あまりの寒さに身震いがした。昨日の暑さが嘘のようにこの熱砂の街の朝は冷たく、凍えるほどだった。
 照りつける太陽も無ければ、ざわつく人の声も無い。街が目覚める前はこんなに静かなものなのか、とファラは軽い驚きを覚えた。生まれ故郷のような木々のざわめきや小鳥の囀りが聞こえなかったことにも違和感を感じたのかもしれない。
 毛布を肩まで被せ、反対に寝返りを打つと、子供のような寝息を立てるメルディが見えた。
 彼女は寒さを感じていないのようで、特に変わった様子はない。両手で抱き心地の良さそうな動物をしっかりと捕まえている。クィッキーが小さくくしゃみをした。よくよく見れば、メルディの毛布が消えている。
 起こさないよう慎重に寝台から出ると、案の定、脇に毛布が落ちていた。蹴落としている姿を想像し口元を緩めながら、ファラは毛布をかけなおしてやった。収まった場所に戻ったかのようにメルディは小さく動く。
 一息付くと、ファラはメルディの額に散らばった髪を梳いてやった。

 異世界への入り口は、世界一高い山の頂上にある。聞かされたときは、凄い、としか感じなかった。
 見上げるだけだった世界が目的地なのだ。圧倒されるどころか、漠然とした印象でいまいち実感が沸かない。
 ただ、存在だけがある。未知の世界、新しい場所、未踏の地。
 ラシュアンにいる叔母が聞いたら泡を吹くだろう。この世界では決して良い感情を持たれている所ではないが、メルディを見ているとファラはそれが間違った偏見なのではないかと考えてしまう。こうして眺めているだけでもメルディと災厄を結びつけることすら難しく、変哲のない少女であるのは火を見るより明らかだった。

 そんなことを考えていると、ふと、ラシュアンが懐かしくなった。
 見たこともないような肌をした女の子が落ちてきて、人間離れした変な男が襲ってきて、それ以来のことだった。
 旅をして、見るもの、聞くもの、全てが新鮮で過ぎていくことにばかり気を取られていたから、ラシュアンのことを思い出すのも久しぶりで、ファラは思わず目を細める。体を投げ込むように寝台に横たえると、水鳥の羽で作られた枕に顔を沈ませた。

 目が覚めると、森から流れてくるしっとりとした冷たさをまず感じる。こんな風に底冷えする夜明けよりずっと優しい。時間の流れにもとても従順で、春が来れば花が咲き、冬が来れば葉が落ちる。
 決まったように繰り返す時節が当たり前だった。
 のんびりした人たちばかりが暮らしているから、ちっとも新しいものが入ってこない。王都で見たような斬新な色の服も、珍しい石のついた腕輪も。彼女の頭の中に、次々と懐かしい風景が浮かんでいく。
 左回りの風車、目に慣れた色の服を着た村人。半分が森に囲まれたラシュアンはいつも穏やかな雰囲気を保っている。
思い出されるラシュアンの森にはなぜか、見晴し台と男の子が付いてくるのだ。

 すると、望郷の想いに溶けていく自分に激しく反発する部分がいることに気付いた。
 これ以上思い出してはいけない、とでも言いたげに自己主張をするそれがとても重く、胸に詰まる。
 なんとかして上体を持ち上げると色の変わり始めた空がガラス越しに見える。
 まるで空気が吸い取られているかのように息が苦しくて、ファラは引き寄せられるようにテラスへ飛び出した。

 目前に広がる砂の平野。改めるまでもなく、ここはラシュアンではないのだ。
 明日は、違う世界への道を探す。冷たく乾いた朝の空気を肺一杯に吸い込むと、格段に呼吸が楽になった。
 女々しいことを考えていた所為だろうか。いつかはラシュアンから出ようと決めていたんだ、と改めて言い聞かせる。
 だが、セレスティアという場所に不安を抱いていたのかもしれない、とファラは思った。
 最初の種を植える時はきちんと育てることができるかわからないから、湿った土を被せたときにほんの少しだけ緊張する、あの感覚に似ていた。その感情もいつかは太陽に辿り着こうとする芽が、次第に消しさってくれる。
 ひたむきで、控えめで、力強い種が。
(世界を、救う。メルディを助けるんだ)
 心の中で呟くと、飴が溶けてしまうようにあの鈍い痛みが消えた。
 なんて重圧めいた言葉だろう。それでもファラには、捨てられない使命感を抱かせるには充分だった。
 水気と砂の混じった風がファラの髪を弄った。
 露に濡れた常緑の森のような髪が、彼女の目の前を行ったり来たりする。
 境界線を引かれたかのように、前線部隊の群青色が白の領域を広げていこうとゆっくり動き始めた。
 と、そこへ気配を感じたらしい人影がテラスへと顔を出した。
 その人物はファラを見ると、まず眉間に皺を寄せ、それから呆れともとれる溜息をついた。
「何、やってんだよ。こんな早くに」
 少々投げ遣りな挨拶に、ファラは臆しもせずに応えた。
「おはよ。リッドも寒いから起きちゃったんでしょ?」
 どうやら図星だったようで、リッドはそれから一呼吸おいて別の話に切り替えた。もちろん、弱いところを突かれた所為だからではなく、本題が別のことだったからだ。
(えらく機嫌悪いな)
 隣同士のテラスでも、間には人一人分の隙間が空いている。真下の石畳が見える石畳はどこか冷たい色をしていた。
 ファラの視線は砂と空の境界線に注がれているから、自然とリッドもそちらに視線を移す。
 目が覚めたのは、ファラの言うとおり寒さのおかげだった。
 少々の肌寒さぐらいで音を上げるリッドではないが(文句は言うが)、慣れない朝に感覚が鋭敏になっていたのかもしれない。きっとファラも同じなのだろうと、簡単に想像がついた。
 だけれど、ファラは薄い寝衣しか身に着けていないし、毛布を被っているわけでもない。血の気がない肌をしていて、暗い中では浮き出ているように見えた。その分、頬の高いところに固まった赤が目を引く。まるで、泣いた後のような顔だった。

「なぁ、おまえさ、疲れてるんだろ」
 唐突に口を開くと、リッドは返事を待たずに話し出した。
「これから山登りだって思うと、オレだって疲れる。ま、おまえはそんなの気にしてねえか。けどな、村を出てからずっとここまで来たんだぜ」
 こうして饒舌に話しをする理由も理解できなかったが、リッドにはわからないことがもう一つあった。
 自分がなぜここまで来てしまったか、わからないのだ。うだるような暑さで、歩く度に砂が靴の中に入り込んでくるこんな砂漠まで好んで来るような人間ではない。
 正直言って、いまだに旅というものに実感がわかなかった。
「メルディが落ちてこなけりゃ、オレはここまで来なかった。戦って、歩きっぱなしの毎日なんて考えたこともねえよ」
 明るく言ってはみたが、言い方を間違えたかなとリッドは少し後悔した。
 押し付けがましい言い方はしたくないが、旅に出たのはファラの後押し以外の何物でもない。と、思い込んでいるつもりだ。ちらりと横を見ると、ファラは何事もなかったように朝焼けを眺めている。
 自分が一人で空回りしているようで、がっかりした。次の言葉も、喉の奥で縮こまってしまう。
 もしかしたら、あんまり煩いから無視されたのかもしれない。上手く話せない自分が恨めしかった。
 やさしい言葉をかけるということは、なんて難しいのだろう。

「キレイだね。ほら、砂が金色に見える」
 ファラが指差した先の、日向になった砂漠の砂はたしかに輝いていた。やっと口を開いたファラはさっきとなんの関連性もない、世間話をしたいらしかった。
「わたしも、ああいう風になりたいんだ」
「ああいう風って、…金の髪にか?」
 違う違う、とファラは首を振った。
「わたしは、何をしたいかって聞かれたら、人の役に立ちたいって答える」
 心の底から頷ける。早朝でなければ、彼女の言葉に1つ2つは加えてやったことだろう。
「砂がきれいに見えるのは、陽が昇るから。でも逆に、昇らなければ、なんにもきれいじゃないんだよ」
 えらく断定的な言い方をするファラにリッドは眉を顰めた。いつもの彼女ならこんな難解にモノを言わない。
 むしろ、楽観的な発言が多過ぎるから少しは考えろ、と何度も何度も言い聞かせているぐらいだ。
「だからかな? 気持ちの良い朝だと、すごく気分がいいんだよ。きっと、砂も嬉しいんだね」
 満足した顔でファラは言い切った。胸に乾燥し始めた空気を吸い込んだ。さっきまで頭しか出していなかった太陽が、すっかり顔をのぞかせている。
 言葉は不思議なものだ。頭の中で整理して組み立てるよりも、素直な気持ちをそのまま言ったほうがすっきりする。
セレスティアだろうが、世界の果てだろうが、かまわない。すやすやと寝息を立てるメルディの姿が頭に頭の中に浮かぶ。寒さに震える夜から抜け出せるこの朝は、ずっとこのままであってほしい。ただそれだけだ。

 ところで置いてけぼりにされたリッドはというと、ファラに見蕩れていた。変な意味ではなく。
 充実した表情で背伸びをするファラが、とても儚く見えた。
 ファラの周りに白い霧がかかったような、どこか背徳的で、らしくない雰囲気だ。
(ファラ)
 珍しくリッドは冷静に彼女を見つめた。間違いなくそこにいるのはファラで、リッドが狐に化かされているわけではない。愛らしい顔から形の良い胸元まで目線を動かしたとき、リッドはやっと自分の鈍さに気付いた。
「何、わけわかんねえこと言ってんだよ」
 無神経な言葉に頭にきたファラは、言い返そうとリッドを睨みつけた。間に空間はあるが、お互いの表情が読み取れない距離ではない。睨みに負かされたのか、リッドはさっさと部屋の中に入ってしまった。拍子抜けしてしまう。
(なによ、失礼しちゃうなあ)
 意思表明を一蹴されてファラは憤慨していた。気持ちの良い朝が台無しだ。リッドがいた場所に膨れっ面を向けていると、今度は毛布の固まりが現れた。それが迫ってきたから、驚いて腰が引けた。
「ばぁか、風邪ひきたいのかよ」
 悠々とテラスにもたれてリッドは呆れたように呟く。
 胸の前で抱えることになった毛布とリッドの顔を何回か見比べながら、寒さに初めて気付いたのかファラは大きなくしゃみをした。

 素直に毛布を被ると、リッドはとりあえず納得したのか小さく頷いてみせた。
 じんわりと染みる毛布のあたたかさが心地良い。
「あのなあ、少しは気を抜けよ。セレスティアに骨を埋めに行くってわけじゃねえんだ」
 幼いころから変わらない少しぞんざいな喋り口が、なぜか心に響く。
「別に、そんな風に思ってるわけじゃ」
 あわてて否定するも、さっきまでの不安を見透かされたようでファラは浮き足立つ。
 故郷を思い出し、一人で感傷に浸っていたなんてことをリッドには知られたくなかった。毛布を握り締めると、ファラは俯く。リッドに気付かれるほど落ち着きのなかった自分が、悔しくて仕方ないのだ。
 せっかく結論へと辿り着くことができたのに、こんなに簡単に揺らいでしまう。
 リッドの一言が、あまりにも核心を突いてくるから、顔を明るいほうへと向けられない。目を見るのがこわかった。
「おい、オレは置いてけぼりかよ?」
 先ほどの言葉がまだわからない。
 とにかくも、理解しようとしているのだが、生憎と情緒的なことに疎いリッドは、ファラの言葉でも分からないことがたくさんある。陽を浴びて、砂がきれいだからどうこうなるといった感覚は、持ち合わせていない。
「オレには、暑い一日がまた始まるって風に見えるけど」
 ファラは顔を上げた。
 引き締まった肩が明るく照らされている様をみると、今度はファラが狐につままえれたようになった。
「暑いよぉ、早く陽が沈まねえかなぁ」
 砂の声を代弁しているのか、いつもよりくだけた口調で顔を扇ぐと、ファラから目を逸らして砂漠を指差す。
 その先には、目に慣れた砂があるだけだ。
「って言ってるだろ、あれは」
 ファラは思わず吹き出してしまった。リッドの軽妙な言い方はあまりにも可笑しく、間が抜けている。
 たしかに、ここいらへんは火晶霊の恩恵を深く受けている場所だが、その言い草はまるで人間のようではないか。
「やだリッド、変なこと言わないで」
 率直な意見を述べたまでなのに、こうも笑われるとは思っていなかったのだろう。むっとなってリッドは言い返した。
「変なのはお前だろ? オレは、見たままを言っただけだぞ」
 なんとも大人気ない口振り。とても18の青年がいう科白には思えない。しかしファラは、それを容易く受け入れた。なぜなら、リッドだからだ。
「ほんと、わけわかんないよね。なんでだろ」
 二人とも、どちらの言い分が理解できない。ただ、ファラはリッドらしい考え方を好ましく思っている。
 リッドが自分の不安を見抜くのも、この考え方があるからなのだろう。
 ふと思った。
「ラシュアンに、帰りたい?」
 ぽつりとファラは尋ねてみる。とても重大なことをさりげなく聞かれたので、リッドは虚を突かれたが正直に答えた。
「ああ、早く帰りてえっていつも思ってるぜ」
 旅なんか、早く終わればいいとリッドは思っている。慣れない寒さで目覚めることも、砂の色のことで言い争う気も全くない。望まない相対もご免だった。
「そっか」
 会話はそこでいったん打ち切られる。そっけなく尋ね、そっけなく答えてもらい、そっけなく終わった。
 リッドの気持ちがよく分かる。ファラだってラシュアンが懐かしい。だが、帰るわけにはいかないのだ。
 ファラには、帰れない理由があった。考えると、なぜか胸がつぶされるような痛みに襲われる。
 それでも、同じ想いを抱いているリッドがいるだけで、彼女の心は和らいだ。

 リッドにも、帰れない理由があった。
 ずっと考えてきたことだ。どうしてここから逃げ出さないのだろう、と。
 仲間たちは、たしかに一人では微々たる存在だが、そのぶん力を合わせて行動している。もし自分が逃げたとしても、問題はないだろう。ただ、お人好しな性格が災いしているのか、なかなか踏ん切りがつかない。
 関わりあいにならないと決めたはずなのに、結局群れているのは仕方なくなんだ、と半分諦めていた。
 もうあと半分は、複雑だった。
 記憶は、年を重ねるごとに塗り替えられる。憶えておく必要のないものは、新しい情報へと塗り替えられ、ずっと奥にしまいこまれてしまう。けれど、鮮やかに残る記憶に嘘はつけない。
 忘れられるものか。年端もいかない少女の仕草すら、鮮明に思い出せるのに。
 無性にラシュアンを想う夜、何度彼女を説き伏せようと考えたことか。それが無駄だと知っていても、ラシュアンに帰りたい。変化の少ないあの村で、お互いの生活を壊さないよう生きることができたらどんなにいいだろう。
毎日顔をつき合わせているのも、それはそれで居心地はよかったが、くすぐったくて、リッドはいつも、持て余し気味だった。

 すっと伸ばされた手が、空を掴んだ。
 なにを捕まえようとしたのかは思い出せないが、とにかく手が伸びていた。
 そして気付くのだ。手が伸びているほうにはファラがいて、とても手が届かない距離だということを。
 伸ばしかけた手を所在無さげにぶらぶらさせていると、ファラが少し笑った。
「変なリッド」
「うるせえ」
 砂に反射した光が眩しくて、リッドは目を瞑った。