あちこちが歪みかけた自転車を前にして、ナミネは途方にくれてしまった。
乾いた音を立て回る後輪の音が余計に心許なくさせる。
(やっぱり、だめなのかな)
レンガの外壁の端から端までを目標に、一生懸命頑張った。
目指していた壁はすぐ目の前にある。
けれど視線だけ上げたナミネからは、とても大きく圧迫感があるように見えた。
途中までは上手くいっていたのだ。
転ぶたびに膝に擦り傷を作ったが、かすかな手応えが少しずつ蓄積されていた。
傷に入り込んだ土を払い落とす痛みと共に、ナミネはいいようのない充足を覚えていた。
飛ぶことを知らない鳥が、天空を目指し羽ばたくのと似ている。
今度こそ、上手くいくと思っていたのだ。
土の上に力なく倒れた体から急速に力が失われていく。ナミネの落胆はそれほど深かった。
「ナミネ!」
途中まで自転車の後ろを押していたロクサスは、声まで青くなった。
自分まで転びそうになりながら駆け寄る。
ぐったりと転んだままのナミネを抱え上げると体のいたるところについた土を払い落とした。
「大丈夫、もう少しだったんだ。次こそ絶対に上手くいくよ」
慰めながらロクサスはほっとしていた。
きれいに転んだせいか白いワンピースが汚れただけで済んでいる。
また怪我をしていたら今度こそロクサスは泣いてしまうところだった。
ナミネが痛い思いをするくらいなら、自分が怪我をしたほうがよっぽどマシだ。
「ごめんなさい」
重ねられているロクサスの手が強張ったのをナミネは気付かないふりをした。
「折角ロクサスが手伝ってくれてるのに、どうして失敗しちゃうんだろう」
真正面にするのがこわくて目を逸らす。
泣き言だとナミネは充分すぎるほどわかっていた。
上手くいかないことの苛立ちが棘を持って口から這い出そうとしている。
「でもナミネは頑張ってる。こんなに怪我しても、ずっと頑張ってるじゃないか」
真摯にロクサスは励ましてくれる。
いつもそうだ。ロクサスはとてもやさしい。ナミネが欲しいと望む言葉をいつだってくれる。
(違うの)
けれど自転車に乗れるようになることなんて、どうでもよかった。
怪我をするのは痛いし、心配されて駆け寄ってもらうのも嫌だった。

喉に言葉を詰まらせ首を振るナミネが何を思っているのかわからない。
ロクサスが途方にくれていると、ようやくアクセルが追いついてきた。
「もう一回やるんだろ。ならさっさと立てよ、いつまで寝転んでるつもりだ?」
あまりにも突き放した言い方にロクサスのほうが腹を立てた。
「別にいいだろ、少しくらい休んでも」
「さっきも休憩したじゃねえか。ったく、世話焼かすなよ」
やや手荒くナミネを引き起こすと次に倒れていた自転車も起こす。
一度立ち上がると、くよくよした気持ちも持続しにくくなる。
不安げに手を握ってくれるロクサスに、ナミネはふんわりとほほえみかけた。
確かにアクセルの言うとおりだ。いつまでも転がっていては、なんにもならない。
少し追い風をかけてやればひとりでに動き出すナミネを知るアクセルは、間違っていなかった。
「ごめんなさい、二人とも」
明るくナミネは謝った。
「もう一度やってみる。失敗するかもしれないけど…」
ナミネはそれが一番恐かった。転んだら、また途方にくれてしまいそうだ。
「いいんじゃねえの」
「え?」
「こういうのは失敗したほうが成功するもんだからな」
そうか、そういうものなのか。
アクセルをまじまじと見詰め、ナミネはしっかりと頷いた。
おぼつかない動作で自転車にまたがると、確かめるようにペダルを踏む。
段々と速度が出てきた自転車は、ナミネを軸に据えまっすぐと走った。
やたらと小さく見える圧迫感のあった壁を目指し、一生懸命走った。
「ナミネ!」
「またかよ」
今度もきれいに転んだ。ロクサスが大慌てで走り出し、アクセルが肩をすくめその後に続く。
壁の手前で土の上に投げ出されながら、ナミネは途方にくれてしまった。
とても上手くいくとは思えない。
(ロクサスみたいになんて、やっぱり無理なのかな)
半泣きになりながら抱き起こしてくれたロクサスに、ナミネは思わず涙ぐんでしまった。
ほとんど飛ぶように坂道を滑っていく背を眺めながら、ナミネは途方もない憧れを抱いていた。
ロクサスの見る景色を、感じる風を、耳の近くに聞こえる空気の音を一緒に感じてみたかった。
けれど現実は、自転車一つ乗りこなせないでいる。
「ロクサスになりたい」
とても切実なナミネの願いに、ロクサスもまた途方にくれてしまった。

 

  • 08.05.25