肩の上をすべっていく明け方の冷えた空気にリッドは軽く身震いをする。
 ぬくもりを求めて毛布の中で腕を伸ばした。ちょっと力を入れて引き寄せればどんな毛布よりもあたたかいものがあると知っていたからだ。
 だから、そこにあって当然のはずの体温がないことをしばらく理解できず、勢いよく上半身を起こし毛布をめくって何もないことを認識した頃にはすっかり目も冴えてしまっていた。
 シーツの上にはほんのりとした体温以外はなく、ようやく窓から差し込んできた白々とした光に照らされるたくましい肩は心持落ち込んでいる。起き出すにはまだまだ早い。
 かといって寝直そうにも、ここにはいないファラのことが気になってとても落ち着いていられない。とりあえずと首を伸ばしてはしごの下を覗いてみたが案の定、人の影すら見当たらない。あたりまえだとリッドは盛大に溜息をついた。
 豊かに繁った枝葉のむこうに巧妙に隠れた鳥も見分けることが出来る猟師が、気配に気付かないはずはない。
 もとよりそれが、笑顔一つでリッドの気持ちを変えてしまう少女の気配なら、真っ先に読み取れる。
 床に固まったばかりの蝋が落ちているのを見つけると、また大げさに息を吐きベッドに転がった。おだやかな季節とはいえ、明ける前はきんと冷えることもある。もっとも空気の澄んだ時だというのに、気分はおだやかではなかった。
(くそ、ファラのやつ)
 抜け駆けされたことが悔しいのではない。それでも被りなおした毛布の下で口が勝手に文句を言ってしまう。
 こういう文句ならいくらでもあった。
 気配りが足りないとか、心配するこちらの身にもなれとか、およそ自分勝手なものが多いがとにかく黙って傍を離れたことが許せないリッドはひたすら不満を口にした。
 もちろん、ファラがぐっすり寝入った自分を起こさないよう細心の注意を払って抜け出したことは簡単に読める。手元を照らす明りひとつだけを持って、音を立てるといけないからと靴も履かずにいったのだ。
 ベットの足元にきちんと揃えて残された二足の靴を見下ろしていると少しは苛立ちも引いていく。
 ぐったりと腕をベッドの端に垂らしていると空気の冷たさが肌に染みた。こんなにも空気が澄んだ日は、気持ちがいいくらい晴れるものだ。頭の隅で猟師の勘が天候を読み取っていたが、だるさが体のすみずみまで行き渡った今は嬉しく思うこともできない。
 ファラは、一人で確かめに行ったのだ。
 寝入る前に交わしたやりとりを思い出しながらごろりと寝返りを打つ。


「リッドの勘違いだよ。ぜったい、一抱えはあったって」
変なところでむきになる癖がちっとも抜けないファラにリッドは適当に相槌を打っていた。幼い頃の思い出をたくさん共有していることもあり、二人はよく昔を懐かしむ。ファラを先頭にラシュアンの森の奥まで冒険したことや、川の魚をどれだけ捕まえられるか競争したこと。どれもが他愛なく、妙なくすぐったさを残すものだ。
 覚えていることを事細かに話してはファラをからかいたがるリッドの反応が昨夜に限ってにぶかったのにはわけがある。帳もすっかり下りたというのに、なにが悲しくて樹について議論しなければいけないのだろう。
 ――あの細っこい木か。
 そう言ってしまった自分が恨めしい。
 今頃山吹色の花を咲き誇らせている木は、リッドの覚えている限りでは片腕と少しで抱えられるほどだったが、ファラはもっと大きかったと頑として譲らない。どうでもいいと投げてしまうのは簡単だが、ファラなら確かめるためにすぐさま飛び出しかねなかった。せっかくあたたまった寝床を離れるのは忍びない。
しかたなく聞き入っているが、内心早く気が変わってくれないかと焦れていた。
「これくらいあったよね?」
腕で輪を作るファラはいたく真剣で、毛布にもぐりこんでくれそうにない。細い首筋を見上げながらリッドは頷いてやった。ほらね、と顔を輝かせ嬉しそうに微笑む。
 納得のいく答えに満足したのか肩から力が抜けた。その隙を見逃す手はない。
 横になったままのリッドに腕を引っ張られ、ファラはほとんど抱きかかえられる形で倒れこんだ。
「もう。いつも、いきなりなんだから」
 不満そうに呟かれても聞かないふりをした。
 ファラが強引さよりもむしろ、肩を抱いてくれる腕のほうに頬をふくらませていたことをリッドは気付かなかった。
 逃げられないようにするためか、きつく堅く、隙間無く体を合わせようとする腕はファラに言わせれば卑怯以外の何物でもない。どんなに甘い言葉よりも、野心的で抗いがたいものがある。
 知らないところはないと自負しているリッドにある意外な我侭さに触れると、息苦しいものが染み出して胸を染める。
 もっと知りたいという思いと、深入りすることへのこわさが混ざった複雑な感情だった。
(甘えても、いいのかな)
 そうっと窺い見るリッドの瞳は、いつまでも寝付かない子供に困り果てた色が浮かんでいる。頬を寄せた裸の胸のかわいた匂いとの差に、つい口元がほころんでしまった。卑怯な所業も全部許せてしまう。
気になっていたこともすっかり頭の隅に追いやられてしまった。
「おやすみ、リッド」
安心しきった寝息を聞き届けるとリッドもやっと眠りにつくことができる。寒くないようにと毛布を甲斐甲斐しくかぶせたときは確かに腕に抱いていたのだ。


 リッドもファラも、それほど寝相は悪くない。毛布を跳ね除けたりする幼い時分はとうに終わっていた。
 なのに、まんじりともせず戻るのを待っていると足が勝手に毛布を蹴ってしまう。
 家の中に人の気配が入ってきたとき、つい安堵の溜息をつきそうだったベッドの隅に蹴り飛ばした毛布を音も立てずに被りなおし、耳をそばだてる。水を使う気配に舌打ちしたかった。裸足で行くことはないだろと、子供っぽいやりかたに腹が立つ。切り傷でも作っていたら怒り出してしまいそうな自分にも腹が立った。
 ファラを心配することがいつの間にか日課になっている。
 それが日に日に深くなっていく病のように性質が悪いのを、リッドはいやというほど自覚していた。いつからこんなに心配性になったのだろう。
 しばらくすると、そろりと様子をうかがいながらファラが近付いてきた。
 自分と全く違う軽い足音は耳に心地よい。狸寝入りを決め込んだリッドはもちろん身じろぎもしなかった。
 ベットがかすかにきしんで傾いてもしらんぷりだ。ほっと息をついたファラが、前髪を撫でてくれる。
 額にほんの少しだけ触れられるくすぐったさに背中が粟立つのを感じずにいられなかった。見た目よりもずっと華奢な手がすぐそこにある。
 ファラが短い悲鳴をあげたすぐ後には、すっかりベッドに縫い付けられていた。あんまり素早く引きずり込まれたので、何が起こったのかわからなかったくらいだ。さあ話してもらうぞと威圧感すら漂う瞳に見下ろされ、言い訳めいた言葉が口をつく。
「ええとね、やっぱりわたしの勘違いだったみたい」
 ずっと昔のことなのにちゃあんと覚えてるんだから、すごいよね。私なんかすっかり忘れちゃってたのに。
 褒めたつもりなのに、リッドの反応は薄い。それどころか、どことなくいじわるな笑みが浮かんでいる。挑みかかるような瞳の色から目が離せなかった。手首を押さえつける力は強く、びくともしそうになかったけれど抵抗せずにいられない。
「で、オレをほっぽりだして満足したか?」
 やぶからぼうに弱いところを突かれて、ファラは一瞬呼吸の仕方を忘れてしまった。そんなつもりではなかったと言おうとしても、喉の途中で詰まって出てこない。にやりと笑ったリッドが慌てる様子を楽しんでいるのがわかっているのに、置いてけぼりにされた子犬のような目の色を見てしまったからだ。
なんて切ない青だろう。

 ひどくいじわるな言い方をしているとリッドは思う。
 でもこれくらい、許されるはずだ。
 隣にいないと気付いたとき、体中の血という血が冷たくなった。どうしてもファラが必要なのだと思い知ることになった痛みは、ちょっとやそっとじゃ引いてくれない。離れていても平気だったのに、いまはこの体たらくだ。溺れていると認めてしまったのだから、付き合わなくてはならない。
 いままで沸くこともしなかった欲というものと戦うには、どれほどの気力が必要なのだろう。まったくの無防備に自分に寄り添おうとするファラを前にして立ち向かうための気力を振り絞るのには、やたらと理性が必要だった。
 ずっと保っていけるだろうかと考えると、自信は限りなく無い。重い考えを振り払うようにひとつ息をつくと、手を離した。からかうだけで済んで良かったとリッドはほっとする。
 だから、ファラにしがみつかれてリッドは狼狽を隠せなかった。
「なんだよ、そんなに寒かったのか?」
 すっかり冷えた手を撫でてやる。
「うん。すごく、寒かった」
 きんと冷えた空気を払いのけようとしてくれるリッドの手はあたたかい。どうしてこのあたたかい寝床から離れることができたのだろうとファラは不思議だった。懐かしい木なら、一緒にいつでも見られるのに。
 二度と一人で抜け出すまいと心に決めたファラは目を細めた。