隣で大きため息をつかれてはファラだって気付かないわけにはいかない。
 横目で覗くリッドの顔色は目に見えて悪いという程ではなく、いつもどおりの日焼けした少し幼い横顔がある。ただ、注意力は失われているのか数えて四本目になる薪は軽い音を立てたまま取り残されることになった。
 この薪で、道案内でもしているのだろうか。この先に罠を張り、辛抱強く待てば引っかかるかもしれない。
斜向かいの今年七十になったばかりの足の具合が良くない木こりのおじいさんには薪割りはつらいだろう。
 ファラは自分でも可笑しくてたまらなかった。
 繁みに隠れ息を殺し、獲物のひょこひょこ歩いているおじいさんがかかるのをじっと待っているリッドの姿。そんなのは、笑い話の外ならない。こみ上げてきそうな笑い声をなんとかしようと咳き込んだ。喉が痛くなった。
 また、一本の薪が軽い音を立てる。彼の歩調は乱れない。
 とうとう心配になってしまったファラはあれこれと考えを巡らすことにした。森がすっかり葉を落とし、ただ寒風に耐えるだけの季節が巡ってくる。その季節を彼は好いていなかっただろうか。それが、こんなにも腑抜けにさせるようなことだったか、と。とりあえず落ちた薪を拾いながら、ファラは後ろからついていく。
 もちろんリッドは腑抜けになっていたわけではない。先程からずっと青くなったり赤くなったりしているファラが、心配なだけだった。

 抱えていた薪を乱暴に下ろすと隣にいるファラに目を向けた。
 一杯になった薪を満足げに眺める姿はなんとも無邪気なもので、こちらの気苦労なんて理解し得ないだろうと率直な感想を抱いた。身勝手なことであるのは充分承知しているが、たまにファラとの関係が鬱陶しくて仕方なくなる。
 悩まず、焦らされず、束縛しない。自由であればどんなにいいことだろう。
 しばらくファラの顔を眺めてから、リッドは口元だけで笑った。贅沢すぎる悩みだ。
「何か、ついてる?」
 両頬に手を当てているところを見ると、彼が自分の顔を見て笑ったのだと勘違いしたらしい。
 リッドは何も応えなかった。ただ、どうしてこいつは能天気なんだろうとつくづく思った。
 あまり近づいてはいけないと、一歩半の距離を保とうと必死になっているのに対して、ファラのほうはちっとも構わないらしい。ひょっとしたら、自分のほうがおかしいんじゃないかと思い始めたぐらいだ。
「ここだ、ここ」
 脂が染み付いて、あちこち黒くなった手袋のまま指差す。
「でっけぇ目が2つ」
 ファラの顔がもっと赤くなった。失礼な手をぺしりと叩き落すと、にらみつける。
 叩かれた手をさすりながら、それでもリッドは反省した様子もなく、彼女をからかうことを忘れない。

 最近ずっとこんな調子だ。からかわれるのはあまり楽しいことではない。それも以前と変わらないことは確かなはずなのに、どこかリッドがおかしい。
 収穫を終えたばかりの皆が嬉しそうに作物の出来を語らう。冬の前の、もっとも豊かな時期だ。そんな雰囲気を他所に、心荒ぶんだ様子なのはどうしてだろう。古い記憶を引っ張り出しても、思い当たることは何一つなかった。
 リッドを落胆させることといえば、空腹。という結論にファラが至ってしまうあたりはリッドに同情したい。
 それは有り得ない、とファラは首を振った。日課のようになってしまった食事作りを休んだことはない。それどころか、最近は色々と趣向を凝らしている。珍しい香辛料が手に入ったので、ファラはいつもより時間をかけて作り上げ、帰りを待っているのだ。顔見知りの商人がお礼にとくれたそれは大変貴重なもので、決まった場所でしか採れないものだ。
「もしかして、リッド、最近お腹壊しちゃった?」
 ファラの反応が面白くてにやにやしていたリッドの表情が固まった。どこをどうひっくり返せば、腹の調子がどうとかいう話になるのだろう。つい先程まで彼女が派手に転んで泥を被ってしまったという昔話をしていたのに。
「はぁ?」
 素っ頓狂な声を否定と判断したファラは、考えを改めなければならなかった。食べ合わせが悪いというわけではないとすると、理由は他のことらしい。根掘り葉掘り聞き出すことは好きではなかったし、詮索されることを嫌うリッドのことを慮って訊かずにいたが、ファラにはそれ以上我慢できなかった。
 目線を高くして、彼の瞳を真っ直ぐに見るとこう言った。
「リッドって最近ずっとおかしいよね。どうしたの?」
 もっと面食らってしまったリッドは、言葉が見つからなかった。ファラが決してふざけているのではなく、本気で案じているのだということはリッドにだって判る。
 だからといって、言い出せるわけもない。意地もあるし、彼の矜持までもが邪魔をした。
 なんで、悟られてしまったのか。リッドは情けない気持ちで一杯な心を鞭打って、平静を装った。
「別にどうもしねえよ」
 リッドが後悔したのは言うまでもない。ファラがしょんぼりと俯いたからだ。

 リッドの力になれないことがファラは単純に哀しかった。夕暮れ時の風が目を伏せたファラを慰めるかのように通り過ぎて、服を揺らした。リッドの返事なんて、わかっているでしょう。と、ファラの耳に風が囁くように唸る。
 それきり話題は打ち切られ、二人は釈然としないものを抱えながらまた明日、と別れた。

 汗水流して手に入れるたった一枚の銅貨と、何もしないで得た百枚の金貨の価値は全く違う。リッドはその意味を痛いほど判っていた。手をこまねいている間に、いつのまにか無くなっていた、なんてことになってしまえば目も当てられない。そんなのは馬鹿のすることだ。
 暖炉の前の、一際乾いた空間は、油断するとすぐに目蓋が重くなってしまう。横になると、暖められた床が心地よい。
特別な魔法でもかかっているのだろうか。
 ――そんなところで寝たらダメだよ。
 その魔法がファラの声で、何事かを喋り、窘めの文句を言いながら、困ったように微笑んでもいる。
 これが本物だったらと思いながら、リッドは目を閉じた。眠るわけではない。
 最近苛立つことが多い。それも、性質の悪いほうだ。
 原因ははっきりしない、かといって放って置けるわけでもない、爪の間に刺さった棘を髣髴とさせるものだった。
 大体、すっきりしないというのが腹立たしい。片方だけ感じる熱以外に、薄ぼんやりとした視界。目を瞑っているだけで違う場所に居るような錯覚を覚える。考え事にはうってつけだ。
 さぁ、苛立ちの正体が何なのか、突き止めてやろうではないか。
 しかしリッドは目を開けると、半身を起こした。髪を乱暴に掻くと、その手で火掻き棒をまわした。赤くなった炭がからからと音を立てる。寒い。背中の辺りを通り抜けている隙間風が、知らぬ間に冷たくなっている。それに揺られている、洗い立てのシャツも、心做しか寒がっているように見えた。それすらも癪に障る。
 いつのまにか収穫期は終わり、静かな季節が待っていた。それなのにこの疎外感はなんだろう。
「そんなところに座ってちゃダメだよ」
 いきなり声をかけられたものだから、リッドはびっくりしてしまった。
 風邪引くよ、と言う少女を口を開けながら見上げる。すぐ真後ろに居たというのに、気付けなかった。
 リッドは少し自分を恥じる。
「ノックぐらいしろよ、驚くじゃねえか」
「したよ。扉を五回叩いたし、お留守ですかーって三回は聞いたもん」
 リッドはぐうの音も出なかった。その代わりといってはあれだが、ファラは口を止めない。
「リッドが後ろを取られるなんて、もしかして風邪なんじゃないの?」
 ファラが真剣な顔をするので、嫌になってしまう。ファラが何を考えているか手に取るように判ってしまい、落ち込みたくなった。他人を見下すようなファラではないのがわかっているから、余計に。
 一番されたくない人間から受ける同情なんか、まっぴらだ。
「あのなあ、おまえだって女なんだぞ。なんだってこんな夜中に男の家に来るんだよ」
 突っぱねた物言いに、自分でも嫌気がさした。髪に枯葉をつけながら、様子を見に来てくれたのに。
 ふとリッドは思った。
 どうして彼女の唇が、こんなに青くなっているのだろう。慌てて手を掴んでみると、すっかり冷たくなっていた。長い間外に居ない限り、こんな風にはならない。ましてや、薄着のままでは。
「リッドが心配だったからに決まってるでしょ」
 あっさりとファラは用件を告げる。冷えてしまった自分の体よりもリッドのほうが気になるらしく、彼の眼を注意深く覗き込んでは変化が無いかと探しているように見えた。
 そんなことくらいで心配かけたくない、と出てきた言葉を飲み込むと、リッドはうなだれる。
 ファラのことはよく知っている。だったら、なぜ軽率な発言をしたのだろうか。
 ベッドに入ったはいいが気になって眠れずに、こんな寒風の吹く中、扉が開くまで辛抱強く待つような事をするの性質だと知っているくせに。申し訳なくて、リッドは悩むことを止めようとした。お互いがお互いを案じているうちに、来るべきものが来てしまったのだ。
「別になんでもねえんだ、ちっとも大したことじゃあねえよ」
 それでも不器用なリッドは、ファラが傷付かないような言葉を選ぶだけで精一杯だった。

 男がよく言うような逃げ口上を、そのままの形で投げ出されたことが、ファラを酷く暗澹とした気持ちにさせた。線を引かれるようになってしまった時も、こんな気持ちになったことを覚えている。ほんの悪戯心で、頬を軽く引っかいてから、彼に突き放された。
 そんなに強く弾かれたわけでもないし、少しよろめいただけのことだ。何遍もリッドは謝って、怪我は無いかと聞いてくれた。なのに、突き放した理由だけは触れなかった。
 たぶん、虫の居所が悪かったんだとファラは思うようにしている。確かにあのときのリッドは不機嫌だった。天気は悪いし、獲物は取れない。おまけに悶々とした感情まで付いてまわっているのだから、仕方が無い。
 そこへ、他意はなくとも爪を立てられれば、どうにかなってしまうところだ。
 音を立てて崩れていく理性の欠片を彼はこぼさないように手を突き出したら、距離がひらいただけのことだ。あのときのことを思い出すと、どうしようもないことだったとしか言いようが無かった。
 二人ともそう思っていた。
「とにかく、ここ座れよ。何か淹れてくるから」
 あたふたと手を離してからファラを暖炉の前に促すと、リッドは勢いよく立ち上がった。手を取っていたことが、今更ながら恥ずかしく思ったのかもしれない。一番暖かい所にファラが腰を下ろすと、リッドは急いで台所へと向かおうとした。しかし、何かを思い出したよう引き返し玄関を出て行く。ファラは首を傾げたが、直ぐにリッドが何か腕いっぱいにを抱えて戻ってきたので安心した。
「さっそく役に立ったね」
「あのなあ、苦労したのはオレだぞ」
 憎まれ口を叩きながら、リッドは自分が切り出した薪をくべた。火の勢いが強くなりすぎないように調節してから、もう一度立つと、今度こそ台所へ向かう。ファラは手伝おうとしたが、リッドが握っていてくれた手と、暖炉の火が暖かくて動けなかった。
 随分と体が冷えている。血が通いだすと軽く火傷をしたような痛みが皮膚に走った。
 膝を抱える格好になり、じっとして体に熱がまわるのを待っていると、少しだが心が軽くなる。
 リッドはいつも、自分を気遣ってくれている。今までのように変わりないことが、ファラを慰めた。
 声に出して聞きたいことも、聞きたいことも沢山あるけれど、今はリッドの熾してくれた火にあたっていたい。

 手に一つずつ湯気を立てたカップを持ちながら、リッドは目の前の光景にほとんど感動に近い感情を覚えていた。膝小僧の間に顔を埋めて、小さく丸まった背中があって、それを覆っているのは薄くて白い夜着で、暖炉の前で人待ち気に座っていて。棘がすっかり抜けていく感覚がリッドを支配した。ちょっと気を抜けば脚が震えてきそうだ。
 しっかりしろよ、と自分に発破を掛けるとなるたけ音を立てないようにファラに近寄った。
 ファラが顔を上げる。リッドは片方のカップを渡して、その隣に人一人分をあけて腰掛けた。
 口に含むと、すっとした香りが鼻の奥に広がる。
 目が冴えてしまうかもしれないなと思ったが、それよりもリッドの喉を上下させる音のほうが気になってならなかった。自分でも妙に思う。ついさっきまであった疎外感はどこにいってしまったのだろう。
 今はそれよりも、ファラのほうに近づきたくて、五感の全てを集中させている。
「悪かったな、寒いのにほっぽちまってよ」
 黙ったままのファラの顔を覗き込むと、見てはいけないものを見てしまった気分になった。
 彼女は自分とは正反対のようだ。つまり、ちっとも嬉しそうではない。
「ファラ?」
 振り向いたファラは、とても不機嫌そうに見えた。途端に気持ちがしぼんでいくのが判った。
「それだけ、なんだ」
 散々心配させられた上に、どうしても納得できないことがファラにはあった。
 リッドが何を想おうと、それはファラの関知することではない。誰にだってあることだからこそ、無理に聞き出そうとは思わなかった。けれど、謝られる理由が無いのに、彼は謝った。
「リッドのことなんか、全然心配してない」
 喧嘩をしたわけでもないのに、怒りに似たものが収まらなかった。
 心配で、夜も眠れなかったなんて、言ってやるものか。絶対に。一息にカップの中身を飲み干すと、ファラはリッドがおろおろしているのも構わずに、立ち上がった。押し問答をする気は無いし、ここから離れたい。
 何がこんなに苛立たせるのだろうと、ファラは頭の別のところで考えていた。
 謝られたことが許せないのかもしれないと思ったが、なんとなく違うような気がする。
 リッドを見下ろしていると、ふと思い当たることがあった。
 突っぱねられたリッドが、見ているほうが気の毒になるくらい真剣な目でファラを見返している。
 ああ、そっか。
 ファラは何もかもわかった気がした。
 どうしてすぐに伝染してしまうんだろう。二人で同じようなものを抱えているせいなのだろうか。
 厳密には違うことなのだが、ファラは性別の違いというものをあまり意識したことがなかった。
 その点では、リッドのほうがより神経質だ。

 ファラは出し抜けに彼の腕を引っ張った。
 立って、と言っているのだと理解したリッドは素直に従い、神妙な面持ちでファラの言葉を待った。
 多少のお叱りなら、黙って受け入れようと思っている。
「怒らないで、うつさないでよ」
 うつす?
 意味がわからなくて首を傾げようとしたが、それはファラの腕に阻止された。苦しいぐらいにしがみつかれて、リッドは狼狽するしかなかった。
「な、んだよ、それ」
 そう応えるだけで、一生分の理性を使いきったような気がする。頼むから、体を近づけないでくれとは言えなかった。
 恨みがましさと嘆きが混じったようなファラの訴えを聞いていたら、とてもじゃないが離せない。
「リッドが悩むから、私まで悩んじゃうんだよ」
「はあ? なんでお前までなんだよ」
「わからない?」
 ほとんどお互いの髪の毛が触れるくらいの距離で、ファラは彼の瞳を見据えて言った。
「近くにいたら、どうしてもうつっちゃうんだよ」
 その近くが、リッドは恐ろしくてならないというのに。
 それでも、支離滅裂なように聞こえるファラの言葉が、リッドにはよく理解できた。
 目に見えないものまで共有することになっているらしい自分達は、厄介な事だらけでちっとも前に進めない。
 全く、幼なじみなんて、煩わしいことばかりだ。
 ファラの頭を撫でてやると、険しくなっていた表情が和らいだ。つられてリッドも口元を緩める。
「ほら、うつっちゃうでしょ」
 頷かざるをえない。
 ずっと落ち着いた気分で、リッドはファラの手がもう冷たくないのを確かめると、久しぶりに声を出して笑った。