「私がお前を守ってやろう」
髪を撫でてくれたマールーシャの手付きはやさしかった。


ごく近い場所にいないと気付かないが、呼吸を繰り返すナミネの肺はやわらかい香りで満たされていく。
雄々しく咲く花がそれだけ強い存在感を持っているように、マールーシャもまた意識を引かれる何かを持っていた。
抗えない引力だとナミネは思う。
彼の膝から離れられないでいる自身が何よりの証拠だ。
さりげなく体をずらし顔を上に向けると目が合った。
身動きが取れなくなってしまう。様子を窺おうとしたことへの罪悪感が体を動かす命令を全て遮っていた。
彼が他所に視線を向けることがないと知っているのに確かめようとする卑怯な目なんて、見えなくなってしまえば良い。
小さな掌で顔を覆うナミネをマールーシャは静かに笑った。
「まるで赤ん坊だな」
耳まで赤くし恥ずかしさに震える肩がやさしく撫でられる。
ナミネは確かめたかったのだ。
からりと乾いた男くさい身体が作る影はナミネの小さな体をすっぽり飲み込んでしまう。
それなのに薔薇油に似た甘い香りがするなんて不思議でしかたなかった。
夜露に濡れた薔薇はきっとこんな香りがするのだろう。身体を縮ませ鍛えられた腿に再び頬を寄せる。
閉じた瞼の裏に赤が浮かんだ。
煌々とした月が見守っている中、固く閉じたつぼみに寄り添う夜露は赤い色をその身に移し朝までの時間を過ごす。
風が吹いたちょっとした弾みでつぼみから離れなくてはいけない夜露の気持ちを考えると胸が痛んだ。
枝を高く持ち上げた薔薇の木がつぼみを頑として地面に近づけようとしない。
赤い色を持っていたはずの露は黒い土に吸い込まれ花が開くときを知らずに消えていく。
深い赤色を抱えたつぼみは暖かくも遠い場所にあるしかないのだ。
色鉛筆で何回重ねても作ることの出来ない赤には手が届かない。
目を開け深く溜息をついた。
届かないのにマールーシャのそばにいると意識が優美な香りに包まれた薔薇の園へ引っ張られてしまう。

どこにも、行くところなんてないのに。

ナミネは少しだけ口元を緩め笑った。
僅かな感情の動きに気付いたのかマールーシャが顔を近づけてくる。
固い皮膚の指が顎を掴み上向かせた。抵抗するそぶりも見せないナミネの表情をしばらく眺める。
繊細な瞼に指を乗せ白い頬を親指の腹でなぞることを繰り返してからやっと顔を離した。
ナミネですら御しようのない感情にマールーシャは必ず反応する。
悲しいか嬉しいかの分類すらできない、突然浮き上がりあっという間に身を沈めてしまう感情だった。
どんな形だろうと思い描く前に姿を消してしまい杳として正体は知れない。
床に落ちた色鉛筆へ目を向けながら色を着けるとしたら、とナミネは考えた。
この感情が彼の香りが引き寄せる赤ではないことは確かだ。
開放されるとナミネはまた腿の上で腕を組む。
熱の通った身体に半身をぴったりとくっつけているから体温が同じになっていた。
マールーシャの身体を行き来する体温が布越しにナミネへと伝わっているのだ。
部屋に入ってくるとき、彼は何も喋らない。
体調を気遣われるとか気分を尋ねられたことは一度もなかった。
マールーシャはソファに黙って腰掛ける。
二人が並んでも余裕のあるソファが黒いコートに包まれた大きな身体に占領されてしまうと小さなナミネでも座ることができなかった。
生れ落ちたことを自覚して間もなかった頃はどうしていいかわからず、居心地が悪い思いをするしかなくて泣いてしまいそうだった。何か言ってくれさえすればとすがる思いを汲み取ってくれたのか、マールーシャは事も無げに言った。
「膝は空いてるぞ?」
おそるおそる半身を預けたときのことは忘れられそうにない。
毒の沼に飛び込んで泳ぐような気分だった。ナミネの怯えに反しマールーシャはびっくりするくらい優しい声で笑っていた。
以来、彼の膝を借りるようになっている。
ほとんど毎日訪れ無言でソファに陣取るのが日課になっているらしい。
この城は閑暇の巣窟だとマールーシャはぼやく。
ナミネが膝の上に丸くなっている間だけ彼は喋った。
取り留めのないことを気が向いたときだけ喋り、あとは丸まった身体を眺めている。
何時間もそうしているのは退屈ではないのだろうかと思うのだが、自分にとっても日課になってしまった今は呼吸をするくらい自然に受け入れていた。
空気に晒されている肩を撫でると決まって肌を褒めてくれる。
「お前は素晴らしいな」
美しく咲いた花を褒めるような口ぶりは傍から聞いていれば呆れてしまう。
それでもナミネは頬を染め消え入りそうな声で礼を言った。
嬉しかった。
彼がうっとりと目を細め賞賛を口にしてくれるのが嬉しかった。
丁寧に肌触りを確かめる手は振り払おうと思えば簡単だろう。
執拗といってもいい手付きが肩や首筋、脇腹に触れるとなぜか肌が粟立つ。
それを押し殺してでも賛辞を噛み締めていたかった。ナミネは誰からも優しくされた記憶が無かったからだ。

マールーシャが手を止める。
他のことに気を取られることが今までなかったので少し驚いた。
彼が興味を引かれるものが部屋にあったろうかと考えている間に、紙が破られる音がする。
声にならない悲鳴をあげた。
隠すのを忘れてしまったスケッチブックから一番見られたくない絵が抜き取られマールーシャの手の中にある。
薔薇が一輪だけの淋しい、素描に近いそれが錆浅黄の瞳の前にあることが耐えられない。
取り返そうとするナミネの手は空をかいた。
意地の悪い笑みを浮かべる男の膝の上で必死に首を振る。
あれだけは見られたくなかった。
スケッチブックと黒炭を与えてくれたマールーシャがどうこうしようと抵抗はできない。
だが彼の目に触れるということはナミネにとって耐え難い痛みだった。
薔薇は他でもない彼から受け取ったものの象徴であり、胸の深いところに隠しておかなければいけないものだ。
ナミネの意識が生み出した薔薇の園を覗かれるわけにはいかない。
自分を守らなければいけないと本能が叫んでいる。
マールーシャの香りを振り払いたかった。薔薇油の甘い香りが舌に乗りあがってくる。太い指が口内に侵入し無理矢理広げている。
いくら首を振っても離してくれなかった。苦しさに嗚咽がこぼれる。
唾液がマールーシャの指にからみついているのがわかった。喉の奥を観察しているらしく力を振り絞って歯を立ててもちっとも意に介さない。甘さのほかに鉄の匂いが広がり恐ろしさに全身から力が抜けていく。
やめてください、と懇願するとようやく離してくれた。
膝からくずおれたナミネには一瞥もくれず、マールーシャは出て行った。

静かな日々を手に入れ、空いたソファでナミネは絵を描いている。
部屋を訪れる者はいなくなった。
しんとした空間に一人でいることがなかったのを嫌でも思い出す。
それだけあの男がいるのに慣れてしまっていた。
生れ落ちた頃の感覚にひどく似ている。なんでもいいから手を動かしていたい。
細い指は色鉛筆を取り、思いつく限り絵を描いた。
小さな動物、春に沸き立つ川、おいしそうな綿菓子。
あの薔薇油を思い起こさないものならなんでもよかった。
手が震え線がずれてしまい、消そうとしたら余計に汚してしまった。身体が震えている。
彼が来なくなってからどれくらい経ったのだろう。数えるのが怖くて思い出したくない。
廊下へ通じる扉のほうからかすかに音が聞こえると心臓が止まってしまうくらい驚いた。
耳を澄ませれば空耳だったということが何度もあるので音がよく聞こえなくなった。
鉛筆がこすれる音も聞こえなくなってからはソファに体を沈めるしかできなくなっている。
どうして隠しておかなかったの。
自分をいくら責めようとも薔薇の絵は遠くへ行ってしまった。
ナミネが感じた薔薇油の香りは沈めたままにするべきだったのだ。
そうっと探ろうとしたことはもう知られているだろう。
あれほど執拗なマールーシャがナミネの稚拙な手探りに気が付かないはずない。
ここに来なくなって何十日も経っている。
今頃はただの暇つぶしだったはずが思いがけない収穫になったと笑っているだろう。
利用されていることはよく知っている。自由に外に出ることも叶わない無力さが悔しかった。
自分の力を知るうちに逃げ出すことはそう難しくないのかもしれないと考るようになった。
だが、逃げ出してどうするのだ。戦う力のない自分はすぐに影達に喰われてしまうだろう。
力の入らない体を起こす。また空耳が聞こえた。鎖がこすれてじれったい音を立てている。
ナミネをすっぽり隠してしまう大きな影が視界を覆った。
「少し痩せているな。かわいそうに」
やさしく髪を撫でてくれる手が本物だとわかるまでしばらくかかった。
雪崩のように体が崩れるのをしっかりと抱きとめてくれた逞しい身体からは薔薇油の香りがする。
胸に染みる安心感が心地良くてまともに考えることができない。
寄りかかってしまう恐ろしさよりも強い、孤独への恐ろしさがナミネの手を動かす。
「私を、置いていかないで下さい、マールーシャ」
しがみついた小さな体ごとマールーシャは抱きしめてくれた。薔薇油の香りが強くなる。

「ああ。私がお前を守ってやろう」
髪を撫でるマールーシャの手付きはやさしかった。それが、どんなに嬉しかっただろう。

 

  • 06.12.06