例年になく暑い夏が続いていた。
 ふと見上げた空には残暑らしくないまぶしい光が残っていて、薫は思わず目を細めた。
 手にした野花のいくつかには喜ばしいことかもしれないが、人にとっては秋が待ち遠しくてならない。暑い日差しを遮ってくれるものがなければとっくに干からびていただろう。
 屋敷に引き上げかけた薫の結んだ髪を、くんとなにかが引っ張った。
 柑橘系の香りが届き、振り返った薫を驚かせた。
(梅? こんな時期に?)
 白い花びらは大きく開き、寒さが和らぐ時期を彩る梅に似ていた。だが香りは全くちがう。
 手でそっと引き寄せると、爽やかな香りが鼻腔をくすぐった。いったいなんという花だろう。
 もう充分に花を集めていたが、自然に手が伸び一枝を手折っていた。揺れた枝葉からも嗅ぎ慣れない香りが漂う。季節外れに咲いた梅ではない。いくら記憶を手繰っても薫には馴染みのない花だった。けれどこの島では初めからそこにいたような顔をしている。
 思わず薫は摘んだばかりの女郎花、桔梗、撫子といった花々を確かめた。馴染みのある花は、薫を引き留めた花ほど香らず、楚々と胸に抱かれている。
(うん、別々にしたほうが良さそうね)
 この白梅に似た花は袖机に置こう。この香りに包まれて眠るのは、きっと心地良いはずだ。
 花器も剣山も無いからただ花瓶に挿すだけになってしまうが、花があるだけでも薫の気持ちは少し明るくなった。
 落とさないようにそっと足を進めながら茂みの中を戻っていく。孤島を覆う森のかなり奥まで来ていたのに、途中でやっと気が付いた。時々下草に足首を引っ掻かれながら、ようやく唯一見晴らしの良い屋敷前まで来るとほっと息をつく。
 先日屋敷にやってきた得体の知れない男達は、おそらく雪代縁の部下なのだろう。
 けれどいくら目をこらしても、この屋敷以外に建物は見えなかった。薫も顔を合わせたいわけではないから、近くに彼らの根城がないのはありがたいのだが。
 夏の雲が分厚く積もっている水平線に自然と視線を吸い寄せられ、薫はしばらく立ち尽くした。あの向こうにあるはずの道場を、家族にも等しい仲間達のことを思わずにいられない。
 そうしているうちに、ほろりと涙が落ちた。慌てて目元をおさえるが、一度緩んだ涙腺は手強く、掌が濡れるばかりだ。
(泣いてどうなるの、みっともない。しっかりしなさい、しっかりしなきゃ)
 薫は自分を叱咤するが、最近とみに涙もろくて情けなくなる。
 普段通りのことを、例えば花を飾ったりすれば少しは落ち着くだろうと思ったのに。
 これほど涙もろい理由は薫自身よく理解していた。
(こわいよ剣心。早く会いたい、帰りたい、うちに、帰りたい……)
 なんて弱い女だろう。心が吐き出す本音を、出来ることならうち捨ててやりたかった。
 薫は力を入れて目元を拭うと、無理矢理顔を上げた。先刻から無遠慮な視線を注がれているのを感じていたからだ。振り向いてにらみつけてやってもいいが、泣いたすぐ後に雪代縁なんかと顔を合わせたくなかった。
 なんでもない風を装って、屋敷の中に戻る。あてがわれた部屋に戻ると、ようやく一息つけた。腕の中に抱えた花を袖机の上に広げると、やはり白梅に似た花がいちばん香った。頭の奥をすっきりとさせてくれる爽やかな香りが心を落ち着けてくれる。
(なんていう花なのかしら。似てるけど、たぶん違う花よね)
 改めて選り分けながら、用意しておいた花瓶に挿していく。水差しから水を注ぎ、薫のよく知る花達は窓際へ、雪のように白い梅に似た花は袖机の上へ。殺風景だった部屋に彩りがあるだけでずいぶん違う。
 つい先程泣いたのもあって、気持ちもさっぱりしている。涙の持つ自浄作用を一七の薫は初めて知った。別れを告げられた時はいくら泣いても涙が止まらなかったのに、と思い出し苦笑する。
(不思議ね、泣いたらなんだかすっきりしたみたい)
 これくらい図太くありたい、いや、ならなくてはいけない――
 薫には先程自分が泣いた理由がわかっている。
 一つは自分の力ではこの島から出ることが叶わないこと。
 そしてもう一つは深い孤独を肌身で感じるせいだった。
 雪代縁の狂気に気圧されても、表面上は取り繕うことはできる。たとえ見抜かれていようが、けして折れてなるものかという気概はちゃんと薫の芯にある。
 だが一人きりでいるのは、あたたかい人々に囲まれて育ってきた薫には耐え難かった。そういう不安には、恋しく想う男の安否を憂う気持ちが過分に含まれていた。
「こんなにいい香りの花があるなんて知らなかったわ。みんなにも見せたいな」
 明るい部屋の中でしばらく振りに聞いた自分の声は、嫌になるほどぎこちなさを伴っていた。
 話し掛けられた銀梅花(ギンバイカ)は困ったように揺れるだけだ。つい疲れたように息をついたとき、窓の向こうに人影があるのに薫は気付いた。


 立ち止まったというには長すぎるほど、女は花を抱え佇んでいた。
 風になびく一つに結んだ黒髪は日に照らされ、花を抱く袖からはみ出た腕は細く、縁にしてみれば枯れ枝よりも容易く折れるように思えた。
 ただ立っている女、神谷薫を、何を思うわけでもなく縁はテラスの揺り椅子に腰掛けながら見下ろしていた。
 そして突然女が涙をこぼしたときに、目が勝手に包帯を見たのに少しだけ驚いた。
 神谷薫が巻き直した包帯に一滴二滴ほど染みこみ、あっけなく乾いたもの。
(あの女、何で泣イテるんだ)
 ぼんやりとした、物思いにもならないことが胸の内に浮かぶ。
 神谷薫自身に私怨はない。力任せに細首を絞めたときの激昂も今となっては不可解でしかなかった。忌々しい体質のおかげでとんだ遠回りを強いられ人誅を仕上げたのだ。なのに抜刀斎の女に自ら弱点を晒すなど、どうかしていた。
(姉さんが笑ってくれなくなったせいだ)
 縁にはいくら考えてもわからない。姉の望むように、姉の全てを奪った抜刀斎から奪い返したのに、姉は笑ってくれなくなった。それが辛くて堪らない。
 目を閉じればやはり静かな表情で自分を見つめる姉の姿が見える。
(教えてくれ姉さん、俺はちゃんとやり遂げただろう? 何が足りないんだ?)
 だが姉はいくら話し掛けても答えてくれない。
 あんな風に、泣いてくれたほうがまだいい。少なくともあの女には泣く理由があるのだ。
 ハッと縁は鼻で笑った。
 殺されるんだと思ったと神谷薫は言っていた。縁もそうするつもりだった。この期に及んで抜刀斎が人並みの幸せを掴むなど到底許されるものではない。
 だが自分では、代わりの女を殺せない。
 けれど縁が部下の誰かに命じて殺すことは可能だと考えつくのはあの女でも容易いだろう。そうなればあの女が自分で摘んだ花が墓前を飾ることになる。いいや、一緒に海に放り投げだされると思ったのかもしれない。神谷薫が死が間近に迫った恐怖を感じ取り怯えたのだと想像すると、縁の胸は少しだけ晴れた。
 だが快い気分はそう長く続かなかった。仮に神谷薫に自分で手を下せるのなら、ごく簡単に済ませたはずだ。だって、姉さんの代わりだからだ。決して情ではない。姉が味わった痛みを再び見たくないだけだ。
 神谷薫がこちらを振り向いたとき、縁は聞いてみるつもりだった。殺されるのが怖いか、と。
 そうしたら、あの女はどんな表情をするだろう。余計に泣くのか、噛みつくように言い返してくるのか。そういう反応をどこか心待ちにしている自分に気付かず、縁は薫を見下ろし続けていた。
 だが予想に反し、薫は縁の方を振り返らずに屋敷の中へ戻っていった。
 まさか縁が眺めていたことが解らなかったのだろうか。
(愚鈍な女め)
 やたらと腹が立ち、縁は腕や腹に巻かれた包帯を毟るように取り払った。打ち傷のほとんどは消えかけ、体に痛みはほぼ残っていない。上着と膝掛けを放り出し、足下に散らばった包帯を踏みつけながらテラスを出て、自室へと戻った。寝台の横に置いてある倭刀を手に取ると馴染んだ重みが感じられる。その重みが呼び覚ますように、人誅が執行された夜へ縁を引き戻す。
 神谷薫を殺害すると見せかけた時、抜刀斎は予想を超える力で阻止しようとしてきた。血塗れで満身創痍の抜刀斎に縁は圧倒された。天が味方しなかったら縁は負けていたかもしれない。
(俺が弱かったから姉さんは失望したのか?)
 抜刀斎に劣っているなどとは思えないし、間違って殺さないよう充分手は抜いた。だが虫の息である抜刀斎に押され、一時焦ったのは事実だ。
(違うよ姉さん。俺は強くなった、誰よりも強くなれる力を姉さんがくれたじゃないか)
 その力を使わなかったから、姉は自分に失望したのかもしれない。
 倭刀を手に足早に屋敷の外へ出る。暑い晩夏の日差しがすぐに縁を焼こうとする。だが明るい残光は縁の気を削ぐ力など持っていなかった。
 手近な、大の男ほどの胴を持つ大木の前に立つ。倭刀を鞘走らせる音は鋭い。呼吸と鼓動を整え、片腕でやや上段に構えた倭刀に勢いを乗せて蹴り上げると、大木は激しい音を立てて吹き飛んだ。生木のにおいが四方に散らばり、縁の膂力は少しも衰えていないことを示していた。
 呼吸を整えながら、姉の表情が変わらないのを確かめた縁の血が冷たくなっていく。
(姉さん、何が足りないっていうんだ……?)
 疑問を解く間もなく、縁の背に涼やかな声がかかった。
「驚いた。包帯も外してるし、もうそんなに動けるんだ」
 抜刀斎との闘いを見ていただけあって、薫は目の前の光景には動じた様子はない。
「はあ、やっぱり敵に塩を送るんじゃなかったかな」
 そういう神谷薫の声音に後悔は含まれていなかった。
「お前の不味いメシなど関係無い。毒を盛られるよりタチが悪い代物だぞ、あんなもの」
「な、失礼ね! だったら食べなくても結構! いつも中途半端に食べて残すのは誰よ!」
 噛みつく勢いで自分と会話をする神谷薫を、縁は静かに見返した。
 弱点を晒したというのに、律儀に朝昼晩と食事を用意し、抜刀斎にやられた傷に包帯を巻いた女。泣きながら繰り返し謝った女。一体なにを?
「……」
 口を開こうとした縁は、近寄る慣れた気配に、薫へ意識を向けるのをすんなり止めた。
「お取り込み中失礼、ボス」
「黒星、連絡なら電信でと言ったのはお前だろう」
「いやなに、少々込み入った話になる気がしたんでネ」
 性急な様子は少しもなく、つい先程まで縁と話をしていた神谷薫へ探るような視線を向けている。まず相手の腹の内を把握しようとする、姑息な男だった。
「なんだいあれ。ボスの?人(ピンイン)かい?」
 わざと大陸語を使うのも縁の反応を確かめたいからだろう。四人の大男に囲まれた小男の興味深そうな視線に、神谷薫は多少たじろいだがすぐに視線を遠くへやった。縁の事情など聞きたくもない。そういう態度だ。
「お前に関係ない。ソレよりさっさと話せ。わざわざ伝えに来たんだ、面白い報告だろうな?」
 東京の拠点が押さえられ、同時に人誅の駒に使った片腕を失った男が暴れたという話などはさして縁の興味を引かなかった。だが最後に付け加えられた左頬に十字傷のある剣客という言葉に、神谷薫が喜色を浮かべ立ち上がった。
「剣心は無事なのね!」
 薫の反応で縁の人誅絡みだと理解したらしく、黒星はいくつか言い置いて切り上げたが、縁の耳には届いていなかった。
(……抜刀斎が……あの生き地獄から……?)
 変わらず姉は笑っていない。だが縁にはようやく光明が見えた気がした。
「――嘲笑笑、やっとわかった」
 縁の低く呟かれた声には強い確信が含まれている。
「そうだ、生き地獄ではあの男の罪は到底贖われるはずない、奴に相応しいのは真の地獄、俺の手で切り刻み送ればいい、そうすれば姉さんが笑ってくれる、また俺に微笑んでくれる!」
 清々しく目覚めたような気分だった。腹の底から沸いてくる歓喜が哄笑となり周囲に響く。黒眼鏡の向こうに見える光が縁の全てを肯定していた。天が自分達姉弟を見捨てるはずない。
(もう少し待っててね、姉さん。俺があの男を殺す、必ず殺すから)
 薫だけがその姿を見ていたが、もはや縁の意識内には存在さえしていなかった。
 薫が持ち帰ったときに一房だけ落ちた銀梅花を踏付け屋敷の中へ戻っていく。抜刀斎が来るまでに縁にはやることがあった。完全に体調を戻し迎え撃つ準備をしなければならない。充分に眠り失った体力を補うのだ。
「――って、待ってってば、もう、聞こえてないの? 待ちなさいったら!」
 自分を覆っていた高揚感に針先ほどの穴が開いた。階段の途中で、服を背中から掴まれている。億劫そうに顔だけで振り向いたら、女がいた。
(……女がなぜここにいる?)
 縁の頭から存在が完全に抜け落ちていた。
 生きている女だった。肩で息をしながら頬を紅潮させ、こちらに向ける瞳には強い光が宿っている。
(ああそうか、俺が連れてきたんだった)
 掴まれた服は縁が足を進めれば簡単に外せた。あっと声が上がったが綺麗に無視し、自室へと戻る。その短い間にも神谷薫は諦めずにすぐ背後についてきながら何か喋っている。割合健脚のくせに愚図にも逃げ切れなかったな、と縁は少しずつ思い出してきた。扉を閉めたのにすぐに開いた。抜刀斎が姉の代わりに選んだ女が、自分の部屋に滑り込んでくる。さすがに扉を背にし、それ以上入ってはこなかったが。
「出て行け、目障りだ」
 寝台に腰掛けた縁が低い声で言うと、薫は一瞬言葉に詰まったようだが、首を振った。
「嫌よ。だってまだ貴方に話があるもの」
「俺には姉さんの代わりなんかと話す理由など無い」
「また代わり? 貴方って二言目には私をそう呼ぶけど、矛盾してるのがわかってる?」
「なら言い方を変えてヤルから好きな物を選べよ。間に合わせ、別物、替え玉、人形――」
 人形、と口にしたところで縁はつい笑い出してしまった。神谷薫の屍人形を仕立て上げさせ、抜刀斎に見せつけた時の愉悦を思い出したのだ。
「……人形? もしかして人誅になにか関係あるの? 貴方、剣心に一体何をしたの?」
 縁が笑ったところを、聡い薫は聞き逃さなかった。
「貴方の思惑通り人誅は完成したんでしょうね。でも剣心は負けなかった。それって貴方の仕掛けた罠が通用しなかったってことでしょう? だったら今更秘密にしたって仕方ないはずだわ。教えて、貴方が何をしたのかを」
(本当に五月蠅い女だ)
 昼間の光が差し込む窓へ縁は視線を移した。眠る時分にはいささか早いようだ。この女が大好きなお喋りに付き合って暇をつぶすのも、たまにはいいだろう。
「そうダな、今更どうでもいいことだ。俺はお前に生き写しの人形を作らせてそこへ」と言って縁は薫の左胸、心臓のあたりを指さした。「そこへ倭刀で壁に達するまで刺した。後は左頬に抜刀斎と揃いの傷を刻んでやったんだ」
 さあっと波が引くように薫は血の気を失っていく。口元を覆った白い手が震えていた。
「外印が褒めていたぞ、最高傑作だったと。俺も見たが確かに作り物のほうが良く出来ていた。どうした、嬉しくないのか? 稀代の人形師に認められたんだ。これほど美しい女なら作り甲斐があるとな」
 縁の口元に歪んだ笑みが広がっていった。
「本当に、ほれぼれするほど見事な出来だった。今のお前のような顔色で、心臓が脈打つ通りに血が吹き出たときは大笑いするところだった。あぁくそ思い出すとまた笑えてきやがる。そのうちガキの使う水鉄砲みたいに萎えて、溢れた血が床に広がっていくんだ。本当に良い見物だった。知ってるか? 西洋じゃ死んだ奴の腹を裂くんだ、死んだ原因を調べる為にな。だがこんなちっぽけな島国じゃ土に埋めるだけ。ここを(と縁は自分の左胸を軽く叩いた)一突きされてりゃ抜刀斎にだって一目でわかる、お前が死んだとな」
 言葉を失った神谷薫の様子を存分に観察したあと、縁の目が眼がふっと遠くを見る。
「だがこの世界で本当に美しいのは姉さんだけ。お前なんか足下にも及ばない。なのにいらない世話ばかり焼いて、あまつさえ話をしたいだと? 全く、何故お前を姉さんの代わりに選んだのか理解できないな。抜刀斎は欠点しかないお前みたいな女のどこが良かったんだ? 閨での手管か?」
 薫が泣きだすのを縁は期待していた。その時こそ聞いてやるのだ。
(殺されたと知った今、どんな気分だ?)
 だがいくら待っても薫は涙を見せなかった。それどころか自分の胸に手を当て、傷がないことを確かめているようだった。顔色も徐々に戻り、伏せられた瞳が真っ直ぐ縁に向けられた。
「そう、そうだったの……貴方はそうやって剣心を、みんなを傷付けたのね」
 存外落ち着いた声で薫は続けた。
「でも死んだのは私じゃない、人形だとわかったんだわ。恵さんほどすごいお医者様はいないもの、人と人形の見分けがつかないはずない」
 屍人形の精巧さを薫は当然知らない。やや強気な響きに、縁は眉をひそめた。
「わかるはずない、こんな島国の藪医者に」
「馬鹿にしないで! 恵さんならきっと見抜けるもの。だから剣心は無事でいる、みんなも大丈夫。剣心はいつも言っていたわ、この目に映る人々を守りたいって。だからもう心配しなくてもいい。あの人達、たぶん貴方の部下なんでしょうけど、ずいぶん良い報せを持ってきてくれたのね?」
「随分買い被っているがな、抜刀斎はお前が死んだと思い込み自ら地獄に墜ちていったぞ」
「違う、剣心は立ち上がったんだわ。だからきっと迎えに来てくれる、今生きている私を」
「……お前を殺す方法なら他にいくらでもある。命じれば崖から突き落とすのも容易い。腕の良い大陸の女衒を知っているんだ、抜刀斎が来る前にソイツへくれてやるのも良い手だな」
「なぜそうしないの? できるなら私はとっくに死んでいるはず」
「……」
「だって貴方は――」
 言いかけて、思い直したように薫は言葉を変えた。
「……卑怯な手を、使おうと思えば使えるわ。けどそんな気は欠片もないから安心して。甘いと思われたっていい。……誰かを傷付けるやり方は……好きじゃない」
 細い腕で体を抱いた仕草から、縁は薫の怯えを感じ取った。だが今度は少しも気が晴れない。
「抜刀斎は俺の手で必ず殺す。それでもお前はまだ甘いことを言うのか?」
「剣心は負けないわ。きっと貴方を止めてくれる」
「黙れ! あいつの臓物を残らず引き摺り出し両目を抉り、痛みに苦しみ悶えながら死ぬのを見ていろ、お前の目で! 他の奴らもだ! 残らず殺してやる!」
 怒りに目が眩み、縁は手近にあった倭刀を思い切り投げつけた。薫の背中が強かにぶつかる音がしたが、体全体で上手く受け止めたらしく、鞘を両腕で抱きしめている。
 互いに荒く息を吐きながら見つめ合う。今、神谷薫を見る自分の眼はひどく恐ろしいはずだ。
 だが女は怯えていなかった。
 何を思ったか、薫は片手で髪を結っていた紐を解くと、明るい日の中ではらりと黒い髪が広がった。縁の倭刀を抱いたまま解いた紐で柄と鞘を交差するように巻き、最後に固い結び目を作った。そうすれば縁が倭刀を抜けないとでも思ったのだろうか。馬鹿らしい。
 だが薫は大切なものを扱うように鞘を抱きしめたまま壁際まで歩いて行き、そっと立てかけた。慣れた仕草だった。
「……こんな話をするために、貴方を追いかけたんじゃないわ」
「ふざけるな、貴様の話など聞くに値しない。失せろ」
「聞いて、このままだと貴方は」
「失・せ・ろ」
 立ち上がり近寄ると西洋浴衣の襟を無造作に掴む。薫はほとんど爪先立ちの状態になった。それほど縁と薫には体格の差があった。薫は縁の腕を掴んだが抵抗にすらならない。扉の外に放り出そうとしたところで、ふと縁は思いついた。
「俺は今から寝る、一切邪魔をするな。どうしても話したいなら夜中だけ許してやる。いいか、静かに起こせ。それからこの屋敷の地下には氷室がある。あるだけの肉を表面だけ炙って持ってこい。間違えるなよ、牛の肉だけでいい」
「え、ええ?」
「黒焦げの塊を持ってきてみろ、貴様の口に捻りこんでやる。ああ、葡萄酒も忘れるな。お前がこの間俺を殴るのに使おうとした瓶だぞ。氷室でよく冷やしたやつだ。グラス…硝子の器も持ってこい。一つでいい。全部用意が出来ていたら話を聞いてやる」
 一方的に言い放ち、今度こそ縁は部屋の外へ薫を放り投げた。尻餅をついたのを見届け扉に鍵をかける。扉を隔てて苦悶の声が聞こえたがきれいに無視した。ふっと鼻の先に何か香った気がしたが、それも気に留めなかった。
 壁に置かれた倭刀を取り上げてみれば、見るからに脆弱な紐で結ばれている。縁が少し力をいれれば簡単に千切れるだろう。だが刀身の長さを鑑みれば部屋の中で抜くのは得策ではないようだ。
「チッ」
 不満そうに寝台の脇に置き直す。長身に合わせて作らせた大きな寝台に体を沈めると、無意識に深い息をついていた。寝台に横になるのはいつぶりだろう。自分で言った通り、縁はすぐに眠りに落ちた。


「――いったぁっ……」
 廊下の壁にぶつけた腰をさすりながら、薫は腹立たしくてならなかった。
(あいつ、子どもなの!? 人を代わり代わり言っておいて今度は家政婦扱いだなんて!)
 子どもといえば薫の頭に真っ先に浮かんだのは一番弟子の弥彦の顔だ。まだまだ子どもではあるが、弥彦の成長ぶりは師であり保護者代わりでもある薫にとって誇らしくもあった。
(だめ、今思い出したらだめ)
 生意気を言う弥彦の威勢の良い声が聞きたい。頭を撫でてくれる左之助の大きな手が懐かしい。情けない自分を叱咤してくれる恵の凛とした姿が見たい。いつも心を暖めてくれる剣心のやさしい笑顔に会いたい。
 涙を堪えようと細く息を吐きながら、ゆっくりと、心を落ち着けていく。
 壁に手をつき立ち上がろうとすると、ほどいた長い髪が肩の上に流れる。一歩踏み出してみると、一瞬だけ強く感じた痛みはあまり残っていなかった。大きな怪我はしなかったようだ。薫が察した通り、雪代縁の弱点は彼の姉と同じ年頃の女性に手を上げられないことらしい。
 だが乱暴な振る舞いは幾分平気なのだろう。いとも簡単に放り投げられてしまい、薫はつくづく実力差が悔しくてならなかった。
(みんなの目の前で、同じ姿形の人形で、私は殺された……)
 階段を下り部屋に着くまでやけに時間がかかったような気がしたのに、戻ってみれば開け放したままの格子窓から生温い風が吹き込んでいた。太陽もまだ随分高いところにある。
 風が巻き上げたさわやかな香りが薫を包む。袖机を飾る梅に似た花は、手折ったときよりも生き生きとして見えた。水を吸い上げる力が強いのだろう。
(似ているけど違う……今の私みたい)
 死体と見間違うほどの人形。本当だろうかと、いくらか疑う気持ちが薫の中にあった。だが雪代縁の用意周到さは嫌になるほど知っている。無邪気さすらあった縁の言葉を信じたくない気持ちの上に、容赦なく確信が被さってきて、薫の鼓動は独りでに早くなっていく。
 袖机にしまっておいた手拭いを取ると、薫は寝台の上に、子どものように体を丸めた。嗚咽を抑えたいのに、もう堪えられない。
(ごめんね……ほんとうにごめんなさい……)
 どうして逃げなかったんだろう。あの煙に巻かれる前に逃げていればよかったのだ。薫が出来ることなど何一つなかったのに、自分が逃げ遅れたせいだ。
 大切な人達が味わったであろう哀しみは、全て自分のせいだった。雪代縁の罠にかかったことがとても悔しく、ひどく辛く、ひたすら申し訳なかった。みんなを傷付けてしまった。この島で息をしている間中、大切な人達がどれだけ心を痛めたことだろう。
(みんなごめん、ごめんなさい。ほんのちょっとだけでいいから、泣いてもいい……?)
 堰を切ったように涙があふれてくる。何度謝っても足りない。口元に手拭いを強く押しつけながら、薫は声を出さずに泣いた。泣き声を雪代縁の耳に入れたくないし、自分も聞きたくはなかった。
 時間を切った通り、十数分ほどで薫はきっぱりと泣き止んだ。深呼吸し、新しい息を体の中に送り込む。袖机に飾られたばかりの名前がわからない花のさわやかな香りも体中に満たされていく。あとは冷たい水で顔を洗えば元通りの薫になれる。
 いくら悔やんでも時間は巻き戻せない。とりあえず今は、出来ることを考えるしかないのだ。
(どうしよう。雪代縁には……もう近づかない方がいいのかもしれない)
 あの狂気に満ちた眼を見れば、殺しても足りないほど憎まれているのはよくわかる。それに、二人の私闘の決着は保留されているのだ。とすればやはり薫が口を挟むのは道理に反する。剣心を倒すと雪代縁が決めたのなら尚更だ。
 だが薫が縁達の話を横から聞いていたとき、とっさに思ったことがあった。
 この島にきっと剣心達は来てくれる。その時こそ私闘が終わるだろう。終われば結果がどうあろうと、縁が作り上げた武器組織は丸ごとあの小男のものになるらしい。聞かない振りをしたのに結局聞いてしまった話を、薫は胸の中で反芻しながら目をつむった。
(――なにも残らない)
 縁の姉が記した日記は渡せなかった。それに今日まで見てきた様子から、雪代縁の中で生き続けているはずの彼女は笑っていないという。
 あくまでも憶測だが、薫には彼の姉が笑っていない理由がわかる気がした。
(大切な家族がひとりぽっちになってしまったら、誰だって心配するもの)
 たしかにこの屋敷に軟禁されている薫は孤独に違いなかったが、しっかりと自分の大切な人達と気持ちが通じているのがわかる。だから雪代縁が恐ろしくても怖くはない。案じてくれる人がいることがどれほど心の支えになるか、薫にはよくわかっていた。
 すでにこの世にいない人の気持ちを推し量るのは難しい。でも、と薫は思うのだ。
(巴さんにとって、たった一人の大切な弟なのに)
 剣心が縁を止めてくれるのは間違いない。だがその先が、薫にはいくら考えてもわからないのだ。復讐はもはや雪代縁の糧となっている。それが終わったとき、あの男はどうなるのだろう?
(……ばかだなあ、私。また雪代縁のこと考えてる)
 屋敷にいる日が長くなるほど、薫の頭は必然的に仮の同居人となった男へ向いてしまう。
 用意した食事を平然と不味いと言われたこと、包帯を巻いた右腕の重さ、傷に触れたときの体温。復讐鬼であるあの男も、ただの人なのだと証明していた。
 傷付いた人を目に入れずにやり過ごせたら、どんなに良かっただろう。だが元来優しい気性の薫にはひどく難しいことだった。
(いくら辛いことがあっても、今と向き合って生きるしかない。そうして生きていれば別の道だって見つかるかもしれないのに)
 部外者である薫の言葉は、あの男にとって雑音でしかない。どうせ拒絶されるのもわかっているのだ。
 色々と考えている内に頭の中に収まり切らなくなってきた。寝台から立ち上がり、思い切り体を伸ばす。窓から入ってくるぬるい風が、じゃれつくように長い黒髪を巻き上げた。
(そ、だ。なにか髪を結う紐を探さなきゃ)
 少し考え、薫は薬箱の中の包帯を拝借させてもらうことにした。裁縫道具はこの屋敷にはなかったが、医療用の針が入っていたはずだ。雪代縁が使ったあとはそのままだから、とりあえず彼がいつもいた二階にある縁側に行ってみる。そして目の前に広がる惨状に薫は唖然とした。
(子どもより悪いわ、片付けるってことを知らないの!?)
 絡んだ包帯をほどき埃を払いながら一つ一つ巻いていき、膝掛けも小気味よくはたきながら丁寧に畳み、放り投げられたであろう上着を拾い上げる。そこで薫は動きを止めた。両袖と前身頃の縫い付け方が物珍しかったのだ。素材も薫が知っているものとはどこか違う。きっととても上質な絹なのだろう。ふと、指の先に堅いものが触れた。現在でいう内ポケットの中に鍵束が入っている。思わず手にとり、不思議な形の鍵を薫は眺めた。くすんだ銀鼠色の鍵は手の中でずしりと重さを主張している。ひとまず元の通りに戻し、揺り椅子に上着を畳んで置いておく。
 どうにかまともな状態に戻り、薫は一息つけた。ほんとに家政婦のようだと思いはしたものの、片付けてすっきりした気持ちはまた別だ。目当ての薬箱はなかったものの、比較的きれいな包帯を一つ頂戴し、端を咥えながら引き裂けば、間に合わせの紐は手に入った。
 ざっと手櫛で髪をまとめ、いつものように一つにまとめていると、薫の心にすうっと物思いが差し込んでくる。
 雪代縁の得物、倭刀のことだ。大陸へ伝わったという刀は形を変えても、薫がよく知るものと同じだった。だが人が人を斬る時代はとうに終わり、新しい文明の息吹がこの国では咲き始めている。なのにあの倭刀は今も人を斬るために使われているのが、薫には無性に悲しくてならなかった。髪を結っていた紐で封じたのも、剣に携わる者としての哀れみがそうさせたのだろう。雪代縁にはさぞ滑稽な真似に見えただろうが、この感傷を理解してもらえずとも構わなかった。
(さて、と。次はなにをしようかなあ)
 日が暮れるにはまだ時間があった。汚れた包帯を洗ってもいいし、あの良い香りの花をもう少しもらってくるのもいいだろう。それとも――


 日中から残った雲が、新月だと人々に気付かせることもなく夜を覆っていた。
 鍵のかかった部屋の中は規則正しい寝息以外に音も無く、縁の眠りを妨げるものは何一つ入ってこないはずだった。それが破られるなどと、縁は想像だにしていなかった。
 湯に浸された手拭いがゆっくりと額をぬぐっている。洗い直したらしい水音が聞こえたかと思えば次は両頬に移り、首筋を温めながら汗を清めていく。家族にするような甲斐甲斐しい手つきが、まだ姉が存命だった頃を思い出させた。
 重い瞼を開けた縁の目には、細い洋燈の明かりすら眩しく、焦点が合うのに少し時間がかかった。
「……ナニを……している……」
 ぼうっとしたまま問いかけても薫は口を開かなかった。ただ手拭いを手桶に入れて床に置き、静かに縁を見つめ返してきた。その姿が姉に重なり、縁の喉がひゅっと息を吸い込んだ。
 素早く上半身を起こすと、薫はようやく口を開いた。
「おはよう、よく眠ってたわね」
 外はすでに闇に覆われ、時計の針は日を越した時間を指している。
「……こんな時間に、押しかけて来やがって……お前、常識も欠落してるのか」
「あらご挨拶ね。貴方に言われた通りにしただけよ?」
 薫は綺麗ににこりと笑ったが、そこに親愛の情は含まれておらず、ある種の覚悟がはっきりと現れている。
 部屋にあった椅子を動かしたのか、背筋を伸ばして座り、縁と視線の高さを合わせていた。
「静かに起こせたかはわからないけど、貴方が自分で起きたんだから条件は満たしているはずよね。それで、まずは食事? それとも赤いお酒?」
 きれいに肉を並べた皿と葡萄酒とグラスがのった食膳を突き出すように渡されて、縁も受け取らずにいられなかった。寝台を汚されるのはご免だ。まだ血が滞った頭で、とりあえず縁は葡萄酒を口にした。冷えた葡萄酒が乾いた喉を通ると、空腹だったのを急に思い出したように体が食べ物を欲した。だが神谷薫の作ったものとなると、すぐには手が出ない。そぎ切りにされた上等な赤肉は周囲だけ火が通り、真ん中は肉汁を残しているようだった。ご丁寧に味付けもされているらしく何かかかっている。とりあえず箸でつまみ匂いをかいでみるが、想像していたよりまともそうだった。用心しながら口に入れてみると、砂糖と醤油を煮詰めた割り下と肉汁が口の中に広がり、余計に空腹を刺激した。
 最初こそ縁は落ち着いていたものの、次第に肉を口に放り込み葡萄酒で流し込むような食べ方になった。その様子を見ている薫は、明らかに気落ちした顔になる。
「そんな風に何日もご飯を食べてないみたいにされると、わかっていても傷付くわね……」
 ごくりと喉を鳴らして口の中の肉を葡萄酒と一緒に飲み下した縁は、さも当然だという風に答えた。
「あんなクソ不味いメシで腹が膨れるものか」
「言われなくてもわかってるわよ。それだって作るの大変だったのよ。何度も失敗してやっと出来たんだから」
「お前、俺には散々文句を付ける癖に食材を無駄にするな。補給船は週に一度しか来ないんだ」
「わかってるってば。けどどうしてあんな変な注文をつけたの? それ、ほとんど火を通してないのよ?」
「肉を食うと体が温まる。すぐに血にもなる。お前の作る不味いメシよりよほどマシだ」
「それだって私が苦労して作ったものだけど?」
「多少まともに出来たのは認めてやる」
「あ、そ。お眼鏡にかなって何よりだわ」
 それからは縁は黙々と肉を口に運び、冷えた葡萄酒を一瓶開けた。すると心得ていたようにもう一瓶を薫は差し出した。だが媚びた酌婦のように注ぐ真似はせず、黙って渡すだけだ。
「……」
 自分で栓を開け、グラスに注ぎ、普段通りゆっくりと味わう。熟成された香りと柔らかい口当たりは文句の付けようがない。縁は一気に空けた一瓶を少し惜しく思った。
 袖机に葡萄酒とグラスを置くと、薫は食膳を持ち上げ、扉の脇まで運んで床に置いた。戻ってきて椅子に腰掛けると、恥じる様子もなく胸元に手を差し込んだ。一瞬面食らった縁には気付かなかっただろう。見覚えのある鍵束を取り出し、こちらへ差し出した。
「これ、返しておくわ。大事なものでしょう?」
 黙って受け取ると、鍵束は薫の体温が移ったのかほんのり温かかった。
「放り出しておくなんて感心しないわね。この部屋の鍵がどれかもわからないし大変だったんだから」
 この女、いちいち小言を付け加えなければ死ぬ生き物なのだろうか。
「俺の服を漁ったのか、こそ泥みたいな真似を」
「貴方ね、いちいち皮肉を返していたら人の心が離れるだけよ。あんまり散らかってたから片付けたの。そうしたら偶然見つけただけ、どうこうしようだなんて思いもしないわ」
 言い返そうとして縁は止めた。抜刀斎の女と平気で話している自分に嫌気が差したのだ。数日前にも憎しみを余さず露呈させて見せたというのに、しつこくこの女はごく普通に接してくる。そうされると、神谷薫は憎悪の外側にいるものになってしまう。夜の用事がなければ女など寄せ付けない縁の調子を狂わせるばかりだ。
「紐、もうとっくに千切られてるかと思った」
 突然話題が変わったので縁は薫へと顔を向けた。だが薫は薫で、寝台の脇に置かれた倭刀に静かな視線を向けている。
「平和な時代の助けになりたいと父はいつも言っていたわ。初めは机上の空論だ夢物語だと笑われていたけれど、けして諦めなかったの。挫けることなく、何度も人に説くの。新しい時代にこそ必要な剣があると。次第に父の考えに賛同する人が少しずつ集まるようになって」
 すっと縁へ戻った薫の瞳は、薄暗い部屋の中にあっても奥から光っているようだった。
「でも父の志に集まってくれた数少ない人達も離れていったわ。人斬り抜刀斎のせいでね」
「流派を騙られた程度で離れていくんじゃ、お前の父親の人望も大したものじゃないな」
「そう、やっぱり知っているのね。人形といい変な感じね、顔も知らない相手に全部知られていたって」
「人と金を使えば容易いことだ。おかげでお前はあの男の弱点になり、人誅の良い駒になってくれた。礼を言って欲しいか?」
「今話を聞いてくれてるじゃない。それがお礼ってことでいいわ」
 顔にかかった髪を直した薫から、ふわりと爽やかな香りが届く。香水など白梅香以外に用意していただろうか。
「でも私はそんな父が大好きだったわ。小さい頃に読んだ御伽草子だったかな、一度は滅んだ国を、一緒に育った男の人と女の人が大変な苦労をして立て直していくの。それがずっと心に残っていてね、父に言ったことがあったわ。大人になったらお嫁様にして下さいって」
 懐かしさからか、薫がほろりと笑顔になる。
「そしたらお父さん、すごく慌てちゃってね。家族は夫婦になれないんだと懇々と説明されたわ。行き遅れたら大変だって慌てたんじゃないかしら」
「……おい、ちょっと待て」
「なに?」
「お前、勘違いしてないだろうな。お前が想像している下衆な要素は一切無いぞ」
「え……うそ、そうなの?」
「嘘などついてどうする。姉さんの幸せを望む俺が姉さんに劣情を抱くなどあり得ない。普通に考えればわかるだろうが」
「あ、あはは、そっか、そうよね普通、うんうん、もちろんわかってるわよ」
 ひらひらと顔の前で手を振る仕草は誤魔化しているようにしか見えなかった。縁は呆れたように溜息をついた。
「下らない与太話など聞く価値すらない。もう出て行け、充分時間はやっただろ」
「待って、余計な話をしたわ、ごめんなさい。話をしたいというより、訊きたかったの」
 薫は改めて背筋を伸ばし、縁と目を真っ直ぐに合わせる。代わりのはずなのに、決定的な違いだった。俯きながら帰りなさいと繰り返した姉と違い、この女はいつも目を合わせてくる。
「剣心との闘いが終わった後、貴方はどうするの?」
 質問の意味が縁にはわからなかった。後とはどういうことだろう。
「さあな。一先ずやるとすれば……抜刀斎の首を姉さんの墓前に供えるくらいか」
 神谷薫はわかりやすく悲しそうな顔をした。
「剣心が貴方を止めてくれるわ。それでも復讐を続けるの?」
「人誅は必ず仕上げる。あいつの死で閉幕だ、それで全てが終わる」
「……仮に、あくまで仮によ。もしも剣心が負けたとして、その後は?」
「そんなことお前が知ってドウなるんだ? 一切関係ないだろうが」
「そうだけど、貴方の口から聞きたいの。心配している人がいるから」
 一気に心臓に血が集まっていく。縁の全身から漏れ出た憎悪がわからないはずないだろうに、薫は続けた。
「どうしてわからないの? あなたの行く先を巴さんは心配して――」
 考えるより先に腕が伸びていた。西洋浴衣の襟元を掴むと強い力で引き寄せる。
「貴様が姉さんを語るな! 心配だと!? ああ、姉さんは心配しているだろうさ、俺があの男の息の根を止められるかどうかをな! 姉さんの代わりでしかないお前の余計な斟酌など聞きたくもない!」
 苦しげに息を吐きながら、それでも神谷薫は続けた。
「……なら貴方、は、巴さんの代わり、を見つけ、られた?」
 ごく僅かな痛みだった。だが確かに神谷薫の言葉が縁の胸に痛みを与えた。
 薫は軽く咳き込みながら、腕の力が緩んだ隙に縁から体を離した。
「大切な家族、大切な人の代わりなんて見つかるはずがない。もし見つけられるとしたら、それは新しく出会った人がくれる別なもののはずよ。貴方がずっと剣心を憎んで生きてきたのは確かに素直な気持ちだわ。憎んで恨んで、剣心を殺せば巴さんはしあわせになれるの?」
「なれるさ。あの男が死ねば俺と姉さんの恨みも晴れ幸せになれる」
「ならどうして巴さんは貴方に笑ってくれないの?」
 その言葉は縁のいちばん痛いところを抉った。噛みしめた奥歯がぎりぎりと骨に音を伝える。
「笑っていたんだ、あいつを生き地獄へ落とすまでは。でもその方法が気に入らなかったから姉さんは……」
「違うわ、剣心を殺せば貴方の生きる理由が失われてしまうからよ」
「――五月蠅い黙れええぇ!!」
 柔らかい頬を張る音が響いた。縁の狂気を薫はよく知っている。避けようと思えば避けられはずだった。だが薫は自分を守ろうとしなかった。ほどんど部屋の隅まで吹き飛んだ華奢な体のはだけた太股が白かった。荒く息を吐きながら縁は混乱していた。こんな女の戯れ言に付き合ったのを後悔していた。
「今更俺を説得しようなどと思うな、抜刀斎は必ず殺す、邪魔をするならお前も殺す!」
 ゆっくりと体を起こした薫の髪はほどけ、傍には紐の体裁をした布の切れ端が落ちている。
 こちらに向き直った神谷薫の唇の端から血が垂れていた。口の中を切ったのだろう。途端に縁の肉体は激しい痛みに襲われた。血管が内側から腐り目や耳から血が溢れていく幻覚にとらわれる。爪の間からどろりとした血が流れ出し、呼吸をする度に肺が炎に焼かれるようだった。
 手探りで紐を引き寄せた薫は、立ち上がるときに少しよろめいたものの、ゆっくりとこちらへ裸足の足で歩いてくる。寝台の上で体を後ろに引いたのは痛みに悶える縁のほうだった。
「否定はしないわ。恨んで憎んで、復讐の為だけに生きるのも、貴方が決めたことだもの。そうしなければ、立ち上がれなかったから」
 静かに伸びてきた白い手が縁の左頬に触れた。神谷薫の瞳には涙が貯まっている。
「でも……とても辛い生き方よ。ひとりぽっちで……寂しくないの……?」
 この香りはなんだろう。透き通った、やや甘ったるい香りに縁は目眩がした。
「……俺には姉さんがいる、いつだって姉さんが俺の傍にいてくれる」
 神谷薫はまたなにか呟いたようだが、酷い耳鳴りがして聞こえなかった。きっとまた甘言で苛立たせるものだろうと痛みを堪えながら縁は思った。
 呆気ないほど手を引き、薫は空になった食膳を取り上げ部屋を出て行こうとした。
 扉を開けたせいで廊下の洋燈の光が部屋に差し込んでくる。そのせいで振り返った薫の表情は読めなかった。
「時間、取ってくれてありがとう。でも貴方には剣心を殺させない。それだけは覚えていて」
 縁が何か言う前に扉が閉められた。時計を見れば半刻ほどあの女はいたらしい。
 薫を張った手が今度は痛みを伴い痺れてきた。それは体の深いところで沸いた罪悪感を自覚させようとしているようで、縁は爪が皮膚を破るほどに拳を握りしめた。
(連れてくるべきじゃなかった)
 抜刀斎が姉の代わりに選んだというのに、おしゃべりで、口うるさく、料理も下手で、敵である自分を案じるような女など、ここにいるべきではなかったのだ。
 神谷薫が去っても、銀梅花の香りはいつまでも残っていた。