退屈だった。
 土を固く盛った舞台を囲むのは品性の欠片もない顔ばかりで、一五年前に脳裏に刻みつけた左頬に十字傷のある優男は見当たらない。賭博興行では堂々と時代を切り拓いた抜刀斎が出場すると銘打っていた。万が一にも、偽抜刀斎の名に釣られ現れないものかと、薄氷のような期待を縁は抱いていた。抜刀斎を名乗る男を一度紹介されたが、似ても似つかぬ、剣客としても三流以下の男だった。
 人斬りの名を信仰めいて囁く愚民共の神経は理解できないが、その名が今も意味を持つのは好都合でもあった。
 三試合目は槍を使う男が勝った。見る価値も無い喧嘩だった。
 窓の向こうでは粗野な野次が飛び交い、窓硝子越しでも耳障りでならない。
 面倒で任せている商談に意識を向けると、上手い着地点に降りたらしく、武田観柳と手下のユジは表面上はにこやかに談笑している。新式武器の用意があると最初に匂わせろと伝えておいたのが効いたらしい。青瓢箪が人間に育ったような男は満足そうに革張りの椅子にふんぞり返り、葉巻から煙をくゆらせている。
 わざわざ縁が日本へ戻ったのは取るに足らない取引の為ではない。
 抜刀斎が現れるかもしれないという淡い期待と、本命の商談をまとめあげる為にトウキョウまで足を運んだのだ。小物である武田観柳には自分が頭領だと伝えるなと命じてある。若く小柄な手下が武器組織の頭領という体では疑いを持たれるかと少々懸念はあったが、観柳自身が何人もの秘書や大柄な護衛を控えさせているから、杞憂だった。現に大陸の服に身を包み、外套を目深に被った自分に、目を配る者は誰もいなかった。
 外の叫喚が一際喧しくなった。
 長い黒髪をリボンで束ねた女に、縁は目を奪われた。
「お待たせ致しました。本日の大一番! 東方、当興業紅一点の剣術小町、神谷薫!」
 かみや かおる
 凛とした眼差しと真っ直ぐに伸びた背筋。なにより曇りのない瞳は、縁が大陸に渡る前に見た武家の女そのものだった。堅気の女がなぜと思う間もなく試合は始まっていた。相手の男はわざと刃先をぶらつかせ、神谷薫と呼ばれた女を挑発している。見目麗しい女が現れた場の盛り上がりは耳障りなほどだった。殺せ、斬れ、と飛ばされる野次を一顧だにせず、薫は青眼に構え、相手にのみ目を向けている。女の横顔に浮かぶ覚悟は、賭博興行に全く相応しくない。
 縁が珍しく窓の外に集中しているのに気付いたのだろう。ユジが丁寧に日本語でことわりを言い、近くに寄ってきた。
『珍しいものでも?』
「……」
 挑発に応えない薫に焦れたのか、相手の男が先に仕掛けた。熊に似た体格の男が振り下ろした刀が土煙を上げる。その前に女は斜向かいに位置取り、まとめた長い黒髪が揺れた。ようやく顔が見え、縁は軽い驚きを覚えた。
 まだ少女だ。
 少女らしい桜が散った着物をたすき掛けでまとめ、木刀を白い腕で持ち、熊男と対峙している。男の攻め手は激しく、見た目に似合わない素早さも持っていた。縁から見れば単調でぬるい動きだったが、一撃でも受ければあの細い体では支えきれないだろう。薫が踏み込み熊男の肩を打つが、膂力の差か怯んだ様子はない。逆に間合いに入った薫の着物の袖が斬られた。下種な見物客共が咆哮する。あいつらは少女の血を見たくて堪らないのだ。反吐が出る。
『一晩ですか、身請けですか』
「……」
『一晩なら安くて銀四枚。あぁ、まだ手付かずですね。なら銀三枚上乗せが相場でしょう』
「……」
『身請けするなら―』
「……」
 縁が全く聞いていないので、ユジは軽く息をついて観柳のところへ戻っていった。
「外は大変な盛況ですね」
「はい、皆様にも大変好評をいただいております。特にあの女を投じてからは倍以上で」
「美しい方ですね。女性も扱っているとは存じませんでした」
「おや、ご存じない? 女など新時代には手間ばかりの儲けも少ない商材ですよ」
「上海では日本人女性の価値が高いんです。どうでしょう、銀二百枚ほどで」
「ご入り用とあれば汗臭い小娘より上等な女をご用意しますよ」
 素早く避け盛大に空振りをさせ、薫はまた構え直す。わざと試合を長引かせるように指示されているのだろう。顔を真っ赤にした熊男が暴言を吐き罵っている。群衆も一緒になって少女を大声で揶揄していた。それでも顔色ひとつ変えず、却って大きな瞳が冷たい光を帯びていくようだった。熊男が大きく振りかぶり、がら空きになった脇腹を、木刀が素早く打つ。そのまま熊男が固まり、群衆の声が途絶えた。しんとした場の中で、少女は丁寧に頭を下げた。
 白目を剥き熊男が横倒しになった。静寂は一瞬で終わり、また群衆が騒ぎ始めた。番狂わせだったのだろう。負け札が宙を舞い、少女をなじる声のほうが多い。
 立ち上がり幕の向こうに行った少女に走り寄る人影がいた。まだ背が低い。だが気骨のありそうな少年だ。その少年に、先程までとは別人のように薫はふわりと笑いかけた。言葉を交わしながらたすき掛けしていた紐を外し、斬られた袖に眉を曇らせている。年相応の少女の顔だった。そしてその隣にいる少年もまた、年相応に生意気を言ったらしく、軽く頭をはたかれている。
 たったそれだけの光景が、縁に長い旅を終えたような倦怠感を運んできた。昔の記憶が頭の中で荒く渦巻き、遠くへと離れ、そうかと思えば張り付くように近寄ってくる。
 ふと気付くと少女と少年の姿は見えなくなっていた。
「ではまた後日」
「はい、お待ちしてまぁす」
 間延びした耳障りな声が聞こえ、ユジが先に立ち、引き上げる仕草をした。
 屋敷に入ってきたとき同様、裏口から出るとき何人かの使用人と共に観柳が見送りに出た。それほどあの男にとっては大事な取引なのだろう。縁が馬車に乗り込むまで作り笑顔を浮かべている。鬱陶しくて縁はすぐに窓のカーテンを引いた。
『すぐ連れてこい』
 馬車が走り出してから言うと、手下が珍しく口籠もった。
『その……申し訳ありません』
『何故だ』
『売り物ではないと一点張りで』
『なら攫ってこい』
『ご丁寧に念押しされましたよ。お触り厳禁、ドントタッチ! だそうで』
 微妙な物真似に、縁は少し苛ついた。
『ガトリングガンの取引を白紙にするとは』
『チラつかせましたがとぼけやがって。後々面倒なので話はそこで切りました』
 長く溜息をついた縁は小声でつぶやいた。
「ぼんくらが」
『せめて分かる単語で言ってもらえませんか。ただでさえ日本語は難しいのに』
 手下のぼやきを縁は聞いていなかった。意識は神谷薫と隣に立った少年の姿を思い浮かべている。
(……同じくらいか)
 十五年前に縁は全てを失った。全てを奪われた。だから復讐を遂げるために、縁はまだ生きている。
 あの少女が欲しくなったのは、単純な興味からだった。肥だめのような場所にいながら誇りを失わずにいられる理由が知りたかった。そこへ昔の自分を思わせる少年がいた。余計にそそられる。
 姉弟で肩を寄せ合い暮らしているのだろう。明らかに武家の娘だった少女は、弟の為に穢らわしい場所にいることを選んだのだろうか。
 自分が得られなかったものを、あの少女と少年は持っている。
 話をしたい。どんな声をしているのか、どんな風に二人で生きてきたのか。
 嫉妬や妬みなどは不思議と沸かず、好奇心ばかりが胸の内で膨らむばかりだった。



「ったく、ヒヤヒヤさせるんじゃねェよ。負けるかと思ったじゃねえか」
「あら、心配してくれたの?」
「ちっげーよ、お前が負けたら仕事が長引くからだよ!」
 殺されると言わないところが弥彦の優しいところだ。精一杯肩を怒らせ前を歩く少年に、薫はそっと微笑んだ。
 上等な御影石が光るほどに磨かれた廊下を歩きながら、ちらりと破れた片袖を見る。母の着物をあのような場所で無残な姿にさせてしまったことは悔しい。だがそれ以上に、観柳の望む通りの試合運びにならなかったのが不安だった。
 重厚な扉を弥彦が開けると先に試合を終わらせた三人が立ったままこちらを向き、興行主である観柳は座りながらじっとりとした視線を向けてきた。値踏みされるような視線がおぞましかったが、顔に出さないよう必死に気持ちを落ち着ける。
「旦那、連れてきました」
「見ればわかる。さて皆さん、本日もご苦労様でした」
 戦いを終えた四人それぞれに視線を向け、満足そうな笑みを浮かべた。
「これでそれぞれ三勝。特に薫さん、先の試合は随分長引いたそうですね。結構なことです」
 斬られた袖をとっさに押さえたが、観柳に見えるように手をどけた。
「よくご理解いただけて何よりです。観衆の方々に喜んで頂けるよう次もお願いしますよ」
 ほっと内心息をつく。今のところは『まだ』この程度でいいらしい。
 それでしまいらしく、出て行くように手で払われる。
 弥彦についていくように部屋から出て行こうとした薫の背に声がかかった。
「そうそう、薫さん。と、ついでに小僧。少しお話があります」
 他の三人は薫達を振り向きもせず出て行く。聞こえなかった振りをしたかったが、そうすればまた弥彦が折檻を受けるだろう。木刀をしまった刀袋を強く握りしめながら、二人は観柳の前に並んだ。
「薫さん、あなたのおかげで観客が倍になりました」
「……それは、どうも」
「貴女は剣客です。簡単に身請け話などに乗らないと信じていますよ」
「……どういうことですか」
「遊女ではない剣客なら当然受けるはずない。そうですね?」
 観柳が弥彦を見た。子供に容赦なく折檻をする男に嫌悪感がこみ上げる。
「ええ、もちろんです」
「そうこなくては。話は以上です」
 正直なところ、観柳の真意が掴めない。だが意味はわかる。間違いなく脅しだ。
「では失礼します」
 弥彦の背中を押し部屋から出る。屋敷の裏口から外へ出たとき、ようやく新鮮な空気を吸えた気がした。
 道場への帰り道を揃って歩いているうちに、日が暮れてきた。淡い赤色が冬の空を彩っている。吹く風は頬を乾かすほどに冷たいが、明日の天気が明るいことを知らせてくれている。
 きっと弥彦はお腹を空かせているだろう。握り飯しか作れないが、友人からもらった佃煮がある。それがあれば多少はまともな食事になるだろう。そんなことをぼんやり考えていると、弥彦が口を開いた。
「お前さ、金持ちの男でもいるのか」
「な、なによ突然。そんな人いるわけないでしょ」
「だよなぁ。お前みたいな色気のない女にそんな奇特な奴いるわけ―」
 ぺしりと後ろ頭を叩く。
「いってェなあ! いちいち叩くんじゃねえよ」
「子供が生意気言うからよ。そもそもお付き合いがどうだとか、君には十年早いの」
「へっ、いつの価値観だよ。おまえが良い仲の男を隠してたって俺は驚かないぜ」
「こら、そういうコトは―」
 叱ろうとして、薫は言葉を呑んだ。弥彦は真っ直ぐこちらを見上げている。
「なあ、ほんとうにいねェのか。いたって俺は告げ口しねえぞ」
 つい目の奥が熱くなる。元々が涙もろい性質の薫は、弥彦の気遣いがうれしかった。
 日が暮れた往来は帰り道を急ぐ人ばかりだ。少し周囲をうかがってから、弥彦の小さな頭を抱き寄せた。
「ほんとうに、そんな人いないわ。だから君はしっかり私の監視役を務めなさい。いい?」
 少しの間だけ体を寄せ合い、離れた。弥彦以外に見張り役がいるとは思えない。だが観柳に言われたことが頭に残っていた。別口の取引に自分を使おうと算段しているのかもしれない。そうだとすれば、弥彦へ必要以上に迂闊なことはしないほうがいい。
 といっても、傍目には姉弟にしか映らないだろう。実際立ち止まっている二人を気にする人はいなかったようで、帰路を急ぐ人ばかりだった。
 うつむいたままの弥彦を促し、家路へと急ぐ。市街地から道場へはかなり遠い。暗くなる前に帰り着きたいものだ。薪の備蓄はまだあるから、湯を沸かそう。自分も汗をかいたが、朝から働き通しの弥彦を湯につからせてやりたかった。その間にほつれた袴を直してやりたい。この年頃の男の子は、世話を焼かれるのがあまり好きではないのを、薫はよく知っていた。
「そうだ、卵焼き買っていこっか。丁度少し先においしいお店があるのよ」
「俺はいらねェ」
「私が食べたいの。お出汁がすごくおいしいのよ」
「それだけ食い意地はってりゃ男が寄ってこねェのも納得だな」
「はいはい、どうせ食い意地のかたまりですよーだ」
 一人娘だった薫を、父はとても大事に、厳しく育ててくれた。
 けれどその父も亡くなり、ひとりぽっちになったところに観柳の無理難題だ。くじけそうになったこともある。だがあの悪意の権化のような男は、たった一つだけ薫に贈り物をしてくれた。薫の歩幅に合わせながら歩くぼさぼさ頭を横目で見ながら、薫はふっと口元を緩ませた。
今はまだ自分のことで手一杯だが、約定を果たしたあとに必ず良い働き口を見つけてやるつもりだった。一人前になるまで自分が預かり、もし弥彦さえよければ―
 薫は少し行き過ぎた考えをあわてて手繰って戻した。
 まだ自分の胸の中で思案しているだけのことだし、弥彦自身が頷いてくれるかわからない。何より、薫はこの少年のことを何も知らなかった。
 それでも、きっと、もし自分に弟がいたら。
 憎まれ口ばかりだが、弥彦がいてくれるから薫はほっとするのだ。
 自分がこれほど孤独に弱いと知ったときは、我ながら手酷く裏切られた気分だった。神谷薫はもう少し強い人間だと思っていたから余計に気が滅入った。けれど隣には一緒に家に帰る存在がいる。
 卵が焼けるいい匂いがしてきた。もう少し行けば顔馴染みの老夫婦が営んでいる卵焼き屋さんの通りだ。あのおいしさには弥彦も驚くだろう。
(……なんで料理だけだめなのかなあ)
 本音を言えば作って食べさせてやりたいのだが、薫は自他共に認める筋金入りの料理下手だった。基礎から教えてくれる手習い所があれば通いたいくらいだ。
「さっきからにやにやしたりへこんだり、顔だけでうるせーぞ」
 通り過ぎかけたところで、弥彦が引き留めてくれた。慌てて進む先を変え、卵焼きを買い求めに行く。長い影が揃って細い路地に入り消えた。
 天水桶に隠れながら姉弟に見える二人を尾行している人物がいるとも思いもせずに。



 熱い湯で髪も体もさっぱりとし、珍しくおかずの多い夕食で腹がいっぱいになり、宛がわれた部屋に戻ると自分の着物と袴がきちんと畳まれ布団の横に置いてあった。
 女一人を見張る役目は、日々追い使われていた弥彦にとって、とても楽な仕事だった。
 だが肝心の見張る相手があれこれ世話を焼いてくるから、居心地が良いのか悪いのかわからない。むしろこちらが面倒を見られている気がする。
 薫に抱きしめられたときの心地よさとやさしい香りを思い出し、慌てて布団に潜りこんだ。
 完全に不意打ちだった。もう何年も覚えのない、人の温かさだった。ふんわりやわらかくて、良い匂いがして……。
(ばっか野郎、あの女が妙な真似しないよう見張るんだろ、懐柔されてどうすんだっ)
 頭から布団をかぶりジタバタしながら改めて自分の役目を思い出す。
 神谷薫が逃げ出したり、誰かに助けを求めないように見張ること。それが自分に与えられた仕事だった。
 薫が逃げ出す心配はなかった。
 初日は夜通し薫の部屋の前で張ろうとしたら、当の本人が出てきて、あろうことか隣に布団を敷いてここで寝なさいと言ったのだ。いくら自分が子供でも男女が同じ部屋で寝るなどありえないと思った。なんやかんやと抵抗したが、結局その日は隣で寝させられた。しかも薫が廊下側の布団だったから部屋から抜け出すこともできなかった。その上薫の安らかな寝息を聞いている内に、自分もすっかり寝入ってしまったのだ。不覚としかいいようがない。しかも薫は朝に弱いらしく、自分が先に目覚めて起こしたほどだ。
 というわけで、夜中から朝にかけて逃げられる可能性はあっさり消えた。
 なら、薫が誰か―信頼できる奴に助けを求めるか。一度賭博興行に出てしまったのだ。知らなかったとはいえ薫自身が罪を着てしまった以上、観柳以上の権力、あるいは金を持っている男でなければ薫を救うことはできない。そういう知り合いはいないと薫自身が言っていた。
 あらためて観柳の仕掛けた罠のずるさに弥彦は奥歯を噛んだ。
 たった一人で観衆の目に晒されながら戦う薫の姿は、ずっと昔に憧れた誇り高い剣客の姿そのものだった。比べて自分は孤児で、あの卑劣な男に雇われるしかない子供だ。
 目頭にたまった涙をごしごしと乱暴に拭いた。
 ひたすら悔しかった。どうして子供なのだろう。最初から大人ならいいのに。
 いくらそう思っても、弥彦は子供だった。もがいても、暴れても、すぐに大人になれるわけではない。
 一つ大きく息を吸い、胸にたまったもやもやを追い出した。ならばせめて役割をこなしながら、薫が寝坊しないように起こしてやろう。
 いったんそう決めると、布団をかぶり直す。
 薫ももう寝たのだろうか。遠くで鳴く夜鳥の声がやけに耳につくほど静かだった。
 目を閉じれば一日の疲れが簡単に眠気を誘ってくる。すうっと意識が落ちかけたとき、障子の向こうで廊下が軋む音がした。
 布団から這いだし、障子を開ける。薫が驚いたように振り向いた。
「まだ起きてたの?」
「おめーだって起きてるじゃねェか」
「しっ、静かに。もう遅いのよ」
 唇の前で人差し指を立てると、わかりやすく薫の表情が暗くなった。
「私が起こしちゃったのね、ごめんなさい。気にせず早く寝なさい」
 子供をたしなめる言い方にむっとすると同時に、正門がドンドンと叩かれた。
 とっくに夜は更け、来客が来るには遅すぎる。よく見れば薫はまだ着物姿で羽織を肩にかけていた。何も言わず障子を閉めようとしてくる。
「な、おい待てよ、まさか出るつもりか? こんな時間に来るなんてろくな奴じゃないぞ」
「わかってる。君は部屋にいて、絶対に出てきちゃだめよ」
 有無を言わさず障子を閉められ、弥彦は慌てた。薫が廊下を歩いて行く静かな足音が遠ざかっていく。寝間着を脱ぎ捨て、畳まれた自分の服を着込む。急いで袴を穿いたとき、しまったと思った。けれどほつれたところに足の指は引っかからなかった。誰かが直してくれたのだ。誰かなど考えるまでもない。地面を歩く音が聞こえ、薫がもう門のすぐ近くにいるのがわかった。どんな目的かはわからないが、どちらにしろ観柳の手の者以外に考えられない。それをわかった上で一人で出迎えようとする薫に腹が立った。こんな夜中に、女一人で対応しようなんてばかだ。薫はばかだ。
 着替え終え、廊下に飛び出した弥彦は、正門を少し開き誰かと話している薫を見た。月が出ているおかげで、夜のお呼びでない客は薫より頭一つ分背が高いのがわかった。
 草履を履くのももどかしく、そのまま庭に飛び降りた。
 薫とお呼びでない客の間に体ごと滑り込ませる。薫が息を呑むのが聞こえた。
「てめェ、どういう了見だ! こんな夜中に女一人の家に来やがって!」
 大声で吠えてから、ようやく相手の顔を確かめた。
 首が後ろに落ちそうなほど背の高い男だった。外套を深く被っていて目元がよく見えない。
「―確かに。このような夜分に本当に申し訳ありません」
 返ってきた声は、弥彦が思っていた以上に丁寧で落ち着いていた。
「どうかご容赦下さい。どうしてもお話をさせていただきたくて」
「なら時間を改めて出直してこい! 今何時だと思ってんだよ!」
 困ったように男は苦笑を浮かべた。一応は非常識だと自覚はあるらしい。
「やめなさい、失礼でしょう。部屋に戻りなさい」
「けどよ」
「弥彦」
 白い手が肩に触れる。弥彦は驚いて薫を見上げた。手が震えている。寒いからではない。薫は、突然の来訪者を怖がっている。
「失礼をいたしました、申し訳ありません」
「構いませんヨ。無礼なのはこちらですから」
「ここでは何ですから、どうぞお入り下さい」
 普段通りにしゃべろうと薫が必死に気を張っているのがわかった。門を大きく開くと男はためらいもせず屋敷内へと入ってきた。その僅かな間に薫の小さな背中が弥彦を隠した。
「古い家でお恥ずかしいですが」
「ご謙遜を。趣があってボクはイイと思いますよ」
 男を玄関に導きながら薫は弥彦の肩を、ぎゅっと強くつかんだ。一瞬だけ視線が交差する。
 ―君は部屋にいて、絶対に出てきちゃだめよ
 肩に添えられていた手が離れていく。
 月の下でもわかるほど白い顔をした薫に、何か言わなければと思うのに、喉の途中で言葉が詰まって、出てこない。
 薫と並んで歩く男の後ろ姿は、背が高いだけでなく肩幅も広い大人だった。しかも見たことのない妙な格好をしている。
 なんでそんな怪しいやつを家に上げるんだ、危ないだろ、夜中なんだぞ。薫はばかだ。
 わかっているのにあの男を追い返せなかった子供の自分が、誰よりもばかだった。



 居間は暖かかった。火鉢の中で赤々と燃える炭が懐かしい。
 使い込まれた箪笥の上に目をやると、時計が十時近くを指している。一度横浜の拠点まで戻ったせいで随分遅くなってしまった。
 銀二百枚。少女一人を買うには相場を度外視した値段だ。
 観柳は金儲けと最新兵器の収集、そしてある趣味に凝っていると調べ上げてある。その趣味が銀二百枚以上の価値があるかといえば、縁からすればありえない。反吐が出る。
 久しぶりの畳に、縁は長い足を持て余した。結局あぐらをかいて薫を待つことにした。椅子に慣れすぎて、正直なところ正座は辛い。
 茶と茶菓子を脇に置き、薫が障子を開き跪座しながら浅く頭を下げた。
「お待たせいたしました」
「いえいえ、こちらこそ夜分に本当に申し訳ないデス」
 丁寧な所作で敷居を越え、静かに障子を閉める小さな背中を縁は無遠慮に眺めた。何一つ守れそうにない、華奢な体だった。
 帯の結び方やリボンでまとめた黒髪には当然ながら見覚えが無い。時代と共に変わったのだろう。
 茶卓へ静かに茶と茶菓子を置き、縁の目の前で薫は正座をした。
 大きな瞳がまっすぐこちらを見ている。そこでようやく縁は外套を被ったままなのに気付いた。おもむろに外しても薫に驚いた様子はなかった。真っ白な髪は奇異の目で見られるコトが多いのに、動じないのは珍しい。
「正式な挨拶がマダでしたね。改めて、ボクは雪代縁と申します。生まれは日本デスが幼い頃ニ両親と上海に渡りました。今は書物の研究ヲしています」
 事実と嘘は混ぜると聞こえが良い。薫は小さく頷いた
「その、雪代さんは」
「堅苦しいのはやめましょう、薫さん。縁でいいですよ」
 薫が静かに息を吐くのがわかった。
「……では、縁さん。率直にお伺いしますが、どこで私の名を?」
 薫が警戒している理由が腑に落ち、らしくない失敗をしたと思った。
 ―初めまして、神谷薫さん。あなたに用があって伺いました
 不用心に門を開けた薫に、嬉しくてつい口を滑らせてしまった。ほとんど手に入ったも同然だったからだ。
「さあ、どこでしょうね。あなたにとって差し支えなければお答えしますが―」
「武田観柳のところではありませんか」
 恥じる様子もなく薫は言った。存外に度胸が据わっている。
「ええ、仰る通りです」
「私に聞きたいこととはなんでしょう?」
 縁と観柳の繋がりに一切触れず、要件を早く済ませたいらしい。
 隠しているつもりだろうが、薫が自分に怯えているのがよくわかった。得物は馬車に置いてきたが、力量の差を察しているのだろう。縁がこの少女に危害を加えられないとまではわからないだろうが。
「こちらも単刀直入に言いましょう。なぜあなたのような堅気の女性が賭博興行に?」
「この道場は借地なんです。観柳はその権利を興行で十連勝すれば譲ってくれると」
 建前の理由など既に調べさせてある。縁が知りたいのは目の前にいる少女の事情だ。
「失礼ですが連勝は難しいでしょう。ああいう場では必ず妨害をするのが定石ですからネ」
「汚い手を使われるのは承知の上です。それでも、私は必ず勝ってみせます」
 背筋を正し、はっきりと言う薫の瞳には決意の色が現れている。
 出された茶を口に含むと、少し渋みがあった。昔から緑茶は好きではなかったと思い出した。
「あなたさえよければ手を貸します。土地の権利代はボクが肩代わりしましょう」
「結構です。父の残したものは娘の私が守ります」
 縁は大げさに肩をすくめた。
「返事が早いなァ。頑固ですね、見た目通りだ」
「早くて当たり前でしょう。お会いしたばかりの縁さんがなぜ肩代わりを申し出るのか、私には理解できません」
「ひとめぼれです」
「……なんて?」
「毅然と戦うあなたを見て思ったんです。生涯の伴侶にと思った女性はあなたが初めてだ」
 こちらも事実と嘘が混ざっている。少女の身で戦う姿を好ましく思ったのは本当だ。だが伴侶にというのは虚言にしても言い過ぎだった。あまりに安っぽい。
 薫は疑念を更に深めたらしく、口角を引き締めた。
「今のは、聞かなかったことにします。では縁さんが土地の権利を買ったとしましょう。観柳からあなたに権利が移るだけですよね。恥ずかしながら、今の私に権利を買い取ることは出来ません」
 真面目に話を始めた薫に、とりあえず口を噤む。
「縁さんが土地を探しているのだとしても、他にいくらでも環境のよい場所があります。家屋も古いし、ここでなければいけない理由は見当たりません」
 真っ直ぐに縁の目を見ながら、当事者の薫が縁に肩代わりの理由がないのを説き始める。
「縁さんが子供の頃に住んでいた家を探しているのも違いますよね。まだお若いですし」
「二十四です。失礼ですが薫さんは」
「年が明ければ十七になります」
「いいですね、互いに似合いの年頃だと思いませんか?」
「……。上海へ家族ぐるみで渡った方達がいれば私も覚えていると思います。ですが祖父の代から住んでいる家族は変わっていません。ひとまず思いつくだけでも、縁さんがこの土地の権利を求める理由はないんです」
「理由はお伝えした通りですヨ。あなたにひとめぼれを」
「―ふざけないで!」
 二つの湯呑みが揺れた。ひりつくような怒りが薫から感じられる。
「勝てない? 手を貸す? ひとめぼれ? その上、言うに事欠いて伴侶ですって……?」
 冷めかけた茶を一息に飲んだ薫は、音を立てて湯呑みを置いた。
「こんな夜の夜中に、わざわざ私をからかいに来たんですか?」
「まあまあ、落ち着いて下さい。ボクはただ薫さんと話をしたかったダケです」
「話をするのに、あんなわかりやすい殺気を立てる必要がどこにあるの!」
 出迎えがやけに早いとは思ったが、ちゃんと縁の発した気配に気付いていたのか。見た目以上に剣客として出来ているらしい。
「あのね、こっちは寝不足なんてしてられないの、明日も試合があるんですから!」
 武家の娘だと思い込んでいたが、薫の怒りようはそこらの小娘となんら変わりなかった。だがそれもまた面白い。
「困ったな、本音をお伝えしたつもりでしたが、機嫌を損ねてしまいましたね」
 引き続き笑いかけながら、縁は用意してきた小箱を茶卓に置いた。
「これ、どうぞ食べて下さい。気分が落ち着きますヨ」
 凝った造りの箱を鼻歌交じりに開くと、色とりどりのチョコレートが詰まっている。当然ながら薫は初めて見るものだろう。日本ではまずお目にかかれない代物だ。
「いりません」
「そう仰らずに。きっと気に入りますよ。ボクから心ばかりの贈り物です」
「いりませんっ。もうお引き取り下さい」
「なら薫さんがボクに食べさせてみて下さい」
「……なんて?」
「適当なのヲ選んで、食べさせて下さい。そうすれば毒でないとわかるでしょう?」
「あの、さすがに毒を仕込んでるとまで思ってませんけど」
「だったら平気ですよネ。ボクを試すと思って、お好きなのを選んで下さい」
 嫌悪感が表情から見て取れる。さぞかし胸の内は深夜の来訪者への疑念で渦巻いているだろう。縁は笑顔を崩さず、箱を薫の方へ押しやる。わかりやすく殺気も向けると、蛇に睨まれたように薫は体を固くした。
「さあ、どれでもどうぞ」
 薫はゆっくりと小さな箱に手を伸ばした。一つを手に取り、袖が箱に触れないようにしながら縁の口元へ運んでくる。縁が細い指先ごと咥えると、薫は兎のように素早く体を離した。
「ハイ、ごちそうさまです」
 手下が評した手付かずというのは本当らしい。嫌悪から羞恥に変化していく表情を、縁はじっくり堪能した。想像以上に表情がよく変わる。感情が顔に出やすいらしい。
「さて、薫さんはどれがイイですか」
「……なん」
「警戒されるのも当然です。ですからあなたが選んだものなら信じていただけるかと。ああ、まだお疑いならいくらでも食べさせてくれても」
「これでっ」
 薫は装飾の少ない丸い粒を指さし、行儀の悪さを悟ったのか恥ずかしそうに手を引いた。
 少女と女の狭間。ちぐはぐで未完成。躾次第で如何様にも変えられそうだ。
 縁は相変わらず笑顔を乗せたまま、薫の選んだ一粒を取り、桜色の唇へ運んでやる。真っ赤に染まった頬がなんとも可笑しい。小さな口の中に押し込み、指先でわざとやわらかい唇に触れると薫は自分から急いで距離を取った。
 薫は口元を押さえながらゆっくり咀嚼し、飲み込む。幸せそうな溜息が聞こえた。
「お口に合いましたカ?」
 声をかけると、薫はハッとして居住まいを正した。
「はい、すごく甘いんですね。口の中でとけて……」
「チョコレートというんですよ。ハイ、どうぞ」
 喋っている間に次の一粒を押し込む。洋酒の入ったものだったがまあいい。
あまり好みではなかったらしい。薫は眉をハの字にしている。わかりやすい。
「ではこちらは? ほら、口を開けて」
 粉砂糖がまぶしてあるものを押し込む。薫の表情が明るくなった。とてもわかりやすい。
「気に入ったようでなによりです。またお持ちしま―」
 縁の声は聞こえなかっただろう。なんの前置きもなく、薫が横に倒れたからだ。時計の音だけが規則正しく時を数えている。噂程度に聞いていたが、ここまで効果があるとは思わなかった。とりあえず、縁は薫の唇に触れた指先を舐めた。甘い。



 ―人ならざるもの。
 雪のように真っ白な髪と驚くほど端整な顔立ち、感情が全く読めない瞳。人を寄せ付けない気配が雪代縁と名乗った男からは感じられた。
 目眩と不意の発熱が順繰りに体の中を駆け巡る中、薫は考えていた。雪代というくらいなのだから人ではないものかもしれない。真冬にはまだ少し間があったが、冷たい雪が彼を依代にし、目的があって現世に降りてきたのではないか。例年にない大雪が降るのか、次の春が早く来ることを告げに来たのか。それを伝える相手がなぜ自分なのかはさっぱり心当たりがなかったが。
 焼けた炭のように熱があるのもわかるが、風邪を引いた時のしんどさはない。体を起こそうにも力が出ない。体を動かすために必要な力をいとも簡単に取り上げられてしまった。こんなことができるのだから、やはり人ではないのだろう。茶卓越しに雪代縁が立ち上がったのが見える。
(足はあるんだ)
 迷いなくこちらへ向かってきたので、薫は覚悟するしかなかった。被さってきた影をおそるおそる見上げる。
「薫さん、薫さん」
 笑った顔のままで縁が頬に触れる。人の体温が感じられ、薫はまばたきを繰り返した。
 頭と背中の後ろに手を差し入れられ、体を起こされる。手付きはあくまでやさしく、あれほど怖かった冷たい殺意が嘘のようだった。それにしても、この人は何をしようとしているのだろう。
「―薫」
 低い声が耳をくすぐり、なぜか顔が熱くなる。演じるように喋っていたときとまるで別人だ。
 帯がゆるまり、体がすこし楽になる。けれど襟をくつろげられたのにはさすがに焦った。
「へいき、です。自分で、できますから……」
 喉が渇いているわけでもないのに、声がかすれているのに薫自身が驚いた。
「安心して、ボクに全てを委ねて下さい」
「でも」
 スパァン! と小気味よい音が響いた。縁が勢いよく障子を開けた弥彦へ視線を向けた。
「薫から離れろ!」
 あれほど言ったのに、どうして来てしまったのだ。ころされてしまう。
「へやに、いなさい」
「―だそうですヨ」
 弥彦を気にせず、縁は薫から離れなかった。体を畳の上に置かれ、縁が顔を寄せてくる。
「だから、離れろっていってんだよ!」
 がなり立てる弥彦に縁が舌打ちするのがわかった。初めて縁の表情が動いた。怒りが現れた瞳はちゃんと人間のものだった。
「喧しいな。ガキはとっくに布団に入る時間だぞ」
「てめェ……とうとう本性あらわしやがったな」
「見たいなら構わんが邪魔だけはするなよ」
「誰が見るかってんだこのすけべ野郎!」
 勢いよく得意の跳び蹴りをしようとした弥彦をあっさりとかわし、襟首を掴む。そのまま立ち上がった縁に、薫は気力を振り絞り手を伸ばした。
「やめて、おねがい―」
 天井に届くほど腕を高く上げた縁と、ぶら下げられてもがく弥彦がこちらを見る。縁が氷のように冷たい笑みを浮かべた。
 部屋が揺れるほど弥彦が強く畳に叩きつけられる。喉の途中で息が詰まった。
「弥彦……!」
 痛みに身悶えしながら咳き込む弥彦の傍に、這いずって行こうとする薫もまた後ろから引っ張られた。嗅いだことのない男臭さに包まれる。体温より熱い吐息が首筋にかかった。
「続きだ。あんなガキなど放っておけ」
「はなして、弥彦が」
「妙な女だな。お前も食われる寸前なんだぞ」
 喰われる。やはり人ではないのだ。想像していたより恐ろしくて怖かったが、自分だけで済むのなら、それでいい。
「かまわない。あの子にだけは手を出さないで」
 黙って体を縁に預ける。力の入らない手足も投げ出した。どこからでも喰えばいい。
 大人しくなった薫に、縁はなぜか触ろうとしない。どうしたのだろうと気怠げに縁の顔を見上げると、薫を見つめているのに、目は遠い場所を見ていた。その目に、薫は胸を締め付けられた。寂しそうで、辛そうで、泣き出しそうに見えたからだ。
「えにし、さん」
 無意識に手を伸ばし、頬に触れていた。
 人と、人でないものが、縁の中にいるのかもしれない。縁自身も苦しんでいるのかもしれない。思うように動かない体の位置をゆっくりと変え、硬い胸板に頬を寄せる。規則正しい鼓動を確かめると、涙があふれて止まらなかった。
「かわいそうなひと」
 縁の中に棲む人ならざるものが、縁の人らしさを全て喰らい尽くしてしまったのだ。
 それだけでは足らず、他の贄を求めて、自分のところへ来たのだろう。だが人を喰う行為は縁にとって耐えがたいものに違いない。
「あなたの、すきにして」
 泣いていないのに泣いているように見える縁に、薫は必死に言った。父から教わった剣で賭博興行などに出るくらいなら。弥彦を巻き込んでしまうなら。縁を救えるなら。
 この人に、喰われてやろう。
 ぼうっとした頭で考えながら、薫は泣き声を抑えずに、縁の胸に顔を伏せた。



 骨がばらばらになったかと思うほど体の全部が痛い。背中から容赦なく叩きつけられたせいで弥彦はまともに息も出来なかった。殴られるのには慣れていたが、背筋がぞっとしたのは初めてだった。観柳のところにいる用心棒と、この白髪頭は全然ちがう。
 きれぎれに自分の名を呼ぶ薫の声が聞こえるのに、立ち上がれないのが悔しかった。
 夜中に女一人の住まいに来るなんて、下心以外になにがあるのだ。つくづく追い返さなかった自分に腹が立つ。近所迷惑なんて知るか、大声で騒ぎ立ててやればよかったんだ。
 薫の泣き声が聞こえ、慌ててそちらに首を向ける。半ば露わになった細い首と肩が見えた。薫が犯されると本能的に弥彦は悟った。男と女の情事などはぼんやりとしかわからなかったが、このまま見過ごせないのははっきりしていた。
 体を起こそうとした腕がぶるぶる震える。咳が出て、口の中に鉄くさい味が広がった。
 けれど背中でかばってくれた薫を、このまま見て見ぬ振りをしたら、一生自分を許せない。
「この、若白髪野郎、薫を離せっ」
 武器は一つもなかった。あるのは子供である自分のちっぽけな体だけだ。でも、まだ動ける。
 雪代縁と名乗った男は弥彦が起き上がっても全く気にせず、薫の頬や体を触っている。されるがままの薫にも腹が立った。噛みついてやればいいんだ、そんな男。
 足がふらついて壁に寄りかかった。代わりに噛みついてやろうと壁伝いに進む。腹が立つほどのろい足取りだった。あと一歩というところで、白髪頭が薫を軽々と抱き上げた。すたすたと弥彦が開けた障子を通り部屋から出て行く。
「待てよ、薫は、連れていかせねェ」
 痛みを堪えながら肺の空気を入れ換え、追いかける。だが縁側でもある廊下で、白髪頭は薫を抱えて弥彦を待っていた。
「部屋はどこだ」
「……んだと?」
「薫の部屋はどこだと聞いているんだ」
「軽々しく呼び捨てにすんな、一応嫁入り前なんだぞ」
 すっと縁の目が細められる。刺すような視線から逃げまいと弥彦は歯を食いしばった。
「ならお前はどうなんだ」
「どう呼ぼうとお前に関係ねえだろ」
 話にならないという風に首を振ると弥彦に背を向けた。今なら背中に蹴りを入れられるかもしれない。だが動けないらしい薫を床に落とされては困る。数歩進んだところで、縁が首だけで振り返った。
「突っ立ってないで案内しろ、役立たずが。寝かせてやれないだろう」
「寝る、って」
 やわらかく抱いてくれた薫の良い匂いを思い出し、弥彦は頬を赤くした。
「今夜は気が失せタ。見られなくて残念だったな、ませガキ」
「っせえ! こっちだ!!」
 どすどすと足音を立てながら縁の横を通り抜ける。明るい月のおかげで薫の表情がよく見えた。上気した頬と薄く開いた唇、濡れた長い睫毛は昼間とは別人のようだった。
「お前、薫に何したんだよ?」
 弥彦の疑う目つきに、縁が少しだけ顔を背けた。
「早くしろ。庭に放り投げてもいいんだぞ」
「へっ、ひとめぼれだとかほざいたくせにやっぱ体目当てか。このすけべ野郎が」
 弥彦は縁が発する殺気をまだ感じ取れない。薫が身じろぎし、うっすらと目を開けた。
「おねがい、わたしなら、何をされてもいいから……」
 縁の胸元にすがりつく薫に、弥彦は頭を思い切り殴られた気分だった。
 初めて会ったばかりの少し話をした得体の知れない男にそこまで言うなんて。呆然と縁の腕の中にいる薫を見ていると、ふと白髪頭も、弥彦にはわからない表情をしていた。歯でも痛いのだろうか。ともかく、夜も更けたのに廊下で立ちんぼではさすがに風邪を引いてしまう。
「ここだ」
 薫の部屋の障子を開けると、香を焚いているわけでもないのにやさしいにおいがする。
 きちんと敷かれた布団と、すこし雑にたたまれた寝間着が薫が急いで着替えたのを教えてくれる。薫は白髪頭が戸を叩くより前に、迎える準備をしていたのだ。
 縁は遠慮などせず薫の部屋に入っていった。布団の上に寝かせて、少しだけ迷っていたが、帯留めを外しはじめた。
「おい、なにし―」
 ばさりと羽織と帯を寄越される。
「ぼやぼやするな。皺にならないよう掛けておけ」
 若干手際が悪かったが、縁は薫の着物を丁寧に解いていた。あわてて弥彦も衣桁掛に掛けながら、縁が薫に妙な真似をしないかしっかり見張っていた。だが心配したことにはならず、長襦袢姿になった薫を布団の中に入れてやると、初めてこちらを振り向いた。
「お前、奉公に出されてるのか」
「ちげえよ。観柳のとこで雇われてるのは……仕方なくだ」
「待遇が良いとは思えんがな。もっとマシなところを選べなかったのか」
「けっ、薫と同じこというなよ。俺の事情も知らねえくせに」
「お前も呼び捨てはやめろ」
「は、なんでてめェに言われなきゃなんねえんだよ?」
「礼儀作法のなってない弟など薫が恥を掻くダケだろうが」
「弟じゃねえ、俺は明神弥彦。薫の見張り役としてここにいるんだ」



 一町離れた通りに止めさせていた馬車に乗り込むと、部下が温々と毛布に包まって熟睡していた。縁は無防備な腹に拳を放り込むと、出せ、とだけ一言告げた。
 目を白黒させながら起きた部下が御者台へ続く窓を叩くと、少し間があって馬車が走り出した。御者も寝ていたのだろう。
 ユジは懐から懐中時計を出し、時間と縁を見比べ、かすかに首を傾げた。
 心得たもので、ユジは余計な話をしない。
 朝帰りか、連れてくるか。そのどちらもしなかったことに縁自身が驚いていた。
 わざわざ手土産を持ってまで夜中に訪ねて手ぶらで帰る予定ではなかった。
『何か仕込んだのか』
『いえ特には。女性が喜びそうな甘めの……ああ、人によって効果は違うそうですが』
「無能が」
『予測まで出来ません』
 チョコレートは初めて食べる者に催淫剤に近い効果を及ぼすという噂を、話半分に聞いたことはある。薫には予想以上に効いた。効き過ぎた。
 ―かわいそうなひと
 あれほど警戒していた薫が、チョコレートを食べた途端、自分の胸の中で泣き出した。
 手を出すどころではなかった。なぜかわいそうなどと言ったのだろう。薫は自分から何を見出したのだろう。情欲は消し飛び、狐につままれた気分が残るばかりだった。そうこうしているうちに、生意気なガキが起き出し、考えるのを中断させられた。弟ではなく、観柳が寄越した見張り役だと言ったガキを、薫は自身を差し出し庇おうとした。余計にわからなくなる。下卑た群衆の前に一人晒されながら誇りを失わずに戦い、赤の他人であるガキを庇い、縁がかわいそうだと泣き出した薫。どれが本物なのだろう。
 ガス灯の並ぶ橋にさしかかり、窓に自分が映し出される。
 雪の日に見た光景で真っ白になった髪を、薫は好奇の目を寄せるでもなく、動揺するでもなく、ごく当たり前に接した。他人の外見には頓着しない性格なのだろう。薫の黒く艶やかな髪や柔らかい肌を思い出しながら、今更後悔が溢れてきた。幼さがわずかに残った美しい娘を存分に抱くつもりだったのに、惜しいことをした。
『相手を買収しておけ。但し間に三人挟め、二人は日本人を混ぜろ』
『はい』
 万が一にも負けることのないように手配だけはしておこう。昼間の試合を見た限り、縁が手を出さなくとも薫には勝てる実力があったが。
 窓に映る自分が険しい表情になる。薫が辱めを受ける様子を想像しただけで吐き気がした。
『興行は明後日が休みになります』
「……」
『横浜に宿を押さえています。屋敷でもご用意をしておきますので』
「……」
 派手な場所は薫に似合わない気がした。頭の中で薫を自然の景色が美しい場所に置くとしっくりくる。遠い記憶を引きだし、景色がきれいだと言われている場所をいくつか思い出す。だが一日ではそう遠くへ行けない。気怠げに溜息をつくと、縁は外套を被り椅子に横になった。
 舗装が行き届いていないからかなり揺れがある。腕の中に少しの間だけ抱いた薫の体温を思うとすぐに眠気がやってきた。



 椋鳥の鳴き声で薫は目をさました。目の前に弥彦の寝顔があった。いつもの生意気さは無く、寝顔は年相応に幼くかわいらしい。昨夜、そのまま自分のところにいてくれたのだと思うとぽっと火を灯すように胸が温まる。冷たい目をした男に全く物怖じせず、追い出したらしい後に戻ってきてくれて、しきりと自分を案じてくれた。そんなことよりも、弥彦の打ち付けられた体のほうが薫はよほど心配だった。埋火のような熱のせいで思うように動けない薫は、とりあえず弥彦を自分の布団へ引き込んだ。万が一雪代縁が戻ってきてもかばえるようにと、出来ることを精一杯やった。文句は散々言われたが、暴れはしなかった。そういうやさしい気持ちをもつ少年の頭をそっと撫でてから、起こさないように一人布団から出た。
 額に手を当ててみる。深酒したような痛みはない。体のどこにも異変はなく、昨夜食べさせられたちょこれいととやらは毒ではなかったのがわかる。
 羽織だけとり、音を立てないよう廊下に出る。しんと冷えた朝の空気が気持ちよかった。門へ目を向けると、ちゃんと閂がはまっている。洗濯桶と手桶まで立て掛けられていた。縁が出て行ったあとに弥彦が置いたのだろう。ふっと笑顔になると、薫は居間に向かった。時計はまだ早朝を示している。茶卓に湯呑みはなかった。弥彦が片付けてくれたのだろう。だが縁が土産だと置いていった箱はそのままになっている。
 改めて中身を見ると、いくつか空きがあるままで残っている。
 指先を舐められたのを思い出して、薫は赤面した。男性にあんなことをされたのは初めてだった。僅かの間のことだったのに、体がとろけるような感覚がまだ残っている。
 慇懃な対応より、粗野ともとれる物言いをする縁のほうが彼本来の姿なのだろう。まだ人間としての雪代縁という人は残っているのだ。
 手元にちょこれいとの箱を引き寄せると、改めて凝った造りなのに感心する。
 小さな取っ手を引くと観音開きで蓋が開き、閉じるとピタリとくっつく。薄い木板の中に磁石を埋めてあるらしい。外側は精緻な西洋風の模様が彫ってあり、表面は膠が塗ってあるのかつるりとしている。とんでもなく高価な舶来物ものだ。簡単に手に入るものではないし、気軽に土産だと渡せるものでもない。
 あの男は何者なのだろう。
 お腹を空かせているのなら、わざわざ自分でなくともよかったはずだ。他に犠牲になる人がいなかったと思えばいいが、それで胸に納めるには不審な点がありすぎた。
 大陸の服に身を包み、薫では敵わない腕を持ち、武田観柳と多少なりとも繋がりがあること。書物の研究家というのはおそらく嘘だ。弥彦を叩きつけたときの動作に迷いはなかった。あれほど冷酷な真似が出来る人は、普通ではない。
 雪代縁のことを考えていると、ドタドタと廊下を走る足音が聞こえた。
「薫!?」
 勢いよく障子を開けた弥彦は、薫がいるのに安心したのか、大きく息を吐いた。
「おはよう、弥彦」
「お、おう。おは、ってちがうだろ! 昨日は大変だったんだぞ!」
「そうね。それじゃあ服、脱いで」
「な、なんでだよ」
「いいから。背中を見せて」
 炭を足した火鉢を弥彦の傍に置き、薬箱を取り出す。渋っていたが、結局弥彦は言うとおりにした。成長途上の背中から不機嫌がにじみ出ている。ほとんど全面が青い痣になっているのに、薫は唇を噛んだ。指先に薬を取り、手のひらで温めてから家伝の薬を塗り始める。
「いってぇ」
「我慢する。男の子でしょ」
 涙ぐみそうになるのを堪えながら、丹念に薬を塗っていく。触れる度に痛いだろうに、肩に力を入れこらえている。まだ子供の弥彦に手酷い仕打ちをしたのは、絶対に許せない。
「べつに、殴られるのには慣れてる」
「慣れてる、って……」
 思わず言葉を失った薫に弥彦がふくれた横顔を見せた。
「うさんくせェ奴だけどさ、あいつ相当お前に執着してるぞ」
「どうしてわかるの?」
「お前が頷くまで何度でも来るって。あんまり気味悪くて塩投げ損ねちまった」
 ぞわりと総身に鳥肌が立つ。
 草双紙を丸ごと写したような、困窮した弱者を助ける勇士の話を、信じろというのか。
「弥彦、あの人は」
「いいって、俺のことは置いとけ。当事者はお前なんだからよ」
 大きなくしゃみを一つして、弥彦は火鉢に手をあてた。薬が乾くまで上衣は着られない。
「なんだよ、ひとめぼれって。頭いかれてるんじゃねーの」
「ほんとよね……」
「けどさ、逆に利用できるんじゃねえか?」
 弥彦がまたくしゃみをした。羽織を脱ぎ肩からかけてやる。
「あいつが観柳を知ってるってことは取引でもしてるってことだろ。ちょっと探れば」
「だめよ」
 小さな頭をぺしりとはたきながら薬箱をしまうために立ち上がる。
「探るなんてとんでもないわ。あの人は君を殺すのも躊躇わない人よ」
「殺すわけねえよ、あいつ俺たちのこと姉弟だと勘違いしてたんだぜ? 案外間抜けだよな。俺がお前にとって人質にならねえって知らなかったんだからよ」
 昨夜、弥彦を守ろうと必死にすがったのを雪代縁は見ている。薫は胸の内に黒々とした不安が広がるのを感じた。ますます弥彦が狙われる理由を与えてしまったのだ。
「よく聞いて、弥彦。仕事以外では必ず私の傍にいて。あの人にはもう絶対に近づかないで。私ではとても敵わない相手なのよ。雪代縁は人であって人じゃないの」
「薫……」
 真剣な表情に変わった弥彦に、少しだけほっとする。雪代縁の正体をわかってもらえたようだ。
「おまえって見た目じゃ全然そんな感じねえけど、めちゃくちゃビビりだったんだな」
 思い切りげんこつすると、薫は手を、弥彦は頭をおさえて痛がった。
「ってェなあ!!」
「痛いのはこっちよ! もう、全然言うこと聞かないんだからっ」
 じんと痛む手に息を吹きかけ、額に手を置き溜息をつく。弥彦はまだ子供だとしっかり念頭に置いておかなければ。
「服を着て、そこに座りなさい」
「けどよ」
「いいから。風邪を引きたくないでしょう」
 羽織を受け取り、半端に脱いだ服を直す弥彦を見つめながら、薫は手が震えそうになるのを必死に抑えた。気を紛らわそうと火鉢の炭を動かしていたら割ってしまった。
 薫が正座しているので、弥彦も自然と正座になる。過去は知らないが、弥彦が観柳などに追い使われているのが不憫でならない。
「どうして部屋にいなかったの。来ちゃいけないって言ったのに」
「だってよ、むりやり迫られてたのを放っておけばよかったって言うのかよ?」
「確かにそうだったわね。でもそれで良かったの。私を喰えばあの人は満足しただろうし」
「おい、じゃあおまえ、食われるつもりだったってことか?」
「ええ。正直痛いのは怖かったけど、それであの人が満足するなら……」
「うそだろ、薫、やっぱりあいつが好きなのか?」
「好きか嫌いかは関係ない」
「大ありだろ! おまえだって、そのうち、す、好きな男ができるかもしれないのによ」
「それでももう猶予はないの。諦めないって当人が言ってたんでしょう? だから次にあの人が来たときは、今度こそ出てきちゃだめ。弥彦には見られたくないの、お願い、わかって」
「俺だって見たくねェよ! なぁ、もっと自分を大事にしろよ、金持ってそうだし花街にでも行けば済む話だろうが」
「花街だなんてどこで覚え……え?」
「え、じゃねえよ。俺はまだ子供だけどよ、体目当ての男なんてドブネズミ以下だろうが」
「待って、そこじゃなくて。花街の人だって望んで苦界で生きているわけじゃない。そんな人達を身代わりにすることこそ最低だわ」
「だから、なんでお前があのすけべ野郎に食われる前提なんだよ!」
「理由はわからない。けどあの人は選んで私を喰べにきたの」
「いや理由わかってんじゃねーか!!」
「どうしてそう言い切れるの? 単に気まぐれなだけだと思うけど」
 お互いに早口になっていくのに、その場で足踏みしてばかりでなぜだか話が進まない。
「え、待てよ……人じゃないって……まさかな……でもありえるか……?」
 大人がするように腕を組み、うんうんとうなり始めた弥彦に薫も首を傾げる。
「どうしたの?」
「なあ、さっきさ、あいつが人であって人じゃないって言っただろ」
「うん」
「まさか幽霊とか怨念とかだと思ってるのか?」
「そうじゃなくてあの人は人の形をした―鬼、みたいなものだと思う」
「はぁあ? 幽霊と変わんねえじゃねえかそんなの」
「私もうまく言えないんだけど」
 形の良いあごに指を当て言葉を探す。
「生きていれば誰でも気持ちが浮き沈みするものでしょう? あの人はそうじゃない、ただ日々命を繋いでいるだけ。そう感じたのよ」
 にこにこと笑いながら瞳に浮かんだ無色を思い出すと体が震えそうになる。
「だからね、人の魂を喰べて補わないとほんとうに鬼になってしまうんじゃないかな」
 黙って話を聞いていた弥彦は、しきりと首を傾げるばかりだ。
「悪い、薫」
 妙に真面目くさった口調で謝られ、不意に肩を押される。なんの気構えもしていなかったから、薫は簡単に後ろに倒れてしまった。そのままぎゅうっと弥彦がしがみついてくる。急に甘えてくるなんてどうしたんだろうと思っていると、焦れたように弥彦がますます力をいれてくる。くすぐったい、と言おうとして、はっとした。弥彦は丁度胸の辺りに顔を埋めている。
「きゃ、ちょっとやだ、いきなり何するのよ!」
 またぺしりと頭をはたき、慌てて体を離す。頬に血が集まるのがわかったが、同じくらい弥彦も顔を真っ赤にしていた。頭をさすりながら、子供らしくない溜息をついてる。
「わかった、よーくわかった。薫、お前が勘違いしてるってな」
 後ろ頭をかきながら、まだ赤く染まった顔で弥彦は言う。
「俺のこと、すけべなやつだと思ったろ?」
「そりゃ、いきなりあんなことされたら―」
「な? ごちゃごちゃ言おうが、鬼とか幽霊なんて絵草紙だけだと俺は思うぜ。白髪頭だってただの男だって。やることなすことめちゃくちゃだけど、お前にひとめぼれしたってのは多分本当だ」
「……そう、かな」
「そうだよ。考えすぎだろ」
 ふくれっつらで頷く弥彦に、薫は昨夜の記憶を必死に思い返した。
(雪代縁が、ただの男……)
 低い声で名を呼ばれた。熱い手で頬や首に触れられた。着物を脱がされかけた。確かに人じゃなければできないものだ。それでも飢えて渇いた姿が本来の雪代縁だという気がしてならない。
 仮に薫の勘違いにしても、いきなり迫ってくる雪代縁の非常識さはいかがなものだろう。
 さすがに幼い弥彦に尋ねるわけにはいかず、胸の内側には納まりの悪い気分が残るばかりだった。



 維新前がどうだったか弥彦は知らない。だが檄剣興行は口伝えで広まっているらしく、試合がある毎に人が増えていた。大きな屋敷の敷地から、外に聞こえるほど大騒ぎになっているのに、警察が踏み込んでくる気配もない。これも観柳が金で解決しているのだと思うと、やり口の汚さに腹が立った。
 薫と引き合わされ一週間が経つ。少しずつ姉のような年頃の薫に馴染んできた弥彦は、薫が違法な試合に出たと警察にしょっ引かれるのは嫌だと少しずつ思うようにもなった。
 試合に出る対戦相手を控え室に呼びにいったり、試合後の後片付けを手伝ったりと、興行中は休む暇も無い。
 三番目の相手を幕の向こうに案内し、ようやく一息つく。観柳がいる二階から見えない木陰に座り込み、薫が持たせてくれた味のない握り飯と味の濃い漬物を食べ始める。
 あまりおいしくはない。だが空きっ腹を抱えているよりはずっといい。
(……そういや薫に言われたな)
 ―もっと年下かと思った
 そのときは単に失礼な女だとしか思わなかった。
 同じ歳くらいの相手が周りにいなかったから、比べたりもしたことがなく、とにかく毎日を越すのに必死だった。勝手に借りた軒先でがたがた震えながら眠るのと、殴られ蹴られ、汚い仕事をしている自分は、もう昔の自分ではなかった。弥彦はほんの三年ほどでいっぱしの男のような口の利き方をするようになり、誰も信じることなく、とりあえず生きることを覚えた。こんな境遇にいるのは自分だけではない。一人で生きていけるまで、大人になるまでの我慢だと繰り返し胸の中でとなえる。
 こうしてすれた少年が出来上がった。
 そんな弥彦を、薫は実の姉のように叱ったりする。
 赤の他人のくせに余計な口をきくなと思ったが、米の味しかしない握り飯を持たされ、きちんとした布団で寝かせてくれ、熱い風呂を用意し、袴を直してくれた。
 もぐもぐと口を動かしながら、短いながらも薫と過ごした日々を思い出す。弥彦は薫といるうちに、本来持っていた感情を少しずつ思い出してきていた。誇り高くありたい、間違ったことを見過ごしたくない。幼いながら弥彦は曲がったことが大嫌いだった。次の試合を待っているだろう薫に負けてほしくないと思った。
 うっかりと、ぼんやりしていたらしい。
 細い袖の服に包まれた腕が、ひょいと弥彦のために作られたおにぎりを一つ取り上げた。
「なんだこれは。形も悪いし味もない」
 一口だけかじられた握り飯を戻され、慌てて懐に抱え直す。
「薫が作ったのか」
「うっせ、お前のために作ったんじゃねェや」
「そうだな。食事の用意などやらせる気はない」
 いつの間にか近くに、それも部外者の縁がいたことに、弥彦は内心驚きを隠せなかった。足音や気配がなかったからだ。
「おい、ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ、さっさと出てけ」
「伴侶が見世物にされている。充分関係者ダロ」
 弥彦はあんぐりと口を開けるしかなかった。
「全く、品のないやつらばかりだな。あんな興行主だから相応な屑しか集まらないんだ。塵溜めにいたら薫が汚れる」
 まともとかそういう類じゃなかった。雪代縁は、ものすごくまともじゃない男だ。
「明日、お前は留守番だ。薫は遅くとも朝には帰す」
「遅えよ門限は夕刻までだ! つーか留守番ってなんのことだ!!」
「気晴らしに連れて行く」
「聞いてねーぞ、そんな話」
「薫にはもう話してある」
「どうやってだよ、試合があるまで控え室には誰も入れな」「関係者だと言っただろう」
 相変わらず外套を目深に被り、表情が見えにくい。目立つ真っ白な髪を隠したいからだろうが、余計に怪しくみえる。
「勝手に決めつけんな、薫は行くって言ったのか?」
「八時に迎えに行く。お前の食事は届けさせるから安心しろ」
(だめだこいつ全っ然話通じねェ)
 きっと薫にも一方的に言って終わりだったのだろう。薫が自分の飯を心配したからわざわざ言いにきたに違いない。
 試合は長引いているらしく、まだざわめきが聞こえる。残りの握り飯をかきこみ(雪代縁がかじった部分は薫と米の神様に謝りながら捨てた)竹筒のぬるい水で流し込む。
 息を整え、雪代縁の前に立つ。薫はけして近づくなと言ったが、思い込みの激しい男を撃退してやれるのは自分以外に誰がいるのだ。
「あんたさあ、ひとめぼれだ伴侶だとか言うけどよ、そういうのは普通お互いの同意があってのもんだろ? あいつはお人好しだから断れないだけで、初対面のどこの馬の骨かもわからないやつに迫られてよろこぶ女は普通いないと思うぞ。これ以上薫を困らせるのはやめてやれよ。とりあえず文を交換しあうことから始めるとか、距離を縮めたいってんなら時間をかけて……」
 突然低い笑い声が聞こえて、弥彦はきょろきょろした。口元を抑えて雪代縁が笑っていた。
「面白いガキだな、俺に説教するつもりか」
「んなこたぁ思っちゃいねェよ。ただ―」
 眉根を寄せ、腕を組む。地面にはかなり差のある人影が二つ浮かび上がっていた。小さい自分の影と、大きい雪代縁の影。ぐいと顔を上げて雪代縁に目を向ける。昨晩はばたばたしていて気が付かなかったが、黒い丸眼鏡をかけていた。目が弱いのだろうか。
「薫がしあわせになれるならいいんだ」
 自分の先も見えない状況だったが、ごく素直な気持ちだった。付き合いは短いし口うるさいが、薫はそんな自分に優しくしてくれた。寝床と食事を何の見返りもなく与えてくれた。
 真っ白な髪と強引さと自分勝手なところをのぞけば、年齢も薫と釣り合いが取れてるし、背もかなり高い。顔もまあまあだと思う。服の趣味も人それぞれだ。
「薫に近づくのは反対しないのか」
「そんなの薫次第だろ」
 なぜか雪代縁は自分を珍しそうにじろじろ見てくる。所詮子供の言うことだと思われたのだろうか。かすかに面白くない気分があったが、腹に力を込めて顔に出さないようにした。
「しあわせに、か」
 ぽつりと呟いた声が、中々良い声だった。これが雪代縁の地声なのだろう。
「弥彦だったな。お前、いくつになる」
「十だ」
「十? その割には痩せているな。観柳はお前みたいなガキに飯もまともに食わせないのか」
 あ、と弥彦はやっとわかった。それで薫は不器用な手付きで毎朝握り飯を作っているのだ。
「今夜は押しかけたりしないから安心しろ。それから旨いものを届けさせる。遠慮せずに二人で食え」
「押しつけたあとで金の請求してこないだろうな?」
「俺がそんなケチな男に見えるか?」
 雪代縁がわずかに表情をほころばせた。それも一瞬で、すぐ何を考えているか分からない顔になる。
「怪我の詫び代わりだ」
「は? けが?」
 誰が怪我をと思って、はたと気付く。この男に思い切り投げつけられたんだった。
「大したことねェよ。薫が薬を塗ってくれたからもう痛くもないしな」
 実際、ばたばたと立ち働いている間は痛みに構う暇もないのだ。
「そうか、悪かったな。医者にかかるようなら費用も出す」
「なんだよ気持ち悪ぃな。昨日の今日でやけに態度が違うじゃねぇか」
「手に入れる為なら多少の強硬手段も使うだけだ」
「てめ、ヤクザかよ。ともかく、薫がうんと言わなきゃ俺は認めねえからな」
 胸を張ってきっぱり言い切ると、またじろじろと見られる。雪代縁はなぜか子供である自分の言葉を真面目に聞いていた。
「そうか、手強いな」
 一人言のように雪代縁が呟いたとき、大きな歓声が上がり、弥彦は幕の向こうを確かめた。挑戦者の男は体中を斬られているが、命に別状はなさそうだ。下がらせようとしたとき、ぐっと襟首を引っ張られる。
「試合は薫が勝つ。勝負は早々に決着が付くから早く薫と帰れ、寄り道はするなよ」
「〜〜だから、気安く、呼び捨てにすんな!」
 声を荒げて言い返すと、ぱっと手を離され雪代縁はすたすたと裏口の方へ歩き出している。薫に迫っておきながら試合は見ないつもりらしい。薫は雪代縁に敵わないと言っていたが、弥彦にはどれくらい強いのか想像もつかない。実際向き合ってみたら、案外話せる奴だと思った。審判に呼びつけられて慌てて幕の中に入る。怪我をした挑戦者を支え引き上げようとしたとき、薫はすでに座して待っていた。弥彦を見て、静かに、やさしく微笑みかけてくれる。
 恥ずかしくてつい顔を背けてしまった。
 こんな場所で戦わされているのに、薫は弥彦に心を寄せてくれている。逃げないよう見張る役目の自分を。子供が支えるには重すぎる血塗れの大人の体を引っ張るようにして歩きながら思った。
 早くこんな興行など終わればいい。薫にはしあわせになってほしい。
 雪代縁は、薫をしあわせにできる男なのだろうか。



 懐中時計を見ると十五分ほど早かった。
 桜柄の着物と、桜色のリボン、かわいらしい巾着袋を両手で持ち、緊張の面持ちで薫は神谷道場の門の前で待っていた。隣には用心棒然と弥彦が立っている。部下のユジは風呂敷で包んだ重箱を持ち、先に馬車を降りた。弥彦に包みを渡すと、門限がどうのと聞こえたが、上手くいなして丁寧な所作で薫を馬車へ導く。手を貸し馬車に乗せる所作など自分より洗練されている。薫が慣れない馬車乗り込むと、はっと目を見開いた。
「おはよ、あれ、ごきげん、よう?」
 縁は焦げ茶色のフロックコートに濃紺のネクタイでいかにも西洋風な格好をしている。
 咄嗟にどう挨拶していいか迷ったのだろう。困った様子の薫に顎で後部座席を示し座るよう促す。
 そろりと薫が腰掛けると、縁の態度にあからさまに呆れたユジが扉を閉めた。
 すぐに馬車は走り出し、薫は弥彦を心配そうに見つめ、弥彦もまた不満そうに薫を見送った。最初にこの娘を見たとき、攫えと命じたのを思い出す。この状況はまさに人買いそのものだ。
 薄く笑った縁に、薫が心外そうにきっと睨んでくる。
「洋装だと思わなかったんです、どうしていいかわからなくて」
「やめろ」
「なにをですか」
「その言葉遣いだ。普段通りでいい。さんづけもするな」
「……わかりま、わかったわ。でも約束して。あなたを満足させられなくても弥彦にだけは手を出さないと」
 縁は驚いて薫を見つめた。そういえば、薫を物にしようとしてそのままだった。
帽子をとり、白い髪をあらわにする。やはり薫は物珍しそうにも怪訝そうにもせず、膝の上で手を揃えて縁の目を見ている。
「この間は俺も性急すぎた。もうあんなことにはならないから安心しろ」
 大きな瞳がまばたきを繰り返す。
「あの、聞いてもいい?」
「なんだ」
「もしかして、ごめんなさいってこと、なのかなって―」
「子供扱いしろとは言ってない」
「あ、そんなつもりはないの。あなたがそんな風に思ってるなんて意外だったから」
 未遂に終わったとはいえ、薫はあくまでも自分を差し出すのに躊躇いはないらしい。
 泣いた薫を思い出しながら、縁は弥彦に見せたようなやさしい笑顔が見たいと思った。
「あの時は俺もどうかしていた。悪かった」
「私こそ、あなたの話をきちんと聞かなかったわ。また観柳の罠かと疑ってた」
「その『あなた』もできれば使うな」
「どうして?」
「他人行儀なのは好きじゃない」
 薫がゆっくりと窓の外へ視線を移した。子供っぽいと呆れるでもなく、かといって素直に聞き入れるにはまだ信用しきれない。幼顔に似合わぬ強い力を秘めた瞳に縁は強く惹かれたのだ。
 ゆっくりと縁に視線を戻し、目を見ながら薫は言った。
「わかった。慣れるまで少し時間がかかると思うけど。よければ縁も薫って気軽に呼んで」
「助かる。あのガキ、お前を呼び捨てにするなと煩いんだ」
「やだ、弥彦ったらそんなこと言ってたの?」
「同意がないと駄目だと」
 たまりかねたのか薫がぷっと吹き出した。
「あはは、もう、ごめんなさいね。変なところでませてるのよ、あの子」
 ひとしきり笑った後には、薫からいくらか緊張の気配がなくなっていた。改めて馬車の中を眺め、座席の座り心地を確かめている。
「馬車なんて初めて乗ったわ。すごくふかふかしてるのね、そんなに狭くないし」
「横浜まで長い。それまでに疲れてしまっては意味がないからな」
「それは昨日も聞いたけど、横浜で何をするかはまだ教えてくれないの?」
「着けばわかる」
「またそれ。ちょっとくらい糸口をくれてもいいんじゃない」
 にっと縁は笑うと帽子を被り直した。薫にぶつからないよう長い足を組む。
「せっかくの逢瀬だ。手の内を明かしたらつまらないだろう?」
 薫がわかりやすく頬を染めた。男慣れしていない証拠だ。毒を欠片も持っていない少女に、縁はそっと目を細めた。
「改めて言われると、変なかんじ」
「どこがだ? 互いをよく知る為の手段だろう」
「できれば最初にそうしてほしかったってことよ?」
「仕方ないだろう。なんせひとめぼれだったからな」
「……真顔で、言わないで」
 火照った頬に手を当てながら薫が視線をそらす。外見はまあまあの割に、男に免疫がないらしい。それとも自分の感覚がこの国とかけ離れすぎたのだろうか。
 流れていく景色が見慣れないものに変わり、薫は顔を曇らせた
「弥彦、一人で大丈夫かしら。あの子にはもっと食べさせてあげないと……」
 穏やかになりかけていた気分に、いきなり冷水をかけられた。
「―昨日も言っただろう。今日は薫の気晴らしで俺との逢瀬だと」
「……うん?」
「逢瀬の間は軽々しく他の男の名を呼ぶな」
 薫が神妙に目を伏せた。
「ごめんなさい、つい心配で。そうよね、逢瀬なんだから……」
 言いながら薫の頬にまたぽうっと血が上っていく。
 縁は溜息をついた。子供に嫉妬した自分が不思議だった。果たすべき誅の為だけに生きている自分が、これほど誰かに執着するなど考えられなかった。あり得ないことだった。
 誰にも手折られたことのない桜の若木のような少女は、居心地が悪そうにこちらを見たり顔を伏せたりと忙しい。
 前置き無く御者側の小窓が開き、部下が小さな紙袋を差し出した。黙って受け取った縁は、中を確かめると一粒を取り出した。
「食べるか?」
 ガラス玉のようにきれいな飴玉を見て、ぱっと薫の顔が明るくなる。小さな手に乗せてやると、細い指でそっと口の中にいれる。甘さに顔をほころばせた。
「ありがとう、縁」
「どういたしまして」
 笑わせたのが飴玉だったのは気に入らないが、薫が笑うと縁の胸はかすかに温まった。

 拠点にしている横浜では準備が全て整っていた。
 仕立屋の女性達は一目で薫を仕上げ甲斐があると気に入ったらしく、連れて行きながら色はスタイルはとすでにあれこれ相談している声が聞こえた。
 艶やかな黒髪が扉の向こうに連れて行かれるのを見送る。支度が整うまで縁にやることはない。とりあえず庭に面した椅子に腰掛けるとユジがすぐに豆茶を用意した。
『美人だと言っておきましたが効果は絶大でしたね』
「……」
『伝え方を間違っていましたか?』
「……美人より可愛いだろう」
 はっとして縁は部下の方を見た。とっくに逃げられた後だった。おかわりを持ってきたのが別の従者だったので、余計に腹が立った。全く、どうかしている。
 そろそろ半時が経つ頃、姦しい声が聞こえてきた。縁がつけた注文はリボンで結んだ髪を変えるなだけだったが、連れてこられた薫は想定以上だった。
 リボンに合わせた、薄桃色を基調としたたっぷりとひだを寄せた重心の低いバッスルスタイルに、膝下から少し見えるスカートは濃い紅色で一見派手だが、薫の可憐さをより強調している。細かな装飾が施された紅のリボンが腰をくるりと巻き、背中で折り重ねられている。黒髪に映える側頭部に飾られた真珠を連ねた髪飾りが歩く毎に揺れた。
 背中を押されながら縁の前に連れてこられ、最後に上等な造りの日傘を渡すと、縁と薫をちらちらと見ながら仕立屋の女達は誇らしげに引き上げていく。
 どこへ出しても恥ずかしくない、美しさと可憐さを備えた貴婦人がそこにいた。
「……」
 なるほど、美人だと縁は思った。剣術小町と呼ばれるのも納得だ。頭から足元までじっくりと眺めていると薫が耐えかねたように日傘を胸の前で握りしめた。
「あの、そんなに変……?」
 見惚れていた縁に、かわいそうなほど体を縮ませた薫が泣きそうな声で訴える。
 ついうっかりと、そのまま寝室に連れて行こうと考えたことは、言わないでおこう。
「よく似合ってる」
「いいの、無理してお世辞なんて」
「俺は世辞など言わない」
「だって、私よりあなたのほうが似合ってるもの」
 やわらかい唇を引き締め、瞳が潤んでいる。やはり予定を変更して寝室に行きたくなった。
立ち上がり傍に行くと、薫は恥ずかしげにあらぬ方を向いてしまう。
「洋装が初めてとは思えないな。似合ってるな」
「でも、こんなぜいたくな服、もし汚したらって思うと緊張しちゃって」
「いつもの服だと思え。それにしても―」
 怯えさせないよう静かに頬に手を当てこちらを向かせる。真珠が添え物なほど黒髪は艶やかだった。
「本当に、よく似合っている」
 自然と声が熱くなる。感化されたのか薫も頬を染めた。
「そんな、縁ほどじゃ……」
 と、場違いな拍手が聞こえた。若い画家が惜しみなく拍手を送り続けている。
「愛を与え合う分け合う若人達なんってすばらしい! これこそ僕の描きたかったもの!」
 呆気にとられている二人を余所に、画家は細くした炭を画用紙の上に走らせ始めた。縁が明らかに不機嫌な顔になると、ユジがどこからともなく現れた。
「なんだコイツは」
「お時間は取らせません」
「うんいいぞまるで対だ、天が巡り合わせた運命だ」
 ぶつぶつ呟きながら画家の手は素早く動いている。見られているのが恥ずかしかったのか、薫がそっと縁の胸を押し離れた。手から離れていく温もりが惜しかった。
「あの、ほんとうにいろいろとありがとう。こんな素敵な服まで」
 気持ちが落ち着いたのだろう。縁を見上げ薫が微笑んだ。
「まだ序の口だ」
 笑顔が眩しかった。まっすぐに向けられる笑顔を受け止めきれなくて、踵を返し外へ向かう。
 背後で高い靴音が響いた。健気にも遅れまいと一生懸命ついてくる薫を、縁は振り返った。丁度人一人分を空けて、薫はすぐに立ち止まった。
 手を差し出すが、不思議そうに縁を見上げるばかりだ。日傘を持っていない手を取ると、こうするんだとばかりに自分の腕に掴まらせる。薫が体を固くしたのがわかる。今更ながら急ぎすぎたことを縁は後悔した。本来なら薫は人との距離をあまり置かない性格のはずだ。だが一度欲しいと思ったら、縁はすぐに行動に移してしまう。飢えた狼の元に来るだけでも相当勇気が要ったはずだ。紳士的な振りはできる。だが薫の前ではしたくない。
「こうしていれば足も楽だろう。転ぶ前に支えられる」
「ん、と……」
 歩調を合わせ、少し引っ張るように歩くと、エスコートに慣れようと薫は足元ばかり見ている。馬車までの短い距離の間に、少しずつ感覚を掴んだらしく、縁の腕に上手く細い腕が絡み始める。
「こんな感じでいい?」
「上等だ」
「そっか、よかったぁ」
 眩しい。よく晴れた高い空の日だけではなく、薫の何もかもが縁には眩しかった。



 潮風は少し冷たいが、服に使われている布地のおかげでさほど寒くない。
 遠くに見える横浜港とそっと近寄ってくる波音。広く青い海の上にいるのがこれほど気持ちのよいものだと思わなかった。海鳥が物珍しそうにしているのを、かざした指の間から薫は見上げた。
「薫」
「んゃっ」
 いきなり腰を引き寄せられて変な声が出た。いつの間にか手摺りに近寄りすぎていたらしい。縁が気付いてくれなければ落っこちていたかもしれない。
「そんなに驚くほどか」
(あ、ちょっと困ってる)
 薫は少しずつだが縁の表情を読み取れるようになっていた。
 初めて会ったときはまるで表情の仮面をいくつも付け替えているようだと思った。瞳を見ても、何もない。海の底のように深くて暗く、怖くて息が出来なくなりそうだった。
 だが今いっしょにいる縁はあまり表情を変えないが、感情がちゃんとある。こうして自分を引き寄せるたくましい腕に、薫は夢を見ているような心地さえした。
「いくらなんでも落ちたりしないわ」
「見てて危なっかしいんだ、お前は」
「もう、失礼ねっ」
 フロックコートは今は脱いでいて、白シャツにズボンと同じ色のベストとネクタイという、いかにも洋装の見本といった出で立ちをしている。背が高いからだろうか。無難にまとめているように見えて、こんな人が街を歩いていたら女性の注目を浴びるだろうな、と薫は思う。白い髪が日の色に染まり、黄金色を散らしている。
 どうした? と目で問われて、薫は慌てて首を振った。
 甲板にはやわらかい二人掛けのソファとツツール(縁が教えてくれたが薫は間違えて覚えている)があり、テーブルに果物が盛られたかごと、硝子製の湯呑み、氷がいっぱいに入った金属の桶にお酒らしい瓶が二本入っている。
 蒸気船は乗り込んだ客は自分と縁だけらしく、彼の部下も船室に引っ込み出てこない。
 手摺りから離れ、薫はソファに腰掛け、スカートを押さえながらツツールに足を乗せた。
 着慣れない服装に、ちょっとだけ疲れていた。
 縁が酒らしい瓶に手を伸ばす。至れり尽くせりが少し恥ずかしい。
「あの、お酒なら遠慮させていただけると。嫌いじゃないんだけど……」
「酔うと記憶を失くすのカ?」
「その逆。全部覚えてる。泣いたり笑ったりして大声で騒いで、すぐ寝ちゃうの。お父さんには余所でぜったいにお酒はいただくなってきつく言われたわ」
「……」
(今度は呆れてる、ううん、疲れてる?)
 縁は慣れた手付きで栓を抜き、湯呑みに何かを注ぐ。手際の良さに思わず見惚れた。
「果実を混ぜた甘露水だ」
「わ、うれしい、ありがとう」
 喉が渇いていたので、一息で飲み干す。冷たさが喉を通り抜け、さっぱりとした後口がおいしい。ふちから雫が垂れそうになり、とっさに舌先で舐めてしまった。行儀が悪いことこの上ないが、手袋や服を汚すわけにいかないと思ったのだ。
 今度は明らかな溜息が聞こえた。はしたないところを見られた恥ずかしさに顔から火が出そうだ。隣に腰掛けた縁が口を開くのを内省しながら待つ。何を言われても余さず受け止めようと薫は殊勝に思っていた。半分以上冗談だろうが、自分を見初めて、ここまでもてなしてくれた人だ。
(弥彦にもあれだけ注意するよう言われたのにな)
 せめてこのきれいな服に見合うよう振る舞いたかった。
 それにしても、縁はどうして黙ったままなのだろう?
 ちらりと横をうかがうと、黒眼鏡を外し目元と額を強く手で抑えている縁がいた。
(えーとえっと、船酔いかしら?)
「あの、だいじょうぶ?」
 労るように二の腕に触れると、固い肉の感触が返ってきた。洋服の下には鍛え上げられた身体があった。胸にすうっと冷えた風が差し込んでくる。本能的に心持ち体を離すと、ようやく縁が口を開いた。
「お前は―」
 緊張を隠しながら次の句を待っていると、縁は薫の顔をじっと見た。
「顔色が悪いぞ。船酔いか?」
「え、いいえ。あなた、縁こそ、具合がよくなさそうだけど」
「俺か」
 少し目を細め、手に持った黒眼鏡を指で摘まんで揺らしている。
「言うつもりはなかったんだがな」
 縁はもう一度大きな溜息をつくと、別の瓶の栓を抜き、くすんだ赤色の液体を注いだ。強い香りが届く。手酌で二杯ほど水を飲むように煽るのを見ながら、薫はほんの少しだけ父に文句を言いたくなった。縁は気にしていないようだが、注いでやるためにいつ手を伸ばしていいかわからなかったのだ。
(お礼になることもできない)
 少し俯き縁の手元を見つめながら、薫は申し訳なさそうに息をつく。
「お前、わかりやすいと言われるだろう」
 薫は重たげに顔を上げた。
「そんなにわかりやすいかな」
「手に取るようにな。行儀だとかは気にしなくていい、誰も見ていないだろう」
 促され、広い海を見渡す。ほんとうだ、いつの間にか海鳥さえいなくなっている。目の前に広がる緩やかな円を描く水平線と空の境目は、墨で引いたようにくっきりしている。
「―と言っても無理だろうな。初対面で奪われそうになった男相手だ」
「?なにも盗まれてないわ。それにおみやげをもらったのはこちらよ?」
 縁が苦笑いをして、壊れものを扱うように自分の髪を掌に乗せるのを、ただ見つめる。
「そら、盗んだぞ」
 いったいなにをだろうと、まったくわからなくて薫は首を傾げた。
「とても丁寧に梳かしてくれたから、さらさらでしょう?」
「…………」
「香油なんて初めてだから緊張したんだけど、皆さん任せてって親切で」
 スカートをつまみ少しだけ持ち上げながら、しみじみと呟く。
「ほんとうに、私がこんなすてきな服を着ているのが、夢みたいで」
 だいじょうぶだ、縁は怖くはない。最初の顔を合わせたときの無礼だって謝ってくれたではないか。ただ、書物の研究家だというのは、おそらく違う。何か事情があってそう名乗っているに違いない。
 体質なのだろうが、毎日の稽古でも薫の体は筋が硬くならなかった。だが縁はうらやましくなるほど鍛えられた体を持っている。もし彼が剣術をやっているなら、おそらく敵わないだろう。けれど一度手合わせしてみたい。自分はどこまでついていくことができるだろうと、剣客としての魂がうずく。
 じっと目を見上げながら、明るい場所で縁の目を初めて見たのを思い出す。漆黒の瞳は吸い込まれそうなほど深い。
 縁が薫の髪から手を離すと、頬に触れるか触れないかくらいのところで手を止め、ゆっくりと顔を近づけてきた。縁の吐息が唇に触れたところで、まばたきを繰り返してから、体が勝手に動いた。
「いやーーっ!!」
 思い切り胸を突き飛ばしていた。
 やはり胸板も硬く、遅れててのひらがじんと痺れてきた。さすがに縁がひっくり返ることはなかったが、片腕を背もたれに乗せ倒れないようにしていた。
「な、な、なにするのよっ、あんな、あんなこといきなり……!」
「物欲しそうな表情をしていた」
「言いがかりだわ、そんな顔してない!」
 縁が憮然とした表情で黒眼鏡をかけ直す。
(あ、怒った)
 表情だけでなく気配から苛立ちが伝わってくる。だが薫だって正しい言い分がある。
「さっきからハシゴを外すのはわざとなのか」
「してないっ」
「しているだろう、笑ったりしょげたり物欲しげにしたり、一人で何を考えているんダ? お前の考えがまるで理解できない、おまけに口説いても妙な反応しかしない」
「えっ、うそ、いつ?」
「聞くな。答えるこっちの気まずさくらい察しろ」
「なら言わせてもらうけど、縁があんまりしゃべってくれないからわかんないの、どんなこと考えてるんだろうって読み取ろうと私だってがんばってたわ!」  
「わかるわけないだろう、俺が迂闊に表情を読み取られるはずない」
「そんなことないわ、困ったり呆れたりしてたじゃない。ほら、今は怒ってる」
「そんなわけ」
「あるの! 眉間にしわ寄せてたり、口角が少しだけ持ち上がってたり、じっくり見てればわかるわ」
「……それで俺の顔を見てたのか」
「そう、あなたが何を考えてるか知りたかったから」
「馬鹿が、やたらと男を見つめるのはやめろ。男はすぐ勘違いをするんだ」
「私は縁のことをもっと知りたいって思ったの。それはいけないことなの?」
「ああくそ、その警戒心が無さが問題なんだ」
 頭をかき、苦い口調で言う言う縁に、薫はようやく縁が見えた気がした。意外に口が悪い。
「同じことを言われたわ。あの子から見れば私はてんで甘いんだって」
「癪だがあのガキの言うとおりだ。酔ったら寝てしまうなど簡単に言うもんじゃない、俺が妙な気を起こしたらどうするつもりだ」
「縁はそうするつもりなの?」
「……いいや」
 重く首を振った縁に、にこりと薫は笑いかけた。ぼんやりとした視界の中でぎこちなくも丁寧に布団へ寝かせてくれた縁こそ、今目の前にいる縁なのだ。
「これでも人を見る目はあるつもりよ。もし私になにかあっても、自分の責任だか―」
 縁がとても怖い顔になる。言葉が喉の途中で引っかかってしまった。
「あのガキはどうなる」
「……弥彦のこと?」
「お前に何かあれば弥彦というガキは観柳に縛られたままだ。それがお前の責任の取り方か」
 縁がものすごく怒っている。その怒りはすさまじく、冷たい眼ににらまれた薫は総身が冷えていくのを感じた。胸の上に手を置いて、呼吸を落ち着ける。
「あの子なら、だいじょうぶ。信頼できる父の知り合いに手紙を届けるように言っておいたの。きっと弟子の一人として迎えて下さる。いつまでも観柳のところにいさせるわけにいかないもの」
「ハッ、ならお前は一人で賭博興行の見世物を続けるつもりか? 他人であるガキの為に」
「もう他人じゃない。新時代に生きるべき子よ、放っておけない」
「鈍いのもいい加減にしろよ。自分を犠牲にする精神はご立派だがな、それで一人だけ助かったと喜べると思うのか?」
 縁の指摘は薫の胸を的確に刺した。視界がにじみそうになるのを耐えながら、しゃんと背中を伸ばす。
「私が十連勝すれば土地の権利書は」
「無駄だな。最初に言っただろう、お前には想像もつかない手で必ず阻まれる」
 物騒な物言いにも薫はひるまなかった。
「やってみなければわからないじゃない。お父さんから教わった剣術で人を傷付けたくはないけど、道場を守るためならきっと力を貸してくれる」
 長い長い溜息をついた縁は、口元をほんの少しだけ緩ませた。
(あ、笑った―)
「俺の負けだ、口喧嘩じゃ敵わん。お前らが姉弟じゃないのが不思議なくらいだ」
「弟ならもっと愛嬌のある子がいい―と言いたいところだけど、私もそう思う」
 逢瀬もかなり経ったというのに、この日初めて二人は笑い合った。
 ふと縁が真面目な顔つきになり、薫を見つめた。
「なぜ俺をかわいそうなどと言った」
 薫はまた胸を刺された気がした。恥ずかしさのほうが強かったので、勢いよく頬に血が集まるのを嫌でも自覚せざるを得なかった。
「あれは、あの、ぼうっとしてたからで……きれいさっぱり忘れて―なんてむりよね」
「無理だな」
「やっぱり?」
「今時、身の上話に不幸が含まれている奴は珍しくもない。だが俺は話していないし、薫も聞かなかった。過去を読む特殊能力でも持っているのか」
「そんな恐ろしい力、絶対にいらないし欲しくない」
 素早く言い返す。考えただけでもぞっとする。その人、その人が持つしあわせや痛み、苦しい思い、楽しい気持ち。そういったものは、経験したその人だけのものであり、軽々しく聞いてはいけないものだと、薫は思っている。
「空っぽに、見えたの」
「……」
「今よりもにこにこしているのに、何の感情も持っていないように感じて、すごく怖かった。怖い鬼が人の姿をして訪ねてきたんじゃないかって」
「ふうん、鬼か。あながち間違っていないと思うぞ」
「口が悪くて、考えてることが良くわからなくて、気遣ってくれるのを隠そうしてるのに?」
 ばつが悪そうに縁がそっぽを向いた。もう表情を見ればおおよそはわかる。縁は意外に照れ屋さんなのだ。
「ごめんなさい。勘違いだったのよ、きっと。足だってちゃんとあるし」
「足?」
「ううん、こっちの話」
(意外だけど、かわいいところあるのよね)
 年上のごつごつとした男だったが、薫はすっかり警戒をといていた。いきなり口付けされそうになったのはまだ許していないが、もしかしたら、もしかして、ほんとうに、縁が言ったとおり、自分を好いてくれているのかもしれない。想いを寄せてくれる人がこれほどすてきな人なら、薫だって悪い気はしない。
 蒸気船が汽笛を上げた。二人で白く上がる煙を見ながら、船上の時間は穏やかだった。
 荒川河口の港に着くと、今度も馬車が待っていた。途中、呉服屋に寄り、薄い藍色に染めた絹に桜の花びらを散らせた楚々としながら着物と、銀砂を散らした精緻なかんざしを贈られた。
 どうやら縁は贈り物をすることで薫の反応を確かめるらしい。こんなに高価なものばかりいただいても、薫は戸惑うしかなかった。お礼を必ずするというと、絶対に受け取らないと返された。かわいくない。
 日が暮れる前に、道場に帰り着いた。朝と同じく門の前で、弥彦が大人のように腕を組んで待っていた。うれしくて走り寄り抱きしめると、照れながらもおかえりと言ってくれる。
 ぴりっとした殺気を感じ振り返ると、縁が怖い顔をして自分の方を睨んでいた。だが視線を辿ってみると、背の低い弥彦を見ている。まさか、とまた怖い想像が頭をよぎったとき、弥彦は薫から離れ、ずんずんと縁へ向かって行くではないか。慌てて止めようとすると、縁の部下の人が重箱を押しつけてきて薫の進路を塞いだ。
「本日はありがとうございました。主も貴女と過ごせ満足しております」
「あ、いえ、こちらこそ、とても良くしてもらって……」
 こちらは丁寧で愛想も良く、今日のことをしきりと感謝してくれている。気もそぞろに返事をしているうちに、弥彦は何事もなく戻ってきた。ちょっと誇らしげにしている。
「ねえ、縁となにを話してきたの?」
「男同士の話だ、大したことじゃねえよ」
 と、取り付く島もない。
 いつの間にか縁と弥彦の間にできたらしい友情に、薫は切ない溜息をつくしかなかった。
(仲間外れにしなくたっていいじゃない)
 長い影と縁の乗った馬車が去って行くのを見送りながら、もう一度溜息をついた。



 檄剣興行、九日目。天気は晴天、春に戻ったかのように温かい。
 そんな日和に似合わない下品なざわめきが場を熱くしている。最後の試合が始まろうとしていた。
(どこだ、どこにいやがる!)
 雪代縁を探し走り回っているが、どこにもいなかった。
 大一番は当然のように評判の小町娘と、人斬り抜刀斎を名乗る雷十太との戦いだと告げられ、弥彦は天地がひっくり返るほどに驚いた。観柳が雇った中でも雷十太は飛び抜けて強い男だった。だが剣客といえる風格は欠片も持たず、少し離れた場所からでも酒臭さが匂ってくるような男だ。男の風上にも置けないような奴だが、今までに出場した試合では不思議な剣で相手に致命傷を与えて全て勝利を収めている。
(薫は負けねえ、けどそれじゃあ済まされねえ!!)
 薫はこれまで順調に勝利を掴んでいる。一試合ごとに相手を制する剣に磨きがかかり、昨日などはほんの数分で試合を終わらせた。
 本来なら最後である十日目に雷十太を当てるのだろうと、弥彦は予想していた。
だがあの男相手でも薫の勝利は揺るがない。これで薫が自由になれる。
 また観柳の小間使いに戻るだけだったが、それ以上に薫の勝利を喜んでいる自分がいた。相変わらず味のない握り飯を作る後ろ姿を眺めていると心が温まった。
 はやる気持ちを抑え、喉がひゅうひゅう鳴っても走り続けた。一試合目と三試合目は挑戦者が勝ち、掛け金をやりとりする番台は大騒ぎだった。この後の試合者を聞き、偽抜刀斎に賭け直す下衆も多かった。そんな観衆の僅かな隙間をすり抜けながら、弥彦は縁を探していた。
 薫を助けてほしかった。助けられるのはあいつしかいないと思った。
 よけ損ねて、観衆の背中にぶつかった。
「痛てえなこの糞ガキが!」
 興奮した観衆に弥彦は思いきり二度殴りつけられ、唇がぱっくりと切れた。まだ許せないのか拳を振り上げるが、試合場に近い場所から声が広がっていった。
 ぱっと手を離され、倒れた弥彦は大勢から足で踏みつけられながら、人がはけた壁側に抜け出す。がっしりとした木の幹にもたれながら、手を上げ声を上げている観衆の向こうに、雷十太の頭が見えた。その向こうにいるはずの薫の小さな体は見えなかった。
(くそっ、くそぉ)
 観柳が用意した剣客は、試合の直前まで控え室にいる。だからどんな風に剣を使うのかは見られない。薫は雷十太の不思議な技を知らずに、あの場に立たされているのだ。
 誰かに守られる子供である自分が悔しくて仕方ない。自分が強ければ、薫を守れるのに。
 ざらついた木肌に白くなるほど爪を食い込ませると、はっとした。素早く木の枝を掴むと勢いをつけて上へ上へと体を運んでいく。高い枝先が折れる寸前まで足を伸ばし、歯の間から顔を出す。試合の開始を告げる審判の声と共に、観衆が一斉に沸き上がった。
(くそ、どこにいんだよ!)
 人が多すぎて見分けがつかない。そもそも縁が薫の試合を見ている可能性は低かった。気晴らしにと薫と縁が出かけて以来、縁は道場にも顔を出さなくなった。代わりに毎日高級菓子と小さな花束が届くようになっていた。ユジと名を教えてくれた縁の部下は、縁が来られないのを毎回詫びては帰っていく。石蕗、寒梅、福寿草、椿、千両……。
 花の名前など知らない弥彦に、花器に生けながら教えてくれ、床の間に飾った薫の穏やかな笑顔が頭に浮かぶ。剣客の顔付きに変わった薫が、大勢の目の前で戦う姿が見えた。
 雷十太が力任せに振り下ろす真剣を身軽く避けながら、隙を狙っているのが分かる。でもそれじゃあ駄目なのだ。長引けば長引くほど薫にとって不利になっていく。
 にやりと、雷十太が気味の悪い笑みを浮かべた。
「薫、逃げろー!」
 喉が潰れても構わないほどに大声で叫んだが、観客の喚き声のせいで届かなかった。
 間合いが離れているにも関わらず、今度は下段から思い切り振り上げた。さすがに薫も妙に思ったのか、剣筋の正面に立つことはしなかった。地面が鉈で切ったようにえぐられ、薫の袴の端がすっぱりと切り取られ、白い太股を外気に晒した。今までで最も大きい驚喜の歓声が上がった。観客どもの反応に気を良くしたのか、雷十太がもう一度同じ技を繰り出す。地面を蹴り横に転がったが、片袖がぱさりと落ちた。露わになった細くしなやかな腕に、またどっと観客が騒ぎ出す。もはや試合ではなかった。大勢の前で薫を辱め、尊厳を奪うだけの見世物だった。屋敷のベランダには珍しく観柳も出てきている。葉巻を吸いながら、薫が嬲られるさまを見物しているのだ。
 手がひやりとして、弥彦は頭を埋めつくした怒りから少し覚めた。知らず知らずのうちに強く握っていた手に爪が食い込み、血が滴っていた。こんな痛みより、あの場で味方もなく一人立たされ、大勢の男の前で服を裂かれている薫の方がよほど痛いはずだ。
 気丈にも薫は構え直し、試合を続けようとしている。
脚と二の腕まで服を裂かれながら、攻めに転じた。雷十太はその巨体に似合わぬ素早さで薫の木刀を避けている。動けば動くほど観客どもの興奮が増していくのが肌で感じられた。
 見ているだけはもう嫌だ。足場にしている枝に思い切り体重をかけると、付け根からぼきりと折れた。余計な小枝や葉を急いで取り、枝の根元を握る。なんとも頼りない武器だったが、今の弥彦にはこれしかない。空気の変わった試合場へ急ぐ。
 大勢が一斉に叫んだ。薫が襟元を掴まれ高々と持ち上げられている。薫は木刀の柄で無骨な手を叩いているが、その抵抗も観客は狂喜するばかりだ。幾重にも巻かれたさらしの下側に剣先をあてがい、じわりじわりと切り裂いている。弥彦は悔しさに泣いていた。頬が熱い涙に濡れるのも気付かず、汚い大人の体をすり抜けながら、薫の元へ行こうとした。
 雷十太も観客も、薫の白い肌を見るのに夢中で気付かなかった。だが弥彦だけは気付いた。 東方の天幕を開け、すたすたと歩いて行く人物がいる。見慣れない服装に深く被った外套の男は、太刀ほどの剣を片手に持ち、少し手前で立ち止まると靴先を少し上げた。
 雷十太の情けない悲鳴が辺り一帯に響き、薫から手を離す。情けなくうずくまる大男を無視し、縁は薫を受けとめると、すぐに自分の外套を細い肩に着せた。
 白い髪が日の下に現れ、しんと静寂が落ちてきた。縁は涼しい顔で試合場の隅まで薫を抱きかかえていきそっと降ろすと、何事か話し掛け、薫も返事をしたようだった。
 そのとき、トンと弥彦の背中を軽く押す手があった。自分より少しだけ背が高いユジがにっこり笑って、薫と縁を指さす。その意図を正しく読み取った弥彦は、薫のところへ駆けよった。
「薫、大丈夫か薫」
 これ以上薫が辱めを受けないことに、弥彦は心底ほっとした。
「や、ひこ、ダメよ、あなたまで、観柳に」
「あんな屑はどうとでも出来る。弥彦、薫から離れるなよ」
 言われなくても、と強く頷くと縁は不敵に笑い返した
 ようよう立ち上がった雷十太の前に立つと、すらりと長い剣を抜く。鞘を地面に落とし、肩に峰を置き、冷たく、よく通る声で言った。
「立て。剣を握れる程度に加減した。それともみっともなく鼻水を垂らすしか能が無いのか」
 挑発され、雷十太が勢いよく立ち上がる。
「ソウだ、そうこなくちゃな。俺の連れ合いに随分と派手な格好をさせてくれた礼をしなきゃいけないからな」
(なぁ、つれあいってどういう意味だ?)(い、いいの、弥彦は知らなくてっ)
 ぼそぼそと薫と小声で囁き合う。なぜ薫が真っ赤になっているのか弥彦はわからなかった。
 途端に観客がわめきだした。突然現れた背の高い白髪の男を歓迎する声は一つもない。
 ぐるりと周囲を見渡しながら、大げさに肩をすくめる。
「五月蠅いな。薫はお前ら等が見ていいものじゃない、汚れるだろう」
 誰かが掛札を投げた。ぱしりと受け止めると同時に、縁の手の中で音を立てて粉々になる。欠片を土に落としながら、手に残った木くずを汚いものを払うように手を振った。
「掛け金がそんなに心配か? 揃いも揃って肝の小さい奴らばかりだな。札があろうとなかろうと五倍で返してやるから出口に行け。信じられないなら直接確かめてみろ」
 縁が声高に言うと、七割ほどの観衆がどっと出口を目指していった。後に残ったのは物見高い見物客だけらしく、ざわつく声も落ち着いた。
「やっと静かになったな。さて、そろそろ罰を受けてもらおうカ」
「この、この若造があっ」
 雷十太が喚きながら殺到する。刀を受け流しながら、地面に突き立てた太刀を軸にし縁がつま先を脇腹に投げ込み、体をくの字に曲げた雷十太の顎を掌底で突き上げた。飛び散った鼻血がかからないよう、縁はいつのまにか飛び退き避けている。
「すげぇ……」
 思わず声がもれた。今まで見てきたどの試合よりも圧倒的だった。
「どうした、これでオシマイだとか抜かすなよ」
「舐めるな、まだ終われん!」
「ソレはこちらの台詞だ。薫に薄汚い手で触れたんだ、これっぽっちじゃ腹の虫が治まらん」 だらだらと垂れた鼻血をそのままに、再び薫に向けた不思議な技を雷十太が放った。縁は避けなかった。地面近くに体を伏せ、土煙を上げると、空気が割れた方へ向け下段から切り上げる。甲高い悲鳴のような音がした。横を通った風が弥彦と薫の髪を巻き上げていく。
「―かまいたちだったのね」
 薫が呟いた。弥彦にはよくわからなかったが、縁が雷十太の技を破ったのは確かだった。
低い姿勢から鳥のように空へ飛んだ縁が掌を添えながら太刀を振り下ろす。一髪の差で雷十太は受け止めたが、次の攻撃の予測は出来なかった。火花が散る中、片腕を伸ばし髪を掴むと、空中からがら空きになった肋骨へ膝蹴りを投げ込む。骨の折れる音が低く響いた。着地した縁は既に白目を剥いている雷十太へ再び太刀を構えようとした。
「縁!」
 薫が叫んだ。ぴたりと動きを止めた縁は、振り返り、必死に首を振る薫に物言いたげな目を向けながら、柄で雷十太の腹を押した。大きな図体が反っくり返り地面に倒れる。
 途端に上から耳障りな声が聞こえてきた。
「これはどういうことですか! イェンさん、唯の護衛の身で私の興行に割り込むなど、言語道断ですよ!」
 一瞬誰のことかわからなかったが、呼びかけられたのが縁だとすぐにわかる。
 面白そうに笑った縁の姿がふっと消えた。薫がベランダへ目を移したので弥彦は一瞬で縁があそこまで飛んだのがわかった。
「連れ合いが辱めを受ける前に代わっただけのこと。貴様に文句を言われる筋合いは無い」
「あなたはなんの権限があって―」
 縁が固い壁に太刀を突き刺すと、観柳の耳が横半分に割れた。悲鳴が上がる前に観柳の顔を片手で持ち上げ、力を込める。ここまで頭の骨がみしみしという音が聞こえそうなほど観柳の顔が歪んだ。
「痛いか? 痛いよな? 当然だ、お前の頭くらいなら簡単に握りつぶせる」
「ひ、ひぃぃひゃめ、たしゅけ…!」
「ああ、命までは取らない。二度と薫と弥彦に手を出すな。あの二人はお前みたいな小物に支配させない」
 最後の言葉は、縁が自分に言い聞かせるような小さな声だった。
 幸せになるべきだ―
 一つだけ強く吹いた風が、弥彦と薫にその言葉を届けなければ、きっと一生聞けなかっただろう。
 縁が手を離すと、観柳はベランダの端までゴキブリのように逃げた。
「お、脅そうたってそうはいかない、あの女には賭博興行に出場すると契約書を書かせた! 警察は金さえ積めばどうとでも出来る、ひっひっ、残念だっ……」
「おい!」
 それまで黙って見ていた弥彦が声を上げた。薫と縁、観柳とその手下に一斉に見られ、少しだけ面映ゆかった。
「残念なのはお前だ! 見ろよ、ここにあるのがその書類だろ!」
 懐に手を突っ込み、数日前に盗み出した紙を取り出す。薫の名が書かれ血判が押された契約書が弥彦の手の中にあった。懐にまた手を突っ込み、燐寸を取り出す。端を口でくわえながら火をつけると、乾燥した空気もあり契約書は見る間に燃え尽きる。足元に落ちた灰は形を保てずはらりと崩れていく。
「一体どうやって? 前に字が読めないって」
「嘘に決まってんだろ。これでも元士族だ。……スリの腕も上がったけどな」
 縁がよくやったと目顔で行っている。
「ま、まだだあ! 土地の契約書は金庫の中にある! 結局はお前らは……」
 ぴゅいと小さな口笛が聞こえ、どこからか飛んできた鷹が縁の手元に書類の束を落とし、去って行った。ぱらぱらとめくりながら、縁は機嫌良く鼻歌まで歌っている。
「全て揃っているな。ああ、心配するな。お前が大好きな金が言い値の三倍金庫に入っている。この国の隠密は良い仕事をしてくれるな」
 (隠密って……忍者か!)
 密かに手配りしてくれたんだ。忍者はほんとうにいたのだと、弥彦は内心興奮したがこらえた。後で薫にだけは話そうと決めて。
 縁は太刀を壁から引き抜くと、呆然とした観柳を見ずに手摺りを越えて身軽く地面に降りる。落ちた鞘に太刀を納めてから、ゆっくりとこちらに歩いてきた。
「これでお前達は自由だ」
 弥彦に押しつけるように契約書を渡すと、少しの間、薫と縁の視線が混じり合った。
(え、なんだ?)
 この間は良い雰囲気だったのに、今の薫は泣きそうで、縁は何かを思い切ろうとしている。「あの屑がお前達に近づけないよう手配してある。……息災でな」
 驚いて縁の顔を見上げる。なぜ別れの場面になっているのだ。どうして薫は何も言わないでいるのだ。こんな終わり方、絶対に許せない。
「薫、いいのかよ、こいつ人相悪いしぜってーろくな商売してねェけどさ、お前のことつれあいって言ったんだぞ!」
 意味はわからないけど、きっと、良い意味のはずだ。あんなに顔を赤くしていたんだから。
「薫とは生きる世界が違う。それだけの話ダ」
 背を向けて行ってしまおうとしている。なのに弥彦はどうしていいかわからなかった。先程交わった二人の視線は、子供の弥彦にはわからない意味を持っていた。でも、でも、ほんとうにいいのだろうか。これで薫と縁の繋がりが終わってしまって、ほんとうにいいのだろうか。
「いいのかよ、薫」
「……」
「なあ、あいつ行っちまうぞ。ほんとにいいのか。薫はそれでいいのかよ?」
 俯いた薫がゆっくりと首を振る。その瞳から涙が零れた。
「……待って!」
 薫の声に、縁は行きかけた足を止めた。
「私はあなたの全部を知りたいなんて思わない、そこまで欲張らない! だから……!」
 行かないで、と泣き声で声がかすれた。地面に伏しそうになる薫を支えようとするが、弥彦には少し重かった。が、すぐに軽くなる。いつの間にか縁が薫の肩をしっかり支えていた。
「……俺、後ろ向いてるから」
 弥彦は気を利かせて背中を向け、少し距離を置く。ちょっと面白ない気持ちはあったが、きっと二人きりにさせてあげたほうがいいと、子供なりに頭を働かせたのだ。
 早く大人になりたい。今はまだ無理でも、いつか薫の隣に立てるようになりたい。
 薫が直してくれた袴についていたのか、灰が一欠片だけ空に舞っていく。
 高く青い空に運ばれる途中で、灰はほろりと崩れ消えていった。  

 

  • 19.10.14
    あとがき