膝にすがりついて離れない小さな肩を、マールーシャは満足げに撫でた。
すべらかな肌の下にあるか細い骨の感触はたおやかな花の茎とそう変わらない。
軽く力をいれれば、いとも簡単に折れてしまう。人と唯一違うのは折れた痕を治す手段を持っていないことか。
哀れみめいたものを覚え、マールーシャは低く喉を鳴らす。
紫の色彩をわずかに持った瞳が、いたいけに見上げるので微笑みかけてやった。
たったそれだけのことで強張っていた体から力が抜け、ますます寄りかかる形になる。他愛ない。
守るもののない無防備な肩からやわらかい後れ毛へと指を移し、ごくゆっくりと巻きつける。
大人しく絡まってははらりと垂れることを繰り返す髪はうっすらと花の香りを持っていた。
ナミネにはにおいがない。
日の光を知らぬ肌は傍にいるマールーシャのにおいが移っている。
気が付かないのは、ただすがりつく以外ができないナミネだけだ。
生きる方法を知らぬ存在に生きる術を与えてやる。親鳥が雛に餌を与えるのは、太古より続く理法だった。

細い絹糸のような髪が、不意に強く引っ張られる。
「マールーシャ?」
さもおかしそうに、額を押さえながら笑っているので、ナミネは自分の仕草を振り返った。
呆れさせることをしてしまったのかと、俯いて反省ばかりする。
彼にとってはひどくおかしいことに違いない。きっと、膝を借りてばかりいる幼稚さを笑ったのだ。
そう考え付いた頭から最初に、血がざあっと引いていく。
黒いコートの端を掴み離そうとしない手をいやらしく思い、意思を総動員させて指を離した。
身の内に流れているマールーシャの体温から離れることはナミネにとって肉を裂かれるように辛いが、置いていかれることを思うと、どんな痛みも、痛みではない。
ナミネは、たった一人置き去りにされることを何よりも恐れていた。
時を知る手立てが弱々しい心拍数だけのここは、牢獄と名を付けるのが相応しい。
無実すら罪に変えてしまう、自分自身の声に怖気をふるう場所だった。
感覚すら失わせる白に覆われた部屋にあるものは、どれも無機質にあるだけで椅子も机も、体を包んでくれる毛布さえも存在感を持っていない。無音にやわやわと締め付けられる度に、息をしている体がちゃんとあることも感じられなくなる。感情への痛みだった。
おびえながら待つ以外になかった。
マールーシャの些細な動作のたった一つが救いであるように、思い込むしかなかったのだ。
ナミネの知る世界はあまりにも小さかった。

体の前で手を組み跪く姿は、覚悟を纏うにはまだ幼すぎる。
似つかわしくないとマールーシャは率直に思った。
張り詰めた表情は、可憐な顔立ちに翳りを作る。無造作に手を伸ばし、顎を持ち上げてやる。
されるがままのナミネは小さく喉を鳴らしたきり、瞬きもしない。
親鳥というのも、あながち間違いではないな。
やさしすぎる響きをひとしきり笑った後だというのに、マールーシャの内には愉快な気分が残っていた。
「おまえは素晴らしい」
ナミネの上に喜びが一瞬で現れる。
ごく簡単な言葉でここまで感情を作れることが、むしろ羨ましい。
ふと記憶を持たぬことがもたらす癒しについて思いを巡らせたが、すぐに捨てた。
もはや感情など自分にとって不必要なことだった。
「だが、私には必要ではない」
断ち切られた橋のように呆気なく崩れ落ちるのがわかった。
自分との間にあるごく近い距離が、今のナミネには千里のように感じられるのだろう。
床についた震える指が求めているのはマールーシャ以外に無い。
やさしげに目を細めると両腕を差し伸べる。
羽のように軽い体を持ち上げ、膝に乗せてやった。
すっぽりと収まった体は所在無げに震え、瞳はただマールーシャを仰いでいる。
親鳥が餌の次に与えるものを考えながら、ほほえんでやる。
感情が欠片も通っていない口元にナミネの目は釘付けになった。
仮面だとしても、誰かにほほえんでもらうことがなかったナミネは食い入るように見つめ、その手は意思とは関係なく動いている。
半ばまで持ち上げられた手をひょいと掴み導いてやる。
手に手を重ね、薄い唇の感触や頬骨の堅さを教えてやった。
華奢な指が恐る恐るなぞるようになるのを確かめると、余韻も残さず離した。
取り残された手はマールーシャの唇に触れている。
その小さな爪に舌が触れるのを、ナミネは呆然と眺めた。体温よりもずっと熱いものがあることを初めて知り、純粋に目を瞬かせている。
「さて、聞かせてもらおうか。その傷がいつ作られたのかを」
一呼吸置いてから、マールーシャは尋ねた。
ナミネが首の後ろを押さえる前に、腕を掴み取る。
髪に隠れる位置、ナミネ自身は見ることのできないところに傷があることに最初から気付いていた。
ごく近い時間に作られた、ようやく乾きはじめた傷はなめらかな赤の線を小指の半分ほど引いていた。
よく見えるよう形の良い頭蓋骨を胸元に押し付ける。
髪を丹念に掻き分けて露出させると、血が通っていることも疑うほど白い肌には異様なほど目立った。
「許してくださいマールーシャ。お願いします、許して、ゆるして」
不自然な姿勢のまま呼吸をしようとあえぐナミネが、苦しげに言う。
マールーシャからただ一つ言い渡されていることを守れなかったことに、絶望していた。
けして怪我をするなと、あれほど念を押されたのに。
自分を守るだけで精一杯のナミネは、いじらしいくらい守り通そうとした。
容赦の無い打擲も最小限で済むように必死で耐え、言いつけを守ろうとしていた。
最初から、力の無いナミネが守りきるには限界があったのだ。
作られた傷を指の腹でなぞりながら、マールーシャはほくそ笑む。
「許す?」
低く笑い声を立てると、おもむろに噛み付いた。
噛み付かれた傷が舌でこじ開けられ、ゆっくりと血があふれる。
驚き逃れようとしても、ますますマールーシャに体を寄せるだけになってしまうだけだった。
知ったばかりの熱さと新しい痛みにナミネは慄く。罰を受けなければと思う気持ちと、得体の知れない恐怖が相反して意味の無い喘ぎを生み出すだけだった。
「ゆるして、ゆるし、て…」
きゅうとマールーシャの胸元に爪をくいこませ許しを請う。
傷を舐める音すら、耳に痛かった。
生命の源が皮膚の表面に集まっていくようで、おぞましい感覚をナミネに残していく。涙をこらえきれなかった。
「おまえは何一つ、痛みすら知らないのだ。だが怯えることはない。私が全て教えてやろう」
マールーシャは哀れむように泣き濡れた頬を撫でてやる。
今度は、静かに涙を流す目元に噛み付いた。
舌で瞼を押しのけ、眼球をやわらかく舐める。
ナミネは呼吸が途切れ途切れになり、もはや手は空をかくばかりだ。
その指をきつく掴み絡ませる。華奢な骨を筋張った指が食いつくように戒めた。
眼球の白い部分はからく、するりと逃げる。ナミネよりよほど賢い。
息も絶え絶えに口の端から垂れた唾液が、首筋や鎖骨をぬらしている。
それを丁寧に舐め取ってやると力尽きた小動物が魂を手放すときのようにナミネは震えた。
甘さがにじむあえぎに、マールーシャの瞳はひときわ細められる。
ぐったりとした小さな体はやっと意識を保っている状態で、もはやどんな抵抗もしえなかった。
自分の手に絡ませていた細い指を口元に持っていき、傷を癒そうとする獣がするように舐めても、ぼんやりとした焦点が戻ることはない。
たまに軽く歯を立てると、背が軽く反り返った。
付け根から第二間接のくぼみ、爪の裏側にまで滑り込むようにマールーシャは舌を這わせた。
触れない部分はなかった。手首へ吸う口付けをしながら、軽く揺すぶる。

「これでわかったろう」
身の上に起きたことを理解しきれない意識がそれでもマールーシャの言葉を聞き取ろうとしていた。
神経を裏返されようが、逆らうことができない。マールーシャが全てを支配していた。
何も知らぬ無垢な魂はマールーシャの体温に、舌の熱さに、やさしく細められる目にもぎ取られている。
後に残る恐れだけがどうにかナミネをナミネにしていた。最も恐れる孤独だけが最後に残った味方だとは、皮肉な結果だ。
哀れなナミネがひたすら他の存在を求めていることに気付くのは、実に簡単だった。
自分達が無いものを求めるのと同じに、彼女も無いものを求めただけだ。
それが人であった頃の遺物に過ぎないことをマールーシャは良くわかっている。
体温を求めるのなら与えてやればいい。持たぬ者から持たぬ者へ与える行為はひどく愚かしく、懐かしい。
要求されたものを一通り渡し終えると軽い疲れを覚えた。見かけによらず欲深いことだ。
楽しげに笑うと、ナミネはまた怯えた。
濃い影を作る睫毛は不安げに揺れ、閉じた唇からは嗚咽がこぼれでる。
「私に必要とされたいのだろう?」
何よりも欲するものを示され、瞳に力が戻った。
必死に頷く。マールーシャに、置いていかれたくなかった。
「はい、マールーシャ」
手が導かれた先は、たくましい胸板だった。
自分以外の鼓動にナミネは息を呑む。なんて力強い音だろう。
あたたかい体の全てがそこに集まり指先から振動が伝わってくる。
知らず知らずのうちに、鼓動を数えていた。こんなにも違う場所にあるのに不思議と同じ音がする。
息を吐くたびに力が抜けていきそうだった。このままマールーシャにすがって眠りたい。
泣き腫らした目がひりついてひどく痛んだ。
この痛みから逃れたいと、吐くほどの思いが空っぽの胸に渦巻いている。
強く顎を掴まれたナミネは、赤ん坊のような泣き声をあげる。
休みたい、眠りたい。
そう訴えても、マールーシャは力を緩めなかった。
受け入れろ。
耳元で囁かれた声に、ナミネはか細い悲鳴をあげた。
糸を切られた操り人形が不規則に震えマールーシャへと沈む。
手は心臓を突き抜け、もっともっと深い場所に沈んだ。
彼の中へ吸い込まれたのか、自分から入り込んでいるのかナミネにはわからない。
体が千切れてしまうほどの速度で落ちながら見せられる景色は見たことのないものばかりだった。
吸い付いてくる球体は眼球のようにあたたかくやわらかく、けして割れなかった。
体中に纏わりつくそれは隙間なくねっとりと絡みつき、口や目の隙間から中に入ってこようとする。
ナミネを溺れさせようと次から次へとくっついてきた。
苦しさにもがきながら伸ばした腕が、球体の一つをやぶったとき、ひとつだけ、短い呼吸を許された。

「それでいい」
ぼんやりと目を開けたナミネの視界にあるのは、マールーシャの満足げな笑みだけだった。
もう手指を動かすこともできそうにない。おぞましい疲れが身体のいたるところに巣食っていた。
やりとげたせいか、小さな身体はただマールーシャに寄りかかるだけだった。
褒美の代わりに貸してやるのもいいだろうと、したいようにさせてやる。
朦朧としたまま、心臓のある場所に頬を寄せるとナミネは魂を手放した。
ここまでやれるとはマールーシャすら思っていなかった。
手間をかけて、少しずつ覚えさせる予定は想像以上に早く進んだらしい。
乱れた髪を指で梳いてやりながら気分が昂ぶるのを感じていた。
生かすも殺すも片手一つで事足りる少女が、自分の手によって必要とされるものに変わったことに荒々しいほどの高揚感がある。
手に取った髪の一房に口付けながら、マールーシャは遺物に近い感覚をひとしきり味わった。
全てが手の内に揃う日を思うと、狂気に近い喜びが身の内をくすぐる。
ここから、全てが始まるのだ。
マールーシャは高く、笑い声を上げた。

 

  • 07.06.12