ごく自然にやれたと思う。
 やさしく引き寄せて手の甲にちょんと口付けした姿は中々様になっているんじゃないかとさえ思っていた。
 けれどびっくりしたように見開かれた目のおかげでリッドはどうしていいかわからなくなった。
 似合わないことをした自覚は多少ある。だからといって目の前のものが信じられないという顔をされてしまうのは辛い。多感な部分が針の筵に放り込まれたようだった。
 気紛れを起こさせたのは歌いだしたくなるような陽気も浮き足立つ春風の匂いとも関係が無い。
 たしかに突拍子も無い行動を取らせる触媒としては充分なのかもしれないが、リッドは天候一つで軽はずみなことができる性格ではなかった。
「おまえ、なあ。んな、大げさに驚くなよ」
 昼下がりの道は人通りが少ない。暖かい日差しからたっぷりと熱を蓄えた土の道は僅かにけぶっている。今ではすっかり日常になった二人での帰り道にリッドの声がむなしく響く。恨みがましさを滲ませてしまうのが情けないやら恥ずかしいやらで頬に血が集まってしまう。
「だって、リッドがへ、変なことするから」
 喉から出かかった文句をどうにか抑えてリッドは歩き出した。家へとわき目もふらず向かう背をファラが慌てて追いかける。

 どすどすと地面を踏みつける様子から相当怒らせてしまったのだろう。ファラは一歩だけ後ろに下がりながらあれこれと考えあぐねた。
 なんてことない話をしていた。
 天気のおかげで苗の育ちが良いとか朝ごはんのくるみパンは気に入ってもらえたかとか。ありふれた会話の端々がファラの背や首筋をくすぐっては溜息をつかせる。ずっと明日を共有していくということの嬉しさがつい表に出てしまうからだ。けれどふやけた顔はあまり見られたくないという乙女らしい抵抗はいつもあった。
 それらと戦おうとするのに一番の障害は見上げる位置にある彼の瞳だということはよく知っている。悪ふざけのつもりで言った冗談に呆れかえる表情をしていても優しい色が失われない。
 すると心が簡単に諦めてしまう。
 全部を投げ出してもこぼすことなく受け止めてくれるから観念しろと言われても、ファラは頑張っていた。
 持ち前の前向きさを生かす方向が間違っているのだと彼女は知らないだが、とにかく頑張っていた 。人目も場所も気にせず抱きついてしまえばリッドを困らせることになる。
 それだけはなんとしても避けたかった。
 だから押し付けられた唇がとても熱かったことは思い返さないようにしていた。

自分達にはリズムが出来ている。そう言われたのはわりと昔のことだが、今になっても変わらないのは深刻だった。
急激に変えたいとは願っていない。ただ幼なじみのままでいるのはリッドを悩ませていた。
 普通が一番だと思うのに満足できない。
 小さな頃と全く変わりなく接してくるファラに健全な青年は言いようのないジレンマに陥っていた。
 そのせいだろうか。突然頭に浮かんだ彼女の表情をどうしてもみたくなった。恥ずかしげに目を伏せ頬を染める姿は明るいところでは珍しい。歯が浮くような台詞は自分でも我慢できなかったので小さい手を取り唇を寄せることにした。
 いつか見た劇の主人公がしていたような仕草は気障な上におおげさだったので眉をひそめていたのだが、後ろから付いてくる少女は大いに瞳を輝かせていたのを覚えていた。
 寸分の違いも無く、むしろ想像以上にきまっていたと思う。
 結果は予想をはるかに飛び越えたものだったのでリッドはやり場の無い苛立ちを抱えることになってしまった。

 家の玄関に手を伸ばしたリッドの背にファラは体を押し付けた。怒らせたのはきっと態度が悪かったからだ。
 意味もなくああいうことをするリッドでないことはずっと前から知っている。振り返ろうとする体を押さえながら素直にならなくてはと自分を励ます。
「さっきのリッド、ちょっとどきどきしたよ」
「ちょっとってのが、余計傷付く」
「あ、うそうそ。ほんとはすっごくしたんだから」
 耳にまで血が集まってしまう。不意打ちをしたつもりのリッドはすっかり返り討ちにあっていた。
 ぎゅっと服を掴む手が余計に負けを意識させる。
(だったら少しくらい優位にさせてくれよ)
 頭の隅にしょげかえった犬の姿が浮かぶ。その意味をリッドは考えないようにした。