奇妙なことだが、リッドは自分が夢を見ているのだとわかっていた。
(こういう妙なこともあるもんなんだな)
夢だとわかったのは、窓から差し込む朝日の色やかまどの火がはぜる音がするのに、ものの気配がひどくぼんやりしているからだった。体の下にあるベッドのかたさが、ちっとも感じられない。手足がどこにあるかつかめないくらい、体の感覚もにぶかった。
そんなちょっと珍しい状況ではあったが、当の本人は至ってのんびりしている。
(ま、そのうち起きるだろ)
獣を追う猟師だからか、寝起きはいいほうだ。だからそのうち体が起き出すだろうと、リッドは身構えることもなく待っていた。
だが、この待つというのが意外とやっかいだった。空なら何時間でも眺めていられるが、夢だとわかっている今は、何かと不自由なのだ。今日はどのくらい獲物をとるかと考えてみても、意識が夢を見るほうに力を注いでいるのか、なかなか集中できなかった。かといってもう一度寝入るということもできない。なにしろ、体のほうは眠っているからだ。
なのでリッドはいさぎよく意識に従い、目が覚めるまでの少しの間、夢を見ていることにした。
鍋がくつくつと沸く音が聞こえる。とんとんと小気味よい音は、包丁が野菜を刻む音だろう。窓からの新しい日差しは、体をあたためてくれるような気がする。
(……ああ)
リッドは内心、うめきとも感嘆ともつかない声をあげた。
ずっと昔に、同じ音を聞いたことがある。
父親が朝食の支度をする音に幼いリッドが起き出すと、まだ眠っていていいと、父親は言うのだ。そして準備だけ済ませると、早朝の狩りにでてしまう。けれどリッドが再び起き出す頃には必ず戻ってきて、いっしょに食事をした。幼い頃、ベッドの中で聞いていた、あのやさしい音がする。
胸の底に、ゆるゆるとなつかしさが広がった。おぼろげな記憶に残る穏やかな笑顔に、誇らしささえある。
一方で、リッドは自分が寂しさを感じていないのもわかった。
父を失った痛みを忘れたわけではない。けれど、もう親を恋しがる子供でないのは、自分がいちばんよくわかっている。だって、子供のままでは、大切な人を守れない。
だから最初から夢だとわかっていたのだと、リッドは気付いた。
少しすると、やさしい音がやんだ。まだ懐かしんでいたかったと、リッドはほんの少し残念に思う。
それにしても、夢というのはあれほどはっきり音が聞こえるものだったろうか?
「リッド、リッドってば」
前髪をやさしくひっぱられ、リッドは小さくうめいた。すぐ目の前に大きなはしばみ色の瞳があって、ぎょっとする。
「……ファラ」
「ほら、起きて起きて。あれ、もしかしてねぼけてる?」
ぼうっとしたままのリッドにひらひらと手を振りながら、ファラはおかしそうに笑った。
「リッドが起きてこないなんてめずらしいね、もう朝ごはんできてるのに」
言われてすぐ、食欲をそそるいい匂いが鼻をくすぐってきた。我ながら現金なものだ。
「お、オムレツだな?」
「さっすがリッド、においだけでわかるんだ」
「今更ほめたって何もでねえぞ」
軽口を叩き合いながら、リッドの意識はもう今に戻っていた。日の昇り具合からすると、少し寝坊したらしい。早く顔を洗ってと急かす明るい声に、体も目覚めていく。すっかり準備のととのった食卓に、当たり前のようにファラと向かい合わせで座ると、リッドは奇妙なむずがゆさを感じずにいられなかった。
「じゃ、お昼すぎたら雨になるかな?」
「たぶんな。風も強くなるだろうから、畑も早めに仕舞いにしろよ」
「ん、わかった」
朝食の後片付けを終えたばかりのファラが、子供のように神妙に頷いた。狩りに出る支度をしていたリッドの口元が、自然とほほえむ。昔から、ファラのこうした信頼を寄せてくれる態度が、くすぐったく心地よかった。きっと、ファラはそれを知らないだろう。
癖のように剣に刃こぼれがないかをもう一度確かめていると、横の髪が流れて目にかかった。リッドはそれを片手でうっとうしそうにかきあげる。
「あ、リッド、ちょっと待って」
何かに気付いたように、ファラが声をあげた。顔を上げると、前置きなしにファラが手を伸ばしてくるところで、リッドは反射的にファラから剣を遠ざけた。
「な、なんだよ?」
自分のものでない細い指が、髪をすいている。確かめるように動いていく指先を、五感がひたすら追っていた。ファラは爪先立って、しげしげとリッドの髪を眺めている。
「ここ、寝ぐせついてるよ」
変な方向に跳ねた髪をつまむと、ファラは目を細め笑った。リッドは、思わず目をそらした。
今、何を考えていただろう? ごく近くにある唇を、自分はどうして見つめ続けていたのだろう?
(……どうかしてるぜ)
苦い表情を浮かべたリッドに、ファラはなぐさめるように寝ぐせのついた髪をなでてやった。
「やっぱり、伸びたね」
「ん?」
懐かしむような表情を浮かべたファラは、そっと指を離した。急に心許ない気分になったのに、リッドは自分でも驚いていた。
「リッドの髪。少し、長くなってるよ」
ああ、とリッドは剣をわきに置いてから頭に手をやった。そういえば、しばらく散髪した覚えはない。あの旅が終わってから……と記憶をたどっている最中、リッドははたと気付いた。
「ちょい待て、やっぱりってなんだよ、やっぱりって」
「起こしたときもね、なあんか変わったなあって気がしたんだけど、そっかそっか、髪が伸びてたからだったんだ」
悪びれもなく言うファラに、リッドは深々と溜息をつくしかない。
「おまえな、のぞき見なんて趣味わりいぞ。大体なあ」
嫁入り前の娘が、と言いかけ口ごもった。
リッドがいきなり黙り込んでしまったので、ファラは不思議そうに首を傾げている。
「リッドの寝顔、かわいかったよ?」
クィッキーをほめるときのような言い方が、ぐさりときた。思わず眉がつり上がる。
「あ、の、なあ。オレはそういうことを言ってるんじゃねえよ」
「じゃあどういうこと? 大体、なあに? 続きは?」
大きな瞳が、じっと見上げてくる。心なしか、ファラの瞳に楽しそうな気配があるのは、目の錯覚だろうか。
(どう言やいいんだよ)
もう旅をしているわけではない。それぞれの家がある村での生活に戻ったのだ。けれどこうして、食事を共にし、空いた時間はいっしょにいる。これでは、まだ旅を続けているようなものだ。そして、自分はそれを当たり前に思っている。なのに元の生活に戻ったと言えるだろうか。男には不用意に近づくものじゃない、もう少し娘らしい自覚を持てと、言う資格があるだろうか。
なんと答えたものかと迷っていると、リッドはまた無意識に手で髪を押さえていた。
「でも不便そうだね。髪、切ってあげよっか?」
好奇心を満たすことよりも、リッドのことを考える声音でファラは尋ねた。
「じゃまになるんでしょ? さっきからずっとそうしてるもんね。少し切ったら、さっぱりするよ。ちょっと待ってて、すぐ準備するから」
さっきから。そのたった一言に、鼓膜がじいんとしびれたようになる。リッドはゆっくりした動きで首を振った。
「いいって。面倒だし、わざわざ切るほどでもねえよ」
「そお?」
「紐とかねえか? 適当なのでいいから」
「んー、たぶん、あったと思う。とってくるね」
言うなり、背を向け自宅に戻っていく。昔からファラの行動はいつでもすばやかった。けれど、あの指の感触は違う。リッドの内側に快い感覚を呼び起こし、いつまでも味わっていたいと思わせる。それは、困る。
重い溜息をついたリッドは、もう一度食卓についた。腹は満たされているのに、空腹感があるような気がしてならない。自分の家がいきなり広くなったように感じるのと、無関係ではないのだろう。
つまり己の複雑な感情をまとめてしまえば、こうだ。ファラがいないのは、寂しい。
(説教なんか、できる立場じゃねえよなあ)
今朝の夢は、至極いいものだった。思いがけずなつかしい記憶がよみがえった、あたたかい気持ちはまだ残っている。あの夢をもたらしたのがファラなのは、はっきりしていた。
ファラの気配を感じなかったのではない、感じるのが普通になっていた。それは確実に、以前の生活にはなかった項目のひとつだ。
(なら、まだ旅を続けてるってことか?)
そうではない、とリッドの意識はきっぱりと否定している。
困っている人をほっておけない、から始まった旅。
他人の気持ちをやさしく汲み取ることのできるファラがいたから、エターニアを救えたといっても過言ではない。実際改めて考えてみると、ファラがいなかったらリッドは旅に出ることさえしなかったと断言できる。
そのファラは、自分よりも先に、髪が伸びていることに気付いた。旅をしている頃、ファラは仲間ひとりひとりに心を配っていた。今のように、リッドだけを見ているというのは、旅の中ではなかったことだ。
(元の生活でもなけりゃ旅でもない。じゃあ、なんだってんだよ)
リッドはもう、認めざるをえなかった。
中途半端にではなく、朝も昼も夜もファラを自分のものにしていたい。伸びた髪に気付いてくれたように、四六時中自分のことを考え、見ていてほしい。
(どうかしてるぜ)
正気を失っていないのに混乱している。リッドはごまかすように、がりがりと頭をかいた。
これほど強烈な欲を抱いたことは一度もない。野心や野望といったものには縁のないリッドは、この欲を扱いかねた。手強い獲物を捕らえた時などになら、軽い興奮に酔うことがある。それとは比べものにならない凶暴な衝動が、しきりとささやいている。ファラに手を伸ばせ、と。
リッドは奥歯を噛みしめると、ためていた息を吐き出した。二度三度深く呼吸を繰り返すと、内に燻っている衝動も散っていく。あとは蓋をしてしまえばいい。自分の欲しがる気持ちと、ファラを傷付ける可能性とを比べれば、理性を取り戻すのはさほど難しくなかった。
「お待たせ。はい、ちょうどよさそうなのがあったよ」
走って戻ってきたのか、ファラは少し息を弾ませている。気配を感じていたリッドはもう立ち上がっていた。
ファラが差し出した茶色い細めの革紐は、たしかにリッドの赤い髪に合うだろう。ファラのそういう心遣いが、リッドはうれしかった。これで充分だと思おうとした。
無造作に髪を後ろにかきあつめるリッドの仕草を、ファラはじっと見つめている。リッドが口にくわえていた革紐を手に取ると、ファラがぽつりとつぶやいた。
「なんか、ふしぎだね」
「なにがだよ?」
「リッドがそういう風にしてるのが。なんか、ぜんぜん知らない人みたい」
「……んなわけねえだろ、なんも変わんねえぜ」
動揺を隠しながら言うと、ファラはいっそう真剣な顔になった。
「ほめてるんだよ。なんていうのかな、大人っぽいっていうか、えっと、男の人ってかんじがして」
リッドが髪を結び終えると、ファラはなぜか言葉を詰まらせた。大きな瞳は、リッドから目を離そうとしない。うるんだような瞳を向けられ、リッドは内心うろたえた。やっと、あの衝動を抑えたところだったのに。
リッドがそろそろ視線に耐えられなくなりそうになると、ファラはやわらかくほほえんだ。
「かっこいいよ、リッド」
リッドは顔が赤くなるのがわかった。ただ髪を結んだだけなのに、ファラに改めて言われるのはどうにも照れくさい。
「ばぁか」
「ほんとだって、すごくかっこいいよ」
とうとう耐えきれなくなって、リッドは剣をとると背を向けてしまった。早足で玄関を出ると、ファラもその後についてくる。
しげしげと眺めてくるファラの視線から逃げるように、リッドは薄い雲の広がった空を仰いだ。雲の動きは早い。夕方になる前にもっと厚い雲が広がっているだろう。ふと見下ろすと、ファラもリッドと同じに空を見上げていた。ファラはすぐに気付いて、空からリッドに視線を移した。
「いってらっしゃい。今日も大物、期待してるからね」
「わーってるよ。そっちもあんま遅くなるなよ」
それぞれ森の方へ、畑の方へと別れる。
森へ向かうこの時間は、毎日の、変わらない日常が繰り返されていることをリッドに報せてくれた。一時期はこの時間を取り戻したくてたまらなかったのに、いざ戻ると、事情はすっかり変わっていた。
無意識にファラの言葉を反芻しながら歩いていると、リッドはまた視線を感じた。振り返ると、離れたところでファラがまぶしそうにこちらを見ている。リッドが振り返ったのを見て、ファラは大きく手を振った。
軽く手を振り返しながら、リッドは思った。ファラのこぼれるような笑顔を、手放すことなどできない。
たしかに元の生活に戻れないわけではなかった。けれど戻るという選択肢は、もう自分の中には無いのだ。
- 10.06.07
あとがき