長針と短針はずいぶん距離を詰めていた。
二人もあと少しで肩が触れ合いそうになっている。
急に気恥ずかしい気持ちがわいてきたのか、ロクサスの声が少しうわずった。
「明日、探しに行こう。掃除なんて後回しにしてさ」
言い終えてロクサスははっとした。ナミネを誘ったのは、掃除から逃げるための口実にしか聞こえない。
我ながら情けなかった。よろこんでもらいたいだけなのに、どうして上手くいかないのだろう。
「うん。ロクサスが一緒なら、きっと見つかる」
噛み締めるように繰り返したナミネの瞳は期待とほんの少しのおそれに染まっている。
膝の上に置かれた華奢な手がきゅっと握り締められているのを見て、ロクサスの胸は熱くなった。
(一緒に)
ためらいがちだが引き返す気のない手が、華奢な手に重ねられる。
端を陣取られたベッドが不満げにぎいぎいと声をあげるのも、ようやく出会った長針と短針が時を刻む音も、耳に入らなかった。
子犬と小鳥が笑い合う声が、ゆるやかに寝室をひたす。
部屋の主はロクサスとナミネだった。


屋敷はいたるところにがたがきているし、積もり積もった埃は年季が一桁違うらしい。
暮らすには居心地が悪かった。
繊細な作りの髪飾りをもらえても、ロクサスは一度だってうれしく思ったことはない。
「ぜったいに追い出してやるからな」
申し訳なさそうに床をはうクモにぴしゃりと宣戦布告をしたのは先日のことだ。
半泣きになったナミネの髪にべたべたとまとわりついたくもの巣と格闘しながら、心はとっくに決まっていた。


今のところロクサスの主張は実現しそうだ。ただし、缶詰めになるのを我慢することまでは考えていなかった。
(俺達のほうがほこりになりそうだ)
と、気が滅入っている。
ここ数日街の空気を吸っていないし、そろそろいつもの場所も恋しい。
立派な佇まいの屋敷というのは、案外不便なものだとロクサスは学んだ。
「広すぎるってのも困るんだよな」
重々しくつぶやいたロクサスの肩に、くすくすと笑うナミネの小さな肩がかるくふれた。
ほんのかするほどに触れただけでも感じるあたたかな体温に、無性に落ち着かなくなる。
裸足の爪先が無意識に、半日かけて磨き上げた床をこすった。
「うん。もうちょっとだけ、狭かったらいいのに」
「だろ?」
同時に笑顔がこぼれる。
ロクサスは、不満というより物足りなさを感じていた。
少しでも近くにいたいという気持ちはどこかわがままにも似ていて、子供っぽい気がする。
だからナミネが同じ考えでいてくれたのが素直にうれしい。
ナミネは、あんまり広くて心細くなることを贅沢な悩みだと考えていた。
一緒にいられること以上を求めてしまうのがこわくて仕方ないのだ。
どんどん欲張りになっていったら、きっと呆れられてしまうとほとんど思い込んでいた。
だから、他でもないロクサスが同じ気持ちでいてくれたことによろこびを隠せない。

手近にあった毛布をナミネの肩にかけながら、口笛を吹きそうなほどロクサスは上機嫌だ。
「よかった、俺だけじゃなくて」
甲斐甲斐しいいたわりにナミネの頬がほんのりと染まる。
「うん、私もほっとした」
同じことを一つ見つける度に、ナミネは胸がぽかぽかとあたたかくなる。
手を繋いだときのあたたかさをまるごと胸の中に持ってきたみたいだ。
まだ少し満たされる感覚には慣れない。ロクサスがいると、怖いものは何一つなかった。
(どうしてだろう。ロクサスはほんとうに、ホットミルクなのかな)
と、じっと見つめても、ロクサスはロクサスだ。ますます不思議に思う。
確かめるようにふれた頬もマグカップとは違ってやわらかい。くすぐったそうにロクサスは喉で笑った。
「じゃあアクセルも同じだよな」
冗談ぽい呟きにも、ナミネはつい不安になってしまう。
「きっと笑われちゃう、よね」
アクセルにとっては幼稚な発想だろう。広いから困るだなんて、贅沢だ。
ひたすら恥ずかしくて毛布をかきよせたナミネの体が縮こまる。
そのまま隠れてしまいそうな華奢な体を引き止める手があった。
顔を上げると、ひどく真剣な瞳にぶつかる。
「笑ったら絶交する」
嘘が一片もないと信じられる青い瞳がナミネに言い聞かせていた。
「そんな」
心の底から驚いた。そんなことで仲違いをさせてしまったら、自分を一生責め続けても足りない。
うすく紫がかった瞳から涙があふれる寸前、ロクサスはふっと笑った。
「なんてな」
「ほんとう? ほんとうに?」
かわいそうなほど動揺するナミネに、驚かせてごめんと潔く頭を下げる。
「ああ、アクセルは笑ったりしない。俺が保証する」
真っ直ぐなまなざしを向けられて、ナミネは息を呑んだ。どうも、この瞳に弱いらしい。
もう悪い方に考えないようにしようと改めて思う。
それにロクサスが、言うほど簡単にアクセルを嫌いになれないことをよく知っていた。
(やっぱり、ホットミルクみたい)
南からの風が胸を通り抜けていくみたいだった。きれいになっていく屋敷で過ごすようになってから、その感覚はますます強くなっている。じんわりと広がるあたたかさに、巣に帰った小鳥のように安心できた。
つかみどころのないアクセルもまた、ナミネを突き放したりはしなかった。
底の見えない物言いや、口元だけで笑う癖は変わらなかったが、なぜか見守ってくれているような気がする。
ナミネは、アクセルの年相応の笑顔を、とても好きになっていた。
しんと静かだった寝室が、急ににぎやかになった気がして首をめぐらせる。
もちろん覗きをするような不埒な人物は屋敷にいない。
それなのにざわざわと誰かが喋っているようにナミネは錯覚していた。
屋敷が受け入れてくれたことを、まだまだ実感できないでいる。
だから、言いようのないしあわせな気持ちが鼓動を早くしていることにしばらく気付けなかった。
誰かに必要とされる日をナミネは想像もしていなかったのだ。
「そうだよね。アクセルは笑ったりしないよね」
ロクサスはにこにこと、ナミネはふんわりとほほえんで、頷きあった。

ともかく部屋数は充分ある。一人一つ寝室を占領して、おまけに物置部屋をこしらえても余るくらいだ。
「広すぎるから、ホテルをやれるかも」
ふと言った冗談に、ナミネがしきりと頷くのでつられてロクサスも真剣に想像してみる。
思い描く光景には必ずナミネがいた。
だれかのために食事を作ったり、街の見所を案内したり、そんな日々はどんな風に感じるのだろう。
不得手なことも忘れ、おいしいものを食べさせてあげたいと思う。
ナミネが喜んでくれるならどんなことだって苦にならない。その前に、練習が必要だが。
ランプの油が残り少ないのか、かすかに焦げたにおいが鼻をかすめる。おしゃべりの時間があと僅かだとさりげなく知らせていた。
残念で仕方ない。ナミネが無意識に目をこすっていなければ何時間だって話していたかった。
(あとちょっとだけだからな)
就寝を知らせるのだって大事な仕事の一つだと、もたつく自分を叱咤する。
安心して眠りにつくまで傍にいることもロクサスの役目だった。
「私たち、ちゃんとお迎えできるかな」
直面してもいないのに考え込み、ひたすら悩んでいる。
ナミネにはすぐ心配する癖があった。おまけにそれは、やたらと長引く。
トワイライトタウンを全てを覆う陽光を眺めたときのようにロクサスは目を細めた。
ゆっくりと首を振り、元気付けるように肩に手をのせる。
「なんとかしてみせる。ほら、やり方はいくらでもあるだろ?」
真顔で言うものだからナミネもそれ以上心配することができなかった。それだけ言葉には力がこもっている。
「ナミネは何も心配しなくていいんだ」
ほほえんだ瞳がナミネに語りかけた。
すると、ナミネの上半身が不安定に揺れた。腰掛けたベッドの端からすべり落ちそうな体をあわてて支える。
目が回ってしまったのだろうか。熱があるのかもしれない。
心配したロクサスが額にふれようと手を伸ばすと、慌てたように視線をそらされる。
一瞬、呼吸の仕方も忘れた。
(ナミネ?)
熱っぽさがナミネの肩に置いた左手から伝わってくる。さっき肩同士がぶつかったときよりずっと熱い。
白い首筋もやわらかい輪郭の頬も心なしか赤く染まっていた。
うるんだ瞳が、困ったようにロクサスの顔と手を見比べている。
細い肩を掴んだ手がやや力みすぎていることに気付いて、今度はロクサスがずり落ちそうになった。
急いでシーツを掴んでいなければ本当に転がり落ちていただろう。頬が 勝手にかっかしている。
「その、ごめん」
困らせてしまったことが悔やんでも悔やみきれない。
電車がやってくるように止められない後悔を振り切ろうとロクサスは勢いよく立ち上がって、物言いたげなナミネを素早く、やさしくベッドに押し倒す。
時計の針たちは追いかけっこを始めていた。
「待ってロクサス」
「もう休まなきゃ。明日は探しに行くんだろ?」
やさしいが意見を聞くつもりはないと言葉の端々に現れている。
ロクサスの言い方はたまに強引なときがある。
一旦こうと決めると中々離れることができないところがそうさせるのだろう。
包むように毛布をかけてくれるロクサスはとてもやさしかった。
ひたすら気遣われると、ナミネはくすぐったくてちょっと落ち着かない。
寒くないよう、風邪を引かないようにと甲斐甲斐しいロクサスはそれに気が付いていなかった。
ナミネの瞳にかすかな不安がちらつくのは、明日のことを心配しているからだと思った。

「大丈夫、きっと見つかるよ。ナミネの大切なものなんだから」
大掃除のどさくさに紛れて、スケッチブックがなくなっていた。
買出しにいったときに置き忘れたのだろうが、ともかく無いものは無い。
描きかけの絵があったはずだと一番慌てたのはロクサスだ。
絵が未完成のままで終わることを考えると、ロクサスは訳もなく泣きそうになる。
実際のところ絵よりも、絵を描くときのナミネの穏やかな表情を惜しんでいるとは本人しか知らない。

探す場所はそれほど多くない。
たぶんいつもの場所に置き忘れているんだろうとロクサスには検討がついている。
でも、すぐに見つけ出すつもりはなかった。
「まずは駅。それから広場。商店街でも聞いてみよう。ハイネ達も協力してくれる」
低くつぶやく声は小気味よくナミネの耳に響く。
うとうとまどろみはじめた様子を見守るロクサスの表情はやわらかい。
缶詰になっていた分を取り返す、ちょっとした宝探しを楽しむくらい許されるはずだ。
手を引きあちこち歩き回ることを想像するとなんだかにやけてしまう。
まどろむナミネの額に散らばった前髪を梳いてやりながら、ロクサスは次第に胸が高鳴るのを覚えていた。
ずっと昔に見た、忘れかけていた夢がこうしてすぐ傍にある。
生れ落ちる前から同じ夢を見ていたナミネの頬はとてもあたたかかった。
「うん…。見つかると、いいね」
ナミネが安心しきって眠りにつくのを確かめると、眠りを妨げないよう慎重に体を離した。
最後に残っていた明かりを消してしまうと、ぼんやりとしかものが見えない。カーテンを閉め切った部屋はナミネのベッドだけがようやく認識できる。
部屋から出ようとしたロクサスは、名残惜しそうに振り向いた。
「おやすみ、ナミネ」
静かで音の無い部屋はナミネを脅かすことがないだろう。ほっと胸を撫で下ろすと冷たい廊下を戻っていく。
屋敷には人の気配がまったく感じられない。アクセルも休んでいるのだろう。
ふと立ち止まると、立派なホールを見下ろした。
頑張った甲斐もあり見違えるほど磨かれている。
人が住める家らしくなってきたことがロクサスはうれしくてならない。
日々暮らしていくことを実感すると足の先が震えた。誰に憚ることなく、明日を過ごしていくのだ。

(明日も一緒だ)
これからもずっと一緒だった。
明日も明後日も、ずっと先の明日も、自分たちは一緒だった。

 

  • 08.02.07