「みてみて、ファラ」
「これ、ぼくたちが見つけたんだ」
「ねぇ、きれいでしょ!」
 周りを取り囲むみ、子供達が小鳥のように騒ぐ。小さな手の中にこれまた小さな花を持ち、精一杯背伸びをして、頭上に持ち上げている。こんな花が咲いていたんだよ、と。
 出来れば、ファラがこの花に興味を持ってほしいという欲求を子供達は持っていた。
 その中の一人の頭を撫でながら、ファラは優しく微笑んだ。
「そっかそっか。じゃあ、わたしも一緒に見に行ってもいい?」
 一斉に子供達の間に歓声が湧き上がる。目線を合わせるために膝を抱えた彼女の手を待ちきれないというように引っ張った。嬉しくて堪らない様子だ。
「うん、行こう!」
 猫が涼しい昼寝場所を知っているのと同じで、子供も居心地の良い場所を知っている。その場所をより心地よくするためにも、やさしいファラは欠かせない。
 ラシュアンに子供達の声が響く。秋の訪れが待ち遠しい日のことだった。


 そこだけ切り取ったように涼しい空気が渦巻いている。清廉な水を海へと促す一本道が、むせるような熱気も運び去っているのだ。額に浮いた汗を拭う。
 一息ついたファラは、腕をまくりスカートをたくし上げ、端で結わえた。靴を脱ぎ揃えて置くと、川へと入る。冷たい川の水が頬に触れると、ようやっと人心地がついた。持っていた手布を濡らすと、顔を泥で汚した子供に声を掛けた。
「あはは、汚れちゃってるよ。ほらこっちこっち」
 ぱっと顔を輝かせると、子供達は一斉にファラの傍へと駆け寄る。ファラはその一人一人を宥めたり、褒めたり、時たまぴしゃりと叱り付けながら手際よく汚れた部分を洗い流してやった。
「また、怪我をしてる。だめだよ、気を付けないと」
 男の子の手を取りながら、ファラは呟いた。細骨に申し訳なさ程度に付いている皮膚の上に線を引いたような赤い傷を、ゆっくりと洗い流す。男の子は、ぎゅっと目をつぶると痛みに耐えた。それがあまりにも必死だったので、ファラはくすくすと笑った。
「あっ」
 その隣で、もう一人の男の子が短く声をあげた。ファラは素早く振り向くと、子供達を背に隠した。
川を隔てた茂みから、狼らしい耳が見える。こちらをうかがっているのだろうか、じっとして、飛び掛ってくる様子はない。ファラの服の端を掴んだ女の子の手が震えている。
 小声で、大丈夫、と告げると、ファラは勢い良く川底を蹴り上げ、素手のままで狼を押さえつけようとした。
 いくら戦いに慣れているといっても、噛み付かれてしまえば怪我をしないはずがない。
 しかし、子供達を守るために危険であるという考えが彼女からすっぽりと抜け落ちていた。
「うわ!」
 と、狼が悲鳴を上げた。
 丁度、蹴り上げようとしたところのファラは、驚いて平衡感覚を失い、狼の上へ倒れこむ形となった。
 急いで上半身を起こすと、見慣れた胸板が目に飛び込んできた。
 呆れて物も言えない。深々と溜め息を付くと、ファラは腹いせにもう一度倒れこんだ。
 息を詰まらせることになったリッドは、文句も言えなかった。自分の撒いた種だ。それに期せずして押し倒される格好となったのも、なかなか新鮮ではないか。
「こんないたずらをするなんて、どういうつもり?」
 頬を膨らませて怒るファラを、狼の毛皮を頭からすっぽりリッドは宥めた。
「わりぃわりぃ、反省してる。んなに驚かすつもりはなかったんだよ」
 ちっとも反省していないリッドの口振りに、ファラはますます怒りを覚える。これが本物の狼だったら、大変なことだったろうに。立ち上がり、あちこちに付いた埃を払うと乱れた髪を整える。
「ウソばっかり。こんどこんなことしたら、わかってるよね?」
「はいはい、オレが悪ぅございます、すみませんでした」
 とにかく、子供達に何事も無くて良かった。振り向くと、小さな顔を茂みから覗かせている。恐る恐る近づいてきた子供達は、ファラが無事なのを知ってほっとした。茂みの奥に消えてしまったので、心配していたのだろう。だがしかし、子供達の関心は既に別の事に移っていた。
「おおかみはリッドだ」
 男の子が女の子に伝える。女の子は隣にいるもう一人の男の子に伝えた。
「リッドはおおかみなんだって」
 ふうん、と男の子はリッドのかぶっている狼の毛皮を興味深げに見つめながら呟いた。
「ファラがおおかみを食べちゃった」
 それを聞いて慌てたのは、リッドだ。
「お前ら、そんなこと絶対に村で言いふらすんじゃねえぞ」
 真顔で言うリッドの慌てぶりが面白いのか、顔を見合わせて子供達は笑いあった。ファラもつられて笑った。くたりと沈み込んだ狼の毛皮は、じっと聴いたままだ。ファラにはそれが勝手にしてくれと言わんばかりの表情をしているように見えた。

 泥を洗い流し、さっぱりとした子供達は今度は水遊びに夢中だった。お互いに水を掛け合いながら遊んでいる。
「大きいねぇ」
 大人に尻尾の生えかけた二人は、腰を落ち着けてその光景を見守っていた。
 川は急流というわけではないが、子供というものはけして目を話せない。毛皮を被ったリッドなら冗談で済むが、ここは野生の動物が生きる森だ。この大きな収穫こそ、何よりの証拠だった。
「珍しいだろ、こんな奴が罠に掛かるなんて。こないだ獲れたんだ」
 ごわついたこれも、なめせば上等な物に仕上がる。その点で言えば、リッドはやはり腕の良い猟師だった。
 ファラは素直に感心した。才能をひけらかさない態度を好ましく思っていることを、リッドは知らないかもしれない。
「腕だけ、は確かな猟師さんだからね」
「おい」
「褒めてるんだよ。わたしは猟師じゃないけど、リッドがすごいってことくらいわかるよ?」
 視線を斜めにして顔を覗きこむと、彼は決まって視線を逸らす。
 リッドのこういう態度も、好ましい。賞賛に対する素直な反応が可愛いと、彼女の目には写っていた。リッドが口を開こうとすると、小さな影が二人の間に割って入った。水に濡れそぼった体を気にする様子も無く、じっと動かない狼を興味深げに見入る。
 ふと、リッドは思い出した。この子供の父親は、同じ猟師仲間だ。ならばその息子も興味を持って当然だろう。熱心なその姿に心を打たれたのか、リッドは動かない狼を持ち上げ、諄々と説明してやった。
「いいか、こういう大きなやつには怯むんじゃないぞ」
 顔を上げ、目を見開いてリッドを凝視する子供に、リッドはもう一度繰り返した。
「目を逸らすと飛び掛って来るんだ。敵わないと思ったら、少しづつ後ろに下がれ」
 意味が分かったのかは別として、子供は大きく何度も頷いた。まだ、狩りを覚えるには早い年頃かもしれないが、身を守る術はいくつ覚えていても損は無い。いつのまにか、子供達が二人の周りに集まっている。真面目に話していたリッドは、驚いて口を止めてしまった。
「いいからいいから。ほら、続けて」
 ファラが、ねだるように呟いた。
 特段面白い話をしているわけではないのでリッドは少し戸惑ったが、それでも話を続けてくれた。
 子供たちは皆真剣な目をして聞いている。それだけならまだしも、彼女までじっと耳を傾けているのだから、気を抜くわけにもいかない。妙な緊張の仕方をしたせいか、話し終える頃にはすっかり肩が凝っていた。疲れたと言わんばかりに肩を回すと、猟師の息子が腕に飛びついてきた。
「ねえ、もっと教えてよ!」
 駄々をこねる子供を、ファラが抱えあげた。リッドがどうしたものかと思案顔だったので、助け舟を出してくれたのだ。
「また今度だよ。もう暗くなるから帰ろう、ね?」
 子供は不満そうだったが、ファラが耳元で何事かを囁いたとたん、素直に彼女の腕から抜け出し、立ち止まったままの他の子供達を促した。聞き分けのいいことだ、と思いながらリッドは子供達が村の方へと足を向けるのを見届けると、動かない狼の毛皮を担ぐ。こんなに大きな獲物は本当に久しぶりだった。きっと良い値段がつくとリッドは上機嫌だ。
 ファラが、後ろを振り返った。
「お疲れさま」
 微笑まれて、リッドは呼吸するのを忘れてしまった。ぎこちなく首を振るのが精一杯で、とにかくこちらを見ないでほしいということばかり願った。それが通じたのか、ファラは直ぐに前を向いて、子供達の手を引いた。
 ようやっと息を吐き出すことの出来たリッドは、疲労が増していることに否応無く気付かされる。
(まいったな)
 空を仰ぐと高い空が目に染みる。
「リッド」
 舌足らずな口調が名前を呼んだ。足元を見ると、先ほど纏わり付いてきた男の子が何かを差し出している。森でよく見かける花だと思い当たると、リッドは首を傾げた。リッドを他所に、男の子は体を屈めろと腕を引っ張った。
「またそのうち教えてやるって言っただろ?」
 頭を撫でながら、言い聞かせる。その手を振り払われ、リッドは少しむっとした。
「ファラにあげたいけど、リッドにやる」
 その言葉が余計に癪に障った。けどってなんだよ。けどって。顔を引きつらせながら受け取ると、リッドはあることに気付いた。花を握っていた手を取る。
「お前、これしか取れなかったんだな」
 歯を見せ、意地悪く笑うと男の子はあらぬ方向を向いて口の中で言い訳らしいことを呟いた。見かけとは違い葉が剃刀のようなこの花は、手をかけようとする者に凶暴なのだ。表面に生えた細かい棘と葉が、容赦なく攻撃する。採るにはちょっとしたコツが必要で、それを知らなければこの手のようになってしまう。
 傷は清められていたからまだいいものの放っておけば腫れて、痛くて眠れなくなるところだ。
 彼女が治療したのだろう。手際が良い。それにしてもこの花は、謝礼なのだろうか。
 あまり嬉しい物ではないが、男の子なりの誠意なのだと思うと、ここは神妙に受け取らなければなるまい。
 なにせ、ファラへの贈り物だった花だ。
 わずかな時間教えただけだが、師に対する心構えの出来た奴ではないか。こいつはきっと、侠気のある人間になるに違いない。
「よし、もうひとつだけ教えてやる」


 夜が最後の迎えが来ると、すっかり暗くなっていた。
 家々から団欒の光が窓から漏れているのを見て、下腹の辺りが寒くなるような感覚をリッドは覚えた。毛皮を担ぎ直すと足早に自分の家へと向かう。その後ろを、残っていた一人が付いてくるのを確認すると、リッドは顔を綻ばせた。
 自宅へ入り、窓を開けるとこもった空気が外へと逃げる。一息つくと、ファラを振り返った。
 彼女が、じっと何かを眺めていた。やや萎れかけた花を見る瞳がひどく優しげで、それだけでリッドは居心地が悪くなる。なんでだろう、ここは自分の家なのに。顔を背けると、急いで言った。
「やるよ、それ」
 折角もらったものだが、元々彼女に渡されるものなのだ。ほんの少し罪悪感はあったが、花だって喜ぶ人に愛でられるほうが本望だろうと考えたのだ。
 しかしファラは首を横に振った。
「ううん、これはお守りだから」
「お守り?」
「うん」
 何のことだろうと首を傾げると、ファラが顔を覗きこんできた。
 顔を近づけないでほしいと思うも、目が離せない。これはもしかして、と甘い香りにくらくらしながら手を伸ばす。
 その手をファラは受け入れた。悪戯っぽく笑うと、リッドの髪を優しく梳く。
「悪いことをすると、狼さんになっちゃうから」
 ファラがこんな風に笑うところを見たのはほんの数えるほどしかない。
 背中をぞくぞくしたものが登るのを感じても、リッドは体が動かなかった。