簡潔な報告に耳を傾けていたゼムナスが視線を上げた。
瞳に宿る得体の知れない色に見据えられると、アクセルは軽い混乱に似た思いを抱く。
思慮深い面差しが隠した底知れぬもの、闇を感じ取るからだ。
「我らの志は一つだ。今後も期待している」
望みどおりに働いたことのねぎらいの言葉をかけてもらっても、アクセルが達成感に浸ることはできない。
ゼムナスも承知のことだ。これは儀式だった。
下らないしきたりに反吐が出る。
「もちろんそのつもりだ。お呼びがかかればすぐ馳せ参じるぜ」
喜びを混ぜながら両腕を広げ、歯を見せながらアクセルは笑顔になった。
意欲に溢れている様をどう思ったかは知らないが、ゼムナスは静かに下がるよう命じた。
記憶にある通りに振舞っているとすれば、さぞ礼儀正しく立派な君子だったろう。
お辞儀をしてやろうかと思ったがこれ以上やるとわざとらしくて笑い出してしまう。
大人しく背を向け下がる自分をどんな顔で見送っているのか興味があったが、そのまま部屋を出た。
これ以上深い闇に近づいているのが嫌だという思いもあったからだ。


今頃になって鼓膜の奥にゆっくりと沈んでいくゼムナスの声にアクセルは悟った。
(近道はなし、か)
隙が見つからない。こうして従順な一員でいることがよほど早道だ。
向かい合っていた部屋は何十人も踊れるほど広かった。
なのに乾いた靴音の響く階段のほうがよほど広く感じる。圧迫されていたせいで、そう感じるのだろう。

ゼムナスが正しければ、ゼムナスの目指すものに従っていればいい。
だが、正しくないときを考えずにいるのは難しかった。
甘言をすんなり信じ込めるほどアクセルはお人良しではない。
だが彼には逆立ちしたって及ばない。強大な存在に対して、アクセルはごく小さな存在だった。
嫌になるほどわかっている事実を蒸し返され、苦笑いが浮かぶ。

アクセルには夢があった。諦めることも考えられないほどの、壮大で、価値の高い夢だった。
死ぬのは叶えてからと、とうの昔に決めてある。だから簡単に消えていられない。
しかしこのままでは、夢に触れることもかなわないだろう。
(どうしたもんかね)
手詰まりだと悟ったが、焦燥感すら生まれない。わかってはいたがつくづく不便だった。
不便な体に火をつけるのは結構な精神力を使う。
(このまま終わっちまえば、少なくとも惨めに野垂れ死ぬ犬のほうがマシってのは確かだな)
自分を追い詰めるのが楽しい奴がいれば教えてほしい。よっぽど自虐的なのだろう。
ようやく体の芯に生きる力が湧き上がってきた。こうでもしないと燃え上がらないなんて、本当に不便だ。
濃い紫色の空間を望む広間に出ると立ち止まる。
中身の無い器だけがぽっかりと浮かぶ以外薄気味悪い天井は際限なく形を変え雲海のように広がっている。
ぽつねんと立つアクセルの背中は無防備だった。
可能性と若さが残る背中は人待ちげでさみしげだ。誰でもいいから話しかけてくれと切実に語っている。
どれくらいそうしていただろう。
顔を上げ軽く首を振るとアクセルは闇に身を溶け込ませた。
回廊のずっと向こうに、悠然と歩く大きな背中がある。
その背が溶けるように消えると、アクセルは無意識に溜息をついていた。


「あんたも人が悪いな。わざわざ待っててやったのによ」
闇が濃い。空に最も近い場所に立っているアクセルの鼻腔が夜のにおいを知らせている。
足場としては狭い屋根の一角から見下ろす景色は、ただの暗闇でしかなかった。
目が慣れてくると見下ろしている風景がなんなのかわかった。
はるか遠くに深い渓谷が地平線と平行している。
手近なところに視線を移せばところどころ朽ちた家々が並び、手を伸ばした程の距離には見事な滝が孤独に大声をあげていた。
真下を向いたアクセルがへえと鼻を鳴らす。
見たこともないほど立派な城だった。歪んでしまう前は美しかったのだろう。
生きているものの気配はどこにも無いのに、これほど形が残っている建造物がある世界は珍しい。
闇に呑まれれば塵も残さず消えるのが世界のならわしだった。
「今は魔女が住む城に成り下がっているがな」
親切にシグバールが解説してくれたおかげで腑に落ちる。
魔女が支配するのにこれほど相応しい世界はないだろう。御伽噺の中に入ったような感覚だった。

二三歩離れた位置でシグバールも世界を見下ろしている。
隻眼をこちらに向けた横顔はいつもより静かなものだった。
他人をからかうのを好む口元は簡単に開いてくれそうにない。
荒れ果てた世界に、何か思い入れがあるのだろうか。
だがアクセルにしてみれば他人の事情などどうでもいいことだった。
「おいおい、俺は無視した理由を聞いてるんだぜ。それも無視するのかよ?」
腰に手を当て冷たい笑顔を浮かべた。
追いかけさせられ、その上で無視されてしまえば疲れるだけで終わってしまう。
無駄な時間を過ごすつもりはこれっぽっちもない。
「喜んで追いかけてきた割に、随分な言い草だな」
ようやく振り向いたシグバールが低い声で楽しそうに言った。
躾のなっていない子犬に対する言い方にアクセルは眉を寄せる。
(は、どっちが)
盗み聞きをされていたのには気付いていた。いや、わざと気付かされたというほうが正しい。
アクセルが意識せずにいられぬように気配を漏らしていたのを忘れたとは言わせない。
「あんた、盗み聞きが趣味なんだろ?」
「そう聞かれてはいと答える素直な奴がいたら、ぜひ紹介してもらいたいもんだ」
「してやろうか」
話を受け流されまいと相手の目を見る。自分が舵を取れなければ本当に徒労に終わってしまう。
「こそこそ隠れるなんて仕事熱心なことだよなあ」
同情する調子に初めてシグバールの表情が動いた。待っていたのはこのときだ。
「ダスクより頭も回って、何より気が利くのがここにいるってのに」
親指で自分を指すアクセルに迷いはない。シグバールは肩を持ち上げた。
「悪いが、回りくどいのは苦手でな」
回りくどいやり方をした張本人がいけしゃあしゃあと言って屋根を蹴って飛び降りた。
長い髪を風になびかせ屋根伝いに地上を目指している。
一所に落ち着いて話ができないのタイプなのだろうか。
仕方なくアクセルも狭い足場を蹴ると、冷たい夜の中に身を翻らせた。

夢の為にアクセルは消える訳にはいかない。しかし足りない物はいくつもある。
それをシグバールに求めたのだ。
シグバールが断片的にひけらかす知識は必要ない。知りたいのは、シグバールが丹念に調べていることだ。
わざわざ盗み聞きをしてまで何を調べているのだろう。
少なくとも自分のことではない。自分はシグバールにとって小物に等しいとよくわかっていた。
とすればゼムナスのことを探っているに違いない。
「一人じゃなにかと不便だろ。だったら俺みたいなのがいると、あんたも便利かと思ってね」
美しい庭園の名残である滝を見上げる背に向かって声を張り上げる。
巻き上がる水しぶきがくっきりと目に映る。やたらと明るいと思っていたら、見事な月が出ていた。
満月に照らされる大きな背中は水音に負けず響いたアクセルの声をまたもや無視した。
頭が痛くなる。そっちが無遠慮に観察していたくせにこの態度はどうだ。
作ってやった機会を無視されてから、アクセルは知らない間に機嫌を悪くしている。
(人で遊びたいなら他を当たってくれよ)
らしくもなくぼやきたくなる。もう何かを言う気にもなれない。
見られていないのをいいことに指で首を切る真似をしていると、シグバールがつぶやいた。
「そう吠えるな」
うるさくてかなわない、と大きな背中が困っている。
ぎょっとして佇まいを整えるアクセルを他所にシグバールは滝に視線を注いだままだった。

月だけが照らす水の壁を見ているシグバールの背中は、不自然なほど隙を見せている。
首をめぐらせ辺りを窺った。途中で崩れている道は何年も放置されている様子だ。
ここはどういう場所なのだろう。
(故郷か?)
突拍子もない思いつきにふっと幼さが残った地顔が浮かぶ。
シグバールを一目見ればわかる。悪人で通る面構えのどこにそんな感傷的な面があるのだ。
取り留めもない思いつきに、自分でも呆れるほど気分がさっぱりした。
(回りくどいことをしやがる)
隙だらけの背中にようやく届く声で、最初に抱いた疑問を率直に尋ねた。
「なあ。探ってどうしようってんだ?」
近づいたからこそわかる。ゼムナスが持つ底知れぬ闇の正体はようとして知れない。
自分が闇に近いからこそわかりたくなかった。
求めているものが180度違う相手を理解するには相当の精神力が必要だった。
そこまでするほどアクセルは興味が無いし、興味を持ちたいとも思わない。
じゃあそんなものを知ろうとするシグバールは、何を思っているのだろう。
「楽しい企みなら一枚噛ませてもらいたくてな。乗り遅れでもしたら悔しいだろ?」
アクセルが無防備な背中で待ち望んでいた通り、シグバールは饒舌に喋り始めた。
まあ及第点だといわんばかりに、人を小馬鹿にした笑みを浮かべている。
「なるほどね」
仮に楽しい企みだとすれば、陰から探る必要はなかった。
どうやら教えてくれる気はないらしい。けれど不満はなかった。
こういう風にあくまでも腹の底を見せない態度でいてくれるほうがやりやすい。
「お前はどうなんだ。ん?」
「俺?」
(そりゃあ弱みを握るつもりって話だ)
と言えるはずもない。
両者を利用できるものなら利用したいが、簡単に事が運ぶ相手ではなかった。
相手の陣地に踏み込んだことが今更後悔される。試され、ここまで誘い込まれたのは自分だ。
背中はあんなに隙を見せていたのに、向かい合っている今は雰囲気だけで押し潰されそうだ。
明らかに分が悪い。
それでも、言ってみたくなった。
「俺には夢があってね」
白状した途端にシグバールの高い笑い声が鼓膜を揺らした。
豪快に笑い飛ばされいっそ清々しかった。確かに夢なんてうそくさい台詞は自分に似合わない。
屈託のない笑顔になりながら、とりあえずシグバールが笑い止むまで神妙に腕を組んで待つしかなかった。

「夢とはまた傑作だな」
くっくと肩を震わせシグバールはまだ笑っている。
笑われたくらいで気を悪くするアクセルではない。そんな子供っぽい年頃はとうに過ぎた。と本人は思っている。
「そりゃどうも。あんたの便乗ってのも中々素敵な作戦だよ」
夢という一言でシグバールの中の評価は変わったようだ。
伊達や酔狂で軽々しく口にできるものではない。特にあからさまに別の魂胆を持つアクセルは、覚悟を決めて舌にのせたのだ。

シグバールは何かを探している。
アクセルにはそう見えた。
どうして近づこうと決めたのか、正直なところよくわからない。
ただシグバールに最初に向けられた視線は射抜くように体を突き刺さり、内臓の裏側までめくられたようでひどく疲れが残った。
(同類ってやつか)
自分と似ていると思う相手は初めてだった。
シグバールを利用できないかと考え始めたのはその頃からだ。
「粋がってるだけかと思ってたが、案外目が利くらしい」
身構えていたアクセルは拍子抜けした。
彼のしていることに近寄ろうとしたのだから、てっきり制裁があるものだと思っていた。
ところがシグバールは親しげに肩に手をかけ笑うばかりだ。
「裏切者は始末するんだろ?」
どちらも二心を持つのは同じとはいえ、裏切りとして裁かれてもおかしくない。
「おまけに妙なところで責任感があると。ますます気に入った」
シグバールはアクセルの額を拳で小突くと、そのまま熱心に眺めていた世界に見向きもしないで回廊に身を潜らせた。
どうやら始末されずに済むらしい。内心の焦りを悟られないように息を吐いてから、アクセルも回廊を開いた。
「ついでに一つ教えてやろう」
ねばついた色の回廊を行くシグバールがおもむろに口を開いた。
「説教なら遠慮したいね」
「年上の言うことは素直に聞くもんだ」
この軽口もお互いよく似ている。
「俺達には、下心を隠そうにも隠す場所がないのさ」
それを聞いてアクセルは口をあけて笑った。もっとも過ぎてちっとも気が付かなかった。
「残念だったなあ。つくづく惜しいハナシだ」
ひどく楽しそうに残念がってくれるシグバールの広い背中を見ていると、後ろを歩くアクセルの中に晴々とした気持ちが少しずつわいてくる。
利用されてもいいかな、と思い始めていた。
裏切者を平気で野放しにしておくところが何より気に入った。
「ああ。これからの為に記憶しておく」

 

  • 08.02.10