「のど、かわいた……」
 ほとんど無意識に出たかすれた声は、薫を必要以上に驚かせた。緩慢な動きで体を起こすと、格子窓の向こうは夜の闇に塗りつぶされ、この小さな洋館だけが孤立しているような印象を与えた。
 激昂した雪代縁に首を絞められた喉はまだ痛む。とりあえず寝かされていた部屋に戻ってから、すでに半日以上は経つだろう。その間、寝台の上で様々なことを考えていたようにも思えるし、何一つ思考が働かなかったような気もする。唯一わかるのは、自分の声に、こんなに誰とも喋らなかったことはほとんどなかったと驚いたことだけだった。
(剣心……)  
 父親を失い、その後に裏切られ、間一髪のところを助けてくれた流れ人。薫がとっさに引き留めたら、子供の駄々を聞くように笑って留まってくれた人。それから父が遺してくれた道場では、人の声が途切れたことはなかった。もちろん、夜眠るときは別だけれども。
 すると堰を切ったように薫の意識が戻ってきた。彼は無事なのか、皆はどうしているのか。雪代縁の刃に吹き出す剣心の赤い血が今も目に浮かぶ。何度も何度も胸に浮かぶこうしてはいられないと急いた気持ちで寝台から立ち上がるが、今の薫にはなにひとつできないことは明白だった。
(けど何とかしなきゃ。とにかく!)
 暗さに慣れていた目で戸棚をあさると、見慣れない形の燭台と蝋燭、マッチが入っていた。火を灯すと、部屋の壁に薫の影がぼんやりと映った。念のために扉に耳を当て、人の気配がないのを確かめてから廊下に出てみた。すると、手に持った小さな灯りよりもずっと立派で煌々とした灯りが目に飛び込んでくる。廊下の端まで続く洋風ランプに、薫はあっけにとられた。
(うそ、これってガス灯? 家の中に?)
 近づいてみると、じわりとした熱さが頬に降ってくる。となれば、手に持っている蝋燭は全くの無用だったということだ。ふうっと一息で吹き消してから、足音を忍ばせながら廊下を進む。台所らしいところはすぐに見つかった。こちらもガス灯らしきもののおかげで明るく、もの探しには不自由はなかった。が、肝心の水瓶はどこにも見当たらない。見慣れない勝手元をあちこち漁ってみるも様々な食材や使い方のわからない道具、読めない字が貼り付けてある瓶などがあるばかりだ。
(飲み水はいちいち井戸へくみに行くのかしら? 変なとこで便利なんだか不便なんだかわからないわね)
 カチャリと背後で扉が開いたのは、薫が赤い液体の入った瓶をためつすがめつしているときだった。
 はっと振り向いた時には、黒めがねの奥から薫を見下ろす雪代縁の底暗い目があった。
「お前は泥棒猫か。こんな夜中に何をしてイる」
 淡々とした声で問いかけられ、一瞬薫は答えに詰まった。憎しみの籠もった指で喰い千切らんばかりに首を締められた恐怖と、そのせいで知ることになった雪代縁の弱みと、わずかだとしても同情を浮かべた自分の心が、ないまぜになって喉元に固まってしまう。
「その葡萄酒で酔いたいのか。まあ、忘れたくもなるだろうさ、イロイロとな」 
 あざわらうような言い草に、勝ち気な薫の気性はすぐに戻ってきた。
「ちがうわよ、水を探していたの! 今すぐ飲まなきゃ干からびるくらい喉がカラカラなの!」
 なぶっていた鼠がむきになって言い返してきたので、雪代縁はほんのすこしだけ驚いたようだった。一歩薫のほうに近づいてくると、薫は持っていた瓶をぐっと握り直した。危害を加えられるようなら、この瓶でぶんなぐってやるつもりだった。
 だが雪代縁は物をどかすように薫の肩を押しやり、吊っていない腕で蛇口をひねった。勢いよく流れる水に薫は目を丸くするしかない。生まれたときから水は井戸で汲むものと思っていたから無理もなかった。
「水ならここだ。あとは好きニ使え」
「ちょ、ちょっと待って、これってどうなってるの? 水って壁から出てくるものなの? 飲んでも平気なの?」
「仕組などお前に説明したところで無駄だ。壁から水が出るハズがないだろ。ちゃんとした真水だから問題ない」
 冷ややかな声だが存外にきちんとした返答だった。
 一度薫の喉に詰まったものは、このやりとりでひとまず引いたらしい。だがやはり緊張していたのか、こわばった肩から力を抜くのには少し時間が必要だった。数歩後ずさりながら、深呼吸する。
「そう、ありがとう。それじゃお言葉に甘えて使わせてもらうわ」
 雪代縁が出してくれた水に触れてみると、井戸水と同じくらいの冷たさだった。掌ですくいゴクゴクと飲むと、乾ききった喉に染みてひどく心地よかった。何度か繰り返し、ようやく人心地がつく。はあ、と息をついた薫は、背後にまだ人の気配を感じてびくりとした。とっくにいなくなっていたと思っていた雪代縁は、相変わらず底暗い目をこちらに向けていた。
「下品な女だ。いつもそうしているのか」
「そんなはずないでしょ、湯呑みがないから一旦こうしただけよ」
 ぷんぷんと腰に手を当て怒る薫に、雪代縁は視線を外した。その先の戸棚には、湯呑みに似たガラスの器と食器が入っているのが見える。あ、と頬を赤くした薫に、今度こそ雪代縁は背を向けようとした。
「ねえ待って、ちょうどいいから聞きたいんだけど」
「なんだ」
「お風呂と厠はどこにあるの?」
「……ハァ?」
「だって、そっちも使わせてもらえないと困るわ。あと着替えも、できれば自分の着物がいいんだけど」
「……ここを出て右奥に全部ある。着替えは同じものしかナイ」
「あら、お風呂と厠はあるのね、助かったわ。でもこの西洋浴衣っていうの? えっと、困るのよ、すかすかして落ち着かないっていうか」
「訂正する。品がない上に図々しい女だな、お前」
 むっとして、薫は手に持った葡萄酒の瓶を握る手に力を込めた。けれど包帯で吊った腕や赤黒い痣が痛々しい顔を目の前にすると、手はそれ以上動かなくなる。敵といえど手負いの相手に殴りかかることはできなかった。
 薫は時々、この性分が恨めしくなる。雪代縁は敵なのだ。薫の大切な人々を傷付け、もっとも恋しい人を苦しめた敵で、怪我を負っている絶好の好機だというのに。
「失礼ね、当然の要求をしたまでよ。仮にも人質だっていうなら丁重に扱うのが普通だと思うけど?」
 ぴしりとはねつける声はいつもの自分の声だ。半ばほっとしながら台所から出て行こうとする薫を、やはり底暗い雪代縁の視線が追ってくるのを感じたが、もう声はかけてはこなかった。
 部屋から出て壁についた手が小刻みに震え出している。体の芯が氷のように冷たい。夜中らしいが、今は湯を浴びたくて仕方なかった。雪代縁の抱える狂気を目にしてしまってから、拭えない恐れが薫の底には澱んでいた。
 剣心と雪代縁の私闘に、薫は完全に部外者だった。だがその矛先は自分に向かい、贄にされるために掴まれたときの腕は、死そのものだった。こうして生きているのが奇跡にさえ思えた。
 そんな相手とそこそこ普通に話せたのは、悪くない傾向だ。そう、『神谷薫』はまだ大丈夫。
(絶対に、剣心より一秒だって先に死なない。そう決めたんだもの)
 溜めていた息を吐き出すと、体を動かす力も戻ってくる。とりあえず湯を使い、体を温めよう。体調が万全でないときは、悪い方ばかりに考えがいく。薫はそんな自分も嫌だし、今はとにかく前を向く力が欲しかった。
 教えてもらった通り、風呂と厠は奥の部屋にあった。だがそれは薫が想像していた物とまるで違ったことは言うまでもなかった。



「五月蠅い女だ」
 神谷薫が出て行く際、ふと鼻についた生きている女の匂いが、なぜか縁を苛立たせた。
 割られずに残された葡萄酒の瓶を動くほうの腕で毟るように掴むと、不器用に栓を抜く。ワインの芳醇な香りがようやく神谷薫の残り香を消してくれる。
(死ネばよかったんだ)
 台所で物音がするので縁はしばらく経過を観察していた。抜刀斎の重荷になるくらいならと首を掻き切ってくれるかと期待したのに、それは呆気なく外れた。だが正直なところ予想もしていた。馬鹿正直にも縁に対し向かってきた女だ、図太いのは簡単に想像がつく。
 この世でたった一人の愛する姉を奪った抜刀斎が見つけた代わりのモノ。縁にとっての神谷薫はただそれだけの存在のはずだった。忌々しくも体が拒絶するから、屍人形などという面倒な手順でこの世から消し去ってやった。だからあれは残り滓にも満たない矮小な存在のはずだった。
 けれど、あの女と先程までごく普通に会話をしていたのも事実だった。縁の唇が自嘲気味に歪んだ。
(ねえ姉さん、そうだろ? 抜刀斎に関わるモノなんか全て塵以下じゃないか、そうだろう?)
 瞼の裏にはっきりと浮かぶ姉は、やはり微笑んではくれない。伏せられた瞼は何度縁が語りかけても開くことはない。縁には理解できなかった。最愛の姉が望む結末は間もなく訪れる。なのになぜ。なぜ。なぜ。
 幾度目の問いかけにも姉の瞳は閉じられたままだ。捨て鉢に直接瓶から赤ワインを口に含むと、切れた口内で痛みと血が混じった。一口目を無造作に吐き出し、縁も台所から出て行く。
 バルコニーに戻ると、夏の夜風が真っ白な髪をひと撫でしていく。気怠げに揺り椅子に腰掛けると、空には地上を覆う闇と同じ色が広がっていた。この時分はいい。雪の白さも姉の体から流れる命にも似ない、唯の闇があった。明るい内にだけ見える遙か遠くの砂浜を洗う細波の音もここには届かず、松林に連なる広大な雑木林の葉擦れが時折縁の耳を掠めていくだけだった。
(お願いだから笑ってくれ姉さん。全部全部姉さんの為なんだよ、俺は姉さんだけ笑ってくれればいいんだ)
 縋るほどに希っても縁の中にいる姉はやはり微笑んではくれない。
 最初の衝撃と混乱が幾許か落ち着いたとはいえ、けして良い気分ではなかった。むしろ底の無い汚泥に沈んでくようだった。全身から精気が抜けていく。抜刀斎との戦いで負った傷の痛みも感じない。『雪代縁』という外殻も瓦解していく中、姉への妄執だけがその場にただ残っていく。
 と、その縁の意識を強引に引き戻すものがあった。
(……どこぞの獣のほうがまだマシに吠えるぞ)
 女のけたたましい悲鳴が屋敷の奥から聞こえてくる。考えるまでもなく神谷薫だろう。だが縁は無視した。
 先刻鉢合わせたのは神谷薫が台所で自害するのを期待しただけであり、要望に応えるためではなかった。
 水が飲みたいと神谷薫は言った。確かに人間なら誰もが持つ欲求であり、始末出来ない塵であろうと、権利はある。だから水の出し方を教えてやったのだ。それ以外に理由があるだろうか。満たされたように息をついた横顔から目を離せなかったのも、犬猫に餌をやる感覚と同じ筈だ。
(あの女が喧しいせいだ、それだけだ)
 なぜ、姉と同じ年頃の女を殺せないのか。縁はこれまでに繰り返し考えた。大陸で生きていた時、条件に合う女を見繕い実験したことさえある。だが首の骨を折ることも体にわずかな刃傷をつけることもかなわなかった。自分は部屋を出て、名も知らぬ女は部下に命じ殺させても結果は同じだった。断末魔の悲鳴がかすかに耳に届くだけでも縁の体は異常に震え、酷い耳鳴りや激しい嘔吐感に襲われた。どんな手段を用いようと拒絶するこの体が忌まわしくて仕方なかった。
 東京でのうのうと暮らす抜刀斎を生き地獄に落とす計画は、幸いにも外印という協力者を得ることで達成できたが、随分と面倒な手順を踏まされた。最後に抜刀斎の女を手元に置くというこの上なく不愉快な状況に。
 また一段と高い悲鳴が上がったと思えば、物同士が激しくぶつかる音まで聞こえた。
 面倒そうに縁は立ち上がった。神谷薫には多少の自由を許したが、屋敷の破壊は許可していない。
階段を下り風呂場へ近づくと、痛みをこらえるような呻き声が聞こえた。盛大に溜息をついた縁が風呂場の扉を開けると、ぱっと神谷薫が振り向いた。既視感のある光景に縁は軽く目眩がした。
「今度は何をしでかした」
「だ、だって、壁からお湯が出てくるから! 床はツルツルして滑るし、もう、訳わかんない、どうなってるの!」
 縁に答えるというよりは、ほぼ悲鳴に近い叫び声が耳に突き刺さる。
 出しっぱなしになったシャワーに、床に散らばった物達の中に尻餅をついた神谷薫の髪から水がしたたり落ちる。
「さっき教えてやっただろう、使い方は大体は同じダ。いちいち大騒ぎすルな、喧しい」
「ウソよ、お湯まで出るなんて聞いてないわ! それに厠だってなにあれ、あの変なイスをどうすればいいのよ! あなたって、あなたって……」
 がなり立てていた声が、少しずつ掠れていく。泣かれるのは面倒だ、と縁がうんざりした気分になりかけたとき、薫は一つ息をついて、真っ直ぐに見上げてきた。
「説明不足なのよ。……聞いたところで私には何も教えてくれないってわかってるけど」
 立ち上がり、一つに結んだ髪をしぼった神谷薫は、改めて縁を見上げた。怯えのない、澄んだ瞳だった。
「騒がしくしてごめんなさい、それは謝るわ。あとは自分で何とかしてみるからもう戻ってくれて大丈夫よ」
「当たり前だ、こんなバカ騒ぎは二度と起こすな」
「ええ、わかってる」
 踵を返した縁は、再びテラスに戻った。それからすぐにシャワーの音が聞こえてきた。おそらく神谷薫は自分で何とかしたのだろう。まただ、またごく当たり前のように会話をした。あの女と。
 揺り椅子に身体を落とした縁が見上げる空は姉の漆黒を思わせる色をしている。美しい姉の瞳も、ああいう色をしていた。
(姉さん、なんで何も教えてくれなかったんだ。抜刀斎を殺すんじゃなかったのか? どうして何も答えてくれない?)
 ただ帰りなさいと言った姉が、幼い縁にも今の縁にもわからなかった。
(だから俺は姉さんの代わりに人誅をしたよ。見ていてごらん、生き地獄の中であいつは死んでいく。嬉しいだろう?)
 尋ねたところで、姉は縁に何も教えてくれない。
 一瞬、神谷薫の見せた瞳が目の前をちらつき、縁は振り払うように首を振った。確かに神谷薫に何も教える気はなかった。どうせ死んだ後の残り滓なのだ、抜刀斎が死んだあとは、東京に捨てていくだけの。
 傷の痛みは感じなくとも、身体の方は限界だったのだろう。縁を地面に縫い付けるような眠気が来た。
 目を閉じた縁は一呼吸する間に眠っていた。姉の表情も見えないほど深い眠りだった。



「こんな半端に残して、何様のつもり? 食べ物を粗末にすると神様に怒られるって教わらなかったの?」
「クソ不味いこれが飯だと言い張るほうが神経がオカシイ。お前、ちゃんと味見してるのか」
 ぐっと薫は言葉に詰まった。言われなくたって味がいまいちなのはわかっている。だがどうしてか、加減がいつも上手くいかないのだ。味が薄いと感じれば少し足す、焼き加減はきちんと中に火が通るまで、と頭の中ではわかっているが、結果は全く思うようにいかない。出汁の味はどこかに消えてしまうし、魚はきれいに表面だけ焦げて生焼けになってしまうのだ。少しずつ頑張ればいいと言ってくれる優しい剣心がますます恋しくなる。
 後片付けは自分でするように、と確かに薫は言った。だから雪代縁は台所に持ってきてくれるのだが置いていくだけで、結局は薫が片付けをしている。こうして鉢合わせでもすると頭に来るセリフのおまけ付きだ。しかも毎回違う言い方をしてくるのだから、余計に頭に来る。これで六回目だったはずだ。
 音を立てて食器を水洗い桶に入れたとき、薫の形の良い鼻がなにかをかぎつけた。
「ちょっと、あなたちゃんとお風呂に入ってるの? 少しにおうわよ」
「本当に五月蠅い女だな、俺に構うな」
「うそやだ、入ってないの? じゃあ服も包帯もずっと替えてないってこと?」
 大変、と洗いかけの食器を置いて、薫は雪代縁の背中を押して台所から出た。
「早く入ってきて、その包帯も替えないと。もう、さっき洗濯終わったところだったのに。薬箱もとってこなきゃ」
「オイやめろ、お前にとやかく言われる筋合いは」
「筋合いもなにも、私が嫌なの、ほら早く!」
 半ば無理矢理の形で雪代縁を風呂場へ押しやると、案外すんなりと入ってくれた。一息つく暇もなくその場を離れ、着替えと包帯を探しに行く。正直なところ、今もまだ雪代縁が近くに来ると薫はまだ身体の芯が凍りつくような感覚になる。きっと死が近くにあったときの、真っ暗な闇に独り落ち行くのを思い出すからだろう。
 けれどいつまでも怖れていたって仕方ない。雪代縁を人質に連絡船を乗っ取る卑怯なまねはしたくないし、だからといって泳いで逃げる選択肢もない。薫には東京がどちらの方角にあるのかさえわからないのだ。相変わらず八方ふさがりで、良い案が思いつかない。だからその分、体を動かすようにしていた。自分とついでに雪代縁の分の食事の支度、西洋浴衣は毎日洗って替えて、寝起きしている部屋のほこりを払って床も磨く。運動代わりの散歩もよくした。丁度良さそうな木の枝を木刀代わりに振ろうとしても、踏み込むたびに脚があらわになってしまい、残念ながら鍛錬だけはできなかった。外国の人はこんな服でもし暴漢にでも襲われたらどうするのだろうかと、ちょっと見当違いなことも考えた。
 皆と暮らしていた時と同じようにしていれば、いつの間にか日も落ち、余計な考えをする暇もなくなる。
 明日はきっと報せがあるかもしれない。良い脱出方法を思いつくかもしれない。
(心配ばかりしてたって仕方ないじゃない、だったら動く、とにかく何かする!)
 神谷活心流師範代として、これできっと間違っていないはずだ、と薫には確信があった。それに、めそめそしているのは性に合わない。もう二度と女々しい自分になるものか。
 ざあ、と水の流れる音が聞こえたので、雪代縁は薫の言うことに一応従ったらしい。着替えと薬箱は、家捜ししたので場所はわかっている。早速雪代縁の着替えを取り出しにいき、風呂場の扉の前に置いておく。多分わかってくれるだろう。ここで裸のあの男と鉢合わせするのだけはさすがに薫も嫌だったのだ。
 あとは薬箱だが、取りに行こうとして、ふと足が止まった。
(私…なにしようとしてるの?)
 勢いで動いていた体が、じわじわと冷たくなっていく。怪我が日常茶飯事だった薫にとって、傷の手当てなどは慣れたものだ。けれど雪代縁が敵であるのはわかっているし、そこまでしてやる義理があるだろうか。胸に手を当て、激しく打ち始めた心臓が薫を促している。そこまでする原動力はなんだ、と。
 聡明な薫は、すぐその答えに行き着いた。
 止めていた足を動かし、ぱたぱたと廊下を走っていく。薬箱を手に取り、テラスへと戻る。まだ雪代縁の姿はなく、海から拭いてくる清涼な風が薫の額をそっと撫でた。眼下に広がる雑木林と、雲一つない空と凪いだ海。昼間をとうに過ぎた太陽の光はさほど強くなく、髪と肩をじんわりとあたためる程度だった。これからしようとしていることを責める者は誰もいない。薫は薫の意思で一人ここに立っている。
 幼い頃、父と母がまだいた頃、手を繋いでもらい見に行った荒川河口の港は行き交う人にあふれもっと賑やかだった。父に肩車してもらって見た水平線に浮かぶ船に、幼い薫は飽きもせず手を振った。
 改めて自分がしようとしていることが正しいのか、薫はわからなくなる。けれど気付いてしまっては、もう手遅れだ。自分は部外者。だから、外の、あの水平線に浮かんでいる船と同じなのだと。
「そこから身を投げても骨が折れる程度だぞ。まあ、止めやしないがナ」
 可笑しそうに言った雪代縁に、薫はゆっくりと振り返った。
「着替え、わからなかったの? ちゃんと上下で置いといたじゃない」
 努めて平静を装いながら、薫は声をかけた。上半身だけ裸の雪代縁はタオルで髪を拭きながら面倒そうに薬箱を指さした。
「そいつを寄越せ、お前なんかの手は借りない」
「あなたが嫌がるのはわかるけど、腕の傷だって治りきってないでしょう。一人じゃ無理だわ」
「お優しいことだネ、抜刀斎にやられた傷が疼いて堪らなくなるよ。お前のせいでな」
「とにかく怪我の手当を手伝わせて。一人だとやりづらいのは貴方もわかるでしょ?」
 しばらく無言で向き合いながら、先に折れたのは雪代縁だった。
 どっかりと揺り椅子に座ったのを確かめ、薫は無意識に足音をしのばせ近寄った。やはり体の芯が凍るような怯えが走る。雪代縁の持つ狂気は薫には毒にも等しかった。とても大切な人を奪われた恨みだけが彼を動かしている。それは途方もなく深い奈落からわき出すもので、傍にいるだけで息が止まりそうな程恐ろしかった。
 洗い清めた傷はまだ赤黒い線をいくつも残し、水が乾いてもじわりと血がにじんでいる。まず骨の太い、血管の浮き出た右腕に包帯を巻こうとして、薫はその重さに驚かずにいられなかった。この腕も、ただ復讐のために鍛えられたのだと思うと、目の奥が熱くなる。けれどなんでもない風に、血止めの薬を塗り、真新しい包帯を巻いていく。
「つくづく抜刀斎は愚かだな。敵の手当をするなど姉さんの代わりにもならない、娼婦同然だ」
 低いが鋭い物言いに、体がびくりと反応しそうになるのをなんとか抑える。
「それはあなたの見当違いよ。お願いだから聞いて、茶運び人形がしゃべってるとでも思って。うるさいなら聞き流してくれてもいいから」
 薫は、そっと重い息を吐いた。これから伝えることは皆への裏切りに値する。少なくとも、薫にとっては。
「私がこうしてるのは他でもない剣心…あなたの言う抜刀斎が巴さんをとても大事に思っていたからなの。大切な人の家族を傷付けたいなんて誰も思わないでしょう? 少なくとも剣心はそうだわ。あなたとだって戦いたくなかったはずよ。とても、とてもやさしい人だから」
 雪代縁が鼻で笑う気配が伝わってきたが一応は聞いているらしい。丁寧に扱おうとするのだが、雪代縁の右腕は薫には重かった。包帯をくるりと一回りさせるのも一苦労だった。
「あなたは戦う以外を選んでくれなかったから、剣心も応じたのよ。けしてあなたを傷付けたい気持ちはなかった。あなたを止められなかったことにだって責任を感じてる。だからこうさせて、不快だろうけど我慢してほしいの。こんなことであなたの痛みが、苦しみが和らぐなんて思ってない。でも私には、今はこうする以外はできなくて」
 ようやく右腕に包帯を巻き終えた薫を、雪代縁は奇妙なものをみる視線で薫を見つめていた。
「お腹の傷、触ってもいい?」
 無言を肯定と受け取り、薫は血止めの薬と傷薬とを丹念に塗り込んだ。乾いた肌の下に感じる腹筋は熱を持っている。裂傷によるものだろう。傷に障らないようにと気を付けていたが、雪代縁が短くうめいたのに薫はぱっと体を離した。
「ごめんなさい、やっぱり痛む?」
「……イイ、続けろ」
「ごめんなさい、気を付けるわ。また痛かったら言ってね。んと、どこまでだっけ…ああそう、私も何度も思ったわ。父が戦争に行くことさえなければってね。でも、そういう気持ちを長く持ち続けるのってね、ただただ辛いだけだった。ううん、ごめんなさい。あなたと同じくらいだなんて口が裂けても言えない。私は部外者だし、私だから」
 堅い胴に包帯を回していくのはもっと大変だった。注意していても雪代縁の硬い肌に、鼓動が聞こえそうなほど顔を近づけなければならず、薫は心臓が縮こまるほどに緊張した。
「元気づけてくれる人もいたし、ぼうっとしてる時間がなかったし、何より新しく出会った人がくれるものがうれしいって思ったとき、あ、そうかって思ったの。新しく芽生える気持ちを封じることはないんだって。それでいいんだって、父も笑ってくれた気がしたの。でもきっと怪我をした人を放っておいたら活心流の道を外れるなって、思いっきり叱られると思う。きっとへとへとになるまでしごかれて、正座させられて……はい、終わったわ」
 最後の包帯を止めてから、薫はほっとしたように長く息を吐いた。
 外海を眺めていた雪代縁は新しく巻かれた包帯の具合を確かめると、低いが落ち着いた声でつぶやいた。
「一応はまともな治療ができるんだな」
「怪我はしょっちゅうしてるから。でも包帯はまた替えないといけないから、その時は言って。手伝うわ」
「いらん、自分でできる」
「……そうね、傷はほとんどふさがりかけてたし。あなた、回復早いのね」
 こっそり安堵しながら手早く薬箱を元に戻すと、手元が赤いのに気が付いた。ふと横を見れば太陽はずいぶんと傾いている。集中していたのでちっともわからなかったが、丁寧にやった分時間がかかっていたようだ。
「やだ、もうこんな時間。お腹も空くはずよね、ごはん作らなきゃ」
 どうせまた半端に残されるんだけど、と心の中でつぶやいてから薫はテラスの引き戸に手をかけた。
 ふと視線を感じて振り返ると、雪代縁がじっとこちらを見ていた。今度は何の嫌みを言われるのかと身構えたが、なぜか雪代縁のほうから視線を外した。薫はふと思った。単に聞き流していだけかもしれないが、長い時間、雪代縁は話を聞いてくれていたと。ほんの少しだけ、体の芯を凍らせるものが溶けたような気がした。



 シャワーを浴びたので久方ぶりにこざっぱりした気分になった。神谷薫が巻き直してくれた包帯の上に上着を羽織り、遠く沈みゆく陽に目を向ける。この時期は夜が来るのも遅く、陽は焦れるほどに遅い。夜風が涼しさを含むまでまだ間があるだろう。
 深く揺り椅子に背中に預けた縁の耳には神谷薫の落ち着いた声が残っている。
(あれはなんだ、言い訳か?)
 縁が頼んだわけでもないのに、なぜか風呂に入ることを強要され、おまけに治療も施された。
 軽く右手を握ったり開いたりしても、包帯は外れることもなくしっかりとしている。料理は不味いが治療なら多少は得意らしい。
(……抜刀斎の代わりのつもりか?)
 切り刻んでも飽き足りない男の代わりに、神谷薫は治療を申し出たのだろうか。だとしても贖罪に足る行為でないことは明らかだった。あの男が生き地獄の中で野垂れ死ぬことこそが人誅の完成だ。神谷薫を殺せないのは惜しいが、自身の体質を思えば仕方のないことだ。元より私怨はない女でもある。
(喧しい上に、図々しい、品性の欠片もない、姉さんとまるで違うのに、俺を勝手に使いやがった)
 頼んでもいないのに食事の用意をされたり、言われた通り食器を台所に戻したり、しばらく湯を使ってないことを叱られたり、包帯を丁寧に巻き直してもらうのも、まるで親しい者に対する振る舞いではないか。今更ながら縁は認識した。
(俺は、あの女が傍にいても気に留めすらしなかった)
 最愛の姉が微笑んでくれなくなってから、縁は気が狂いそうだった。だがほんの数日であの女が、神谷薫がいても気にならなくなっていた。自分の領域に土足で踏み込んでくるあの女の行為を無意識に見過ごしていた。思わず縁は傷の少ない方の手で目を覆った。
(違う、あんなのは塵以下だ、姉さん以外どうでもいい、価値なんて無い)
 何度か胸の内で繰り返して、ようやく縁は落ち着きを取り戻す。気に留めなくて、別に構わないではないか。神谷薫も自分が近づけばほんの僅かにだが怯えた気配を漂わせる。二度も殺されそうになったのだ、そうでなければ頭の捻子が欠けてるとしか思えない。
 トントン、と引き戸を叩く音がする。家主の返事も待たずに引き戸が開かれ、神谷薫が入ってきた。
「まだいる? 入るわよ」
 きちんと整えられた食膳をやはり持っている。縁の座っている揺り椅子の近くにあるテーブルに食膳を置くとき、神谷薫のかすかな緊張が縁に伝わってきた。以前より薄くなった怯える気配は、一体何の意味を持つのだろう。
 振り返る必要などないのに、縁の視線は神谷薫に向けられた。
「ごはん、ここに置いておくから。いい? ちゃんと食べないとお天道様に叱られるんだからね」
 先刻、この女は長々と喋っていた。ほとんど聞いていなかったが、確かに自分に向けて話をしていた気がする。一体何だったろう。抜刀斎のことから始まり、この女は何を言っていた?
 ふと食膳を見た縁がつぶやいた。
「ヤマボウシ……」
「あ、知ってるの? すごく久しぶりに見つけたから取ってきたの」
 僅かばかりの共有を見つけて嬉しかったのだろうか。神谷薫の声が弾んだのを、縁はひどく遠い場所の微風のようにだけ感じた。サクランボより少し大きい赤い実は縁も幼い頃に食べた覚えがある。父と姉がいた頃だ。姉を喜ばせようと裏山に行って手からこぼれ落ちそうな程持ち帰った縁を、姉が嬉しそうに微笑んで迎えてくれた頃。
 食べやすいように切られたそれを、縁は何気なく口に含んだ。甘い、懐かしい味がする。堅い種が口の中に残るところまで同じだった。
「さっき、何を喋っていた」
 抑揚のない声で縁が尋ねると、神谷薫が体を硬くするのがわかった。
「抜刀斎に代わって謝罪でもしていたのか? それで贖われるとでも思っているのか?」
 大きく音を立てて立ち上がると、神谷薫は一歩二歩と後ろに下がった。それに合わせて縁も詰め寄っていく。
「笑わせる。抜刀斎が姉さんの代わりにだけ選んだお前が、何も知らない塵以下のお前が、土下座でもするとでも?」
 テラスの手摺りまで追い込むと、ちらりと神谷薫が下を確かめた。
「ああそうだな、ここから落ちても死にやしない。ハハ、さっきも言ったな。まあ、よくて骨が折れるぐらいダ」
 神谷薫の左胸に爪を立てながら手を当てる。鼓動が、生きている証が手を通して伝ってくる。神谷薫の瞳がひどく哀しい色を帯びているのも縁を苛立たせる。臓物が裏返るような感覚が縁を苛み始めた。この女はどこまで人の内側を掻き乱せば気が済むのだ。今すぐここから突き落としてやりたいのに、それすら出来ない。
「貴様の言葉程度で済むものか、俺と姉さんの味わっている苦しみがどれほどかもわからないお前が!!」
 それが限界だった。体の激しい拒絶反応に耐えかね縁が手を緩めると、それを待っていたかのように神谷薫は手を重ねてきた。怯えた気配はどこにも無い。
「本当は、渡したいものがあったの。あなたに一番必要なものだった。でも」
 深い色に塗れた神谷薫の双眸から静かに涙がこぼれる。
「でも間に合わなかった。ごめんなさい…ごめん、なさい」
 これは覚えている。この女は何度も自分に謝っていた。抜刀斎が代わりにしている女が、他でもない自分に。
「黙れ! 何度も言わせルな、貴様が何度抜刀斎の代わりに謝罪しようと」
 ちがう、ちがう、と言いたげに神谷薫は首を振った。
「誰かの代わりになんてこの世のどこにもいない。私が、私の意思であなたを止めたかった。それだけよ」
 ひゅうっと風が夜のものに変わる。ぽろぽろと涙を流しながら、神谷薫はそっと縁の手を下げさせた。身を翻し小走りに出て行く。縁の手にもいくつか落ちた涙はすぐに神谷薫が巻き直した包帯に吸い込まれる。
 姉に食べさせたいと、幼い縁はヤマボウシの実を集めた。
 ここに残ったものは、神谷薫は誰かに食べさせたくて探したのだろうか。
(そんなハズはない)
 親しい者など、縁にはいなかった。心にいる姉だけが唯一の家族であり、愛する者だけのはずだった。