目がくらむほどの光を抜けた先で、つむったままのまぶたの向こうに感じた空気を、カイリはよく知っていた。
 水平線のずっと奥まで知っている海風はときにやさしく、ときにからかうようにカイリの体に触れる。かぎなれた潮の香りは、隠すように閉じられた深い紺碧の瞳を、もったいないから開けなさいとでも言いたげになぞっていった。
 だが、カイリは目を開けられないでいる。
 慣れ親しんだ浜辺や遊び友達の海が迎えてくれるとわかっているのに、まぶたの上と下が砂に潜ろうとする貝のようにぴったりと閉じていた。
「大丈夫かい?」
 カイリも、もう気付いていた。王様の声は少年のように無邪気なのに、口調は深く理解を示してくれる祖父のように穏やかなのだ。虚勢を張るのは、難しい。リクが抱く王様への深い信頼の気持ちが、カイリの胸にもじんと染みるようだ。
「はい、王様」
 やっと目を開ける決心がつく。目に入る景色は、何一つ変わっていなかった。遊び場の小島は、少しも変わっていない。
 この海岸から闇へ飛び込んだあの日に、戻ってきたと言ってもいい。
 カイリのうすく開いた唇から、細いしずかな吐息がこぼれた。表情に影は全くない。
 その横顔を見た王様とドナルド、グーフィーは、互いの顔に悲しみが浮かぶのを見た。
 
 無情にもあちらとこちらに分断された後、カイリはひどく取り乱した。細い手は、何も無くなった空間を、言葉すらどこかに置き忘れまさぐっていた。
 すでにカイリの五感は麻痺し、てのひらをさまよわせることしかできなかった。
 ほんの一呼吸分前にはたしかに二つの目で見ていた親友達の姿が、そこにあるかのように。
 その場で座り込んでしまったほうが楽だったろう。けれどカイリは、しゃんと背を伸ばしたまま、振り向いた。

 同じように影を感じさせず王様たちを振り返ったカイリは、大きく腕を広げた。
「今頃、ソラとリクもこっちに向かってるよ。もうすぐそこまで来てるかも」
 深紅の髪が暮れかけた色の合間にゆれる。表情に、闇の回廊を長い時間歩き続けた疲れは見えない。
 ちょっとはぐれてしまっただけだから、と瞳は不安をおくびにも出さなかった。
「そうだね、あっという間に戻ってくるよ。だって僕らも戻ってこれたんだから」
 グーフィーの言葉に頷きながらカイリはほほえんだ。
 穏やかなグーフィーの言葉はいつもやさしく、硬い芯が通っている。うわべを飾ることはけしてなく、隠れたものを的確に拾い上げてはこちらに見せてくれた。そばにいると、自然と笑顔になってしまうのだ。
 勢いよく空気を切る音に王様の足元に座っていたプルートがとびあがった。
「この、この、開けってば! これじゃ困るだろ!」
 杖を振りまわすドナルドがくやしそうに地団駄を踏む。舞い上がった砂にごほごほとむせ、もっと怒りだしてしまった。
 カイリ達が通った回廊は、すでに閉じている。そこにあったという気配すら残していない。
 怒っているふりをしながら、少しでもソラ達の力になろうとしてくれるドナルドに、カイリは抱きつきたくなった。彼は少し怒りっぽいが、常識家で正しい知識を持っている。ソラの突飛な行動には困らせられてばかりだとこぼしながら、きちんと最後まで付き合ってくれていることを、カイリはよく知っている。
 こちらにも砂が入ったのだろうか。なんだか目の奥が変に熱い。
 あわてて目をこするカイリの肩に、誰かがぴょんと飛び乗った。
「ここが君達の島なんだね。ああ、確かにすばらしい。なんて美しいんだ」
「でしょ? それに、朝だって負けないくらいきれいでね」
 うれしそうに説明しながら、ふとカイリは首を傾げた。
「あれ、どうして私達の島だってわかったの?」
 ジミニーにも王様たちにも、まだここが自分達の島だと教えていなかったはずだ。
「いやなに、ソラからたっぷり聞いていたからね」
 お茶目に片目をつぶるジミニーに、島のいいところをあれこれ並べ立てようとしたカイリは顔を赤くした。ドナルドとグーフィーが、おかしそうに笑っている。
(帰って、これたんだよね)
 実感のようなものが、一足遅くやってきた。
 もう何十年も離れていた気がする。なつかしさに胸がいっぱいだった。ここが自分の故郷なのだと、カイリは改めて感じている。両親やワッカ達は、相当気を揉んでいることだろう。心配させてと怒られることを思うと、なぜだか笑い出したい気持ちになった。
 なのに、目の奥に居座りつづける熱はちっとも冷めない。まばたきを控えながらカイリは変に思った。
(ぜんぜん変わってないからかな)
 夕陽が、海に体を潜らせる為の準備を始めている。
 淡く明るい色がとけてできる、いつもの藍色の夜が、あの水平線の下で待っているのだ。
 カイリに島を旅立った日の続きを見せようと待っていたのか、ひどくゆっくりと、海に沈もうとしていた。

「うん、本当にすてきなところだ」
 しみじみとつぶやいた王様は、すこし遠い目をした。
 先ほどのカイリの横顔は、まだ帰れないと耐えるようにつぶやいたリクの幼さの残った横顔だった。
 カイリのやわらかさを残す輪郭と美しい紺碧の瞳とは、印象がまったくちがう。だが、どうしようもなく表に現れてしまうさみしさは、同じだった。
 世界が与える運命は、なぜこれほどにも彼らを苦しめるのだろう。
 幾度となく繰り返した問いは、彼の胸の底にたまった澱に、また重なることになる。
「王様?」
 よく気のまわるカイリは、王様の抱く苦い感情にすぐに気付いた。心配そうにのぞきこまれた王様は静かに首を振った。だがカイリはますます心配になったのか、王様の手を急いで握った。
「だいじょうぶです、だってもうすぐ、もうすぐ―」
 それ以上言葉が出てこない。カイリが自分の中にうずく熱をおさえられそうになかったからだ。
「運命は僕達を導いてくれた。だから今は、信じよう。信じていてくれるね?」
 やっとのことでうなずくカイリが、哀れでならなかった。強くやさしい心を持った少女が、本当は人一倍さみしがりやなのだと聞いた日は、今もはっきりと思いだせる。
 自分の手を握ってくれている細い手を両手で包みこむと、カイリは泣き笑いの顔になった。
 なぐさめるようにカイリの足元にすりよるプルートの賢さに、王様は感謝した。

 それからカイリは、膝を抱えながら、ちょっとだけ泣いた。
 泣きたいときは気の済むまで泣くし、笑いたいときは思いきり笑う。そういう風にしてきた今までとは違う泣き方だった。つまり、心がちっともすっきりしない。
 波打ち際で浴びる風がつめたかった。ぬれた頬がぴりぴりしている。泣いたせいで体温があがっているのだろう。
 子供達の遊び場である小島の上で、ゆったりと重なり合った雲が淡い衣をまとい始めた。その合間からもれる陽光は海面を白く輝かせている。これから始まる夜という場面の為に、入念に、たっぷりと時間をかけて準備しているように見えた。
「変なの。時間、止まってるのかな」
 隣に腰を下ろしているドナルドが、首を振った。
「待ってる間って、長く感じるんだよ」
「あ、そっか」
 この一年がどれほど長かったか、カイリはすっかり忘れてしまっていた。そんなこと、どうでもよくなっていたからだ。だって、会えたこと以上に大切なことがあるだろうか。
 待っているだけでは、何も進まない。そうわかったのに。
 無性にくやしくてカイリは奥歯を噛み締めた。
(運命なんか)
 カイリは生まれて初めて、運命を考えていた。運命について、カイリが知っていることは少ない。少女が考えるには、途方もなく難しい題材だった。
 だが苦しいことがたくさんあった道のりを振り返ってみれば、たしかに運命という存在があったように思う。カイリが呼ばなくても、苦しみや痛みを携えた運命はあちらから歩み寄ってくるものなのだ。あらかじめ決められているという運命がけして楽ではないのも、頷ける。
 だからソラとリクがあの場所に取り残されたのも、運命なのだろう。
(そんなの、簡単に言わないで)
 だんだん腹が立ってきた。
 どうしても納得がいかない。あまりにも理不尽だと思う。
 同時にやりきれなかった。カイリには、待つ以外の選択肢は残されていない。賢い頭は、道の繋がっていない世界に干渉できないとわかっているからだ。あるいは、彼女を愛する世界が、そっと耳元で教えたのかもしれない。とにかく待つしかなかった。
 心は一向に落ち着かない。こうして待っているだけで、小さな火にじりじりと焼かれている心地がした。だから泣いてもすっきりしないのだ。
 もしそばで小島に視線を注いでいる王様たちがいてくれなければ、もっと泣いていたかもしれない。隣にいてくれる王様たちに、カイリは慰められた。
 誰かがいてくれるだけで、ほっとするのだ。運命よりも、カイリは人のぬくもりがどんなにやさしいものかをよく知っていた。それにいつもと比べ、暮れゆく色は目に痛いほどやさしい。
 元々怒りの感情を長く保てないカイリは、重いものを締め出すように息をはいた。
(ね、泣くのはもうあきちゃったよ)
 やはり考えが向くのはソラとリクのことばかりだ。小難しい運命よりも、そちらばかり気になって集中できない。
 どうにも引っかかることがあって運命について考えているのに、これはうまくなかった。考えに集中しようとカイリはあわててぐっとお腹に力を込めた。
「ねえ王様、僕らで迎えにいけないんですか?」
「……むずかしいと思う。こちらからでは扉を開くことができないんだ」
 沈んだ声に、カイリの頭の中でなにかが閃いた。
 思いがけないところから吹いてきた風に、ぎゅっと胸を締め付けられるようだ。心臓がどんどんと大きな音を立てている。
(運命……扉……)
 息苦しそうにしはじめたカイリに、王様たちはびっくりしてしまった。一体どうしたのだろう。
「カイリ?」
 ぱっと顔を上げたカイリの瞳はきらきらと輝き、頬はぽうっと淡い赤を帯びている。
「あった!」
「へ?」
 カイリはもう、走り出している。
 
 全速力で桟橋へ向かう背中を、王様たちは声もなく眺めていた。プルートがうれしそうに尻尾を振りながらカイリを追いかけると、ようやく皆我を取り戻した。
 少し遅れて追いかける。が、一同はすぐに足を止めることになった。
「あっ!」
「ええ!?」
 ドナルドとグーフィーが驚きと困惑の声をあげる。
 降って湧いたように現れた黒い服に身を包んだ人物が、片腕を広げ、通せんぼをするかのように立ちはだかった。隙が全くない。
 一歩前に出た王様は油断なく重心を落とした。
 カイリはすでに桟橋の端で小舟に乗りこもうとしている。手出しはさせないと王様がさらに一歩前に出ると、黒い服の人物はかるく首を振った。胸元の鎖がこすれる音が小さく響く。
「少し、時間をもらえますか」
 意外なほど幼い声に、王様たちは顔を見合わせた。表情が隠れているフードの下は、まだ少年なのかもしれない。
 彼はちらりと後ろに視線を投げると、少し体をずらした。その背から現れたのは、対照的に儚げな印象の少女だった。
 プルートがちぎれんばかりに尻尾をふりながらうれしそうな声をあげると、少女は唇の前にそっと人差し指を立てて、ふんわりとほほえんだ。



 ずいぶんあわてていたカイリの小舟は、いつ転覆してもおかしくなかった。
 久々の役目を果たそうと主人を注意深く守る小舟と、その意をくんだ起伏は穏やかな、けれど流れを少し早くした波は、カイリをきっちりと運んでくれた。海はいつでも、子供達の味方だった。
 櫂を投げ捨てて小島の桟橋に手を伸ばす。船を紐でくくりつける間ももどかしかった。ゆるんだままの結び目を見ないまま、カイリは船を飛び降りる。
 小島には、波が打ち寄せる音と南風にゆれる葉の音しかなかった。暮れる前に、子供達は家に帰ることになっている。
(待ってて、おねがい、もう少しだけ待って!)
 横目に見える夕陽に、祈るような気持ちでカイリは懇願した。
 まだ沈まないでほしい。夜になってしまえば、何も見えなくなってしまう。
 身軽く太い木の根を飛び越え、岩の間にぽっかりとあいた穴に体をくぐらせる。途中で、後頭部をしたたかにぶつけてしまった。一年の間に、勝手はすこし変わっているようだ。
 できたばかりのたんこぶをさすりながら、カイリは久しぶりの秘密の場所を見回した。
 複雑に入り組んだ洞窟を進んでゆく心おどる冒険、炎をはきだす大きな竜、いかにもいたずらが好きそうな大きな鳥。
 幼いころに想像をふくらませて描いた落書きは、そっくりそのまま残っていた。なつかしさに笑みがこぼれる。
 その中のひとつは、カイリが自分で書き足したもので、まだ新しい。カイリの背をこころよいくすぐったさがのぼる。
 おかげで逸る心も落ち着いた。
 カイリは足元に注意しながら奥に進み、頑として開こうとしない『扉』の前に立った。
 この扉を開こうと、幼いころの自分達はあれこれ手を尽くしたものだ。硬そうな枝を見繕っては、隙間に差し込んでは無理矢理開こうとしたこともある。
 そうしながら、子供達のいたずらにも無言のままの扉が、誰かがかけた鍵を守ろうとしていることに、気付いたのだ。
 結局開けることができなくて、三人は諦めるしかなかった。
 以来、カイリはなんとなくこの扉にさわってはいけないような気がしていた。
 特別な理由があったわけではない。ただ三人はそれぞれ、無理に秘密を暴こうとしたときのような、ばつの悪さを感じただけだ。
 幼いころにおぼえたあのふしぎな感覚を、カイリは何年かぶりに思い出していた。
 胸に手をあてて呼吸を整える。湿っぽい空気が肺にゆっくりと吸い込まれていった。
「聞こえますか?」
 静かな、だがはっきりとした声が、秘密の場所の中で木霊した。
「もし聞こえているなら、お願いがあります」
 いったん言葉を切り、唇を湿らせる。
「私の友達が、帰り道がわからなくなってるかもしれないんです。きっと、すごく困ってるから」
 カイリの声は岩壁にぶつかって戻ってくるが、扉はしんと黙ったままだ。
 構わずにカイリは続けた。
「道を、教えてあげてほしいんです」
 扉は、何も応えない。
 こらえきれずに金色の装飾にふちどられた鍵穴の奥をのぞきこむが、昔のままで真っ暗だった。あいかわらず奥があるのかも判断できない。
 くたびれたように息をついたカイリは扉に額を寄せた。
(ちがったのかなあ)
 世界は扉という運命をくれた。だからここもと思ったのだが、勘違いだったのだろうか。
 すぐにでも扉が開いて、ソラとリクがびっくりした顔で、そこにいるかのような気がしていた。
 いつからあるのかもわからない扉を、やつあたり気味にかるくこぶしで叩く。困ったようにきしむ音に、カイリはますます腹が立った。こうなったら、どんな手を使ってでも開けてやろうか。
 カイリがそんな物騒なことを考えていると、かすかな音が耳に届いた。
(水?)
 ぽちゃりと何かが、そう、空きビンくらいの大きさのものが水に落ちる音が、たしかに聞こえた。
(どうして? どこから?)
 すぐさまカイリはかすかな音の出所を探そうと首をめぐらせた。秘密の場所は空気こそ湿っているが、風通しがいいので地面や岩肌は乾いている。岩の間を縫うように伸びている太い木の根が水を吸い上げたにしては、はっきりとしていた。
 音の正体について考えを巡らせていたカイリの胸に、ある予感が生まれる。
 扉はいまだに沈黙を守ったままだ。ふたたび走り出した小さな背中を、ただ眺めていた。

 日が、暮れかけている。
 海面に足をつけようとしている太陽を一人占めにしながら、まぶしさにカイリは目を細めた。
 座り込んでしまうのがいやで、上半身をかがめて力が抜けそうな膝に手をついた。
 唇から長い長い溜息をもらすことは、ごく最近覚えたことだ。はいたすぐ後から重い疲れがやってきて、全身をだるくしてしまう。もちろん溜息だけで疲れるわけではない。長い距離を歩いた分だけ、体はカイリに教えるのだ。頭がぼうっとして足もへとへとなのは、もう休めという合図だった。
 ましてや生身の体に、カイリ自身はちっとも気付かなくても、闇は負担になる。広い海原を住処にする魚は、河ではけして生きられない。
(うまくいくと思ってたけど、簡単じゃなかったみたい)
 カイリは胸の中でぼやいた。
(全部が全部うまくいかないのも、しかたないのかなあ)
 ―そんなことないって。
 ―考えすぎだろ。
 そう答えてくれる声は、どこからも聞こえない。かわいたはずなのにまた湿っぽくなる目のあたりにも腹が立つ。いろんなことに腹が立って、腹を立てることに、くたびれていた。
(こっちだよ、ここだよ)
 砂粒が大きくぼやけはじめたのでカイリは顔を上げることにした。
 なんてまぶしいんだろう。手でさえぎった夕陽はそれでも目に痛いほどだ。三人で眺めていた頃は、これほどまぶしく感じたことはなかったのに。
「いっしょじゃないとやだよ。ぜったいぜったい、やだからね」
 やはりあの扉しかない。運命が味方をしてくれないからといって、ふくれている暇はなかった。なんとしてでも探しだす決意を固めたカイリは、身をひるがえして秘密の場所へ戻ろうとした。

―リ!
カイ―!

 はじかれたように振り向く。
 カイリはもう少しで、息が止まってしまうところだった。
 ソラが、手を振っている。リクが、海水をたっぷりすった前髪をかきあげている。
「ソラ、リク―!」
 距離は、まだかなりある。
 こちらに向かって泳ぎだした二人に、ごくゆるやかだった波は、やはり少し流れを早めてくれた。
 それでも待ちきれなくて、カイリは、うさぎよりも早く走り出した。
 海からふく風が頬や腕をこする。靴に水がたっぷりとしみこむ。海水の中の砂に足を取られそうになる。視界がはっきりとしないのは舞い上がる水しぶきのせいだろうか。とにかく、思うように走れないのがもどかしい。
 とうとう転びそうになったカイリを、急いで泳いできたソラとリクが片方ずつ支えた。
 それぞれ膝まで海水につかった三人はあちこち濡れている。
 髪からしずくをたらしているソラとリクは、体を曲げ肩で息をするカイリを心配そうに見つめた。
「ごめん、待たせて」
 と、ソラが申し訳なさそうに謝る。
「すまない、遅くなったな」
 と、リクも心苦しそうに謝った。
 呼吸を整えなくてはいけないのに、うまく息ができない。うつむいたまま焦るカイリの目が、ふと影を見つけた。ゆったりと揺れる海面は、抜けるような空色ではなく、淡い光の色に染まっていた。その中にうつっている、表情も形もぼんやりとした二人の姿から、カイリは目が離せなくなっている。
 どうして、こんなに目立つのだろう。
 とにかく二人の姿は、一度見れば忘れられないほど目立っている。
 それはカイリが探してやまない姿だったからだ。伸びた背も、見違えるほどたくましくなった体格もはっきりさせない影には、昔のままの面影が残っている。一歩先を走りながら振り返ってくれるソラとリクが、そこにいた。
 新しい発見と懐かしく思う気持ちがごちゃまぜになって胸はいっぱいだ。
(見つけた)
 そうカイリは思った。
 顔を上げたカイリは、とてもとてもしあわせそうにほほえんだ。その明るい笑顔があんまりまぶしくて、ソラとリクはちょっと目を細めなければならなかった。
「待ちくたびれちゃったよ、もう」
 言うが早いか、カイリはめいっぱい腕を伸ばしてソラとリクを抱え込む。
 かなり寸が足りなかったが、思いきり力を込めて抱きしめた。もうこれ以上何も入らないと思われた胸に新しい感情が沸きだしていく。今にも胸の外にあふれ出しそうなのに、ちっとも苦しくない。体の奥に感じていた熱を、カイリが我慢することはなかった。
(帰って、きたんだ―)
 実感は、今度こそ本物になった。
 腕と体だけでは足りなかった。もっともっとたくさん触れたい、ソラとリクのあたたかさを、直接感じたい。カイリの心からの願いは、すぐにソラとリクにも伝わった。
 体を膝で支えられなくなったカイリを、想いをこめた抱擁が包み込んだ。前に倒れてしまう心配は、まったくなかった。
 頭がくらくらする。五感が肌をぬらす海水も暮れゆく光も置き去りにし、ただソラとリクの体温を感じることだけに集中している。夢では、ない。
「あのさ、カイリ、た、ただいま」
「ただいま、カイリ」
 照れくさそうに同時につぶやいたソラとリクは、カイリの頭の上でちょっとだけ気まずそうな視線を交わした。
「おかえり、ソラ、リク」
 あふれた涙をぬぐうより腕に力を込めたカイリも、たくさんの感情をこめてつぶやく。
 帰ってきたのだ。ようやく、この島に、帰ってきた。
 なんという安堵感だろう。カイリは今なら、どんな難題だってかるくこなせる自信があった。だって、ソラとリクがいるのだ。これ以上にうれしいことが、他にあるだろうか。
 名残惜しく思いながらカイリが体を離すと、背後で声と水をかき分けてやってくる音がした。
 まったく準備していなかったソラはそのままドナルドとグーフィーに押し倒されてしまう。
 リクは駆け寄ってきた王様を持ち上げくるりと回り、屈託のない笑顔になる。
「よかった、よかったよう!」
「心配したんだぞ!」
「よく無事で―!」
 ドナルドとグーフィーにもみくちゃにされているソラと、王様にやさしく抱きしめられているリクに、カイリはにこにこしている。
 だから、後ろからやってくる気配に、少しも気づかなかった。
「きゃあっ」
 油断しているところに後ろから膝を突かれ、海水の中に派手にしりもちをついてしまう。
 頭からざぶりと水をかぶり、カイリまでびしょぬれになってしまった。塩辛いのもかまわず、足元にまとわりついていたプルートはカイリの頬をぺろりとなめる。
 一呼吸置いて、重なった笑い声が、暮れゆく小島ににぎやかに響いた。


 普段どおりの朝だったので、ソラをかるい混乱がおそった。
(俺の部屋……)
 ベッドに横たわったまま見慣れた部屋を眺める。やや乱雑に扱われているが、ソラにとっての宝ものにあふれた居心地のいい部屋は何も変わっていなかった。ゆうべ、ひとつひとつ手にとって確かめたのだから間違いない。
 吊り下げられた船の模型の舳先は窓に向っていて、ソラも自然にそちらに視線をうつした。すばらしく晴れた天気と、遊び場の小島が見える。
 それからのソラの行動は早かった。がばりと体を起こすとすごい早さで服を着替え、階段の手すりをすべり下りる。
 母親は、珍しく寝坊しなかったのねとソラを褒めた。
(夢じゃ、ない)
 自分は、島へ帰ってきたのだ。少しの間、ソラはじっとしていた。おいしそうな朝食のにおいを胸いっぱいに吸い込めば、それだけでお腹がふくれてしまう。
「ちょっといってくる!」
 どこへと問いかける母親に悪いと思いながらソラは家を飛び出した。
 しばらく走ったあとで、家を振り返る。ソラは自分がどういう表情をしているのかわからなかった。うれしくもあり、しかし複雑でもある。
 留守にしていたのが嘘のように、何もかもが、旅に出た日のままだったからだ。
 
 リクの両親に挨拶をする間も、ふしぎな感覚が離れなかった。
 いつものように遊びに来たというふうにあたたかく出迎えてもらっても、ソラはそれほど驚かなくなっていたが。
 自分が魔法にかかったのか、それともかけているのか。
 少なくとも、ものすごくまずいことでないのは確かだ。ソラの心は明るい。
「よっ、……っと」
 ノックもせずに部屋に入り元気よく声をかけようとするソラを、カイリが目でたしなめた。
 あわてて口を押さえたソラは、珍しい光景に目を丸くする。リクは、まだ眠っていた。
(どうしたんだ?)
(疲れてるんだよ。そっとしといてあげよ)
 ソラとカイリが小声で話をしている間も、リクが起き出す様子はない。
 聞きたいことがあったソラは少しがっかりしたが、すぐにまあいいかと思う。
 カイリの隣に腰を下ろすと時計を見た。
「私もさっき来たばかり。ちょっと、聞きたいことがあって」
 ソラの気持ちを読んだかのようにカイリは言う。
 ふうんと頷きながら、ソラはやっぱりカイリも同じだったのだと思った。
 今も深く眠ったままのリクなら、何か知っているだろうと考えたことも同じだった。
 何か話すわけでもなく、二人はリクが起きるのを待っていた。ただ黙っているだけでも、気まずい雰囲気になることはない。そういう流れができていた。
 
「俺さ、ずっと眠ってたみたいなんだ」
 ぽつりとソラがいう。
「みたいって?」
「途中までしか思い出せないんだ。リクと王様を探してたはずなんだけど(―見つけたけど、とソラはベッドを指差してカイリににいっと笑いかけた)、そのあとがさっぱり。気がついたら全然知らないとこで目が覚めてさ」
 カイリがびっくりして目を丸くする。
「誘拐されてたの?」
「ちがうって。俺もドナルドもグーフィーも、ただ寝てたんだよ」
 おかしいだろ? と手をひらひら振りながら笑う。今思えば妙な話だった。
 宿を借りたにしては辻褄が合わないし、無人なのをいいことに忍び込んだのだとしたら、ちょっと褒められない。
「夢も見た気がする。とにかく長い夢だったんだ。ときどき悲しくて、あとはすごくなつかしい感じがして」
 腕を組み思い出そうとする。だが、いくら記憶を探っても夢を思い出すことはできなかった。あれは、どんな夢だったろう。
 それにあのときはリクと王様のことで頭がいっぱいだったから深くは考えなかったが、もしかしたら自分は取り返しがつかないほど大変なことをしでかしたんじゃないかと心配になっていた。
「これってどう思う?」
 とカイリを振り向く。カイリの意見が聞きたかった。心の中で相談するのも悪くなかったが、本当のカイリにはかなわない。ソラはこっそり、心の中に住むカイリに謝った。ちょっとむくれながら、笑っている。
「ふしぎなことは、それだけじゃないよ」
「ん?」
「私は、ソラを忘れてた。顔も名前も思い出せなかったんだ」
「ええ!?」
 がつんと頭を殴られたようだ。カイリに忘れられていたと思うと、ソラはひどく心細くなる。
「もちろん全部思い出したよ。でもね、すごく不安だった。何かあったんじゃないかって―」
 ふいにカイリがにっこりとほほえんだ。手を伸ばすと、きゅっとソラの頬をつねる。
「そっか、ソラは寝てたんだね、ずっと」
 完全に、怒らせてしまった。
 特別に想う少女の機嫌を損ねてしまったと、ソラはごく年相応にあわてふためいた。世界のことよりも、カイリがずっと重要だったからだ。何かと秤にかけることすら思いつかない。運命を与える世界が言葉を持っていたのなら、きっと呆れることだろう。それほどソラの頭はカイリでいっぱいだった。
「なんてね、冗談冗談。怒ってないよ」
 いたずらっぽく笑いながらカイリがかるく肩をすくめる。ソラは本当にほっとした。
「おどかすなよ。あー、心臓が止まるかと思った」
 そんなに? とカイリはあいかわらず楽しそうに笑っている。
「それより体はなんともない? どこか痛いところはある?」
「ないない」
 ソラの様子を見れば具合が悪そうには見えない。リクの方がよほど疲れて見えるくらいだ。
「よかった。でも、変わったことがあったらすぐ言ってね。ちゃんと休まなきゃ」
 うん、と頷きながらソラは別のことを考えている。
 以前も、こんなふうに心配してもらったことがあった。カイリの台詞を胸の中で繰り返すと、ぽっぽと体があたたかくなる。ちらちらとカイリをうかがいながら、ソラは顔がにやけてしまわないようがんばった。
「ん、どうしたの?」
 カイリはすぐに気が付いてくれる。でれでれになりながら、ソラは頭をかいた。
「なんか、照れくさくてさ」
 きょとんとした瞳は、窓の外に見える海の色だった。深い深い紺碧は、そのまま故郷の色だった。
「なんでだろうな、前のまんまなのに、やたら照れくさいんだよ。その、あれかな。俺もちょっとは大人になったってことかも」
 ソラにとってせいいっぱいの台詞だったが、カイリも別のことを考えたようだ。
「そう、前のままなんだよね。どうしてだろう」
 そのままカイリは考え込んでしまった。
「ね、ソラ達が眠ってたのと何か関係があると思う?」
「さ、さあ?」
「ソラ達は寝てて、忘れてて、でも思い出して、元通りで。んー、わかんないなあ」
 額を押さえて悩み始めるより、もっと気にしてほしいことがあるのだが。
 カイリが自分の考えに集中しだすと、中々終わらない。
 置いてけぼりにされたみたいで、ソラはふてくされたように後ろに倒れ込んだ。だらしないぞと叱るリクが寝ているのをいいことに、堂々と腕を足を伸ばしてやる。
 ソラの方から相談を持ちかけたというのに、もう興味を失っていた。
 元に戻ったから、元に戻ったのだ。それでいいではないかという気持ちになっていた。
「もうわかんなくていいって。それで世界がひっくり返ったりするわけじゃないんだし」
 少し不機嫌な口調でぼやく。カイリはくすくす笑いながらソラの上着の端をつまんでひっぱった。
「そっか、そだね。ならいっかな」
 ん? とソラは首を傾げた。むくりと起き上がりカイリの顔をまじまじと眺める。
 カイリにしては、やけに見切りをつけるのが早くないか?
「いいのいいの。大事なのはこれからなんだから。でしょ?」
「これからって……」
「わかんない?」
 ようやくソラは気付いた。カイリは、ひどくうれしそうなのだ。悩んでなんかいられないと瞳が語っている。
 しあわせそうに細められた目に見つめられて、ソラは遅まきながらどぎまぎした。
「だって、毎日会えるんだよ?」
 よくわからない。それは結局、いつも通りに戻ったということではないのだろうか。
 うなって悩みだしたソラに、カイリの瞳が迫っている。物言いたげにうるんだ瞳は、ソラが知るカイリとは違っていた。お腹の真ん中がしぼられるような、けれどぞくりとする感覚にソラは唾をのみこむ。カイリは、いったい何を自分に言ってほしいのだろう。



 すると、小さくふきだす声が聞こえた。
「そうだな」
 いつの間にか起きていたらしい。寝起きのくせに横顔が涼しいリクは、起こした上半身を大きく伸ばした。
「嵐がこようと世界がひっくりかえろうと、心配する必要はないってことだ」
 求めていた言葉をもらったカイリは、うれしそうにほほえんだ。
「ずっと?」
「ああ、これからは何があろうとずっとだ」
 迷わず答えたリクのこうだ、と言わんばかりの視線に、ソラはすっかりむくれてしまった。
 もうちょっと時間があればわかっていたのに。
 そう言いたげに前髪の合間からにらんでくるソラに、リクは口元をゆるめた。
「お前らしいよ、ソラ」
「どういう意味だよ?」
 聞き返したソラから視線を外したリクが、窓の外を見る。
 すっきりと晴れた天気にたった今気がついたというように、目を細めているようだ。たくましく成長した肩が、ゆっくりと上下している。
「わからないままでいいことも、あるんだろうな」
 リクが明るいつぶやきをもらすのが聞こえた。思わずソラとカイリは顔を見合わせた。リクらしからぬ台詞に、びっくりしている。だがなんとも落ち着いた口調は、リクの心から直接現れた言葉だと証明していた。
 
 不安そうな二つの視線が注がれる背中がくすぐったい。
(したいようにすればいい)
 これは、秘密ではない。感謝の思いをそのまま口にすることも、難しくはなかった。
 自分なら、ソラとカイリに教えてやれる。だが、全部が全部話す必要はないのだ。これがナミネの選んだやり方なら、黙って見守ってやればいい。
 やり方は、それぞれ違うのだとリクは知っている。
(大事なのは)
 振り返ったリクは、カイリを見つめた。
「ただいま」
 おはようじゃなくて? とカイリは言わない。繊細なまつげにふちどられた紺碧の瞳が、ゆっくりと一度だけまばたきをした。
「おかえり」
 こらえきれずに、リクはまたかるくふきだした。笑わずにいられない。自分がここにいるだけでも奇跡のようだと思っていたのに、何度も何度も奇跡があるものだから、無性におかしかった。
「まいったな」
「それは俺の台詞だろ」
 ぷんぷんしながらソラが言う。真面目になったりふきだしたりと変なリクを怒っているのだろう。実際ソラは、相変わらず自分一人で済ませてしまうリクに、腹を立てていた。
「そうだったな」
 あっさりと受け流しながら、次にリクは、申し訳なく感じている自分の心と向き合った。
 大好きな二人がいてくれて満ち足りた様子のカイリは、ずっとにこにこしている。ソラに視線を移してはリクをみつめ、またソラを見て、リクを見て、しあわせそうにほほえんでいた。
 カイリがやってきたとき、起きていたが目をつむったままでいたリクは、ひどく焦ったものだ。やさしく額にちらばった髪をすいてくれた細い指の感触はまだ残っている。
 それだけではない。カイリの笑顔を一人占めに、正確には二人占めにしていることが、どうにも心苦しかった。自分には全く非はないというのに、これはリクにとってかなり殊勝なことだった。
 一人覚悟を決めた背は、リクの網膜にやきついている。一生忘れることはないだろう。
 昔話に、触れるべきではなかったのだと後悔に近いものまでしている。
 重苦しい溜息を吐くと、カイリがリクを下からのぞきこんだ。
「リク?」
 居住まいを正したリクは、カイリの視線を真正面から受け止めた。
「今は、しあわせか?」
 妙な質問にカイリは目をぱちぱちさせた。ふざけている様子はない。
 素直にこくこくと頷くカイリに、リクは手で目を覆った。
(これでいいだろ。あんたの代わりは、もうごめんだ)
 海から吹く一際強い風が、低い音を立てて窓の外を通り過ぎる。賢者アンセムの低い笑い声に似たその音に、リクは肩が軽くなったような気がした。



 それから三人はなかよく朝食を食べて(ソラとカイリはごちそうになって)、家を出た。
 とくに行くあてはない。歩きなれた道だったが、一年ぶりだとかなり感じ方が違う。
 他愛もない話をしながら歩くソラとリクとカイリは、後ろから声をかけられた。
「カイリ姉ちゃーん、ソラー、リクー」
 ぱたぱたと走り寄ってくるセルフィを待つために立ち止まる。急ぎすぎて道のくぼみに足をとられそうになるセルフィに、ソラとリクは思わず笑ってしまった。
(変わってないや)
 久しぶりに会ったそそっかしいところのある幼なじみに、ソラは親しみを込めた笑顔を向けた。セルフィが怪訝そうに眉をひそめる。
「なあにソラ、にやにやしちゃって。やらしいなあ」
 ぎょっとして顔をおさえるソラを、リクが笑った。
「や、やらしいってなんだよ!」
「そのまんまよ。どうせカイリ姉ちゃんのこと考えてたんでしょ」
「あのなあ!」
「ちょっとはリクを見習ったら?」
 おすまし顔のセルフィはカイリに向きなおった。
 ソラは怒りがおさまらないようだったが、まあまあとカイリになだめられてとりあえずは落ち着いた。
「あんな、ルールができたから練習しよーって」
「ほんと? わあ、楽しみ! どこでやるの? 海岸?」
「うん。みんなそこに集合な」
 また忙しそうに駆けていくセルフィを見送り、ソラはおもしろくなさそうに呟いた。
「なんだよ、言いたい放題のまんまじゃないか」
 何も変わっていないにしても、これくらいは変わっていてもいいじゃないかと、ソラは山ほど文句がある。
「なんのことだ?」
 きれいにソラを無視したリクはカイリに尋ねた。
「ワッカ達が新しい遊びを考えたの。タイミング、ちょうどよかったね」
 そうだなとリクは首を縦に振った。カイリの言うとおり、新しい遊びを始めるには時期がいい。改めてリクは感謝していた。このまま溶けこめるのなら、それ以上のことはない。忘れるわけではなく、新しい思いはそのままに戻れるのだ。
「よくない」
「あれ、まだすねてるんだ?」
「すねてない」
 ソラはかんかんだった。セルフィに言われたことが、心底気に食わない。
(考えてたって、にやにやしないぞ)
 カイリのことを考えるときは、ごく真剣でいるつもりだ。
 恋とか愛とか定義づけるのはまだまだ難しかったが、カイリの場合はちょっと違うとソラは思っている。胸のあたりがくすぐったくもあり、もやもやすることもある。
 今なんかも、ひどくもやもやしていた。

「よっ」
「お、来たな」
 海岸にはすでに見慣れた顔が集まっている。準備運動にも余念がないティーダはさっそく始めようとせっかちにボールを持ちだした。
「まあ待てって。まずは試合のルールの確認をしてかなきゃな」
 ワッカが持ち出した分厚い紙の束に、ソラはげんなりした。
「それ、全部覚えなきゃいけないのか?」
「あたりまえだっての。守れない奴は即失格だからな」
 ソラは物を覚えるのがあまり得意ではない。大切なことならいいが、それ以外、特に退屈きわまりない勉強のたぐいは、かなり厄介だと思っている。
 しぶしぶルールの書かれた紙をめくっていると、ワッカとカイリが話しているのが聞こえた。
「すごいすごい、しっかりできてるよ。おつかれさま、ワッカ」
 鼻の頭をかきながらワッカが照れる。
「ずいぶん遅くなっちまったけどな」
「いいじゃない、とっといた方が楽しみは増えるしね」
「そ、そか? まあ、悪かったよ」
 なんのことはない。友達同士の、他愛のない話だ。
(あ……)
 みるみる意気消沈したソラがうつむく。
 少し離れた場所にある流木に力なく腰を下ろしたソラを、リクとカイリが気付かないわけなかった。
「ソラ?」
「どうしたんだ?」
 もやもやの原因が、はっきりと思い出せた。カイリに伝えてくれと頼まれた言葉が、そっくりそのままソラの胸の中に残っているからだ。だからといって簡単に伝えられるはずがない。カイリにしたことをすんなり許せるなら、これほどくすぶったままではなかったろう。
 ソラは、なんとか笑顔を作った。
「オレット達が、よろしくってさ」
「え?」
 突然の伝言にカイリは驚くが、すぐにほほえむ。
「すとらぐるばとる、もうすぐだったよね?」
「うん、たぶん」
「元気かな、会いたいなあ」
 しみじみとつぶやくカイリに、ソラはどうしても口に出せないでいる。
(まずいなあ)
 もうこれは、ソラの手に負えるものではなかった。だってそうだろう。普通に謝るのだって気力がいるのに。

 ―カイリに、ひどいことして悪かった

 おだやかな天気の下なのに、気分はすぐれない。
(自分で謝れよ)
 ひたすらアクセルが恨めしかった。清々しく言い放って背中を向けた彼が、恨めしくてしかたない。
 押し付けられたことももやもやの原因の一つだが、何より、カイリに、ということがソラの気を滅入らせた。
 うつむいたままカイリをうかがいみる。カイリは、元気のないソラの為にルールをわかりやすくかみくだいて説明しているところだった。
 忘れる、あるいはなかったことにする。という選択もあったろう。ソラが薄情者になれれば、迷わずそうしていたに違いない。だがなんといっても、彼には助けてもらった。無下にはできない。リクとカイリに会えたのも、手助けがあったからこそだ。
「ごめんな」
 低く沈んだ声で謝るソラに、カイリは笑いかけた。
「じゃ、ちゃんと覚えるまでがんばろうね」
 うん、とソラは頷くしかない。
 やたらに体を動かすしか、このもやもやは晴れそうにない。ソラはいつになく大人びた表情でからりと晴れた空をにらんだ。



 島でもはずれのほうにある桟橋でごろりと横になっているソラを、リクはすぐに見つけた。
 端からたらした足をぶらぶらさせている姿は、ややだらしない。こちら側は海流の流れが早く、ソラの靴の下で波は白く打ち寄せている。
 かるく溜息をつきながら歩み寄ったリクに、ソラは片目を開けた。
「なんだ、リクか」
 ふてくされているソラに目くじらを立てたところで意味はない。
「別にお前を探してたわけじゃない」
 横に腰を下ろし突き放すように返したリクに、ソラは頬をふくらませた。
「探してほしいなんて誰も言ってないだろ」
「カイリは探してるぞ」
 う、とソラは言葉に詰まる。
 遊んでいたはずなのにふらりと消えたソラがどこへ行ったのか、リクは手に取るようにわかった。ソラは昔から、両親に叱られたときなどはここにくることが多い。
 幼いころ、偶然ソラの姿を見かけたリクは、この場所を知ったのだ。
 誰しも、自分だけの場所を持っていたいときがある。だから急ぎの用があるとき以外にリクがここを訪れることはなかった。幼なじみだからこそ、互いに踏み込んではいけない領域があると承知していた。
 波はざあざあとうるさいほどで、ここでは意識して声を大きくしないといけなかった。
「悩むなんてお前らしくないな。で?」
「でって?」
「言ってみろ。少しなら相談に乗ってやる」
「はいはい、ご親切にどーも」
 億劫そうに体を起こしたソラはあぐらをかくと膝の上にひじをついた。
「たいしたことじゃなくてさ、まあ、全然、ちっとも悩みじゃないんだけど」
 長い前置をリクは聞き流した。
「全部は終わってなかったのかもなって思ってさ」
 やっぱりかとリクは呆れてしまった。
「お前、いつの間に性格が一部変更になったんだ?」
 リクは大げさに額に手を置いた。ソラが何かを悩むだけでもおおごとなのに、これほど深刻だったとは。
「終わったんだ、全部。大体わからないままでもいいんじゃなかったのか」
「そんときはそんとき、今は今だろ。なあリク、俺わかんないんだよ。カイリになんて言えばいいんだろ」
「何を」
「謝ってくれって、頼まれたんだ」
 思わずリクは言葉を失う。詳しく聞かなければいけないのだろうが、聞きたくない気持ちのほうが大きい。
(平気なのか?)
 ソラは、どうして平然としていられるのだろう。同時に自分が、ちっとも成長していないことに愕然とした。カイリにと聞いただけで心がざわめく。いや、ソラからは構わないが、そうじゃなくて、負けた気はするが、論点がずれすぎだ、どこのどいつが、とにかくとんでもないと一六歳のリクは思った。
 相談に乗るといったリクのほうが落ち着きを失っている。もともと動揺を表に出さないタイプだから、横顔はあいかわらず涼しかったが。
「だったら自分で謝ればいいんだ。あいつ、ひきょうだよな。でも、これを終わらせないと全部終わらない気がするし」
 はあ、と深刻に息をついたソラをよそに、リクは恥ずかしくてたまらなかった。
(まったく、お前は……)
 変更になるはずがない。ソラはまったくソラのままだった。
 何事もまっすぐ受け取り、そればかりを目指してしまう、ソラのまんまだ。リクがかなわないと思う自由な魂は、ちっとも変っていない。
「肝心なことを忘れてるぞ」
 ん? とソラがどんよりした顔を上げる。
 真剣に聞け、とリクはかるく小突いた。
「カイリが謝られて喜ぶと思うか?」
 みるみる表情を明るくするソラに、やっぱり呆れてしまう。悩ませたままにしておけばよかったかと考えたほどだ。
「そうだよな! うん、やっぱ自分で言えばいいんだ。あー、悩んで損した!」
 ソラに悪気は少しもないのだが、これにはちょっと、ソラに頼みごとをした人物に同情せざるをえない。アクセル当人だって夢にも思っていないだろう。
「ありがとな、リク。なんかすっきりした」
「よかったな」
 投げやりにリクがつぶやく。ソラのおかげでこっちの悩みは増えていた。いきなり自覚させられた少年らしい悩みに、リクは自分の前途が薄暗くなったような気がしている。これは欲深くなっているということなのだろうか。
「ったく、くだらないことで悩むのは俺に任せればいいんだ」
 めちゃくちゃな理論だと自分でもわかっているが、言わずにいられない。振り回されるくらいなら自分が悩んだ方がまだましだった。
「いいっていいって。たまには分担したって構わないだろ?」
 ソラもかなりめちゃくちゃな理論だ。
 肩から力が抜けてしまう。疲れたようにあぐらをかいたリクは、海面にただよう白い泡をぼんやりと眺めた。
「な、だからもう一人で背負うなよ。俺もカイリもいるんだから」
 ソラはソラなりに気遣ってくれているのだろう。ばしばしと叩かれる背中が痛い。
 ……何か怒りが込められているようなのは、気のせいだろうか。
「そうだな。たまになら、な!」
 一瞬の隙をつき、がっちりとソラの首を抱え込む。蛙がつぶれたような声があがった。
「ちょ、たんまたんま!」
「どうした、もう降参か!?」
「じゃないけど、いてて、やめろってば!」
 ふざけ合う声とうるさい波はいい勝負だ。リクが腕にますます力を込めればソラは大げさに叫び、ついでに波もさらに勢いをつけて桟橋にぶつかってみせる。
 本気になりつつあったじゃれあいがようやく終わったのは、ソラのやぶれかぶれと思われる言葉があってからだった。
「まだあるんだよ、終わってないことがもう一つ!」



「王様に聞くのは?」
「だめだ。俺達だけでやらないと意味がない」
 図書室の机に積み上げられた本は、どれも分野が違う。手近な一冊を手に取ったカイリは、ぱらぱらとページを繰った。

―俺達は、世界をまだ全部見ていない

 もっともだ、とカイリは思う。だから見に行こうというソラの意見には賛成だし、カイリだって好奇心は抑えられない。だが、一から船を作るのは、それも星々を渡る特別な船なら、とても大変なことに思えた。
 見栄を張らずに王様たちに協力してもらえばいいのに、ソラとリクは自分達でやるといってきかないのだ。二人してあざまで作って、どんな話し合いをしたのだろう。
(ほんと、男の子ってむずかしいんだから)
 と、カイリはこぼさずにいられない。
 山のように積み上げられた本の合間に見えるリクは、至極真面目に調べている。髪のすきまからのぞく切れ長の瞳があんまり真剣なので、カイリはついぽそりとつぶやいてしまった。
「みえっぱり」
 リクがすばやく反応する。
「何か言ったか?」
「ううん、なーんにも」
 夏休みの図書室はがらんとしている。カイリとリクがおしゃべりをしていても、とがめる人は誰もいない。
 午後の日差しが気持ちよくて、絶好のお昼寝日和だ。ついうとうとしてしまうのもしかたない。瞳をとろんとさせたカイリに、リクが顔を上げずに言う。
「また真面目にやるのは俺だけか?」
「はいはい、真面目にやります、やらせていただきます」
 冗談ぽく舌を出してみせると、ひとまず納得してくれたようだ。
 分担としては、悪くない。カイリは本が好きだし、リクだって嫌いなほうではない。けれど黙ったままでいるのはつまらないとカイリは思っている。
「ねえリク」
 カイリが話しかければ、リクはすぐに顔を上げてくれる。
 真面目なんだか、真面目じゃないんだか。カイリはこそばゆい感覚をこらえなければいけなかった。
「そんなに急がなくても、いいんじゃないかな」
 リクの形よく整った眉が中心に寄る。
「せっかく帰ってきたんだし、ゆっくりするのもいいと思うんだ。もちろんハイネ達には会いたいよ。でもね」
 いったん言葉を切る。
「でも、なんだ?」
 カイリは笑いながら肩をすくめた。
「ちょっとね」
 夜空は、少しだけカイリをこわがらせる。
 宝石のように煌めく星や深い漆黒は吸いこまれそうなほど美しい。そして、とても広かった。夜空の下にいれば、カイリは自分がちっぽけだといやでも思い知らされる。待つ間の心細さと似通った感覚を、カイリは好きになれないでいた。
「ね、ゆっくりしよう? なんにも考えないでのんびりして―」
 椅子にびっくりするほど大きな音を立てさせてリクは立ち上がった。
 ひゃっとカイリは頭を本で隠す。せっかくの計画に水を差しているのはわかっていたが、ここまで怒るとは思わなかった。
 ひょいと頭を守る本が取り上げられると、かたい表紙がカイリの頭をかるくたたく。
「どうしてもっと早く言わなかったんだ」
 カイリの隣の椅子に腰かけなおすと、リクは積み上げた本を机の奥に押しやった。広くなった机に肘をつくと、カイリと向き合ったリクが不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「カイリが行きたくないなら、準備なんかしなかったぞ」
「そうなの?」
「俺とソラだけじゃ意味がないだろ」
 この台詞はいたくカイリを感激させた。なんともいえない贅沢な気持ちになる。
「そっか。私がいなきゃ、だめなんだね」
「あたりまえだ」
「リクも?」
 さすがに引っ掛かってはくれないが、ぷいと背けたリクの顔は赤かった。
「やっぱり行く」
「は?」
「ほらほら、早く調べちゃお。さぼってたらおいてっちゃうからね」
 リクが押しやった本の山を手元に引きよせたカイリは、先ほどとは比べものにならないほど真面目に調べ出した。
 世界は、元々一つだった。星の海を渡る方法だって、きっと見つかる。
 唖然としたリクは、ついにはふきだすと、カイリの頬に手を伸ばし、指の背で触れた。
「変わらないな、おまえも」
 気付いているだろうか。リクが目を細めて笑うと、幼いころの面影が現れるのだ。
 好奇心にあふれいつも前を向いているリクの瞳が、カイリはとても好きで、成長するにつれすっかり大人びてしまったことを、残念に思っていたくらいだ。
「変わらないよ。これからも、ずっとね」
 すると、リクが少し痛いという顔をした。めずらしく瞳が迷いを見せている。
「いや、なんでもない」
 なんでもないはずない。首を傾げたカイリは、離れようとするリクの手をがっしり掴んだ。
 紺碧の瞳が、さあさあとリクを促す。とうとう観念して、リクは白状した。
「おまえがあったかいから、ほっとしたんだ」
 ほろりとくずれたリクの表情に、カイリは体がとてもあたたかくなった。



 後ろから肩をとんとんと叩かれて、ソラは心臓が止まりそうだった。
「こら、またさぼってたでしょ?」
「さぼってないって!」
 大あわてで後ろに隠したものを見られなかったかとソラはひやひやしている。
 間の悪い事に、カイリはしっかり見ていたようだ。しきりにソラの背中を気にしている。
「それで? 後ろになに隠したの?」
(あ、ちゃー)
 ばれないようにこっそりと乾かすつもりだったのに。
「えっと、服、そう、服がぬれちゃってさ」
「服?」
 いつもの服装をしているソラを上から下まで眺めたカイリは、いたずらっぽい光を瞳に宿した。じりじりと距離がつまり、ソラは徐々に追い詰められる。
「大変だね。手伝おうか?」
 すぐ後ろが壁というところまで来ても、カイリはまだ迫ってくる。
 近い距離から瞳をのぞきこまれたソラは、観念するしかなかった。天を仰ぐと、しわくちゃになってしまった紙を差し出す。
「あ、これって」
「うん」
 カイリが送ってくれた手紙は、ポケットにしまわれながら海水を吸いこんだせいで、かわいそうなほどしわしわになっていた。
 どうしても手放せなかったのだ。自分とリクに光への扉を示してくれた手紙は、ソラにとってかけがえのない宝ものになっている。どうにか元の状態に戻せないかと苦戦しているところを、運悪くカイリに見つかってしまった。
「ごめん、せっかくカイリがくれたのに」
 カイリはじっと手紙を見ている。インクはよれてひどい有り様だし、折れ目は弱くなりいまにもやぶけてしまいそうだ。
 怒られる覚悟を決めたソラは、ぎゅっと目をつぶったが、いつまでたってもげんこつがやってこないので、おそるおそる目を開けた。
「カイリ?」
 カイリの瞳がうるんでいる。潮風のせいではなかった。
「え?」
 目に涙がたまっていることに気付かなかったのだろう。
 ソラは代わりに、あふれた涙を親指でぬぐってやった。
「手紙、届いてたんだね」
「うん、ちゃんと受け取った。あ、返事はまだだけど……」
 ううんとカイリは首を振る。何か言おうとするのだが、しゃくりあげるので言葉にならない。大いにあわてたソラは、とっさにカイリの肩に手を置いた。とにかくカイリを落ち着かせてやりたい。
「全部これのおかげなんだ」
「どういう、こと?」
「俺もリクも帰り道がわからなくて困ってたら、この手紙が届いて」
 ほら、とソラは雲を指差した。
「帰ってこれた」
 あのやさしい光は、今もソラの心に残っている。
 まぶしく、あたたかく、なつかしかった。そう、まるで。
 ソラはじっとカイリを見つめた。涙はもうおさまったのか、カイリは少し赤くなった目元を照れくさそうにこすっている。
「つまり、私のおかげってこと?」
「そういうこと」
「ふふ、なんだか照れるなあ」
 カイリは、笑っているほうがずっといい。明るい笑顔を見るにつけ、ソラはひどく満たされるのだ。お腹の底あたり、たぶん、心に一番近いところから、ぽかぽかしてくる。
「ありがとう、カイリ」
 ソラの声は、もう少年のものとはいいがたい。
 声が低い響きをともなったことに一番最初に気付いたのは、カイリだった。





 続きを、見ているかのようだった。
 パオプの木から三人で眺めたときの、島から一人で旅立ったときの、それから、この島に帰ってきたときの。
 たたずむカイリの足元に、あわい光に染まった波が近寄っては離れていく。
 夜の気配をまぜた風がカイリの髪をあおった。片手で髪をおさえたカイリの唇から、知らず知らずのうちに吐息がこぼれる。
(感謝します……)
 胸の内でつぶやいた言葉は、誰に向けられているわけでもない。
 カイリの心に、自然に浮かんだ言葉だった。
 びゅう、と海からの風が強くなる。間もなく日も暮れる。
 ソラとリクを探そうと踵を返したカイリの耳に、ぽちゃりと、何かが水に落ちる音が聞こえた。
(え?)
 海を振り返ると、目に入るものがあった。ゆらゆらと揺れながら、こちらに近づいてくる。
 まるでカイリがいることを知っていたかのように、ビンは足元に届いた。
「手紙?」
 拾い上げると、カイリは走り出した。ソラとリクに、早く見せよう。
 自分達宛ての手紙が、届いたのだ。

 

  • 08.12.28