ふと気付くと、手の甲が、あわい色に染まっている。窓拭きの手を止めて体ごとふりかえったロクサスは、息をつめた。
 トワイライトタウンの象徴でもある駅舎の時計塔が、両肩にあわい陽光を乗せている。見慣れたはずの景色に、我を忘れて見入った。
 本当は立ち入り禁止のはずの時計塔は、ロクサスが好きな場所の一つだ。あそこから街を見渡せば、自分のてのひらの中におさめたように、こころよい感覚に満たされる。小さくなってしまったかに見える家々の一つ一つの大きさを思い出しながら、いとおしいと思う感情が抑えきれなくなる。どこが、と説明するのはちょっと難しい。白い壁がほんのりと赤く染まるようすや、離れたところから聞こえる線路の音、街を通り抜けるからりと乾いた風は、どれも欠かすことができないからだ。
 街外れの屋敷からだと、のっぽな頭だけ見える時計塔は、ずいぶんこじんまりとしていた。近くで眺めているときは首がいたくなってしまうのに、とロクサスはふしぎに思う。
 もっとよく見ようとしたロクサスは、窓枠を掴んでくれている手の力を無意識のうちにゆるめていた。
「……ロクサス?」
 書棚のほこりを丁寧にふきとっていたナミネは、ふいに肌が粟立ち手を止めた。振り向けば、ついさきほどまでいたはずの姿に代わり、洗いたてのカーテンが部屋の中に向かってはためいている。
「ロクサス!」
 まさかと青ざめたナミネは、おおいそぎで駆け寄った。
「え?」
 呼んだ? と下から顔をのぞかせたロクサスに、ナミネはきゃっと小さく悲鳴をあげた。生まれ持って身が軽いロクサスは、何事もなかったように落ちかけた体を支えている。
「よかった……」
 へたへたと膝から座り込んでしまったナミネにあわてたのはロクサスだ。最近のナミネは、とても涙もろい。ちょっとしたことでほろりと泣いてしまうから、ロクサスは十分気をつけなくてはいけなかった。こちらも素早く部屋の中へ戻る。
「あれを、見てたんだ」
 元気づけるように肩に手を置くと、少しうるんだ瞳が不思議そうにロクサスを見上げた。
「あれって?」
「ほらあれ」
 ロクサスが指さした大きな二つの鐘は、向かい合っておしゃべりをしているようにも見えた。やわらいだ瞳にロクサスはほっとする。手を差し出し小さな体を立たせてやった。
「明日も晴れるんだね」
 え? とロクサスは首を傾げる。淡い色に染まった空に、天気を知らせる案内が出ているわけではない。
「ううん、なんとなくそんな気がして」
「でも、俺もそう思う」
 うれしそうにほほえむナミネにロクサスも笑顔になる。何気ないやりとりが、ひどくうれしかった。
(ずっと前から、こうしてたみたいだ)
 屋敷で暮らすようになってから、まだそれほど日が経っていない。そもそもナミネを知ったのだって、ほんのちょっと前のことだ。けれどロクサスは、ずっとずっと前から、ナミネを覚えていた。
 何も持っていないと自分が惨めでたまらなかった頃もある。だが、一歩おいた場所に立てば、驚くほど多くのものを手にしていた。そのうちの一つがナミネだと言ったら、もの扱いされたと怒らせてしまうだろうか。それはそれでいいかもしれないと真剣に考えるロクサスの袖が、ちょんと控え目に引かれる。
「今度は気をつけてね。あの、びっくりしちゃうから」
 ロクサスは顔を赤くするとうなずいた。たしかに景色に見惚れるあまり落ちていては本末転倒だ。
「わかってる、もうナミネを心配させたりしない」
 ごく真面目に言うものだから、ナミネの頬がぽうっと染まる。恥ずかしげに視線を伏せられるたびに、ロクサスはちょっぴり傷付いてたりもするのだが、女の子の複雑な仕組みをよくわかっていないのだから仕方ない。
 そしてもどかしくも甘い雰囲気になると、先に逃げ出してしまうのはナミネのほうだった。
「私、これ洗ってくる」
 使っていた雑巾を取り上げバケツといっしょに持っていこうとする。片側だけ重いせいで小さな後ろ姿はよろよろと頼りない。手伝おうとしたロクサスは、つよく首を振られ手を引っ込めるしかなかった。
(まいったな)
 ぎくしゃくしてしまうのは、まだ慣れていないからだろうか。
 入れ替わりでやってきたアクセルが、妙な顔をしているロクサスに溜息をつく。
「またかよ。おまえら、ほんと飽きねえな」
「ほんとだよ」
 疲れたように肩を落とす姿は、少年らしくない。
「なんで、うまくいかないんだろうな」


 トワイライトタウンの朝は、白い光が混じる。清々しい朝につられるようにすっきりとした頭で、ロクサスは考えていた。つまり、自分とナミネだからうまくいかないのではなく、ちょっとした行き違いがあるだけなのだ。
(大丈夫だ、俺達はもう、なんでもやれる)
 お腹に力を込めればますます目が覚める。元気よく飛び起き服を着替えれば、新しい力が湧いてきた。
 うまくいかないと思い込んでいるうちは、何もうまくいかない。ようは気の持ちようだ。生まれ変わった気になれば、どんなことも難しくはない。
 最初にきれいにしたダイニングには、くつろいだ格好のアクセルしかいなかったので、蓄えたはずの新しい力がするすると抜けてしまう。ロクサスの表情ですべてを理解したアクセルは、黙って朝食を指してくれた。
「ナミネは?」
 アクセルが森の方角に指を向けると、ロクサスは目立ってがっかりした。なんだか避けられたような気がして、心が変に波立っている。
 うなだれたロクサスを、慣れたようにアクセルはなだめた。
「悩むより行動したらどうだ?」
「おせっかいはやめてくれよ」
 だが実際、その通りだと思った。今の自分は考えれば考えるほど袋小路に迷い込んでいる。ナミネをもっと知ろうとするたびに、距離がひらいている気がしてならない。やり方が、悪いのだろうか。
 冷めかけたトーストをかじりながら、ロクサスは思い切って尋ねてみた。
「なあ、おまえでもうまくいかないことってあるよな?」
「はあ?」
「だから、アクセルだって失敗することはあるだろ?」
 質問の意図がよくわからない。すすっていたコーヒーを置くと、アクセルはロクサスの顔をじっと窺った。
「そりゃあ、な」
 投げやりな答え方だったが、ロクサスはひとまず満足したようだ。
「そうだよな、最初から全部うまくいくはずないんだ」
 どこかで似たような台詞を聞いた気がすると思いながら、椅子に座り直したアクセルは頬杖をついた。
「で、それを聞いてどうするんだよ?」
「別に、どうも」
「へえ。自分と同じで安心したってか?」
 ぎくりと体を固くするロクサスに、アクセルはくっくっと喉をふるわせる。
「少しくらい隠せよ、いくら俺でも悲しくなるだろ」
「悪い……」
「お前なあ」
 謝ってからロクサスは自分の失言に気付いた。申し訳なく思えば思うほど失言を重ねそうで、とりあえず黙っていたほうがよさそうだ。アクセルの勘の良さは頼りになるが、何かを隠したいときは厄介なことこの上ない。
「気にしてねえって。大体いちいち目くじら立てることかよ」
 からからと笑いながら席を立ったアクセルは、そのまま出て行こうとする。口の中に残ったトーストをあわてて甘いミルクで流し込むと、ロクサスは背中を追いかけた。いつ見ても、アクセルの背はまっすぐだった。見え隠れする自信がそう思わせるのだろうか。
「待てよ、それより見つかったのか、おまえの」
 途中で口ごもったロクサスにちらりと視線を流したアクセルは首を横に振った。
「いんや、まだだ」
「ふうん、大変だな」
 うれしさが声ににじんでしまい、ロクサスは焦った。アクセルはといえば、ちっとも気を悪くした様子はない。
(見つからなければいい)
 と、ロクサスは内心こっそり思う。
 アクセルが探している夢の足掛かりになるものが、この屋敷には眠っている。
 それが何なのかロクサスは聞こうともしなかった。見つかってしまえば、アクセルはきっと出て行ってしまう。自分達を繋げていた機関という枠は、もう無かった。見つからないまま、いつまでもこの屋敷に留まっていてほしい。わがままだとわかっていても、そう思わずにいられない。
「見つかるといいな」
 けれど、こちらも正直な気持ちだ。さっぱりと頷いたアクセルが、ふと思い出したように付け加えた。
「ちゃんと礼を言っとけよ」
「何の?」
「朝飯を用意したのに寝坊した誰かさんに待ちぼうけをくわされたナミネにだよ」
 それを早く言ってくれと、一目散に駈け出した背中を眺めながら、アクセルは呆れている。
(全くだぜ。俺はいつからこんなにお節介になったんだ?)
 それもなかなか悪くない心地なのが、アクセルは不思議でならなかった。



 肌をかすめるほどよい湿度に、ナミネは目を細めた。
「そんなにあわてないで、まだたくさんあるから」
 我先にとまかれたパンくずをついばむ小鳥達は、せっかくの助言も聞こえないようだ。
 一羽が、小さな肩にとまった。せっせと羽繕いをはじめた小鳥は、てのひらにパンくずをのせて差し出すと、忙しくついばんだ。ちょんちょんと触れるくちばしがくすぐったい。
 静かな朝だった。
 森を形作っている、ナミネが腕を回しても届かないような大木は、ずっと上のほうで豊かな葉を鳴らしている。
 根のあたりはちょうどよくくぼんでいて、腰を下ろすと太い幹が背中が支えてくれた。まるで最初から、ナミネがくるのをわかっていたようだ。
 森の奥に、門にぐるりと囲まれた屋敷がある。その屋敷で、一年と少し前からナミネは暮らしていた。二階の窓のすぐ外に見えた森に自分の足で来るようになったのは、ほんの最近だった。外へ出ることを禁じられていたわけではない。ナミネ自身が、許さなかったのだ。
 朝露のとけた風が下草をゆらすと、食事の合間にさえずる小鳥達の声もあって少しにぎやかになる。
 ナミネは残りのパンくずをまいてしまうと、背中のほうへかるく体重をかけた。
(あったかい……)
 木の香りがかすかにただよっている。ざらざらとした木肌はくすぐったいくらいだ。街のほうから聞こえる低く響く音が鼓膜に心地よい。
 このまま夢のようにおだやかな日々が続いてほしいと、心のどこかで願っている。そしてその願いは叶えられると、わかっていた。
 なのに、不安でたまらないのだ。一体この不安はどこからくるのだろう。
 小さな体を縮こませ膝を抱く。寒くもないのに、小さな体は震えていた。
 小鳥達は一斉に歌うのをやめると、飛び去ってしまう。草を踏んであるいてくるナミネ以外の誰かを警戒したらしい。すぐ傍で立ち止まった誰かは、声をかけるのをためらっているようだった。ロクサスは、人が抱える想いにひどく敏感なのだ。
「おはよう、ナミネ」
 一際明るい声に、ナミネも自然に顔を上げることができた。
「おはよう、ロクサス。よく眠れた?」
「それがさ、寝付けなくってまいったよ。おかげで寝坊するし」
 くすりとナミネが笑うと、ロクサスは朝食の礼を口にした。ナミネは恥ずかしげに視線を伏せる。
「隣、空いてる?」
「うん」
 座りやすいようにとナミネは意識せず体をずらした。どっしりとした大木は、二人の背を何も言わずに支えてくれる。
 青々とした下草が気を利かして音を立てるのをやめると、森の中はしんと静まり返った。小鳥のさえずりも聞こえず、互いの息遣いばかりがやけに耳に残る。
「ナミネが言ったとおりだ」
「え?」
 自分のものではない体温にぼんやりとしていたナミネは、言葉のほうにまったく注意を払っていなかった。
「今日は晴れるって言ってたろ?」
 晴ればれとした笑顔でロクサスは視線をあげた。木漏れ日は白い光ばかりを選んで通しているらしく、土まで届くのはごくわずかだ。けれど、土の上に置いた手には、じんわりと熱が伝わってくる。時計塔よりも遠い陽光のあたたかさが地表にあることが、ロクサスを不思議な気持ちにさせた。
「ナミネはすごいよ。俺には同じに見えるのに」
「そんなことない。ほんとうに、なんとなく、そう思っただけなの」
 あまりにも力強く否定され、ロクサスは頭をかくしかなかった。それでもなおナミネは否定する。
「ただの偶然なの。ちょっとだけそうかなって思ったら、たまたま晴れただけで」
 握りこぶしまで作ったナミネは、必死だった。どうにかしてロクサスの誤解をとかなければいけない。
「雨でもいいじゃないか。俺はわりと好きだけど」
「雪になってたかもしれない」
「雪合戦て、一度やってみたかったんだ」
「嵐になってしまったら、困るでしょう?」
「絶対に晴れるから海へ行ける。ほら、そんなに悪いことばかりじゃない」
 違う、とナミネは力なく首を振った。
「私を信じないで。ううん、信じないほうがいい」
 ようやく肝心な部分が言えて、ナミネはほっとした。どっとおそってきた疲労感に、小さな手がぱたりと草の上に落ちる。
「……ナミネ?」
 うかがうようなロクサスの口調に、ナミネははっとした。
「ごめんなさい。あんまりあてにならないって、言いたかったの。それだけ」
 まともに顔を見られなくて、逃げ出してしまう。だがロクサスの手は、しっかりと細い手首をつかんだ。
「おかしいだろ、そんなの」
 幾分低くなったロクサスの声に、背筋が寒くなる。無感情に細められた瞳に射すくめられナミネは動けなくなってしまった。ロクサスのこんな瞳は、見たくない。
「信じるとか信じないとか、変だ。ずれてる」
「でも」
「でもじゃないっ」
 叱るような強い口調に、ロクサスのほうがびっくりした。まさか女の子に、他でもないナミネにこんな言い方ができるなんて。
 想いに敏感ではあったが、まだまだ未熟だったことが、災いした。とにかく様子のおかしいナミネを助けてやりたいと、心ばかりが逸っている。
「……どうしたんだ? この頃、ずっとだ。どうしてナミネは」
「やめて!」
 悲鳴に近い叫びにロクサスは言葉を失う。うすく紫がかった瞳からぽろぽろとこぼれる涙が、朝の日差しを受けきらきらしていた。
「ほんとうに、ほんとうになんでもないから」
 手首を掴んでいた力がゆるんだので、ナミネは持てる力を全部使ってロクサスの手をほどいた。体全体から比べれば、触れていたのはごくわずかで、ほんの少しの時間だった。だが離れる瞬間、ナミネは痛みを感じた。魂が無理矢理二つに分けられるとしたら、こういう痛みを伴うに違いない。
 どうしようもなく泣きながら、ナミネはまた逃げ出してしまった。こわかったのだ。
(私、ほんとうに変だ)
 こんこんと染み出す不安に、胸が押しつぶされそうだった。



 ナミネの部屋の前でロクサスは途方にくれていた。追いかけたあとのことを、考えていなかったのだ。
 手をあてなくてもわかる。扉のすぐ向こうにナミネがいた。自分の体をふたにするかのように、扉にもたれかかって泣いている。
「ナミネ?」
 呼びかけても返事はない。無理にでも扉を開けることはできたが、ロクサスの手は動いてくれそうになかった。ナミネの涙が、心底こたえている。殴られたほうがまだ痛くない。
「その、さっきはごめん。言いすぎた」
 額を扉に押しつけると、かすかな嗚咽が聞こえた。涙をこらえようとしているのか、とぎれとぎれにしゃくりあげている。
(最低だ、俺は)
 どうしてもっと慎重にやれないのかと、ロクサスは自分が嫌になってしまった。
 今日ほどひどく泣かせたことはない。
「本当に悪かったと思ってる。俺を許してくれなくてもいい。だから」
(泣かないで)
 ロクサスは力なくその場に座り込むと、扉に背中を預けた。
 数日かけて磨き上げた床はぴかぴかで、ひんやりと冷たい。指の先でなぞれば一生懸命にやるナミネの姿がすぐに浮かんだ。
 ナミネは一度かかりはじめると、けして怠けることなくやりとおすのだ。休憩しようと言わなければ、いつまでも床とにらめっこをしているんじゃないかと、ロクサスは驚いたこともある。
 そういうナミネのひたむきな瞳が、ほほえんでくれるだけでよかった。この世界で一番価値があるものだとロクサスは思う。どんな美しい宝石にも代えがたい。アクセルが聞いたら、おおげさだと笑うことだろう。
 おびえた泣き声は、先ほどよりも小さくなっている。ひとまず息をつくと、ロクサスはぼんやりと宙をながめた。
 扉一枚が隔てる距離が、今のロクサスとナミネの距離だった。扉さえなければすぐ手が届く。きつく抱きしめてやることだってできた。それが、たった一枚の扉に阻まれている。
(どうしたらいい?)
 はっきりとした道筋がわからず、頭が重い。
 ナミネはいつも、なにかにおびえていた。当人ですら、何におびえているのかもわからないのだろう。だからロクサスに尋ねられるのを拒んだのだ。おそれていると自覚するのは、誰だってこわい。
(どうしたら……)
 情けないが、全くわからない。一体なにが、ナミネをあれほどおびえさせているのだろう。

 時計塔が鳴らす鐘の音が響いてしばらくすると、扉がきしいで、ごく小さな音を立てた。悶々と考え込んでいたロクサスも、もうロクサスが立ち去っていると思っていたナミネも、飛び上るほど驚いた。
「ナミネ?」
「ロクサス? ずっと、そこに?」
「あ、うん」
 それを聞いたナミネの体がかっと熱くなった。ロクサスは、ずっといてくれたのだ。
 立ち上がろうとした体がまた扉にすいよせられる。膝に力が入りそうにない。泣き尽くしたと思ったのに、目の奥が熱くなる。ナミネはすがりつくように扉にもたれた。
「そこ、寒くない?」
「今が夏じゃなかったら、たぶん」
「あ、そっか。そうだよね」
 扉越しにロクサスがふきだすのが聞こえる。変な質問をしてしまったと、ナミネも自分でおかしかった。
「ロクサス」
「なに?」
 名を呼べば、すぐにロクサスは応えてくれる。些細なことだったが、ナミネの胸はあたたかいもので満たされた。どうして逃げてしまったのかと、自分を叱りたくなる。
 落ちてきた沈黙に、とにかく何か言わなくてはとナミネは言葉を探した。
「あの、ええとね、空が教えてくれるの」
「天気を?」
「うん。最初はわからなかったんだけど、ずっと見ていたら、昨日とちょっとずつ違うってわかったの」
 ロクサスがじっと耳を傾けていてくれるのがわかった。どうしよう、とナミネはますます焦る。焦れば焦るほど意識は手当たりしだいに言葉を組立て、形を整える前に唇まで押しだしてしまう。
「それにお日さまはいつも同じ場所にいてくれて、とてもあったかくて、それで、だから」
 ロクサスは口を挟まない。軽い混乱がナミネをおそった。一体何をしゃべっているのだろう。
「私も、この街が好き」
 一瞬、息が止まった。
(好き?)
 おそるおそる指で唇に触れる。今のはほんとうに自分の声だったろうか。
 たった一言に唇から全身がしびれていく。生まれて初めての感覚に、ナミネは戸惑った。訳もなく泣きたいような、笑いたいような、体中がふわふわする感覚だった。
「あっ」
 いきなり扉が開かれた。もたれかかっていたナミネは前のめりに倒れたが、待ち構えていたロクサスがしっかりと支えた。やさしく立ち上がらせてもらいながら、ナミネは顔を上げられないでいる。泣きはらした目を見られたくなかったのだ。
 それに構わず、ロクサスはちょっと一方的にナミネの腕を引いた。どうあってもナミネの手を離すつもりがなさそうだ。
 一点を見据えた横顔のきびしさに、ナミネはぞくりとした。こういう表情をしているときのロクサスからは子供っぽさがすっかり抜け、軽々しく近寄れる雰囲気ではなかった。まるで人の形をした氷塊のようだ。けれど、こわいと感じることはない。ロクサスをそうさせるものを、ナミネはよく知っている。いいや、覚えていた。怒っているわけではなく、何物も邪魔が出来ないよう心を張りつめる必要があるときに、こうするのだ。
 大またに窓に近づくと、白いカーテンをめくる。ナミネを通してから、自分の体をくぐらせた。カーテンにくるまれると、まるで雲の中に入ったようになる。
「あれを、見てたんだ」
 昨日の台詞を繰り返し、ロクサスが時計塔を指さす。
「いくら見てても飽きないよな。いちいち落っこちてたら、体がいくつあっても足りないけど」
 とたんに心配そうに瞳をくもらせるナミネにロクサスはほほえみかけた。
「わかってる、これからは気をつけるよ。けどもしものときは、ナミネが注意してくれないか?」
 あ、とナミネはロクサスをふりむいた。やさしい瞳が、うなずいてくれる。
 ナミネは混乱したままやりなおそうとしていたのだ。ロクサスもまたナミネの気持ちを汲み、やりなおそうとしてくれる。
 また涙があふれそうになって、ごしごしと手の甲で目元をこすった。
 ロクサスに、自分の気持ちを聞いてもらいたい。自分の言葉で伝えたい。もっと気持ちをよりそわせたい。
 やはり得体の知れない不安が頭をもたげてきた。逃げるな、とナミネは自分を奮い立たせるように歯を食いしばる。
「うん、がんばる」
 逃げ出してしまった分まで、しっかりと答えたナミネに、ロクサスはちょっと困ったように笑った。
「がんばらなくていいんだ。俺がいるんだから、ナミネはそんなにがんばらなくていい」
 力強い手が肩を引き寄せてくれる。
(あったかい)
 ふれあっているとこだけ、どこか遠い世界のようで、お日さまに似ているとナミネは思った。



 頭上で響いた軽い足音と、それを追いかけた少し重い足音はしばらくまごついていたようだったが、しばらく経つとしずかになった。どうやら事態は収束したらしい。
 無造作に視線を上げたアクセルは、またすぐに視線を戻した。
(ばかな奴らだよ)
 不出来な恋物語、というのはちょっと感傷的だろうか。
 互いの想いをぶつけあうことすら不器用な二人を、アクセルは淡々と眺めていた。結末が気になるとか、じれったくなるとかは、一切ない。惚れた弱みがある親友の恋路を応援してやろうという殊勝な心掛けも、全く無かった。放っておいても大丈夫だと、確信があるからだ。
(さあて、どうなるかね)
 多少、面白がってはいたが。
 椅子をきしませ目についたデータを片っ端から呼び出していく。モニターがアクセルの燃えるような赤毛を青白く浮かばせた。
 この屋敷の主人だった男、ディズが残したデータは膨大だった。
 アクセルが覚えている当時以上の情報が、事細かに分類されている。一つ一つ確かめながら、アクセルは内心舌を巻いていた。明らかに、機関であった自分達以上に、彼はノーバディを知っている。知り尽くしていたといっていい。
「私か? 私は誰よりも従順な世界のしもべ。おまえと似たようなものだ」
 低い声がいやでも思い出される。あの嘲りは、ノーバディとして生まれ落ちた自分へ向けられたものだと思っていた。腹は立たなかったが、反吐はくさるほど出る、嫌味な台詞だった。
(大した奴だよ、あんたは)
 これが世界のしもべの仕事ぶりかと、ひたすら愉快だった。存在してはならないとされるノーバディなど捨て置けばいいのに、実像をつかまずにいられない。造反すら辞さない姿勢にはある種の尊敬すら抱く。
 ノーバディに関してだけではない。ハートレス、世界、アクセルが聞いたこともない事柄にまでデータは及んでいる。徹底されて所見が省かれているあたりが、いかにも彼らしい。
 アクセルには、ディズの真意がわからない。今頃は道の通っていない世界で、従順なしもべの役目を立派に果たしたと讃えられていることだろう。
 できればそうであってほしいとアクセルは思った。
 かるく舌打ちしてからがりがりと頭をかく。ロマンチックな願い事はあまり得意ではなかった。
 ふと見知った名を見つけ、指を止める。
(おいおい……)
 何度かまばたきしたアクセルの唇は、短く口笛を吹いた。面白いばかりの仕事などないものだと、つくづく思い知る。あれでどんな表情を隠していたのか、知りたいくらいだ。



 湿っぽくも感じる空と比べ、街をなでる風は乾いている。
 路面電車が通り過ぎたのを確かめたロクサスは、ふたたび探し物を見つけるべく歩きだした。
(好きなもの、好きなもの)
 商店街であれこれ探しているうちに、ロクサスは一つ発見をした。
 来た道を振り返り、また前を向く。敷き詰められた堅いレンガは、トワイライトタウンに広がる空を写し込んだ色をしていた。てくてくと歩きながらロクサスは思う。
(だから落ち着くのかな)
 街全体が、やさしく、落ち着いた雰囲気を持っていた。居心地の良さについ用事も忘れてしまいそうだ。
 歩いているうちに、ひときわ広い場所に出た。どうやら商店街から外れてしまったらしい。戻ろうかと考えたが、行き止まりではなさそうなので、せっかくだからとロクサスは広場を横切ることにした。もし迷っても時計塔を探せば方角はわかる。
 ちょうどとぎれたのか、広場には人影がなかった。大きな張り紙や掲示板はじっと誰かがくるのを待っている。
 その中の、ひときわにぎやかなポスターに目が吸い寄せられる。少年の心をくすぐってやまない内容に、ロクサスも例にもれず釘づけになった。
「おい、そこのよそ者」
 だから声をかけられても、ちっとも気が付かなかった。
「馬鹿みたいにぼーっとしてるお前だ、お前」
「え?」
 高圧的な声にロクサスがやっと振り返ると、友好的とはいいがたい態度の少年と目が合った。ロクサスより少し年上だろう。彼の後ろにはおおらかそうなやはり少し年上の少年と、ひどく冷めた瞳をした少女と、大きな目立つ帽子をかぶった子供が控えている。
(変な組み合わせ)
 が、ロクサスの正直な第一印象だった。彼らが街の風紀委員を名乗っていると知ったとき、人は見かけによらないものなのだとロクサスは肌で学んだ。
「ごめん、今なんて?」
「ああ、よそ者のお前に用はない」
 呼びとめた割にはずいぶんな態度についむっとしてしまう。ロクサスの瞳に苛立ちが浮かぶと、尊大な態度の少年はにやりとした。
「が、よそ者を野放しにしておくのは俺様の信念に反するんでな」
「よそ者よそ者ってやめてくれ。俺にはロクサスって名前があるんだ」
「はっ、わかったわかった。で、よそ者のロクサス君はどこから来たっていうんだ?」
「どこって……。え、と、電車に乗って、だけど」
 礼を欠いた相手につきあう必要はなかったが、うっかり口に出してしまったのは、ロクサス自身がわからないせいもある。目が覚めたら、電車は駅についていたのだ。たしか、ソラ達を見送って、それから―
「あいつ大丈夫かあ? サイファーの質問、ぜんっぜんわかってないもんよ」
「錯乱。笑止」
「つかれてるんじゃないかなあ」
 こそこそと交わされる会話にロクサスは耳まで赤くなった。
「まあいい。よそ者に街の流儀を教えてやるのが俺たちの仕事だからな」
「待ってくれ。教えるって、流儀ってなんだよ」
「お前が妙な気を起こさないようにしてやるってことだ」
(妙?)
「街の安全はサイファーが守るんだもんよ!」
「危険、即排除」
 得意げにサイファーを応援する声の大きさに、頭が痛くなる。
 しばらく考え込んだロクサスは、ようやく自分が危険人物扱いされているらしいことがわかった。思わず自分の服を見下ろしまじまじと眺める。
 けなされたようで、おもしろくない。
(どういう理屈だ?)
 流儀よりも、危険の度合いを決める基準を教えてほしいくらいだ。
「よくわからないけど、勝手に誤解しないでくれ。俺はこの街に迷惑をかけようなんて、これっぽっちも思ってない」
「よそ者の決まり文句だな」
 サイファーが腕に持った棒のようなものを肩にのせる。それはポスターのイラストにもなっていて、振り回して使うのにちょうどよさそうだった。
「遠慮するな。これは礼儀を知らないよそ者を歓迎する洗礼だ」
「……」
 ようするに、ロクサスは喧嘩を売られていた。
 呆れて言葉も出ない。まともな会話は期待できそうになく、頭痛が増すばかりだ。
 人差し指で招いては挑発を仕掛けるサイファーが、ふと何かに気付いた。
「おい、これを使え」
 ロクサスの足元に、サイファーがストラグルソードを放り投げる。靴にこつんとぶつかったそれを、ロクサスは拾う気にもなれなかった。
「卑怯な奴は騎士の風上にも置けないからな」
「さすがサイファー! 最高の男だもんよ!」
(どこが)
 すっかりやる気のサイファーとは反対に、ロクサスは疲れたように肩を落としている。
 誰でも彼でも喧嘩を売るなんて、褒められたものではない。この街の住人はさぞかし困っているのだろうと、ロクサスは同情した。さっそく自分も困らせられているあたり、先が思いやられる。
(……誰にでも?)
 この考えは浮かぶと同時に、ロクサスの体に火を点けた。
「頼んでない」
 すっと目を細めたロクサスの口調には抑揚がない。
「なんだと?」
「流儀とか歓迎とか、余計なお世話だって言ってるんだ」
 互いの間に緊張が走る。
 足元のストラグルソードをゆっくりと拾ったロクサスに、サイファーは唇の端を持ち上げた。
「ライ、フウ、わかってるな。手を出すなよ」
 楽しげに体を揺らすサイファーは、ライとフウを下がらせた。高まった緊張が肌をぴりぴりさせる。
 自分がよそ者だと低く見られることは、百歩譲って我慢できた。危険人物だと一方的に言われるのも、我慢してやっていい。喧嘩を売られたからってほいほい買うこともしない。
 現に頭は醒めていた。自分が安い挑発に乗っていると、よくわかっている。
 だが、どうしても我慢ならないのは、
(泣かせることは、絶対にさせない)
 細く息を吐くと、サイファーから目を離さずに腰を落とす。
 すると、サイファーがいきなり構えをといた。苦虫を噛み潰したような顔でロクサスから視線をそらす。
(え?)
 いぶかしんでいると、誰かがいきなりロクサスの腕を引っ張った。
「やっと見つけた。もう、ずっと探してたんだから」
 つい今しがたまで緊張感に満ちていた広場に、かわいい声が響く。いつもほほえんでいるような形の唇の少女は、姿の見えなかった友達をたしなめるそぶりをした。
「さ、早く。いつもの場所でみんなが待ってるよ」
 突然のことで声が出せないロクサスの背中をオレットはお構いなしにぐいぐいと押す。路地裏に続く階段の途中で、オレットはくるりと振り返った。
「サイファー?」
「なんだ」
 不機嫌は隠していないが、きちんと返事をしたのがロクサスには意外だった。
(あいつ、ちゃんと話できたんじゃないか)
「遊ぶのもいいけど、ほどほどにね。宿題はちゃんと終わらせた?」
「ほっとけ」
 ぷいと気まずそうにそっぽを向くあたりは、叱られた子供のようだ。なんだかおかしくて、ロクサスはてのひらで隠しながら、こっそりと笑った。



 路地裏を半分までいったところで、ロクサスは立ち止まった。意外な味方のおかげで広場のぴりぴりとした空気から離れられた。自分の味方がいるということは、ロクサスをうれしい気持ちにさせる。サイファーと喧嘩にならずに済んだことより、ずっとうれしかった。
 お礼を言おうと振り返ると、思いがけない視線とぶつかった。オレットの瞳が、ひどく怒っている。
「どういうつもり?」
「どういう、って?」
 たじろぐロクサスに、オレットは少し言葉の調子をやわらげた。
「いきなりケンカなんて、よくないよ?」
 ロクサスはとっさに全神経を使って自分の表情をいましめた。真剣に心配してくれるオレットの前でいきなりにこにこしたら、今度こそ怒らせてしまう。
「サイファーがああなのはいつものことなんだから、流しちゃっていいの」
 これにはロクサスがびっくりした。
「いつもって、まさかオレットにも?」
 きょとんと目を丸くしたオレットは、すぐ笑顔になる。
「さすがにそれはちょっと誤解しすぎ」
「ならよかった」
 ほっと胸をなでおろす。たしかによくよく考えれば、おかしな話だ。サイファーのよく回る達者な口を聞けば、頭が悪くないことはわかる。ナミネに因縁をつけられてたまるかとかっとなったロクサスにこそ思慮が足りなかったといわれても仕方ない。
(あぶなかった)
 あやうくこてんぱんにしてしまうところだった。オレットが止めてくれなければどうなっていたかわからない。
「とにかく、ハイネじゃないんだからケンカはだめだよ」
「わかった。これからはほどほどに仲良くする」
「そう、ほどほどにね」
 互いにほほえみあう。
 オレットの幼なじみにするような親しげな笑顔が、ロクサスの胸に染みた。
 そうか、とロクサスは納得する。どうしてこの街の居心地がいいのか思い当たったのだ。
 オレット達は最初、黒い服に身を包んだロクサスをとても警戒したが、屋敷に行きたいのだというと、すぐに教えてくれた。彼女達のやさしさは、そのままトワイライトタウンへの印象へと繋がっていた。
「俺を探してたって、カイリ達のことで?」
 ロクサスは、オレット達に話さなければいけないことをいくつも持っている。
 ときどきロクサスは思うのだ。自分があの電車に乗っていたのは、この街で成し遂げるべきことがあるからなのではないかと。誰かが、そうするべきだとロクサスの背中を押すように。
 運命は、どこから生まれるのか。その疑問に答えてくれるものは何もない。ないからこそ、ロクサスにはわかることがある。
(俺が、選んだんだ)
 理由などいらない。しんと静かな路地裏にいることは、ロクサスが選んだ道のひとつなのだ。
 オレットは、ロクサスの目をまっすぐに見た。
「会えたんだよね?」
「うん」
 そこは、最初に会ったときに話してある。ロクサスが力強く頷くと、オレットはうっとりと目を細めた。
「すてきなお話。あこがれるなあ」
 夢見るようにぽうっとなるオレットに、ロクサスはちょっと戸惑った。ソラとリクとカイリが会えた時はロクサスもうれしかったが、オレットはちょっと違うようだ。長い長い物語が、ようやくしあわせな結末を迎えた。そういう風にとらえているらしい。
 しあわせそうな溜息をついたオレットが、顔を上げる。
「それもすごく聞きたいけど、また今度。ハイネとピンツがいっしょのときにね」
 わかったと頷いたものの、オレットの意図がわからない。
「今日はね、ロクサスの好きなものを聞きたかったの。私達で」
「あ!」
 話をさえぎるようにロクサスが声をあげた。
「たのむ、オレットの好きなものを教えてくれないか?」



 どの色から使っていこうか迷ってしまう。これにしようか、それともこっちがいいか。
 座ったベンチに置いた真新しい色鉛筆はだまって持ち主に選ばれるのを待っている。細い指はうろうろと迷っているが、ナミネの瞳はそれほど困っていないことを教えてくれる。
(赤と、橙と)
 日の光を思わせる髪を、かわいた風がいたずらにゆらす。そういえば、この風はどこからやってくるのだろう。手で髪をおさえたナミネはふとそんなことを考えた。
 電車が線路を行く音がどこからか運ばれてくる。
 街をぐるりとめぐるように敷かれた線路と住宅街をこじんまりと走る路面電車それぞれが走る音も、風はまとめて運んだ。窓の外ばかり見ていた頃は聞きなれない両方の音に、いけないと思いながらもあれこれ想像したことがある。

 生まれて初めて乗った路面電車は、ナミネを住宅街の奥へと案内してくれた。
 電車を降りてきょろきょろするナミネに、車掌も兼ねた運転手はしわがれた声で尋ねた。
「お嬢ちゃん、迷子かい?」
 あまり見ない顔だと気になったのだろう。
 あわてて首を振ったナミネは体の横にかかえた、こちらも真新しいスケッチブックを見せた。
「いえ、あの、場所を探してるんです。ここの絵を描きたくて」
 ほう、と老人は目を細めた。
「絵はいい。この街と同じ位いいもんだ」
 感心したように老人がしみじみつぶやく。
 はい、とナミネはゆっくり頷いた。
「私の友達も、私も、この街が好きなんです」
 そう口にしたナミネの小さな体が、えもいわれぬよろこびに包まれる。そのしあわせそうな表情は、老人の口元をゆるませる力を持っていた。
 かさついた太い指が建物に囲まれた細い路地を指差す。つられて視線をそちらにやったナミネがかわいらしく首を傾げるので、低い声が楽しげに笑った。
「あっちへいくといい、小さな画家のお嬢ちゃん。それから帰りも乗っておくれよ」
 時刻表をきっちりと守り路面電車は戻っていく。
 ごとごとと足元に伝わる音がなくなってから、ナミネは住宅街のさらに奥へ続く細い路地へ向かって歩きだした。

 胸はまだどきどきしている。ありふれた世間話を、ナミネは何度も思い返していた。
 電車は、想像していた以上にすてきな乗り物だった。
 色鉛筆は細い指が描くままにすらすらとトワイライトタウンの空を塗っていく。その間もナミネの唇は変にむずむずしていた。口を開けば笑い声がもれそうで、気が抜けそうになるたびにナミネはきゅっと唇を引き締めている。
「うーん、いいなあ」
 きゃっという悲鳴は口の中で止まった。
 ナミネが勢いよく振り向くと、人懐っこそうな少年は申し訳なさそうに頬をかいた。
「ごめんごめん。君の絵がすてきだったから、つい」
「ううん、私こそ驚いたりしてごめんなさい」
「それにしてもびっくりだなあ。ここって結構穴場なのによく見つけたね」
「そうなの?」
「そう。実は、遅くなると恋人を待ち続ける女性の亡霊が現れるって噂がありましてな」
 ナミネは思わずあたりを見回した。
 家々に挟まれた路地の奥にぽっかりとあいた場所は、公園のようになっている。休憩もできる小さな木のベンチがおかれ、森に囲まれた屋敷の屋根まで見渡せた。
 ナミネは後で教わるのだが、トワイライトタウンにはこうした場所が多くある。共有できる場所を、街の人々は作ってきたのだ。
「なあんて、冗談だけど。あーあ、近所にそんな場所があったら面白かったんだけどなあ」
 心底残念だというようなピンツの口調がおかしかった。
「ええと、ナミネ、だよね?」
「ピンツ?」
 指をさし合い確かめた二人は同時に言った。
「「ロクサスに?」」
 やっぱりとピンツは笑顔をうかべ、ナミネはほほえみかえす。
「じゃあ改めて。よろしく、ナミネ」
 ピンツは、実に紳士的に手を差し出した。自分がごく自然に握手しているのに気付いたナミネは追いかけるように挨拶を返す。
「うん、こちらこそ」
 やはり紳士的に手を離してくれたピンツをナミネはついじっと見てしまう。
(色んな人がいるんだ)
 一歩外に出ただけで、ナミネは新しい発見に山ほどふれることができた。たとえば、やさしい街の男の子は、やっぱりやさしいということ。もっとも、例外もあったが、それを知るのはもう少し先の話だ。
 
 ピンツがしきりに絵を褒めてくれるので、ナミネは体から火が出るようで落ち着かなかった。
 落ち着かないと言えば、昨夜、屋敷に戻ってきたロクサスもそわそわしていた。秘められた宝ものを発見したかのように、じっとしているのが苦痛だといわんばかりだった。眠る少し前に、ひどく照れた様子で贈り物を手渡されたときも、まだ何か言いたそうにしていたので、ナミネは尋ねたのだ。
 ロクサスが街で会ったという友達の話を、ナミネはあきずに聞いていた。リーダー役のちょっととんがった少年と、うわさ好きの男の子と、しっかり者の女の子。うわさ好きの男の子なら、事情を知っているかもしれない。
「あの、聞いてもいい? ロクサス、昨日はちょっと変だったの」
 何か知ってる? と目で尋ねると、ピンツはにっこりとした。話で聞いた以上の笑顔に、ナミネは心があたたかくなる。
「うーん、ごめん。僕は何も知らないんだ」
 ちょっと言い方があやしい。いかにも隠し事をしているといわんばかりの態度に、ナミネだって黙っているわけにはいかない。
「でも、変になったのはピンツ達に会ってからだった」
 はっとナミネは口を押さえた。これではまるで責めているようではないか。
「ごめんなさい」
 ナミネは知りたがる自分を恥じた。ロクサス達が何を話していたのかもっと知りたい。そういう自分が意地汚く感じられて、嫌な気持ちになる。
 ピンツはうなった。
「鋭いね」
「え?」
「気を悪くしないでほしいんだけど、もっとおっとりしてるかと思ってた」
 おっとりして見えるピンツにそう言われ、ナミネは考え込む。
(そう、かな。そうなのかな)
 あまり考えたことがなく、なかなかぴんとこない。頑固だと言われたときはすんなり納得できたのに。
 ピンツはピンツで、物静かにみえる少女の持つ意外なほど鋭い慧眼を好ましく思っている。
「あ、そっか。だからナミネの絵はここに響くんだね」
 とんと胸を示すピンツに、ナミネは空の色と同じくらい赤くなった。
(だめ、だめ。しっかりしなきゃ)
 振り切るように顔をふると、強い視線を向ける。
「だからって、ごまかされない」
 頑固さが見える瞳に、ピンツは降参するかのように手をあげた。
「やっぱりバレた?」
 悪びれもしない。
「どういうこと?」
「後でわかるよ。だからそれまではお楽しみってことで」
 それを答えと受け取ったナミネは、うん、と神妙に顔を伏せた。
(そうだよね、無理に聞いたら悪いよね)
 ロクサス達が隠しているのだからとあれこれ想像するまいと自分に言い聞かせた。元々ナミネは自分に関しての諦めが早い。ロクサスはいつも、この諦めのよさにやきもきさせられていた。
「で、これは関係ない話なんだけど、参考までに好きなものを教えてくれる?」
「わたしの、好きなもの?」
 ふいにわいたよろこびが、ナミネの胸をひたす。慣れない感覚にナミネが戸惑う間も、ピンツは続けた。
「ちなみに僕はアイスかな。いつもの場所でみんなと食べてる時間が、一番しあわせなんだ」



 誰かが乱暴に玄関の扉を叩いている。
 ぼんやりとしていたのに急に現実に引き戻されたアクセルは、不機嫌そうに鼻をならした。
(いいね、行動が早くて結構なことだ)
 朝食を済ませたばかりの時間にやってくるあたり、すばらしい常識を備えていることだろう。ぜひとも顔を拝みたくないね、と胸の中でごちる。
 本棚から出したばかりの革表紙の本を机に置くと、億劫そうに立ち上がった。
 ロクサスはすでにナミネの手を引き元気よく飛び出している。とことんタイミングが悪い。
 ホールへ続く階段を降りながら、アクセルはかるくおどろいた。おんぼろとしか思えなかった屋敷が見違えるようになっている。近頃地下と書庫にこもってばかりだったアクセルにはすこしまぶしいくらいだ。
(あいつ本気だったのか)
 ここで暮らすと宣言したロクサスの真剣な表情を思い出し、アクセルは口元をゆるめた。
 乱暴な音はまだ続いている。磨き上げられたホールから玄関の間までに、アクセルの表情はずいぶんおだやかになっていた。
 出迎えたアクセルは、乱暴に扉を叩いていた、暗い部分がまったく感じられないのに、なぜかひどく不機嫌そうな少年ににらまれた。
「……悪いな、あいつらならとっくに出てっちまったぜ」
 ハイネも、アクセルのそっけない態度にむっとしたようだ。
「違う、これを届けにきたんだ」
 ぐいっと押しつけられたのは白い封筒だった。あしらわれた小さな花の模様がかわいらしい。なんでまた俺に、とアクセルが怪訝そうに首を傾げた。手紙をくれるような知り合いは、少なくともこの街にはいなかった。
 ハイネが肩から下げている大きなカバンの口からは手紙の束がのぞいている。
「仕事なんだろ? なら間違えたりすんな」
 アクセルが返そうとしても、ハイネは頑として受け取ろうとしない。
「大事にあつかえよ。俺はちゃんと渡したからな」
 の一点張りだ。
 とりあえず、受け取る以外になさそうだ。あとでナミネにでも渡せばいいかと考え引っ込もうとしたアクセルは、扉ががっちりとおさえられていることに気づいた。
「まだ信用したわけじゃない」
「はあ?」
 いきなり訳がわからない。どこからどう見ても郵便配達のアルバイトに勤しむ少年が、何を言い出すのだろう。
「俺は信じてないからな。おまえは信用できない。ああ、ぜったいに無理だね」
 ハイネはためていたものを吐き出すかのように言うと、長く息をついた。吐きだしたあとのほうが疲れた顔をしている。
 ようやくアクセルは思い出していた。彼は、カイリの友達の一人だ。
「悪かったな」
「は?」
「言い訳はしねえよ、全部俺がやったことだからな。悪かった」
 いさぎよく謝られて、ハイネはぽかんと口をあけるしかない。カイリを連れ去ったのはたしかにこいつだったろうかと確かめもした。黒いコートは着ていなかったが、特徴的な鋭い目を忘れたことはない。
「お前、ええと、ハイネだったか。気が済まなかったら……そうだな、思う存分殴ってくれ」
 遠慮はいらないとアクセルが全身から力を抜くものだから、ハイネは自分の記憶が間違っているのかと不安におそわれたくらいだ。
「ばか言うな、俺が殴ってどうするんだよ。だったら別にやることがあるだろ」
 ん? とアクセルは目を見張った。その表情がひどく子供っぽい。年相応の顔だった。
「そういやそうだな」
 忘れていたことを思い出しすっきりした、というように笑いだしたアクセルに、ハイネはすっかり毒気を抜かれている。
 アクセルは忘れていたわけではない。しかしカイリに会うことをはばかる部分が、自分にとって都合のいい建前だと、思い出したのだ。
「ま、殴りたくなったらいつでも言ってくれや」
 じゃあな、と背を向け扉を閉める。
「おい!」
 ひときわ大きな声が扉の向こうから聞こえた。
「俺はまだ信用してないからな!」
 草を踏む音がだんだん遠くなっていく。しんとなったホールでアクセルは肩をすくめた。
(まだってなんだよ、まだって)
 いつかなんて、あるのだろうか。今のアクセルに、時間はあってないようなものだ。
 だが、悪い気はしない。ハイネとのやりとりは、淡々しいむかしの記憶を、かえって懐かしいものに感じさせた。こんな気分になったのは久しぶりだ。
 渡された手紙をひっくり返してみると、きれいな字で何か書いてある。
(招待状……?)
 届けられたものに、アクセルはめずらしくぎょっとした。



 地下は相変わらず寒々しい。しかし以前ほど心細くはならなかった。ナミネがおびえること自体、少なくなっている。
 持ち主を失ってもまだ稼働を続ける機械達が低くうなるような音を立てている。目を閉じればディズとリクの姿や、ここであった出来事が鮮やかに浮かんだ。どれ一つとしてナミネには欠かすことができなかった。耐えがたい苦しみですら、今現在のナミネを形作っているものだからだ。
 黙ってコンピューターを操作していたアクセルが、ナミネを振り返る。
「これについちゃ、おまえのほうが詳しいかもな」
「これ?」
「こいつだよ」
 アクセルが指差したモニターに視線を移したナミネは息を呑んだ。
「私……?」
 寸分たがわぬ形で、痛々しく思い詰める瞳まで正確に再現された自身のデータにナミネはおののいた。いったい、何の為に。
「そんな、どうして」
 ディズが作り上げた仮想の街は、やがてソラ達の道を作った。
 その運命を見通していたかのように話をしたディズが、不必要なデータを作る意図はまるでわからない。
「さあな。お前にわからないんじゃ俺にだってわからねえよ」
 ぷつりとモニターを暗くすると、アクセルは立ち上がる。
「あいつは何考えてたんだかさっぱりだ。肝心なものだって残しちゃいねえ」
 あーあと溜息をついたアクセルはこぶしでかるく機械をたたいた。
「偏屈なじいさんだよ」
 ナミネはアクセルが話すことを、半分も聞いていなかった。ただ呆然と立ち尽くしている。
「どうした」
 尋ねるふうでもなくアクセルはナミネに声をかけた。
「……ううん」
 力無く首を振ったナミネは、思い詰めたように瞳をくもらせている。
 裏切り者。そんな物騒な単語がナミネの脳裏に浮かぶ。
 ナミネは締め出すようにかぶりを振った。
「あのじいさん、どっかじゃ賢者って呼ばれてたらしいな」
 顔をあげたナミネは静かな口調で話し始めたアクセルを見つめた。
「まあ、確かに偉大だよ。こんなもんまで作っちまうんだからな」
 口調に、なにか敬っている気配がある。
「見ただろ。あいつはその気になりゃあお前を作ることだってできたんだ」
 そう、ナミネもそれはわかっている。わからないのは、ディズの真意だ。
「……どうしてそうしなかったんだろう。何か、理由があったのかな」
「わかんねえって」
(ちがう、ほんとうはわかってる)
 白い頬をつう、と涙がつたう。
 ナミネはあくまでも彼の野望の道具であり、ナミネ自身がそれを了承していた。ソラを救う為に、ナミネが選んだ道だった。
 だが自分達の間には、利害の結ばれたもの以外があったと、たった今証明された。
 ディズが残したデータが使われなかったことが、何よりの証拠だ。それに彼は、最後までノーバディであるナミネをその手にかけることをしなかったではないか。
(ごめんなさい、ディズ。ごめんなさい)
 報いだと思った。
 運命を全うすることがナミネの望みだった。その為ならなんでもしようと決めていた。
 けれどナミネは、一度だけ自分の意思に従った。同じ場所にいたロクサスの為に、信じてくれた人たちを裏切ったのだ。
 謝れなかったことが、今はただ悲しかった。
「なあ、お前勘違いしてるだろ」
「え?」
「こいつはただの脱け殻だ。肝心の中身は空っぽだぜ」
 ぱちぱちとまばたきをするナミネにアクセルも視線をそらさなかった。
「つまり、再現しようが人形と同じってわけだ。ま、材料が揃ってりゃあ話は別だろうが、結局お前だしな」
 ナミネはアクセルの言葉を胸の中で何度も反芻した。
 つまりそれは―
「上に戻る前に顔は洗っとけよ。お前が泣くとうるさい奴がいるからな」
 こつんとナミネの額をこづいて去ろうとしたアクセルの背中に、何かがはりつく。
「俺をタオル代わりにする気かよ?」
 呆れたようにアクセルは笑う。一生懸命首を振るナミネは、やっとの思いで口を動かした。
「ちがう、ここだけじゃないの。ディズは―」



 出掛ける、とこともなげに言ったアクセルに、ロクサスはとても不満そうだった。
「どこへ」
「どこだっていいじゃねえか」
「よくない。すぐに行く必要だってないだろ」
 掴みかかる勢いで詰め寄るロクサスに、アクセルは肩をすくめる。いつものアクセルらしい態度が、また気に入らない。
(なんでだよ)
 ダイニングのテーブルに突っ伏し、ロクサスは考えた。しかし動揺しているせいで、まとまりそうにもない。
「おまえが考えてることがわからない」
「奇遇だな、俺だってお前がわからんね」
 たしかにロクサスは自分がよくわからなかった。アクセルがいなくなると考えただけで泣き出したい気持ちになるのはなぜだろう。気持ちのさっぱりした親友を、失いたくない。
「行くなよ。行ってほしくないんだ」
 真剣に頼まれて、アクセルもさすがに気持ちが揺れた。惚れた相手の頼みなら、聞いてやりたくなるのが普通の心情だ。が、気持ちはもう決まってる。
「出掛けるのにお前の許可がいるのかよ?」
「いる」
「おい、初耳だぞそんなの」
「今決めたんだ」
 ロクサスはすっかりむくれている。薄情にもなれる奴だと知っていたが、ここまで薄情だとは。なんて友達甲斐の無いやつ。
「見送りはいらないからな」
「するもんか。勝手にどこでも行けよ」
 ぷいとそっぽを向いたロクサスに、アクセルは最後までとっておいた台詞を出した。
「ああ、ついでに出迎えもいらないからな」
 手をあげたアクセルは悠々と部屋を出て行った。まるで近所にちょっと出かけてくるように足取りの軽い親友に、頬杖をついたロクサスは盛大に溜息をついた。
(ばかやろう)
 どうしてアクセルはいつもかっこいいのだろう。散々駄々をこねた自分がかっこ悪いではないか。
(一人でかっこつけるのも、いいかげんにしろ)
 手伝いたいと言いだすこともさせてくれなかった。アクセルはいつもロクサスのしたいようにさせてくれる。だが、たまには頼ってくれたらと、ロクサスは思う。
(おまえには、敵わない……)
 快い敗北感にロクサスはうめいた。同時に目標にもなる。帰ってきたらにぎやかに迎えてやり、苦い顔を見てやろう。目元をぬぐったロクサスは、そう決めた。



 森に住む鳥たちは、ロクサスがくると一斉に飛び立つ。危険人物だと評されているようで、あまり面白くない。
「やっぱちょっと腹立つよな」
 ナミネは困ったようにほほえんだ。座りやすいよう横にずれてくれたナミネにロクサスもほほえみかける。
 大木の根元でよりそいながら、ロクサスは目を細めた。
 ここには、おだやかな時間があった。森を抜ける風や高い場所にあるあわい色を、どこかで感じ目にしたことがあると、ロクサスの記憶が教えてくれる。だが、それがこんなにもおだやかだと、知らなかった。
「まだ信じられないよ」
「なにが?」 
「俺がここにいて、ナミネがここにいるのが、ふしぎなんだ」
 不安そうにロクサスを求めた小さな手を、ロクサスはきつく握った。
「でもずっとこうしていたって気もする。変だよな、あれからそんなに経ってないのに」
「記憶も時間も、ひとつじゃないよ」
 え? とロクサスはナミネを見る。
「何もかも重なっていくの。ゆっくり、少しずつ。重なるものは全部違う。ロクサスのも、私のも」
「ふうん」
 あいまいに相槌を打ったが、よくわからなかった。それよりも、肩にもたれかかったナミネの髪が頬をくすぐるほうが気になっている。
「でも、同じこともある」
 声を小さくしたナミネがささやくようにつぶやいた。
「好き」
 ぎくりと体を固くしたロクサスはうろたえた。なんだか今日のナミネは、かなり大胆じゃないか?
「おねがい、ロクサスも好きって言って?」
「も、もちろん俺も、大好きだ」
 ふんわりとほほえんだナミネは、かみ締めるように胸に手をあてた。
「ほら、すごくしあわせになるの。ふしぎだよね」
 唇から広がっていく心地よさがナミネを包む。この感覚は、ロクサスが教えてくれたのだ。
「でも、わかる気がする」
 近くにいるからだろうか。ナミネが感じている感覚が、ロクサスの魂に直接伝わってくる。 何の不安もない。
 こうしてよりそっていれば、互いの魂は、けして離れることはなかった。

 

  • 08.12.28