「やはり処分する他あるまい」
重々しい低い声が、死の宣告を告げた。

机上に鎮座したものが、聞き捨てならない言葉に顔色を青林檎のごとく青くする。元々が青林檎色だが。
蔑みに似た視線を向けたアンセムは長い長い溜息を吐いた。
「惜しくはあるが、こんなものは世界の為にならない。徒に混乱させるだけだ」
賢者アンセムには、世界を守る義務がある。
が、こんなもの呼ばわりされた彼はさぞかし不満だろう。
しかし生き物のように意思表示をすることがかなわない彼は、黙って耐えた。
いわれのない屈辱に、自身を包むガラスビンをかすかに揺らすにとどめる。

イマニミテロヨコノジジイ (←魂の叫び)

物影をのぞいたアンセムが首を傾げる。
「……? 妙だな、誰もいないはずだが」
老いの兆しが見えたとはいえアンセムはまだまだ健全だった。
鬱陶しいほどの地獄耳は弟子達の間で至極不評なのはいうまでもない。
幻聴を聞くほど疲れているのだろうかとアンセムは目頭を指で押す。
「まあいい」
そう言って椅子から立ち上がると姿勢の良い背中が影になって伸びた。
アンセムはガラスビンをつまらなそうに一瞥すると、研究室の扉へ足を向ける。
「午後は来客、夜は会食だったな。困ったものだ、これでは相手をしてやることもできん」
多忙を極める賢者アンセムには、やらなければならないことが山ほどあった。
「ふ、愚問だな。どちらが大事かなど比べるまでもない」
午後の予定を早々に切り上げると決めるまでたった3秒。
それでいいのか、世界を治める賢者として。


ともかく、偶然この世に生を受けた彼の寿命は少しだけ延びたらしい。
一粒きりの彼はビンの底で息をひそめる。

キエタクナイ キエルモノカ (←魂の叫び)

生まれた瞬間から歓喜の声に歓迎されることのなかった彼は、生まれついて欲望が強かった。
できるなら、顔色の悪い男の見事なでこに目が眩んだなどという、忌まわしい誕生の瞬間は忘れてしまいたい。
完全な肉体も心も無い彼が持っているのは、強い願いだけだ。
己の職務を全うしたいという、ある意味健気で、ある種狂気じみた願望。

一方別室では。
「体内で生成される要因は何だ? くそ、これではデータが足りん…。もっとデータを集めなくては」
強靭な精神力が支えている、『知る』という本能を果たさんとする科学者の姿。
徹夜が続いているエヴェンの顔色は至極悪い。
しかしその口元には、狂気との境にあるひどく歪んだ笑みが浮かんでいた。
そんないかにもな親から、彼は生まれた。いわゆる似た者親子だ。


エヴェンからアンセムへと無造作に提出された彼は、はるか頭上から降ってきた独り言に、ビンの底で戦慄した。
偉大な結果である自分を処分するという男が許せなかった。
数多の実験から生まれた科学の粋であると自負している彼は、アンセムと呼ばれた男を心の底から軽蔑した。
自分を無碍に扱う者など、科学者として認めない。断じて認めない。

マチガッテイルノハオマエダ! (←魂の叫び)

再び声の限りに怒りを発するが、無人の研究室には画鋲が落ちた程度の音がしただけだった。
所詮は小指の爪ほどもない大きさ。よくて子供用の飴が関の山だ。
彼の生は、何の変哲もないビンの底で、束の間の時を経て終わるのだろう。

ミテイロ ミテイロ (←魂の叫び)

簡単に諦められるはずがない。
我が身を燃やさんばかりに憤りながら、彼は考え続けた。
アンセムに自身の偉大さを理解させる手は、ないものか。


そのとき、幼い少女がぱたぱたと研究室へ駈け込んできた。
「アンセムさま、おやつの時間だよ!」
あたたかな深紅の髪が揺れ、大きな瞳はきらきらとした明るい光が灯っている。
ふっくらとした頬はほんのりと赤く、賢そうな口元がかわいらしい。
「あれ、おるす?」
部屋の真ん中でカイリが立ち止まる。
小さな手にアイスを持ちながら、きょろきょろと部屋の主を探した。
「アンセムさまはやくー。アイスとけちゃうよー」
隠れていると思ったのだろう。机の下をのぞきこみ、隠し扉まで開けている。
予定を知らないカイリはしばらく探し回り、いつだってやさしく頭を撫でてくれる人がいないことをようやく認め、かわいらしく頬をふくらませた。
アイスの表面にはすでにうっすらと水滴が浮いている。
研究室は適度な気温に保たれているが、氷菓子まで快適とはいかない。
床にこぼさないようにと、少し離して手を添える姿はとてもいじらしい。
「こまったなあ、どうしよう」
と小さなまゆをひそめた。
このとき既にカイリはおやつを済ませている。
「いいですか、アイスは1日1本までですよ。お腹を壊してしまいますからね」
耳が痛くなるくらいイエンツォに言われ続けているカイリは悩みに悩んだ。
「でも、とけたらかわいそうだよね」
食べられるのを待つだけのアイスというのは、カイリにはとても魅力的だった。
ひんやりとしたアイスが喉を通る感覚を、思い出してしまう。
すっきりとしながらもあとを引く甘さが、カイリは大好きだった。
晴れた日の空と同じ透き通った色もお気に入りだ。
こくりと、細い喉が鳴る。

「ほうせきがアイスになったみたいだね」
幼いカイリがとろけるような笑顔で甘いささやきをつぶやけば、大人達は親しみを込めた笑顔を向け、その小さな頭を撫でてやった。めったに笑わないエレウスまでもが、顔をその大きな掌で隠しながら笑ったのだ。
笑われたのに、カイリはなんだかうれしくて、もっと笑顔になる。
そそがれる愛情を、成長途上の心は、しっかりと受け止めていた。

だが大人達が不在の今、カイリの真剣な悩みを解決するのはカイリしかいない。
悩む間もアイスはじわじわと溶け始めている。もはや一刻の猶予もなかった。
「あ、そうだ!」
所在無げに立ち尽くしていた迷子が親の姿を見つけたように走り出す。
白いワンピースの裾がふわりと浮いた。
年月を経た木の香りがする机から、アンセムの椅子をどうにか引き出す。
小さな手でおまけに片手では随分重いはずだが、カイリはきちんとやりとおした。
ほとんどよじ登るように腰かけると、椅子は最初から心得ていたようにカイリを抱きとめてやった。
「アンセムさまのだいりにんならいいんだよ。だってだいりにんなんだからね」
覚えたばかりの言葉を使えた嬉しさも相まって、カイリは満足げにほほえむ。
なんにしろ、アイスだって食べられないままでは気の毒だ。
アンセムもそう言うに違いないと、カイリはもっともらしくこねた自分の屁理屈にご満悦だった。
「おほん。よくきてくれた。わたしはアンセム、この世界のみなはけんじゃとよんでくれている」
声を作り誰もいない机のむこうに向けて仰々しい口上を述べる。
研究室はしんと静まり返ったままで、何の反応も返ってこない。
仕方がない、今は褒めてくれる大人はいないのだ。
カイリはちょっと口をとがらせると本日2本目のアイスをかじった。


コレダ コレダ コレダ コレダ コレダ

いきなり向こうから走ってきて立ち止まって近寄ってきて物真似をした幸運に彼は歓喜していた。
おそらく、これほどの機会は二度と訪れない。彼はあくまでも慎重に事を進めるつもりだった。
確実に結果に結びつけられるよう、しゃりしゃりと青い物体をかじっている被験体を注意深く観察する。
「わあ、あたり!」
被験体は青い物体の中から現われた棒にきゃっきゃと声を上げた。
見かけの年齢から比べれば体長は平均以下だったが、血色の良い肌は申し分ない。
健康体であればあるほどその効果は実証される。
何よりも被験体の無邪気さこそが、彼にとっては重要だった。
研究室の外に人の気配がないことを確かめ、持てる力の全てを注ぎ、被験体の精神と同調を試みる。

コッチ コッチ

「え、だあれ?」
聞きなれない声にカイリはきょろきょろする。
彼は喜びのあまり破裂しそうだった。
被験体が、物体である自分の声をこれほど聞きとれるとは。
幼さ故か、それとも心の純真さが要因か。どちらにしろ、カイリは敏感に感じとり、反応を返してくれた。
偶然を奇跡と呼ぶのならば、まさに今のこの状況に相違ない。

コッチヲゴラン

「こっち?」
椅子を足場にして上半身を机に乗せるように身を乗り出す。
カイリが寝ころんでもあまるほど広い机の上には、彼がいた。
「これなんだろ?」
上手い具合にカイリの手がビンへと伸びる。
思い切り腕を伸ばし爪をひっかけながら少しずつ引き寄せ、小ぶりのビンをその手に取った。
コルクの蓋がしてある。小さな手の中におさまったビンが揺れれば、彼は底で転がり大きく円を描いた。

フタヲ アケテ

「ふたを、開ければいいの?」
声はまだ聞こえている。
姿の見えない人物を探すが、やはり研究室には誰もいない。
首をかしげながらもカイリは言われるがままに手に力を込めた。
「んしょっ、と」
ぽんと良い音がして蓋がとれた。
たった一粒だけ入っているなんて普通ではない。
ころころと、ビンの中で転がっている飴のようなものを、カイリは不思議そうに眺めた。

サアワタシヲ

誰もいないはずなのに、声はカイリに語り続けた。
けれど、今度は探すことはしない。
大きな瞳は、彼をひたすら追いかけることに集中している。
彼は、カイリの網膜に自身を焼き付けることに成功していた。
青と緑を丁度半分ずつ混ぜた、禁断の果実の兄弟として相応しい色を、紺碧の瞳がじっと見つめている。

ワタシヲ ソトヘ

同調した精神が蜘蛛の糸のように絡みカイリの意志を奪っている。
糸で操られたようにビンを傾け、彼を小さなてのひらに載せた。
すんなり事が運ぶことに、彼すらうすら寒いものを感じている。
まさかこれほどの被験体と巡り合えるとは。
恍惚とした高い叫びに、カイリはびくりと身をすくませた。
しかし視線を外すことができない。

ワタシヲ オタベ

桜色の唇が小さく開かれる。
勝手なことをしてはいけないとカイリも頭の中ではわかっている。
なのに、彼をつまんだ指は唇へと近付いていた。

ふと、ブライグに読んでもらった絵本を思い出した。
読んでもらった絵本の、美しい姫は、どうしてか糸車の魔力から逃れられなかった。
カイリはそれが悔しくて悔しくてしょうがなかったのだが、今ならわかる気がする。
こんな風に、駄目だと思っていても、体が勝手に動いてしまうのだ。

舌の上に甘ったるい味が広がる。アイスとは違う、ねばついた甘さだった。
「ア、ンセム、さっ……」
胸元をおさえ助けを求める声を狭い喉の中で聞きながら、彼は最後の嬌声を上げた。
すでに効果は出始めている。実験の成功は間違いないだろう。
彼は勝ったのだ。
消えながら彼は、薬としての本懐を果たし、ひどく満ち足りていた。

コレ デ… イ…イ…


握力を失った手から離れた空のビンが床に落ち、机の下をすりぬけ研究室を横断するように転がる。
小さな体を預かっている椅子が、不気味にきしんだ。




細々とした用事は残っていたが、アンセムは真っ先にカイリを探した。
客の相手をしているときから妙な胸騒ぎがしてならなかったのだ。
気のせいだと笑い飛ばしたが、煩わしい胸やけは一向に消えようとしない。
「研究室へ?」
はいとカイリの母親が頭を低く下げる。
おやつを持っていく、と張り切っていたと聞いて、アンセムはほっとした。
自分が不在でさぞかしがっかりさせてしまっただろう。
「それは申し訳ないことをした。機嫌を悪くさせてしまったら私が責任を取ろう」
まあと口に手をあて小さく笑う母親に、話もせずに去る不躾を丁寧に詫びながら足早に研究室へ向かう。
地下への廊下を行きながら、アンセムは自分の根拠の無い胸騒ぎがおかしくてならなかった。
(私も老いたな。それほどあの子が心配か)
口の悪いブライグは、アンセムの過保護ぶりをよく話の種にする。
アンセムは困りながらも、弟子達の間で花を咲かせるその話を聞いていた。
実際にからかわれるほどだと自覚があるので、一緒に笑う以外はない。
いまだ姿を隠したカイリの背負った運命を思えば、自分が笑いものになるなど、ほほえましいものだ。

時折アンセムは思うのだ。
運命などという不確かなものを怖れる必要はないのではないか。
世界が描いたというさだめの道など、最初から存在しないもので、自分が抱く様々な憂いに錯覚しているだけなのではないか。
廊下の前後に長く響く靴音にアンセムの口元が緩む。

恐らくこの先も、自分の憂いは消えることはない。
そしてそのまま、あの子の時と共に、流れていくのだ。

研究室の扉を開けると、硬質なものとぶつかった。
音を立て転がったビンは流れた先の壁に止められ動くのをやめた。
目の端でとらえたそれと、茫然と自分の両手を見つめるカイリに、冷静さを欠くことのないアンセムの理性が状況を把握する。
「何てことだ」
平坦な低い声に、カイリがはっと顔を上げる。
アンセムの姿に、突然の変化に驚き戸惑っていたカイリの瞳は、ようやく見つけた浅瀬にほころんだ。
浅瀬へ行こうと細い足が立ち上がるが、すぐに重心を崩した。
体を支えようとした手は、空気を掻くばかりだ。
まるで自分の体を扱いきれないという風に、カイリは床に滑り落ちた。
すらりと伸びた白く健康的な脚はしどけなく投げ出され、着ているというよりは貼り付いていると言ったほうが正しいぴったりとした服が上半身のラインを浮かばせている。苦しそうな胸のあたりが呼吸のたびによりふくらむ。
くびれた腰から上を起こそうとするカイリへとアンセムは駆け寄り、頼りない体を支えてやった。
「私のせいだ、私が愚かだったのだ、許してくれ…」
絶望と嘆きに染まったかすれた声は、カイリを悲しくさせた。

やっぱり、食べてはいけなかったのだ。
約束をやぶったから、これはおしおきなのだ。
だから、アンセムさまを泣かせてしまうのだ。

「ごめんなさいアンセムさま、アイスがとけちゃうと思って」
「アイス?」
ちゃんと言いつけを守らなかった自分が恥ずかしくて、鼻がつんと痛くなる。
頑張って作った笑顔が、アンセムの悲しげな目の中に映っていた。
「へへ、だいりにんになってたべちゃって。だからかな、おこられちゃったみたい」
それ以上は言葉にならず、ぐっと涙をこらえるカイリの髪をアンセムが撫でてやる。
カイリが言わんとしていることはさっぱりわからなかったが、命よりも大切な少女が打ちひしがれている様は、アンセムの心を万力みたいなものでがっちりと鷲掴みにした。
成長してもかるい体を立たせ、背中をさすってやると、強張ったカイリの体から力が抜けた。
「アンセムさま…」
カイリは爪先立つと、慣れた仕草で首に腕を回し、広い肩に顔を埋める。
この肩が、たくさんの重荷を背負っていることを、カイリはちゃんと知っていた。
難しい顔で世界を眺める目がやさしいのを、横で見ているからだ。
よくわからないけれど、とても心配で、だからアンセムも大好きなアイスで、元気を出してほしかった。
そのアンセムがこうして抱いててくれるなら、カイリは何も怖くない。
「そんなことはいいんだ。すまない、私のせいで君をこんな目に合わせてしまった」
深く抱きしめあった影は2度と離れることはないように思われる。
清廉で、互いを慈しむ愛情を伴った抱擁は、さながら名画のようだ。


いや、よくないだろそれ。
丁度研究室を訪ねたところで一部始終を目撃してしまったゼアノートはまず周囲に人がいないことを確かめた。こんな光景を外部へ露呈させるわけにはいかない。
(研究室に連れ込むとは、あまりにも軽薄すぎる。せめて自分の部屋にすればいいものを)
白昼堂々と薄着の、しかもアンセムにとっては孫ほどの歳の少女としっぽりだなんて、褒められたものではない。
ゼアノートは少女の白い手足を、なるべく視界に入れないようにしながら、師に対する尊敬その他諸々を崩壊させられた恨みをアンセムに向ける視線に込めた。
「ああゼアノートか。丁度いい、それを貸してくれないか」
「は、これを?」
それと指さされた自分の白衣をつまむ。アンセムはそうだと重々しく頷いた。
「このままではこの子が風邪をひいてしまう」
「…でしょうね」
納得いかないことが多々あるが、彼女に薄着のままでいられてはゼアノートも気が散る。
大人しく渡してやると、アンセムは少女から体を離し、その細い肩に甲斐甲斐しく白衣をかけてやった。
よっぽどいやらしくなった気がしないでもないが、露出度はぐっと抑えられたので、とりあえず安心だ。
「ありがと、ちょっとかりるね」
「い、いや、別に構わないが」
明るく礼を言われ、ゼアノートのほうがしどろもどろになる。
なぜ当事者が平然としていられるのだろう。
普通、もっと気詰まりな雰囲気になるものではないのか?
「それからエヴェンをここへ。いや、全員を集めてくれ」
「今すぐに、ですか?」
「無論だ。事は緊急を要する」
見られていると興奮が増すという下品な話を、ゼアノートも小耳に挟んだことがある。
だがそれを、よりにもよって自分の師の口から聞かされると、目の前が真っ暗になる気がした。
「しかしアンセム様、性癖を暴露するなど正気とは思えません」
不道徳な単語から遠ざけようとアンセムは素早く少女の耳を塞いだ。
一番弟子の才能は高く買っているが、一旦決め込むと他が目に入らなくなる性格には手を焼いている。
「ゼアノート、一体何を勘違いしているのだ。独り合点はお前の悪い癖だと言っただろう」
「貴方の為に進言しているのです。どうかこれ以上品格を下げる真似はお控え下さい」
「私はむしろお前の想像力のたくましさを疑いたくなるがな」
盛大な溜息をつくと、少女をゼアノートの前に導き立たせた。
前がはだけた白衣からはちらちらと細い脚が見え隠れしている。
赤面して勢いよく顔を背けたゼアノートに、アンセムはつくづく彼の若さと思い込む性質を惜しんだ。
ゼアノートの反応が、ほんの少し羨ましくもある。
「信じ難いだろうが、この子をよく見てみろ」
やはり露出した肌を見ないように努力しながらゼアノートはじっくりと少女の顔を眺めた。
いたずらっぽくほほえんだ瞳は挑戦的で、紺碧の瞳は澄んでいる。
美醜に関しては少々淡白なゼアノートの目にも、可憐な少女だった。
しかし、どことなく見覚えがある。
「……まさか」
色を失うゼアノートに、アンセムはゆっくりと頷いてみせた。
「隠し子がいたとは」
「いい加減にしないか」



緊急招集に駆け付けたアンセムの優秀な弟子達の反応は様々だった。
「はははは、こいつはいい。まさか小さな姫様が大きな姫様になっちまうとはなあ」
「まるで信じられんが、信じるしかあるまい。現実に存在するのだからな」
「たとえ結果が出てもデータにならなければ話にならん。全く、惜しいことを」
「急激な成長以外に異常が無いのは不幸中の幸いだ。カイリ、体に痛みはないのだな?」
「こんな非常識なこと認めたくはありませんが、こうなった以上認めざるを得ないでしょう」
ただ一人見当外れの勘違いをしたゼアノートはあまりの恥ずかしさに穴があったら入りたくて仕方なかった。
豪快に沈んでいる一番弟子はひとまず置いて、騒がしさが落ち着いてからアンセムは口を開く。
「エヴェン、あのサンプルは一つきりなのか?」
「あれだけだ。どう扱うかは貴方に任せると伝えたろう」
中心に囲まれているカイリを上から下まで眺めながら、エヴェンが苦い声で答える。
(なぜ今回に限り効果があったのだ。人体においてのみ成長を促すのか?)
白衣に隠れた体内はどうなっているのだろう。
腹を掻っ捌けば、わかるだろうか。
そういう狂人じみたものが宿った目がカイリをねめつけている。
マッドだ。ものすごくマッドだ。
得体のしれない寒気がカイリを包む。
「なんだかさむいね。ゆきだるまつくれるかな」
ぞくりと体を震わせ二の腕をさする無邪気な少女に、エレウスは曖昧に頷いてやった。
「サンプルですって? 聞き捨てなりませんね。僕らは何の報告も受けていませんよ」
「知らないのも当然だろう。あれは偶然の産物だからな」
ブライグは禍々しい視線からカイリを背中に隠すと、肩をすくめてみせる。
「なるほど、意図せず偶然にもでかくしちまう迷惑な薬を作っちまったわけか。そりゃ大したもんだな」
その通りだと呆れたディランも頷き、エヴェンを冷たい目で見下ろした。
「データにこだわるあまり本質を見誤ったな。大方失敗作だからとろくに調べもしなかったんだろう」
「私は失敗などしていない! 動物実験でも老化がごく僅かに進行するのみだった!」
「ではなぜ手放した。お前はいつもデータデータと騒いでいるではないか」
「サンプルとしての役目は終わっているからだ。既に老化が始まる過程のデータは集め終わっている」
「フン、この結果を見てみろ。それが甘いというんだ。先を求めるあまり玉砕する者の典型だな」
「なんだと!」
「二人とも落ち着け。言い争いなど無駄だとわからないか」
師の目の前で大の大人が騒ぐみっともなさに耐えかねたエレウスが仲裁に入る。
取っ組み合いに発展した場合の結果を思うと、エヴェンがますます哀れで止めずにいられない。
大柄なディランと痩せ型のエヴェンが向かい合う光景は、何かに似ていたからだ。
東方の世界にあると伝えられている、ハブとマングースが戦う伝統行事とかに。
賑やかな展開をにやにやと眺めているブライグの背中から、カイリがひょっこり顔を出した。
「けんかしてる?」
「ん? ま、そんなとこだな」
「ふうん」
南国ちっくな面白いことが始まりそうな気配にカイリもちょっとわくわくしていたが、イエンツォの厳しい目に、あわてて頭をひっこめた。
「いいんだ、エヴェンは参考までにと私に報告してくれたのだ。この事態を招いた責任は私にある」
「ですがアンセム様、この、彼女を元に戻す為にもサンプルがなくては」
この子と言おうとしたゼアノートが、カイリの姿を見てとっさに言い換えた。
幼子のように清らかな光を持つ瞳はともかくとして、見た目は大人のそれに近いからだ。
(あれで結構免疫が無いんですね)
イエンツォは年上であるゼアノートへの認識をやや改めた。
「ほら、動いてはいけませんよ。前を留めなくては」
「でもうごきづらいよ」
「我慢して下さい、そんな恰好でうろつかれてはこちらが困るんです」
「もう、せっかくみんなとおそろいなのに」
念には念をとばかりに、安全ピンでカイリの着ている白衣の前を留めている。
きちんとした服装をさせられないのは教育係として不本意だが仕方無い。
(あれで結構純情なんだな)
ゼアノートは年下であるイエンツォへの認識をやや改めた。
お互い、どこかしら誤解があるのは否めない。

「確かにサンプルは無いが、悠長にしている暇もない。カイリにこれ以上のことがあれば私は…」
思い詰めたアンセムの表情は暗い。
胸騒ぎがしきりに思い出され、アンセムは自分の迂闊さを呪った。
苦渋に満ちたアンセムをカイリは心配そうに見上げている。
その頭の上に、エレウスが大きな手を置いてやった。
「おいおい、俺達が誰だか忘れてないか? 賢者アンセムとその弟子達だろ?」
輪の中に大きく腕を広げ割って入ったブライグに視線が集まる。
演劇のような過剰な仕草に、ディランは笑った。ブライグの言おうとしていることが読めたのだろう。
「ふ。まるでヒーロー気取りだな、ブライグ」
「そうとも、さしずめ毒林檎を食べたお姫様を救う7人の大人、ってところか」
「なんですその聞き苦しい呼び名は」
不平を唱えるイエンツォの肩にブライグがわざとらしく腕を回した。
「おっとご不満かな、若き煌きの騎士イエンツォ殿?」
「それも遠慮させて頂きますよ」
ばかばかしい、と手を払いながらも、イエンツォの表情は普段より幾分やわらかい。
「ですが、ヒーローになるのは悪くないですね」
不敵な笑顔、眉を寄せたしかつめ顔、静かな沈黙。
それぞれに浮かぶ表情は違うが、困難だと思わせる要素は誰にもなかった。
我知らずアンセムの胸が熱くなる。
「そうだな。私達はアンセムと、その優秀な弟子達だ」
賢者として相応しい顔つきに戻ったアンセムに、皆一様に満足げだった。
「決まりだな、すぐに取りかかるぞ」
「余計な手間をかけさせおって。これだから子供は気に食わん」
「貴方が原因の一端を作ったことをお忘れなく」
「済んだことだ。一々蒸し返してやるな」
「いい子で待ってろよ、すぐに小さくしてやるからな」
「ああ、我々なら何も問題ない。彼女の為にも急ごう」
「おー!」
全員が一斉に振り返るので、片手を元気よく天井に上げていたカイリは、きょとんと目を丸くした。



「声が?」
「こっちこっちって」
手振りを交えて説明するカイリに、ふむ、とアンセムが顎に手を添える。
「幻覚作用もあったのでしょうか?」
カイリの話は聞けば聞くほど不可解なことが増えた。豊かな感受性がそうさせるのだろうか。
「…だといいのだが」
「今なんと?」
「いや、独り言だ」
目の下を押さえ眼球を観察し、歯並びの良い口を開けさせ、細い手首から脈を取る。
「ふふ、つめたあい」
あばらに添えられたひんやりした聴診器に、カイリが身をよじらせた。
アンセムに言われた通り記録をつけながらゼアノートの頭をふと疑問がかすめる。
「声に聞き覚えは? そうだな、アンセム様や君のお父上の声に似てはいなかったか?」
「ちがったよ。でもここがじんとしてくらくらした」
額を押さえたカイリに、ああとゼアノートは納得した。よほど強烈な作用だったのだろう。
聴診を終え立ち上がった、やけに無口なアンセムの背を見送ってから、丸椅子で足を揺らしているカイリと目線を合わせる為に膝を折る。
「これでわかったろう? 今後はあまり欲張らないことだ」
これも弟子の務めと、可愛がるあまり叱れないアンセムに代わって、やや強めに言い聞かせた。
まだ幼い子が手を出したくて、都合良く解釈してしまうのは仕方の無いことだ。
だが一度痛い目を見れば学ぶだろう。自分にだって経験がある。
普段より低めの声にカイリも反省したようだ。しゅんと頭を下げている。
「そうだね、アイスは1日1本までにする。もうこりごり」
そういう意味ではないのだが、ゼアノートもそれ以上叱る気にはなれなかった。
今のカイリに対しての戸惑いもある。どうもやり辛くてかなわない。
ぎこちなく頭に置かれた手に、カイリはくすぐったそうに笑った。


エレウスの気遣わしげな視線にカイリは胸を張ってみせた。
「へいきへいき、ちっともこわくないよ」
その割に細い指が、ブライグの袖をがっちりと掴んで離しそうにない。
器用な太い指が駆血帯を巻くのを、緊張に満ちた瞳が追っている。
「そう堅くなるなよ。エレウスは上手いからな、全部任せてりゃいい」
誉められてもあまり嬉しくはなかったが、手早く済ませてやろうと脱脂綿をすべらせた。
途端にカイリは全身を強張らせる。強がりも言えなくなった唇が、きゅっと真一文字に結ばれていた。
「やれやれ、困ったお姫様だ」
肩をすくめたブライグが自分の体で採血する腕とカイリの視線を遮った。
頭を自分へと引き寄せ、首だけ振り返るとエレウスへ顎をしゃくる。
「っ…」
「すぐ終わるさ」
ブライグが低い声で言う通り、それほど時間はかからなかった。
採血針が抜かれ止血が済んでもカイリは離れられずにいる。よほど怖かったらしい。
苦笑を浮かべるブライグが、指どおりのいい髪を撫でていると、寄りかかっている体の重さが違うのに気付いた。
「このカイリに会えるのはいつだろうなあ?」
「すぐだろう。我々が考えているほど時は長くない」
「はは、お前はその頃も相変わらずお堅いんだろうぜ」
和やかな会話におそるおそる目を開けたカイリは、恐怖の注射の時間がとっくに終わっていたことを知った。
「すごい、ぜんぜんいたくなかったよ」
「だろ?」
「エレウスってほんとにじょうずなんだね、すごいすごい!」
やはり誉められてもすんなり喜ぶわけにもいかず、エレウスは眉根を寄せた。
といっても、いつもとあまり変わりなかったが。
「お前も偉かった。よく泣かなかったな」
褒められたカイリは素直に頬を染め、エレウスの太い首に飛びつく。
珍しく困惑を浮かべるエレウスを、ブライグは遠慮なく笑うことにした。


「目を瞑っていろ、そのまま動くな。よし、始めろ」
気を付けの姿勢で立たされたカイリは、瞼越しでもわかるほど強い光に目がくらんだ。
青白い光の帯が、額から爪先までを縦に横に移動しながら流れていく。
カイリはその光の中でほんの一瞬、やさしげな男性が手を振っているのを見た気がした。
「もういいぞ」
ディランに言われ目を開けると、世界が全部銀色で、思わずぺたんと尻もちをつく。
「目がちかちかする。あたまいたい。エヴェンがいじわるしたからだ」
「聞こえているぞ!」
壁際に設置された大きなディスプレイの前で、エヴェンがわめいた。
べえっと舌を出すカイリにディランは低く笑う。体が成長しようが生意気さは変わらないようだ。
「立ちくらみか?」
「ん、ちょっとね」
差し出されたたくましい腕にすがり体を起こす。
ディランにはまだまだ届かないが、いつもより高い目線はカイリに新鮮な驚きを与えた。
無機質であまり好きになれなかった機械というものも、こうして見ると違う印象がある。
「今のはなに?」
「お前の体を照射しプログラムを介して分析しているのだ」
説明したディランは、む、と顔をしかめる。果たして幼いカイリが理解できるだろうか。
「そっか、コンピューターってそうつかうんだね」
わかっているのかいないのか、うんうんと一人頷いているカイリにまた顔をしかめた。
一仕事終え気持ちよさそうにカイリが体を伸ばすと、床すれすれの白衣の裾から裸足の爪先がのぞく。
「おい、靴はどうした」
「くつ?」
裾を持ち上げてみると、いつの間にか裸足だった。
たった今気付いたという風に、カイリはかわいらしく舌を出してみせる。
「へへ、どこかにおいてきちゃったみたい」
指を拡げ縮めた白い足がそのまま歩くと、ぺたぺたと気の抜ける音がする。
「ま、いっか。つめたくてきもちいいしね」
そういう問題ではない。
「世話の焼ける娘だ。怪我をしてからでは遅いのだぞ」
そのままひょいと体を担ぎ肩に乗せてやる。
わあっとカイリははしゃいだ。
広い部屋全部が見渡せるし、エヴェンよりもずっとずっと背が高いのが気持ちいい。
モニター越しに、アンセムに手を振ることもできる。
苦笑を浮かべるアンセムの横で、イエンツォが青ざめているのは、たぶん気のせいだ。
一番高い場所にいることがうれしくて、つい思ってしまう。
「このままでも、ちょっといいかな。なんてね」
「俺は同意しかねるがな」
「そう?」
「お前はまだ幼稚だ。その体に相応しい精神力がまるで養われていない。大人しく成長しなおすがいい」
ぴしりと言ったのが効いたのか、カイリは静かになった。
目を伏せ何事かを考え込んでいる。
理解できたとは思えなかったが、ディランも甘やかすつもりは毛頭ない。アンセムとは違うのだ。
無邪気な紺碧の瞳がディランの顔をのぞきこむ。
「ね、わたしもディランみたいにおおきくなれるかな?」
「…気分が悪くなることを言うな」


舌に広がった苦さに喉が苦しくなる。飲み下そうとしたカイリは口を押さえ、むせた。
「大丈夫ですか?」
出来上がった解毒剤を口に入れたカイリを、イエンツォが労わる。
ほんとうは舌が痺れるほど苦くて味覚をなくしていたが、健気に頷いてみせた。
いつになくやさしい口調に、ふっくらとした頬が乙女らしく染まっている理由を、イエンツォは当然気付く由もない。
「顔が少し赤いですね、疲れが出たのでしょうか」
これでも至って真面目である。
時計を見れば、子供が寝る時間はとっくに過ぎていた。
カイリは少し目を離していると、大きな瞳をとろんとさせ、しきりに目をこすった。
データの採取もあらかた終わっているし、そろそろいいだろうとイエンツォは見切りをつける。
自分達が使っている研究室の隅に置かれているソファは、カイリなら十分休めるだろう。
「申し訳ありませんが、今日はここで休んでください」
「ここ?」
床に腰を下ろそうとするカイリを、呆れ顔でひきとめる。
「違います。ここではなく、あちらで」
連れて行くために抱き上げようと手を伸ばし、
「うわっ」
大慌てで引っ込めた。
体の力を抜いて準備していたカイリは、イエンツォの態度にひどく傷付いた。
「イエンツォ?」
あまりの仕打ちに、背中に多くのとがめる視線を感じながら、言い訳を口にする。
「せ、先生と呼びな、いえ違うんですこれは、全面的に僕が悪いことは確かですが」
台詞を途中で投げ出し、そのままふいと視線をそらす。
今にも泣き出しそうな紺碧の瞳が、どうしてと訴えるのに耐えられなかったのだ。
立ったままでいるわけにもいかず、ぎこちなく手をとり促すと、カイリは素直についてきた。
だが、いやに口数が少ない。眠気のせいでないことだけは確かだ。
毛布を敷きつめたソファに、カイリを座らせる。
何か言ってやらなければと思うのだが、喉がうまく働いてくれない。こんなことは初めてだ。
「イエンツォ」
カイリのほうが、先に口を開いた。
「なんです?」
「まだ、おこってる?」
これに答えるのは、かなり難しい。
厄介な問題ではあったが、幼いカイリを怒る気にはなれないからだ。今は、幼くないが。
「いいえ」
短く返事をすると、カイリはひとまずほっとしたようだ。
「事故だったのですから、君も気にしないことです」
努めて事務的に伝えると、手近にあった椅子に腰掛け、記録をぱらぱらとめくり今までの経過を見直す。
伏せた目元が影を帯び、かすかに残ったイエンツォの若さを打ち消した。
「うそ」
その端整な顔を、カイリは手を伸ばすとぐいと持ち上げ、自分の方に向きなおさせた。
形の良い眉が、額の真ん中に寄っている。
「うそばっかり。だって、ずっとわたしから目をそらしてるじゃない」
テストでは、カイリはまだ5歳のままだった。サンプルとやらが心まで成長させているはずない。
細い溜息を長く吐いてから、イエンツォは自分の頬を閉じ込めようとしている手を、そっと外した。
「怒ってなどいません。いいですか、話はこれでおしまいです」
声に、少しばかり苛立ちが混じっている。
敏感に感じ取ったカイリは、静かにうなだれた。恋しい人の言葉には、逆立ちしても敵わない。
「わかった。ごめんなさい、やくそくをやぶって」
「今後守って頂けるなら結構ですよ」
ひどく気落ちしたカイリは毛布をかぶろうとして、イエンツォが椅子に座ったままなのに気付いた。
どこかへ行く気配はない。
「まだけんさ?」
「そう、経過を見守るんです。ひとまず、今夜は様子を見なくてはいけないですから」
「いっしょにいてくれるの?」
「ええ。落ち着かないでしょうが、僕なら無視して下さうわっ!」
床にしたたかに打ち付けた腰がずきずきと痛む。
とりあえず、自分が下敷きになったままなのは都合が悪い。
「こ、こら! カイリ!」
「えへへ、だってうれしくって」
しあわせそうに頬を寄せられ、イエンツォは焦った。
「やめなさい! 君は女の子なんですから、少しは慎みというものを」
「ね、いっしょにねようよ。ちゃんとわかってるって。こわくないようにずっと手をつないでてあげるね」
「…もう、いいです」
やはり子供のままだと、つくづく思った。
目の上に力の抜けた腕を乗せると、何度目かわからない溜息をつく。
「イエンツォ、かおが赤いよ。つかれてるのかな」
にこにこしているカイリに答える気力は、既になかった。




データの処分は、ほんの数分で終わった。
カイリに関する記録は、これで何もかも無くなった。
「往昔の光は方今の闇に消え、黄昏が新たな光を迎えにゆく」
研究室にやってきたばかりの黒い服の男が、かるく首を傾げる。
ディズは低く笑いながら振り返った。
「詩は嫌いかね?」
「好きでもないな」
「そうか、そうだったな。アンセムは詩が嫌いだった」
どこか楽しそうに呟くと、いましがた消去の操作をしたばかりのモニターを見上げる。
静寂を備えた黒い画面を、ディズはいとおしそうに目を細め、眺めていた。

 

  • 08.09.06