(ナミネ)
呼びかけようとした言葉は、喉を通らずに、胸の中に戻ってしまった。
スケッチブックに向かっているナミネの横顔は、真剣そのもので、けれど、かすかなあたたかさも含まれていた。口元にうかぶやわらかいほほえみか、それともやさしいまなざしが、そう思わせるのだろうか。
(きっと、両方だ)
ロクサスは声をかけるのをやめ、呼吸をしずめるとしばしその光景に見入った。
大きな窓から差し込む茜色の光は、白いカーテンを通すとよりあわい色に変わる。
カーテンは、屋敷の外からだと、ただの布にしか見えないのに、部屋の中からだと薄い膜のような印象をあたえる。たとえば、この部屋から見えるのは、母親の羽にくるまれたひな鳥が、隙間からそっとのぞき見る光景に、近いのかもしれない。
そしてひな鳥は、恐怖心から外をうかがうのではなく、新しい世界を探す為に、その瞳をこらすのだ。
大きな背もたれの椅子に、ちょこんと浅く腰掛けたナミネの髪が、かわいた風にふわりとゆれる。
質のいい絹糸を思わせる髪のひと房が目にかかったのか、ナミネの細い指先がゆったりと髪をはらった。
(…う)
無意識に、ロクサスはてのひらで胸をおさえた。
ナミネの仕草のひとつひとつが、なぜかロクサスの胸をくすぐるのだ。
内側がひたすらむずがゆいのに、どこか心地いい。けれど、この感覚は、とても長くはこらえられそうにない。
「ナミネ」
くすぐったさに耐えられなくなったロクサスは、急がないようにナミネを呼んだ。
すぐに顔をあげたナミネは、ロクサスを振り向くと、ゆっくりと目を細めた。
「ごめん、じゃました?」
「ううん。そろそろ終わりにしようと思ってたから」
扉の前に立っていたロクサスは、そのままナミネの傍に歩み寄る。
ナミネは色鉛筆といっしょに、スケッチブックも机の上に置いた。
こうしてナミネが見せてくれるのを、ロクサスは内心とてもうれしく思っている。なんだか、距離がぐっと近くなったように感じるのだ。
「きれいだな」
恥ずかしそうにさまよったナミネの視線が、最後にロクサスに行き着くと、しずかなためいきがこぼれた。
「うん。あんなにきれいな色があるって、知らなかったのが不思議なくらい。どうして知らなかったのかな」
「それもだけど、ナミネの絵だってすごくきれいだ」
ぽっと、ナミネの頬が染まる。「ありがとう」と小さくつぶやかれた声に、ロクサスはぼんやりと頷いた。目は、ナミネの描いた絵にひたすら集中している。
ロクサスが心惹かれる景色を、ナミネはその細い指でスケッチブックの上に生まれ変わらせる。
ひょいと街角を曲がったとき、目に飛び込んでくる、あわい陽光に包まれたトワイライトタウン。
喉の奥から、あたたかいものがこみあげてくる。ナミネの描く景色は、胸にじんとひびくのだ。
(これが、ナミネの見ている景色なんだ)
絵を見つめるロクサスの瞳が、いっそうやわらかくほほえんだ。
描かれた景色は、胸の奥よりも深い場所に眠っている、けしてはっきりと思い描けない、夢でしかたどりつくことのできない、尊い場所だとロクサスは思う。
けれど、ロクサスは知っていた。自分でそんな夢は見たこともないし、ましてや訪れたこともない。
それに本物の街には、においがある。食欲をそそられるスープのにおいだったり、駅から出発した電車がこする線路独特のかすかな金気くささ(があると、ロクサスは言い張る)だったり、そして隣にいるナミネの。
(うわ、何考えてるんだ)
「どうしたの?」
突然、かっと顔を赤くしたロクサスに、ナミネの瞳が心配そうにくもる。
「なんでも、なんでもない、全然、たいしたことじゃないんだ」
あわてて首を振ると、ロクサスは一歩だけ後ろに下がった。
やたらとうるさい鼓動を、ナミネにだけは聞かれたくない。
「でも、熱があるみたい。ほんとうにだいじょうぶ?」
そんなロクサスの切なる願いは届くことなく、ナミネは椅子から立ち上がると、一歩踏み込んでくる。
物怖じすることが少なくなったのはいい傾向なのだが、今のロクサスに喜ぶ余裕は、あまりない。
(うあ…)
頬にふれたやわらかい指先が、つうっと額に移動する。熱がないかを確かめる指の動きは、慎重でやさしい。
触れているのは、小さな爪と同じくらいの、ほんの少しの範囲だ。
なのに皮膚の感覚ははっきりと、ナミネの体温を感じ取っている。
ロクサスは、うめきたい気持ちを必死にこらえた。これ以上、心配させたくない。
こうしてそばにいれば、ロクサスはナミネをよく知ることができた。儚げな容姿に、驚くほど頑固な芯が通っていることは、初めに知った部類に入る。
その中でも、もっとも不思議でもっとも困るのが、こうしてナミネに触れられると、体の中心が勝手に熱を持ってしまうことだ。じっくり熱したかまどの熱さが、いきなりくる。ロクサスには、どうすることもできない。いっそのこと、頭から氷水をかぶってしまったほうが、楽だろうとさえ思われる。気道が、内側からやんわりとしめられたかのように、息苦しかった。体の奥底にしまわれた魂が、ひたひたと満たされていくように…。
「よかった、熱は、ないみたい」
ナミネの指が離れてしまうのが、ごく単純に惜しくて、ロクサスは残念そうに眉を寄せた。
「どこか、痛いの?」
「いや、そういうわけじゃ、ないんだけど。俺にもよくわからなくて」
「え?」
「ナミネだけなんだよな。こんな風に、くるしくなるのは」
ほら、とロクサスも、指の先でナミネのしろい頬にふれた。ナミネが、小さく息を詰めるのが聞こえる。
「こうされると、息苦しくなるんだ。具合が悪いわけでもないのに、変だろ?」
変、とつぶやいたロクサスは、思わずはっとした。
(俺が、変なこと考えてたからか?)
トワイライトタウンを駆け抜ける乾いた風は、隣にいる彼女のかおりをロクサスに運んでくる。
もうそれは、ロクサスにとっては当たり前で、自然なことだった。
だがよくよく考えてみれば、いつでもナミネを連れ回してもいいと、思い上がっているのかもしれない。
ナミネにいろんなものを見せたいという気持ちばかり優先していたのは、変だったのかもしれない。
「…ロ、ロクサス、ロクサスっ」
ぼうっとしていたロクサスは、自分の手がうっかりと、ナミネの視線を固定していることに気付かないでいた。
困りきったナミネの瞳に、自分の顔がまあるくうつっている。呼吸が通い合うほど、唇同士が近かった。
同じ磁極を合わせたようにぱっと離れた二人は、しばらく息を落ち着けるので精一杯だった。
(今の、ナミネが教えてくれなかったら…)
ますますかあっと熱くなる胸をおさえながら、ロクサスは複雑な気分を味わっていた。
ひどくがっかりした気持ちと、流されなくてよかったのだという気持ちは、半々というか、偏っているというか。
「やっぱり、俺が変だったんだな。変な真似してごめ…」
謝ろうとしたロクサスは、ぎょっとした。
ナミネが、ひどく悲しそうにしている。切なそうな瞳は、謝ってほしくないと言葉よりもはっきり語っていて、ロクサスをうろたえさせた。
体の前で小さな手を組んだナミネは、まっすぐに、ロクサスを見つめている。
「変じゃないよ、私だって、そうだもの。ロクサスの近くにいると、すごくくるしくて、くるしいけど、あったかくて」
ナミネの声は、ふるえてさえいる。うすい紫をおびた瞳は、やはりロクサスだけを見つめ、ゆらゆらと揺れている。
ロクサスは、声も出せなかった。おそるおそる、尋ねてみる。
「どこか具合、悪いのか?」
「……そう、かな。そうなのかも」
どこかさみしそうにつぶやくナミネの姿に、ロクサスの胸は太い杭が刺さったように痛んだ。
ナミネがどこか心細げに見えたのも、体が相当辛かったからだろう。どうしてわからなかったのかと、ロクサスは数分前の自分をなじりたかった。だが、今はそれどころではない。
「待っててくれ、すぐなにか、あ、ホットミルクと薬持ってくる」
ナミネをいたわりながら椅子に座らせると、ロクサスはすぐに部屋を飛び出していった。
薬は充分にあっただろうか、氷のうの準備はあっただろうか。今夜はずっと看病しよう、心細い思いは、もうさせない。ロクサスの頭はもう、ナミネのことでいっぱいで、隙間もなかった。だから、苦しいため息に隠れてしまった疑問の言葉も、聞こえなかった。
「お薬を飲めば、ちゃんとなおるのかな」

 

  • 09.09.23