海に属する男達が、朝一番に入港する予定の船をいまかいまかと待っていた。
ざわめく中をすたすたと通り抜けるロクサスに気付いた何人かが、威勢よく声をかける。
忙しなく働く顔見知りの邪魔にならないよう、人好きのする笑顔を浮かべ軽く手を振るだけに済ませる。
船主の息子だけあってよくわきまえている。その控えめな態度に、男達はますます好印象を持つのだ。

ロクサスは港のいちばん端っこの使われなくなって久しい桟橋を目指す。
喧騒を抜けてしまうと、耳の奥を快い波音がくすぐった。
この感覚がとても好きで、寒い朝でも構わずやってくる。毎朝の日課だった。
はずれの桟橋は木箱がいくつか転がっているのみで、とても港の一部とは思えない。
ほとんど手入れされていなせいで木板が朽ちているところさえある。隙間をのぞきこむと、忘れ去られた場所にこれ幸いと住処をこしらえた魚と目が合があった。大慌てで逃げ出す魚にロクサスは口元を緩ませる。
結晶化した潮がこびりついている木箱の一つの上に陣取ると朝日が上るほうへ目をやった。
東の空は夜着を脱ぎ始めている。
同じ景色をなんども見ているはずなのに、美しい朝焼けは不思議と胸を熱くさせた。
片膝に顎をのせるロクサスの額に潮風がやさしくあたる。薄い栗色の髪がふわりと浮いた。

こんな寂しい場所を訪れている物好きはもう一人いる。
ロクサスは水平線へ目をやるアクセルに視線だけ移した。
さびれた桟橋はたいていの場合ロクサスのものだったが、元々ここをロクサスに教えたのはアクセルだ。
アクセルがいたとしても珍しくない。
もっともアクセルに朝日を見に来るなんて趣味はなかった。船が問題ない状態であるかを最初に確かめられるのがこの場所だからきているだけだ。
現実的すぎてつまらない。とロクサスはこっそり思うことがある。
その分アクセルは、ロクサスの空想がやや混じった日課を笑わないことにしていた。

遠くの海面にうっすらと影が一つ浮かんだ。
異国の様々な品をたっぷり積み込み、ひたすら港を目指す船の足並みは早い。朝日が昇りきる前に港に体を落ち着けることだろう。
(また噂になるな)
うらやましい、とロクサスは思う。
才能を存分に生かす道を歩むアクセルに憧れに近いものを抱いていた。
戻り道もましてや進む方向も決めあぐねているロクサスは、少年らしい焦りを感じている。
(でも、俺は俺だ)
焦ったところで得るものは少ない。
多くの憧れに囲まれて育つロクサスは、自分が未熟者であることを誰よりも自覚していた。
ルクソードやアクセルのように生きることを目標にしながら、まずは自分を磨くしかない。
とりあえずできるのは、気持ちのさっぱりした親友を応援することだ。
「今度も期待できそうか?」
「さあな。あとは天に運を任せるだけだ」
「じゃあ俺はおまえが勝つ方に賭ける」
アクセルはわざとらしく舌を出した。
積み荷がもたらす利潤は簡単に大きくも小さくもなる。アクセルは今度も上手くさばいて巷を騒がすだろう。
ささやかれる噂を耳にする度に、ロクサスは他人の憶測ほどあてにならないものはないと思う。
若く実力のある分、アクセルの噂は実に様々な華を咲かせた。悪意が含まれることも少なくない。
「お前もそっちじゃ、賭けになんねえだろ」
そのせいでさっぱりとした年相応の笑顔を知っている者も少なかった。
「だよな」
短く肯定するとロクサスも水平線に視線を移す。
やってくる船は随分と近くなっていた。甲板にいる大勢の男達の声がこちらにも届いている。
目の良いロクサスは甲板の手すり近くに見覚えのある長身を見つけ、つい顔をしかめた。
あんな風に立っているだけのシグバールが熟練の航海士であると中々認められないでいる。
見る間に帆がたたまれ、船はゆっくり確実に港に抱かれようとしていた。
無駄の無さはそれだけでシグバールがいかに優れているかを証明している。

「まだここにいるんだろ?」
既にアクセルの足は港へ戻ろうとしている。
船が無事であることを見届ければさびれた桟橋に用はなかった。それに、日課の邪魔をする気もない。
からかわれたことを思い出していたロクサスの不機嫌そうな眉が心持上がった。
「おまえに賭けたからな」
「わかったわかった。なら、せいぜい成功を祈っててくれよ」
ふてくされた背中に肩をすくめたアクセルが去っていく。

あの船には重要なものが乗せられているのだろう。シグバールが指揮を執るくらいだ。よほど大切なものに違いない。そこまで思いめぐらせて、やっとアクセルが早起きしていた理由に気付いた。
察しの悪さに自己嫌悪で頭が重くなる。港の流れを把握できていないようでは、この界隈でやっていけない。
まだまだひよっ子のロクサスは見様見真似で港を把握することから始めていた。
が、実際は幼稚な感情に振り回されることのほうが多い。
(俺って子供だ)
気に入らないからといって毛嫌いするなんて、同じようにからかわれても軽く受け流せるアクセルとは大違いだ。
シグバールだけではない。あらゆるものが行き来する港は、ロクサスの感情にそぐわないものも多かった。
流れくるもの全てがきれいなわけではない。
なのにロクサスは、愛玩用にと取引される檻に入れられた美しい小鳥に涙ぐんでしまうこともある。
仕方ないとわかっているのに反発が心に残った。
(海も船も嫌いじゃない。でも)
潮風にはどこか感傷的にさせるものがある。
しっかり生きたいと思うのに、気持ちを不安定にさせてしまうのだ。
ぐるぐると考え込んでしまいロクサスは慌てて頭を振った。
ただの好き嫌いに深く考え込んでしまう、傷付きやすい多感な年頃にありがちな悩みを恥ずかしく思う。
こういうときこそ朝日が全てを消し去り心を落ち着けてくれる。
顔を上げると船が桟橋の横を通り過ぎるところだった。帰港を喜ぶ騒がしい声もますます近い。
(うるさいな)
文句を言ったところで聞こえないだろうが、静かな時間を欲しがっているロクサスの目はどうしても船を追ってしまう。この少々しつこいところのある性分もロクサスの深い悩みの一つだった。

船尾に人影がある。
(あれ?)
変だな、とロクサスは首を傾げた。
普通なら上陸の準備で忙しくしている頃だ。なのに人影は急いだ様子も無く、船が通ったあとの白く泡だった海面をただ眺めている。
女の子だった。
潮風に揺れる髪を朝日がまぶしく飾っている。
(船旅かあ)
いいなあと素直にうらやましく思いながら、苛立ちも忘れロクサスは見入っていた。
遠目にも彼女が俯いているのがわかる。
海の近くに生きていれば、海に涙を誘われる思い出が作られてしまうこともあるだろう。
ロクサスにだってそういう記憶がある。大切にしていたガラス玉をうっかり海にあげてしまったときはしばらく立ち直れなかった。
(傷心旅行ってやつかな)
なんとなく女の子から目が離せない。幸いあちらはロクサスの視線に少しも気付いていなかった。
ああいう風にしていられるということは、どこかのお嬢さんなのかもしれない。
どんな声をしているのだろう。女の子だからやっぱり甘いものが好きなのだろうか。
このときはまだ興味本位での想像で、会って話をしたいとか具体的なことを何一つ考えていなかった。
ぼんやりしている間に船が止まる。風に運ばれてくる港の騒々しさにロクサスは眉をしかめた。

女の子が顔を上げる。
膝に乗せた顎ががくりとずり落ちた。
(どうして)
船内に戻っていく女の子の背中を追いかけようと、後ろ足で木箱を蹴り飛ばしながら走り出す。
桟橋から港へ脇目も振らず、声をかけてくれる顔見知りに手を振り返すこともなかった。
着いたばかりの船を迎えるのに忙しい男達の隙間を縫いながら必死に目を動かす。
急ぎすぎて何度か転びかけた。
とうとうつまづいたロクサスを黒い外套に包まれた腕が助け起こしてくれたが、礼を言うのも忘れている。
どこにも女の子の姿は無い。
落胆する前に、ロクサスは架けられたばかりの渡り板に目をつけた。
降りてくる人を押しのけ大股で駆け上がる。
船尾から狭い廊下へ飛び込み部屋をひとつひとつ確かめた。
「あ、す、すみません」
うっかり着替えを見てしまった申し訳なさに顔が赤くなる。ともかく、こんな男くさい所にいるわけないと頭を切り替えた。
しかし甲板にも影すらない。諦めきれず舷側から体を半分乗り出して見回す。
大勢が動き回る港で女の子一人を見つけるなんて砂浜に落ちた金砂を探すようなものだ。
いくら見晴らしのいいここからでも無理がある。

丁度良いのか悪いのか。脱力しかけたロクサスを見つけてくれた人物がいた。
「そんなに土産が欲しかったのか。いい子なら順番は待つもんだってわかってるはずなんだがなあ」
はっと振り返ると、意地の悪い笑みを浮かべたシグバールが大げさに手を広げている。
彼と話をしていたらしいアクセルが、からかって遊ぼうというシグバールと前後不覚になっているロクサス両方に呆れ顔を浮かべていた。
「おまえがくれるお土産なんかいるもんか」
見上げるほどの長身に果敢に向かっていくも、いつもの覇気が無い。語尾が小さくなり次第に顔が俯いていく。
(どうしていないんだ)
見つからない。どこにもいない。
諦めが悪いロクサスはもう一度港を振り返った。
いつもとかわらない港だ。全身を露にした朝日が照らす港は、船の到着に興奮を隠せないでいる。
なのに入り乱れる掛け声や物が派手にぶつかり合う音がやけに遠い。
「で、聞かせてもらえるんだよな。そんなに慌てている理由を」
シグバールの口調はあくまでもふざけていた。それが余計にロクサスをむくれさせるとわかっていてわざとやるのだから、とことん意地が悪い。
「なんでもないし、おまえには関係ないだろ」
口が裂けても女の子のことは話せなかった。
からかわれるのは目に見えているし、こんなにも早く船からいなくなったことも気にかかる。
それにちょっと頭を働かせれば、客船でもない船に女の子がいるなんてにわかには信じがたいことだった。
もしかしたら自分が見たのは幽霊だったのかもしれない。
(でもあの子、泣いてたんだ)
見知らぬ女の子の為に朝の日課を放り出し、ロクサスをここまで走らせた衝動はごく単純なものだった。
(泣いてたんだ)
故郷から引き離された小鳥のような、悲しい瞳がロクサスの目に焼き付いている。

「なるほど。言い訳としては最高に面白くないな」
ここでロクサスがつっかかれば、アクセルも気に留めなかったろう。
なんでもないと首を振る仕草が明らかに隠し事をしたがっている。
「それくらいにしといてやれよ。秘密を暴こうなんざ、大人のすることじゃないだろ」
助け舟にロクサスはついうれしくなってしまった。
明るくなった表情をシグバールは楽しそうに眺めている。
相変わらず他人の裏をかくのに向いていない。
一生かかっても百戦錬磨の貿易商になるロクサスの夢は叶わないようにアクセルは思った。
もっとも、この真っ直ぐさがロクサスのいいところでもあるのだが。
「まあいいさ。お前が必死になって誰かを探してたなんて、大したことじゃないからな」
かあっと頬を紅潮させ、そっぽを向いてしまった。
シグバールは豪快に笑い、かばいきれないとアクセルは肩をすくめる。
「ご立派な心掛けで。それじゃあ一緒に探してやろうじゃないか」
肩を掴まれ舷側に引き寄せられたロクサスは暴れる。おせっかいがうっとうしくてしょうがない。
「やめろって、俺を子ども扱いするな!」
そう言いつつも、未練がましく目が探そうとする。
「あれか。それともあっちか?」
「いい加減にしてくれ。アクセル、アクセル!」
助けを求められてもどうしようもない。アクセルは軽く首を振った。
「当てにすんな。自分でなんとかしろって」



丁度その頃、ナミネを乗せた馬車が静かに港を後にしていた。

 

  • 08.01.07