(あんた、実体はあるのか?)
 顔も体もフードで覆い隠している、セイファートの使者。唯一見えるのは、砂金をそのまま細くしたような髪だけ。
 命を失くした彼に声もよく似ている。生き写し、と言っても過言ではないだろう。体力も、精神力も使い果たしてしまったリッドは座り込んだまま、口だけ動かして尋ねた。答えによっては、気力を振り絞ってでもやらなくてはいけないことがある。指一本動かすだけでも辛い状態だったが、それだけはできそうに思えた。

 守るべき存在を守れない悔しさ。どうひっくり返っても母親になり得ないリッドですら、苦しみが分かった。同時に、愛する者を奪われた哀しみも。邪神と呼ばれるものが心に入ってくる感覚が思い出され、リッドは身震いをした。
 本当に、望みが全くない闇へと叩き落される。もがいたって、泣き叫んだって、光が見えない。
 喰われるとは、ああいうことを言うのだろう。感覚が一つずつ削られていくのが、手に取るようにわかるのだ。痛みよりもわかりやすい。痛みよりも、ひどい。あかいものが飛び散る様、重力に従って倒れる体、途切れ途切れの最期。
 手を伸ばしても届かない。死んだ目が、遠くを見ている。その目が、何よりも恐ろしかった。
 けれど知るべきだった。知らなければいけなかったのだ。


 けれどあの光景を見せたのが、彼だと思えば思うほど、脳裏で影が重なる。
〈あんたは…〉
 命を手放そうとしている彼に、ファラは泣きながらすがりついた。あれ以来彼女は、静かに涙を流すようになった。

 夜もすっかり更けて、そろそろ休もうかと思っていたところだ。幸いにも、野宿にうってつけの空洞を見つけたため、火の番も必要ない。火種を残しておくために薪を多めにくべ、ぐるりと仲間を見渡すと毛布を被る。
 薄布を敷いただけの硬い地面で眠るのも、慣れたものだ。
 野宿なんてするもんじゃないと文句を言っていたキールも今はすっかり順応している。
 疲れが完全に取れるというわけではないが、やはり体を休めると負担も軽くなる。食事も然り、だ。
 そういえば、ベアの干し肉があった。しばらく置いたから、身がしまり、味も濃くなっているだろう。朝はそれでスープを作ってもらおうか。

 毛布に包まっていると、視界の端でファラが寝返りを打つのが見えた。小さく開いた薄桃色の唇をじっと見詰めているのに気付いて、慌ててリッドは目を逸らした。
 別に取り決めをしたわけではないのだが、焚き火の向こう側にファラとメルディが隣同士で眠り、こちら側でリッドとキールがやや離れた位置で眠ることになっている。
 宿屋だったら部屋を別にすることもできるが、こういう場所ではそうもいかない。
 幼なじみとはいえ、隣で寝息が聞こえていては、落ち着いて眠ることなんか出来そうにない。距離が空いていても、ついファラを意識してしまうようになった自分がなんとなく恥ずかしく思えた。
(なんでもない。あいつはいつもどおりに寝てる)
 リッドも寝返りを打った。
 苔生した洞窟の薄暗い壁は終始無言で、動悸の激しくなった心臓の存在を否定してくれない。それどころか、頭を冷やせとばかりにぴしゃりと水滴をお見舞いしてくれた。リッドは複雑に顔をしかめると、重い体を上げて寝る場所を変えた。こういうことは、よくある。

 今度こそ落ち着いて眠ろうと深く息をついたとき、止せばいいのに、またファラの方を向いてしまった。
 頬が、焚き火に照らされて光っている。
 少し躊躇ってから溜息をつくと、起こさないようそっと近づいた。頬を拭ってやろうと思ったのだ。
 ファラは、泣いていた。閉じた目から零れる涙をリッドは不思議な気持ちで眺めていた。
 こんな風に、泣くことができるものだろうか。仰向けで眠っているファラは、それは穏やかな表情をしていた。
 悪い夢を見ているのなら、うなされたりもするだろう。だが、今はどうだ。リッドは迷った。良くない夢なら、すぐに起こしてやったほうがいい。けれどこれほど穏やかに眠っているのに、どうやって理由を作ればいいのだ。
 衣擦れの音がして、リッドはひどく驚いた。
 音のしたほうを振り向くと、メルディが毛布を被りなおしている。
 胸を撫で下ろすと、ふと考えた。なぜこそこそしなくてはならないのだろうか。寝息を窺っているわけではない、心配だから様子を見ているだけなのだ。心配、という単語にリッドは口を歪めて笑った。いつでも誰かを心配しているファラの病気が伝染ったようではないか。
 とりあえず、起こさないでいることに決めた。
 起こしてしまうのが勿体無い寝顔だったこともあるが、揺り起こす必要性を感じなかった。
 疲れは、残さないに限る。何か拭くものがないかと辺りを探していると、ファラが何事かを呟いた。反射的に感覚が覚めていく。
「ファラっ」
 小さく叫んで細い肩を乱暴に揺さぶった。先程までの決め事なんて、頭から吹っ飛んでいる。
 ファラが驚いたように目を開けると、二、三度瞬きをしてやっとのことで口を動かした。
 「あ…」
 肩に乗せている手を退けると、ファラは目をこすりながら上半身を起こした。
 焦点の合わない瞳のまま、リッドを見て、起こされた理由を思いあぐねているようだ。
「…こうたい?」
「ちげえよ、今日は火の番はいらねえっていっただろ」
 強く首を振るリッドに、ファラは困惑した。こんな夜更けに、何故だろう。寝付いてからそれほど時間もたっていない。一際冷たい夜風が頬を撫でると、ファラは初めて顔が湿っていることに気付いた。
 リッドが物言わずに手で拭ってくれるのに、心地良さそうに目を細める。

 思ったとおり、彼女は泣いていたことを知らない。そんなものか、とリッドは少し安心した。
 心配だった。
 夢を見ると、魂が肉体を離れてしまう。魂はどこへでも飛んでいけるから、見たいもの、見たくないもの、事情お構いなしで旅しに行く。リッドは忌々しげに思った。どうせなら、黙って戻ってきて欲しいものだ。
「濡れたくなきゃ場所を変えろ。水が降ってきてるぞ」
 といって、上を指差す。これといって話すこともなかったし、わざわざ起こしてしまったことへの罪悪感もあった。
 寝ぼけ眼のファラの手をとって立ち上がらせると、手早く寝床を移し、ほとんど強引といってもいい手つきで寝かしつける。
「起こして悪かったな」
 優しく頭の上におかれた手を心地よく感じながら、ファラは小さく首を振った。
「夢を、みたよ」
 リッドの手が止まる。ほとんど動かない頭の中で、ファラはぼんやりと思い出していた。
「レイスがね、笑ってた」
 遠い場所に逝ってしまったあの人が、見守ってくれている。二度と会えないけれど、淋しくはない。
 ファラはそのまま、すとんと眠りに落ちた。


「…畜生」
 夢を見て、人知れず泣くファラがいるのに、何もしてやれない。リッドはあんまりにも無力な自分が情けなかった。
 あれが、レイスだとは思っていない。自分の心がそう見せているだけだ、と使者は言っていた。確かにレイスにはとても一言では言い表せないくらい感謝しているし、尊敬もしている。そして憎くもあった。
 ファラを置いて、勝手に死んで、それでも根を張っている。
「一発ぐらい殴らせろってんだ」
 小声でつぶやき、大きく肩で息をする。しばらく呼吸を整えると、疲労感で一杯の体を持ちあげた。ふっと力を抜いて、それからセイファートの使者がいたほうを見る。
 花の残り香が僅かに漂う中で、リッドは深く頭を下げると、踵を返して来た道を力強い足取りで帰った。
 決して振り返らなかった。