早朝に出た霧が、ラシュアンの森にはまだ居座っていた。
 仕掛けていた罠をおおざっぱに確かめたリッドの服は、霧を吸って少し重たくなっている。罠は一昨日のままで、穴の底には薄く水がたまっていた。
 ちぇっとかるく舌打ちしたリッドは、傍らに置いていた空の革袋を取り立ち上がった。せめてこぶりの野兎くらいは欲しかったのだが、当てが外れてしまった。セイファートリングは大きな雲に覆われていて、森も息をひそめている。この天気では獲物を追いかけるのは難しい。成長の兆しが見え始めた肩に、リッドは溜息をつきながら革袋を背負い直した。
 獣の水飲み場に足を向けたリッドの赤い髪は、元気がないようにぺしゃんとしている。
 途中、風邪でもないのに何度かかるい咳がでた。近頃の、喉の内側がやたらとむずがゆい感覚は、リッドを辟易させている。いくらうがいをしても、喉に効くという草の根を煎じた苦いお茶を飲んでも、治る気配がない。なんだか病弱になってしまったような気がして、リッドはあまりいい気分ではなかった。こういうのは、鈍くさいキールがなるものではないか、と腹の中で思っていた。
 村の貯水池を横切るところで、リッドはふと足を止めた。池の向こう側に見知った人影がある。リッドは自然と手を上げ声を掛けようとした。その手を中途半端なところで止めさせたのは、ファラの様子が、少し変わっていたからだった。
 遠目に、ファラが胸の前で手を組んでいるのが見える。しばらくそのままでいたファラは、丁寧に頭を下げると、踵を返した。リッドには気付かなかったようだ。
 宙ぶらりんになったままだった手を戻すと、リッドは少し考えてから、ぐるりと池をまわってファラが立っていた場所にきてみた。昔よく三人で遊んだ場所が、今はひっそりとしている。それを見守るような英雄レグルスの銅像の表面にはうっすらと水滴が浮かんでいた。
 ファラはこの銅像に祈っていたのだろう、というのはリッドにも飲み込める。けれど、その理由は見当がつかなかった。インフェリアの人々が創造神セイファートに祈りを捧げるのは、ごく自然なことだ。だから、セイファートの加護を受けたという英雄レグルスに祈るのも、不自然ではない。
 けれど、霧の中に見えたファラは、どこか切羽詰まったような気配があった。もちろんそう見えただけで、リッドの気のせいかもしれない。たまたま気が向いて、ここに来ただけかもしれない。
 ファラが去っていったほうに視線を向けても、リッドの足は動こうとしなかった。追いかける理由が、自分にはないような気がしたのだ。


 最後に確かめた罠は、腹立たしいことに仕掛けだけが壊れていた。やりきれない思いで罠を直しながら、つい溜息がこぼれる。欲しいと思っているときに限って、収穫は芳しくない。
 脳裏に先程のファラがちらついているのも、リッドをますます苛立たせた。獲物を分けてやるついでに様子を見てくるつもりだったのが、あてが外れてしまったからだ。
 罠に使う、よくしなる枝はこの霧で湿っていて、ナイフがやたらとすべる。傍から見ればあぶなっかしい手付きだが、削り方には迷いがない。罠作りは、もう慣れていた。
 縄がゆるんでいないのを確かめると、今日のやるべきことは一通り終わってしまった。
 こんな天気では、見晴台から空を眺めることもできない。かといって、溜め込んでいるこまごまとした仕事を片付けるような気分でもなかった。わけもなく腹立たしく、なのに腹の底には心許ないような嫌な感触があって、余計に苛々する。この、濃い霧のせいだろうか。
 再び溜息をついたリッドは、ふいに耳に届いた音に息を詰めた。何本も重ねた枝が次々と折れるような音が、霧の奥から響いてくる。その中には、興奮した獣のうなり声も混じっていた。
 反射的にリッドは走り出した。体の重さなどないように、音のした方角へ真っ直ぐ向かった。少し行った先で、リッドは目を見開いた。
 大木の根が半分むき出しになっている急な斜面の途中で、大きな雄猪がめちゃくちゃに暴れている。罠にかかった右後ろ脚を軸に、その場をぐるぐると回って逃れようとしていた。太い牙が土をかき、それを見上げているリッドの顔にまで土くれが飛んでくる。
 斜面には滑り落ちたような後があり、その下には髪に白いものが混じった猟師がいた。先程の音は、この猟師、バルボが落ちたときのものだろう。リッドはすばやく駆け寄ると、小声で大丈夫かと尋ねた。バルボはしっかりと頷いたが、なかなか立ち上がれないでいる。どこかを強く打ったのかもしれない。
 肩を貸そうとしたところで、猪のうなり声が少し近くなった。はっとして顔を上げると、猪の足を捕まえている罠が抜け落ちそうになっているのが見えた。毛を逆立てた猪は、斜面を駆け下りようとするかのように蹄で土を蹴っている。罠から逃れれば、すぐにでもこちらに向かってくるだろう。
 リッドは猪から視線をそらさないまま、手探りで地面を探り掌に収まる木の枝をつかむと、姿勢を低くし、斜面を注意深く踏みしめながら登った。猪は繰り返し鼻先を突き上げ、甲高い鳴き声をあげている。その太い首は赤く濡れていた。ぎりぎりのところまで近付くと、猪の黒い目が怒りに満ちているのがわかった。
 おい、やめろというバルボの声を合図に、リッドはおもむろに枝を突きだした。予想したとおり、猪は枝先を呑み込むようにくわえ、ものすごい力で引っ張ってくる。その力を上手く使い、リッドはぐっと前に一歩を踏み込むと同時に、片方の手に持っていたナイフを猪の脊髄目がけて振り下ろした。手応えを感じた瞬間、体が下から突き上げられる。とっさに体を丸め、背中から地面に落ちる。斜面を半ばまで滑り落ちたところで、何かがリッドを支えてくれた。苦い表情をしたバルボが、何も言わずにリッドに手を貸してくれた。
 最後の力を振り絞り抵抗した猪の足が、今になって罠から抜けた。横倒しのまま、自らの重さでずるずると斜面を下りてくる。改めて見ても大きな猪だった。昔父親が仕留めたのと同じくらいだろうかと、リッドは詰めていた息を吐きながらぼんやりと思い出していた。
「怪我はねえか」
 猪の足先のかすかな動きが止まったところで、バルボが振り向いた。リッドは土まみれの体を確かめてから首を振った。
「ん、ああ大丈夫だ、どこもケガしてねえよ。そっちは平気か?」
「ちっとかすったが大したことはねえ。しかし驚いたな」
 ああ、とリッドは頷いた。ただ怪訝な色を浮かべた瞳が猪を見下ろす。
「こいつ、どうしたんだろうな。山から下りてきたにしては早すぎるぜ。んなに年寄りでもなさそうだから、迷ったってわけでもねえだろうし」
「いや、そうじゃねえ」
 え? とリッドが不思議そうな顔をすると、バルボは近頃目立つようになってきた皺を深め、困ったように笑った。
「まさかあんな無茶するとはなあ」

 二人がかりでも猪は重かった。元々口数の少ないバルボは、猪を運んでいる最中もあまり口を開かなかったが、そういう性格を知っているのでリッドは気にならなかった。それよりも、バルボの歩き方がどことなくぎこちないことのほうが気にかかっていた。
 納屋に猪を運び込むと、あとはそのままでいいと言う。
「半分は明日持ってってやる」
 ぶっきらぼうな言い方に、早く帰ってほしいという色が隠れているのを、血抜きを手伝おうとしていたリッドは敏感に察した。だが腑に落ちない。バルボはどうして自分を帰したがるのだろう。こんな大きな猪の解体には、それでなくとも手が必要なはずだ。
「ならオレもやるって。一人じゃ大変だろ」
「いい、いい。手伝いはいらねえ」
「なあ、もしかして腰痛めたのか? さっきからずっとさすってるぜ」
「大したことはねえさ」
「けどさ」
「ガキは気にしなくていいんだ」
 そう言われてしまうと、リッドもこれ以上食い下がるわけにはいかなかった。自分がまだ子供なのは確かだし、なにより本人がいいと言っているのだ。
 けれど、はいそうですかと帰るわけにもいかない気がした。段々と辛そうな顔になっているのに、バルボだって気付いているはずだ。
 リッドが心配そうな視線をよこしてくるのに、バルボは口元で笑った。
「ありがとよ、その気持ちだけで充分だ」
 先に納屋を出たバルボに、リッドもあわてて続いた。外の霧はもうほとんど消え、あとは空の低いところに薄い雲が残っている。
 自宅に入っていくバルボの背中は、人に関わられることを暗に断っている気配があった。
 思案顔でついてくるリッドを振り返ると、バルボは低い声でつぶやいた。
「無様にすっ転んでたなんてしゃべり散らさないでくれよ」
 リッドは思わずむっと眉を寄せた。そんなこと、するわけない。
「んなの誰にも言わねえよ」
 それを聞いて安心したのか、バルボはほっとしたような顔で玄関を閉めた。
 取り残された形になったリッドは、難しい顔になる。別に、門前払いされたことが嫌だったわけじゃない。確かにバルボは人付き合いにこまめなたちではないが、ときどき狩りの技を教えてくれたりする。人嫌いではないことをリッドは知っていた。もちろん、一人にしてほしいというのを、ひっくり返そうとは思わない。でも、気持ちはすっきりしなかった。
 昼間の明るさの下だと、土に突っ込んだようなひどい格好だった。ひとまず泥を落とさなくてはならない。そういえば口の中もじゃりじゃりする。頬を指でかくと、ぱらぱらと土が落ちた。
 けれど、家に戻るリッドの足取りは重い。変にかすれる喉の奥に、飲み下しがたいものが残っているような気がしていた。それは明確に形をつかめない、もやのようなものだった。朝にファラを見かけてから、ずっと残っている。
 井戸から汲んだ水は冷たかったが、沸かすほどでもない。むしろかるい痛みをもたらす冷たさが心地よいくらいだった。自分の手に余る気持ちは、少しの間でも忘れていたかった。
 泥を落とすと、いくらかさっぱりした。面倒だったが、汚れた服も洗い、家の中に干した。外に干したほうが早く乾くのはわかっていたが、すぐ着替えられる方が楽なのだ。
 父の古い服に袖を通し、昼の準備をしようと思ったところで、リッドは気付いた。獲物を入れる革袋が見当たらない。どこかに置き忘れてきたらしい。
 リッドはすぐに朝からの行動を思い返してみたが、覚えているのはファラを見かけるまでは持っていたということだけで、そこから先はわからなかった。
 今日何度目かの溜息をつくと、リッドは再び家を出て、森へ入っていった。
 森の木々は葉にたっぷりと水滴をつけ、リッドが下を通るとぽたりと水が落ちる。雨が上がった後とはまた違う空気が流れていた。
 まず猪を仕留めたところまで来てみたが、革袋は落ちてはいなかった。
 そういえば、バルボは後始末もきちんとしていた。どこかを痛めたように見えたのは、単なる勘違いかもしれないとリッドは思った。
 通ってきた道を注意深くたどってみるが、革袋は見つからなかった。猟師が自分の持ち物を獣の縄張りに落とすということは、まずない。それくらいの分別はある、という自負はリッドにもあった。構ってくれるなとバルボの背中は言っていたが、納屋をこっそり確かめるくらいは許してくれるだろう。引き返すリッドの足が、早くも落ち始めた木の葉を踏んだ。。
 なんだか今日は歩き回ってばかりだ、と内心嘆息しながら、貯水池を横切るところで、リッドはぎくりとした。霧がまだ残っていてくれたらととっさに思ったのは、ファラが沈んだ表情をしているのがはっきり見えたからだ。水面は薄い雲をうつし白い鏡のようだった。
 ファラは少し俯き、自分の服をぎゅっと握っている。そういう姿に、リッドは胸をつかまれたように息苦しくなった。
「ファラ!」
 顔を上げたファラは、すぐにリッドの姿を認めたようだ。大きく手を振り返してくれる。
リッドは心の底からほっとした。ファラが泣いていたのではないとわかったからだ。
池をぐるりとまわる間、ファラの視線はずっとこちらに向けられていた。
「久しぶり。今日はもうおしまい?」
「ああ。つっても空手だけどな」
「へえ、めずらしい。リッドでもたまには調子悪いときがあるんだ」
 ファラのからかうような調子に、リッドはほっとけ、と笑って返した。
 ファラはいつものとおりで、切羽詰まった気配もなく、沈んだ表情もしていない。そう確かめると、リッドは今朝の自分が不思議でならなかった。こんな風に声をかけるのは簡単で、躊躇する理由は全くないように思えた。
「ファラはどうしたんだよ、朝もここにいたろ」
 ファラは目を丸くした。
「うそ、なんで知ってるの?」
 リッドは貯水池の向こうを指差した。
「あそこから見えたからな。妙にしおらしいからびっくりしたぜ」
「そんなにびっくりすることじゃないでしょ、失礼しちゃうなあ」
 ファラがふくれてみせるのも、昔と同じだった。リッドは何もかもわかっているという風に、へえへえと生返事を返した。
「ちょっとね、お祈りしにきたんだ」
 リッドからレグルスの銅像に視線を移したファラが、ぽつりとつぶやいた。リッドはあまり驚かなかった。やっぱりな、と思っただけだった。
「わざわざここまで来なくても、教会に行きゃあいいじゃねえか。オレなら行きたくもねえけどよ」
「ちょっと違うかなって気がして。あのね、わたし、道場に通おうと思うんだ」
 へ? とリッドは口をぽかんと開けた。
 道場というのは、河向こうにあるレグルス道場のことだろうというのはリッドにもわかる。
 だが、そことファラを結びつけるものは、何一つ無いように思えた。
「なんでだよ?」
「なんでって」
 リッドの率直な問いかけに、ファラは改めて言葉を探すように視線を泳がせた。
「だって強くなっておけば、いざというとき誰かを助けられるかもしれないじゃない」
「いざというときって、どういうときだよ」
「えっと、ほら、森で迷ってエッグベアに会っちゃったときとか」
「迷子になるってほうがまずくねえか、それ」
 うっとたじろぐファラに、リッドはやれやれと呆れてみせた。
「どうせ思い付きで決めたんだろ。やめとけやめとけ、またやっかい事が増えるだけだって」
 ファラが無茶をすると、大抵何かが起きる。そして、結局後の面倒を見るのは自分なのだ。
「リッドには迷惑かけないってば。それに、わたしだってちゃんと考えてるんだからね」
「へええ、一応は迷惑かけてるって自覚はあったんだな」
「もう、そういうことばっかり言うんだから」
 ぷいとそっぽを向いてしまうファラの仕草があんまり子供っぽくて、リッドはつい笑ってしまった。
 と、また喉がむずむずして咳が出る。ファラはすぐに心配そうな顔になった。
「風邪ひいたの? だいじょうぶ?」
「や、そういうんじゃねえと思うんだけど」
「熱はある? 頭とか、ふしぶしが痛くなったりしてない?」
「別に。ちょっと喉がかすれるくらいだな」
 喉をさすりながら、リッドはうんざりしていた。折角あの嫌な気分を忘れていたところだったのに、わざわざ自己主張をしてくる咳がいまいましい。
「あ、そっかそっか。違うよリッド」
 何かに気付いたのか、ファラはやわらかくほほえんだ。
「風邪じゃなくて、声変わりだよ。うん、そういえば少し声低くなってるもんね」
「そうかあ? あんま変わった気しねえけどな」
「自分じゃわからないのかもね。ほら、背も伸びたんじゃない?」
 ファラはリッドに寄りそうと、リッドの頭に手をのせた。たしかにいくらか背丈が違っている。少し前は、自分とファラの目線は同じくらいだったはずだ。
 楽しそうに背比べをしていたファラの瞳が、ふっとくもる。間近にいたリッドは、なぜか背筋がひやりとした。
「……どうした?」
「ん、なんでもないよ。どんどん背が伸びるリッドがうらやましいなあって」
「の割にはうらやましいって顔してねえぞ」
 手を伸ばし、かるくファラの頬をつねってやる。指先に感じるやわらかい頬が、無性に懐かしく感じられた。
「背ならファラだってそのうち伸びるだろ。比べたって仕方ねえじゃねえか」
 こうやってなだめてやれば、それもそっか、とファラは明るい顔になるはずだった。
 けれど、いつまでたってもファラの表情は晴れない。それどころか、大きな瞳は、今にも泣き出しそうだ。リッドはあわてふためいた。
「あ、おい、頼むから泣くなって」
 え? という顔でファラはリッドを見つめ返した。
「泣いてないよ?」
「ほんとだな? いいか、泣くなよ、絶対泣くなよ?」
 そうっと手を離し、ファラが泣き出さないのを確かめると、リッドは深く安堵の息をついた。
「変なリッド。つねられたくらいで泣きませんよーだ」
「うそつけ、今にもべそかきそうだったじゃねえか。どうしたんだよ、なんかあったんだろ。おまえ、朝だって様子が変だったぜ」
 言いながら、リッドは自分がファラを追いかけられなかったときの、得体の知れない不安を思い出していた。ファラがあんな顔をしている理由を、知りたくなかったから、声をかけなかったのではないだろうか?
「ちょっとへこたれてたから、気分変えたかったんだ」
 少しの沈黙の後、ファラはいつものはきはきとした口調のままに言った。
「何度かお願いしにいってるんだけど、断られちゃってて。でも諦めないでお願いすれば、わたしも入門させてくれると思うんだ。怖い人じゃなかったしね」
 リッドは無意識に、気落ちしながら村に戻ってくるファラの姿を想像していた。まるで自分のことのように、とても悲しい気持ちになる。リッドがあまりに辛そうな顔をするので、ファラはより明るい声になった。
「だあいじょうぶだって、あともう一押しでイケそうなんだから。そしたらリッドより強くなれちゃったりするかも」
 リッドはとりあえず頷いてみせた。だが、そういう話は聞きたくなかった。
 ファラが悲しい思いをするのも嫌だし、一人でなにもかもを決めてしまっているのもひどく寂しかった。どうして他でもない自分に何も言わなかったのかと怒っていた。
 なにより一番嫌気がさすのは、そういう子供っぽい感情を抱いてしまう自分だった。
「なあ、断られてんならやめとけよ。ああいうのってすんげえしんどいんだろ? 無理に鍛える必要だってねえじゃねえか」
 励ましてやるべきだとわかっているのに、心にもないことを言ってしまう。リッドはつくづく自分の幼稚さが嫌になった。
「でも、もうちょっとだけがんばってみたいんだ」
 銅像を見上げるファラの大きな瞳に、ようやく顔を出した太陽の光が宿った。

 革袋を取りにいくと言うと、ファラが不思議そうにするので、リッドは気の乗らない口調で猪を仕留めた経緯を大まかに説明した。予想したとおり、ファラはバルボが心配だから様子を見にいくといってきかない。いっしょに歩いていると、幼なじみが揃ってどうしたとからかう声がかかり、目立っているような気がした。
 人目が途切れたところで、リッドはファラの腕をつかむと、バルボの家の裏手に回った。
「ちょっと、いきなりひっぱらないでよ」
「ばか、オレ達二人で行ったら、なんかあったってバレるだろ。裏から回るんだよ」
 納得したようなしていないような顔だが、ファラはリッドに言われるがままについてきた。
 バルボが自分を帰したがった理由を、リッドは少しわかったつもりでいた。あんなふうに獲物を仕留め損なうのは、猟師として不名誉なことだ。あまり人にも知られたくないだろう。少なくとも、自分ならそうだ。こういうことは、説明しても理解されにくいものだとも思った。
 台所の窓からこっそりのぞいてみるが、バルボの姿は見えなかった。するとリッドが止める間もなくファラが居間のほうに向かうので、急いで追いかける。
「あっ、たいへん!」
 窓をのぞきこんだファラがいきなり声を上げるので、リッドはあわてて口をふさいだ。
 なんの為に人目につかないようにしているのだ、と少し腹も立てた。
「しーっ、大きな声出すなよな」
 ファラはもどかしそうに、家の中を指差した。どれどれとのぞいてみたリッドも、ぎょっとした。バルボが床に蹲り、丸まった背中をこちらに向けている。そのせいで手の力を緩めてしまい、あっと思ったときにはファラはもう駆けだしていた。ファラは、リッドが捕まえるよりも早く、裏口から飛び込むように入っていく。
 一呼吸遅れて追いついたリッドは、バルボの驚いた顔に迎えられた。節くれ立った手には、割れた素焼きの皿の破片がある。ファラには、それが目に入らないらしい。
「だめだめ、ちゃんと休まなきゃ。無理して動いたらもっと悪くなっちゃうよ」
 思わず顔に手をあてたリッドに、バルボは事情を察したらしい。飛び込んできた二人の幼い客に、人付き合いが不得手な猟師は、目尻の皺をより深くした。

 昨日の霧が嘘のように、雲ひとつ無い空だった。その代わり吹く風はやや肌寒く、絶え間なくリッドの体をなぞっていく。風車がきしむような音を立て回る下で、リッドはひとつくしゃみをした。
 セイファートリングは輪郭もはっきり見え、セレスティアの地形もわかる。
 空を眺め、刻々と姿を変えていく雲を追う時間が、リッドはこの上なく好きだった。地に足をつけているのに、意識がふわりと浮いたようになる。
 けれど今のリッドは、空を眺めてはいなかった。用水路に渡された村の出入り口を、じっと見守っている。しばらくしてファラがやってくると、リッドは寄りかかっていた風車小屋の扉から背を離した。
 身なりを整えたファラは、リッドがいるのに驚いているようだった。
「オレもついてってやる」
 それだけ言うと、リッドは先に立って歩いた。ファラの表情が、花が開くように明るくなったのは、見えなかっただろう。
 村の外に行くのは久しぶりだった。唯一の道はきちんと手入れされ、見通しもいい。めったなことがないかぎり、危険はないように思われる。荷を運ぶ馬車以外、あとはすれちがわなかった。
 リッドの掌に、やわらかい指先が遠慮がちに触れる。力を込めて手を握ってやると、ファラも強く握り返してきた。くしゃみをしていたからか、ファラの手はとても温かく感じられた。
「昨日は楽しかったね。食べ過ぎちゃったからまだお腹いっぱいな気がするよ」
「ああ」
「あんなに大きないのしし、見たことなかったからびっくりしちゃった。リッドはこわくなかったの?」
「別に」
「そうそ、昨日もらったお肉、煮込みにしたから後で持ってくね。心配しなくてもわかってるって、ちゃんとたくさん作ったから」
「へいへい」
 ファラのおしゃべりに、リッドはそっけなく返すだけだったが、ファラは気にしていなかった。昔から、リッドは照れると急にぶっきらぼうになるのを知っていたからだ。
 ラシュアン河に架けられた橋のたもとで、リッドは立ち止まった。ファラが手を引いたのがわかったからだ。
「ここまででいいよ。あとは一人でだいじょうぶ」
 ファラの声は震えたりしていなかった。しっかりと橋の先を見据える大きな瞳を、リッドは確かめるように見つめている。ファラの方から手を離すまで、リッドは手を握ってやっていた。
「……がんばれよ」
 頷いたファラが、小走りに橋を渡っていく。河は見かけより流れが早く、橋桁の下からこもった水音がひびいてくる。
 橋を渡ったところで、ファラがくるりと振り返った。リッドに大きく手を振っている。ファラは何か言ったようだったが、水の音に邪魔されてよく聞こえなかった。
 リッドも手を振り返しながら、ふと思った。たった一言励ました自分の声は、たしかに低くなっているような気がした。

  • 10.05.03
    【夜のあとの夜】より再録