「ルイシカ、ですか? 構いませんが……あそこは廃墟だったと記憶していますけど」
「いいんだ、ガレノスはそこに住んでる。オレ達は話をしなきゃならねえ」
「ガレノス! あの著名な晶霊技士の!」
 こういう反応は二度目だな、とリッドは胸の中でつぶやいた。
 こんな風に、セレスティアでは誰もが驚くことに、自分達は驚いたりしない。そういう状況は、たしかに自分が異国にいるのだと改めて教えてくれる。けれど今は、疎外感はなかった。
 物珍しそうにじろじろと眺められ、リッドはむずがゆそうに眉を寄せた。
「ああすみません。どうしてお知り合いなのか単純に疑問だったので」
 リッドはちらりとメルディに視線をやった。壁に寄りかかり、クィッキーを抱きしめたメルディは、物思いに沈んでいるらしい。先程からメルディから一歩の距離のところでそわそわしているキールが、代わりに答えた。
「メルディはガレノスの弟子なんだ」
「なるほど、それで」
「わかったんなら早く出発してくれ。どれくらいで着くんだ?」
「ご心配なく、この四三年型水平対向一二連装クレーメルエンジンを搭載したバンエルティア号ならほんの数時間です。何しろ最高時速は……」
 チャットが台詞の途中で口を閉じたのは、キールもてんで話を聞いていなかったからだ。相変わらずメルディをちらちら見ては、腕を組んだりほどいたりと落ち着きがない。
 チャットは子供らしくなく肩で息をつくと、それ以上の解説を切り上げ舵を取った。
「メルディ、少し休んでこいよ。色々あって疲れただろ。横になるだけでも違うもんだぜ」
 クィッキーが小さな手を伸ばすと、メルディははっとして顔を上げた。
「ううん、メルディはへーき。ゼンゼン疲れてないよ」
 虚勢を張るメルディに、キールはますます苛立つようだった。そこへファラがすかさず間に入る。
「リッドの言うとおりだよ。ね、メルディ、ちょっと下で休ませてもらお? いいかな、チャット」
「ええ、自由に使って下さい。子分の体調管理も船長の務めですからね」
 リッドも頷き、それを見たキールも慌てて頷く。ファラも二人に頷き返した。
「さ、行こ?」
 まだ目元が赤いメルディを、ファラがやさしく支えながら連れていく。
 それを見送ってから、キールは引き結んでいた唇を、これ以上我慢できないという風に開いた。
「あんな大事なことを、ずっと黙っていたなんて! あいつ、何を考えてるんだ!」
「怒るなよキール。血管切れっぞ」
「切れないし怒っていない! ぼくが言いたいのはもっと早い段階でわかってさえいれば、」
 言いかけ、キールははっとしたように口をつぐんだ。頬に血が上っていくのを、今回だけはリッドも見ない振りをしてやることにした。だがつたない気遣いがおかしくて、抑えようもなく笑いがこみ上げてくる。口元を変に歪ませているリッドから、キールは思い切り視線をそらしていた。
 日が陰ったあとの色をした海を、バンエルティア号の大きな船体が切り拓くように進んでいく。あれほど激しい爆発があっただというのに、セレスティアの海はゆるやかな波をまとっているだけだった。そういう景色は、少し前にあったことを却って生々しく浮きだたせるのに、リッドに奇妙なほど落ち着いていた。ただ、とびちった涙を一生忘れないだろうと思っていた。
「これはボクの個人的な意見ですが」
 二人の青年は、チャットを振り向いた。
「間違ったフェミニズムを振りかざすよりはずっとマシですけど、やさしくいたわることも時には必要だと思います」
「……わかってるさ。今更責めたって仕方がない、そんなのよくわかってる」
 様々な思いが胸に溜まっているのだろう。のろのろと口を動かし、キールは悔しそうにうつむいた。リッドの胸にも、気を抜けば、苦いものがにじみ出してくる。だが今は、それに構っている暇はない。
「リッドさんもですよ。言い方ひとつで随分印象は違うんじゃないですか?」
 リッドはおかしかった。案外、キールとチャットは似たところがあるのかもしれない。こういう回りくどい言い方などは、そっくりではないか。
「変に取り繕わねえで、心配してんなら心配してるって素直に言えばいいじゃねえか。それも船長の仕事なんだろ」
「い、いつ誰が心配したんですか! ファラさんもメルディさんも辛そうなのに、お二人がやさしくないほうがずっと問題じゃありませんか! 論点をすり替えないで下さい!」
 小さな船長がかっかと怒るのに、リッドは口元を緩めた。大人びた態度に隠していた子供っぽさが表に出ているのに、チャットは気付いていないのだろう。
 笑っているリッドの胸を、ちり、と焦がすものがある。理性でもさばききれなかったひとつの思いが、一点焦げ痕を浮かび上がらせたのだ。
 ファラは、いつでも他人の為に行動する。それがリッドのよく知るファラだ。
 だから、大きな痛手を負っても、そのままにしてしまう。
 かすかな苛立ちと、痛ましく思う気持ちを、リッドはどうしても抑えられなかった。

 見上げるほど巨大な岩は、下のところだけ、スプーンですくいとったような形をしていた。
 快適とはいいがたいが、夜露に濡れなくて済むのは、野宿の場合大いに助かる。リッドは地面が固く乾いていることを確かめると、獣の気配を探ってみた。
 自分たちを囲む背の高い木立は地面に重いような影を作っている。葉もほとんど落ちていなく、ところどころの土が、木の根で盛り上がっているだけだった。幸いなことに、大きな獣の痕跡は見られない。リッドは仲間達をうながすと、野宿の準備をはじめた。
 火を焚くための枯れ枝を取りにいこうとしたところで、リッドの背に声がかかった。
「あ、待って、わたしが行くよ。リッドは休んでて、すぐ戻ってくるから」
 言うが早いか、ファラはもう森の奥へ行くところだった。小走りの背中を、リッドは呆気にとられて見つめている。少し気を抜いていたから、止める間もなかった。
 呆れるような溜息が、背後から聞こえてくる。
 うるさいそれを聞き流して、リッドはファラを追いかけた。
 ファラは、思い立てばすぐ行動に移す。実行する前に計画を立てたり、よく考えてみるという慎重さはない。そういうファラに、リッドはよく腹を立てた。腹を立てながら後の始末をつけるのが、習慣になっていた。
 けれどリッドは、今は違う苛立ちを覚えていた。腹の真ん中にあるその苛立ちは、ずっとリッドの中に居座り続けている。
 一つ目の試練が終わってから、ファラはますます行動的になった。
 進路を塞ぐモンスターにかかんに立ち向かい、よりきめ細かに仲間達を気遣う。ファラが何かをしていないときは、無いといっていいほどだ。
 少し行ったところで、リッドはファラを見つけた。もう腕にいくつか枯れ枝を抱えている。
 手際よく拾い集める手が、手頃な枝を拾おうとしたところで、リッドは横から手を出した。
「あれ、どしたの?」
 強く言いたことはあったが、きょとんとするファラの表情に、その気持ちも失せてしまう。
「どうしたもこうしたもねえよ。二人で集めた方が早く終わるだろ」
「わたし一人でも平気だよ、休んでてよかったのに」
「いいんだよ、んなに疲れちゃいねえからな」
 そう? と心配するような瞳を、リッドはわざと避けた。
 メルディを気遣うならともかく、自分までその対象にされているのは気に入らない。
「ほら、さっさと拾って戻ろうぜ」
「あ、うん」
 二人がかりでやったおかけで、それほど時間がかからず一晩分には充分な量が集まった。
 足早にキール達が待つ場所へ戻る途中、ファラはリッドを振り返った。
「ありがとリッド、手伝ってくれて。待ってて、すぐごはん作っちゃうから」
 そう聞くと、自分でも現金だと思うが、ついうれしくなってしまう。うれしそうなリッドに、ファラもほほえみかえした。

 それぞれの寝息以外に音はない。セイファートリングの向こうも、すでに夜が更け暗くなっていた。
 先に火の番をしているリッドが焚き火に枯れ枝を投げ込むと、大岩の陰が少しあたたかくなる。これで寒さに凍えることはないだろう。
 おもいおもいのところで体を丸めている仲間をぐるりと見渡すリッドの視線は、自然とファラのところで止まる。
 先程も、火の番をする順番について、ひともめあった。自分がやるといってきかないファラをどうにか言いくるめ、先に寝かせるのに、リッドはずいぶん骨を折ったのだ。ファラ一人で夜の見張りをさせるつもりは、更々無かった。
 溜めていた息をつくと、焚き火の中で枝がはぜる。
 顔にあたる炎の熱さに、リッドが思い出すのは、やはり今日のように焚き火を囲んだ夜のことだった。湿り気を帯びた空気が流れる洞窟、あるいは住み処だった場所。
 斬られた肩が火を当てられたように熱くなる感覚は、まだ完全には消えていない。
 けれど初めの強い恐怖は、ずいぶん遠くなっていた。今のリッドには、深い穴に落ちてゆく怖さより、もっとおそろしいものがあった。
 皆を起こさないよう、リッドは静かに立ち上がった。誰も起きていないのをよくよく確かめてから、そっとファラの傍による。けしてたくましいとは言えない肩が、ゆっくりと上下しているのに、リッドはこの上なく心が休まるのだった。
 音を立てずに傍であぐらをかくと、そのまま穏やかな寝顔を眺めさせてもらう。
 もちろん罪悪感はあったが、少しの間だけでも見ていたいという気持ちの方が、ずっと勝っていた。
 セレスティアには、リッドが見たこともないようなモンスターがいる。限りなく人のそれに近い体躯の、鋭く長い爪を持った獣がふいに飛び出してくることも珍しくはない。
 そういうときにも、リッドは落ち着いて剣を構え対処できる。慌てることは命取りになりかねないのを経験で知っているからだ。
 なのに、ファラはリッドをかばおうとするかのように、前に出ようとする。
 今日も、あわやという場面があり、リッドは全身から血の気が引く感覚を、嫌というほど味わった。実際ぐったりと倒れたファラに、リッドは生きてきた中で感じたこともない恐怖を覚えたのだ。
 目の前が真っ暗になり、手足の先から全ての力が奪われていく、死よりもおそろしいもの。
 あんなのは、二度とごめんだ。
 ふつふつとわき上がってくる苦い思いに、リッドは顔をしかめた。
 もしファラが、自分が感じたような痛みを味わうことがあれば、きっと正気でいられない。
 けれど止めさせようとしたところで、ファラは聞き入れないだろう。
 もう、迷子の女の子を助けるだけの旅ではない。あまりにたくさんの命が失われ、おびやかされている。
 じっとしているなんて、ファラにはできない。ましてや自分の力が鍵になるというのだから、ますますじっとしていられないはずだ。
 少し恥ずかしくなって、リッドは急いで頭をからっぽにしようとした。いま、自分は、なにを考えていた?
 目を閉じたファラがかすかに身じろぎをした。
 長いまつげが少しふるえ、また落ち着くのを、リッドはじっと見つめていた。なにか、夢を見ているのだろうか。
 無意識に手を伸ばしかけ、途中我に返りあわてて引っ込めた。けれど理性をさかんになじるる声が耳の奥で聞こえている。ファラに触れたいという欲求を抑えるのは、難しい。
 やさしくしたらどうですか、と咎めるチャットの声を思い出したのは、どうにかして自分の行為を正当化するためかもしれない。都合のいいことを並べている自分を、リッドは鼻で笑ってやりたい気分だった。
 そっと髪をなでてやると、てのひらにやさしい感触が返ってきた。
 思いがけず懐かしい記憶がよみがえってくる。あれは、いつのことだったろう。
 ずっと幼い頃、父親に叱られてめそめそしているファラを、こうして慰めてやったことがある。泣かれるのが嫌で仕方なくやったことだったが、ファラが泣き止んでくれたので、幼いリッドはようやく胸をなで下ろしたのだ。
 しばらくそうしていると、ファラがうっすらと目を開けた。リッドはぎくりとして動きを止めた。
「……もう、おうちにかえるの?」
 寝ぼけまなこのたどたどしい口調に、リッドはほほえまずにいられなかった。ファラがどんな夢を見ていたか、わかったからだ。
「まだ大丈夫だよ。もう少し寝てろ、おまえを置いてったりしねえから」
 遊び疲れて眠ってしまった小さなファラに、リッドは低い声で言い聞かせ、また髪をなでてやる。気持ちよさそうに目を細め、ファラは再び眠りに落ちた。先程よりもしあわせそうな寝顔に、リッドの胸は暖炉のようにあたたかくなる。
 同時に、ファラが怖い夢をみたりしていないのに、ほっとしていた。ファラが痛みを我慢してしまうのは、リッドにとって受け入れがたいことだからだ。
 そろそろ離れなくてはと頭では思うのだが、それに体がついていかない。もう少しファラの寝顔を眺めていたかった。
(なあ、あんまり頑張るなよ)
 極光術を求めるのに命をかける理由はあるのか。そう問われたとき、リッドはふいに気付いたのだ。
 多くの命を奪われたことへの怒りは確かにある。これ以上の暴虐は許せなかった。
 そして、それよりも大きな思いが、自分にはある。
(おまえに泣かれるのは困るんだ)
 おてんばなこのおさななじみが、なにかの拍子に泣いたりすると、幼いリッドはひどく焦りどうにか泣き止ませようとした。転んだとき、怒られたとき、怖いことがあったとき……ファラが泣きそうになれば、リッドはすぐに察して、先手を打った。どうして自分がそうしないでいられなかったのか、ずっとあとになって、リッドはようやく理解したのだ。
(笑っちまうよな。オレ、ちっとも気付いてなかったんだぜ? 誰かさんをからかえねえよなあ)
 神の試練だろうとなんだろうと構わない。力を得られるならいくらでも受けてやる。世界を守れる力が、喉から手が出るほど欲しい。
 そう思うことは、まったく自分らしくない、とリッド自身よくわかっていた。日々が穏やかに過ぎ、何も変わらないでくれることを望んでいたのに、驚くほどの変化ではないか。
 指の背でやわらかい頬に触れるリッドの手付きは、こわれものを扱うようにやさしい。
 いとおしそうに目を細める青年の横顔を、夜の闇だけが見ていた。

  • 10.05.03
    【夜のあとの夜】より再録