羅針盤を見つめる横顔は、ひどく苦々しい。
「どうしてもと言うなら、船長の権限で予定を変更しても構いませんよ」
 背中にかかったチャットの台詞に、リッドはかるく嘆息した。
「いつ、どこの誰が、進路を変えろって迫るんだよ?」
 教えてほしいくらいだ、と振り返った顔が言っている。舵を握るチャットが、曾祖父から伝わる自慢の帽子をばつが悪そうに直すと、咳ばらいをした。
「その、なんとなーくですが、そういう意見もあるんじゃないかなーと」
 不機嫌に鼻を鳴らすと、リッドは肩をすくめた。
「ないない。一人でさっさと行っちまう鉄砲玉を追いかけようだなんて、物好きでもなきゃ言わねえって」
「…これは僕の個人的な意見ですが、無理は精神衛生上好ましくないと思いますけど」
「だから、一体どこの誰が無理してるんだよ? んな面倒なんか、むしろこっちから願い下げだ」
「はあ」
 気の毒そうな視線を向けられ、リッドは本気で腹を立てた。どうして自分が、一から十まで気に掛けねばならないのだ。ふいと背を向け見晴らしのよい操縦室から通路へと向かう。
「リッドさん、どちらへ?」
「昼寝だ、ひ・る・ね」
 右手をあげて出ていく後ろ姿を見送ったチャットは、ふと呟く。
「僕、ファラさんを追いかけようとは言ってないんですけどね」
 潮風を切るバンエルティア号の進路は雲ひとつない快晴で、澄んだ空がうつくしかった。


 バンエルティア号でも一番見晴らしのよいところでごろりと横になると、蓄えられた熱が心地よい。視界いっぱいに空を見上げていれば、リッドのささくれた気持ちは、少しなぐさめられる。おだやかな空のずっと高い場所を飛ぶカモメの影がくっきりと見えた。整った眉からようやく力が抜ける。近頃ずっと眉間と懇意にしていたせいか、元の位置に戻るのにずいぶん時間がかかった。
(一人で勝手に、どこでも行きゃあいいんだ)
 村を飛び出した日のように、あっさりと決め、船を下りたに違いない。身軽な体が手を振りバンエルティアを見送る姿まで、簡単に想像できた。目をつぶってもいないのに、風に踊る深い緑色の髪が鮮やかに浮かぶ。
 ファラがいつ振り返ってもいいように、前ばかりに集中している後ろ姿を、いつも眺めていた。
(はっ、どーせまた下手に首突っ込んで困る羽目になるんだっての)
 付き合わされては面倒に巻き込まれてばかりだった。損な役割から、ようやく解放されたのだから、もっと喜んでいいはずだ。なのにちっとも気が晴れない。
 こんなにも空が晴れた、絶好のお昼寝日和なのに、眠気はやってこなかった。
(くそ、なんだってんだよ)
 これ以上考え事はしたくない。頭の中をからっぽにしようと無理やり目をつぶる。船にあたる波の音を聞き、頬をやさしくなでていく潮風の感触を確かめる。しかし、ようやく慣れてきた潮風のにおいが、リッドの神経を休ませてくれない。
(こんなとこで何やってるんだよ、オレは)
 みじめな気分だった。まるで場違いなところに置き去りにされたような感覚は、生まれて初めてだ。

 お気に入りの場所で昼寝をしていれば、あのおせっかいはいつも探しにきた。故郷でも、そして拠点となったバンエルティア号でも、それは変わらなかったのだ。けれど、こっちの都合などお構いなしに自分を起こそうとする元気のいい声は、いくら待っても聞こえてこない。
 ふいに、瞼の上が暗くなる。
「ファ…」
 目を開くと、ちょうど誰かさんが覗き込むように、カモメがリッドを不思議そうに眺めていた。
「おいこら、ここはオレが先にいたんたぞ?」
 リッドの抗議など聞こえないのか、カモメはくちばしで羽を整えている。警戒心が全くない。肩を落とし溜息をつくと、あぐらをかいた膝にひじをついて、水平線に視線をやる。
(ったく、どうかしてるぜ)
 別に、カモメがどうかしているわけではない。
 おかしいのは、自分だ。
 いないとわかっているのに、口が勝手に呼ぼうとするなんて、どうかしている。一通り羽繕いを終えたカモメが飛び立った。あっというまに風に乗り、みるみる遠くへ行ってしまう。別れも言わないカモメの態度が、リッドをひどく窮屈な気持ちにさせた。
(あのバカ)
 何も言わなかったファラが、うらめしくてたまらない。なぜファラは、自分に何も言わず、一人で行ったのだろう。