(ちゃんとした指輪はいるよな……いや、むしろ俺に必要なんだ)
 ハリガネで作られた指輪を掌の上で無心に転がしていたルーファスは、ふと視線を上げた。
 軽装に着替え台所に立つアリーシャが口ずさむやさしい歌はどこか懐かしいようで、はるか遠くの思い出せない場所で聞いたような気もする。
 二人きりの、初めての夜だ。思い切りアリーシャを愛そうと決めていたルーファスは、ちょっと肩すかしをくらったかんじだ。けれどもアリーシャが楽しそうなのは、ルーファスにとっても嬉しいことだ。この世界でたった一人の、何よりも愛おしい少女の小さな背中を見つめる瞳はどこまでもやさしい。
 けれども健気な我慢は、甘い香りが一際強くなったところで、ゆるんでしまった。音もなく立ち上がったルーファスは、数歩の距離を一息に詰めた。するりと自然に細い腰に腕を回すと、かわいい悲鳴が上がった。
「おじゃまして申し訳ありませんが、それは何の準備なんでしょうか、奥方殿」
「もう、ルーファス! いきなり驚かさないで。ひっくり返しちゃうところだったわ」
「はいはい、悪かったって。で、その鍋は旦那の俺を放っておく以上に大事なものなのかよ?」
 アリーシャが熱心に煮詰めている胴鍋を覗くと甘ったるい匂いが鼻を刺激する。砂糖もたっぷりつかったのだろう、アリーシャがさじでくるりと回すと、出来たてのジャムはとろりと形を変え、ゆっくりと平らに戻る。
 ひとすくい分をふうふうと冷ましたアリーシャは、人差し指に一口分をとり、ルーファスの口元に運んだ。
(え? は? なんだこの状況??)
「早く、こぼれちゃう」
 急かされたせいでよく考える暇もなく細い指を口に含んだ。濃い甘さの中にほんのりと甘酸っぱさが残る。
「ルーファス、前に木苺が好きだって言ってたでしょ? だから朝食にどうしても間に合わせたくって」
(いや今ので全部忘れたぞつーかいつ言ったんだ俺)
「……いまいち、だった?」
「あ、いや、丁度良い味だと思うぜ。うん、うまいよ」
「ほんとう? よかった」
 アリーシャは指に少し残ったジャムを舌ですくいとって、小さな肩をすくめた。
(いやいやいや、おいおいおいおい)
「何度も味見してるからかな、味がわからなくなってきちゃって。でもルーファスが確かめてくれたから大丈夫ね」
 そんなことよりも、アリーシャのこの堂々とした態度のほうがわからない。
 運命の女神が記した証明書の副作用かなにかだろうか、とルーファスはごく真面目に考え込んだ。
 かまどの火をくずし乾いた布巾の上に胴鍋を乗せながら、アリーシャは頭ひとつ分高いルーファスを見上げた。
「あの、えっとね、ごめんなさいルーファス、ちょっと動きにくいんだけど……」
「あ、ああ悪い、ちょっと魂が抜けかけてた」
「え?」
「言い間違えた、ちょっとぼうっとしてたんだ。他意はないんだ、うん、きっとそうだ、そうに違いない」
 もごもごと口の中でつぶやきながら、ルーファスは先程腰掛けていたソファーに戻る。
 二人分のパン種をまとめたり作りたてのジャムを瓶に詰めたりとアリーシャの動きはこまねずみのように忙しない。やっと一段落ついたところで、洗った手を真新しいエプロンでふくと、ゆっくりとこちらを向いた。新雪のように白い頬が、わずかに赤く染まっている。
「あの……ルーファス?」
「ん、どうした?」
「あの、あのね、その、そ、そっちにいってもいい?」
 アリーシャの視線はルーファスが腰掛けているソファの空いている場所を見つめている。
(……そこは恥ずかしがるのか)
 それはそれで、ルーファスがいくつも抱いているアリーシャの愛おしい部分の一つなのだが。
「今更遠慮なんかするなよ、俺たちは夫婦なんだ。大体俺にことわる必要だってこれっぽちもない、だろ?」
 朝日を受けた花のような笑顔で、アリーシャが駆け寄ってくる。途中、慌てながらエプロンを外して、つややかな髪を直す仕草の中に、赤く染まった耳がちらりと見える。少しだけ隙間をあけて腰掛けたアリーシャは、うれしさを抑えきれないように、ルーファスを見上げては、また頬を染める。
(あーくそ、かわいい)
 思わず天を仰ぎ額に拳を当てる。世の男が伴侶を求める理由が、やっとわかった気がする。これほど愛おしく思える存在があるだろうか。どんな脅威からも守ってやりたいという想いと、めちゃくちゃに愛してやりたいと相反する衝動が沸き上がって止められない。人という名の獣とはよく言ったものだ。
 ひとまず息をつき、ルーファスはアリーシャの肩に腕をまわした。緊張しているのか、アリーシャの体が小さくぴくりと跳ねた。そんな様子も愛らしくてたまらなく、ルーファスの声は自然と優しくなる。急かすような真似は欠片だってしたくなかった。
「まったく、すごい一日だったな。疲れただろ? 俺がついてれば指輪だって奪わせなかったのに……心細い思いさせてごめんな」
「でも指輪を忘れなければルーファスにもシルメリアにも迷惑はかけなかったわ。私こそ、ほんとにごめんなさい」
「違うだろ。全部、圧倒的に、間違いなくあの獣共が悪い。あいつらのせいでアリーシャの花嫁姿を一番最初に見られなかったし……はあ、一生の不覚だ」
「え? でも、仮合わせのときには一緒だったじゃない」
「それはそれでまた別。あれはあくまで仮で、本番は全然違ったんだ。あんなにきれいなアリーシャが、他でもない俺の花嫁なんだって、俺自身が信じられないくらいだった。百輪の薔薇よりも山ほど積まれた宝石よりも美しいものがこの世にあるんだって、アリーシャを見て初めてわかったんだ。はは、おかしいだろ、普通にしてた振りして実は緊張してたんだ。アリーシャには俺なんかより相応しい男がいるんじゃないかってびくついたりな。ほんと、俺にはもったいないくらいきれいで――まぶしかった」
「そんな、わ、私、そこまで褒めてもらえるほどじゃ……」
「うん、そうだな。ごめん、確かに俺の言葉じゃ全然足りないな」
「そ、そうじゃなくて! 私なんかより、ルーファスのほうがすてきだったもの!」
 アリーシャはちょっと混乱しながらも必死に伝えようとした。
「あのね、ルーファスは背が高いから何を着ても似合うんだなあって、昔読んでもらった絵本の王子様ってきっとルーファスみたいなんだろうなって……あ、違うの、いつものルーファスが王子様らしくないってことじゃないのよ、いつだって優しくて頼りになる、そう、騎士様みたいで……おかしいの、ルーファスはいつも傍にいてくれたのに、なんてすてきな人なんだろうってすごく胸が苦しくて……そう、だから落ち着かなかったんだわきっと」
「……頼むアリーシャ、もうそれくらいにしてくれ。じゃないと俺、ぶっ倒れちまいそうだ」
「あ、ごめんなさい、ルーファスの方が色々大変だったのに私ったら」
「いや、全然体力的には大丈夫っていうか……そうだな、もうちょっとこっちに来てくれたら平気になるかも」
「え、あ、あの、こう?」
 小さな体がそうっと距離を詰める。ジャムの香りとは別の、アリーシャの甘い香りがかすかにする。絹糸のような髪を一房とり、そっと口付けると、アリーシャはまた頬を染めた。そういう表情が、どれほどルーファスに幸福感を与えてくれることだろう。
「なあ、ごめんはもうやめよう。一生の記念になる一日だったんだ。お互い謝ってばかりじゃ変だろ?」
「うん……」
「でもなあ、やっぱり邪魔されたのは悔しいな。あいつら、今度見かけたら絶対仕留めてやる」
 意気込むルーファスがおかしかったのか、アリーシャはくすくす笑いながら首を振った。
「いいの、もう忘れちゃった。だってルーファスが傍にいてくれるから私は幸せだもの。誰よりも幸せな花嫁になれたのはルーファスのおかげよ」
「ほんとかよ?」
「ほんとうよ。誓うわ、嘘じゃないって」
「んじゃあ、もう一度?」
 うんうんとしっかり頷くアリーシャに微笑み、軽く声を整えたルーファスは、覚え込んだ宣誓を繰り返す。
「運命の女神に誓い、晴れてこの日より汝らは夫婦となり、健やかなるときも病めるときも……」
 アリューゼよりよほど牧師らしく朗々と言うルーファスに、アリーシャも続けた。
「富めるときも貧しいときも、私はあなたを夫とし、支え合うことを誓います」
「そして俺は、君を妻とし一生をかけて愛することを誓います」
「あ、ルーファスったらずるい、私だってあ、愛することを誓います!」
 アリーシャが言い終わると壁掛け時計が日付が変わったことを報せたので、同じタイミングで二人は吹き出した。ひとしきり笑い合うと、そっと唇が近づいていく。かるく、小鳥がついばむようなキスに、アリーシャの小さな手が行き場を探しておろおろとさまよっている。ルーファスは迷子になっていた左手をとり、細い指にはぶかぶかの紅玉の指輪を見つめた。
「私たちの幸運のお守り、盗まれなくてほんとによかった。とても大事なものだもの」
「うーん、それはそうなんだけど、な」
「……結婚指輪にするの、ほんとはいやだった?」
「ああ待った待った、それはまったくないぞ。でもなあ、男ってどうしようもない生き物なんだよ」
 ブカブカのミュリンの指輪はするりと簡単に外れる。掌に転がる指輪は一つきりだ。
「なあアリーシャ、やっぱり指輪は用意したいんだ。俺は、俺と君の指輪がほしい」
「それならルーファスがその指輪をつけてていいのよ。ほら、私はすぐ転ぶから何度も失くしかけてるし……」
「大丈夫だ、転ぶ前に俺が必ず支えるから。あー、でだ、問題はそこじゃなくて」
 ごそごそとポケットからハリガネの指輪を取り出す。小さいのはもちろんアリーシャの、一回り大きいのは自分の指に合わせてルーファスが作ったものだ。とても結婚指輪とはいえないちゃちな作りだが、ちゃんと二つ揃っている。
 アリーシャの空いた左手の薬指にそっとはめ、ルーファスも同じくつける。不思議そうに見上げてくるアリーシャに、ルーファスは悪戯っぽく笑いかけた。
「同じ指輪をつけていれば、俺たちが夫婦だって誰が見たってわかるだろ?」
「うん……?」
「だからつまり、アリーシャは俺のもの、俺はアリーシャのものだって世界中のやつらにわからせたいんだ。同じ指輪をしていれば、俺たちが夫婦だってことをいちいち説明するなんてまだるっこしいことは抜きにできる。その上でミュリンの指輪をアリーシャがつけてくれたらいい。な、一石二鳥だろ?」
 けれど、アリーシャの反応はごく薄かった。
(さすがに大げさだったか……?)
 幼さの残る碧玉の瞳はハリガネの指輪を穴が空きそうなほど見つめ、胸の前で右手を堅く握りしめている。
「アリーシャ?」
 はっと顔を上げたアリーシャは、幼い子どもが初めて見つけたものに夢中になっていた、という表情だ。
 きちんと伝わらなかったのだろうかとルーファスは段々心配になってきた。
「なあ、アリー……」
「もう一度言ってルーファス、お願い」
「ん、ああ、だからミュリンの指輪は」
「ちがうの、もっと前のところ、同じ指輪をしていなきゃ、私、私たちが……」
 言葉が上手くでてこないのがもどかしそうに、アリーシャはルーファスの胸にすがりついた。
「みんなには、私たちが夫婦だってわかってもらえないの?」
 声が震えている。そっと小さなあごを持ち上げると、今にも泣き出しそうな瞳がルーファスをしっかりととらえた。この表情に、ルーファスはものすごく弱い。力加減なんか考えずに抱きしめたくなる。けれど先にアリーシャの質問に答えなければと、かすかに残った理性をかき集める。
「まあ、そういう可能性もあるかもな。俺より見てくれのいい男なんていくらでもいるし、そいつがアリーシャに声をかけてきたっておかしくないだろ?」
 アリーシャが珍しくむっとしたのがルーファスにもわかった。
「私、もう子どもじゃないわ。『うわき』なんか、絶対にするはずない」
「……どこで覚えたんだそんな言葉。あー悪い、悪かったってば、怒らせるつもりはなかったんだ」
「べつに、怒ってない」
「こんなすねた顔をしているくせに?」
 ふいと顔をそらそうとするアリーシャの両頬に手を添え、自分の方を向かせるのに、さほど力はいらなかった。アリーシャの抵抗があまりなかったからだ。ルーファスを見つめる瞳は相変わらず濡れているのに、乾いたばかりの雛の羽毛のようにやわらかい唇だけが、一本に結ばれている。この顔にもルーファスはてんで弱い。
 喉の奥で笑いながら、額を合わせる。伝わってくるアリーシャの体温が暖かい。小さな額の奥はきっと、他でもない自分たちのことで、頭をいっぱいにしていることだろう。
「だからさ、もしそういう事があったとしても……同じ指輪がアリーシャの全部を、この肌も唇も、髪の毛一本だって俺のものだってことを証明してくれる。誰にも触れさせない。この世界でアリーシャを愛していいのは俺だけだって」
 低くやさしい声に促されるように、アリーシャの頬に添えられたルーファスの手に重なる。子どもの体温みたいに熱かった。
「だから俺は同じ指輪が欲しい。俺の身勝手でしかないけど、どうしても必要なんだ。嫌か?」
 ゆっくりとまばたきしたアリーシャの柔らかい頬にキスを落とすと、細い吐息がルーファスの首筋をくすぐった。
「アリーシャ、返事を聞かせてくれ。アリーシャはどうしたい?」
「うん、私もルーファスと同じ指輪がいい」
「そっか、よかった……嬉しいよ、すごく」
「ごめんなさい。知らなかったの、結婚指輪にそんな意味があるなんて。ミュリンの指輪は一つしかないのに私、一人で舞い上がってて……ほんとにごめんなさい……」
 すねたりしょんぼりしたり、忙しないことだ。ルーファスは喉の奥でかるく笑った。
「こーら、ごめんは無しだってさっき決めたろ? 俺は君が決めたことなら喜んで受け入れる。けど今更同じ指輪が欲しいなんて言い出したら君を責めているように聞こえるんじゃないかって……心配だったんだ」
「そんな、思うはずないわ。ルーファスが誰よりも優しいこと、よく知ってるもの」
「じゃあ、わがままな男だってことも知ってもらえたらありがたいんだけど」
 アリーシャの小さな手に、力がこもる。
「わがままなんかじゃないわ。ルーファスがそう言ってくれて、すごく嬉しい。いつも助けてもらって、頼ってばかりで……だから、ルーファスのお願いを叶えてあげられるのがほんとうに嬉しいの」
「……お願い、か。一応確認するけど、そんな生易しいもんじゃないぞ」
 そうなの? と首をかしげたアリーシャは、いきなり強い力に引っ張られた。息が止まるくらい抱きしめられ、アリーシャはびっくりしたせいで反射的にもがいたが、ルーファスの瞳に深く射貫かれるように見つめられ、なぜか抵抗できなくなった。
 ルーファスがゆっくりと優しい口付けをすると、アリーシャも安心したように目をつむる。親鳥の羽の下にいるようにアリーシャが体の力を抜くのを確かめてから、ルーファスは腕の力を抜いた。ルーファスは右手で黄金色の髪をゆっくりとすき、やわらかい頬を指の背でなぞると、アリーシャはくすぐったそうに小さく笑う。左腕で小さな背中を支えながら、ソファに横たえる。一連の動作はごくゆっくりと行われ、けしてアリーシャを驚かすようなものではなかった。それどころか、改めてルーファスに新しい驚きを与えていた。
(華奢だな……)
 こんなに小さな体で、どうやって剣を握ることができたのだろう。これではミュリンの指輪がブカブカなのも仕方ないと思いながら、自分と、アリーシャの左指のハリガネの指輪を外す。あっとアリーシャが慌てた。
「新しい指輪ができるまでそれをつけてちゃだめなの?」
「だめだ。俺はいいけど、アリーシャが傷付くかもしれないからな」
「傷付く? どうして?」
「今からわかるさ……言っただろ、生易しくないって――たぶん、もう抑えきれない」
 いつものルーファスとは違う低い声が体全体をなぞっていくような気がして、アリーシャは息を呑んだ。ルーファスの両腕が顔の両側を囲むようにしているのも、初めて気付いた。
「ルーファス……?」
 有無を言わさずルーファスはあごを押さえ、二人は初めて深いキスをした。
 舌を絡ませると甘酸っぱい味が伝わってくる。先程アリーシャが作っていたジャムのせいだろう。明日の朝ご飯を先に味わってしまったことを、ルーファスはちょっぴり後悔した。きっとアリーシャも同じくらいはじめての夫婦の朝に憧れているはずだ。だがもう止めることは出来ない。想像していた以上の感覚が背筋から頭へ登ってくる。しびれるようで、それでいて神経の全てがアリーシャを求め急かしてくる。柔らかい唇の中は暖かく、小さな舌の拙い動きが愛おしくてたまらない。何かを伝えようと、アリーシャの小さな手がルーファスの服を引っ張った。すぐに察し、唇を離す。大きく息を吸ったアリーシャの頬は木苺よりも赤く染まり、互いの唾液で濡れた唇は幼い顔立ちに似合わぬ色気を与えている。アリーシャの息が整うまで待とうとしたルーファスを誘っているようだった。潤んだ瞳の近くから、熱っぽい頬から唇の傍へ、それから細い首筋へと唇を落としていく。
「や、ルーファス、ルーファス……」
 アリーシャの切なげな声がすぐ近くで聞こえる。潤んだ瞳からこぼれた涙を親指の腹でぬぐってやり、応えるようにルーファスは再びキスをした。細い腕がルーファスの首に回される。こんなねだるような仕草をされてはたまらない。ゆっくり体をずらしながら、アリーシャの小さな背中と膝裏に腕を回し、軽々と抱き上げた。
「あ……」
「続きは寝台の上でだ、ここじゃ狭くて動きづらい。……けど嫌なら言ってくれ、やめるから」
「そんな、こと聞かないで……ずるい」
 ぎゅっと首にすがりついてきたアリーシャの髪に口付けながら、寝室の扉を器用に足であける。夫婦用の新しい寝台には白いリンネルのシーツが敷かれ、軽い羽毛の詰められた上掛けがかけられている。二人で暮らしていくために、二人で選んだものだった。
 そっとアリーシャを寝かせると、恥ずかしそうに乱れた髪を直しながらアリーシャは寝台の上で座り直した。
 隣に腰掛けたルーファスは、優しい瞳でアリーシャをのぞき込んだ。自分の内にこもった熱を吐き出してしまいたい。けれどアリーシャに無理強いするつもりはなかった。アリーシャにとっての『優しい』ルーファス以外の面を見せるのが、少しだけ怖くもあったのだ。
「明日も明後日も、ずっと俺たちは一緒だ。だから急がなくてもいい、と俺は思ってる。アリーシャの気持ちが固まってからでも……」
 言い終わらないうちに、アリーシャがルーファスに勢いよく抱きついてきた。けれど目を合わそうとはせずに、片耳をルーファスの胸にぴったりとくっつけて、それから動かなくなってしまった。
「こうしてるとわかるの、ルーファスがすごくどきどきしてるって」
 アリーシャはようやく体を離すと、今度はルーファスの腕をとって、左胸のほうへ導いた。やわらかい感触とやや高めの体温、それから早い鼓動がルーファスの手に伝わってくる。驚いて手を引こうとしても、アリーシャは頑として離さなかった。
「私も同じ……すごくどきどきしてるの、わかる……? たぶん、ルーファスと同じだと思うの、だから……」
 ぽうっとアリーシャの頬が赤くなる。それ以上言わせる前に、ルーファスは掴まれていないほうの指でやわらかい唇を押さえた。
「……同じならいいなって、俺も思うよ」
 二人は示し合うこともなく互いの体に腕を回した。ああ、ほんとだとルーファスは思う。鼓動が重なって耳に響いてくる。心地良いのに、飢餓感にも似た感覚が強くなる一方だ。服が鬱陶しい、この小さな体の全てに触れたい。
 柔らかい髪に顔を埋めると、ルーファスは熱っぽい声で呟いた。
「俺は君が欲しい、君の全部を俺のものにしたい。たぶん、手加減なんかできない。それでもいいのか?」
 アリーシャが上を向くと、不安そうなルーファスの瞳がそこにはあった。そんなルーファスが可愛くてたまらなく、アリーシャは少し背伸びしてルーファスに口付けた。
「うん……私をルーファスでいっぱいにして。好き、大好きよ、ルーファス」
 耳の奥がじいんと痺れて、ひどい目眩がしたような気がした。だがそれも一瞬で、ルーファスの体は勝手に動いて、アリーシャを組み敷いていた。細い手首を押さえつけ、やわらかい唇を奪いながら、暖かい肌を求めて手が動いている。服を脱がすのももどかしく、ほとんど力任せにずりあげ、あらわになった白い肌に唇を這わせ、掌全体で触れてはそのやわらかさを確かめた。白い素肌はしっとりと手に吸い付いてくる。どこもかしこも触れないと気が済まない。なだらかでやわらかい下腹のほうへ手を伸ばすと、アリーシャが小さく声を上げた。
「や、待って、ルーファスも……」
「ん?」
 体を起こすと、目の前の光景にルーファスはくらりとした。
 アリーシャの服はほとんど脱げかけ、ほの明るいランプに照らされた肌は汗ばみ、髪は乱れ散らばっている。
 陶酔したアリーシャの瞳はルーファスの男としての本能を否応なく刺激した。けれど、アリーシャが何か言おうとしている。
「どうした?」
 急ぎたがる自分を精一杯抑え、やさしい声で尋ねる。アリーシャは言いにくいのか、視線をさまよわせながら、ようやくルーファスのほうへ手を伸ばした。すぐにその手を握ったが、アリーシャは小さく首を振った。
「やっぱり嫌ならやめ……」
「ちが、ちがうの……私、もルーファスに触れたい……」
 頬が赤く染まり、恥ずかしさからかぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。ようやく理解したルーファスは急いで服を脱ぎ捨てた。改めてアリーシャを抱きしめると、安心したような溜息が聞こえた。
「あったかい……」
 子どものように体ごとすり寄せながら、アリーシャの口からほろりと言葉がこぼれ落ちた。
 でも、こちらはちょっと足りない。ルーファスは器用にアリーシャの背を浮かせながら、残りの服を脱がせにかかった。少しだけ抵抗があったが、その度に額や頬に口付けた。ごまかすにしてはけして上手くないやり方だが、さほど時間もかからず、二人とも生まれたままの姿になれた。
 改めてアリーシャを抱きしめると、思わずルーファスも同じ言葉を呟いていた。
「ほんとだ……あったかいな」
「うん……」
 触れあった肌から互いの体温が伝わってくる。服を着ていたときよりも、ずっと暖かい。
 促されたような気がして、ルーファスは下を向いた。アリーシャもまた視線を上げ、ルーファスを見つめている。今度は急がずに、唇が触れるだけのキスをした。拙くもアリーシャも答えてくれる。うなじから肩、胸に細いあばらへ触れていくと、アリーシャのか細い声がよく聞こえた。その声をひとつひとつ拾いながら、ルーファスはゆっくりとアリーシャを愛した。体の奥にあった熾火のような熱さが、少しずつ増していく。だがもう急ぐことはなかった。やわらかい肌に触れ、また触れてもらいながら、ルーファスはアリーシャの全てに触れていく。
 そうして二人はひとつになった。あらゆる物の存在は消え、けして離れないように寄り添いながら、魂が絡み合っていく。夜なのにちっとも寒くない。触れあうことで得られる暖かさが、こんなにも心地よいものなのだと、二人は生まれて初めて知った。

 左腕をアリーシャの頭の下に置きながら、ルーファスは大切なものを扱う手つきでやわらかい髪をすいていた。
「幸せって、こういうもんなんだな」
 ごく小さくつぶやいた一人言のつもりだったのに、アリーシャがぱちりと目を開いた。眠ってしまったと思い込んでいたルーファスはちょっとうろたえた。
「あーその、痛むとことかないか? って、俺が聞ける立場じゃないよな」
「そんなのどうでもいいの。ルーファス、さっきなんて言ったの?」
「……別に大したことじゃない、単なる一人言だ」
「私、いますごく幸せよ。ルーファスは?」
「はあ、まったく……俺の花嫁様にはかなわないな」
 小さな額に軽くキスを落とすと、アリーシャは目を瞑った。理性が飛んでいかないよう我慢していたのに、アリーシャにねだられたらどうしようもない。今度は唇に口付けると、アリーシャは短く息を吐いた。
「いま、幸せ?」
「うん、そりゃ幸せさ。君とこうしてるのが夢みたいだ」
「夢なんかじゃないわ。ほら、私はここにいるでしょう?」
 アリーシャの素肌をなるべく見ないようにしながらルーファスは上掛けを掛け直した。肩まで隠れてしまえば、ちょっとは心の余裕もでてくる。つくづく、男とはどうしようもない生き物だ。
「幸せって不思議ね。ルーファスが傍にいてくれるなら、それだけでいいと思ってたのに」
 アリーシャの大きな瞳はルーファスを見つめている。ほんの少し前まで幼さがあったその瞳は、ルーファスをぞくりとさせるほど美しい色を帯びていた。
「ルーファスが幸せだって言ってくれたとき、こんな私でもルーファスを幸せにできるんだってすごく嬉しかったの。だからもっと幸せにしてあげたいって――そうできたら、私はもっと幸せになれる」
 少し考え込んでから、アリーシャは不安そうに呟いた。
「でもそれは、結局自分が幸せになりたいだけなのかな。単に、欲深い人間なだけかもしれない」
 ルーファスは微笑んだ。アリーシャの謙虚さはよく知っているが、過ぎるのもよくない。
「いいんだよ、それで。アリーシャが幸せなら俺も幸せだ。つまり俺たちの幸せは同じってことだろ」
「けど、ルーファスだけの幸せは? なにか私に出来ることはない?」
「そうだなあ……こうしてるだけで充分幸せだな。もう一生分の幸せをもらったくらいだ」
「そんなはずない、ちゃんと考えて。きっとたくさんあるはずよ」
 あんまりに真剣なアリーシャに、ルーファスはこっそり笑っていたが、段々と声が大きくなって、とうとう笑い声が部屋中に響いた。
「わかったわかった。けどな、そういう相談は昼の明るいときにしようぜ。いいか、今は真夜中で俺たちは服を着てない。じゃあどうしたいかって男の答えは一つに決まってる。また君を抱いていいかってな」
 赤くなって体を硬くしたアリーシャを、ルーファスは先手を取ってすっぽり抱きしめた。
「ほんとうに、色々あった一日だったろ。疲れてないってのは無しな。目を閉じてみろ、きっとすぐ眠れる」
「でも……」
「じゃあ、君の寝顔を見たい。そしたら俺もすぐに寝るよ」
 納得いかないという顔をしているアリーシャの目を掌でふさぐと、ちょっとだけ抵抗があったが、すぐにかわいい寝息が聞こえてきた。あどけなさの残る寝顔を目を細めながら眺め、ルーファスも目を閉じた。
「幸せにしてもらったのは俺の方だ――愛してる、アリーシャ」  



 遅い朝の光が窓から差し込んでいる。昨日はカーテンを閉める余裕もなかったから、容赦なくまぶしい光がルーファスの瞼を開けようとしていた。腕の中にいるアリーシャを抱きしめたまま遅寝をしていたかったのに、起きざるを得なかった。
 そっとアリーシャの頭を枕に移し、寝台から抜け出す。懸念していたよりもアリーシャの眠りは深く、昨日の疲れを物語っていた。抑えていたつもりだが、少々無理をさせた自覚もある。
 ルーファスは音を立てないように身支度を調え、寝室のカーテンを全て閉め切った。まだアリーシャを眠らせてやりたかった。寝台に戻り、ごく静かに腰掛けると、華奢な女の子の寝顔を見つめる。屈託のない寝顔を見ていると、ルーファスの心はそれだけで暖まった。
 長い睫毛に彩られた碧玉色の瞳、閉じられた唇の柔らかさ、羽毛布団に包まれた肌のすべらかさ、それら全てで自分を受け入れてくれたアリーシャが愛おしくてならなかった。顔にかかった一筋の髪を元に戻してから、そっと額に口付ける。すると、もぞもぞとアリーシャが体を動かした。唇から寝言がこぼれ落ちる。
「ルー、ファス……」
(大丈夫、俺はここだ。絶対に君の傍から離れないから)
 自分の名を呼ぶアリーシャに胸の内だけで返事をしながら、ルーファスはまた感じていた。
 こうして傍にいるのは、アリーシャが求めてくれたからだけではない。自分もまたアリーシャと同じくらい傍にいてほしいと思ったからだ。それはけして一人が願うだけでは得られない、慣れていたはずの孤独を忘れてしまうほどに埋めてくれるもの。おそらく、幸せと呼ぶもの。
 ルーファスにとっては、目の前にいるアリーシャこそが幸せだった。周囲の者まで微笑ませる笑顔や憂いを押さえ込めない瞳のどれもがアリーシャであり、ルーファスに守りたいという気持ちを芽生えさせた。
 ――けど、ルーファスだけの幸せは?
(君が俺だけを見て、俺だけに笑いかけてくれて、俺の胸だけで泣いてくれたら……)
 それで幸せだとルーファスは思った。
(ガキっぽいけどさ、要は独り占めしたいんだ)
 これから過ぎていくだろう季節を、二人で生きていく。こじんまりとした家で過ごすその時間は、物理的には贅沢とは言えないだろうが、想像するだけでも胸を焦がすほどに熱い想いがあふれてきた。ようやく形の見え始めたこの感情を、ルーファスはまだ扱いかねている。そのたびに、アリーシャを求めた。アリーシャはすぐに見つかる場所にいて、振り向いてくれる。そうしてやっと落ち着くのだ。自分の幸せは全てアリーシャがくれるのだと。
 寝顔を眺めてしばらく経った。ひどく後ろ髪を引かれる思いで、ルーファスは重い体をどうにか持ち上げた。
 そっと寝室を出るときも、ルーファスはまだアリーシャを見ていた。安らかな眠りを邪魔したくないのに、わずかな距離が離れがたかった。
(初日からこの調子かよ……ちょっとは落ち着けよな、俺)
 外に出て井戸から水を汲み、ついでに顔も洗った。冷たい水がようやく目を覚ましてくれる。
 朝というにはもう遅いが、昼になるまでにはまだ間がある。太陽の光は丁度まぶしい位置にあった。
 ふと、汲んだ水に映る自分の姿に気付く。光の具合のせいか、水面にいる自分が笑っているように見えた。それもすぐに消え、見慣れた顔になる。だがその一瞬が、ルーファスには信じられないものを見せてくれた。たとえば、鏡を使うときだっていちいち笑ったりはしない。だから自分の笑った顔なんて、ちゃんと見たことはなかった。
(ふぅん、案外悪くないか)
 自画自賛になってしまうが、アリーシャが見る自分の笑った顔が中々に見目の良い男だったことにルーファスは満足した。彼女の隣に立つ男としては及第点だろう。
 機嫌良く水桶を持ち、自分達の家に戻る。まだアリーシャが目覚めた気配がなかったので、遅い朝食の準備を始めた。といっても、ほとんどの下ごしらえはアリーシャがやってくれていたから、ルーファスのやることといえばかまどに火を入れてパンを焼けるまでに温めることと、食器を出して並べるくらいだった。
 あとやれることはないかときょろきょろすると、昨夜アリーシャが真剣に作っていた木苺のジャムが目に入った。ルーファスにとっては手軽にとれる甘い物だったから、たぶんどこかで好きだと言ったのだろう。
 瓶には蓋の近くにまでジャムが詰められているが、思っていたより瓶の数が少ない。煮詰めてしまうと量が減るのかとルーファスは初めて気付いた。そういえばアリーシャと摘みにいったとき、かごはあまり大きくなかった。
 ――これでいいのか? もっと大きいやつのほうが沢山摘めるだろ
 ――あ、えっと、それしかなかったの。他のもあったはずなんだけど、どこにしまったかわからなくて……
 なぜかアリーシャが顔を赤くして、言い訳をするように答えた意味がやっとわかる。また二人で森へ行くための口実を作りたかったのだろう。つい顔がにやけそうになったとき、ルーファスは寝室から聞こえてくるかすかな物音を拾っていた。
「アリーシャ? 入っても大丈夫か?」
 ノックをするがはっきりとした返事は聞こえない。夫婦なのだからと開き直って、ルーファスは寝室の扉を開けた。カーテンでは遮きることができなかった光が、丁度アリーシャの位置に来ている。寝返りをうったらしく、こちらからは顔は見えなかった。
 くすりと笑いながらルーファスはまた寝台へと近づき腰を下ろした。上掛けが少しだけ浮き、白い背中がよく見える。触れてみたいと悪戯心がわき出してくるから困ったものだ。無防備なところを驚かしたらどんな反応をするのか見てみたい。けれどアリーシャが自然に目覚めるのを待ってもやりたい。相当に疲れていたはずだからと考えているうちに、ゆっくりとアリーシャが身を起こした。
「……ルーファス?」
 気配を殺していたのが悪かったのだろう。すぐ後ろにいるのに、アリーシャにはわからなかったらしい。
「ルーファス、ルーファス、どこ?」
「はいよ、ここにいますって。そんなに呼ばなくてもいなくなったりしないさ」
 振り返ったアリーシャの表情が、まばたきする間に不安から安堵に変わるのを見ながら、ルーファスはまた幸福感を噛みしめた。アリーシャが、他でもない自分を必要としてくれている。
「おはよう、アリーシャ」
「うん……おはよう、ルーファス」
 上掛けを片手で掴み体の前を隠しながら、もう片方の手をおずおずと伸ばすアリーシャを、ルーファスはちゃんと汲み取って抱き寄せた。ぎゅうっとルーファスの首にしがみついたアリーシャは、ようやくほっとしたようだ。
「よかった、ルーファスがいないから全部夢だったんじゃないかって……」
「夢なはずないだろ、俺はずっと君の傍にいる。何があったって離れたりしないさ」
「うん、ありがとう……けど、なんでだろう、怖くなっちゃって」
「怖いってなにがだよ?」
「……たぶん、自信がないんだと思う。だって私なんかがルーファスを幸せにできるのかな。だからルーファスがいなくなっても仕方がないって、そう考えちゃって……」
 アリーシャを引き寄せ直したルーファスは昨日以上に深いキスをした。するりとアリーシャの掴んでいた上掛けが落ちてしまい、慌てて体を隠そうとするのをルーファスは許さなかった。のしかかるように寝台の上に押し倒し、二度三度と口付けを繰り返す。アリーシャは次第に力を失い、とろけた顔になっていく。それを確かめてからルーファスは最後に触れるだけのキスをした。
「ばっかだなあ、今更そんなこと考えてなんになるんだよ? ったく、なんでそんな風に思うかな……俺たち、二人で幸せになるために夫婦になったんだろ。いいか、私なんかなんてもう言わなくていいんだ」
 ちょっとしかりつけるような口調に、アリーシャはたじろいだ。だがアリーシャにだって言い分はある。
「だってルーファス、いなかったんだもの。隣にいるって思ってたのに、起きたら、私だけ、だったから……」
 思い切り頬を張られたほうがまだ痛くなかったろう。泣くのを必死にこらえているアリーシャの頭をルーファスはやさしく撫でてやった。
「そうだな、いなかったら驚くよな……悪かったよ、疲れてると思って起こさなかったんだ」
「……うん」
「明日からはちゃんと傍にいる。もし用事があって早起きしなきゃいけないときは……」
「だめよ、ちゃんと起こして。一緒に起きるから」
「そうだな、俺たちは夫婦だもんな。わかった、約束だ」
「うん、約束よ」
 夫婦の決まり事を一つ作ったところで、アリーシャはやっと自分が服を着ていないままだったのに気付いた。
 慌てて上掛けを引き寄せ、周囲を見渡す。カーテンの向こうが明るいのに驚いたらしい。
「え、いま何時?」
「昼前かな。遅くなったけど俺は朝飯の用意するから、アリーシャはゆっくり着替えて……」
「待って、一緒に支度したいの。……ルーファス、後ろ向いてて」
「昨日いやってほど見られたのにまだ恥ずかしいのかよ」
 軽口を叩くと、アリーシャは真っ赤になってルーファスを押しやった。
「もう、いいから早く!」
「はいはい、と」
 背後でアリーシャが急いで服を着ているのがわかる。小さな悲鳴を聞きとがめてルーファスは振り返った。
 足をもつれさせたのか、アリーシャが寝台に寄りかかっている。思い当たる節があるルーファスは、するりとアリーシャを抱き上げた。
「い、いい、ちゃんと自分で歩くから」
「体、しんどいんだろ? まあ、大体が俺のせいだからあんま気にするな」
「そうなの?」
「そうなの。だから今日はゆっくり休んででほしいんだけどさ……俺と一緒じゃなきゃ嫌なんだろ?」
「うん」
「じゃあ一緒にいよう。でも無理はしないこと。いいな? 今日くらいは俺に甘えてくれよ」
「そんな、甘えてばっかりいられないわ」
「甘やかしたいんだよ、俺が。代わりに俺が甘えたいときはちゃんと言うからさ」
「ほんと? ほんとうに?」
 頷いてみせるとアリーシャはうれしさを隠しきれずにルーファスの首に抱きついた。また一つルーファスは幸せになった。それに、楽しみな約束もできた。さてどんなことを頼もうかと、今からわくわくしてくる。
 こうして二人の初めての朝が始まった。少し寝坊はしたが、よく晴れた南風が穏やかな日だった。