操舵室の広いガラスの向こうに、凪いだ海が見える。
 いまやバンエルティア号は空も自由に泳ぐようになった。リッドが愛してやまない青空よりもっと高いところ、宇宙という空も行くことができるらしい。宇宙というのは、例えるなら夜空に近いと聞いたリッドは、なんとつまらない場所だろうと思った。
「リッド、ぼくと付き合え」
 そのつまらない場所についてやたらと難しい言葉ばかりを並び立てながら教えてくれたキールに、リッドはいかにもやる気の無さそうな表情を向ける。
「わりい、全然聞こえなかったからもういっぺん言うなよ」
 キールは慣れた様子で、ひややかな視線を返した。
「ちゃんと聞こえてるじゃないか」
 不機嫌そうに肩をすくめたキールが、改めてリッドに向きなおる。
「…情けないが、これから行く場所はぼく一人では心許ない。どうしてもおまえの協力が必要なんだ」
 らしからぬ言い方に、リッドはかるい驚きを覚えた。少し前のキールからは想像もつかない。刺々しさすらあった口調はなりをひそめ、代わりに真摯なまなざしがあった。
「随分丸くなったじゃねえか。長話が大好きなキール大先生はどこにいったんだよ?」
「そ、それは今は関係ないだろ。とにかく、真面目に話を聞け! どうしても確かめたいことがあるんだ」
 リッドが講釈したがる癖をからかうと、ようやく地のキールが戻ってくる。あくびが出るほど付き合いの長い幼なじみ同士だ。やはりいつもの調子が、いちばんしっくりくる。リッドはがりがりと頭をかきながら、日あたりのいい壁によりかかった。
「で、どこに行こうってんだよ?」
 リッドがいつも見守っているバンエルティア号の舵の隣は、からっぽだった。
 船に戻ってから、ルビアがファラから離れなくなっている。きっと今も、女同士のないしょ話をしているのだろう。
 相談してくれなかったとかんかんに怒っていた彼女が、それでもファラの顔を見たら泣き止まなくなってしまって、カイウスが相当困っていたのは記憶に新しい。昔の自分達を見ている気持ちがして、リッドはなにやらこそばゆくてしかたなかった。涙を流すときを自分で決められるようになったリッドは、ほんの少しだけうらやましくも思っていた。ああいう風にふるまうのは、なかなか難しい。背も伸びきり肩幅も広くなった体は、子供らしい器用さをどこかに置き忘れてきてしまうものだ。
「あれから考えたんだ。ぼくは、いや、ぼくらは思い違いをしていたのかもしれない」
 リッドは口を挟まず、ただ視線を返した。
「ぼくらは子供だった。そうさ、何もわからない子供だった。全ては子供の遊び心からの事故だったんだ」
 キールの口調に後ろめたい響きがにじむと、リッドの舌にも苦みが広がった。自分とキールにはすでに過去のことでも、ファラはたった一人10年もの間苦しんできた。そのことが、二人をどうしようもなく切ない気持ちにさせる。
「けど、今は子供じゃない。少なくとも、今のぼくらなら真実に近づくことができる」
 リッドの青空をうつした瞳がかすかに細められた。
「ぼくらの村とシブースト村の事例、減少の一途をたどるマナ、そして現在の世界は、呼称は非科学的で気に入らないが、負が蔓延している。これら全てが偶然なはずは」
「オレは行かないぜ」
 さえぎるように口を開いたリッドに、キールは頭から冷水をかけられた気分になった。
「ぼくの話を聞いていなかったのか、あれは事故じゃなかったかもしれないんだぞっ」
 声を荒げたキールがあわてて自分の口元を押さえ辺りを見回した。確証がないうちはファラの耳にいれたくない話だった。操舵室に、リッドとキール以外の姿はない。階下のホールもしんとしている。キールは胸をなでおろした。
「もう一度祠を調べてみるべきだ。そうすればファラだって」
 なおも言い募ろうとしたキールは、背骨が芯から凍る感覚に襲われた。刺すような冷気がどこから来ているのかしばらくわからずにいたが、それが他でもないリッドの視線だと気付き、わけがわからなかった。それ以上言うなら、とリッドの目は強く警告している。
 口をつぐんだキールに、リッドははっとしたように視線を伏せ、細く長く息を吐いた。ふたたび顔を上げたときには、いつものどこか子供っぽさの残る瞳に戻っていた。
「オレはおまえみてえに勉強もできねえし、難しいこと調べろーって言われてもさっぱりわかんねえ。でもな、おまえより少しはわかってることだってあるんだぜ」
「なんだ」
 直接口にするのは、なぜかはばかられる。
 とんでもないことを言おうとしていると、リッドに自覚があるからかもしれない。
「おせっかいで、むてっぽうで、正義感のかたまりみたいなやつのことだよ」
 今度はキールがはっとした。
「…そうだったな」
 少し照れくさそうに頬をかいているリッド以上に、誰がファラをわかっているだろう。キールがしようとしたことは、ファラの傷口を乾かすことではなかった。たとえ事故でないことを証明しても、時間は戻らない。だからこそリッドは、あれほど恐ろしい目をしていたのだ。リッドはずっと、ファラを傷つけようとするものから、守ってきた。それは幼なじみであるキール自身がよく知っている。
「ま、どうしても調べたいってんなら付き合ってもいいぜ。おまえがからからになってるのを発見するなんて、夢見がわるいからな」
 にいっと人懐っこい笑みを浮かべるリッドに、キールも笑い返した。
「馬鹿にするなよ。ぼくはそこまでむてっぽうじゃないさ」
「そうかあ? どんくさいところはちっとも変わってねえじゃねえか」
「そういうおまえも、食べることにだけ熱心なのは相変わらずだよ」
 相手にしてられない、と背を向けたキールに、リッドは肝心なことをつけ足した。
「大丈夫だろ、ファラなら。もう心配ねえって」
 それくらいわかっている、と言うかのように片手をあげたキールは、そのまま下へおりていった。
 自分から頼んだ割に、間違いを認めたがらないところは直っていないらしい。まだまだしばらくは、怒りっぽいままなのだろう。当分の間は我慢してやるしかない。

(思い違い、か)
 さらに後ろに体重をかけ楽な姿勢を取る。
 力の抜けた上半身に反比例して、リッドの頭の中はあのときのことでいっぱいになる。生暖かい風が頬にあたる感覚も、危険だと知っているからこそわきあがった子供っぽい興奮も、そっくりそのまま残っていた。
 あのとき、ファラは、純粋な好奇心から祠に触れた。そして祠から、くろいおばけが手を伸ばしたのだ。
 とっさに体全体を使い、リッドはファラを抱きかかえた。倒れ込んだ際、口の中に入った土の味まで舌に残っている。浅く繰り返されるファラの呼吸まで覚えているので、リッドは苦笑を浮かべた。小さな手がぎゅっと自分の服をつかむ感覚さえ、こんなにも鮮明だ。
 なのに自分がどういう状態だったのか、全く覚えていない。
 ただ、くろいおばけがファラの大きなはしばみ色の瞳にうつらないように、けしてファラに触れないようにと、強く願っていた。ひやりとした感触が背中に走った瞬間、体中の血が熱くなり、リッドの意識は遠のいた。
 気を失っていたのはほんの一時で、激しく揺れる地面に目を覚ますと、くろいおばけはいなくなっていた。
 それからリッドは、青ざめ震えるファラと泣きじゃくるキールの手を引いて、急いで山を下りたのだ。
(思い違いだよな、たしかに)
 あれはこの世のものではない。リッドにわかったのは、それだけだ。あの祠には、既に何もいなかった。それに気付いたのが自分だけだというのもわかっていた。くろいおばけがなんだったのかも、封印がなぜとけたのかも、今となってはわからない。
 代わりに、守る力だけはあった。
(神様が授けてくれたってか)
 ファラを守れる、自分だけが守ってやれる力を、この手に持っていた。