眼下に広がる人工的な谷の深さは底が知れない。
鈍重な建造物が雑然に置かれている景色は何の感慨も持ち得ないのだろう。
ロクサスが一つも感情を動かされないのと同じように。

誰が作ったか知らないが、暗澹とした街並みには人の気配が無かった。
黒いコート、黒い手袋、黒いブーツ。
それらを身に着けながら歩く自分は暗い街の一部なんだろうか。
乾いた靴音がやけに響く。湿気を帯びた風を頬に受けながら目に掛かった前髪を払いのけた。
見慣れた色だ。鏡をのぞくときも洗うときも少し癖のある髪には苦労する。
けれど明るい栗色は肩から余計な力を抜いてくれる効果をロクサスに対して持っていた。
色彩感覚を失いがちな世界にもちゃんと色がある。ちょっとしたことがささくれた気分をやわらかくしてくれる。

俺、どうしてこんなに苛々してるんだろう。
深々と溜息をつくと辛気臭さが増したようだった。
目的地は特に無い。ただ細い路地をひたすら歩いていた。
あるいは誰かが襲ってきはしないかと期待もしていた。
ハートレスを打ち倒すことがロクサスに与えられた機関からの命令だった。
それに不満があるわけではない。
何もせず毎日を過ごせといわれればすぐさま飛び出してやろうと思っていたほどだ。
「くれぐれもお頼みしますよ、優秀な機関の一員殿」
大げさな身振りと芝居がかった口調で侮られたときは自分でも驚くくらい憤りが沸いた。
思い出すだけで腹が立つ。
足元に転がっていた空き缶を思い切り蹴飛ばした。
路地の奥に消えるとけたたましい音を立てる。余計に気分がざわついた。
街の美観を損ねる奴は誰だよ。
ここがちゃんとした街でなくとも無神経な仕業は好きになることができない。
見つけたら拾っておこうと決めながらロクサスは空き缶が消えていったほうにまた足を進める。
相変わらず人気が無い。
八つ当たりをするつもりではないが、体を動かしていたほうが少しはすっきりするような気がした。
しばらく先へ行くと蹴り飛ばした空き缶を見つけた。拾い上げてみると赤い塗装が剥げあちこちへこんでいる。
形がいびつなのはロクサスが蹴飛ばしたせいだろう。
ふと思いつき、それを上へ放り投げ目を瞑った。
頭の中に仮の敵の姿を思い浮かべる。すると両の掌に剣が現れる。
それぞれ種類の違う繊細な細工が施された武器はあつらえたようにロクサスの手によく馴染んだ。
その柄を握り締め振り上げるとかつんと鈍い音がした。
地面を蹴り体を浮かせ二度三度と剣を振り上げるたびに空き缶がよりいびつな音を上げた。
その音を頼りにしながら最期に背を大きく反らせ思い切り打ってやる。
身軽く地に降り武器をひっこめて目を開けると、薄暗い路地にちかちかした色が浮かんでいた。
錯覚だとわかっていてもロクサスの目はそれをつい追ってしまう。形はおぼろげだが存在感のある色だ。
自分の髪の色に似た光が消えていくのを見送ると体の後ろに手を伸ばす。
すとんと落ちてきた空き缶を顔の前にぶらさげ満足そうに眺めた。
円筒形だった空き缶はもはやオブジェみたいになっている。
真ん中がやたらとへこんでいて遠目に見れば人の体に見えなくもない。
「ロクサぁース」
顎に手を添えて考え込んだロクサスは、耳に入った声に顔を上げた。
高いところから手を振る姿に苦笑をもらす。
でかい声があちこちに反響してちょっとうるさい。
暗い空を突き刺すビルの屋上へ来いということなのだろう、手招きをしている。
普通の人間だったらそんな無茶な要求しないだろうなと思いながら手に持っていた空き缶を足元に置いた。
膝をついたまま指を突きつけるとバランスが悪かったのか横に倒れてしまう。
むっとしながらまた立たせてもすぐまたひっくり返る。こうしているのが当然なんだと言っているようだ。
ひねくれものにつける薬は無い。結局そのままにすることにした。
膝についたほこりを払いながら立ち上がる。
オブジェは置いていかれるのにちっとも困っていないようだ。
ゆらゆらと体を揺らせながらロクサスが何か言うのを待っている。
赤い塗装は剥げているし腰というには歪んでいるけれど、飄々とした態度が頭に一人の人物を浮かばせた。
顎をやや持ち上げながら指差す。
「題名、アクセル」
芸術家らしい動作で素っ気無く手を振り別れを告げると闇色の空間に身をくぐらせた。
ロクサスが使った扉が消えてしまうと、路地に吹いた風が作られたばかりのオブジェをどこかに浚っていってしまった。



縁に腰掛け足を放り投げながらロクサスは景色を眺めていた。
地上も暗かったが上空も重苦しかった。
広さに開放感を覚えていいようなものなのに、ぎっしりと箱に詰め込まれたような建物の群れは息苦 しさを覚えさせる。ずっと遠くまで続いているが近道をいくらでも作れるので端っこまで行こうと思ったことはない。
ここから見える一番高い建物は自分達の根城だ。
一際ふんぞり返るようにしているあそこから眺めれば果てがわかるかもしれないが、知ったところで何の足しにもならない。結局薄暗いことに変わりはないのだ。
「なあに一人でしけてるんだよ。さっきは何してたんだ?」
人が考え事をしているというのにアクセルときたらお構いなしだ。
おまけに一度にいくつも言葉を投げかけてくる癖があるから困ってしまう。
首を回して振り返ると目が合った。
胡坐をかいて頬杖をついている。
だらしなく曲がった背筋からやる気の無さが窺えた。
ロクサスを呼んだのはさぼりの共犯に仕立てるためだろうか。
それにしても膝が痛くならないのだろうかとロクサスは思った。
幾度となく手合わせをしてきたが彼の肘鉄砲はなかなか堪える。
なんとなく鳩尾に手を添えながら澄まして言ってやった。
「芸術活動をちょっとね」
途端にアクセルが顔を歪める。
文芸や芸術といった類に彼は良い顔をしない。それをきっちり笑ってからロクサスは視線を戻した。

途切れてしまった思考の糸を手繰り寄せる。
ぶらぶらさせている靴に下から吹いてくる強い風がぶつかっていた。コートの裾をはためかせてやかましい。
鼻の先が乾いていく。
不行儀なことは知っていたが片膝を立てると頬をのっけた。
目を瞑ると風が耳のすぐ傍を通っているのがわかる。
入り組んだ路地から吹き上げ建物の間を過ぎる轟々とした音には潮の匂いも混じっているみたいだ。
けれど再び目を開けたときには嗅ぎ取れなくなっている。
思い込みが、混ざっているように感じさせたのだろう。
ずっと遠くにあるかもしれない海を思い浮かべても具体的な景色が見えてこない。
海というのは明るい日差しの下にあってこそだ。
暗いここにいては眩しいほどの紺碧を頭に浮かべるのは難しい。
どうにかして浮かべた瞼の裏に映る深く吸い寄せられる色は、ロクサスの心をくすぐっては落ち着かなくさせる。
郷愁に五感が緩んだ。座っている場所が地上からとても遠いことも忘れてしまいそうだ。
落ちればノーバディの体でも痛みは感じる。懐かしいことがあるはずない。
かすみそうになる意識をまとめるため指の先に力を入れる。骨がきしむ嫌な音がした。

「おーい、聞いてんのかロクサス」
考え込んでいたロクサスは襟を引っ張られて仰向けに倒れた。
頭の後ろが痛い。
悪びれもしないで見下ろしてくるアクセルに出来るなら殴りかかってやりたかった。
その衝動を押さえながら体を起こす。足が痺れているのは変な体勢でいたからだろう。
気付かれて触られるのも癪なので無理に表情を作るとアクセルの言葉をそのまま返した。
「聞いてるよ。おまえはあるんだろ、夢ってやつが」
心が手に入ったら何をする。
先の話をアクセルは平気で口にする。ロクサスには不思議でならなかった。
消えるのが先か、手に入れるのが先か。
事情は詳しく知らないが機関の人間はすでに半分ほど消えている。
そのこともあってずっと考えさせられていた。思案の渦に呑まれるほどロクサスの苛立ちは増していく。
じたばたするほど誰かが嘲笑っている気がしてならない。
どうなるかもわからないのに平然としていられるのは心がないからなんだろうか。
いちいち胸を騒がせられるほうがおかしいんだろうか。わからない。

複雑な表情を浮かべるロクサスを意に介さずアクセルは得意げに鼻先を上に向けた。
「聞いて驚け。俺は可愛い彼女を作って結婚して、んで子供を作る。サッカーチームが作れるくらいな」
まあサッカーをやらせたいわけじゃねえけどと聞いてもいないのに教えてくれた。
ロクサスが呆れるのも構わずにアクセルは続ける。
まとめるとありきたりな普通の家庭で幸せに暮らしたいということらしい。
「死んだら嫁さんと同じ墓に入れてもらえば御の字だ。どうだ、壮大だろ?」
「たしかに、可愛い彼女を捕まえるまでがね」
すぐに拳が飛んでくる。身軽くよけながらロクサスはいつのまにか笑っていた。
男なら誰もが抱く夢は現実味がなさすぎるのに、アクセルが言うと本当になりそうだ。
子供相手にむきになってアクセルが言うところの彼女に怒られている姿が目に浮かぶ。
うなだれる様子がおかしくてお腹が痛い。
下腹を押さえながら笑うロクサスに今度は得物を取り出して向かってきた。
「大人気無いぞ!」
叫びながらロクサスも剣を呼び出す。
下らないことを言い合いながら遣り合う時間が楽しいことを思い出していた。
お互いに手加減をしないものだから、終わる頃にはぼろぼろになっているのだ。


「アクセルなら叶う気がするよ」
目の下に出来た痣を押さえたがすぐ手を離す。
いてえとアクセルは呻いた。
触るとひどく痛んだ。剣の柄で景気よく殴られ星が飛んだのはつい先程のことだ。
赤く腫れているおかげで隠す必要もないのだが、つい手が動いてしまう。
励ましを素直に受け取るロクサスの純粋さには時折恥ずかしさを覚える。
深々と溜息をつくと寝転んでいるロクサスの額に拳を乗せた。
たんこぶを作っていたから相当痛いはずだ。恨みがましいうめき声と視線は無視した。
「当たり前だ。大口叩いてるだけじゃただの馬鹿になっちまうだろ」
自分達が抱く空虚感がロクサスは特に顕著だった。
悩んだところで得るものがないことを知っているつもりのアクセルには理解できない。
だが濁った魚の目をしているのを放っておくのも気が引けた。
全く、俺はお人良しじゃねえってのによ。
記憶にある前の自分は少なくとも親切とは程遠い位置にいた。
それがどうしたことだ。具体的ではないにしろ夢を口に出し少々空想癖の強いロクサスに聞かせている。
おあずけをくらった犬のようにしょぼくれているから元気付けてやろうとしている。


「おまえって、面白い奴だよな」
目を細め口の端を持ち上げると頬の筋肉が軋む。ロクサスが呟いた言葉をアクセルは鼻で笑った。
「褒めてるつもりかよ」
ロクサスの体は起き上がれなくなるほど疲労を訴えていたがすっかり気持ちは晴れていた。
湿った風が汗ばむ額を撫でてくれるのが心地よい。
長く息を吐くとロクサスは耳を澄ませた。
自分とアクセルの息遣いが聞こえる。動いたばかりで呼吸が乱れているようだ。
「やっぱりアクセルは面白いよ」
鳩尾の辺りに手を添えロクサスは痛みに呻いた。
ほこりまみれになるほど暴れておまけに怪我をしたというのに楽しい気分だった。
どこかに転がっていったであろうアクセルのことを思い出す。
あいつのように転がりまわるのも悪くないようだ。
ちらりと隣に座り顔を伏せているアクセルを見遣りながらふと思った。
どうしてアクセルは、わざわざ顔を背けているんだろう。

 

  • 06.05.16