ゆったりと体が持ち上げられる感覚に、ファラは壁に手をついた。
 インフェリアの港で見たときは、こんなにも大きな船だから海も渡れるのだろうとしみじみ納得したのだが、実際に出航してみると、これが意外に揺れる。船全体が上下に動くのは、地面が揺れるとはまた違っていて、ファラは改めて驚くのだった。
 狭い通路を抜けて甲板に出ると、思いがけずさわやかな潮風が出迎えてくれた。両手を広げても足りないほど広い海原の、なんと青いことだろう。
 潮風に遊ばれる髪をおさえ、ファラは大きな瞳を細めた。
 日差しが海面に跳ね返りきらきらしている。船が立てる白い泡は、それほど遠くないところで、静かに波に受け入れられ消えていった。
 何事もなかったようにたゆたう波を見ていると、時の流れが消えていくようにさえ思える。大きな帆が潮風を受ける音が、耳に心地よい。潮風はファラを開放的な気分にしようと誘っているかのようだった。
 ほうっとしあわせそうに息をつくと、ふいに日がかげった。
 リッドも出てきたのかと思い隣を振り向くと、そこには見知らぬ青年が立っていた。
 不思議そうにするファラに、青年は警戒心を抱かせない笑顔を向けた。
「あの島が見える? そう、右側の。あれは霊峰ファロース、セイファート教発祥の地だよ。セイファートの加護があると言われている神聖な場所だ」
 青年が指差す方へ、ファラは素直に目を向けた。
 晴れているのに、島の半分はぼやけてはっきりしない。頂上は薄い雲にさえぎられ、一種近寄りがたい雰囲気だった。セイファートの加護を受けているという話も、なんとなくわかる気がする。
「はああ、すごく高いんですね。近くで見たらもっと大きいんだろうなあ」
 青年の日に焼けた顔が、わかりやすいほどうれしそうに輝く。動きやすいこざっぱりとした服装は、船員のものだろう。
「あそこらは海流が早くて、小さな船じゃ中々近付けないんだ。けどこの船は何度か行ってる。俺も初めてあの山を見たときは驚いたよ。ここから眺めるよりもっと雄大で荘厳で……」
 うんうん、とファラはすっかり話に聞きいっている。
 ラシュアンで生まれ育ったファラにとって、見るもの聞くものすべてが新鮮だった。
 青年の口調はなめらかで、時折ファラが興味深そうに質問をすると、すぐに解説してくれる。
 するとファラはごく素直に頷いては感心するので、青年はますます饒舌になった。その目はくるくる変わる表情をひとつも見逃すまいと、ファラに釘付けになっている。
「キミさ、インフェリアの出じゃないだろ? 商人ってわけでもみたいだし」
 さりげなく距離を詰めてきた青年は、白い首に巻かれたチョーカーをちらりと確かめた。
 あ、そっか。とファラはようやく納得した。この人は、こんな田舎者が船に乗っているのが珍しくて、それで話しかけてきたのだ。
「旅をしてるんです。えっと、一度くらいは世界を見て回りたいなあって思って」
 さすがにグランドフォールを止める為だと説明するわけにはいかないので、ファラは曖昧に笑ってごまかした。
「ふうん。それって急ぐ旅なわけ?」
 青年の親しげな口調に、ファラもついつられてしまう。
「そだね、のんびりはしてられないかな」
「いいじゃないか、たまにはゆっくりしても。あのさ、バロールに着いたらしばらく船は出ないんだ。もしキミさえ良かったら……」
また、影がさす。後ろを振り返ったファラは、リッドがひどく不機嫌そうに眉を寄せているので、首を傾げた。
「ったく、どこをほっつき歩いてるかと思えば。こっちはさんざん探してたんだぞ」
「ごめんごめん、すごくいい天気だったからつい」
「……で、こちらさんは?」
 と、リッドは青年に半ばにらみつけるような視線を向けた。
「いろいろ教えてもらってたんだ。あの、色々ありがとうございます。お話、すごくおもしろかったです」
「い、いや、そりゃ、どういたしまして」
 先程の饒舌さはどこへやら。青年はしどろもどろの挨拶を残し、そそくさと船室へと引き上げていく。
 何か言いかけていたようだったが、ファラはそれよりもリッドの機嫌の悪さのほうが気になっていた。
「メルディが起きたの? じゃ、そろそろ戻ろうかな」
「いんや、まだ寝てる。しばらくそっとしといてやれ」
「ん、そっか、そだね」
 ゾシモスの光の橋を探す手伝いをするというキールは、船に乗らなかった。
 王立天文台で働くのは、キールの夢だったのだ。ファラに引き止める権利はない。だから、そのまま見送った。
 けれど、メルディには突然の別れが堪えたようだ。キールが敵になってしまうのかと、ひどく怯えた。小さな体を丸め、クィッキーを抱きしめながら寝入ってしまったメルディに、ファラの心も痛んだ。
 ファラが手すりに身を寄せ目を伏せていると、リッドもその隣で手すりに体重を預けた。
「キール、どうしてるかな。無理してないといいけど」
「せいぜい楽しくやってんだろうさ。夢が叶ったんだ。今頃お得意の長口上を披露してるんだろうぜ、きっと」
「うん」
 言葉少なに答えたファラの脳裏に、振り切るように去っていったキールの後ろ姿が浮かぶ。
 幼なじみは、たくさんのことを知りたいのだと語っていた。その夢が叶おうとしているなら、応援してやりたい。
 けれど、ファラの胸には、目に見えない穴がぽっかりと口を開けていた。
 肌をくすぐる潮風はその穴の存在を忘れさせてくれる力を持っていたが、少し風が落ち着くと、ふっと思い出してしまう。
(いつかは別々の道を行くんだってわかってた。でも、いつかがこんな突然来るなんて、思ってもみなかったな)
 こんなにもうろたえるのは、自分の考えが甘かったせいだ。そんな甘い考えでは、メルディを助けることなんてできやしない。これから大晶霊を探し、王国兵より先に光の橋を見つけなければならないのだ。やるべきことは山ほどある。
 締め出すように頭を振ってから、ファラは深く息を吸った。潮の香りが、じんわりと全身に満ちていく。
「はああ、潮風が気持ちいいねえ、リッド。大きな船に乗ってて、しかもこんな素敵な場所にいるなんて、夢みたいだなあ」
「夢なもんかよ。どっちを向いても海、海、海。海以外なんもねえだろ」
「んもう、またしらけること言ってえ。ほら見て、すっごくきれいじゃない」
 うながしてみるも、リッドはまだ機嫌が悪いらしく、手すりに頬杖をついて、口をへの字に曲げている。
 ファラは首をひねるばかりだった。
 一体どうしたんだろう? やはり行き先を告げておかなかったのが悪かったのだろうか。
「えと、ごめんね、なんにも言わないで出てきちゃって。ちょっと海を見たら戻るつもりだったんだけど」
「別に。ファラが行きそうなとこくらい、簡単にわかるからな」
 あれ? とファラは不思議に思った。
 自分を探し疲れたから、機嫌が悪かったのではないのだろうか?
「ファラ、おまえちょっと不用心なんじゃねえの」
「え?」
 リッドが何を言い出したのか飲み込めず、ファラはまばたきを繰り返した。
「どういうこと?」
「知らない奴に声かけられてへらへらすんなってことだよ。世の中は、『いい人』だけじゃねえんだからな」
 わかるような、わからないような。
 きょとんとするファラに、リッドはますます不機嫌になる。
「ちょっと手貸せ」
「わっ」
 いきなり手首をとられ、リッドの方に引き寄せられる。腰に手を回され、なぜか背筋がぞくりとした。服の下にあるリッドの鎖骨のくぼみが、すぐ目の前にある。
 腰に回されたリッドの腕が、ファラの左腕を肘のところで押さえつけられていた。ぴったりと体をくっつけていなければ、ダンスを踊っているようにも見えるかもしれない。
「よし、んじゃ動いてみろ」
「動けばいいの?」
 頭の上から聞こえる低い声に、ひとまずファラは従った。リッドがこうするには何か意図があるのだろう。それに、それほど難しくはない、と辛い修練を積んできたファラは判断していた。
 だが言われたとおりに動こうとして、ファラは面食らった。不自然な姿勢だからか、左腕が動かせない。引き抜こうとすると、リッドは力を強くしてくるので、ますますもたれる形になってしまった。かといって右手はがっちりと掴まれていて、前にも後ろにも動かすことができない。
「動けねえだろ?」
 こもるように聞こえる声は、淡々としている。焦ったようにもがいていると、ファラは段々心細くなってきた。自分がひどく無力な、罠にかかった獲物であるように錯覚しそうになる。
 かぼそいうめき声が届いたのか、リッドははっとして、いきなりファラを開放した。
 後ろにたたらを踏みそうになったファラを、リッドが腕をつかまえ支えてくれる。
「で、オレが言いたいことはわかったか?」
 ばつが悪いのか、リッドの物言いはいくらかやわらかくなっていた。
 うーん、とファラは目をつむって考えてみる。あの体勢に持っていかれた場合、どうすればよかっただろう。
「足払いをかければイケたかも」
「おい」 
「だって、わかんないよ。いきなりなんだもん。びっくりしてそれどころじゃなかったよ」
 リッドは大げさに天を仰いだ。
「じゃあ聞くけどよ、前置きしてああいうことする奴がいると思ってんのか?」
「少なくとも、リッドはちがうよね」
「あーあーわかったわかった、悪かったよ。オレ以外でだ」
 リッドの質問の意味がわからなくて、ファラは困ってしまった。船に乗ってからここまで、何か、リッドの機嫌をこれほどにまで悪くすることがあったろうか。
 ファラがみるみるしょげていくので、リッドは根負けしたらしい。くいっとあごを船室へ向けた。
「さっきの人が、ってこと?」
「どう見ても下心ありありだったろうが」
「ええ、まさかあ。田舎者が珍しかっただけでしょ。そりゃ、ちょっとは不本意ではあるけど」
「……おめでたいやつ」
 はあ、とリッドはこれみよがしに長い溜息をついた。
「とにかく、用心することに越したことはねえんだ。腹の裏側で何企んでるかわかんねえやつはごろごろいるんだからな」
 ようやくファラは理解した。リッドは不機嫌だったのではない、真剣に心配して、それで怒っているのだ。
 先程も、ファラだって気を付けてはいたが、旅の話を続けていたら、うっかり疑われかねないことを言っていたかもしれない。リッドは、どこかで見ていてくれて、助け船を出してくれたのだ。
「わかった、これからは気を付けるよ。また捕まって旅が続けられなくなったら困るもんね」
 素直に聞き入れたファラに、リッドはまだ何か言いたげだったが、まあいいかという風に肩をすくめた。
「ならいいけどよ。オレがいない時に面倒起こされるのはごめんだからな。
 さあて、バロールの港は…まだ見えねえか。腹減ったし、オレは下でなんか食ってくるぜ。 ファラはどうする? おい、ファラ?」
 ファラは、なぜかぼうっとなっている。リッドはファラの顔の前で掌を振ってみせた。
「あ、えと、ごめん。なんだっけ?」
「まだここにいるのかって聞いたんだよ」
「うん、もう少し風にあたってようかな。こんな機会、めったにないしね」
「じゃ、体冷やす前に引き上げろよ」
 あまり海を見ないまま、リッドは船室に引き返してく。
 いつの間にか大きくなった幼なじみの背中が見えなくなったところで、ファラは急に寒さを覚え、体を腕で抱いた。潮風にあたりすぎたせいだろうか。
 ―オレがいないときに……
 鼓膜の内側で、リッドの言葉がなぜか繰り返されている。ファラは、無意識に歯を食いしばった。そうしないと、足に力が入らなかった。
 日がじりじりと照りつけ、甲板にはむっとした暑さがある。
 一呼吸の間に抱きすくめられる形になったとき、かすかに汗のにおいがした。リッドの低い声が触れ合ったところから直接聞こえ、力が抜けるような気がした。
 思い返していると気が遠くなりそうで、ファラは手すりをぎゅっと掴まなければいけなかった。潮風は丁度よいくらいで、海に落ちるほどではない。
(変だな、どうしちゃったんだろ)
 うるさいくらいに胸がとどろいている。
 どうしてこんなに息苦しいのか、ファラにはわからなかった。

  • 10.05.03
    【夜のあとの夜】より再録