耳鳴りがするほどの喧噪が、まだ鼓膜に残っていた。
 大いに笑い、大いに食べ、大いに騒ぐ。新しい総領主を歓迎する陽気なセレスティアの人々に、リッドもいくらか感化されていたのかもしれない。
 けれど、その新しい総領主、フォッグを知っているリッドは、あれほどの歓迎ぶりをちょっと不思議にも思うのだ。
「これからが俺達の時代だ、かあ」
 ソファに腰掛け、薄絹のショールを丁寧にたたんでいるファラが、盛大な拍手を送られた短い演説をそらんじてみせた。
「どんな風に変わってくのか、ちょっと想像がつかないよね」
「そうだな」
「でも、大丈夫だって気もする。支えてくれる人がいるだけで、自分でもびっくりするくらいがんばれるんだ。その点フォッグは、ほら、ええと、あれだから」
 リッドは吹き出してから、新しい総領主に感化されてしまったらしいファラの言葉を続けた。
「ああやってどーんと構えてる総大将がいりゃあ確かに心強いだろうな」
 そうそれ、とファラはうれしそうに頷いた。
「アイラもいるしね。これからは、きっと何もかもがうまくいくよ」
 ホテルティンシアのスイートルームから見下ろす街は、昼間のように明るい。
 街中の晶霊灯に色とりどりの電飾がまかれ、それだけで目がちかちかするほどだ。
 建物の中にいたはずの人々が、一列に並び肩を組んでは大声で歌ったり、飲み比べをはじめたり、それを囲みはやし立てたり。分厚いガラスに遮られているのに、その声が聞こえるようだった。
「見てみろよファラ、すげえ眺めだぞ」
 立ち上がり隣に並んだファラから、なぜかリッドは努めて目をそらしている。
 眼下に広がるまばゆいほどの景色がなければ、ファラは難しそうに眉を寄せているリッドに気付いただろう。
「わあ、すっごーい! ほんとにきれいだねえ、星がちらばってるみたい」
 子供のようにはしゃぐファラに、リッドは自然と目を細めていた。
 新しい総領主のお披露目に招待されたときは、正直なところ遠慮したかった。堅苦しい場をリッドは想像していたのだ。しかし実際は祭りと変わらなく、酒が入ると場はますます盛り上がり、最高潮を知らないかのようだった。
 目眩がしそうなのに、熱い空気が全身を包み魂ごと揺すぶられるような夜だった。
 いかにもシルエシカらしいやり方に、キールはずいぶん呆れていたものだ。リッドはというと、久しぶりに会った幼なじみの、相変わらずの長口上に辟易していた。だから、酔ったガストンがキールに絡み出すと、これ幸いとばかりに押しつけた。
 ガストンに悪いことをしたかとちらりと反省したリッドが、あとで遠くから様子をたしかめたとき、キールはその場を離れるところだった。体つきが一回りたくましくなった幼なじみの視線が、クィッキーを肩に乗せ、楽しそうに踊るメルディにだけ注がれているのに、リッドは奇妙な感慨を覚えたのだ。
 そこで集中力が途切れた。
 あれこれ思い返すことで、なんとか気を紛らわせようとしていたリッドは、それ以上大きな瞳が見上げてくるのに気付かない振りを通すことができなくなった。
「どしたのリッド? 疲れちゃった?」
 リッドは慎重なくらい、ゆっくりと視線を返した。
 ファラの体を包んでいるドレスは、インフェリア風を取り入れたという。
 セレスティア製のつややかな布はプーチの花で染め上げたような鮮やかな赤色で、ファラの白い肌をより映えさせる役を買っていた。首の後ろで結び、あとは一枚の布で仕立てたようにすらりとした影を作るドレスには、腰の高いところにかわいらしいリボンが結ばれている。それが大きく開いた背中をいやらしく見せないようになっていた。
 ちょっと待て、とリッドは言いたかった。このドレスを作ったやつを、問答無用でのしてやりたい衝動に駆られる。
 幼なじみの少女をこの上なくかわいらしくし、目を離せなくさせるなんて、インフェリア風というにはあまりに限定されすぎていやしないか。
 まぶしそうに目をしばしばさせるリッドに、ファラは首を傾げるばかりだ。街が明るすぎて、目が疲れてしまったのだろうかと心配していた。
 もちろんリッドは疲れてなどいない。
 先程まで、ファラと一緒に、めったにない楽しいばかさわぎの空気を楽しんでいたのだ。
 けれど、ちらちらとのぞきみるような視線がこちらに向けられているのを鋭く感じ取ると、少し口にした甘い酒の酔いも、いっぺんにさめてしまった。早々に引き上げることを決めたのは、言うまでもない。ガキくさいとリッドだって思うのだが、ファラにそういった好奇の目が注がれるのは、どうしても我慢できないのだ。
 再び窓の外に目をやったリッドは、懐かしむようにつぶやいた。
「ずいぶん回り道したって気がするな」
 え? とファラは大きな瞳をぱちぱちさせたが、すぐに思い出したようだ。
「そだね。いろいろあったから、ずいぶん延ばし延ばしになっちゃったけど」
 窓に手を添えたファラは、ひとつ息をつき目を伏せた。室内の明かりを吸い込んだ窓が、ファラの表情もうつしている。そっと細められた大きな瞳に、憂いの色はない。リッドはほっとしていた。
「今夜だけなんて、なんかもったいないな。こんなに素敵な眺めなのに」
「また来りゃいいじゃねえか。一人一回きりって決まってるわけじゃねえんだから」
「じゃ、またいっしょに来てくれる?」
 期待するような瞳が、ひたむきにリッドを見つめている。ひどくくすぐったくて、リッドはくしゃりと笑った。
「んなのいちいち聞かなくてもわーってるよ」
 うれしくなったファラは、リッドの腕にぎゅっとしがみつく。が、慌てたのはリッドだ。なるべくむき出しの白い肩を見ないようにしているのに、ファラときたら、てんでおかまいなしなのだ。直に体温が感じられ、まともな思考が出来なくなる。リッドは大急ぎで理性の糸を握り直そうとした。
 それにしても、とリッドを見上げたファラは楽しそうな笑顔になる。
「リッドがそう言うのってふしぎだね。前はあんなに村の外に出たがらなかったのに。リッド節は返上しちゃうんだ?」 
「だーれが返すか。昔も今も、村での暮らしがオレにはいちばん性に合ってるんだよ」
 あいかわらずなんだから、とひとしきり笑ったあとで、ファラはふいに口調を変えた。
「……わたしも、リッドと同じなんだ」
「ん?」
「いつか村を出て行くんだってずっと思ってた。だからメルディが落ちてきたとき、ああ誰かの役に立てる日が来たんだなって、うれしかったんだよ」
 リッドは口を挟まず、ファラの話を聞いていた。
 でも、とファラは続ける。
「ラシュアンに帰ってみたら、ぜんぜん違ってた。リッドといっしょにごはん食べて、おしゃべりして。ずっとずっとこの時間が続いてくれたらいいなあって、気が付いたら考えてるんだ」
 ファラは顔を上げ、確かめるようにリッドの瞳をのぞきこむ。
「リッドが言ってた意味、やっとわかったよ」
 照れたように笑うと、ファラは体を離した。
 上気した頬とうっすらと赤くなった首筋を、部屋のぼんやりとした明かりが照らし出している。リッドは何か言うでもなく、かといって表情はほとんど動かない。空色の瞳が、真意を探るように、ファラをじっと見つめている。
「もう、やだなあ、いきなりだまんないでよ。恥ずかしくなっちゃうじゃない」
 仕切り直すようにファラは明るい声をあげた。
「さて、と。そろそろ着替えよっかな。すてきなドレスなんだけど、着慣れないから肩こっちゃって」
 いつも先に体が動いてしまうファラが、めずらしく戸惑っている。そうさせているのが他ならぬ自分だと思うと、リッドはかるい興奮をおぼえた。理性の手綱を手放させるには充分すぎる。
「なあファラ、おまえ酔ってるわけじゃないよな?」
 ファラはむっと眉を寄せた。
「あったりまえでしょ、お酒なんか飲んでないよ」
「まあ、飲まれてたらこっちだって困るけどな」
「なんでよ?」
「おまえの返事を聞かなきゃいけないからだよ」
 肩に手をかけると、細さがよくわかった。なりゆきで何度か触れたときも、捕らえてしまうのは笑い出したくなるくらい簡単だった。
 かるく力をいれてファラを窓のほうへ押しやってから、体の位置をいれかえ覆い被さるようにする。大きな瞳を縁取るまつげの長さも、ファラが息をのむのも、リッドは手に取るようにわかった。
「朝起きたらファラがいて、いっしょに飯食って。そういう生活も悪くないって思うぜ。でもな、それじゃあ旅してる頃と変わらねえんじゃねえか?」
「でも」
「いいから聞けって。旅はもう終わったんだ、オレ達は何も変わらない生活に戻れる。でもオレは、戻りたいなんてちっとも思ってねえんだ」
 一旦言葉を句切り、リッドは唇を湿らせた。確かめた癖に、自分が酔っているかのようだった。理性は遠くに投げ捨てられ、もう手元にも残っていない。リッドの声はかすれ、熱を帯びている。
「おまえがいない生活なんて考えられねえ」
 ひとり橋を渡った小さな背中を、リッドはよく覚えていた。あのとき、幼い自分は精一杯物わかりのいい振りをして、ファラを見送ってやった。手を離してしまったことを、ひどく後悔しながら。
「だから、オレのものにしていいか?」
 夢中でファラの体をかき抱くと、リッドは唇を寄せた。返事を聞かなくては、と頭の隅ではわかっている。けれど、ファラのあたたかい体を、離したくはなかった。

  • 10.05.03
    【夜のあとの夜】より再録