地面を蹴るようにして上った先の風景にファラは息を呑んだ。ごくゆるやかな傾斜を青々とした草むらが覆い隠すようにしている。暮れかけた日にさらされる草の色はあまり馴染みのない色なのに、どこか安心感を覚える。草の丈はくるぶしをくすぐる程度だろう。端から端までの距離はぐるりと視線をめぐらすほどあって、それが途切れるところからは空が始まっている。
森のない丘陵の広さと珍しさに目を細めているとふと何かに気が付いて目を凝らした。立っている場所から大分離れたところに見える茶色の点の正体を見極めようとしているファラの背に遠慮のない声がぶつかる。
肩越しに振り返ると呆れ顔のリッドが見えた。
「何してるんだよ、さっさと行くぞ」
見上げる形になりながらリッドは出来るだけ苛立ちを抑えようと努力もしていた。片方に鬱蒼とした森、もう片方に急傾斜の丘を従えた平坦な道を二人は進んでいた。昨日立ち寄った村で譲ってもらった古い地図にある道を通ることにしたのだ。譲ってくれた老人は獣が出ることを忠告してくれたがファラは軽く肩をすくめてご心配なくと笑って見せた。
ちらりと意味ありげな視線を寄越されてリッドも肩をすくめた。こうして今日の道筋は決まったのである。
ほとんど巡ったと思っていた世界も存外に足を踏み入れていない場所が多かった。のんびりと二人並んで歩きながら他愛のない話をするのも悪くないと思っていた矢先にこれだ。
ファラの悪い癖は思いついたら行動せずにいられないことだと溜息をつく。
地図とにらめっこしていたのに急にファラが丘を登り始めたのでリッドはぽかんと口を開けるしかなかった。
天然の壁みたいな土をはずみをつけてのぼっていったファラは、てっぺんに着くと今度はほうけたようにじっとなってしまった。彼女が気を取られているものに興味がないわけではない。しかし人間は直立して歩く。高いところをのぼるのには自分の体を押し上げ続けなくてはならないから、ファラのように身軽にいけそうにもなかった。リッドがここをのぼるのはとても骨が折れることだろう。
「ねえ、こっちにきて! リッドも見てみなよ」
言うが早いかファラは草むらを駆けた。
ちょうど下にいたリッドからは丘の向こう側へ飛び降りたように見えて少しうろたえる。
くたびれることも考えずに後を追い、てっぺんからの急傾斜に備えていた足がしっかりした地面を踏んだので体が前のめりになる。見回してみればひらけた土地になっていて慣れ親しんだ少女以外の影はなかった。
その肝心のファラは草むらに一本だけ生えた楡の木の下で手を振っている。
肩をいからせながら近寄ってもちっとも気が付いていないようでにこにこしている。
気持ちいいねえとのんきに言われて頭痛がした。
「予定は変更。今日のベッドはここにしよう」
弾んだ口調でファラは言った。本当なら河口に近い村のはずだった。
追われるように旅をしている頃とは違い行程も気分にも余裕がある。たまたま見つけた寝転がると心地良さそうなここにファラは誘われている気がした。気紛れをおこすなというほうが厳しい。荷物を下ろし楽しそうに野宿の準備をし始められては何もいえない。何度目かの溜息をつくとリッドも荷物を下ろした。
野営の準備をすっかり整えると日が草地の端に消えていった。
手際良く簡単な夕食を作るファラのそばでリッドは辺りを見回す。楡の下はこしらえたように葉が作る影の分のだけ土が露になっていて、二人が腰を落ち着けるのに都合が良かった。
楡の背があまり高くないのは土がやわらかいせいだろう。道を挟んだとこにある森とは質が違う。運よく根付くことができたのはこの木だけで、あとは草に取って代わられたらしい。
地図を開いて地名を確認しようとしたリッドは眉をひそめた。
「う、なんとかの、丘」
一緒になって地図をのぞきこんだファラはたどたどしく読み上げる。
古いせいか文字が掠れていて読み取りにくい。
「使えねえなあ、この地図」
投げやりに呟いたリッドを宥めてからファラはまた食事の準備に取り掛かった。香ばしい匂いについ頬がゆるむ。草の先を揺らすそよ風が鼻先をくすぐるのがこそばゆい。
すっかり日が落ちて辺りが暗くなっても太陽の熱を吸収していた土のおかげかそれほど寒くない。
季節も寒さと縁を切っていたから居心地が良い。けれど胸の辺りにあるしこりは頑として立ち去ろうとしなかった。リッドは重苦しく息を吐く。
二人は旅をしていた。
あちこちを訪ねてはその地に伝わるちょっとした朗話を聞いたり名産品に舌鼓を打ったりと気楽で気ままな旅だ。
故郷を出た時のことをリッドはよく覚えていない。最初の旅と同じくあっという間に村の外に出てしまったファラを追いかけることばかり気にしていてそれどころではなかった。
どうして旅をしているのかもよくわからないけれど、ファラが毎日楽しそうにしているのでまあいいかと思っていた。
しかし、自分の考えが甘かったと最近は思い知らされている。
全部と言えないかもしれないがとにかくやるべきことが終わって、別れた世界にいる仲間とも再会し互いの無事を喜んで、それからリッドとファラは故郷へと戻った。待ち望んだ生活へと戻るのにそう時間は掛からず、むしろ以前とは違いファラといる時間が格段に増えた。思いがけない変化に戸惑うどころかリッドはそれが当然だとばかりに順応していた。
たまに交わす挨拶よりも毎日ちゃんと顔を見にいくのが当たり前になった。
そうなると会っていない時間を変に思ってしまう。旅をしている間は四六時中一緒だったせいだと言い聞かせてみても違和感は消えなかった。一人得体の知れないわだかまりと戦っているのをファラは知らないのだろう。旅に出てからもしこりは消えずこうして居座っている。
納得のいく味に仕上がったのか満足そうに微笑むファラを横目にリッドは天を仰ぐ。
十中八九悩みの種はこいつのせいだととっくにわかっていた。あとの残りは、踏ん切りのつかない自分に対してだろうか。鏡を見なくてもわかる。自分は今ひどく腑抜けた顔をして俯き背中を丸めている。
二人きりでいることがこんなに辛いとは考えてもみなかった。
その辛さがリッド一人だけのものだというのが余計に苦しい。
「はい、出来たよ」
差し出された器を受け取って中身を口に入れると良い味が鼻の奥に広がった。
(難しい顔してるなぁ)
さりげなくリッドのほうを窺いながらファラは焚火の明りを頼りに地図を広げていた。地面に広げてその上に覆いかぶさるようにしながら明日の方角などを考えていた。
しかし油断するとすぐリッドの様子が気になってしまい考えがまとまらない。
楡の幹にもたれかかって剣の手入れをするリッドは心から野宿を楽しんでいる風には見えなかった。
薄暗さも相まって赤い髪がかかる目の辺りがぞくりとするほど冷たい。毎日が楽しくて仕方ないファラは申し訳なくなってますます地図に顔を近づける。丘の名前は相変わらず不明だがなんとか本来の目的地への道を見つけた。
昨日は気が付かなかったが、この丘を通り抜ければ大分近道出来るらしい。
明日は確実にベッドで眠ることが出来るだろう。そのことにファラはほっとした。
しばらくしていなかった野宿に彼がへそを曲げているのかと思ったからだ。
ざわざわと草の立てる音は耳慣れると程よい子守唄にも聞こえるのに眠る気にはなれない。一度帰った故郷を飛び出すとき、ファラはそれほど深く考えていなかった。荷物の整理をしている最中に出てきたドエニスのポプリにふと気付かされた。見慣れた花の知らぬ姿はファラの心にぽんと入り込む。
ずっと前だけを見据えていたせいか色々と見落としてきたものがあるのではないか。
そう考えたらもうじっとしていられない。潮風の匂いや砂漠の暑さ、そういった新しいものに触れる喜びを求めてもう一度旅に出たくなった。
リッドが一緒に来てくれて、どれだけ嬉しかったことだろう。我侭な動機を聞かないでいてくれるリッドの優しさがありがたい。
最初からわかっていたのだ。彼なら放っておかないし、だからといって無理に止めようとしない。
昔からそうしてきたから急にこの構造が変わるなんてこれっぽっちも考えていなかった。地図をたたみながら再び目をやるとリッドも剣の手入れを終えたのかぼうっとした目で焚火を眺めている。
「ここって、なんていう場所なのかな」
夜の落とす沈黙に負けないようファラは声を張り上げた。黙ったままでいるのはどこか心苦しい。
話を振るのはいつもファラからだった。言葉も無くじっと見詰められるとどうしていいかわからなくなる。
無意識的にリッドを避けてのことかもしれない。
彼の瞳にじっとなりをひそめる正直な感情を受け止めるのにファラはまだ準備が出来ていなかった。
「さあな。地図が見れないんだからわからねえよ」
ぶっきらぼうに言ってリッドはすぐに後悔した。
「だよねえ、困ったな」
苦笑させたいわけじゃないし話したくないわけでもない。全然違うことを考えていたせいでつい乱暴な言い方になってしまった。
はぜる音にあわせて火の粉が舞う。
目がしょぼしょぼして膝を抱えて座るファラの姿がぼんやりとして見える。肩幅は細くどこか心細げにしている様子を間近にしてまともでいるのが難しくなってきた。行く先々で恋人なのか夫婦なのかと詮無い詮索を受けるたびに愛想笑いでやり過ごしてきたが、普通に考えてみれば不思議に思う。
自分達は一体なんなんだろう。
(どうにかしてくれよ)
こんな中途半端でいるのは辛い。
どうにかしたいと願っている自分をどうにかしないと取り返しのつかないことになりそうだ。こんなにすぐ近くにあるんだから引き寄せるのは案外簡単なのかもしれない。彼女が自分を嫌っているなんてことは絶対ないだろう。むしろ好いていてくれるはずだ。
その確信を持てないのが辛い。
リッドの中では今二つの勢力が一進一退を繰り返しながらせめぎあっていた。愛しい少女に触れてみたいという原始的な欲求と傷つけたくないという紳士的な理性はどちらも譲らなかった。
短い溜息を吐いて立ち上がるとリッドはファラのすぐ傍まで行って膝を付いた。小首を傾げる仕草にくらくらするがなんとか持ちこたえる。手が伸びようとするのを必死で抑えつつ表面上は落ち着いて言った。
「なあファラ、聞いてもいいか」
少し見下ろした形の体がびくりと震える。
視線を彷徨わせるなんてらしくない。僅かに頷いたのを見てから続きを言おうとして息を止めた。ファラが胸に飛び込んできたのだ。咄嗟にリッドは剣を引き寄せた。獣らしい気配は感じなかったが彼女の怯え方が尋常じゃない。
幽霊の類である可能性を頭から蹴っ飛ばして肩を抱いてやると落ち着いたのかファラは静かな声で囁いた。
「何かいるよ、リッド、こっちを見てる」
鼻先に甘ったるい汗の匂いがする。勘弁してくれよと口の中だけで言いながらリッドはあたりを見回した。
確かに小さな光が転々としこちらを見ている。その高さは草の丈より小さいくらいだろうか。
暗闇に慣れた猟師の目はそれがなんなのかすぐわかり、リッドは大声で笑った。わけがわからないといった顔をするファラに目配せすると剣の代わりに焚火から枝を一本拾った。
先っぽに炎を灯らせ光のほうへかざすと後ろ足で立ったうさぎの姿が浮き上がった。こげ茶や灰色の毛の鑑賞者達が三々五々に散っていく。
「ここが寝床だったらしいぜ。悪いことしちまったなあ」
悪びれない口調でリッドは笑った。人に近寄ってくるということは自分達が珍しかったのかもしれない
小さいくせにファラを脅かすなんて大した奴らだと楽しむ気分のほうが大きい。
その野次馬根性が恨めしくもあるがリッドはおかしくてたまらなかった。
「そっか。うさぎの家だったんだ」
夕方に見た小さな点の正体がやっとわかった。正体は知ってしまうと呆気ない。
慌てて体を離すとファラは自分の髪をくしけずった。
リッドが言おうとしていたことに怯え、小さなうさぎも見分けられなくなってしまったのが恥ずかしい。
まだ心臓がうるさく騒ぎ立てている。
勢い飛び込んでしまった胸の広さを考えないようにしながらリッドに向き直る。今度は慌てたりしない。聞かれたらちゃんと答えようと覚悟を決めていた。
「ま、いいか。また今度で」
大衆に見られながらの告白は趣味ではない。
本当に大事なことは二人きりになってちゃんと目を見て話さなくてはいけないのだとリッドはようやくわかった。それにファラが頼るのは他ならぬ自分だということに満足もしている。抱き寄せた体はやわらかくて華奢で、少なくともちょっとは足しになった。リッドが厳しい表情が消え楽しそうに笑っているのでファラも嬉しかった。
- 06.04.01
あとがき