秋の駆け足が混ざる風が穏やか日だった。
地上のさわやかな風を思い起こしながらの昼下がりは、えも言われぬ心地よさを持っていてつい欠伸を誘われる。趣味の良いソファーに長身を預けているブライグは大きく口を開けて体中の空気を入れ替えた。
雑務がいくつか残っているだけの午後はひどく魅力的だ。
急ぐ必要のない時間にまどろむブライグの眉が緩む。
呼吸をあと一つしたら眠りの帳が下りるというところで、一緒に横になっていたカイリが動くのを感じた。
「やれやれ、いけない子だな。今はお昼寝の時間だろ」
ブライグが小さな姫様と呼ぶカイリの幼い瞳に、眠気なんか少しもない。
きらきらした紺碧の瞳がだらけた様子を上から下へと見渡し、いたずらっぽく笑った。
「おひるねなんかしないよ」
ぴょんと起き上がったカイリがブライグにねだる。
「それより、おはなしして。おもしろいおはなしがいいな」
一度決めたら譲らない。ぐいぐい揺すられ仕方なく体を起こした。
「全く。カイリは悪い子らしいなあ?」
目だけで微笑みながら尋ねると笑顔がしゅんと沈んだ。
悪い子にはなりたくない、とカイリの表情が言っている。まだまだ蕾の心は拙くとも善悪を分けているようだ。
小さなカイリが意外なほどきちんと物を考え整理していることを、これまた意外だがブライグは知っていた。
からかって楽しむというやや困った趣味はあったが、カイリに向ける視線はやわらかい。
膝にのせてやると、カイリが瞳をぱちくりさせる。
「小さな姫様のご所望だ。とびきり面白いのを聞かせてやろうじゃないかってハナシ」
「まってましたーってハナシ」
花が開くように笑顔がこぼれ、カイリは床に届かない足をきちんと揃えた。

脚色を加えながらの、にぎやかな街とはちゃめちゃな住人が繰り広げる大騒ぎにきゃっきゃと手を叩いていたカイリがふとつぶやく。
「ね、サンタさんていつもは何してるのかな」
「ん?」
話を中断させたブライグを見上げる表情は真剣だ。
かわいく寄せられた眉をつついてやると頬をふくらませた。
「だから、クリスマスじゃないときは、どうしてるのかなっておもったの」
万聖節も近い今はどう過ごしているのだろうとカイリは訊いているのだ。
子供らしい純粋な疑問にブライグは顔をゆるませる。考えもしないことを言い出すのでおかしかった。
「勿論普通に暮らしてるさ。そこらを歩いてるのに気付かなかったか?」
目を丸くしてきょろきょろするカイリをブライグは笑った。
素直になんでも信じてしまうところは、まだまだ子供だ。
からかいがいがあると頭を撫でてやるブライグの声は楽しげだ。
「おいおい、そう簡単に見つかったら大事だろ。正体がばれたらどうする」
「あ、そっか」
会えないことにがっかりしたカイリがうなだれる。力の抜けた小さな体をブライグは預かってやった。
体温の高い体は毛布よりも具合が良い。
再び眠気に誘われたように欠伸をすると、つられてカイリも大きく口を開けた。

カイリは、不思議とブライグの心を凪がせる。
からかえば倍になって返ってくる面白い反応を楽しんでいると、いつのまにか、笑ったり泣いたりするカイリを注視していることに気付くのだ。
アンセムのようになっているのかもしれないと思うと、ブライグは少し寒気を覚える。らしくない。
上にも下にも置かない扱いと、元々敬うという感情の薄いブライグはあまり縁が無かった。
カイリはただの少女だ。あどけない好奇心に溢れた甘えたがりのカイリをどうこうしようという気持ちは薄い。
(何しろとんだお転婆だからな)
そのお転婆を扱うにはちょっとしたコツがいる。
うとうとしているカイリの背を支え寝かせてやった。
昼寝をしないで体力が持つはずないのに、頑張ろうとするからこうなる。
膝の上で丸くなったカイリにブライグは好意的に溜息をついた。
姿が見えないと大騒ぎになれば、日のあたる窓際で安らかに寝息を立てているカイリがいた。
物置として長らく忘れ去られていた部屋の錠前がとうに錆付いて開かないものであっても、ブライグは驚かない。
世界がどうとかというアンセムの言葉を信じるのはもとより、彼女のまわりで起こる説明のつかない事象について、ブライグは否定も肯定もする気はなかった。
迷子になるくせに抜け道を探すのがカイリは得意なのだ。
目聡く発見した隙間に入り込んでしまう好奇心は厄介といえば厄介か。
体が小さいままなせいもあるのだろう。贔屓目にみてもカイリの成長は遅い。
どんな風に成長するかは楽しみだが、焦らされるのは好きな方ではなかった。
(大きくなれよ、小さな姫様)
アンセムの溺愛ぶりをからかう意味もあってブライグは小さな姫様と呼ぶ。
自分が呼ばれたとカイリが振り返るようになるまで、そう時間はかからなかったのだ。


寝込まれてしまったので動くに動けない。
仕方なく起きるまで待っているブライグは、ゆっくりと近寄る気配に目を通していた資料から顔を上げた。
「見ての通りお昼寝中だ」
穏やかな寝息をたてるカイリを見下ろすアンセムが目を細める。
「ああ、どうやら出直すしかないらしい。天使は羽を休めているからな」
そう言いつつ寝顔に見入るアンセムを、ブライグは低い声で笑った。随分と歯が浮くようなことを言う。
実際アンセムにはぼかして物を言うところがあり、それは弟子に対しても変わらなかった。
膨大な知識を蓄え賢者と呼ばれるようになると、出し惜しみをするようになるらしい。
ブライグが片手で差し出した資料を受け取ったアンセムはすぐに表情を戻した。
今の研究に関する記述を拾い集めたそれを厳しい目で読んでいる。
「お前はどう思う。私達は許されると思うか」
静かだが大げさな言い方に、ブライグは目だけで笑った。
「決めるのは俺達じゃないんだろ? だったら、心がけ次第だろうな」
起こさぬように声量を抑えているが、ブライグの言葉には見えぬ苛立ちが潜んでいる。
僅かでも迷いを見せるアンセムを腹立たしく思うところがあった。慎重になるのは構わない。
だがそれは、臆病と称される迷いだった。
闇雲といっていいほど貪欲な知識欲を持っていた頃のアンセムを知るブライグは物足りなさを感じている。
自分がかつての彼ほどの欲を抱くようになってからは余計にわずらわしい。
それほど臆病になるのはなぜだと尋ねれば、また賢者という面の下に隠すのだろう。
「では心に尋ねてみるとしよう」
アンセムの穏やかな微笑みに、ブライグは軽く肩をすくめて返した。

膝の上で眠るカイリがもぞもぞと動く。長い睫が縁取る瞳はぼうっとアンセムを見上げた。
「アンセム、さま?」
目が覚めきっていないのでうまく口が回っていない。目をこするカイリの頭にアンセムはやさしく手を置く。
「すまない、起こしてしまったな」
ううんとカイリは首を振る。腕を伸ばし大きく欠伸を一つすると、もう一度アンセムを見上げた。
ずり落ちそうになる体を抱えなおしてやりながら、ブライグはカイリの視線を追ってみる。
カイリは初めて会ったかのようにアンセムをまじまじと見つめていた。
いつも通り髭は整えられているし、笑い話になるようなところは一つも無いはずだ。アンセムの背から差し込む夕陽が白衣を染めているほかは変わったところはない。
「それではお茶を一緒にどうかね。おやつも用意してある」
反応は、あまり無い。
いつもなら大喜びで飛びつくのに珍しいことだ。まだぼうっとしているカイリを床に下ろそうとしたブライグは、紺碧の瞳が深い感動に染まっているのに気が付いた。
「どうした。良いものでも見つけたか?」
はっと我を取り戻したカイリはブライグを振り返り小さな手で口をふさいだ。
まるで秘密を喋ろうとする口にしっかりと栓をしているようだ。
普通に暮らしていて、普通に歩いてる。
ぴたりと重なった条件に幼い心はどきどきしていた。
「しー、しょうたいはないしょなんだよ」
その言葉に全てを理解したブライグは悪戯を思いついた子供のように目を輝かせる。
「そうだったそうだった。俺としたことが忘れてたぜ」
取り残されたのは何も知らないアンセムだ。
こそこそとするカイリとブライグを心配げに見守っている。
その様子があんまり気の毒なのでブライグはふきだすのを堪えるのに全神経を注がなければならなかった。
絶対に秘密は守ってみせると胸を張ったカイリが、アンセムを安心させるように言う。
「だいじょうぶ。わたし、ちゃーんとわかってるからね」
一人でソファから飛び降りたカイリは元気よく走り出した。
あまいおやつが待っているのに、じっとしていられないという風だ。
大切な秘密を知ったカイリはにこにことアンセムを見つめ、頷いてみせる。
身軽に走り去る背を見送りながらアンセムは訳が分からないと首をひねった。
「どうやらあの子は、まだ夢を見ているらしい」
半ば困惑しながらもカイリの無邪気な様子に細められた目はあくまでもやさしい。
「そいつは違うな。ま、今度の祭りは赤い帽子をかぶってやるといい」
親切にも仮装の準備を手伝ってやろうとブライグは考えていた。今から楽しみで仕方ない。
お菓子をもらいにきたカイリが驚く顔を想像しただけで顔がゆるんでしまう。
とんでもない大騒ぎになるに違いない。しかもそれを楽しめるのは、自分だけなのだ。
「アンセムさまもブライグもはやくー」
いつまで経っても来ないのにしびれをきらし戻ってきたカイリが、大きな声で二人を呼んだ。

 

  • 07.11.04