「遅かったな」
「ごめんね。もう少し早く帰ってくる予定だったんだけど」
「どうせまたあのガキがごねたんだろ」
「もう、弥彦のことそう呼ばないでっていつも言ってるでしょ。私にとって」
「ああ何度も聞いた、大切なオトウトなんだろ」
 耳小骨に小さな溜息が伝わってくる。立体映像の薫がかるく首を振った。
「反抗期なのよ。私の一人暮らしに今だって反対してる。それでまたけんかしちゃって……」
 ふうんと気のない相槌をしながら、縁は生意気な顔を思い出していた。第一印象は、根本から合わない、だった。

 薫の家族に紹介されたとき、両親には気に入られた。終始丁寧な言葉遣いをしたし、自分で立ち上げた事業も上手くいっているとごく控えめに伝えたのが好印象だったらしい。堅苦しくなく、かつ、身ぎれいな服装をしていたのも良かったのだろう。だがそういう縁に、弥彦は初めから敵意剥き出しの目を向けてきた。
 弟というが、実際は遠戚であることは薫から聞いていた。見た目からも人の良さがにじみ出ていた薫の両親は、不幸にも事故で二親を失った弥彦を養子として引き取り、二人を姉弟として分け隔て無く育てた。薫は九歳、弥彦は三歳だった。共に剣道を習い、二人の間には姉弟としての絆が自然に育った。
 自身にも姉がいる縁は、幼い頃から姉と心を通わせている男に嫉妬を隠さなかった。今思えばずいぶん姉を心苦しくさせただろう。そういう経験から、薫の弟である弥彦が自分を敵視しても、出来るだけ鷹揚に接してやろうと決めていた。だが予想よりかなり早かった。古いが手入れの行き届いた道場を見せてもらっているとき、薫が呼ばれてその場を離れた。その途端だった。
「どうやって薫をだました」
 一人前の男のように胸を張り、いきなり仕掛けてきた。
「薫は人一倍お人好しで世間知らずだ。どうせそこにつけこんだんだろ、卑怯な手を使いやがって」
 確かに薫のやさしさと世間ずれしていないところは好ましかったが、子供が世間がどうのと言い出したのには呆れてしまった。
「勘違いするのも無理はない。けれどボクは真剣に薫さんを想って」
「うるせェ! 俺は薫をしあわせにしてくれる奴なら認める。でもそれはうさんくさいお前じゃないってここが」と弥彦は自分の頭を指さした。「はっきり言ってんだよ、白髪頭!」
 子供の嗅覚は侮れないと思ったのを覚えている。この頃は法に触れていないだけの商売もしていたから、弥彦は何かしら嗅ぎ取ったのだろう。
「今すぐ信用してほしいとは言わない。君にとってお姉さんが大切なのもよくわかる」
「きみとか呼ぶな、気色悪い」
「弥彦君、ボクらは互いに理解しあう必要があるらしい。時間はかかるかもしれないが」
「必要ねェよ。化けの皮はがして薫に知らせてやるだけだ」
 面倒くさくなって、生意気なガキに大人を舐めているとどうなるか教えてやろうと縁は仮面を外しかけた。そこへ折り悪く薫が戻ってきた。
「縁、お母さんがよければいっしょにご飯をって……どうしたの、弥彦。なにかあったの?」
 薫は心配そうに殺気立っている弥彦に声をかけた。弥彦は好機だと見ただろう。薫に尋ね返した。
「なあ薫、こいつのどこに惚れたんだ?」
「ちょっとやだ、いきなりなに言いだすのよ」
「ほらな、即答できないのが証拠だ」
 勝ち誇った表情が小憎たらしい。薫は慌てて縁に謝った。
「ごめんなさい、この子が失礼なこと言ったのね。もう、変なとこで意固地なんだから」
「男同士仁義を切ってただけだ」
 大袈裟な言い方に縁はつい笑い出してしまった。なるほど、一応は初対面の挨拶だったらしい。
「面白い弟だな」
「あの、誤解しないでね。口は悪いけど根はいい子なのよ」
 囁き交わす自分と薫がよほど気に入らないのか、弥彦はぐいぐい間に入ってこようとする。正義感の強いことだ。
「あのね、弥彦」
 縁と弥彦を交互に見た薫が、小さな声で言った。
「縁といるとね、ああ、飾らないでいいんだって思えるの」
 薫の頬がうっすらと染まる。
「もちろん私は私よ。あの、だから、上手く言えないんだけど」
 情けのつもりで片手で弥彦の目を塞ぎながら、縁は体をかがめて薫に口付けた。弥彦は縁の手をすぐ払いのけてしまったから、潤んだ瞳で自分を見つめる薫を見る羽目になった。
 ざまあみろ。縁は大人げなく内心ほくそ笑んだ。

「女の一人暮らしは危ないから帰ってこいって真剣に言うの。ねえ、男の子の反抗期ってそういうもの?」
「さあな、覚えてない」
「そっか、そうよね。はあ、年頃って難しいなあ」
 薫がまた溜息をついた。幼さの残る顔立ちに憂いの色が浮かぶと、手を差し伸べたくなるかすかな痛々しさがある。いつも笑顔でいる薫が、縁にはそういう表情を見せるようになって一年が経つ。
 薫は明るく裏表のない気性だが、なんといっても十七になったばかりだ。小さな悩みは尽きない。そういう悩みを聞く役割は、弥彦のものだったろう。聞いてもらい、薫が晴れ晴れと笑顔になる度に、弥彦は無意識に自負したはずだ。危なっかしいところがある薫を守ってやらなければと。その役目を、弥彦が言うところの、うさんくさい男が突然取って代わった。当然警戒せずにいられない。
 という心情があらまし読めているが、薫に解説してやる親切心を縁は持ち合わせていなかった。生意気な態度に張り合う気持ちもある。
「たしかに一人暮らしって大変だけど、なんでも自分でしなきゃいけないから、前よりもしっかりしてきたなって気がするの。料理だって普通に作れるようになってきたし」
「一人で気負わなくていい」
 縁はかぶせるように言った。
「互いに協力しあうものだろ。変に遠慮なんかするな」
 自分で言った台詞に、縁は少し照れた。薫がちょっとからかうように笑っている。
「上海ももう夜よね。お仕事、大変なの?」
 薫が縁の手元を心配げにのぞく仕草をした。立体映像では手元まで見えないはずだが、作業をしているのに気付いていたようだ。気遣いは嬉しいが、薫と話しているのに仕事などするはずがない。
「もうすぐ終わる。丁度いい、ヘッドセットを用意しておけ」
「えー……」
「なんだ、また壊したのか」
「ちゃんとしまってありますよーでもどこにしまったか忘れちゃったなー」
「クローゼットの上の棚」
「なんでわかるの! こわい!」
 抗議を縁はきれいさっぱり無視した。
「次のお休みに、ちゃんと映画館に行かない? ポップコーン半分にして食べようよ、ね?」
「あんな遺物の中でよくじっとしてられるな。埃臭くて俺は嫌いだ」
「きらいとか言うな。映画は定番のデートだったの。懐かしさがあるからいいんじゃない」
「俺は懐かしくない。これから転送する、準備してこい」
「えー……んー……」
「ならクローンデータを適用していいんだな。たまには聞き分けの良いお前で楽しむのも悪くない」
「だめ、それは浮気!」
 声や姿は薫と寸分違わず同じだ。そもそも型通りの人形で遊ぶ趣味はないので、ただ言ってみせるだけなのだが、薫はいつも怒り出す。怒りかたは子供っぽく、ちっとも理屈に合わない。年下の恋人の焼きもちを十分に受けてから、縁は低い声でつぶやいた。
「二日もお前に会っていない」
 薫がわかりやすく赤くなった。
「まだ二日だよ?」
「もう二日だ」
「……さみしい?」
「ああ」
 縁の擦れた声に、薫はそっと目を伏せた。わずかな恥じらいをにじませた表情に、渇きはいよいよ耐えがたくなる。
「シャワー浴びてくるね」
 立ち上がりかけた薫の姿が消える。深く息を吐いた縁は、もう一度手元の設定を見直した。
 フラグ管理権限を実行者側に移し、再生時間と共感覚の上限も外してある。同期がズレなく処理されるよう数値も弄った。分類は明治時代、夏、夜景、ロマンス、ホラー。
 かなり内容を盛り込んでいるのがおかしかったが、大半が薫が好む要素だったので選んだ。ホラーについては、ちょっとした悪戯だ。数多くの映画がそうであるように、ヒーローとヒロインは大抵死なない。散々脅かしたところで結局二人は危難を逃れる。その程度だろうと縁は軽く考えていた。



 足元が揺れたのですぐ手を伸ばし薫を支えた縁は、自分達がやけに暗い場所にいるのに気付いた。設定が夜なのは知っていたが、それにしては暗すぎる。
「ちょっと変わった服ね」
 薫に言われて、改めて自分を見下ろす。橙の地に紺色の差し色が揃いの上着とズボンで、派手なのか地味なのかわからない。丸い眼鏡には黒いレンズがはまっていて、そのせいで視界が暗かったのだとわかった。
 仕事中は若く見られないよう度の無い眼鏡をかけるから、それが反映されたのだろうか。
 眼鏡を外してみてもまだ少し暗い。しばらくして、ようやく目が慣れてくる。
「へえ、似合ってるな」
「ん、ありがと」
 着物姿の薫がはにかみながら笑った。髪はいつも通り高いところで結んでいて、薄桃色の大きなリボンが揺れている。着物も同じく薄桃色で、桜の花びらが上品にちりばめられていた。桜というのが特に良い。薫にぴったりだ。
 登場人物を置き換えた中にいても、ほぼ自由に動けるよう可動域を増やしている。思うままに温かな細い体に腕を回すと薫の肌の匂いが間近に感じられる。心もち顔を上げた薫に唇に寄せようとして、鳴り響いた低い音に、二人は顔を上げた。
 薫は縁から離れて、近くにあった障子の窓を開けた。水の流れる音がする。
 屋根が低いので縁は身をかがめながら薫に続いて外を見た。水面に花火と船影が反射し、川船が静かに河に浮かんでいた。再び花火が上がり二色三色と空を彩る。花火は今と比べると若干地味な色合いに思えたが、薫はうっとりと見惚れている。
「きれいね。見て、星も届きそうなくらい近いの」
「星?」
 濃い夜空に青白い星が数えきれないほど広がっていた。花火の合間に、星は揺らぎながら光っている。
「確かによく出来てるな」
「それだけ?」
「お前が好きそうだ」
「もう、全然わかってないなあ。こういうときはね、ちょっとでいいから……やっぱり、いい。けんかしたくないし」
 ごく率直な感想に、薫は納得がいかないようだった。縁の方を振り向かず座り込んで、夜空を眺め続けている。花火が終わっても、薫はまだ空を見上げていた。縁は薫のすぐ隣に長い足を片方だけ投げ出しながら座った。
 狭い船の中は、近頃は珍しい畳が敷き詰められ、布団が敷いてあるだけの簡素な造りだった。だが川の流れに合わせて揺れが伝わってくるし、船が水を切る音は心地よく、かなり細かく作り込まれている。布団の横に置いてある細長い包みだけが若干不似合いだった。軽く薬指を曲げて情報を掌の上に呼び出すと、中にあるのは刀だとわかる。読み進めようとすると薫がのぞきこんできたので、手を閉じた。
「どんなお話なの?」
「知らないほうが面白いだろ」
 頬を引き寄せ吐息を奪うように口付ける。薫が少しずつ体を預けてくれる感覚に、体を流れる血が熱くなっていくのがわかる。だがすぐに途方に暮れた。
「……どうやって脱がせばいいんだ」
 何度かまばたきした薫が、ころころと笑い出した。
「やめろ、笑うな」
「だってすごく深刻そうな顔してるから」
「わからないものは仕方ないだろ。どういう仕組みになってる」
 まだ笑いながら、小さな手がなぐさめるように縁の頬に触れた。細い人差し指で縁の唇をちょっと押さえて、静かに立ち上がった薫は、縁には固くてどうしようもなかった帯をするりとほどいた。ゆっくりと着物を床に落としていく薫から目が離せない。美しい一枚絵が動いているようだ。半ばぼんやりしながら眺めていると、白い下着のような格好になった薫が、胸元を押さえた。
「そんなふうにじっと見ないで……恥ずかしいよ」
 言葉の終わりは聞き取れなかった。きつく抱きしめた小さな体が爪先立ちになる。温かな体を置くところを手で探しながらそっと横たえた。掌全体でやわらかな胸、細い肩、熱い頬に触れていき、大きなリボンを取り払うと長い黒髪が自由になる。自分の服を脱ぐのにも若干手間取ったが、肌を合わせると目がくらむほど気持ちよかった。絡ませた指に力がこもる。閉じられた膝をこじあけながら、縁は熱い息を吐いた。
「共に来い、離れるな。お前はもう俺のものだ」
 台詞のはずなのに、しっくりくるのが奇妙な感じだった。
「離れたくありません。このまま朝が来なければいいのに」
 耳に届いた切なげな声を縁は一つも聞き漏らさなかった。次第に船の揺れも気にならなくなり、縁の意識は薫にだけ注がれた。
 船が河岸に着いた。夜明け近くらしく、障子の向こうの色合いがちゃんと変わるのも凝っている。
 腕の中で目を閉じた薫の体温を感じながら、縁は傍らに置いてある刀を確かめていた。
 仮想現実は感情を同調させるまでに至っていない。だから主人公である自分の次の行動は全く読めなかった。
 安らかに眠っている薫の額に口付けると、場面が変わった。
 だらりと下がった片腕が重いものを握っている。
(なんだ?)
 手にぬるりとした感覚があった。鼻をつく生臭さに縁は顔をしかめる。目を落とすと先程よりもずっと広い畳の部屋にいる。足元には目を見開いた子供の死体があった。顔は弥彦だった。敷居際には這って逃れようとしたのか血の跡が伸びている。着物姿の女が肩から腰まで斬られて倒れていた。横顔は薫の母親のものだった。
 状況を把握するのに時間がかかった。外で軽い足音がして振り向いたときには、朝の光の中に薫がいた。
「見るな、接続を切れ、早く!」
 叫んだが薫には届かなかったらしく、真っ白な顔で惨劇を見つめている。薫が膝から崩折れた近くには、片腕を切り落とされた薫の父親が仰向けに倒れていた。共通意識が反映されているのは確かめるまでもなかった。
 すぐに強制終了をかけようとしたが、権限を等分したせいで薫側が操作を受け付けない。
 縁はヘッドセットをかなぐり捨てた。手順を踏まず切断したせいで神経が体に戻るまで一瞬間があり、言いようのない気分の悪さがある。飛び起きると机の上の二つのモニタに目をやった。縁の姿のまま映像が続いている。体の半分以上を血に染めながら薫に近づき、縁の声で語りかけている。
『かわいそうに、見たくなかっただろう。だがこれでお前を煩わせるものは無くなった』
 台詞から主人公が薫を殺さないことだけはわかった。横目で見ながら薫のデバイスに接続する。権限を書き加えるのに五分ほどかかってしまった。外部からなので五感の同期を一つずつしか解除できない。視覚、聴覚、触覚……全部が生身の薫に戻ったことを示す数値になるまで更に四分かかっていた。
「薫、薫!」
 応答がない。立体映像に何も映らないのを見て、縁は蹴飛ばす勢いで席を立った。



 最終便で日本に着いたのは日付が変わった頃だった。移動している間もコールし続けたが繋がらない。
 映像ほどに現実の時間は経っていなく、二人が観ていたのは一時間もなかった。薫だけが少し長く観た続きは悪態をつきたくなる内容だった。
 家族を奪われた薫は縁に連れ去られ監禁される。主人公は本来なら成就しないはずの恋を残忍な手段を用い叶えた。
 ヒーローが罪を犯すこともよくある。そこまで思い当たらなかった自分の迂闊さにむかついた。
 本来なら作り物だとすぐにわかるが、感覚を現実に寄せすぎたせいで、鼻の粘膜にまだ生臭さが残っている気がした。
 静脈認証の数秒ももどかしい。きちんと整えられた玄関で靴を脱ぎ捨てると、迷いなく寝室に入る。部屋は見慣れた通りで、よく片付いていた。一人で寝るには大きいベッドで薫は眠っていた。肌掛けに隠れた胸が規則正しく上下している。傍に腰掛けても起きる気配がない。ほっとする気持ちと脱力したい気分を抱えながら、縁はヘッドセットを外してやった。長い睫毛がかすかに震えたが、やはり起きない。寝顔はあどけなかった。
「お前が怯えて泣いているんじゃないかって、大急ぎで帰ってきたんだぞ」
 口調がつい愚痴っぽくなる。
「心配いらなかったな。大体、図太いお前がめそめそするはずない。なんで俺はあんなに焦ったんだろうな」
 二人遊びにふけるのが、縁は嫌いではない。だがこうして薫に触れられる距離にいると、いかに物足りなかったかよくわかる。いくら感覚を繋いでも、離れているのに変わりない。
「悪いな、情緒的なことは苦手だ。星がどうとか言われても正直返事に困る。まあ、お前が好きなら付き合ってもいい。本物の名所を調べておく」
 一人で喋りながら縁はだんだんおかしくなってきた。髪をひとすじ掬ってみるが、薫はあいかわらず無防備だ。これでは一人暮らしが危ないと弟に叱られるのも無理はない。
「ああくそ、疲れた。おい、俺も寝るから少しよけろ」
 押しやろうとすると、すいと細い肩がすくめられ、笑い声がした。
「図太くないといろいろ大変なの。怖い映画はやだって言ってるのに、聞いてくれない誰かさんみたいな人がいるし?」
 くすくす笑いながら、縁のほうへ薫が手を伸ばす。小さな手をやわらかく握りながら血が薄く透ける手首に唇を寄せた。
「嫌なら最初から断れ」
「ふうん、黙ってたわりに反省の色がないみたいだけど」
「……悪かった」
「よし、ゆるしてあげる。気にしないで、私もちっとも気にしてないから」
 薫はふわりとほほえんだ。
「いきなり帰ってきてるからびっくりしちゃった。映画だってちゃんとわかってるよ? 途中で真っ暗になったなあって思ったらそのまま寝ちゃってたし」
「冗談にするにも度が過ぎていた」
「ん……」
 繋いだ手に力がこもる。作り物とはいえ怖い思いをさせた。苦い後悔が胸を占めている。
「あのね、ああいうこと、つまり、二人でいっしょに観る映画のことなんだけど」
 言いづらそうな薫に、続きを促すように縁は小さな手を握り直した。
「私、あんまり好きじゃないみたい」
「馬鹿だな、なんで早く言わなかった。お前に無理強いするつもりは」
「話は最後まで聞く! ついさっき気が付いたの、十秒くらい前!」
 二人は同時に息をつき、視線を交わした。
「お仕事のときも会えるし、いつも私の好みを考えてくれてたし、あと、き、気持ちよくし……待って最後のは無し聞かなかったことにして」
 忙しなく表情が変わる薫に、縁はとりあえず頷いてやった。子供みたいな言い合いはしたくない。
「間違えないでほしいんだけど、好きじゃないと嫌いは同じ意味じゃないの。わかる?」
「わかった。それで、俺にどうしてほしい」  
「そうねえ。まず仕事を放り出すのはよくないわ、公私はちゃんと分けないと」
「お前が大事だ」
 縁の声が熱を帯びる。
「嫌がることは何一つしたくないし、なんだって聞いてやりたい。映画館に行くのもいいが、たぶん、それじゃあ違うんだろうな。俺はお前から奪ってばかりいる」
「若いなあ。真面目すぎもよくないよ」
 初めて会ったとき、一方的に声をかけられただけに近く、名前も聞かなかった。聞けるだけの余裕が縁にはなかった。明るい少女の声が、荒んだ気持ちをなだめてくれていたと気付いたのは、しばらく経ってからだった。
 今、薫は目を細めて、縁の手をゆっくり揺らしている。
 あやされているようで気恥ずかしさがあったが、不思議と落ち着く。
 焼けつくほどに手に入れたいと思うのは、こういう薫だと何度も気付かされる。自分を抑えきれずめちゃくちゃに愛しても、華奢な体は一生懸命受け入れてくれた。愛し方は他にもあるはずなのに、縁はまだはっきりと掴めないでいる。やさしい少女を思いきり愛したいという思いが強すぎるのだ。振り返ってやらなければと頭ではわかっているのに、自分だけのものにしたくて、欠片でも分けるのが嫌で、片時も離したくない。
 薫はそっと縁の手を持ち上げ、やわらかい頬を寄せた。
「離れたくない、朝が来なければいいのに」
 映画の中で聞いた台詞だとすぐ思い出した。意味を読み取ろうと、大きな瞳を見つめる。
「自分が言ったみたいでびっくりしちゃった。起きたとき、隣に縁がいないのがさみしいから、つい口に出たのかなって」
 心の底から愛しさがあふれて、どうしようもなかった。唇を重ね甘さを存分に味わったあと、縁はこらえきれずに笑い出してしまった。
「それで好きじゃない、か。お前が本気で嫌がってるならやめるつもりだったがやめた。絶対に断らせないからな」
「もう、ほんと勝手なんだから。私はどうでもいいわけ?」
「違うな、薫以外がどうでもいいんだ」
「……ばぁか」
「さて、どうするかな」
「なにを?」
「公私を分けろと言っただろ。お前が言うからそうする。だがお前を一人にもしたくない」
「ならお願いを聞いてくれる?」
「どうしてほしい」
「そんなに難しいことじゃないの。ただ、ぎゅっとしてほしいなって」
 縁は少し考え込んだ。いつもとどこが違うのだろう。だが薫が言うのだからいつもとは違うのだろう。
 立ち上がり、着替えるためにクローゼットを開ける。ひと揃い置いてあるはずの寝間着の上がなかった。薫が起き出すと寝室も自動的に明るくなる。
「お茶入れよっか?」
「いやいい」
 近寄ってきた薫を振り向いた縁は気付いた。まじまじと見ていると、薫も気付いて顔を真っ赤にし、明らかに大きすぎる縁の寝間着の裾を引っぱった。
「やだ違うの、たまになのよ、いつも借りてるわけじゃなくてちゃんと洗濯だってしてるから……ごめんなさい」
「別に謝る必要はないだろ。好きにしていい」
「でも着替えがないでしょ」
「なくても寝られる」
「怒ってない?」
「なんで怒らなきゃいけないんだ」
 軽く言いながらある分だけ着替える。薫がこちらを見ているのはわかったが、あまり視線を向けないでもらいたかった。いや、薫は悪くない。引き締まっていながらやわらかそうなふくらはぎや、ほとんど袖に隠れた指先が目の前にあると、妙な雑念がわくから悪い。これは、なんというんだろう。小さくていたいけな生き物はどう呼ぶんだったか。なにしろ突然目の前に現れたから、咄嗟に言葉がでてこない。
「やっとわかった。たまにいい匂いがしたのはお前が着ていたせいか」
「え、そう?」
 薫が自分を嗅ぐ仕草をしたのに、頭を殴られたみたいになる。単純でわかりやすく表現できる概念があるはずだが、まだ思いつかない。
「縁の匂いしかしないよ」
(くそ、可愛い)
 額を押さえながら深々と長々と息を吐く。思い出した。薫は可愛い。ちょっとした仕草や表情がいちいち可愛く、目を引く。
「借りちゃってごめんね、これ着てると安心できるんだ。縁がすぐ近くにいるみたいで」
「やめろ、頼むからあんまり煽るな」
 これ以上は見ないほうがいい。先に薫をベッドに戻してから、色々な雑念を振り払った。衝動的な欲は念入りに捨てた。可愛いお願いに含まれていないとよくわかっていた。
 隣に潜りこみながら、そっと薫を抱き寄せる。しばらく寝心地を確かめるようにしていた薫が、縁の肩に額を寄せた。
「これでいいのか?」
「うん……あとは、あとはね、私が寝るまで私のことだけ考えて」
 思いがけなく切ない声だった。
 体を寄せてきた薫の小さな頭を抱いてやると、安堵するような溜息が聞こえた。部屋の中は薄暗さが戻っている。少しずつ力が抜けていき、すっかり縁に預けきるまで、そう時間はかからなかった。
 ただ抱きしめながら、縁も目を閉じた。親鳥の羽の下にいるように安心して眠っている薫の寝息を聞きながら、見つけたばかりの愛し方を胸の中で確かめていた。