ファラは自分でもびっくりするくらい、はっきりと目が覚めた。というのも、眠りが深いほうだと、ファラ自身も思っていたから、ほんとうにおどろいたのだ。
 眠りから覚めた視線の先に、重なり合った服がくたりと床に寝転んでいるのが見える。きちんとたたんでおいた寝巻も、淡い色のエプロンドレスも、仲良くくしゃくしゃだ。リッドの上着だけが、いちばん最初に脱ぎ捨てられたみたいに、ぽつんと寝室の扉の前に落ちている。
 とっさに目をそらしたのは、ひどく気恥ずかしかったせいだろう。
(お鍋、出しっぱなしにしちゃったなあ)
 ようやくはっきりしだしたファラの意識は、おそらく数時間前のことを思い出すことで頬に血が集まるのを阻止しようとしている。ちがう、大事なのはそこじゃないと思い出すまで、ちょっとかかった。
(なにか、言われたのかな)
 やはり眠りが深い性質なのだろう。意識からは数歩遅れて、ファラの感覚がようやくめぐりだす。肌に直接、毛布をかけているのがわかり、外に出ていた指先だけがすこしつめたい。背中にぴったりとあたたかいものが寄り添っているので、思わず指先をにぎりしめた。そういえば、腰のあたりに重みを感じる。ファラはそろりと指を毛布の外側にはわせた。同じようにすこしつめたくなった堅い手の甲に、すぐいきついた。抱き寄せるようにしながら、けしてきつくならないように加減するのは難しいはずだが、リッドはこうするのが当たり前、というふうにファラの半身に腕を乗せている。
(リッドらしいよね、こういうとこ)
 溜息ではない息を、ゆっくり吐き出す。そうしないと、肩をふるわせるほどに笑い出してしまいそうだった。
(あんなにお酒飲むなんて、変だよね。あんまし好きじゃねえ、って言ってたのに)
 ファラは名残惜しそうに、そうっと手を離してから、ゆっくり、慎重に寝返りをうつ。
 夜明け前の薄い闇に慣れた目は、リッドの寝顔をすぐに見つけた。ファラが身じろぎしても、やっぱり腕は回されたままになっている。自分の腕を枕にして眠るリッドの寝顔はおだやかで、呼吸も落ち着いている。
 ファラは形の良いちいさな鼻で、酒の気がすっかり抜けているのをたしかめると、内心首を傾げた。
(らしくない、なあ)
 酒のせいで、すこし、いや、かなり強引だったという印象を、ファラもぬぐえないでいる。けしてそれが悪いというわけではないのだが、心のどこかで引っかかるものがあった。
 なのに、頭の中で考えをまとめようとしても、ファラの瞳はリッドの寝顔ばかり見ようとする。端正に整った幼なじみの顔は、よく知っているはずなのにどこか違和感がある、とファラに報せていた。大きな瞳はよく動き、必死にその違和感の正体をさぐろうとする。
 と、いきなり違和感が消えた。インフェリアの空を思わせる瞳が、なぜかまぶしそうに、ファラを見返している。
「あんまじろじろ見んなよ。……くすぐってぇだろ」
「ごめん、起こしちゃった?」
「や、なんか目ぇ覚めちまった」
 あくびをかみ殺したリッドは、目尻をけだるそうにこすった。感じていた重みがなくなると、ファラの体は明け方の寒さに、たった今気付いたように小さくふるえた。
 ごく自然な動きで毛布を直したリッドの腕が、またファラを抱き寄せるように置かれると、とたんに寒気は消えてしまう。それが不思議で、ファラはまたリッドをじっと見つめた。
「だからじろじろ見んなっての。オレの顔なんて今更珍しくもねぇだろ」
(あ、そっか)
 ファラの胸にすとんとなにかが収まる。なんのことはない、これが違和感の正体だったのだ。
「めずらしいよ。リッドの寝顔、あんまり見たことないもん」
 虚を突かれたように、リッドの目が見開かれる。
「理由にもなんねぇぞ、それ」
 照れたときはいつも、口調がよりそっけなくなる。ファラがついにこにこしてしまうと、仕返しのつもりなのか、抱きしめてくれる腕に力がこもった。たくましい鎖骨が頬にふれ、すこし息苦しい。それでもファラはゆるんだ顔を元に戻せなかった。リッドのかわいた肌のあたたかさが心地よくて、すこしくらいの息苦しさなんか、全然かまわないという気持ちだった。
「……なあ、体、きつくねえか?」
 え? とファラはびっくりしてしまった。リッドの声が、ひどく心配そうなのはどうしてだろう。
「ううん、平気だよ? なんで?」
「なんで? って……おまえが言うなよ。つーか、言わないでくれ、頼むから」
 リッドにしては珍しく歯切れが悪い。ファラがリッドの顔を見ようと体を離そうとしても、背中に回された腕は力を抜いてくれる様子はなかった。
「ねえリッド、ちょっと早いけどそろそろ起きよっか? あ、お腹空いてない? あたためなおせばすぐごはんにできるよ」
 あれほど酔っていたのだから、ずいぶん酒を飲んだのだろう。だがファラには、祝いの席だからと羽目を外すリッドは想像しにくい。考えられるのは、強引に酒を勧められても、断りきれなかった場合だ。
(あまえすぎちゃってたよね)
 リッドが帰ってくるのを当然としていた昨夜のようなことが、ここしばらく続いている。
 小さな村だから、うわさがまわるのはインフェリア一早い。自分達のことがうわさされているのも、ファラだって気が付いていなかったわけではない。
 でも、こんな風に抱きしめてもらえるのを、もう知ってしまった。いつもファラに枕を譲って、自分はベッドの端に寄っているのも知っている。さっきは、リッドの寝顔が意外とかわいいことも知ってしまった。
 それは人のうわさに上るほど大胆で、半端で、常識からずいぶん外れているのは、ファラもよくわかっている。心の底に埋めて素知らぬふりでは、済まなくなっているのだ。
「や、さすがに早すぎだろ。まだ明るくもなってねえし」
「ん、でもほら、服も着替えたほうがいいかなーって」
 明るい声は、寄り添っているせいかくぐもって聞こえる。
「ふくぅ?」
 リッドが自分越しに、散らばった服に視線を投げるのが、肌から伝わってくる。察しの良いリッドのことだ、すぐに起き出すだろう。早くに目が覚めてよかった、とほっとしながら、お腹の底がひゅうっとするのを、ファラは努めて無視しようとした。
「ほんとにどこもしんどくねえか?」
 やっぱり心配そうな声で、また尋ねてくれる。かるく首だけを振ったファラの髪を、リッドの大きな手がなでた。慣れたかんじはなく、むしろどこかぎこちないその動きは、真冬の朝のあたたかい毛布よりもずっと手強いもののように思えた。
「あーその、無理させちまって悪かった、反省してる」
(しなくてもいいのになあ)
「なりゆきっつーか勢いっつーか、いや勢いだけじゃねえけどさ、どうにも止まんなかったつーか」
(気にしないでいいよ、ほんとに平気だもん)
「だからほらあれだ、要するに慣れねえもん飲んだオレが悪いんですすんませんでした」
(なんともないってば、ほんとだよ)
「……おいこら、ちゃんと聞いてるのかよ」
(あ、怒った?)
 しびれをきらしたのか、大きな手がファラの肩をつかんで少し押し離した。薄暗いなかでも、ファラの大きな瞳はちゃんとリッドの表情を見分けている。不機嫌を装っているが、照れを押し隠そうとしているのはばればれだった。こんなにかわいい表情を知っているのは、世界中どこを探してもファラだけだった。かわいいなんて言っては、リッドの機嫌をもっと悪くしてしまうけれど。
「おおげさだなあ、ぜんぜんなんともないってば。むしろリッドより頑丈だと思うけど?」
「いや自分で言うことかよそれ」
「うそうそ、冗談だって。あのね、ほんとに平気だよ」
 今も肩に添えられている大きな手のひらに力がこもるのがわかる。けしてファラを傷付けたりしない力加減だが、昨夜のやや強引な行為を思い出さずにいられない。喉の内側が干上がるような感覚にファラは息を詰めた。
 律儀に枕を譲ってくれるのは、ファラのよく知っているリッドだ。けれどこんなふうに、逃げることを許す気配のない腕を、ファラはよく知らない。ただこうされると、体の芯に説明しがたいくすぐったさが生まれるのは、近頃ようやくわかっていた。
 ファラが少し体を硬くしたのを感じ取ったのか、リッドはかるく息をつくと力を緩めた。
「ねえ、もう起きなきゃ」
 もう一度寝直そうというのか、毛布をかぶせなおそうとするリッドをあわててとどめる。さすがに二度寝していい時分ではない。
「まだいいだろ。もうちっとしたらどうせ嫌でも起きなきゃなんねぇんだ」
「だめだめ、ねぼうしちゃったらどうすんの?」
「こうしてたいんだよ、オレが」
 低いかすれた声をすぐそばで聞いてしまうと、ファラはもう抗えなかった。干上がりそうな喉の奥に熱い固まりが広がり、胸を満たしていく。この声を聞くと、頭がぽうっとして、いつもの行動力もどこかへいってしまうのだ。
 つい先ほどあまえないと決めたはずが、もうぽっきりと折れてしまった。一体いつからこんなに意志が弱くなったのだろうと、ファラは不思議でしかたない。
(わかんないよ、自分でもわからないんだ)
 抱きすくめられたあたたかさと、いたわるように背中をなでてくれるリッドの手の動きを追うことにばかり集中してしまい、考え事もままならない。触れてもらった肌が、じんわりとあまくしびれていくのが心地よくて、体のほうが勝手にすりよっているのもファラは気付いていなかった。