今さっきまで見えていたリッドの背中が、煙のようにかき消えてしまった。
 とっさに伸ばしたファラの手は、見えない壁に阻まれる。壁があるとわかるのは、触れたところが清流の水のようにひんやりとしているからだ。
 心臓をわしづかみにされたように、ファラは胸が痛くなった。ぎゅっとしぼられるかのようだ。
「あとは待つだけか」
「リッドがすごいフィブリル持ってる、だからきっとダイジョーブ!」
「とてもそうは見えないがな」
 呆れるようにつぶやいたキールは、何かを問いたげに頭上の像を見上げた。
 像には年月による劣化が見られるが、ほこりや汚れといったものはひとつもない。長い時間をかけ手足を伸ばしたシダや苔も踏まれた痕跡はない。つまりレイスを除けば、この神殿を訪れた者は長い間いなかったはずだ。なのに、空気も澱んではいなかった。
 同じように像を振り仰いだファラの胸を、言いしれぬ不安が塗りつぶしていく。
 極光術というものを目の当たりにしてから、胸騒ぎはずっと続いていた。
「待っていても仕方ない、ここを調べてみよう。極光術だけじゃなく古代…メルニクス時代の技術についてもなにか手がかりを得られるかもしれない。現存する遺跡はそう多くないからな」
 キールの口ぶりに、好奇心を動かされたときの興奮はあまりない。キールなりに出来ることをやろうとしているのだろう。
「はいな! メルディ、いっしょうけんめいお手伝いまかされるよ」
「なは余計だって何度言わせるんだ。それから任されるじゃなくてする、だ」
 いつもの叱る口調なのに、なぜか頬が赤い。不器用なやり方に、ファラはそっと目を細めた。
 会った当初とは、ずいぶん態度が違う。怒鳴りつけたりすることも少なくなった。
 幼なじみのそういう変わり様に、ファラはかすかなくすぐったさを感じる。もし自分に弟がいたら、こういう気持ちになるのだろうとも思った。
 神殿内を調べ始めたキールにくっついてまわるメルディの瞳にも、暗さはない。キールのぎこちないやさしさを、ちゃんと受け取っているのだ。
 一人ではあまりにも重すぎるものを抱えていたことに、ファラはひどく心を痛めた。
 どんなに辛く、苦しかったことだろう。どれほど恐ろしかっただろう。
 暗い場所で、指先も動かせないほど息苦しさを、メルディもずっと抱え続けていたのだ。
 すると、見えなくなってしまったリッドの背中が、ファラの意志とは関係なく、何度も思い出される。ファラはあわてて自分の体を抱いた。そうしなければ、心が押しつぶされてしまいそうな気がしたのだ。
「ファラ、どしたか? 顔色よくない、苦しいのか?」
 すぐにメルディが駆け寄ってくれる。腕をさすってくれる小さな手のあたたかさに、ファラは息を整えることができた。
「ううん、そうじゃないよ。ちょっと考えごとしてて」
「リッドがこと?」
 ふっとファラは表情をやわらげた。かくしごとはできない。
 メルディは、一見頼りない風に見えて、人の気持ちにとても敏感なのだ。少しでも心がへこたれると、すぐに気付いてくれる。助けるつもりが、逆に助けられたことが何度もあった。今も、ファラが感じている耐えられないほどの孤独を察し、そばにいようとしてくれている。
 ごく素直な気持ちで、ファラは話し始めた。
「はがゆいんだ。リッドががんばってるのに、何もできないのが」
 奥へ行かせまいとする見えない壁にファラは視線を向けた。
 レイスを失った痛みは、ファラの中にまだ深く根を残している。極光術は、それだけ強大な力を持っているのだ。
 もしまた近しい人を失うことなったらと思うだけで、体が震えて、立っていられなくなる。甘えてはいけない、とファラは自分を戒めなければならないほどだった。
「リッドに何かあったらどうしようって、そんな風に考えちゃいけないってわかってるのに、不安でどうしようもなくて。だからせめて、リッドの為にできることをしようって考えてみたんだけど」
 ひとつ息を呑み込むファラを、メルディは目でうながした。
「なのに、なんにも思いつかないの。だめだなあって自分が情けなくなっちゃった」
 さっぱりとした口調が、むしろ痛々しい。ファラの代わりにメルディは瞳をくもらせ、いつの間にか近くに来て話を聞いていたキールも、驚き目を見開いている。
「一体どうしたんだ、ファラらしくないぞ。リッドならきっと食事の後のような顔で戻ってくるさ。あいつはそういうやつだろう」
 やや見当違いの励ましに、メルディは背伸びしてキールの首元にクィッキーを寄せた。クィッキーは心得たように長いしっぽを巻き付ける。当然くぐもった抗議の声が上がった。
「な、なにするんだ!」
「キール、すこし口閉じる。女の子の話口出す、だいぶちょっとよくない」
 くるりと向き直ったメルディは、まずファラの手を取ると、手の甲をなでてくれた。
 手付きやさしく、魔法のようにファラのこわばっていた気持ちが少しずつほぐしていく。メルディはどこでこんな魔法を覚えたのだろうと、半分ぼうっとした頭でファラは思った。
「あのなファラ。きっとそれ、リッド違う言うよ」
「え?」
「だってメルディ知ってる。リッドががんばる、ファラが好きだからよ」
「うん、そだね。メルディのこともキールのことも、リッドは好きだよ。だからあんなに頑張って……」
 ちがうちがう、とメルディは首を振った。上手く伝わらないのがもどかしい様子だ。
「リッドが好きは、だいじの宝もので、すごくがんばれる力。だからファラ悲しいと、リッド悲しい。でもファラが笑ってるなら、もっと力になる。それ、ファラにしかできない」
 自分にしかできない。そう聞いて、ファラは少し元気を取り戻した。
 つまり、いつものままでいればいいのだ。それなら難しくはない。何をくよくよしていたのだろう。こうしている間も、リッドは頑張っているのに。
 うん、とファラは力強く頷いてみせた。
 とにかく今は前に進むしかない。進んでさえいれば、きっとなんとかなる。その中で、自分にできることを探せばいいのだ。
 メルディも、キールでさえもまだどこか心配そうにしている。
 ファラは、いつものように明るく笑ってみせた。


 ―置いていったりしねえよ
 低い声がささやいてくれた言葉を、幼いファラは繰り返し噛みしめる。
 もう一度聞きたいとせがめば、少し照れながら、リッドはまたささやいてくれた。
(ほんとうに? ぜったいに? ずっといっしょ?)
 しつこいくらいに確かめるファラに、ああ、とリッドはしっかり頷いた。幼い顔立ちなのに、空色の瞳は大人びた色をしている。
 目を細め、やさしいまなざしを向けてくれることがうれしくてたまらなくて、ファラはまたねだってしまう。リッドの言葉を、何度でも聞きたかった。
 またか? とちょっと呆れながらも、リッドは繰り返してくれる。
 ―大丈夫だ、おまえを置いていったりしねえから

 眠りが浅かったのだろう。何度か大きな瞳をしばたいたファラは、寒くないことを不思議に思った。
 両手を広げても足りないほど大きな窓の向こうのオルバース界面は、それ自体しらじらと光っている。夜の中ではいかにも寒々しく見えた。夜が明けた後のことを思わずにいられないから、余計にそう感じるのかもしれない。
 少しずつものを考えられるようになってくると、ファラは妙に動きにくい理由がやっとわかった。毛布が、きっちりと体をくるんでいる。そして自分がリッドの肩にもたれて眠っていたことも。
 視線だけ上げると、幼なじみの寝顔はすぐ近くにあった。
 かすかに聞こえる呼吸を、ファラは無意識に耳をすませ拾おうとしていた。どきりとするほど強いまなざしは、子供のような寝顔からはうかがえない。こうして眠っている間は、リッドもずいぶんかわいらしいなあ、とファラは思う。そう言えば、きっとリッドは不満そうにするだろう。その想像がなんだかおかしくて、ファラは声を抑えながら笑った。
 直接触れていると、肩の骨のたくましさがよくわかる。背比べをした頃とは、肩幅も、体つきも、まったく違った。簡単に捕まえられてしまった時、泣きたいような気持ちになったのも、ファラは覚えている。
 けれど今は、そんな風に思わない。リッドがくるんでくれた毛布はあたたかく、腕の中にいるようでさえある。ふかふかのベッドよりも、ずっとずっと心地良い。胸いっぱいに安心感が広がっていく。
 すると、急に胸が切なくなった。この時間が終わってほしくないと、あまりに自分らしくないことを、心が切々と訴えている。
 目をつむり、ファラはその訴えをやりすごそうとした。
 だって、自分にできることを、やっと見つけたのだ。
 こうしてそばにいてくれるリッドを、守りたかった。リッドはいつでも見守っていてくれ、困ればすぐ手を差し伸べてくれる。犯した罪を告白した自分を、受け入れてくれた。
 リッドがどんなに大きな存在であるか、ファラはようやくわかったのだ。自分が自分でいられるのは、リッドがいたからに他ならない。
 思い返してみれば、幼い頃からずっとそばにはリッドがいてくれた。ファラが振り返ればそこにいて、どうした? と尋ねてくれる。リッドがいてくれたから、なんの不安もなかった。
 ファラが望めば、いつまでも手を握ってくれ、けして離そうとはしなかった―。
 体の位置をちょっと変えて、ファラはリッドにより体を寄せた。リッドの体温をもっと感じたいと、考えないでした行為だった。
「目ぇ覚めたか?」
 ファラは申し訳なさそうにうなずいた。
「ごめん、起こしちゃったね」
「いんや、オレも今起きたとこだ」
 リッドは、姿勢を変えたりしなかった。ファラの髪にほおをくっつけ、まだ眠そうに大きなあくびをする。
「まだ時間あるし、もう少し寝てろ。明るくなったら起こしてやっから」
 あれ? とファラは思った。同じような台詞をごく最近聞いた気がする。なのにはっきりと思い出せないのは、どういうわけだろう。ちゃんと確かめようとするのだが、ファラは集中できなかった。リッドの体温と息遣いに、気持ちがそれてしまう。
 ファラが落ち着かないでいるのがわかったのか、リッドは低い声で笑った。
「なんだよ、緊張してんのか? イケるイケるってあんなに張りきってたじゃねえか」
「ちがうよ、そうじゃなくて」
「ま、緊張しないってのも変か。少しくらい気ぃ張ってたほうがいいのかもな」
 リッドの声がふれたところから伝わってくるのに、ファラはますます集中力を失ってしまう。
 気持ちがふわふわして、何を確かめたかったのか、もう半ば忘れてしまっていた。それよりも、もっとリッドの声を聞いていたかった。
「そんなことないよ、リッドといるから大丈夫。こうしてるとすごく安心するんだ」
「そ、そか」
「毛布、ありがとね。わたし、いつ眠っちゃったんだろ」
 ああそうだ、とファラは思い出した。
 傍を離れがたくて、リッドにもたれかかっていた。けれど意志とは無関係に気持ちが昂ぶっていて、眠気はなかなかやってこない。すると、リッドは黙って頭をなでてくれた。だからファラはこんなにも安心して眠ることができたのだ。そういえば、とてもいい夢を見ていたような気もする。
「ねえリッド」
「ん?」
「わたしにしてほしいことはある?」
「……なんだって?」
 リッドの声はうわずっていた。
「いつもリッドに助けられてばかりでしょ。だからわたしも、何かできないかなあって。どんなことでも言ってよ。わたし、何でもするから」
 真剣に言ったのに、リッドはなぜか黙ってしまう。どうして何も言ってくれないのだろうとファラが内心首を傾げていると、リッドは長い溜息をついた。
「あのなあ、頼むからちっとは……」
 言いかけたリッドは、思い直したように言葉を改めた。
「まあ、いいか。…・…んじゃあ、一つだけ」
「うん」
「そのまんまでいろよ」
「え、それだけ? ほかには?」
「ねえよ。とりあえず今はな」
「遠慮しないでってば。ほんとになんでもいいんだよ、ごはんのリクエストだって特別に聞いちゃうし」
 リッドがにいっと意地悪く笑うのが、ファラにはわかった。
「ばあか」
 いきなり引き寄せれたかと思うと、ファラはリッドの腕の中にすっぽりおさまっていた。背中からリッドの鼓動が伝わってくる。
 振り仰ごうとしたファラを、リッドは腕に力を込めて制した。簡単に動けそうにない。
 けれど、きつく抱きしめられているというのに、ちっとも苦しくなかった。
「何でもするって言ったのはおまえだからな。じっとしてろよ、質問も無しな」
 耳のすぐそばで声がして、ファラはぞくりとした。嫌ではない、でも、体の奥が変に熱くもあった。
 宝物を抱えた子供のように、リッドは満足そうに息をついている。
 あたたかい腕の中にいると、睡魔がまたファラににじり寄ってきた。呼吸を一つするごとに、眠くてたまらなくなる。
 リッドの腕の中は絶対的に安全な場所だと、体から勝手に力が抜けていくのに、ファラはなんとか抗おうとした。まだ話は終わっていない。
(ずるいよリッド)
 自分だってリッドの為に何かしたい。そう思うのに、あんまり眠くて、もう指も動かせそうになかった。
 ファラがうとうとしているのを確かめてから、リッドは低くつぶやいた。
「おまえがここにいる。オレにはそれだけで充分だ」

  • 10.05.03
    【夜のあとの夜】より再録