた音が窓を叩いていたのを思い出した。


外は雨が降っていたのだ。

 

  • 06.05.04