例年になく暑い夏が続いていた。
 ふと見上げた空には残暑らしくないまぶしい光が残っていて、薫は思わず目を細めた。
 手にした野花のいくつかには喜ばしいことかもしれないが、人にとっては秋が待ち遠しくてならない。暑い日差しを遮ってくれるものがなければとっくに干からびていただろう。
 屋敷に引き上げかけた薫の結んだ髪を、くんとなにかが引っ張った。
 柑橘系の香りが届き、振り返った薫を驚かせた。
(梅? こんな時期に?)
 白い花びらは大きく開き、寒さが和らぐ時期を彩る梅に似ていた。だが香りは全くちがう。
 手でそっと引き寄せると、爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。いったいなんという花だろう。
 もう充分に花を集めていたが、自然に手が伸び一枝を手折っていた。揺れた枝葉からも嗅ぎ慣れない香りが漂う。季節外れに咲いた梅ではない。いくら記憶を手繰っても薫には馴染みのない花だった。けれどこの島では初めからそこにいたような顔をしている。
 思わず薫は摘んだばかりの女郎花、桔梗、撫子といった花々を確かめた。馴染みのある花は、薫を引き留めた花ほど香らず、楚々と胸に抱かれている。
(うん、別々にしたほうが良さそうね)
 この白梅に似た花は袖机に置こう。この香りに包まれて眠るのは、きっと心地良いはずだ。
 花器も剣山も無いからただ花瓶に挿すだけになってしまうが、花があるだけでも薫の気持ちは少し明るくなった。
 落とさないようにそっと足を進めながら茂みの中を戻っていく。孤島を覆う森のかなり奥まで来ていたのに、途中でやっと気が付いた。時々下草に足首を引っ掻かれながら、ようやく唯一見晴らしの良い屋敷前まで来るとほっと息をつく。
 先日屋敷にやってきた得体の知れない男達は、おそらく雪代縁の部下なのだろう。
 けれどいくら目をこらしても、この屋敷以外に建物は見えなかった。薫も顔を合わせたいわけではないから、近くに彼らの根城がないのはありがたいのだが。
 夏の雲が分厚く積もっている水平線に自然と視線を吸い寄せられ、薫はしばらく立ち尽くした。あの向こうにあるはずの道場を、家族にも等しい仲間達のことを思わずにいられない。
 そうしているうちに、ほろりと涙が落ちた。慌てて目元をおさえるが、一度緩んだ涙腺は手強く、掌が濡れるばかりだ。
(泣いてどうなるの、みっともない。しっかりしなさい、しっかりしなきゃ)
 薫は自分を叱咤するが、最近とみに涙もろくて情けなくなる。
 普段通りのことを、例えば花を飾ったりすれば少しは落ち着くだろうと思ったのに。
 これほど涙もろい理由は薫自身よく理解していた。
(こわいよ剣心。早く会いたい、帰りたい、うちに、帰りたい……)
 なんて弱い女だろう。心が吐き出す本音を、出来ることならうち捨ててやりたかった。
 薫は力を入れて目元を拭うと、無理矢理顔を上げた。先刻から無遠慮な視線を注がれているのを感じていたからだ。振り向いてにらみつけてやってもいいが、泣いたすぐ後に雪代縁なんかと顔を合わせたくなかった。
 なんでもない風を装って、屋敷の中に戻る。あてがわれた部屋に戻ると、ようやく一息つけた。腕の中に抱えた花を袖机の上に広げると、やはり白梅に似た花がいちばん香った。頭の奥をすっきりとさせてくれる爽やかな香りが心を落ち着けてくれる。
(なんていう花なのかしら。似てるけど、たぶん違う花よね)
 改めて選り分けながら、用意しておいた花瓶に挿していく。水差しから水を注ぎ、薫のよく知る花達は窓際へ、雪のように白い梅に似た花は袖机の上へ。殺風景だった部屋に彩りがあるだけでずいぶん違う。
 つい先程泣いたのもあって、気持ちもさっぱりしている。涙の持つ自浄作用を一七の薫は初めて知った。別れを告げられた時はいくら泣いても涙が止まらなかったのに、と思い出し苦笑する。
(不思議ね、泣いたらなんだかすっきりしたみたい)
 これくらい図太くありたい、いや、ならなくてはいけない――
 薫には先程自分が泣いた理由がわかっている。
 一つは自分の力ではこの島から出ることが叶わないこと。
 そしてもう一つは深い孤独を肌身で感じるせいだった。
 雪代縁の狂気に気圧されても、表面上は取り繕うことはできる。たとえ見抜かれていようが、けして折れてなるものかという気概はちゃんと薫の芯にある。
 だが一人きりでいるのは、あたたかい人々に囲まれて育ってきた薫には耐え難かった。そういう不安には、恋しく想う男の安否を憂う気持ちが過分に含まれていた。
「こんなにいい香りの花があるなんて知らなかったわ。みんなにも見せたいな」
 明るい部屋の中でしばらく振りに聞いた自分の声は、嫌になるほどぎこちなさを伴っていた。
 話し掛けられた銀梅花(ギンバイカ)は困ったように揺れるだけだ。つい疲れたように息をついたとき、窓の向こうに人影があるのに薫は気付いた。


 立ち止まったというには長すぎるほど、女は花を抱え佇んでいた。
 風になびく一つに結んだ黒髪は日に照らされ、花を抱く袖からはみ出た腕は細く、縁にしてみれば枯れ枝よりも容易く折れるように思えた。
 ただ立っている女、神谷薫を、何を思うわけでもなく縁はテラスの揺り椅子に腰掛けながら見下ろしていた。
 そして突然女が涙をこぼしたときに、目が勝手に包帯を見たのに少しだけ驚いた。
 神谷薫が巻き直した包帯に一滴二滴ほど染みこみ、あっけなく乾いたもの。
(あの女、何で泣イテるんだ)
 ぼんやりとした、物思いにもならないことが胸の内に浮かぶ。
 神谷薫自身に私怨はない。力任せに細首を絞めたときの激昂も今となっては不可解でしかなかった。忌々しい体質のおかげでとんだ遠回りを強いられ人誅を仕上げたのだ。なのに抜刀斎の女に自ら弱点を晒すなど、どうかしていた。
(姉さんが笑ってくれなくなったせいだ)
 縁にはいくら考えてもわからない。姉の望むように、姉の全てを奪った抜刀斎から奪い返したのに、姉は笑ってくれなくなった。それが辛くて堪らない。
 目を閉じればやはり静かな表情で自分を見つめる姉の姿が見える。
(教えてくれ姉さん、俺はちゃんとやり遂げただろう? 何が足りないんだ?)
 だが姉はいくら話し掛けても答えてくれない。
 あんな風に、泣いてくれたほうがまだいい。少なくともあの女には泣く理由があるのだ。
 ハッと縁は鼻で笑った。
 殺されるんだと思ったと神谷薫は言っていた。縁もそうするつもりだった。この期に及んで抜刀斎が人並みの幸せを掴むなど到底許されるものではない。
 だが自分では、代わりの女を殺せない。
 けれど縁が部下の誰かに命じて殺すことは可能だと考えつくのはあの女でも容易いだろう。そうなればあの女が自分で摘んだ花が墓前を飾ることになる。いいや、一緒に海に放り投げだされると思ったのかもしれない。神谷薫が死が間近に迫った恐怖を感じ取り怯えたのだと想像すると、縁の胸は少しだけ晴れた。
 だが快い気分はそう長く続かなかった。仮に神谷薫に自分で手を下せるのなら、ごく簡単に済ませたはずだ。だって、姉さんの代わりだからだ。決して情ではない。姉が味わった痛みを再び見たくないだけだ。
 神谷薫がこちらを振り向いたとき、縁は聞いてみるつもりだった。殺されるのが怖いか、と。
 そうしたら、あの女はどんな表情をするだろう。余計に泣くのか、噛みつくように言い返してくるのか。そういう反応をどこか心待ちにしている自分に気付かず、縁は薫を見下ろし続けていた。
 だが予想に反し、薫は縁の方を振り返らずに屋敷の中へ戻っていった。
 まさか縁が眺めていたことが解らなかったのだろうか。
(愚鈍な女め)
 やたらと腹が立ち、縁は腕や腹に巻かれた包帯を毟るように取り払った。打ち傷のほとんどは消えかけ、体に痛みはほぼ残っていない。上着と膝掛けを放り出し、足下に散らばった包帯を踏みつけながらテラスを出て、自室へと戻った。寝台の横に置いてある倭刀を手に取ると馴染んだ重みが感じられる。その重みが呼び覚ますように、人誅が執行された夜へ縁を引き戻す。
 神谷薫を殺害すると見せかけた時、抜刀斎は予想を超える力で阻止しようとしてきた。血塗れで満身創痍の抜刀斎に縁は圧倒された。天が味方しなかったら縁は負けていたかもしれない。
(俺が弱かったから姉さんは失望したのか?)
 抜刀斎に劣っているなどとは思えないし、間違って殺さないよう充分手は抜いた。だが虫の息である抜刀斎に押され、一時焦ったのは事実だ。
(違うよ姉さん。俺は強くなった、誰よりも強くなれる力を姉さんがくれたじゃないか)
 その力を使わなかったから、姉は自分に失望したのかもしれない。
 倭刀を手に足早に屋敷の外へ出る。暑い晩夏の日差しがすぐに縁を焼こうとする。だが明るい残光は縁の気を削ぐ力など持っていなかった。
 手近な、大の男ほどの胴を持つ大木の前に立つ。倭刀を鞘走らせる音は鋭い。呼吸と鼓動を整え、片腕でやや上段に構えた倭刀に勢いを乗せて蹴り上げると、大木は激しい音を立てて吹き飛んだ。生木のにおいが四方に散らばり、縁の膂力は少しも衰えていないことを示していた。
 呼吸を整えながら、姉の表情が変わらないのを確かめた縁の血が冷たくなっていく。
(姉さん、何が足りないっていうんだ……?)
 疑問を解く間もなく、縁の背に涼やかな声がかかった。
「驚いた。包帯も外してるし、もうそんなに動けるんだ」
 抜刀斎との闘いを見ていただけあって、薫は目の前の光景には動じた様子はない。
「はあ、やっぱり敵に塩を送るんじゃなかったかな」
 そういう神谷薫の声音に後悔は含まれていなかった。
「お前の不味いメシなど関係無い。毒を盛られるよりタチが悪い代物だぞ、あんなもの」
「な、失礼ね! だったら食べなくても結構! いつも中途半端に食べて残すのは誰よ!」
 噛みつく勢いで自分と会話をする神谷薫を、縁は静かに見返した。
 弱点を晒したというのに、律儀に朝昼晩と食事を用意し、抜刀斎にやられた傷に包帯を巻いた女。泣きながら繰り返し謝った女。一体なにを?
「……」
 口を開こうとした縁は、近寄る慣れた気配に、薫へ意識を向けるのをすんなり止めた。
「お取り込み中失礼、ボス」
「黒星、連絡なら電信でと言ったのはお前だろう」
「いやなに、少々込み入った話になる気がしたんでネ」
 性急な様子は少しもなく、つい先程まで縁と話をしていた神谷薫へ探るような視線を向けている。まず相手の腹の内を把握しようとする、姑息な男だった。
「なんだいあれ。ボスの?人(ピンイン)かい?」
 わざと大陸語を使うのも縁の反応を確かめたいからだろう。四人の大男に囲まれた小男の興味深そうな視線に、神谷薫は多少たじろいだがすぐに視線を遠くへやった。縁の事情など聞きたくもない。そういう態度だ。
「お前に関係ない。ソレよりさっさと話せ。わざわざ伝えに来たんだ、面白い報告だろうな?」
 東京の拠点が押さえられ、同時に人誅の駒に使った片腕を失った男が暴れたという話などはさして縁の興味を引かなかった。だが最後に付け加えられた左頬に十字傷のある剣客という言葉に、神谷薫が喜色を浮かべ立ち上がった。
「剣心は無事なのね!」
 薫の反応で縁の人誅絡みだと理解したらしく、黒星はいくつか言い置いて切り上げたが、縁の耳には届いていなかった。
(……抜刀斎が……あの生き地獄から……?)
 変わらず姉は笑っていない。だが縁にはようやく光明が見えた気がした。
「――嘲笑笑、やっとわかった」
 縁の低く呟かれた声には強い確信が含まれている。
「そうだ、生き地獄ではあの男の罪は到底贖われるはずない、奴に相応しいのは真の地獄、俺の手で切り刻み送ればいい、そうすれば姉さんが笑ってくれる、また俺に微笑んでくれる!」
 清々しく目覚めたような気分だった。腹の底から沸いてくる歓喜が哄笑となり周囲に響く。黒眼鏡の向こうに見える光が縁の全てを肯定していた。天が自分達姉弟を見捨てるはずない。
(もう少し待っててね、姉さん。俺があの男を殺す、必ず殺すから)
 薫だけがその姿を見ていたが、もはや縁の意識内には存在さえしていなかった。
 薫が持ち帰ったときに一房だけ落ちた銀梅花を踏付け屋敷の中へ戻っていく。抜刀斎が来るまでに縁にはやることがあった。完全に体調を戻し迎え撃つ準備をしなければならない。充分に眠り失った体力を補うのだ。
「――って、待ってってば、もう、聞こえてないの? 待ちなさいったら!」
 自分を覆っていた高揚感に針先ほどの穴が開いた。階段の途中で、服を背中から掴まれている。億劫そうに顔だけで振り向いたら、女がいた。
(……女がなぜここにいる?)
 縁の頭から存在が完全に抜け落ちていた。
 生きている女だった。肩で息をしながら頬を紅潮させ、こちらに向ける瞳には強い光が宿っている。
(ああそうか、俺が連れてきたんだった)
 掴まれた服は縁が足を進めれば簡単に外せた。あっと声が上がったが綺麗に無視し、自室へと戻る。その短い間にも神谷薫は諦めずにすぐ背後についてきながら何か喋っている。割合健脚のくせに愚図にも逃げ切れなかったな、と縁は少しずつ思い出してきた。扉を閉めたのにすぐに開いた。抜刀斎が姉の代わりに選んだ女が、自分の部屋に滑り込んでくる。さすがに扉を背にし、それ以上入ってはこなかったが。
「出て行け、目障りだ」
 寝台に腰掛けた縁が低い声で言うと、薫は一瞬言葉に詰まったようだが、首を振った。
「嫌よ。だってまだ貴方に話があるもの」
「俺には姉さんの代わりなんかと話す理由など無い」
「また代わり? 貴方って二言目には私をそう呼ぶけど、矛盾してるのがわかってる?」
「なら言い方を変えてヤルから好きな物を選べよ。間に合わせ、別物、替え玉、人形――」
 人形、と口にしたところで縁はつい笑い出してしまった。神谷薫の屍人形を仕立て上げさせ、抜刀斎に見せつけた時の愉悦を思い出したのだ。
「……人形? もしかして人誅になにか関係あるの? 貴方、剣心に一体何をしたの?」
 縁が笑ったところを、聡い薫は聞き逃さなかった。
「貴方の思惑通り人誅は完成したんでしょうね。でも剣心は負けなかった。それって貴方の仕掛けた罠が通用しなかったってことでしょう? だったら今更秘密にしたって仕方ないはずだわ。教えて、貴方が何をしたのかを」
(本当に五月蠅い女だ)
 昼間の光が差し込む窓へ縁は視線を移した。眠る時分にはいささか早いようだ。この女が大好きなお喋りに付き合って暇をつぶすのも、たまにはいいだろう。
「そうダな、今更どうでもいいことだ。俺はお前に生き写しの人形を作らせてそこへ」と言って縁は薫の左胸、心臓のあたりを指さした。「そこへ倭刀で壁に達するまで刺した。後は左頬に抜刀斎と揃いの傷を刻んでやったんだ」
 さあっと波が引くように薫は血の気を失っていく。口元を覆った白い手が震えていた。
「外印が褒めていたぞ、最高傑作だったと。俺も見たが確かに作り物のほうが良く出来ていた。どうした、嬉しくないのか? 稀代の人形師に認められたんだ。これほど美しい女なら作り甲斐があるとな」
 縁の口元に歪んだ笑みが広がっていった。
「本当に、ほれぼれするほど見事な出来だった。今のお前のような顔色で、心臓が脈打つ通りに血が吹き出たときは大笑いするところだった。あぁくそ思い出すとまた笑えてきやがる。そのうちガキの使う水鉄砲みたいに萎えて、溢れた血が床に広がっていくんだ。本当に良い見物だった。知ってるか? 西洋じゃ死んだ奴の腹を裂くんだ、死んだ原因を調べる為にな。だがこんなちっぽけな島国じゃ土に埋めるだけ。ここを(と縁は自分の左胸を軽く叩いた)一突きされてりゃ抜刀斎にだって一目でわかる、お前が死んだとな」
 言葉を失った神谷薫の様子を存分に観察したあと、縁の目が眼がふっと遠くを見る。
「だがこの世界で本当に美しいのは姉さんだけ。お前なんか足下にも及ばない。なのにいらない世話ばかり焼いて、あまつさえ話をしたいだと? 全く、何故お前を姉さんの代わりに選んだのか理解できないな。抜刀斎は欠点しかないお前みたいな女のどこが良かったんだ? 閨での手管か?」
 薫が泣きだすのを縁は期待していた。その時こそ聞いてやるのだ。
(殺されたと知った今、どんな気分だ?)
 だがいくら待っても薫は涙を見せなかった。それどころか自分の胸に手を当て、傷がないことを確かめているようだった。顔色も徐々に戻り、伏せられた瞳が真っ直ぐ縁に向けられた。
「そう、そうだったの……貴方はそうやって剣心を、みんなを傷付けたのね」
 存外落ち着いた声で薫は続けた。
「でも死んだのは私じゃない、人形だとわかったんだわ。恵さんほどすごいお医者様はいないもの、人と人形の見分けがつかないはずない」
 屍人形の精巧さを薫は当然知らない。やや強気な響きに、縁は眉をひそめた。
「わかるはずない、こんな島国の藪医者に」
「馬鹿にしないで! 恵さんならきっと見抜けるもの。だから剣心は無事でいる、みんなも大丈夫。剣心はいつも言っていたわ、この目に映る人々を守りたいって。だからもう心配しなくてもいい。あの人達、たぶん貴方の部下なんでしょうけど、ずいぶん良い報せを持ってきてくれたのね?」
「随分買い被っているがな、抜刀斎はお前が死んだと思い込み自ら地獄に墜ちていったぞ」
「違う、剣心は立ち上がったんだわ。だからきっと迎えに来てくれる、今生きている私を」
「……お前を殺す方法なら他にいくらでもある。命じれば崖から突き落とすのも容易い。腕の良い大陸の女衒を知っているんだ、抜刀斎が来る前にソイツへくれてやるのも良い手だな」
「なぜそうしないの? できるなら私はとっくに死んでいるはず」
「……」
「だって貴方は――」
 言いかけて、思い直したように薫は言葉を変えた。
「……卑怯な手を、使おうと思えば使えるわ。けどそんな気は欠片もないから安心して。甘いと思われたっていい。……誰かを傷付けるやり方は……好きじゃない」
 細い腕で体を抱いた仕草から、縁は薫の怯えを感じ取った。だが今度は少しも気が晴れない。
「抜刀斎は俺の手で必ず殺す。それでもお前はまだ甘いことを言うのか?」
「剣心は負けないわ。きっと貴方を止めてくれる」
「黙れ! あいつの臓物を残らず引き摺り出し両目を抉り、痛みに苦しみ悶えながら死ぬのを見ていろ、お前の目で! 他の奴らもだ! 残らず殺してやる!」
 怒りに目が眩み、縁は手近にあった倭刀を思い切り投げつけた。薫の背中が強かにぶつかる音がしたが、体全体で上手く受け止めたらしく、鞘を両腕で抱きしめている。
 互いに荒く息を吐きながら見つめ合う。今、神谷薫を見る自分の眼はひどく恐ろしいはずだ。
 だが女は怯えていなかった。
 何を思ったか、薫は片手で髪を結っていた紐を解くと、明るい日の中ではらりと黒い髪が広がった。縁の倭刀を抱いたまま解いた紐で柄と鞘を交差するように巻き、最後に固い結び目を作った。そうすれば縁が倭刀を抜けないとでも思ったのだろうか。馬鹿らしい。
 だが薫は大切なものを扱うように鞘を抱きしめたまま壁際まで歩いて行き、そっと立てかけた。慣れた仕草だった。
「……こんな話をするために、貴方を追いかけたんじゃないわ」
「ふざけるな、貴様の話など聞くに値しない。失せろ」
「聞いて、このままだと貴方は」
「失・せ・ろ」
 立ち上がり近寄ると西洋浴衣の襟を無造作に掴む。薫はほとんど爪先立ちの状態になった。それほど縁と薫には体格の差があった。薫は縁の腕を掴んだが抵抗にすらならない。扉の外に放り出そうとしたところで、ふと縁は思いついた。
「俺は今から寝る、一切邪魔をするな。どうしても話したいなら夜中だけ許してやる。いいか、静かに起こせ。それからこの屋敷の地下には氷室がある。あるだけの肉を表面だけ炙って持ってこい。間違えるなよ、牛の肉だけでいい」
「え、ええ?」
「黒焦げの塊を持ってきてみろ、貴様の口に捻りこんでやる。ああ、葡萄酒も忘れるな。お前がこの間俺を殴るのに使おうとした瓶だぞ。氷室でよく冷やしたやつだ。グラス…硝子の器も持ってこい。一つでいい。全部用意が出来ていたら話を聞いてやる」
 一方的に言い放ち、今度こそ縁は部屋の外へ薫を放り投げた。尻餅をついたのを見届け扉に鍵をかける。扉を隔てて苦悶の声が聞こえたがきれいに無視した。ふっと鼻の先に何か香った気がしたが、それも気に留めなかった。
 壁に置かれた倭刀を取り上げてみれば、見るからに脆弱な紐で結ばれている。縁が少し力をいれれば簡単に千切れるだろう。だが刀身の長さを鑑みれば部屋の中で抜くのは得策ではないようだ。
「チッ」
 不満そうに寝台の脇に置き直す。長身に合わせて作らせた大きな寝台に体を沈めると、無意識に深い息をついていた。寝台に横になるのはいつぶりだろう。自分で言った通り、縁はすぐに眠りに落ちた。


「――いったぁっ……」
 廊下の壁にぶつけた腰をさすりながら、薫は腹立たしくてならなかった。
(あいつ、子どもなの!? 人を代わり代わり言っておいて今度は家政婦扱いだなんて!)
 子どもといえば薫の頭に真っ先に浮かんだのは一番弟子の弥彦の顔だ。まだまだ子どもではあるが、弥彦の成長ぶりは師であり保護者代わりでもある薫にとって誇らしくもあった。
(だめ、今思い出したらだめ)
 生意気を言う弥彦の威勢の良い声が聞きたい。頭を撫でてくれる左之助の大きな手が懐かしい。情けない自分を叱咤してくれる恵の凛とした姿が見たい。いつも心を暖めてくれる剣心のやさしい笑顔に会いたい。
 涙を堪えようと細く息を吐きながら、ゆっくりと、心を落ち着けていく。
 壁に手をつき立ち上がろうとすると、ほどいた長い髪が肩の上に流れる。一歩踏み出してみると、一瞬だけ強く感じた痛みはあまり残っていなかった。大きな怪我はしなかったようだ。薫が察した通り、雪代縁の弱点は彼の姉と同じ年頃の女性に手を上げられないことらしい。
 だが乱暴な振る舞いは幾分平気なのだろう。いとも簡単に放り投げられてしまい、薫はつくづく実力差が悔しくてならなかった。
(みんなの目の前で、同じ姿形の人形で、私は殺された……)
 階段を下り部屋に着くまでやけに時間がかかったような気がしたのに、戻ってみれば開け放したままの格子窓から生温い風が吹き込んでいた。太陽もまだ随分高いところにある。
 風が巻き上げたさわやかな香りが薫を包む。袖机を飾る梅に似た花は、手折ったときよりも生き生きとして見えた。水を吸い上げる力が強いのだろう。
(似ているけど違う……今の私みたい)
 死体と見間違うほどの人形。本当だろうかと、いくらか疑う気持ちが薫の中にあった。だが雪代縁の用意周到さは嫌になるほど知っている。無邪気さすらあった縁の言葉を信じたくない気持ちの上に、容赦なく確信が被さってきて、薫の鼓動は独りでに早くなっていく。
 袖机にしまっておいた手拭いを取ると、薫は寝台の上に、子どものように体を丸めた。嗚咽を抑えたいのに、もう堪えられない。
(ごめんね……ほんとうにごめんなさい……)
 どうして逃げなかったんだろう。あの煙に巻かれる前に逃げていればよかったのだ。薫が出来ることなど何一つなかったのに、自分が逃げ遅れたせいだ。
 大切な人達が味わったであろう哀しみは、全て自分のせいだった。雪代縁の罠にかかったことがとても悔しく、ひどく辛く、ひたすら申し訳なかった。みんなを傷付けてしまった。この島で息をしている間中、大切な人達がどれだけ心を痛めたことだろう。
(みんなごめん、ごめんなさい。ほんのちょっとだけでいいから、泣いてもいい……?)
 堰を切ったように涙があふれてくる。何度謝っても足りない。口元に手拭いを強く押しつけながら、薫は声を出さずに泣いた。泣き声を雪代縁の耳に入れたくないし、自分も聞きたくはなかった。
 時間を切った通り、十数分ほどで薫はきっぱりと泣き止んだ。深呼吸し、新しい息を体の中に送り込む。袖机に飾られたばかりの名前がわからない花のさわやかな香りも体中に満たされていく。あとは冷たい水で顔を洗えば元通りの薫になれる。
 いくら悔やんでも時間は巻き戻せない。とりあえず今は、出来ることを考えるしかないのだ。
(どうしよう。雪代縁には……もう近づかない方がいいのかもしれない)
 あの狂気に満ちた眼を見れば、殺しても足りないほど憎まれているのはよくわかる。それに、二人の私闘の決着は保留されているのだ。とすればやはり薫が口を挟むのは道理に反する。剣心を倒すと雪代縁が決めたのなら尚更だ。
 だが薫が縁達の話を横から聞いていたとき、とっさに思ったことがあった。
 この島にきっと剣心達は来てくれる。その時こそ私闘が終わるだろう。終われば結果がどうあろうと、縁が作り上げた武器組織は丸ごとあの小男のものになるらしい。聞かない振りをしたのに結局聞いてしまった話を、薫は胸の中で反芻しながら目をつむった。
(――なにも残らない)
 縁の姉が記した日記は渡せなかった。それに今日まで見てきた様子から、雪代縁の中で生き続けているはずの彼女は笑っていないという。
 あくまでも憶測だが、薫には彼の姉が笑っていない理由がわかる気がした。
(大切な家族がひとりぽっちになってしまったら、誰だって心配するもの)
 たしかにこの屋敷に軟禁されている薫は孤独に違いなかったが、しっかりと自分の大切な人達と気持ちが通じているのがわかる。だから雪代縁が恐ろしくても怖くはない。案じてくれる人がいることがどれほど心の支えになるか、薫にはよくわかっていた。
 すでにこの世にいない人の気持ちを推し量るのは難しい。でも、と薫は思うのだ。
(巴さんにとって、たった一人の大切な弟なのに)
 剣心が縁を止めてくれるのは間違いない。だがその先が、薫にはいくら考えてもわからないのだ。復讐はもはや雪代縁の糧となっている。それが終わったとき、あの男はどうなるのだろう?
(……ばかだなあ、私。また雪代縁のこと考えてる)
 屋敷にいる日が長くなるほど、薫の頭は必然的に仮の同居人となった男へ向いてしまう。
 用意した食事を平然と不味いと言われたこと、包帯を巻いた右腕の重さ、傷に触れたときの体温。復讐鬼であるあの男も、ただの人なのだと証明していた。
 傷付いた人を目に入れずにやり過ごせたら、どんなに良かっただろう。だが元来優しい気性の薫にはひどく難しいことだった。
(いくら辛いことがあっても、今と向き合って生きるしかない。そうして生きていれば別の道だって見つかるかもしれないのに)
 部外者である薫の言葉は、あの男にとって雑音でしかない。どうせ拒絶されるのもわかっているのだ。
 色々と考えている内に頭の中に収まり切らなくなってきた。寝台から立ち上がり、思い切り体を伸ばす。窓から入ってくるぬるい風が、じゃれつくように長い黒髪を巻き上げた。
(そ、だ。なにか髪を結う紐を探さなきゃ)
 少し考え、薫は薬箱の中の包帯を拝借させてもらうことにした。裁縫道具はこの屋敷にはなかったが、医療用の針が入っていたはずだ。雪代縁が使ったあとはそのままだから、とりあえず彼がいつもいた二階にある縁側に行ってみる。そして目の前に広がる惨状に薫は唖然とした。
(子どもより悪いわ、片付けるってことを知らないの!?)
 絡んだ包帯をほどき埃を払いながら一つ一つ巻いていき、膝掛けも小気味よくはたきながら丁寧に畳み、放り投げられたであろう上着を拾い上げる。そこで薫は動きを止めた。両袖と前身頃の縫い付け方が物珍しかったのだ。素材も薫が知っているものとはどこか違う。きっととても上質な絹なのだろう。ふと、指の先に堅いものが触れた。現在でいう内ポケットの中に鍵束が入っている。思わず手にとり、不思議な形の鍵を薫は眺めた。くすんだ銀鼠色の鍵は手の中でずしりと重さを主張している。ひとまず元の通りに戻し、揺り椅子に上着を畳んで置いておく。
 どうにかまともな状態に戻り、薫は一息つけた。ほんとに家政婦のようだと思いはしたものの、片付けてすっきりした気持ちはまた別だ。目当ての薬箱はなかったものの、比較的きれいな包帯を一つ頂戴し、端を咥えながら引き裂けば、間に合わせの紐は手に入った。
 ざっと手櫛で髪をまとめ、いつものように一つにまとめていると、薫の心にすうっと物思いが差し込んでくる。
 雪代縁の得物、倭刀のことだ。大陸へ伝わったという刀は形を変えても、薫がよく知るものと同じだった。だが人が人を斬る時代はとうに終わり、新しい文明の息吹がこの国では咲き始めている。なのにあの倭刀は今も人を斬るために使われているのが、薫には無性に悲しくてならなかった。髪を結っていた紐で封じたのも、剣に携わる者としての哀れみがそうさせたのだろう。雪代縁にはさぞ滑稽な真似に見えただろうが、この感傷を理解してもらえずとも構わなかった。
(さて、と。次はなにをしようかなあ)
 日が暮れるにはまだ時間があった。汚れた包帯を洗ってもいいし、あの良い香りの花をもう少しもらってくるのもいいだろう。それとも――


 ――あなたが……ね! 今夜こそ逃がさないわよ!
 よく通る涼やかな声を聞いていなければ、大層な優男の剣士に見えたろう。
 相対した二人を、満ちた月だけが知っていた。身体の芯から冷える寒い夜だった。
 縁が覚えていたのはこれだけだった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 日中に残っていた雲はきれいに晴れ、満月だけが煌々と輝いている。星々の乏しい明かりをもかき消していたが、窓から差し込む光だけで明かりは充分だった。
 縁は無意識に額に手をやった。冷えた汗が手を濡らす。たった今見ていた夢のせいだろう。
 と、鍵をいじる音がし、食膳を持ちながら神谷薫が扉を肩で押しながら入ってきた。薫の体に染みた銀梅花のさわやかな香りも一歩遅れて部屋に広がる。
 真夜中はとうに過ぎ、あらゆるものが深く眠る時間だった。
 昼に投げ捨てた際の台詞のせいで、あんな夢を見たのだろうか。なぜあんな事を言ったのかは、縁にもわからない。どうせ用意出来るはずないと思う一方で、あの女の行動力ならやってのけると分かっていた気もする。
 億劫そうに上半身を起こすと、薫は驚いて足を止めた。
「びっくりしたぁ、起きてるなら一言かけてくれてもいいじゃない」
 また小言か、と縁は胸の中で苦々しく思った。一度殺しかけたというのに、この女はけろりと忘れたように縁に言葉をかけてくる。頼んでもいない食事の用意や洗濯などを勝手にやって、時には家族みたいに縁のだらしなさを指摘する。
 だがそれ以上にはならない。縁は薫が笑ったところなど見たことがないし、薫は縁が待ち望む私闘の決着に口を挟みはしなかった。
「……どうやって入った。なぜお前が鍵を持ってる」
「あなたの上着から拝借させてもらったの。放りっぱなしでひどい状態だったわよ?」
「俺の屋敷だ、貴様にどうこう言われる筋合いはない」
「あなたが言ったんじゃない、夜ならいいって。なのに鍵をかけておくなんて誠意の欠片もないのね」
「馬鹿正直に信用したのか。どこまでも頭の螺子が緩んでいる女だな」
「ええ、おかげさまで良い教訓になったわ」
 呆れたように息をついた薫は、苦労して用意した食膳と鍵束を袖机に置いた。肉のにおいが縁の鼻先をかすめる。
「これ、一応ご要望通りに用意し……」
 言いかけて、薫は驚いたように縁を眺めた。ぼんやりとした眼で縁が見返すと、急に踵を返し部屋から出て行ってしまう。
(落ち着きのない女だ)
 そう思ったのは僅かな時間で、縁は薫が置いていった食膳のほうに気を取られていた。
 きれいに焼き目がついた肉を並べた皿と箸を手に取り、用心しいしい匂いを確かめる。上等な赤肉は食べやすいように切り分けてあり、煮詰めた調味料だろう液体がかかっている。驚くほど不味い普段の食事よりは多少まともに作られているようだった。だが何しろ神谷薫の作ったものだ。意を決して口に入れてみると、溢れる肉汁と煮詰めた汁が口の中で程よく混じる。
(……まあ普通だな)
 空腹感が縁に次を催促している。次第に貪るような食べ方になり、あっという間に皿が空になる。冷えた葡萄酒を二杯三杯と次々あおり、ようやく縁は一息ついた。
 しばらくして神谷薫が戻ってきた。湯気の上がる手桶を持っている。とっくに縁が食べ終わったのを見て、目を丸くした。
「うそ、もう全部食べたの?」
「見ればわかるだろう」
「そ、そう。食べてもらえたのならよかったわ」
 縁に近づくと、薫は湯の入った手桶を床に置き、中に入れてあった手拭いをしぼった。そうして縁へ手を伸ばそうとし、自分のしようとしたことに驚いた様子で体を引いた。
「寄越せ、自分でやる」
 半ば奪い取るように手拭いを受け取ると、汗の浮いた首や額を拭いていく。額に張り付いた白い髪を鬱陶しげにかき上げると、薫が小さな声で尋ねてきた。
「……悪い夢を見たの?」
 それでわざわざ湯を持ってきたのかと、縁はようやく得心した。
「もう無いのか」
「え?」
「まだ喰い足りない。あるだけ持ってこいと言っただろう」
「あ、ええ、ちょっと待ってて。すぐに用意するから」
 ぱたぱたと足早に出て行き、廊下を走る軽い足音が遠ざかっていく。縁は含み笑いをした。
(小間使いにしては気が利かないな)
 別に家政婦代わりにするつもりで薫を連れてきたわけではない。じっとしているのが苦手らしい女は、料理の腕は別として、日中は何某かの用事を作っては動いていることが多かった。
 だが、時折物思いに囚われるらしく、昼間見たように心を手放し海を眺めていることもあった。摘んだばかりの花を胸に抱え、遥か遠い場所を思っているであろう薫の表情は乏しく、縁に屍人形を思い出させた。なのに突然涙を流したりするから、女が生きているのだと縁は狼狽させられる。
 また戻ってきた薫を目で追いながら、縁は気付いていた。
 光を失わない瞳が、こちらへ噛みついてくるような物言いをする時、縁は薫だけを見ている。抜刀斎が姉の代わりに選んだ女という認識が、無意識に外れるのだ。この女がごく当たり前のように接してくる日が長くなるほど、縁の意識が僅かずつ変化している。大した意味など無いとわかっていながら、どこか面白がっている自分がいるのを縁は感じていた。
「はい、どうぞ」
 皿を受け取った縁はまたがつがつと食べ始めた。その様子に薫は大きな目を丸くする。
「ねえ、その、味…は大丈夫?」
「普段よりは数倍マシだ」
「それならいいんだけど……」
「なんだ、烏頭でも仕込んだのに効かないからがっかりしたか?」
「誰がするのよ、そんなこと! ただそれ、ほとんど生じゃない。味見したけどにおいが強くて食べにくかったから」
「こうやって喰うと体も温まるし血にもなる。手っ取り早くていいんだ」
「ふうん、そういうものなのね。私はやっぱり牛鍋のほうが好きだけど」
 縁が皮肉を言う前に、薫はなにかを払うように小さく首を振った。大方、縁が破壊させた牛鍋屋のことを思い出したのだろう。抜刀斎を精神的に追い詰める為の計画は、同時に薫も苦しめたのだ。だがこの女が苦しんでいる様を見ても、何の感慨も浮かんでこない。抜刀斎に関わったのが災難だったとしか言いようがなかった。
「お前もつくづく運が悪い女だな。疫病神を引き込んだのが運の尽きだ」
 二皿目もきれいに平らげた縁の頬がピシリと小気味よくなった。はずみで床に落ちた皿は運良く割れなかったようだ。
「一方的に決めつけないで! そりゃあ世の中にはしあわせも不しあわせもあるわ。でもどう捉えるかはその人次第、あなたが勝手に決めることじゃないっ」
 軽く肩を上下させ、薫は一息に言った。少し赤くなった頬を気にもせず縁は続けた。
「名前は忘れたが、お前の流派を騙った偽抜刀斎がいただろう。だが何の巡り合わせか本物の抜刀斎がお前の窮地を救ったそうだな。偽物は討とうとした癖になぜ抜刀斎を引き留めた?」
「……どうしてそんなこと聞くの?」
「調べさせた時に気に掛かった。あの男は新時代を開くとかいうお題目で何百何千と人を殺しているのに、どこが違ったのか俺には理解できん」
 縁が薫に尋ねるなど今まで無かった。怪訝そうに薫は一歩体を引いた。
「あなた……酔ってるのね? やだ、もう一瓶なくなってるじゃない」
 空になった葡萄酒の瓶を確かめると、疑わしそうに横目で見られる。大きな溜息をつき、薫は落ちた皿を拾い上げ、きちんと食膳に重ねた。
「酔うはずないだろう、そんな量で」
「はいはい。酔ってる人ってみーんなそう言うのよ」
 片付けて立ち去ろうとしている薫に、縁はなぜか苛立った。
「おい、話があるんじゃなかったのか」
「やめておくわ。起こしたのは悪かったと思うけど、あなたもう寝たほうがい……」
「俺がどんな夢を見たか教えてやろうか」
 ぱっと薫が振り向いたとき、縁は底意地の悪い笑みを湛えた。餌にかかったと思った。
 眠っている間に汗をかいたせいで服も半ば湿っている。煩わしそうに上衣の紐を解くと無造作に脱ぎ捨てた。部屋にある明かりは窓の外の月くらいだ。だが薄明かりに照らされる肩や上腕を見れば尋常ではない鍛え方をしたのがわかる。けして薫が得られない力を感じたのか、薫は慌てて視線を逸らした。そういう反応を楽しんでいる自分がいる。魂だけが体を抜け出て、自分と神谷薫を見下ろし、つぶさに観察し、縁がこの状況をひどく悦喜していると伝えている。
「……悪い夢を見たときは人に話すといいって教えてもらったことがあるわ。そうしたら、悪い夢が離れていくんだって」
 薫の心遣いを、縁はただ下らないと思った。部屋の隅にある洋卓と対になった椅子を面倒そうに顎で示した。
「聞きたければこっちに来い。そこへ座れ」
 少し躊躇したが、薫は素直に椅子を引き摺らないように寝台の傍に運び、縁の腕の長さ分の隙間を空けて腰掛けた。真っ直ぐ縁と目を合わせ、緊張しているのか桜色の唇は引き結ばれている。
 くくっと縁はおかしそうに笑った。体を薫の方へ向け、胡座をかいた膝の上に片肘をつく。
「そこまでして聞きたいのか? 断っておくがつまらない話だぞ」
「あなたが私の質問に答えてくれたことが一度だってあった? どういう風の吹き回しか知らないけど、こんな機会はきっと二度とない。それに……」
 まるで罪を告白するように薫は目を伏せた。
「私は、あなたの弱みを一つでも多く知っておくべきだから」
「そうだな、抜刀斎の為にもなる」
 強い光を宿した瞳が縁を睨んだ。生きている女だった。屍人形は神谷薫の生き写しであったが、唯一違ったところがある。死体から取り出した眼は初めからくすんでいて、先に奈落へ落ちている。だがこの女の眼は生きていた。
「この通り夜になってもまだ蒸し暑い。なのに夢の中じゃ真冬だった。寒くもないのに真冬だとわかったのは吐く息が白かったからだ」
 一旦言葉を切ると、薫が不思議そうに首を傾げた。
「それだけ?」
「勿論続きはある。だが俺ばかり答えるのは公平じゃない。お前も俺の質問に答えろ」
「……後出しなんてずるいやり方ね。ま、いいわ。剣心を引き留めたのは……成り行きよ」
 それで許すはずのない縁の鋭い視線に、小さく息をついてから薫は続けた。
「その時は本当に成り行きだったのよ。でも、そうね……私はひとりぽっちになるのが怖かったんだと思う。だから名前も知らなかった優しいあの人に留まってほしいって思ったの」
「つまり格別あの男でなくともよかったわけだ」
「人との出会いを一括りにそう捉えるって、あなたほんっと損な性格してるわね」
「俺がどんな生き方をしてきたかお前もよく知っているだろ。もっと昔語りがいるか?」
 強く首を振った薫を一瞥してから、縁は露が浮いた次の葡萄酒の瓶を手に取った。栓を外したところで、ふと思いつき薫に葡萄酒の瓶を押しつける。空のグラスを手に取り、やや傾けて差し出すと、薫は悔しげにしながらも、かすかに震える手で酒を注いだ。馬鹿なだけの女ではないと縁は少しだけ認識を改めた。
「賢い娼婦なら進んで酒を飲ませる。後はよく同調しながら相手の話に夢中になっている振りをしてみろ。俺の口も軽くなるかもしれないぞ」
「……あなた、ほんとに酔ってないのね。でも今度は私が聞かせてもらう番だわ。順番はちゃんと守ってもらう」
「わかったわかった」
 まだ冷たさが残る葡萄酒が気持ちよく喉を通っていく。こうして抜刀斎が姉の代わりにした女とのお喋りに興じているのだから、自分はとっくに酔っているのだろう。それとも腹が満たされ新しい血が体を巡り始めたからだろうか。
「場所はおそらくトウキョウだろう。ガキの頃の記憶なんて曖昧だし、何しろ大陸暮らしが長かったからな。だが少しだけ見覚えはあった。だからトウキョウのどこかだ。姉さんを殺めた抜刀斎のいる町になどいたくもなかったのにな」
 グラスが空になっても、薫は袖机に瓶を置いて、動こうとしなかった。
 縁は腹を立てる代わりに命じた。
「暑いな、空気を入れ換えろ」
 薫も同感だったようで、素早く立ち上がると――縁の近くにいたくないという風に――二つの格子窓を次々開けていった。夜半を過ぎると流石に風も涼しさを含み、薫がまとっていたさわやかな香りごと外の闇へと持ち去っていく。いくらか緩慢な歩みで椅子に座り直した薫に、縁は次の質問を浴びせた。
「抜刀斎ではなく、お前の基準で言う優しい別の男だったら引き留めていたか?」
「……引き留めていた、と思う。さっきも言ったでしょ、あの時はひとりぽっちになるのが怖かったから」
「過去に抜刀斎と負けず劣らず人を斬っていた男でもか」
「新しい時代を作るために生きていた人なら。過去と現在(いま)は違う、こだわる意味はないわ」
「なるほど。要は誰でもよかったんだな」
 縁が嘲っているのがわかったのだろう。薫は背筋を正すと膝の上で両手を堅く握りしめた。
「そうね。行き倒れたおじいさんでも追われている女の人だったとしても、私を一人にしないでくれる人なら誰でも良かったわ」
 世間に擦れた女を装ったのかもしれないが、縁には小娘が粋がっているとしか映らなかった。
「よくお人好しって言われるけど、見返りを求めないわけじゃない。誰かにやさしくしてもらいたいし、ありがとうって言ってもらえたらうれしいもの。ここ(と薫は胸元に両手を重ねた)の底ではいつだって見返りを求めてる」
 ささやかな反抗などとうに見抜かれているのに、薫は似合わないはすっぱな物言いを続けた。
「がっかりさせたかしら? おあいにく様、私はこの通り自分勝手なとても醜い人間なの。巴さんの代わりにすらなれないただの小娘よ」
 投げやりを装って言う様子があんまりおかしくて、縁はとうとう笑い出してしまった。
 笑いながら、薫がその華奢な体でまだ抜刀斎をかばおうとしているのがおかしくてならなかった。こんな分かりやすい嘘で、縁が一五年間抱いてきた復讐心が溶けるとでも思ったのだろうか。意地の悪い笑みを浮かべ、嘘をついた薫に罰を与えるように並び立てる。
「面白いくらいに頭の鈍い女だな。見返りが欲しいだと? だから善人面した爺に騙されるんだよ。士族だとか名乗るガキを育ててどうなるんだ? 鶴みたいに恩返ししてくれるのを期待しているのか? ああ、柄の悪い喧嘩屋ならもう姿を消したぜ。お前の敵討ちをする気などこれっぽっちも無かったらしい」
 仲間を侮辱された怒りに、縁の頬を張ろうと飛んできた薫の手を、易々と受け止めた。
「最たるは抜刀斎だ。確実にあの男はお前を助けにくるだろうぜ、屍人形が偽物だとわかったんだからな。不殺の誓いとやらを破ってでも俺から奪い返しに来る。だがそれだけだ。姉さんの代わりであるお前を守れなかった事実があいつを地獄へ引きずり込む。もしくはどこぞへ流れて残る命をすり減らし野垂れ死ぬ運命だろうさ」
 口元を歪ませながら笑う縁に、薫は掴まれた手を外させようと抵抗していたが、すぐに止めた。代わりに、ふっと緊張をゆるめた。
「そう、私、嘘をついたわ。剣心じゃなきゃだめだったの。流浪人の剣心がいてくれたから私はひとりぽっちじゃなくなった。あの人のおかげで家族とも思える仲間もできた。初めは私を一人ぽっちにしないよう気遣ってくれたの。でもね、今は違う。剣心はもう私を置いていったりしないってわかるもの。それから今度私の大切な人達を悪く言ったら、思いっきりひっぱたいてやるから覚悟しておいて」
 縁は半ば感心しながら薫を眺めた。
 人質として囚われているくせに、どうしてこの女は折れないのだろう。
 縁の手から力が抜けた隙に、するりと薫の手が離れていく。
「お前があいつをどう思おうが、結局は抜刀斎の弱点になる運命だったんだよ。人誅の要となり、奴を苦しめるだけの存在だ。柄にもなく天に感謝したさ、実際お前はこの上なく良い駒になってくれたからな」
「なにそれ、もしかしてお礼を言ってるの?」
「好きに受け取れ」
 まったくもう、と薫は嘆息した。
「ねえ、あなたって子どもみたいね。よくいるのよ、わざと女の子にいじわるする男の子って。気を引きたいんでしょうね。でも私は巴さんじゃない。だから私にどんなにいじわるを言ったって、あなたの気が晴れることはないと思う」
 少し考えて、薫は軽い調子で言った。
「うん、でもお互いにちょっとは気が紛れたかもね」
 薫が笑った。さっぱりとした明るい笑顔だった。縁が初めて見る表情だった。
 こんな風に笑うのかと軽い驚きが胸の中に差し込んでくる。このときもまた、縁は薫だけを見ていた。途端にこの笑顔を向けてもらえる抜刀斎に身悶えするほどの憎悪が沸いてきた。憎悪よりも嫉妬に近い感情だったが、あの雪の日から抜刀斎への憎悪を糧として生きてきた縁にはその違いがわからない。昂ぶり始めた血が、乾きと飢えを運んでくる。生きる力に溢れたこの瞳が涙に濡れるのを見たいと思った。
「……だった」
「え?」
 縁が小さな声で呟いたから、薫はそちらに気を取られてしまった。
 細い右手首を引っ張れば華奢な体は簡単に寝台の上に転がった。慌てて逃れようとする背中に片膝を乗せ骨が折れない程度に力をかけると、かなり痛みがあるはずなのに、薫は呻き声ももらさない。しばらく待ったが体に変調が現れなかったのも縁を喜ばせた。殺さなければいいのだ。
 放り出したグラスが床に落ち派手に砕けた。
「お前だった。人形のお前を殺した時、人誅を果たしたあの夜と同じ姿で、お前が俺の前に立っていた。姉さん以外の女など塵以下だというのに、よりにもよってお前が現れたんだ」
 淡々と夢の話をしながら、腰紐をほどき、残った左手も難なく捕まえ、右手と一緒に血がようやく通う程度に腰紐で縛り上げる。じたばたと抵抗する薫などものともせず、作業的に縁の手が動いていく。
「俺に威勢良く啖呵を切って向かってきたな。やり合ったところで実力の差は明らかなのに、お前は向こう見ずにも俺相手に一歩も引かないんだ。その意気込みだけは認めてやる。だがな」
 薫のうなじを押さえつけ、髪を結んでいる紐と言い難いものに縁は手をかけた。だが結び目は堅く、かといって無理に引き抜くのはなぜかためらわれた。
 縁は空いている片腕で寝台の傍にある倭刀を手に取った。倭刀を封じているのは薫が最初に使っていた髪結い紐だ。柄を口でくわえ、鞘を腕で少しだけ引くと、髪結い紐は簡単に千切れ飛んだ。はらりはらりと髪結い紐だったものが寝台や床に落ちたのが、薫にも見えたのだろう。なぜか抵抗が止んだ。
 刀身を少しだけ出し、縁は毛羽だった紐を断ち切った。
 まとめられていた長い黒髪が広がり、縁が組み敷いているのはただの女になった。元通り倭刀を置き直すと、縁はうつぶせにさせていた薫をくるりとひっくり返した。腰紐がほどかれた西洋浴衣は頼りなく薫の体を包む程度で、のしかかっている縁がその気になれば白い肌もあらわになるだろう。
 顔を背けようとする薫の顎を捉え、こちらを向かせる。縁が唇を耳元に寄せると、びくりと薫の体が震えた。
「俺の中には姉さんしかいない。姉さんだけがいればいい。なのにお前が現れた。これが俺の見た夢の全てだ。妙な闖入者のおかげで体が勝手に拒絶しようとするんだからな、まあ、悪夢と言えなくもないか。人の夢に勝手に乗り込んでくるなんて、全くイイ根性をしていやがる」
 冷たい言葉のはずなのに、縁の吐息はひどく熱い。薫は混乱した。これから自分の身に降りかかろうとしていることが現実だとは思えなかった。
「わ、私じゃ巴さんの代わりになれないのよ?」
「それがどうした」
「どうしたって、あなたにとって大切な人は巴さんだけなんでしょう?」
「そうだ。俺は死んでも姉さんだけを大切に思う」
「ならどうして」
「くどいな。少しは黙ってしおらしくしていろ」
「やだ、離してよ! お、女の人が必要なら部下の人にでも頼めばいいじゃない!」
「悪い夢とやらは話せば離れるんだろ? 俺の中から離れたなら、お前を存分に犯せる」
「……こんな、こんなこと……復讐には、ならないのよ……?」
「あんな男の話などするな、興が醒める。俺は――俺に犯されたお前がどんな表情(かお)をするのか見たいだけだ」
 薫がどうにか身をよじって縛めを解こうとするも、簡単にほどけるものではなかった。縁の熱い肌を布越しに感じたとき、薫は根源的な恐怖に悲鳴を上げた。
「やめて、いや、やだ――!」
「舌を噛むなよ」
 低い声で呟くと、獲物を喰らうように縁の舌が薫の口内に入り込んでくる。滑らかだが拙い動きしか知らない舌が、いいように蹂躙されていく。
 舌同士が絡み合い、溢れた唾液が薫の唇の端からひとすじこぼれていく。一旦縁が唇を話すと、薫は新鮮な空気を求め荒い呼吸を繰り返した。だがまだ充分に肺の中にある空気が入れ替わっていないのに、縁は再び口付けた。上顎を舌先でなぞり、柔らかい舌に絡ませ、そうしてまた少しの息継ぎの間を与える。口付けの仕方など全く知らない薫に教えるように、何度も繰り返した。苦しげな息の下でようやく薫の喉が小さく鳴る。大きな手が艶やかな髪の中に潜り、掌に載るほどの頭を持ち上げた。混ざり合った唾液を飲み下すほうが楽だと無意識下に感じ取ったのだろう。薫の喉がこくりこくりと鳴るのを、縁は繰り返させた。さすがに息が上がったのか、薫は縁の手から逃れようと強く身をよじらせた。
 仕方なく離してやると、薄明かりに桜色の唇が唾液で濡れているのが分かった。仕上がりを確かめるように縁は白い首筋に舌を這わせる。幾分か熱を持っているのを直接確かめた。
「や、だ…やめ、て、やぁっ」
 苦しげな息の合間にまだ逃れることを諦めていない薫に縁は眉根を寄せた。
(面倒だな、生娘は)
 そう思いはするのに、体の奥底ではますます熱が高まっている。この女を溺れさせてみたいと、獣のような渇望が血流に乗って広がっていく。
 覆う程度の役目でしかない西洋浴衣の中に熱い掌が入っていく。息を呑んだ薫のうなじを掴み、再び口付けながら柔肌に触れていく。豊かな双丘の頂にある隆起に軽く触れるだけで薫が震えたのがわかった。だがまだ弄ばず、鳩尾から下腹部に掌を動かしていく。無駄な肉のない腹部の肌は絹のようになめらかで、縁の手に吸い付くようだった。
 焦らすように動く縁の手に、薫は感じたことのない感覚が背中を登ったのがわかった。ぞくりとするのに寒気とは全く違う。ただ、縁の手が触れただけなのに。
 ゆっくりと足の付け根まで辿り着くと、薫は瞬時に体を硬くした。膝同士がしっかりくっつき、開かせるのは簡単ではなさそうだ。だが急ぎはせず、縁は左手で薫のうなじを支えながら舌先で誘い出すようにやわらかい唇を舐める。刺激に堪えられず薫があえぐと執拗に舌を絡ませた。舌の裏に潜り込ませたり歯列の裏をなぞったりしながら縁も薫の唾液を啜った。
(……甘い)
 砂糖や果実とは違う、僅かな甘みを含んだ唾液を貪るように奪っていく。縁が息継ぎの間を与えないせいで、薫の意識が途切れ始めた。うなじを支えていた手が重くなり、縁は呆れながら薫の唇を解放してやった。かろうじて呼吸はしているが、目はぼんやりとし、どこを見ているかわからない。
「息ができなきゃ鼻でしろ。窒息したくはないだろう」
 声をかけられ僅かに意識が戻ったらしく、薫は大きく息を吸い込んだがむせて咳き込んだ。
 一つ咳をする度に薫の小さな肩を覆っていた西洋浴衣がずれていく。元々が小柄なのだろう、女だてらに剣術をしているというのに、小さく頼りない肩だった。肌は白く、うっすらと血が通っているのがわかる。首と肩をつなぐ柔らかい付け根に、縁は前置きもなく歯を立てた。
「い、たっ……!」
 痛みにうめいた薫が体をずらそうとすると、両腕を掴んで自分の体の下へ戻す。印を刻んだことで、縁の気分はますます高揚していく。
 再び下腹部へ手を当てると、先程より抵抗は少なかった。すんなりと膝を開かせ体を割り込ませる。だが割れ目はまだ固く閉じ、縁を受け入れるどころではなさそうだ。割れ目を指で開き、小さな入り口を探し当て指を潜り込ませる。
「っ……!?」
 違和感に体を堅くし目をつぶった薫は、少しして重くのしかかっていた体が離れていったので、そろそろと目を開けた。
 縁は掲げるように自分の右手を見ていた。淡い光の中で、白い髪と対比する赤いものが、縁の指に絡まっている。
「これで……俺のものだ」
 破瓜の血を愛おしげに舐め上げる姿は、狂気の色を濃く滲ませている。蒼白になりながら目を背けようとした薫を、縁は容赦なく顎を捕まえ、眼前に持ってくる。
「よく見てみろ。お前は自分の身すら守れないただの女だ」
 体が震えるのを薫は必死で耐えた。純潔を奪われた悲しみと雪代縁の狂気が体を包み込む。
 縁が、笑っている。端正な顔がいびつに歪み、薫を支配した悦びに笑っている。
 奥歯がかちかちと鳴り始めたのに気付き、薫はどうにか歯を食いしばると、静かに息を吸い込み上半身に力を溜めた。
「ぐっ」
「――いったぁ!」
 思い切り頭突きしてやった。が、当然薫にも衝撃がある。後ろ手に縛られているのでズキズキと痛む額に手をやることもできない。縁も額をおさえ痛みが引くのを待っているようだった。
「……何の真似だ、馬鹿女」
「人を押し倒しておいて馬鹿とはなによ! この……この白髪頭!」
 恐怖を振り払おうと薫は必死だった。
 薫を見下ろす縁の眼は氷のように冷たいが、狂気が霧散し、僅かに人らしい色が戻っている。
「ただの女なら縛る必要なんてないでしょ! 手は痺れるし痛いのよこれ!」
「暴れられるのが面倒なだけだ。大体お前、逃げるだろうが」
「当たり前よ! 捌かれそうだってのに逃げない魚がどこにいるのよ!」
 薫の表現がおかしかったのか、縁が吹きだした。喉の奥で笑いながら、口元を手で押さえ笑いを引っ込めようとしている。
「そうだな、今のお前は俎上の魚だ」
 指に残っていた血がついたのだろう。縁の左頬にかすれた赤い色がつく。
 二布の紐がほどかれ、ひどく熱いものが薫の下腹部に触れた。そそり立つ赤黒い陰茎が押しつけられている。ひっと息を呑んだ薫に、縁は愉快そうにより擦りつける。
「しっかり見ていろ、これからがお前を捌くところだ」
 男と女が交わる場所からくちゅりと粘りついたような水音がする。羞恥と恐怖に離れようとする薫の細腰を縁は容赦なく引き寄せた。
「やっ、いや、いやぁぁっ!」
 一息に挿しこまれ、背骨から痛みが走り抜けていく。息が出来ない。痛みの中で内臓を掻き回され下腹が苦しいほど圧迫されるのを薫は感じていた。白い肌の上を黒髪が何度も跳ねる。
 異物を排除しようと柔肉が拒むのも物ともせず、縁は薫の中を乱暴に掻き回した。人肌よりも熱い膣内を存分に犯しながら、無理矢理に道を開かせる征服感があった。繰り返し出し入れする度に快楽が増していく。
 とうとう痛みを堪えきれず、薫の瞳に涙が浮かんだ。待ち望んでいたかのように、縁が顔を寄せてきた。透明な涙が頬を伝い、薄明かりが作る長い睫毛の陰影を、じっくりと観察するように眺めている。
 縁の動きは一旦止まったが、傷口をえぐられる痛みが下腹に残っている。熱い陰茎は薫の中に入ったままで、脈打っているのすらわかるのが余計に辛かった。嫌でも自分の身に起こっていることを薫に自覚させる。
「お前はそういう表情(かお)をするんだな」
 一人納得したように呟いた縁に応えることも出来ない薫の頬を、慰めるように大きな掌が撫でる。
「痛むか」
 感情の読みにくい声で尋ねられると、薫はふいと顔を背けたが、子どものような反抗はすぐに縁の手で正された。縁をにらみつけながらも、また薫の瞳から涙がこぼれる。
「……いたい……すっごく……」
「だろうな」
 縁は赤く腫れた目蓋に口付けを落とすと、今度はゆっくりと動きはじめた。指先で薄紅色の蕾を隠した薄皮を剥くと、苦痛とは少し違う声が薫の口からこぼれた。爪の先で軽く引っ掻いたり、指でつまむようにしてやると、薫の肉奥がただ挿れたときに比べ、縁の陰茎の先に絡むような動きをする。寸前まで引き抜いてから再び差し挿れると粘膜同士がじゃれあうように淫らな音を立てた。縁の汗がはだけた白い肌に落ち、やわらかな胸の間へするりと流れ込んでいく。
「っう、んぅっ……」
 縁はまた薫の表情を確かめる。堪えるように目をつむりながら、薄く開いた桜色の唇の奥にやわらかい舌が覗き見えた。黒い髪の中に大きな掌を差し込み、自分の方へ引き寄せ舌を吸い上げた。華奢な背中に回した縁の腕に寸刻力が入り、縁の熱い吐息が薫の喉まで熱くする。
 どれくらいそうしていただろう。寝台の上に戻され、やっと終わったのだと薫は心底ほっとした。だが縁が離れても身体の中に熱いものが残っているのを感じ、背筋が冷たくなった。
 残っていた力を振り絞り逃れようとしたが、すぐに太い腕が首に巻き付いてきて引き戻される。
「本当に馬鹿な女だな。お前が逃げられる場所などどこにある」
 反動で堅い肩に頬をぶつけた痛みを感じるより先に、ちっとも萎えてない陰茎が目に入る。
「や、やだっ」
 涙声になってしまう。面白がるように、縁は薫の腰を胡座の上に引き抱き寄せた。自由に動かせない両手のせいで縁の裸の胸に抱きすくめられた形になる。
 縁の指が薫の髪からなにかを取り上げた。薫が縁の倭刀を結んだ髪結い紐の残りだった。ふっと一息で吹き飛ばされ、暗い床に落ち見えなくなる。
「硝子片が散らばっている。下手に踏めば足の指を失くすぞ」
 気遣うような物言いに、薫は悄然と肩を落とした。
 この男は一体何を考えているのだろう。
 手酷い扱いを受けたばかりで薫の頭は上手く働いてくれない。腕も体も痛い。下腹はもっと痛い。なのに縁の熱を持った肌にもたれかかっている。縁は縁で大人しくなった薫に声をかけるでもなく、長い黒髪を指先に巻き付けたり、掌で持ち上げてはさらさらとこぼしたりしている。
 深淵の闇が薫に寄り添っていた。真綿で包むようなやさしさを持ちながら、幼子が明かりもない夜に置き去りにされた恐ろしさを伴った悲しみが後から後から増えてくる。
 どこが間違っていたんだろう? なにを掛け違ったんだろう?
 この悲しみはどこからくるものなのだろう――?
「……ふ、ぅ…あ、あぁ――」
 無意識に嗚咽が漏れる。頬を伝う涙を拭うこともできずに薫は泣いた。薫の顔を持ち上げ興味深そうに眺めている縁の前でも涙は止まってくれない。見られたくないのに、口から漏れる嗚咽を堪えるのが精一杯だった。
 雲がかかったのか、窓から差し込む光が陰った。
「ここにいろ」
 そう言うと、縁は薫に唇を寄せた。が、すぐに眉間にしわを寄せる。
(不味い)
 涙が薫の唇を濡らしていたのだろう。後口の悪さが口の中に広がる。抱いた女が泣き出すなど初めてだったから、余分な驚きがあった。もう一度確かめようと唇を寄せるが、薫が拒絶するように顔を背けたので、濡れた頬に口付けする羽目になった。
(不味い……)
 手を伸ばし西洋浴衣の胸元を掴む。流石に薫は泣いていられなくなった。だが縁は手近な布だったからという風に、ごしごしと薫の顔を拭き始めた。嫌がる薫の後ろ頭を押さえながら、とりあえず水気がなくなった頃合いで手を離す。力を入れすぎたせいか余計に頬が赤くなったようだが、人にこういうことをする加減を縁は知らなかった。
「……今度はなんなの?」
 不審を隠さず見上げてくる薫の瞳がいくらか生気を取り戻したのを確かめ、縁は一人言のように呟いた。
「見苦しかっただけだ」
「……ほっといて、よ……」
 無防備に泣いてしまったことが悔しかったのか、薫はそっぽを向く。泣くほどの体力があるからこれほど手が掛かるのだと、縁は大きく息をついた。
 右腕を伸ばし葡萄酒の瓶を手に取ると、直接口をつける。グラスは割ってしまったから仕方ない。ややぬるくなっていたが口直しにはなった。乾いた喉が湿ったところで、縁はするりと細首を左手で掴むと、軽く力を入れた。
「なっ――!」
 だが首を絞める目的ではなく、薫が口を開いたところを狙い口付ける。葡萄酒を流し込むと、否応なく薫は飲み込まざるを得なかった。
「……変な味」
「最上級の代物だぞ。お前の味覚が壊れているのも納得できるな」
 赤いお酒と薫が呼ぶ葡萄酒は、確かにちっぽけな島国の酒とは全く違う。だがどう作られるかなど解説してやる気は全く無かった。縁は再び葡萄酒を口に運び、それから薫に飲ませようとする。いい加減抵抗する無意味さを思い知ったらしい薫は拒まなかった。だが一口飲む度にいかにも不味そうな顔をする。縁はそれを確かめて次を飲ませる。ちっとも色っぽくない行為だった。やがて薫の体温が上がりはじめたので、酒を与えるのを止めた。
 意識を混濁させるほどではない、多少感覚が鈍くなる程度の量だ。
 やがて小さな体から力が抜けて、縁にもたれかかってきた。自身の変化に驚いたらしい薫が息を呑むのが聞こえたが、縁の手が下腹部に伸びると悲鳴に変わった。
「やっ、もういやっ……!」
 わざわざ腰を浮かせてくれたので、縁はなんなく薫の割れ目に触れることが出来た。
 指を潜りこませると縁が注ぎ込んだ精液がどろりとこぼれ落ちる。その感覚に薫の体が恐ろしげに震えた。体を覆っていた西洋浴衣が肩から滑り落ちる。程よく回った酒が白い肌に艶を与え、薄闇の中でおぼろげに輝いていた。
「いやっ、見ないで、見ないで――!」
 恥ずかしそうに体をよじる度に白桃を思わせるやわらかなふくらみが揺れる。縁はわざと高く笑った。
「ははっ、わざわざ誘ってくるなんてな。そんなに俺に触って欲しいのか?」
「ちが、ほんとにちがっ……」
 ほとんど力の残っていない細腰を引き寄せてから、縁は遠慮無く手を伸ばした。温かいふくらみを持ち上げ、桃色に色づいた頂を舌で舐め上げた。感じやすい場所を指でつまんだり、指の腹でつぶしたり、犬歯の先で軽く噛んだりと、好き勝手に嬲っていく。
 縁の肩に黒髪がかかる。薫の短い吐息がすぐ近くで聞こえた。
「……っは、ぁ……」
 形になり始めた核を指でつまむと、かすれた声が鼓膜をくすぐってくる。不思議なくらいたまらなくなり、縁は薫の頭を引き寄せ唇を塞いだ。まだ葡萄酒の味が残っていた。
 裸同士の胸がくっつきあい、薫の鼓動が直接感じられる。どちらの肌が熱いのかもうわからない。唇を離すと、息をしていなかったように薫は少し咳き込んだ。潤んだ瞳と濡れた唇は男を欲情させるには充分だった。もう少し腰を落とさせると、陰茎で割れ目を開きくっつける。
「っ……!」
「一々逃げるな」
 苛立たしげに縁は言ったが、すぐには挿れない。精液と違う質のとろりとした蜜が縁の陰茎を包む。柔らかな曲線を描く背につっと指先を滑らせると、びくりと薫は体を縮め、合わせたところが余計にこすれ合う。堅くなった蕾が縁の熱を持った陰茎に触れると、痺れるような感覚が薫の体中に広がっていく。僅かに薫が覗かせたとろけた表情を確かめると、縁はゆっくりと細い腰を動かした。
 淫靡な水音は僅かずつだが大きくなるが、同時に薫へ息苦しさを与えた。縁がわざと焦らしているのだとはわからない。鎖骨のくぼみや胸元を熱い舌が這い、あれほどいやらしい動きをしていた手は弾力をただ楽しむように双丘を握ったりするだけで、固くなった桃色の頂には触れようともしない。もどかしさの理由が薫にはわからない。散らされたばかりの乙女には難題としか言いようがなかった。
「はぁっ…はっ……」
 艶やかな黒髪が窓から入ってくる夜の風に泳ぎ、ひたと縁へと寄り添う。
 縁の肩にもたれながら、どうすればいいかも理解できずにいる薫の姿が快い気分を運んでくる。だが支配した悦びとはどこか性質が違った。どこか欠けているとわかっているのに、肝心の欠けたものを思い出せない感じだ。
 腕の中にいる薫の肌は温かく、商売女の高級な香水よりも良い匂いがする。
 だがあれだけ血を昂ぶらせた薫を手に入れたはずなのに、満足していない自分がいた。
 薫の頬を引き寄せると深い口付けを落とす。間を置かずに縁が唇を離すと、無意識だろうが、小さな舌が宙に浮いた。縁はまた舌を絡めてやる。熱い吐息が重なり合い唾液が混じり合う。互いを貪り食っているのに腹が満たされない。縁は自分も動きながら、薫の腰を掴み揺り動かした。中にねじ込むのに似た温かい感触が縁を包む。薫が苦しげに眉を寄せるのをじっと見ていた。
 蕾を陰茎で擦られ、薫は喘いだ。手水に行く時に似ているが違う。薫の知らない感覚が下腹の深いところで疼いている。その疼きを縁が広げていくのがこわかった。自分で止められないのはもっと恐ろしかった。耐えようとしても、縁に乳房の頂を強く吸われると内側から脆く崩れていく。そのまま首筋のやわらかいところを舐められ、熱い吐息と一緒に低い声が耳元がささやく。
「気持ちイイんだろ……? 我慢するなよ、全部見ててやるから」
 指が蕾に触れたとき、かすかに残っていた理性が容易く折れた。
「や、あぁっ――!」
 短い嬌声が響き、弾むように浮いた毛先がゆるりと落ちる。
 息をするのも辛そうな薫が垣間見せた『女』の表情(かお)に、縁はひとまず満足した。自分の腕の中に落ちてきたと思えた。少し体を離すとぬるりとした蜜が離れがたいようにまとわりついてくる。こちらも二人分が混ざり合い、すでにどちらのものかわからない。
 脱力した華奢な体は縁にもたれ、浅い呼吸を繰り返している。
 背中を覆う長い黒髪に指を潜りこませると、絡まることもなく縁の指を受け入れる。指通りの良い感触が心地よい。さらさらと指の間からこぼれる髪をいつまでも触っていたくなる。
 だが髪に触れるだけで縁の熱が納まるはずもない。
「少しは俺にも楽しませろ」
 腰を掴み持ち上げると容赦なく陰茎を埋める。今度は割合すんなりと挿った。まだまだ狭くはあるが、柔肉が喜んで縁のものを締めつけてくる。縁の形を覚え、縁の為に道を開けようとしている。
「くっ、ぅ……」
 突き上げられ苦痛の声がもれる。胎内を擦られると体を裂かれるようだった。体を硬くし痛みに耐えようとする薫の瞳に涙がにじんだ。
「どこまでも手の掛かる女だな、お前は」
 溜息と共に呟くと、縁は後ろ手に縛っていた紐を取り払ってやった。
 やっと両手が自由になり、薫は少しだけ楽になった。
 縁は薫の手を取ると、手首を改めた。ややきつく縛ったせいで、うっすらと赤く線が出来ている。だがこの程度の痕なら数日で消えるだろう。傷を見た手を自分の肩にかけ、もう片方も同じようにする。虚ろな瞳で縁を窺い見る薫に、また溜息をつく。
「男の悦ばせ方を知らないなら大人しく掴まっていろ」
「……なに、に……?」
 擦れた声で聞き返した薫に答えず、縁は中断していた続きを始めた。体を裂かれるような痛みに薫の腕が縁の首に縋り付く。けれど縁は性急には動きはせず、大きな掌で背中をゆっくりと薫の背中を撫でた。ただそれだけの行為が、簡単に緊張をほどいてしまう。薫は怯えた。大切な人達と二度と会えなくなってしまう。心から愛おしく思う人に手を伸ばしても、届かなくなる。落ちてしまう。
 そんな怯えを忘れさせるかのように、薫の耳翼を熱い吐息がくすぐり、体を震わせる。縁の指が薫の顔を上げさせ、また口付けされる。
「ん、んっ……」
 舌を絡められると、くすぐったいのに頭がぼうっとしてくる。酒が回っているからか体が熱い。歯列の裏を舌先で撫でられると何も考えられなくなる。生き物のように舌が口内を動くと唾液が貯まってくる。喉が渇いていた薫は、欲求に逆らわずに飲み下した。
 そういう薫を、縁は多少の驚きとともに眺めた。自分を見上げる薫の瞳は半ば曇ってはいたが、その奥にはまだ僅かに光が灯っている。腕の中に捕まえたはずの女が、黒髪のように簡単に逃げてしまう。なぜかそう思えた。だから、自分と同じ場所に堕とさなければならない。
 細い腰を掴み挿れたままだった陰茎を膣口まで引き戻す。小さな爪が背中を引っかいたが気にならなかった。入り口から浅いところで出し挿れすると痛みは少ないらしく、かすかな喘ぎが聞こえた。薫の表情を確かめながら今度はゆっくり最奥まで押し進める。やはり痛みがあるらしく、薫が唇を噛みしめる。唇が裂けてしまわないよう、縁が舌でこじ開けてやらなければならなかった。
 温かい膣内をゆっくりと何度も往復する内に、縁にもようやく快楽が訪れようとしていた。柔肉が収縮し、縁を受け入れようとしている。鈴口を包み込むほどの歓待振りだ。縁はまた薫の表情を確かめた。薫は、縁の与える快楽を必死に堪えていた。
 焦熱を解き放つと薫は寸陰ほど縁の肩に力を入れてしがみついたが、ぷつりと糸が断ち切られたように意識を失った。
 背に手を回し受け止めると、人形ではなく血が通った人間の体だった。
 薫から自身を引き抜くと、征服の証がこぼれ落ちる。なのに薫が縁を受け入れたのか、それともすんでの所で拒んだのか、判断しかねた。
 そのくせ縁はまだ物足りなさを感じている。縁がわざわざ快楽を与えてやらなければ痛がるだけなのに、まだ抱き足りないとさえ思っている。確実に手に入れたという確証が欲しかった。
 とりあえず力を失った体を横たえ、夜風に晒さないよう薫に上掛けをかぶせた。改めるまでもなく華奢な体だった。そういえば少し前に、あろうことか薫は縁を人質に取ろうとしたのだ。大した度胸だと縁は苦笑した。
 だがまだ縁の熱は引きそうにない。揺すぶり起こそうとした手が、なぜだか途中で止まる。無理に起こすのはなぜか憚られた。精根尽き果てた薫を少しは休ませてやりたいと思う気持ちだと、縁にはわからない。
 ひとまず薫に背を向けると、まだ堅い自分の陰茎を握ろうとする。一瞬で馬鹿らしくなった。なぜ自分で処理しなければならないのだ。すぐ隣にいる薫を思う存分また抱けばいい。
「……傷が」
 小さな声がして、慌てて縁は振り向いた。今のを見られたのかとヒヤりとした。
「起きたのか」
「背中……傷ができてる」
「お前が引っかいたんだろ。別に大した傷じゃない」
「……ごめんね」
「……なんでお前が謝るんだ」
 なんでかなぁ、と薫がごく小さな声で言ったので、縁には聞こえなかっただろう。縁がいる場所へ、薫はけして行くことが出来ないのが、申し訳なかったのかもしれない。子どものように駄々をこねるくせに、ひどくやさしいところも見せたりと、ぐいぐい手を引かれているのに、薫はその小さな手を掴めない。
 丁度良いとばかりに縁はごそごそと体を薫の上に移し、小さな頭の左右に肘をつく。
「まだお前を抱くぞ。あんなものじゃ物足りない」
 もう抗う力も残っていない薫に口付けながら縁は繰り返した。
「ここにいろ。お前はここにいるんだ」
 普通の人と同じで、縁の唇も温かいのだと薫は初めて気付いた。


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 余談がある。縁が見た夢の全容だ。

 抜刀斎が東京に現れたという報せはすぐに縁の元へ届いた。縁が作り上げた組織の隅から隅まで、あの男を発見したら報告をする手筈になっていた。
 まだ東京の拠点が整っていなかったため、縁は横浜港に船をつけさせ、用意させた馬車に乗り込んだ。その為、抜刀斎が現れたという東京に着いたのは深夜に近かった。
 馬車を待たせ、その足で降り立つとひんやりとした冬の風が縁の足下をすり抜けていった。
 目立つ白髪を隠すため外套を頭からかぶり、寝静まった町を抜刀斎を捜し歩き始めた。幸いにして月は満ちていて、足下に困ることはなかった。
 背中に突然気配がした。
 振り返った縁は、自分に向けて木刀を向けているのが、その手の人間が涎を垂らして欲しがりそうな可憐な美少年なのに驚いた。
「あなたが人斬り抜刀斎ね! 今夜こそ逃がさない、その背にある刀が動かぬ証拠よ!」
 声が高い。女だとわかったときは既に打ち込まれていた。
 縁は想像よりは鋭く飛んできた木刀の刃先を掌でいなし、間合いの外に逃れた。それでこちらの実力が少し読めたのだろう。女剣士も警戒を緩めずに後ろに下がった。
「……何か、誤解があるようですネ。これは護身用デス」
 縁が外套を外すと、現れた真っ白な髪に女剣士は目を見開いた。
「大陸から船と馬車を乗り継ぎ、つい先程東京についたばかりで、人斬りなどトンデモナイ」
 大陸訛りを隠さずに縁がにこやかに話し掛けると、女剣士はすぐに頭を下げた。
「ごめんなさい、私、人違いをしました。お怪我はありませんか?」
「イイエ、ほらこの通り。貴女こそ、女性がこんな夜更けに出歩くなど危険なのでは?」
「心配していただいてありがとうございます、でもどうしても人斬り抜刀斎を捕まえないといけないんです」
 内心の喜びを隠すのに縁は苦労した。この女は、利用出来る。
 上手くいけば今夜中にあの男の首をはね飛ばせるかもしれない。
「なにか事情がおありのようですね。お手伝いいたしましょう」
「そんな、相手は人斬りです。現に何人も警官が犠牲になっています。危険な男なんですよ?」
「貴女を危険な目に合わせるほうガ夢見が悪い。ナニ、これでも腕には多少自信がありますから心配はご無用」
 警笛がさほど離れてないところから鳴り響いた。身を翻して走り出した女剣士に縁も続いた。
「私個人の事情です、今の内に引き返して下さい。あなたを巻き込むわけにはいきません」
「お気になさらず。これも何かの縁でしょうカラ」
「……ありがとう、助かります」
 女剣士が笑ったのが声でわかった。こちらこそ礼を言いたい気分だ。
 二人は並びながら走った。身体の芯から冷える寒い夜のことだった。