水晶霊の河と呼ばれる場所は、呼び名の通り清廉な水が豊富にある場所だった。辺り一帯に水の匂いが漂っていて、息を吸うたびに水が喉を通るように感じる。美しいと褒められる場所なのだが、魔物がそこら中を歩き回っている上地面がぬかるんでいるので安全とは言い難い。その上最奥には大晶霊とやらがいるらしい。
 危なっかしいことには出来るだけ関わりあいになりたくはないのだが、
「さー大晶霊に会いに行こう!」
 と人一倍やる気の少女に付き合っている以上、行きたくないなどとは言い出せなかった。
 奥へと続く道を進んでいると、水の流れの緩い場所があった。誰ともなく休んでいこう、という話が持ち上がる。服のいたるところが水に濡れて少々肌寒い。メルディが小さくくしゃみをしたのを聞いていたリッドは、さっさと燃えそうなものを集め、火をおこした。手馴れている。
「ね、あれなんだろう」
 いつのまにか傍で手伝ってくれていたファラが水の中を覗き込んでいる。放り出されたリッドは少しむっとした。
「ワイール! 光ってて、うつくしいな」
 うっとりと水の中を眺める二人の少女に、リッドとキールは顔を見合わせた。
「ファラ、メルディ、早く服を乾かさないか」
 冷たい口調だが、彼女らの事を案じているらしい。いつまでたっても素直じゃないとリッドは呆れた。
「もぅ、キールはうるさいよ」
 メルディは口を尖らせながら火の近くに座った。なんだかんだ言いながら、素直に好意を受け取っている。キールよりよっぽど素直だと、リッドはこっそり笑った。
 けれど、肝心のファラが戻ってこない。
 じっと、覗き込んだままだ。肩をすくめ、もう一度ファラを呼んだが、聞こえていないのかちっとも反応しない。
 仕方なく、といった様子でリッドは立ち上がった。戻ってこない困った彼女を連れ戻すため、と背中に無理な理由を乗せているとキールにはわかっていた。
 ファラが興味を惹かれている物が気になっているのだ。わざとらしく溜め息をつくと、メルディは首を傾げた。いや、と咳払いでごまかすとキールは視線を逸らした。
 メルディにこうしてまっすぐに目を見られるのは、落ち着かないのだ。

 隣に立っても、ファラは顔を上げない。相変わらず水の中に目を奪われたままだ。なんとなく面白くない。
 膝を折ると、ファラと目線を合わせる。まっすぐに見詰める先を覗き込むと、水の屈折に逆らって光るものがある。あれか、とリッドは納得した。
「ちょっと待ってろ」
 ファラがなにか言う前に、リッドは上着を脱ぎ始めた。
 ファラは呆気にとられるばかりだ。そんな事はお構い無しに、深く息を吸い込むとリッドは水に飛び込んだ。
「リッドっ」
 ファラの声が上から聞こえる。思っていたよりも深い。耳の奥がつんとする。水が澄んでいるのは幸いだった。潜っていくらもしないうちに手が目的の物に触れる。
 ファラが目を奪われるのもわかる気がする。取ってしまうのが申し訳ないくらい、それは美しいものだった。例えて言うなら水の中に咲く花。少し力を込めると、それは簡単に手に入った。上を向くと、歪んだファラの顔が見える。リッドはおかしくて、声をあげて笑いたい気分だった。
 水から顔を出すと、視界を塞がれてしまった。随分と髪が伸びていたと今更のようにリッドは気付く。雫の垂れる髪を梳く手があった。ファラだ。深く息をするリッドの顔を拭きながら、怒りと不安と喜びを混ぜたような表情をしている。
 服が濡れるぞ、とリッドはファラを押しやった。自分は今頭から足先までまずぶ濡れだ。
 取ってきた物を差し出すと、彼女は顔を綻ばせた。
「いいの?」
 はしゃいだ声をあげ喜ぶ少女に呆れながらもまあいいかと思ってしまう。
「いいもなにも、欲しかったんだろ?」
 放り投げると、きらりと光を放ってそれはファラの手に収まった。
 嬉しそうに目を細める彼女の表情はそれは愛らしく、リッドは心が満たされる感覚を存分に味わった。この笑顔のためなら、ずぶ濡れになるくらい安いものじゃないか。
 いつの間に来ていたのか、ファラの手の中の物をキールとメルディが覗き込んだ。
「ホント、きれいだなあ。インフェリアの鉱物か?」
「違う、サージェナイトという水晶の一種だ。おまえ、これが鉱物に見えるのか?」
「キールぅ、ひどいなー。メルディ、そこまでばかじゃないよう」
 喧嘩が始まりそうな気配にうんざりする。仲がいいんだか悪いんだか。
「わかった、わかったからそこをどいてくれ」
 キールの足を押しやるとわ、と言って転びそうになる。相変わらずバランスの悪い奴だ。水から上がってもそれほど寒気は覚えず、リッドはこっそり安堵の溜め息をついた。冷たい水を振り切るように顔を振るわせるとファラが悲鳴を上げた。
「あ、わりい」
 不可抗力だとわかっているのか、それ以上文句を言う事もなくただ手の中の水晶に視線を奪われ、負けないくらい瞳を輝かせている。
「ありがとリッド。すっごく嬉しいよ」
 その横顔を見ながら、旅も存外悪いものじゃないとリッドは思った。ふと、ファラがこちらを向いた。じっと見詰められ、急に居心地が悪くなる。足元が心許無い。
「な、なんだよ」
 水に浸かっていて良かった。でなきゃ、顔が赤くなっていたかもしれない。
 ファラの顔なんて見飽きるほどなのに、どうしてだろう。真摯だからだろうか、それとも彼女の目が潤んでいるからだろうか。
「リッドって、男前だねえ」
 心の底からの言葉に、リッドは言葉を失くした。
 我を取り戻すまでたっぷりと固まってから、うなだれる。嬉しくない。喜んでいいはずなのに、素直に喜べない。
「なーに、せっかく褒めているのに」
 ファラが口を尖らせた。素直な感想だったのに、リッドは酷く落ち込んでいる。そんなに気に入らないことを言ったのだろうか。
 水を滴らせるリッドは、今までに見たどんな彼よりも新鮮だった。息苦しくないはずなのに、胸が苦しくなる。
 髪を梳いたときに見上げてくる彼の瞳から目が離せなくて、ちょっと困ったのだって事実だ。
「だからって、お前なあ」
 そこでリッドは口をつぐんだ。違うのだ。喧嘩したいわけではなくて。
「もういい。とにかく、火にあたらせてくれよ」
 寒くはないが、リッドは体を抱える真似をした。位置の高い頭から落ちる水が跳ね、乾いた岩肌を湿らせていた。
 大変、と言ってファラは慌てて火を大きくした。メルディが労うように背中を叩く。
 リッドはそれを程ほどのところで遠慮しながら、苦いものを噛み締めた。
 よく考えてみると、別の思惑を持って水に飛び込んでいた。賞賛の言葉も何も要らない。ただ。
「どうした、顔色が良くないぞ」
 力なく首を振り横をこっそり盗み見る。名前の長い水晶を大事そうに扱うファラがいた。
 喜んでもらえるならと、それだけで。
 背中を丸め、胡坐をかいた上に顔を埋める。自分はいつからこんなに殊勝になったのだろう。
 うずくまったリッドはそれを思い出そうとはしなかった。なぜか怖かったからだ。
 火にあたっているはずなのに、体がどんどん冷えていく。
 水が冷たかったんだと、心配するファラに応えると、目を瞑る。髪からまだ乾ききらない水が滴り落ちた。