泥のような微風が海岸から上屋敷まで上がってくる。
 早朝の空は厚い雲に遮られ、海岸から届く湿った重い風は縁の体に絡まっては離れ、また絡んでくる。
 しばらくすれば雨が降り出すかもしれなかった。だが縁には雨の気配などどうでもよかった。
 縁が倭刀を振るう度に剣気が空気が震わせた。僅かな違和感は残っていたが、体はほぼ快復したといっていいだろう。
 皮肉にも抜刀斎が息を吹き返したという報せが、縁を生き返らせた。だがそれは姉が与えてくれた機会だと思えた。縁自身の手で人誅を下せと、そう言っているのだ。
 無心で剣を振るい体を動かしている間に、人影がこちらへ向かってくる。昨夜電信で指定した通りの時間だった。
 初老の小男と小柄な青年が前後に並んでやってくる。
 振り向いた縁に、初老の男は大陸語でおべっかを言った。青年は真摯に縁に頭を下げ、肩にかけていた刀袋を開いた。
 鞘から槌目の美しい日本刀が現れる。無銘だが白紙鋼の刀は逆刃刀に劣らない強度を持っていた。
 屋敷前の少し広い場所で縁が倭刀を構えると、青年も青眼に構えた。
 言葉を交わす必要は無かった。
 数多い部下の一人である背の低い青年は、縁の振るう倭刀を、刀で二度受け流した。すぐに殺し合いがもたらす高揚感が縁を覆った。目の前にいる青年が抜刀斎の姿と重なり、柄を握る手に力を蘇らせる。
 最愛の姉を斬り殺した抜刀斎の血が飛び散る様が脳裏に浮かび、痛みに似た悦びが全身を巡る。
――殺すころすコロス!!)
 軸足に込めた力は破裂するように縁の体を素早く目の前の青年に近づけた。掌上に乗せた力と刀身の重さが青年を切り裂きにいく。避けきれずに青年の肩を倭刀が突き抜け、鮮血が飛んだ。元々は刀を使わない戦闘技術に長けている。抜刀斎とは全く毛色の違う相手だが、傷が癒えたばかりの調整相手として丁度良かった。
 ぐんと青年の腕ごと巻き込むように倭刀を押し上げると、刀をはじき飛ばした。拾う間も与えず、倭刀を素早く掌で回し、峰を蹴り斬り上げる。たとえ躱せても続く脚撃が側頭骨を砕くはずだった。
――めて!」
 全身の筋肉の繊維が一斉に収縮し、倭刀の軌道を無意識に変えた。
 斬り結ぶ音が聞こえたのか、神谷薫が青年を庇うように倒れ込んでいる。自分の反応が僅かでも遅れていれば女の首が切り落とされていただろう。
 梢同士がこすれ合う音、耳が痛いほどの蝉しぐれ、泥のような微風。音と空気が一斉に戻ってきた。
 縁が見下ろしている先にいる小さな体は小刻みに震え、裸足の足は土に汚れ、髪も結っていない。それでも全身で青年を覆っている。母が、我が子を守るように。
 状況に耐えられなくなったのか、青年が神谷薫を遠慮がちに揺すぶった。
 はっと顔を起こした神谷薫は、青年の肩の傷を確かめると、自分が負った怪我でもないくせに瞳を潤ませた。
「早く治療しないと、腕は動く?」
 青年は大陸語しか解さない。だが神谷薫が屋敷から飛び出してきたのを見ていたらしく、慎重に神谷薫の肩を支えて立ち上がらせると、西洋浴衣の前身頃に真新しい血がべっとりとついているのを見て、慌てたように縁に向かって膝をついた。
そうされて、縁は自分が呼吸を止めていたのに気付き、肺に澱んでいた熱をゆっくり吐き出した。
 死体処理のために待機していた小男がこの事態をどう始末するのかと、縁に視線を向けているのもわかっていた。
「失せろ、今すぐにダ」
「お断りよっ」
 神谷薫は青年との間に立ち、縁と真っ直ぐ向かい合った。
「誰であろうと私の目の前で人を殺させない。大体、子供に相手をさせるなんてとんでもないわ!」
 小男が失笑するのが聞こえた。子供と言われた青年は、確かに神谷薫よりも背は低いが二十に近いはずだ。
 縁の冷たい視線を受けているのに怖じ気づくどころか、負けじとにらみ返している神谷薫に、どうやら自分が原因らしいと察した青年はひたすた申し訳なさそうに目を伏せている。
 舌打ちしながら縁は大陸語で命じた。
『もういい。下がれ』
 深々と頭を下げた小男と、神谷薫に庇われ命を拾った青年は刀を拾い、命令通りに去ろうとした。だが神谷薫はなおも青年を引き留めた。
「すぐにお医者様に診てもらって、無理に動かしちゃだめよ。しばらくは安静にしてないと……」
 神谷薫の表情や仕草でおおよその意味はわかるのだろう。戸惑いながら縁を窺っている。
 青年のそういう様子を見た神谷薫は、鞘に収められた刀に手を伸ばした。当然だが青年は首を振った。
「私に預からせて、お願い」
 静かに、しかしはっきりと懇願する神谷薫に、青年は縁に確かめるような視線を寄越してきた。とくに反応を返さなかった。決着の日は近い。この女が自分へ奇襲をかけてこようがどうとでも処理できる。
 仕方なく渡された刀を、神谷薫は両手でしっかりと受け取った。目を瞑り深く息を吸ってから、女は縁に向き直った。
「あなたが鍛錬するのは結構だわ。でも人を手にかけるのは絶対に間違ってる。だから、私があなたの相手を務めるわ」
 いい加減に慣れてきたが、突拍子もない思いつきを口にする神谷薫を、縁は鼻で笑った。
「木偶人形にすら劣るお前がか」
「でもあなたには壊せない」
 すぐさま言い返してきた神谷薫に、縁は苛立った。
「仮にも女なら恥じらいぐらい持て。その格好で大立ち回りでもするつもりか」
「すぐに相応しいものをご用意いたします。血で汚れていては都合も悪うございましょう」
 口を挟んできた小男が忌々しかった。この男は多言語に通じていて、縁の弱点にも感づいているらしい。これ以上余計なことを喋られたくない。
「ありがとう、お願いします」
 舞い込んできた余興を楽しまれているだけとも知らず、神谷薫は弾む声で礼を言った。
「確かに私ではあなたに敵わない。でも悪い話じゃないはずよ」
「なぜそう言いきれる」
「殺すより殺さないほうが、ずっと難しいから」
 無意識だろうが神谷薫は胸に手を置いた。鼓動を確かめているように縁には見えた。
「そうだな、お前の言うことにも一理ある」
 同調するようにゆっくりと頷きながら、縁は丁寧に付け加えてやった。
「何よりお前にとっても旨みのある話だ。万が一にも俺に手傷を負わせることができれば、抜刀斎が生き延びる可能性も高まる」
 せせら笑う縁に、神谷薫は表情を変えずに縁を見返している。
「つくづく浅ましい女だナ。それほど抜刀斎の命が惜しいか」
嘲るように吐き捨ててから、自分と女のやりとりを見ていた部下二人へ煩わしそうに手を払う。ようやくその場を去った二人の背中を見送りながら、神谷薫が呟いた。
「あの子の目、生きることを諦めていなかった」
「……」
「なのに逃げなかった。……どうして? あのままじゃ殺されると、わかっていたはずなのに」
 頭領たる自分が命じた。これほど単純な図式に異を唱える神谷薫の頭の悪さに苛々する。
「簡単な話だ」
 倭刀を肩に乗せ、霧散してしまった高揚感を惜しみながら縁は黒眼鏡を直した。
「俺には及ばないが、あの男はお前程度なら簡単に殺れる。上手く立ち回れば生き残れる可能性もあった。己が命を拾うのに抵抗しただけのこと」
 出し抜けに縁は笑いだした。
「はははッ、最初から助けを待つしかないお前とは違うんだヨ」
 生温い風が強くなり、黒髪の幾筋かが揺れた。だが神谷薫は思案顔を変えず、まだ胸の上に手を置いている。
「あの子はあなたにとって大勢いる部下の一人かもしれない。けど……」
 掌をゆっくりと開き、乾ききっていない血に、神谷薫は静かに視線を落とした。自分の怪我でもないのに痛みを堪えるようにきつく唇を結んでいる。
 縁はますます苛立った。
「何が言いたい」
 だが神谷薫自身も言葉に出来ないのか、静かに首を振るだけだ。
(本当に馬鹿な女だ)
 斬り合いの最中(さなか)に飛び込んでくるなど、常人ならけしてしない。一応は剣術を体得しているのだから、どれほど危険なことか理解しているはずだ。つくづく縁には理解できなかった。
「また割り込んできてみろ、下屋敷の飢えた男共の中に放り込んでやる。辱めを受けたくなければ二度と邪魔をするな」
「おあいにくさま、何度だって止めるみせるわ。それがいやなら早く私を東京に帰すことね」
 生意気に言い返してきた女に、縁は舌打ちするしかなかった。神谷薫がこの手の脅しに屈しないとよくわかっている。ふと、もう一つ付け加えることを縁は思い出した。
「あれでもお前より年上の男だぞ。抜刀斎の優男面に慣れすぎて見分けもつかないのか」
「え!?」
 頬に血が上り、生気が神谷薫を包んだ。
 姉と二人きりで過ごすために誂えた縁専用の屋敷に、神谷薫は喧噪を呼び込む。小細工を弄した人誅の要であったが今となっては無用の存在でしかないというのに。
「あっ」
「……今度は何だ」
「紐がないの、髪を結んでた紐。さっきまでちゃんとあったのに」
 刀を抱え、生乾きの血がついた西洋浴衣を着ながら、神谷薫は湿っぽい風に揺れる髪を押さえながら辺りを見回している。先の騒動で失くしたか、縁が斬り落としたのか、今更わからない。異様な風体をしながら、ただの小娘みたいに失せ物をして慌てている。その可笑しさに、縁の口角が少しだけ持ち上がった。
「あ――
「紐ごときでいちいち騒ぐな」
 何か言いかけた神谷薫に背を向けてから、ふと縁は空を見上げた。変わらず湿った風は吹いているが、分厚く頭上を覆っていた雲は割れるように途切れていて、雨の気配は遠のいていた。



 倭刀を立て掛け、縁は揺り椅子に体を落とした。
 痺れが片腕に巻きつき、骨の中に疼痛を置いていく。こめかみが締め付けられるように痛んだ。
 グラスに残っていた赤葡萄酒を口に含むが味がしなかった。
 雑木林に向かってグラスを投げたが、葉擦れの音が少ししただけだった。枝に引っかかったのだろう。
 毒が体を蝕み始めていた。堅く目を瞑っても、白い西洋浴衣についた鮮血が網膜に貼り付いている。目の奥が焼けるほどの熱を持ち、喉が潰れたように息苦しかった。一息毎に鼓動が煩くなる。
 どれくらいそうしていただろう。引き戸の向こうから女の声が聞こえた。
「まだ早いけど起きちゃったから」
 慣れた様子で足を踏み入れてこようとした神谷薫が、素早く引き戸を閉めた。逃げるように足音が遠くなっていく。見てはいけないものを見てしまった、そんな反応だ。
 姉の代わりに選ばれただけの、無価値な女。
 だがそういう女が、やたらと世話を焼いてきたり、先程のように鍛錬の邪魔をしたりするから、縁も次第に慣れていた。だからだろう、珍しい反応に思えたのは慣れてきていたせいだ。
(ほんとうに喧しい女だ)
 声を聴いたからか、少しだけ鼓動が落ち着いてきた。力を抜いた腕が体の横で揺れる。毒が目にも回ったのだろう、目を閉じた先に見えるのは墨で塗りつぶしたような闇だけだった。姉の姿すらどこにもない。
 あの女が、神谷薫が余計な真似をしたせいで――
「入っても大丈夫? 開けるわね」
 確かめているのかいないのか、再び神谷薫は戻ってきた。振り向きもしない縁を気にも留めずに、
「お粥にしてきたの。梅干しと薬味もあるからこれなら食べられると思うんだけど」
 湯呑みに熱い茶を注ぎながら、溜息をついている。紐は見つからなかったらしく、動く度に長い黒髪が揺れている。
「いきなり真っ青になってるんだもの、びっくりするじゃない。あなたが風邪を引くなんて思えないけど」
 食膳を整え終えると、神谷薫が縁の顔が見える位置に移動してきた。着替えたのか西洋浴衣に汚れはない。
それを目にした途端、縁を苦しめていた毒が姿を潜めた。先程までままならなかった呼吸が楽にできる。
「できれば冷めないうちに食べて。その、だから、まだ食べられるうちに、ってこと、なんだけど……」
 恥ずかしげに頬を赤くし、顔にかかった髪の一房を耳にかけ直している。
「ねえ、ちゃんと聞こえてる?」
 すぐ目の前で細くて白い指がひらひらと泳いでいる。金魚の尾のようだった。
 視界を遮るその手を鬱陶しげに押しのけると、神谷薫は腰に手を当てて、満足げに「よしっ」と呟いた。
 なにがよし、だ。自分は犬じゃない。
 縁が返した可愛げのない反応で満足したのか、テラスの引き戸を開けて出て行く。閉める前にひょいと顔だけ出して、
「それから、少し眠ったほうがいいわ」
 二度寝とお昼寝どっちになるのかしら、と大きな一人言が聞こえ、階段を下りていく音が少しずつ遠くなる。
 ようやく静寂が戻ってきて、縁は長く長く息をついた。一方的に喋られたせいで耳鳴りがするほどだった。神谷薫が整えていった食膳に目を移すと、小さめの土鍋と取り皿に味噌汁、小鉢が二つ、れんげと箸が揃えて置いてある。
 見た目だけならきちんとしているのに、蓋を開ければえぐい代物が出てくるのだから油断ならない。
 立ち上がり土鍋の蓋を開けると、熱い湯気が縁の黒眼鏡をくもらせた。面倒そうに外し机に置いた。
 どうやって煮込めばこうなるのか、粥は米の原型を留めていない。糊に使えそうだ。口に含んでみたが、やたらに熱くて米の味はほとんど飛んでいて、申し訳程度に塩味がついている。小鉢に盛られた梅干し、細かく刻んだ大葉、擦られた生姜、軽く擦ってある胡麻。あの女なりの気遣いなのだろう。縁はれんげを置くと再び椅子に体を沈めた。食欲は一切なかった。
 朝、昼、晩と頼んでもいないのに食事を用意し、たまに片付け忘れると、わざわざここまできて文句や小言を残していく。数日もそうされれば、嫌でも時間の概念が戻ってきた。縁が好む光の少ない夜を遠ざけ、日が昇り暮れる当たり前の一日を神谷薫は律儀に報せにくる。
 思い直し、縁は椅子を机に向けた。このまま食べずにいれば昼もまた同じ物を用意されるのが目に見えた。うんざりだ。
 ありったけの薬味を使い、湯気の立つ粥のようなものを腹に収めていく。喉が詰まり茶を飲んだがこれも熱かった。次第に縁の体の内側が温まり、額に汗がにじんだ。最後に残った蜆の味噌汁も念入りに煮込んだらしくせっかくの貝の味が飛んでいる。一口含んだところでやめようとしたが、喉の途中にまだ粥が残っている気がして、我慢しながら飲んだ。
 心身ともに疲れ果て、背もたれに体を預け直すと揺り椅子が大きく揺れた。ようやく日が昇り始め、遠目に見える水平線に、薄ぼんやりと朝焼けが広がっている。
 一度引っ込んだ神谷薫が食事を温め直してきた理由は想像できた。
 昔見た血の色は縁の復讐心の糧であったが、同時に恐慌を掻き立てる色だった。縁の体に潜む毒は、普段は息を潜めているのに、胸の底で不意に頭をもたげる。
 ――少し眠った方がいいわ
 胃の腑が若干心配ではあるが、縁の体は指の先まで十分に温まっていた。頭痛も治まっている。
「……俺に、構うな」
目を閉じると底暗い闇より早く眠気がやってきた。神谷薫に言われるまでもなく、縁の意識はそこで途切れた。体は夢すら見ない深い眠りを求めていた。



 日が顔に当たったのを感じ、縁は勢いよく体を起こした。はずみで肌掛けが滑り落ちる。食膳はきれいに片付けられており、新しいグラスが置いてあった。
 悔しさのせいだろうか、耳に熱が集まるのを感じた。
 神谷薫が自分の寝ている間にしたのは明白だった。気配に気付かなかった迂闊さに腹が立つ。縁は落ちた肌掛けを拾うと揺り椅子の上に放り投げた。
 立て掛けておいた倭刀を手に取ると引き戸を乱暴に開ける。日の加減から昼前だとわかったが、そうだとすればかなり眠っていたことになる。体は軽く頭もすっきりしている。二度寝か昼寝か、どちらにしろあれほど深く眠ったのは久しぶりだった。
 だが神谷薫の気配に気付かなかったというのが、縁は気に入らない。自分の傍にいていいのは、たった一人の姉だけだからだ。
 また体を動かすつもりだった。殺気を持たないとはいえ眠っている間に抜刀斎が代わりに選んだ女が近くにいたという鬱憤を晴らしたかった。
 外へ出ると、先客がいた。
 神谷薫は白磁色の上衣とくるぶし丈の濃い紺色の男物の下衣を履き、海の方を向きながら、一心に型を繰り返している。長い黒髪は手巾でまとめて右肩から前に垂らしている。刺繍が施された靴の赤い色がやけに鮮やかだった。
 躯幹がぶれずに、基本の型から始め防御の姿勢を取り、また最初から繰り返される。
 細い体が動く様は、男とは違う流麗さがあった。大陸のものとも、我流で学んだ倭刀術とも全く違う。考えてみれば神谷薫の流派について縁はまったく調べさせなかった。
 身長、肌の色、髪の長さといった外見的特徴だけが必要だったからだ。簡素な服だと屍人形がいかに実物に忠実だったかよくわかる。
 一段落したのか、神谷薫はふうっと息をついた。
「具合はどう?」
 飾り紐で腰に固定した鞘に刀を納めながら神谷薫が振り返った。なぜか左手を胸元に置いている。
 縁の顔色を確かめ、かるく頷いた。
「うん、大丈夫そうね。あの人達、すぐ服を持ってきてくれたの。あなたにもお礼を言っておくわ、ありがとう」
 女が体の線を晒す服装はこの小さな島国でも眉をひそめられるものだろう。縁が呆れているのを読み取ったのか、神谷薫は恥ずかしそうに言い足した。
「これしか動きやすそうな服がなかったのよ。ほかにもたくさん用意してくれたんだけど……」
(だろうな)
 と縁も思った。初老の男は珍しく女を傍に置いたままの縁のために、そういう時に使うものを用意するような奴だ。けして神谷薫のためではなく、自分の心証をよくするために用意されたものばかりだったろう。
「好意はありがたいけど、私には、その……派手すぎて。ねえ、聞きそびれてたけど私の道着と袴はどこにあるの?」
 屍人形に着させたのが随分昔に思えた。面倒で縁はごく簡潔に答えた。
「捨てた」
 大きな黒い瞳が見開かれる。
「す、捨てたぁ!? 私にとって大切な道着なのよ!」
 怒りながら詰め寄ってくる神谷薫に、縁はもう少し詳しく答えてやった。
「小汚いから捨てた」
「失礼ねっ、ちゃんと洗ってたわよ! 軽々しく人のものを捨てるなんて信じられない!」
「俺にとってはどうでもいいことだ」
 飛んできた張り手を細い手首ごと掴んだ。毛を逆立てた猫のように怒る神谷薫を見下ろす。
 一度は相対したのだ。実力の差は嫌というほどわかっているだろうに、命を宿す黒い瞳は少しも動じていない。
「勘違いするなよ。好き勝手させてやっているのは――
 ぴしりと乾いた音がした。反対の頬を叩かれたのだ。神谷薫は掴まれていた手首を引きはがすと、服でごしごしと擦った。
「あなたの一存で私を生かすも殺すも自由。だから怯えてじっとしていろ、とでも?」
 本気で怒っているのか強い視線が自分を睨んでいる。
「怖くないわ。あなたがいくら脅してきたって、ちっとも怖くない」
 つくづく縁には不思議だった。姉の代わりというには違いすぎる。
 息づく体を生命力が覆い、わかりやすい虚勢をうそぶき、おまけに喧しい。とにかく五月蠅い。
 そのくせ、敵である自分の世話を焼く。縁にはこれがいちばん理解できなかった。
「もういい、構えろ。俺の相手になるんだろう」
「……ええ」
 神谷薫の表情に落ち着きが戻り、数歩後ろに下がった。縁から目を離さず呼吸を整えている様子から怯えは見えなかった。宣言したとおり、本気で縁と手合わせをするつもりらしい。距離が開いてからわかったが、髪を前に垂らしているのは服の留め具を隠すためらしい。胸の辺りは強引に締めたのか、留め具が歪んでいる。
 やはり縁には神谷薫がすることの意味がわからなかった。敵である縁の部下を庇う理由も、雪の日に見た血の色が呼び覚ます毒を和らげる理由も。
 片手に持っていた倭刀の鞘を抜き地面に落とす。すぐに薫も刀を抜き下段に構えた。鞘走る音は澄んでいる。
「俺は手を抜く。お前は全力で打ち込んでくればいい」
「それじゃあ鍛錬にならないわ」
「動く木偶人形相手に真面目にやる馬鹿がどこにいる」
 神谷薫がきつく唇を引き締めた。
「そう、わかった。でもあなたの弱点はわかっているから」
 言い終わると、神谷薫の剣先が迫ってきた。倭刀の刀身で切っ先の向きを変えたが、弾かれるのは想定していたらしく小さな手が柄を握り直し再び突きに変える。縁がかるく地面を蹴り後ろに下がると空を切った音が耳に届いた。神谷薫はすぐに体勢を直し、足を送りながら間合いに入ると強く踏み込み、刀を横薙ぎに振るった。刀身で受けると光が飛び、その向こうに女とは思えない精悍な眼差しが見えた。縁がはじき返す前に、神谷薫は目を離さずにすぐ後退する。力負けするのがわかっているのだろう。縁から攻撃することはないが、相手と自分の力量をよく理解し、間合いもけして縁の側に近づきすぎない。
 神谷薫の剣には迷いがなかった。いなし、躱しているうちに、右手を狙っているのがわかった。斬られれば確かに自分には痛手になる。命に関わる致命傷にもなりにくい。愚直だが狙いは正確で、並の男相手ならひとたまりもなかっただろう。女でこれほどの遣い手は滅多にいない。部下にこういう女が一人いればさぞ便利だろうと縁は思った。
 だが所詮は女の剣術だった。速さも膂力も自分に遠く及ばない。現に神谷薫の息は上がり始めているのに、縁は汗一つ流していなかった。
 何度目かに刀を受けたとき、時間の無駄だと結論づけた。
 ――強情なこの女が、また割り込んでくるのが邪魔だからと、言い分を飲んでやったのが間違いだった。
 切り結び素早く横に走り抜けた神谷薫が短く気を吐くのが聞こえた。
 背中に衝撃があり、右足の膝裏が蹴られた。前のめりになった体を倭刀で支えようとしたが、柄を刀ではじき飛ばされる。支えを失った縁の背に再び痛みが走り、呆気ないほど簡単に地面に倒れた。頬に小石が食い込むのを感じたとき、肩の付け根に冷たい感触が押しつけられた。一瞬の出来事に、縁はぼうっとするしかなかった。
「これが、あなたの、弱点……」
 縁の背に乗った神谷薫が、荒い息づかいのまま喋っている。
 背中に感じる重みで、縁は自分が組み伏せられているのにようやく気付いた。肩に当てられているのは刀の峰だろう。
「いま、私では相手にならないって、考えたでしょう?」
 手が震えているのが伝わってくる。自分の肩を外そうとしながら躊躇っているのもわかった。
「その隙を待っていたの。あなたは、防ぐ術を、疎かにしすぎている。剣心と戦っていたときも……」
 縁は神谷薫が押し当てている刀を掴むと、指に刃が沈むのも構わず神谷薫から取り上げ、放り投げた。
 細い腕を捕まえ地面に引き摺りおろす。形勢は呆気なく逆転した。
「いっ――
 痛みを訴えようとする口を素早く血がにじむ手で塞いだ。全部聞いてしまうと縁には都合が悪い。
 柔らかい下腹に膝を乗せ動きを制すると、痛みを与えない程度に加減しながら、組み敷いた神谷薫を見下ろした。
「走り抜けた先で反動をつけ峰打ちを入れてから姿勢を崩す。俺の倭刀を刀で打ち飛ばし、反撃を封じてから転ばせた。右手を狙っていると見せかけてから背中を狙うのも悪くない」
 だが惜しいな、と縁は淡々と続けた。苦しげな吐息が掌の下で逃げ道を探している。
「お前でも届く範囲を狙うのはいい手だ。折角あそこまで持ち込んだんだ、迷わず肩を外すべきだった。ああ、お前には無理か。ならせめてここを(と縁は鍛え上げられた首に浮かぶ血管を指で示した)裂くべきだった」
 懇切丁寧に解説してやると、見る間に神谷薫の瞳に悔しげな色が浮かんでくる。
 縁は愉快そうに口角を上げた。
「残念だったな、次の機会は二度と巡ってこない。二度とな」
 口を塞いでいた手を離すと、神谷薫の唇に少し血がついていた。
 指の傷はさほど深くないが血がにじんでいる。神谷薫が髪をまとめている手巾を乱暴に引き抜くと、ごしごしと指の血を拭った。汚れた手巾を丸めて放り投げている間に、細い腕が体を守るよう覆っている。
 軽く溜息をつきながら、縁は一番上から服の結び目を解いてやった。
「ちょ、この、なにするのっ……!」
 まだ呼吸が整っていない神谷薫はみっともなく足をばたつかせて抵抗した。露わになった白い肌に汗が浮かんでいる。三つ目の結び目に手をかけると暴れかたが激しくなるのがおかしくてたまらなかった。
「自惚れるな、女としてのお前に用は無い。無理に締め付けるからあれっぽちしか動いていないのに息が上がるんだ」
 縁の言ったとおり、呼吸が楽になったのか、神谷薫は水から上がったように息を吐いた。
「お前の言うとおり、防御が甘いのは俺の弱点だろうな。だが大抵の奴はすぐ死ぬ。大した意味はない」
 神谷薫の瞳が僅かに恐れの色を宿す。かさぶたを剥がすような心地よさに、縁は気を良くした。
――で、ほかに質問はあるカ?」
 返事の代わりに、くぅっと場違いな音がした。意外にも近いところから聞こえた音に縁は驚いた。神谷薫の頬が林檎のように染まっていく。
「も、もういいでしょ、どいてったら、さっきから重いのよっ」
 声に含まれる羞恥の色を縁は耳聡く聞き逃さなかった。
「一応は不味い飯だと自覚があるんだな。確かにあんなものじゃ食欲も失せる」
 神谷薫から体を離しながら、縁は無性におかしくて笑いを堪えられなかった。口元に笑みを浮かべながら飛ばされた倭刀を取りに行き、近くに落ちていた刀も拾った。
「俺がいくら棒立ちでいようと、万全の状態でもないお前では相手が務まるはずない」
 一息遅れて立ち上がった神谷薫の足下に刀を突き刺す。もう終わりだとばかりに屋敷へと足を向けた。
「お前が男ならまだ鍛錬にもなっただろうがな」
 ごく単純な感想を呟くと、縁の背に強くぶつかってくるものがあった。
「わかってる、わかってるわ、そんなこと――!」
 小さなこぶしが駄々をこねる子供のように何度も背中を叩き、徐々に力が弱くなっていく。首を曲げ後ろを見るが神谷薫は俯いていて、ほどけた長い髪のせいで表情が見えない。乾いた土に小さな円がぽつりぽつりと現れ始める。雨が降り始めたのかと頭上をあおいだが、薄曇りの向こうには僅かに青い色が見えた。
 真意がつかめないでいる内に、神谷薫は縁を置いて屋敷へ走り出した。僅かに見えた横顔は濡れていたが、縁はなぜ女があれほど取り乱したのか全く解らなかった。
(……何なんだ)
 わざと組み敷いて嘲っても、空腹をからかっても、泣き出すような女ではない。そんな柔な女なら面倒なのを押して鍛錬の真似事などしてやらなかった。
 後を追う形で屋敷に戻ると、神谷薫の使っている部屋に意識を向けた。だが部屋からは物音一つせず、ひっそりしていた。



 縁は湯を使い終わると、神谷薫の部屋へもう一度意識して耳を立てたが、変わらず静まりかえっている。
 それ以上は詮索せず、テラスへと戻った。早朝にあったはずの雨の気配は、孤島を置き去りにし流れていったようだ。
 揺り椅子に腰掛けると、夏の残滓を含んだ微風は体を冷ますわけでもなく、皮膚がじっとりと汗ばんでいく。
 テーブルに遅い昼食の用意は無い。腹の中にまだどろりとした粥が残っている気がして空腹感も無かった。
 雑に髪を拭いていると、背中にかすかな痛みを感じた。神谷薫に何度も叩かれたところだ。
 縁にとって捨て駒に等しい部下を全身でかばい、殺させないと言い切った女だ。そういう女が背中から刺してくるとは思っていない。だが体ごとぶつけてきたとき、神谷薫は明らかに平静さを失っていた。
 拉致されたとわかったときも、己の弱みを晒したときも、律儀に不味い料理を用意するときも、怯えすら隠し通そうとする、自分に対してけして動じない女だった。
 なのに後味の悪さがしつこく残っている。価値のない女について考えている自分にも腹が立った。
 水滴の浮いた赤葡萄酒に手を伸ばしかけ、思い直して立ち上がった。夏の盛りを過ぎても蒸し暑さはしつこく居座っている。冷えたものが飲みたかった。
 台所まで行くと地下に備え付けられた氷室を乱暴に漁り、一番下にあった瓶をとった。白葡萄酒だったがとにかく喉の渇きを満たせるならなんでもよかった。
 ふと、水桶の横に置かれた食器が目に入った。底もぴかぴかに磨かれた釜、粥とも言えないものが入っていた土鍋と取り皿、小鉢が三つ、湯呑みが二つ、茶瓶が二つ。壊滅的に料理が下手くそなのを除けば、神谷薫はこまめに家事をこなす。縁は眠っていた間に片付けられた食器の数をもう一度数え直した。茶碗が一つ足りなかった。
 腹の中に粥が重く残っている理由がわかり、喉に引っかかった小骨が取れた気がした。
 だがその理由は、縁の胸の底で怒りに変わった。食料なら十分に用意をさせてある。わざわざ他人に分け与える行為をする必要などない。その上で腹を空かせ恥をかいた女が愚かに思えてならなかった。
(哀れんだのか、俺を)
 怒りで目の奥が熱くなるのを感じながら縁は台所から出た。迷いなく神谷薫が使っている部屋に向かう。女の襟首を掴み思い知らせてやりたかった。毒が沸こうが構うものか。
(俺を理解したつもりでいるなら――
 間違いを正してやらなくては気が済まない。自分を理解できるのはたった一人の姉だけであり、姉の願いを成就させるのも自分以外にいないのだと。
 乱暴に扉を開けた縁は、前にも後ろにも進めなくなった。
 組んだ両腕に頬を乗せ、寝台にもたれかかりながら神谷薫が眠っていた。扉を開けた音がかなり響いたはずだが、規則正しい寝息を立てたまま、起きる気配がない。寝穢い女だったと、神谷薫が目を覚ました日を縁は思い出していた。
 汚れた服も着替えず、縁が解いた上衣の結び目もそのままになっている。
 さほど広くはないが日当たりの良い部屋を見回すと、隅に子供一人は入れそうな竹で編まれた葛が置いてある。
 開いてみると、薄絹の夜着や、上等な仕立ての唐衣に襖裙(おうくん)、華やかな洋装、大小揃った二組の軍服と長靴(ちょうか)、化粧道具一式、目のしっかりした縄、明らかに人用の口輪……。胸焼けがしてそれ以上は確かめずに無言で葛を閉めた。神谷薫のお人好し振りにほんの少しだけ感心した。
 葛から離れ神谷薫の傍に立ち、改めて見下ろす。長い睫毛が濡れているのは少し前まで泣いていたからだろう。寝顔は穏やかとは言い難く、痛みをこらえながら眠りに落ちたように見えた。縁は神谷薫の顔にかかった髪の一筋を指先で直し、静かに視線を注ぎながら、姉には到底及ばないが、美しい女だと評されるだろうと思った。
 花の顔には少女独特の未成熟さが残り、ふっくらとした唇に妙な色気を与えている。細い肩から二の腕のあたりは年頃の娘らしい肉付きをしていた。香水の類はつけていないはずなのに、女の肌からは甘やかな香りがした。屍人形と違う、生きている女の匂いだった。
(高値で売れるな)
 下屋敷にいる部下に命じれば、縁も知らぬ大陸のどこかですぐさま買い手がつくだろう。神谷薫を売った金を丸ごと抜刀斎にくれてやればさぞ良い見物になる。そういう想像は一瞬だけ縁に愉悦を与えてくれる。だがすぐに自分が実行しないことも思い知らせるのだ。
 妙な格好で寝ているから、縁は仕方なく神谷薫の体を持ち上げ、寝台の上に半ば放るように置いた。それでも起きないどころか、神谷薫は楽な姿勢を探すように寝返りを打った。ほどいた上衣のすきまからやわらかなふくらみが見えて、縁はとっさに目をそらした。驚きが胸を突いた。自分がこのちっぽけな小娘にうろたえたのに、驚いていた。
 ――代わりに選ばれたダケの女だ。
 そう、ただの代わりだ。だが全く質の違う女だった。
 縁からけして目を離さず、刀を握り向かってきた。自分には到底届かない腕前だったが、真っ直ぐな剣筋に自分への憎しみが含まれていないのは剣を交えているときにわかった。宣言したとおり、鍛錬の相手を務めただけだった。
 乱暴に叩かれた背中の痛みはとうに消えている。だがあの時確かに、神谷薫は縁に見せたことのない感情をぶつけてきた。
 哀れまれた怒りは消え失せ、かすかな疑問が生まれていた。神谷薫が見せた感情が縁にはわからない。
 穏やかとは言い難い寝顔にその答えは含まれていなかった。

 気配で気付いていたが、部屋の外では初老の男が背の低い青年にまた大きな葛を持たせて縁を待っていた。背の低い青年が目礼するのを横目で見ながら、縁は重い口を開いた。
「余計な物は与えるな」
「はい。ですから必要な物ばかりです」
 初老の男は以前から黒星の地位を狙っている。善人面の下には冷酷で計算高い性質を隠していた。
「お静かでしたから、お持ちするなら今が頃合いかと思いまして」
「……寝ている。起こすなよ」
 うやうやしく頭を下げ、入れ違いに神谷薫の部屋へと入っていく。後に続こうとした背の低い青年が立ち止まって背筋を正しながら言った。
『ボスがあんな風に話しているのを初めて見ました。不思議な方ですね』
 どこか嬉しそうな響きを伴った言葉を残し、荷物を運び入れていく。縁は意味を飲み込むのに少し時間がかかった。
(……話す?)
 気付いたのは、再びテラスの揺り椅子に体を預けていたときだ。
 縁はほぼ若い女を寄せ付けない。たまに抱く娼婦もことが済めばすぐに追い払うほどだった。身の回りのことは口数の少ない老女の召使いに任せていた。背の低い青年も命じてもないのに率先して老女と共に立ち働いていた。なぜだか青年は縁を慕い、命を投げ出すことも厭わない。縁が知らぬ間に増えた組織の人員も多く、いちいち加わった経緯など覚えていなかった。縁の人嫌いを知りながら近づく者もいたが、気に入らなければ殺していた。大陸でも指折り数えるほどの大組織の頭領でありながら、縁の傍には、縁の性質をよく知り上手く付き合える者か、心酔している者しかいなかった。そういうごく少数の部下も用事以外では呼びつけない。けれど例外がいた。神谷薫だ。
 縁が組織を捨てるのを知らずにいる者からすれば、あの女の存在はひどく珍しい存在なのだろう。
 忌々しげに舌打ちし、背中に重心をかけた。揺り椅子が軋み、木立の中から小鳥が何羽か飛び立っていく。雑音に混じった縁の殺気を、野生の生き物はよく感じ取る。
 夏も終わる頃だというのに、傾いだ日差しはしぶとく暑さを残している。
 控えめに硝子を叩く音が聞こえた。一度たりとも許可していないのに、神谷薫は遠慮など知らないかのように入ってくる。本当に、喧しい上に図々しい。
「わ、いい風。ここって特等席なのね」
 引き戸を開けた神谷薫を迎えた出た風に、黒い髪がやわらかくたなびいた。西洋浴衣に着替えていたが髪を結ぶ紐はまだ代わりがないらしく、そのまま下ろしている。その様子を少しだけ眺めてから、縁は女から目を外した。話をする気分ではなかった。
 神谷薫はそれでも一向に構わないらしく、縁の目の前にある手摺りまで近寄ると、しばらく風の余韻に浸るように髪を遊ばせていた。
「風が雲を運んでいってくれたのね。空があんなに広いの、久しぶりに見た気がする」
 振り返った神谷薫の顔からは涙を流した形跡がすっかり消えていた。大きな瞳と桜色の唇は、嬉しいことでもあったのか、やわらかい雰囲気を持っている。女がわざわざ視界に入ってくるから、縁は億劫そうにまた目線を違う場所へ移した。鍛錬という形で女を組み伏せた場所は、僅かに落ちた涙の痕はきれいに消え、乾いた土が広がるばかりだ。
 縁の視線を追った神谷薫の口調が、叱られた子供のように沈んだ。
「ごめんなさい、殴ったりして。あなたには関係ないのに八つ当たりしたわ」
(殴った?)
 少し前の記憶を手繰りながら、縁はようやく小さなこぶしに背中を叩かれたのを思い出した。
「あれで殴ったつもりだったのか」
 小馬鹿にしたように呟くと、女は殊勝に謝った後だというのにむっとしながら言い返してきた。
「そうよ、思いっきりね。あとで手が痛くなって大変だったんだから」
「自業自得だ。お前とは鍛え方が違う」
「……そうね」
 縁は神谷薫へ視線を戻した。短い返事の中に、また縁が理解できない感情が含まれていたからだ。
 僅かに見えた縁には理解の及ばないものを、神谷薫はするりと懐にしまいこんでしまっていた。
「また色々用意してくれてありがとう。……あなたの話も聞かせてくれたわ」
 糞爺が、と縁は胸の中で吐き捨てた。
「あの人、あなたに命を救われたから恩返しがしたいんだって。言葉はわからなかったけど、心からあなたを慕っているのね」
 あの人とは神谷薫が子供と間違えた背の低い青年だろう。正直、自分が救った等という経緯を全く覚えていない。
「誰かに大切に想ってもらえるのって、とても、とてもしあわせなことだと思う。相手が自分をどう思ってくれているかなんて、計れるものじゃないでしょう?」
 神谷薫は真っ直ぐこちらを向いているのに、風に揺れる黒髪と日差しのせいで、表情がよく読めない。
「あなたを大切にしてくれる人がいるってわかって、ほっとしたの」
 語る声は優しい色を帯びている。
 縁は立ち上がると、数歩の距離を詰めて神谷薫の顎を持ち上げた。
 ようやくはっきりと見えた神谷薫の顔には、驚きや恐れはなく、大きな瞳が縁を静かに見返している。
「何が言いたい。そいつに感謝しろとでも? 姉さん以外誰一人、俺には必要ない」
「知ってるわ、あなたならそう言うだろうってことも。それでも伝えたかったの」
「一人言なら一人でやってろ。なぜ俺のところまで来て言うんだ」
 目を細めた神谷薫が縁の手に触れた。小さい、血の通った手だった。
「うらやましかったから」
「……なんだと?」
 細い指が縁の手の甲の固さ、手と腕を繋ぐ太い骨を確かめるように滑っていく。少しくすぐったい。
「あなたはずるいわ。私の欲しいものを全部持ってるのに、私は――
「今度は謎かけか? お前のつまらん戯れ言に付き合うつもりはないぞ」
「それも知ってるわ。たまたまここに、しゃべる木偶人形があるってだけ」
 小さな手を縁は振り払った。またこの女と話しているのに気付いたからだ。
「お前などとする話は一つもない。出て行け」
 縁の低い声に神谷薫は気圧されたように体をすくめるのがわかった。
「明日も私が相手を務めるわ。あの人達にもそう伝えておいたから」
「貴様では俺の相手にならないとあれほど教えてやっただろう、今度は服を切り裂いてやらないと理解できないのか」
「わかった、念入りに厚着しておけばいいのね。大丈夫よ、服の着方ならちゃんと教わったから」
「はっ、いいだろう。せいぜい色っぽく仕立ててやる。価値のないお前でも女とわかるくらいにな」
「ええ、それじゃあまた明日」
 神谷薫は縁の胸を押すと、縁の視線から逃げるように屋敷の中へ戻っていった。足音が立ち止まることなく遠くなっていく。
――クソッ)
 腹立ち紛れにテーブルを叩くとグラスが倒れ、そのまま床に落ち粉々に砕けた。
 まんまと乗せられた。あの女と話していると調子が狂う。拉致された身の上のくせに、ふらふらと出歩き、時折自分のところへ来てはくだらないことを喋っていく。
 なら鍵をかけ閉じ込めておくか。
(余計に五月蠅くなるだけだ)
 扉を叩きわめく声が縁の耳の中に自然と再生される。前髪をくしゃりと掴み深々と溜息をついた。
 神谷薫がごく当たり前に接してくるのに、慣れてさえいる。
 縁の中に息づく姉は、神谷薫を傷付けることを許してくれない。憎しみのままに殺せればどれほど楽だったろう。苦い思いが胸にくすぶりながら、どうすることも出来ないでいる。
 凍り付くような気配が背中を撫でていった。固く封印しているはずの毒が蠢きはじめたのだ。
 姉の無念と人誅を果たすために、縁は泥水をすすり人の血を浴びながら生きてきた。
 だが縁の手足が伸びきり、背が高くなり、多くの人間が目の前を過ぎていく度に、毒が生まれた。
 ――姉が何を考え、何を思っていたのか
 怖気を振り払うように首を振り、縁は毒を抑え込もうとした。けして考えてはいけないことだった。
 姉は許嫁の仇を討つために単身京都へ行った。それが答えだ。それ以上の理由はない。
 長じるうちに少しずつ生まれた毒には、その答えを被せてやれば静まった。なのにこの数日の間に、簡単に静まらなくなってきていた。食いしばった歯の間から毒が染み出してくる。舌が麻痺するほど苦い毒が嘔吐感を呼んでくる。
 体がふらつき、縁は先程まで神谷薫がいた手摺りにもたれかかった。呼吸が乱れ息が詰まる。口の中に溜まった唾が溢れそうになる。痛いほどの耳鳴りが縁を取り巻く全ての音を奪い去っていく。
「……ってみて、ゆっく……いから」
 誰かが背中をさすってくれている。一瞬、縁は姉の手だと錯覚した。それだけで毒は静まり、体が楽になった。深く息を吐いてから振り返った先には、神谷薫が青ざめながら立っていた。
(ああ、そうだ)
 姉はもうどこにもいない。ずっとずっと昔に、手の届かないところへいってしまった。
「なぜ戻ってきた……まだ話でもあるのか……」
「そうじゃないけど……すごい音がしたから気になって。そうしたら、あなたが辛そうにしてたから」
 沈んだ声は姉とはまるで違う。ここにいるのは姉ではない女だった。
「もう風が冷たくなってきたわ、あまりあたりすぎると体に毒よ」
 神谷薫は気付いているのだろうか。敵である自分を気遣うことは抜刀斎への裏切り行為に等しい。抜刀斎だけではない、この女は近しい者全てを裏切っている。
「何度も言わせるな。出て行け、お前に指図などされたくもない」
 神谷薫がむっとしながら、声を尖らせた。
「何度も言われなくたってわかってるわよ! 晩ご飯、残してもいいからあなたの分も作るからね!」
 よく表情が変わる女だった。支離滅裂な台詞を吐いて、勢いよく縁に背中を向ける。また女の肌の匂いがした。ほんのりと甘さを含んだ、命の匂いだ。
 ぴしゃりと引き戸が閉められたとき、縁は自分でも知らぬうちに口角を上げていた。
 寄りかかった手摺りの後ろから、ひやりとした風が吹いてくる。肩や首の後ろに当たる風は気持ちよかった。
 毒は何事もなかったかのように縁のあずかり知らぬ場所へ引っ込んでいた。背中に触れた手が沈めてくれたのを、認めざるを得なかった。
――あの女なら)
 抜刀斎が代わりに選んだ神谷薫という女なら、この身に根付いた毒の意味がわかるかもしれない。
 その思い付きを、縁はすぐに打ち捨てた。
 毒は縁を苦しめるが、姉への思慕の形でもあった。長い時をかけ育った毒すら、縁には姉が与えてくれた愛おしいものだった。この毒が与えてくれる痛みは自分と姉を繋ぐもののはずだ。
 真っ白な髪を、暮れの風を撫でていく。心地よさに縁は束の間目を閉じた。
 姉は変わらず無表情で自分を見つめている。



 埃が舞い上がりそうなほどの勢いで入ってきた神谷薫は、珍しく何も言わず食膳を置いて去っていった。
 別に話すことなど無いから構わないが、不機嫌な表情をしたままだったのに縁は腹が立った。
 こちらから不味い食事の用意を頼んだことは一度もない。勝手に作っては勝手に置いていくだけだ。
 それでも手を伸ばしてしまうのは、幼い頃の懐かしい味が恋しいからかもしれない。
 大陸では残飯や毒味後の冷めた食事しか摂らなかった。
 一五年という歳月は、人が裏に隠した汚さに数え切れないほど辛酸を舐めさせられ、それすら糧にして生きた少年を、一大武器組織の頂点に立つ、申し分のない才覚を備えた青年に変えた。用心深さはその中で身につけたものだった。だから縁は簡単に人を傍に置かない。神谷薫がいる今の状況は、例外中の例外といっていい。
 燐寸で洋燈に火をつけると、手元が見えるほどの明かりが灯った。湯気の立つ味噌汁に口をつける。普段に比べればかなりマシな味だった。味噌が少し濃かったが、多少歪な小さめに切られた芋がほろりと口の中で溶ける。ほぐしてある塩鮭の隣には大根おろしときざんだ大葉が添えられていた。食べやすいようにと工夫したのだろう。残念ながら飯は水気が多く米粒が潰れていたが、それもいつものことだ。
 黙々と口に運びながら、縁は今日だけで二度も神谷薫に不調を見られたと思い返していた。抜刀斎を地獄に落とし、縁自身の手で殺すと決めた今ですらも、あの女は縁への態度を変えなかった。そういう性質なのだと、縁にもわかりはじめていた。
(……どこまでも甘い女だ)
 半分食べただけで喉に詰まった飯を飲み下そうと湯呑みの茶を一息に飲んだ。派手にむせた。
(なん、だこれは!)
 茶だと思い込んでいたものは砂糖菓子のように甘く、僅かな渋味が舌に残った。明かりを手元に寄せ確かめると、湯呑みの底には茶の色と同じ液体が残っている。
 毒を仕込まれた可能性が頭をよぎったが、神谷薫にそういう才覚は無いと思い直した。それに、大抵の毒は縁には効かない。毒というなら、女の作る不味い飯の方がよほど毒だ。
(余計なことばかり話すくせに――
 肝心なことは伝えないのだ。
 だがそれも当然だと縁は思い直した。元より敵同士の身である。あの女がいることに慣れすぎている自分に腹が立ち、舌打ちをした。
 食膳を台所に置きに行くと、女は不在で、水桶は空だった。言いたいことが山ほどあったのに当てが外れた。
 テラスへ戻る前に神谷薫のいる部屋へ再び意識を寄せたが、人が動いている気配はなかった。縁より早く飯を片付けて眠ったのだろう。どうせ明日も顔を合わせなくてはいけないのだ。急ぐ必要は無い。
 戻ると、暗くなった海の上にぼやけた光が写りこんでいた。鈍色の雲が月を覆うように広がっている。夜の穏やかな風は心地よかったが、湿り気も帯びていた。雨の前兆だろう。けれど雨雲は目に見えないほど遠くにあるらしく、遅くとも夜明け頃に降り出すようだった。
 雨なら仕方ない、鍛錬は取り止めになるだろう。
 縁は自分が明日の天候を気にしているのに迂闊にも思い当たらなかった。とりあえず腹が満たされ、ほどよく温まった体に当たる夜風は気持ちよく、虫の鳴き声がわずかに聞こえるだけの心地よい夜は、縁をまどろみへ誘っていく。

 だがすぐ来るだろうと思われた眠りは中々訪れなかった。目を瞑ったり、深く座り直してみるが、逆に目が冴えてくる。膝掛けが邪魔になり放ったところで、ようやく下腹が、──正確にはもっと下が――じわりと熱くなりはじめているのに気付いた。
 椅子を蹴倒しながら立ち上がり、段を飛ばしながら階段を下り、扉を叩きもせず神谷薫の部屋に飛び込む。
 洋燈の明かりは消えていたが、暗闇に慣れた目はすぐに寝台に横たわった女の姿を認めた。細い肩を掴み強引にこちらを向かせる。かすかに呻くのが聞こえたが構わなかった。窓から差し込む薄ぼんやりとした明かりを頼りに瞳を確かめる。神谷薫の瞳は遠い場所を見ているように視線が定まっていない。
「オイッ、名前を言ってみろ。俺のじゃない、お前の名だ」
 急ぎ気味に言っても、神谷薫は反応を見せなかった。魂が体を離れ、息をしているだけの人形になるのも間もなくだろう。
(糞爺がッ)
 娼薬も様々あるが、物によっては自我を消すほどの効果もある。お膳立てのつもりだろうが、全くいらない世話だった。
 洋燈に明かりを灯すと、神谷薫の姿がようやくはっきり見えた。顔は血が通っていないように白く、小さな体は傷付いた小動物のように丸まっている。結ばれてない髪は乱れ、既に乱暴を受けた後のようだった。
 袖机の上には食事の終わった食膳が起きっぱなしになっている。湯呑みだけが倒れ、中身は僅かに零れているだけだった。
 縁は踵を返し台所へ行くと水差しに溢れるほど水を汲み、グラスを一つだけ持ち戻った。温い水を乱暴な手つきでグラスに移す。神谷薫の背中に手を入れ上半身を起こすと、力なく首が反る。
「水だ、飲め」
 少しだけ開いている唇に水を運んだが、飲み下す力がないのか、ほんの一口ほど含んだ後は唇の端からこぼれていってしまう。苛立ちを押さえながら、なおも飲ませようとしても敷布が濡れるばかりだ。
 吐き出させる手も考えた。喉奥まで指を突っ込むか、湯船に溜めた水に顔を押しつけるか。どちらも自分への反動と後始末を考えるだけで頭が痛くなる。
 ふと思いついて、縁は寝台の上に乗った。グラスの中の水を呷ると、掌を黒髪の中に潜りこませ自分の方へ引き寄せた。小さな後ろ頭まで熱を持っていた。噛みつくように唇を合わせると、一瞬だけ神谷薫の体が震えたが、縁は手を離さなかった。抵抗する力を失っている女の細い喉に、息が詰まらないように水を流し込む。一口分が終わるとすぐに同じ行為を繰り返した。水を飲ませるだけなのに、長い時間がかかった。縁もグラス半分ほど水を飲んだ。それからまた同じ行為を始めた。親鳥が雛の口の中に押し込むように、神谷薫の毒を薄めようとした。
 ようやく二杯ほどの水を飲ませ終わったとき、二人の額には汗が浮いていた。また水をグラスに注ぎ、飲ませようとした縁の胸を小さな手が弱い力で押し返した。間に合ったのだ。

 大きく息をつき、縁は薫を寝台の端に置き直すと、その隣に横たわった。腕を額に乗せ肩で息をしながら、横目で女を見遣る。神谷薫もまた荒い呼吸を繰り返していたが、真っ白だった頬には少しずつ血の気が戻りつつある。
 格子窓の向こうから差し込んでいた月光はほとんど無くなっていた。雲が厚くなったのだろう。小さな洋燈に照らされた狭い寝台の上だけが、この世から切り取られたようだった。
 神谷薫の呼吸が少し落ち着いた頃合いで、縁は口を開いた。
「馬鹿が、簡単に他人を信用するからこんな目に合うんだ。なんと言って渡された」
「……よく、ねむれる、からって……」
 切れ切れに答えながら、はっと目を開いた神谷薫の瞳から涙がぽろぽろと落ち始めた。
「ごめん、ごめんなさいわたし、あなたにおなじ、ものを」
「……俺は平気だ」
「でも、」
「五月蠅い、とにかく俺には効かないんだ。お前も死にはしないから安心しろ」
 若干意地を張りながら縁が言い切ると、神谷薫は疲れたように目を閉じた。
 気を失ったのかと思ったが、しばらくすると、涙に濡れた瞳がまた開いた。
「ほ、んとう?」
 言葉足らずの尋ね方だったが、縁は神谷薫が何を知りたがっているのかわかっていた。
「抜刀斎を殺すまで俺は死なない。大体、お前と毒で心中など死んでもごめんだ」
 神谷薫はそっと目を細めた。安心したと表情が物語っている。
 縁が上半身を起こすと、寝台が軋んだ。軋みすら体に響くのか、神谷薫はぎゅっと目を閉じ身の内側を焦がす熱に耐えている。
「俺に情けをかけたつもりだろうが、お前は同時に抜刀斎どもを裏切っている」
 冷たい声音で縁は続けた。
「なぜそんな真似が出来る。抜刀斎が代わりに選んだ女の身でありながらおこがましいと思わないのか」
 聞こえているはずだが返事は無い。効力を知っている縁は口を開くのも辛い状態だとわかっていたが、それでも尋ねずにいられなかった。
「情が移っただとか甘いことを抜かすなよ、反吐が出る。だったら何だ? 何がお前を動かしている?」
 降りかかる声に神谷薫の視線が縁へと向けられる。声を出せない代わりなのだろう。ただ真っ直ぐに縁を見つめ返している。娼薬が体中に回っているとは思えないほど力強い視線だった。
 応えずに顔を伏せた姉と違い、神谷薫はいつも縁から視線を外さなかった。
 先に目を逸らしたのは縁の方だった。自分から神谷薫と話そうとしているのに気付いたからだ。
――なぜこの女を助けた)
 たとえ自我を失おうが、息をしてさえいればよかったはずだ。喧しさも余計な世話を焼かれることもなくなる。抜刀斎が無様に嘆き悲しむ様だって見られただろう。
 どうしてあれほど必死になって、この女の魂をつなぎ止めようとしたのだろう。
 ふいに縁の背筋に怖気が走った。
 今しがた尋ねたこと、この女が縁にすることの意味を知りたいという思いは、神谷薫が自分の中に居場所を作り始めているからだ。ただの小娘が、神谷薫という形で縁の内に息づこうとしている。けして許されないことだった。
 縁がいる場所は、姉だけがいる静寂に満ちた不可侵な世界でなければいけない。

「……死なないが、この毒は女によく効く。そうだな、丸一日はその状態だろう」
 視線を戻し、縁が笑いを含みながら呟くと、神谷薫は少し瞳を伏せてから、そのまま静かに目を閉じた。薬が抜けきるのを耐えるつもりらしかった。指先が敷布を握りしめる様子は、情などとうに捨て去ったはずの縁の目にも哀れに映った。
 無造作に手を伸ばし首に掌を這わせる。しっとりと吸い付くやわらかい肌は、確かめなくとも熱を持っていた。
 驚いた猫のように神谷薫の体が震えた。不思議そうな視線が縁を見上げる。
「おどかさないでよ。……なに?」
 自分が神谷薫を傷付けられないのだと、互いによく知っているのを思い知らされる。神谷薫を女として見ていないと言ったのも自分だ。けれど神谷薫という女は、存在ごと消してしまわなければならない。
 縁がおもむろにばさばさと上衣を脱ぎ始めると、訝しむ視線が自分に向けられているのがわかった。
 逃げられる場所など、どこにもない。もうどこにもないのだ。
「あるところに呆れるほどお人好しな女がイマシタ。名前は――名前は薫という女デシタ。女は人斬りの罪人に姉を惨殺されたカワイソウな青年に浚われてしまいマシタ」
「それ、やめて。よけいにみじめになる……」
「そう、女は哀れなほど惨めで脆弱で愚かな女デシタ」
 縁が語る一言一言に、薫は小さな爪が白くなるほど敷布を握りしめ堪えていた。両手を差し入れ、子供を抱き上げるように力を失った小さな体を引き寄せ、あぐらの上に乗せる。
「もう、かまわないでったら」
 鼻先を艶やかな髪に埋めながら、絡まった毛先を手櫛で直してやる。甘やかな薫の匂いを吸い込みながら縁は語り続けた。
「青年は優しいので薫という女を殺しませんでシタ。けれど不幸ナ事故が起こりました。薫は自ら毒を呷ったのです。嗚呼、ナント悲しい出来事でしょう」
「やめてよ、離して」
 両腕に力を込め、きつく抱きしめると、西洋浴衣の下に覆われた肌が熱いのがわかる。
「や、くるし、えにしっ……」
 名前など呼んで欲しくなかった。どうやっても、自分の中に居場所を作ってやれない。作ることが出来ない。
「カワイソウな女を、青年は楽にしてやることにしましたとさ」
 両腕で抱きすくめた体は、呆れるほどちっぽけだった。壊すのは容易い。形がわからなくなるほどに、壊さなければいけなかった。
――辛くて仕方ないんだろう? 今手伝ってやる」
「手伝いなんていらない、こんなところで死ねないのよ、私は、東京にかえるんだから……!」
「つれないな、人の好意を無下にするなよ。それにいつお前を殺すなんて言った?」
 耳元で囁きながら細い右手を掴むと下腹の先へと導いてやる。
「……っ!」
 指先が恥丘に触れただけで薫は手を引こうとした。だが縁は小さな手を逃がしはしなかった。男を知らない儚げな帳の間に、手を重ねながら指を沈み入れてやる。手を貸すまでもなくしっとりと濡れていた。自分で弄ったこともないらしく、怖がるように薫の指は縁の手が押さえたまま動こうとしない。
「指を動かしてみろ。楽になる」
「やだ、こわい……」
 慰めるように囁いてやっても、薫はかすかに首を振るだけだった。表面に触れている細い指が震えているのが伝わってくる。
「なら俺にやって欲しいのか。言っておくが手加減など期待するなよ」
 びくりと押さえつけられた小さな手が震えた。そろりそろりと細い指が動き、とろみのある水音が少しずつ聞こえてきた。縁の視線が注がれているのが恥ずかしいのか、じれったくなるほど拙い動き方だった。少しだけ奥に指先を入れ、こわごわと内側をこすっている。
「んっ……」
 やっと声を出したと思えば唇を噛みしめ声を抑えてしまう。これでは夜が開けてしまう。
 縁はつまらなそうに溜息をついてから、手を重ねたまま下腹から離してやる。薫の体から力が抜け、縁にもたれかかってきた。縁は細い指を自分の口元へ運んだ。人差し指についた水蜜を舐め取りながら、指の間に舌を這わせる。縁にもたれかかっている薫の背がびくりと震えた。
「うそ、うそ、そんなの口に入れないで」
「お前の料理ほど不味くはない」
「もう、さいあく、ほんと性格わるい……!」
 中指も同じように口に含む。指先から細い骨に沿って舌で舐めてやる度に薫は小さく喘いだ。たっぷりと唾液をつけてやってから、再び下腹の先に添えてやる。
「これで少しはやりやすくなっただろう」
 熾火に新しい薪と火種を丁寧に置いているのだ。薬に侵された小さな体はさぞ辛い思いをしているだろう。
 やはり抵抗があるのか縁の手から逃れようとするが、縁が重ねた指で軽く細い指を押してやると、束の間体を固くした薫は、おそるおそるといった様子で指を動かし始めた。初めて触る場所が図らずも体の熱の中心なのに、ようやく気付いたようだ。
「はぁ……はっ」
 素人だから仕方ないとはいえ、なんとも拙いやり方だった。縁の手に支えられながら、狭い入り口をおそるおそる擦るだけで、中々奥まで指が入っていかない。
 空いている手を柔らかな髪の中に差し込みながら左耳を探り当てる。ごく近くで、熱い吐息と一緒に縁は呟いた。
「もっと奥まで入れてみろ。ここだ、お前はここが熱くてたまらないんだろう?」
「こ、こ……?」
 重ねた人差し指を押し込んでやると、ようやく薫は指を少しずつ動かし始めた。
 ゆっくりと繊細な粘膜の内側を指で押し、擦り、熱源を探し当てようとしている。自らの指で秘所をいじる姿はいかにも娼婦らしい。おぼつかない手つきではあったが、縁は喜悦が沸き上がるのを止められなかった。
 なのに縁が手を離すと、薫は途端に指を止めてしまう。
「やめるな」
「だ、って――
「出来ないなら俺がやるぞ。どうしたいかはお前が選べ」
 縁の腕に熱い涙が落ちた。しばらく逡巡した後、薫は指を動かすことを選んだ。促したとおりに、薫が自らを慰める行為を目の前でしている。足先を闇に沈める姿に、縁は喉を鳴らした。
「……ない」
 腕の中で薫が、小声でなにか呟いた。縁は鼻先を黒い髪の中に埋めながら、わざと低い声で言った。
「どうした、手が止まってるぞ」
 耳がますます赤く染まるのを間近で見ながら、意地悪く言う。左腕に小さな爪が食い込む。薫なりの抵抗なのだろう。
「いや、できない、こんな、ことっ……」
 経験不足からか、細い指だけでは無理らしい。始まったばかりなのに早々に音を上げられてつまらない。まあ最初はこんなものだろう。縁の腕から逃れようと、力を振り絞ってもがく薫をなだめるように黒髪に唇を寄せる。
「まあまあだ。ヨク出来マシタ」
 褒めているのかいないのか、やけに優しげな言い方が引っかかったのだろう。労るように唇を寄せていた縁の胸を、薫は押し返した。
「やめて」
 声には強い拒絶が含まれていた。
 縁は憮然とした表情を浮かべながら、腕の中でもたもたと逃れようとする薫を仕方なく放してやった。
 熱に煽られている状態では仕方ないが、縁と向き合う形になるだけでもずいぶん時間がかかった。やっと壁に背を付き向き直ったと思えば、こちらを睨んでくる。
「うそを、つかないで」
 薫は真っ直ぐ自分を見ていた。首の後ろを冷たいものに撫でていく。僅かとはいえ薫という女が自分の内に入っているのを見透かされたのが恐ろしかった。
「ぜんぜん熱、さがらないじゃない」
「……は?」
 薫が子供っぽくふくれているのにようやく縁も気付いた。
「だからっ、あ、ああいうことは、やめてって言ってるのっ」
 しっかりと西洋浴衣の裾を押さえながら、薫はただ怒っていた。
「あ、あんなこと、できないし、してほしくもないからっ」
 可愛くないふくれっ面のまま肩で息をしているので、縁はとりあえず落ち着くのを待ってやった。薫に拒まれたせいか、胸が塞がれたようだった。
「私のことは、放っておいて。一日で熱も下がるんでしょ?」
「大抵はな。だが眠れないぞ、そのままでいるつもりか」
「自分のせいだもの、我慢する」
 真っ直ぐこちらを見ながら言い切る薫は、らしいといえばらしいのだが、犯されかけた女らしくない。大体、一旦始まった情事を中断させる女は初めてだ。
「でもちゃんと鍛錬の相手は務めるわ」
「はぁ?」
「これ以上、あなたに、人を手にかけさせたくないもの」
 一息で喋ったせいか、俯き胸元を小さな手で押さえながら、また呼吸を整えている。
 会話の内容を除けば、乏しい洋燈の明かりが椿のように赤く染まった頬の薫と、上衣を脱いで向き合っている自分という状況を照らしている。ようやく縁は薫が思い違いをしているのに気付いた。
「お前、何を飲んだかわかってるか?」
「なにって、熱が出る毒でしょう?」
 間違ってはいない。間違ってはいないが、やはり互いの認識には大きなズレがあった。いや、自分の言い方がまずかったのか。縁は思わず額を押さえた。大声で笑い出したいような気分だった。それを見た薫は、また勘違いをしたらしい。
「平気だっていったのも、違うのね」
 薫は手の甲で縁の首に触れた。薫は少しずつ手の位置を変え、最後はすまなそうに目を伏せた。
「やっぱり、あなたも熱があるわ。……ごめんなさい」
 余計な世話を焼く喧しい女が、珍しくしおらしい。縁は言葉もなくその様子を見ていた。
 ただの娼婦なら男を拒まない。無体な仕打ちを受けようと我慢しなければならないし、男が満足するまで抱かれなければいけない。薫がそういう娼婦だったら、縁も楽だったろう。
 だがいくらそう仕立てようとしても、この女は変わらないのだ。
 縁はもう一度尋ねた。
「抜刀斎はお前を姉さんの代わりに選んだ。なのに俺にいらない世話を焼くなど頭がいかれてるとしか思えん。抜刀斎を裏切っているのに、なぜお前は平然としていられる?」
 大きな瞳が同じ質問を繰り返す縁を静かに見つめ返している。
 薫は唇の端をほんの少しだけ持ち上げた。無理をして笑っていると縁にもわかるほどだった。
「剣心と巴さんとあなたの間に、私は入れないもの」
 胸を鋭く刺された気がした。姉を迎えにいったとき、自分が抱いたのと同じ思いを神谷薫も抱いていた。
 何度呼びかけても、姉が自分の手を取ってくれなかったときの悔しさがはっきりと蘇る。
 縁の目を見ながら、ふっと、神谷薫が細い息を吐いた。
「結果論だけど、あなたにとって私は道具でしかない。そうでしょう?」
 生気に溢れていたはずの瞳は深く濡れている。影の差した瞳は、縁を蝕む毒と同じ色をしていた。
――道具)
 長く封じていた、ぐちゃぐちゃに絡んだ真っ黒な塊から、一本だけ糸が解けた。幼い自分は姉の頑なさに地団駄を踏むばかりで、何一つわかっていなかった。だが今なら解る。目の前にいる神谷薫と同じで、姉は復讐の道具にされたのだ。闇乃武に殺された許嫁への想いを人質に取られ、姉を催促するために幼い自分をけしかけた。自分達姉弟もまた道具だったのだ。
「でも道具にだって矜持はあるわ。お節介でも余計なお世話でもいい。もう、誰にも傷付いてほしくない」
 真っ直ぐ縁を見ながら、神谷薫は目を細めた。
「だから敵であっても――あなたが嫌がろうと、放っておけないだけ。我ながら甘いけど、そういう性分なのよ」
 話し疲れたのか、薫は目を閉じた。傾いだ顔に黒髪が一房かかった。
 辛そうに呼吸を繰り返す神谷薫をじっと見つめながら、縁はしばらく動くこともできなかった。
 過去と今が綯い交ぜになって胸の内を掻き回している。様々な色をした糸が複雑に絡み合い、抑え込むより速く動き増大していく。胸中で膨れ上がった塊は次第にどす黒い色に変わり、毒になった。総身が冷え、手がぶるぶると震えだす。全身の血管が次々と破け、爪の間、涙腺、耳、鼻、口からどろりと血が溢れ、心臓が脈打つたびに強く流れ出てくれる。気付けば洋燈の光は消え、昏い闇が縁を押し潰そうとしていた。指先を動かすことも出来ない。息が、出来ない。
 白い手が、闇を割って現れた。
 簡単に折れそうな細い指が縁の頬にそっと触れる。温かい人の体温に、縁を覆っていた昏い闇は跡形もなく消えた。
 洋燈は消えていないし、白い敷布には血の一滴も落ちていなかった。様子が落ち着いたらしいのを確かめると、縁へ伸ばされていた白い手が力を失ったように落ちた。それを無意識に目で追いながら、縁は低く呟いた。
「……お前は、俺の弱点がわかっていると言っていたな」
 壁に立て掛けられた刀に目をやると、薫も同じように視線を向けた。
「俺を殺さなければ抜刀斎が死ぬだけだぞ」
 薫は束の間目を閉じた。だが縁へ目を戻したとき、瞳には光が灯っていた。
「そうだとしても――あなたの過去を、傷をえぐるような真似は、できない」
 ああ、またこの女は甘いことを言っている。浮ついた言葉は右から左へ通り抜けるだけのはずだった。
 だが縁は薫の言葉がけして嘘ではないとわかった。
 途端に喉の内側が焼き焦げるほど熱くなった。たまらなく薫が欲しかった。毒を消し去る力を持った小さな手を、自分だけのものにしたかった。渇望というものだったのだろう。無性に、目の前にいる薫を手に入れることを切に望んでいる縁がいた。
 どうすればいい。どうしたらいい。どうやればこの女は墜ちてくる。
 薫がもたれた壁に手をつく。さほど力を入れなかったつもりだったが、鈍く低い音が部屋を揺らした。
 薫は衝撃に驚いたようだが、すぐに体を固くし、縁を見返してきた。
――女に生まれたのがお前の不運だったな」
 薫の小さな肩がびくりと動いた。
 薫が何度か見せた不可解な感情に、縁は鎌をかけた。力でねじ伏せたときの涙、うらやましいと言いながら自分に触れた細い指。あれは、この女の弱さではないだろうか。
「そうだろう? あれほど簡単に俺に負けて悔しくなかったのか」
「悔しいわよ、今だって悔しいわ。でも私ではあなたに敵わないもの」
 ふうん、と縁はじっくりと薫の瞳を観察した。何度も見た屍人形と違う、生きた瞳が自分を見据えている。
「自分が男ならまだ対等に戦えたかもしれないと思わないのか?」
「私は私だもの。男だから、女だからだなんて、考えても仕方ないことだわ」
「ソレだ。お前のそれが俺には理解できない」
 壁から手を離すと、あぐらをかいた脚を組み直しながら膝の上に頬杖をつく。
「いくら剣術に長けていようと女では必ず限界がくる。お前がそこらの女より使えるのは認めるが、男と女では身体の作りが元々違う」
「ええ、よくわかってる」
「なのにお前は俺の相手を務めるだとか言い出す。そのくせ叩いてきたりずるいだの──」
 言いかけた言葉を縁は飲み込んだ。
「……あなた、なにが言いたいの?」
 薫にしては投げやりな言い方だった。手負いの獣が威嚇するように縁を睨んでいる。
 薫がけして縁に見せようとしなかった芯に触れた気がした。剥き出しにして、目の前に引き摺りだしてやりたくて堪らない。
「ガキはガキなりに己の無力さに気付くものだ。お前が気付いたのはいつ頃だ? ああ待て、今当ててやる」
手を伸ばすと薫が怯えたように体を引いた。だが縁は薫に直接は触れず、肩にかかった髪を指で掬い上げただけだった。
「物心がついた後か。だが気付いたところで誰にも言えなかったんだろう? 近しい奴にも黙ってやり過ごすしかなかったんだろう? ……カワイソウにな」
 掬いとった髪に、ゆっくりと口付けしてから離してやった。薫の瞳から音もなく涙が落ちる。
「弱い人間だと幻滅されたくないとガキなりに考えたわけだ」
 この小さな島国がいかに下らない理由で人を区別しているか。何の疑念も抱かず頭まで浸かり育った薫への批判を縁は容赦なくぶつけた。
「なるほどな、境遇の不運をぶつけるなら敵である俺が最適だろう。道具が何を喚こうとどうだって――
 膝立ちになろうとした薫が倒れ込んできた。やわらかく受けとめた縁の肩に、なにか熱いものが押しつけられた。薫が歯を立て噛みついてるからだと気付いたが、黙ってさせたいままにした。心根の優しい娘が初めて自分に晒した怒りは甘やかな肌の匂いがした。
 思った以上に力が入らないせいか、血が一筋流れただけだった。腕の中に戻ってきた薫の顎を持ち上げる。白い頬は水がかかったように濡れているのに、嗚咽のひとつももらしていない。この女は声を出さずに泣くのかと、縁はようやく理解した。
「うるさいうるさいうるさい、かってに、えらそうに語るなっ」
「ならお前が今ここにいる理由を教えてやる。性分など言い訳に過ぎない、一皮剥けば生身の弱い女だからだ」
「ちがう、ちがうっ――
「どう違う」
「こ、の、嫌み男っ……」
「今更だな」
「白髪頭……!」
「抜刀斎に言え」
「……しすこん」
「意味はわかるぞ」
 縁が手を離してやると冷たい頬がぺたりと肌にくっついた。細い肩が少しだけ震えている。
 どうやって器用な泣き方を覚えたのかと縁はしばらく思案した。声も立てずに泣く薫が哀れだった。頭を撫でてやると、薫は離れようと身じろぎしたが、縁は小さな頭を押しつけ離さなかった。執拗に頭を撫でていると熱い涙が冷たく変わるのがわかった。
「私、わたし……自分は自分だって、ずっと、そう思って……」
 生皮を剥がされひどく痛むだろうに、まだ抗おうとしている。縁の腕の中にいるのは、脆くて弱いくせに、他人に分け与えてばかりの愚かな娘だった。
 混乱に放り込まれた薫の髪をかき上げ、そっと額に口付ける。
「いいか、俺はお前に何も求めない」
「でもわたし、おいしいごはん、つくれない……」
 縁は言葉に詰まった。素手で心臓を抉りすぎたせいか、想定以上に薫は取り乱しているらしい。
「……そこは諦めるなよ。くそ、話を拗らせるな。あとは――他人など放っておけ、命を投げ出す真似もするな」
「だめ、あの人をころしてはだめ、ころさないで」
「そうだな。お前がいるから殺す必要はなくなった」
「よわいって、さんざんいったくせに」
「唯の女なら弱くて当たり前だ。強くなりたければ俺が直接手ほどきしてやってもいい」
「いい。あなたの力はひとを……傷付けるから」
「情など捨てろ。弱いお前が他人を背負うなど驕りだとわからないのか」
「ちがうっ――
「何も違わない、お前は生身の女だ。理解出来ないなら俺が枷を外してやる」
 縁から逃れようとする薫の小さな肩を掴まえ、寝台の上に押しつける。恐れの色が瞳に現れている。
 ――こんな目に遭ってもお前は俺の目を見るんだな
 縁の手酷い仕打ちを咎めるように大きな雨粒が格子窓を叩いた。暗闇が支配した外から一つ、二つと窓を叩く音がした後は、鉄砲雨に変わった。地面を打つ雨音は途切れなく続いている。細い洋燈の明かりと雨音がますます寝台の上にいる二人を孤立させていく。逃げ出せる場所など、もうどこにもないのだ。
「お前が飲んだものが何か、教えてやろうか」
 縁にしては穏やかな口調だった。薫が力なく答える。
「……知りたくない」
「つまらないこと言うなよ。お人好しが過ぎる奴は聞いておいたほうがいい話だ」
 楽しげにやわらかな唇についた血を舐め取った。
「ひっ」
 細い悲鳴がおかしくて縁はまた笑った。
「量次第では生きたまま抵抗しない玩具にできる。いたぶって遊ぶ趣味の奴らがよく使うんだ。どういう扱いを受けるか、お前には想像もつかないだろうな」
 薫の顔から血の気が引いていく。
「あ、あなたもそういう趣味なの?」
 思わず吹き出した。
「あんな輩共と一緒にするな。でなきゃ苦労してまでお前を呼び戻したりしない」
 縁はようやく自分の行動が腑に落ちた。人形では、薫の中に縁の居場所を作れない。
「媚薬、娼薬、淫薬……まあ、呼び方はどうでもいいか。大陸じゃ娼婦を抱くときによく使う。男と女がやることが楽しくなるからな。紛い物から上物まで色々あるが、お前が……お前と俺が飲んだのは間違いなく後者だ。ここまで説明すればお前でもわかるだろう」
「……うそ……なら、これ、って……」
 答え合わせが済み、薫は何を思っているのだろう。少なくとも生きている。瞳から生気が失われていないからだ。
 それさえわかれば良かった。縁が抱きたいのは生身の薫で、物分かりのいい人形はいらない。
「あとな、――男は途中で止めるなんて器用な真似は出来ないんだ。覚えておけ」
 体の内側を散々痛めつけられた後なのに、まだ気力が残っていたのか、縁の腕の間から逃れようともがいた。
「やだ、いや――
「お前が俺も巻き込んだんだ。だったら相手を務めるのも道理だろう?」
「だ、だって、知らなかったもの」
 くっくと縁は喉で笑った。
「いい台詞だ。知らなかったから自分は悪くない。それがお前の本性だ、忘れるな」
――ち、がう、わたし」
「別に責めちゃいない。優しい薫は敵である俺を気遣っただけなんだろう?」
「もうやめっ――
「まだ我が身がかわいいか。下らない、さっさと捨てろ。お前は唯の女だ」
「やめて――
 羽をもがれたように、抵抗が止んだ。西洋浴衣の袖からのぞく手首は細く、暗い部屋でも白さが目立った。
 このやさしい娘を多くの人間が愛し、大切にしてきただろう。薫の明るい気性も本物に違いない。だがその下に隠れた脆さを知ったのは自分だけだ。硝子細工を扱うように、縁は薫の涙に濡れた頬に手を添えた。
――怖いなら目を閉じてろ」
 低い声で呟いた縁を、薫は声もなく見つめていた。
 体温が高いせいか、唇も熱を持っている。やわらかな唇を舌でこじ開け小さな舌を捕まえた。舌下を丹念に舐め、狭い口腔内で逃げようもない小さな舌を絡めとる。水飴を食べるように舌同士を絡ませているあいだに、薫の吐息が熱くなるのがわかった。口付けているうちに溢れた唾液が薫の唇の端からこぼれ落ちた。顔を上げさせ、細い喉を伝うそれを舌で追い、なめらかな肌を直に味わった。
「ん、んっ……」
 喘ぐ声すら拙い。なのに耳に心地よく、原始的な欲望が縁の中で膨れあがる。小さな頭を持ち上げやわらかい唇を貪り続ける。唇を合わせているだけなのに目眩がするほど体が熱くなった。娼薬の効果だけではない。薫が見せるとろけた瞳から目を離せなかった。縁が与える快楽に反応し、無意識に欲情を煽ってくる。
 少し体を離し、混ざり合った唾液で濡れた口元を拳で拭う。額に貼り付いた黒髪を直してやっただけで薫は小さな体を震わせた。
「いい顔になったな。刀を握っているよりよほどマシだ」
「ねえやめて、おねがい、だから……」
「そんな顔をしておいて止めろとは大層な言い草だな」
 西洋浴衣を開こうとすると、さすがに恥ずかしかったのか薫は慌てて胸元を隠した。
「いやっ、やだ……!」
 その仕草は一人前の女とも娼婦とも違う、少女らしい恥じらいだった。細い手首を掴むと口元に寄せ、白い肌の下に走る静脈に沿って舌を這わせる。
「ひぁっ」
 縁の固い筋肉に覆われた腕や肩と違い、掴んだ薫の腕は折るのも容易いほどに細く、日に当たらない腕の内側はやわやわとしていて、喰らいたくなるほどうまそうだった。
 そうしながら薫の肩から西洋浴衣をすべらせる。皮を剥いたばかりの白桃のような乳房が縁の目に晒されると、薫は逃げるように顔を背けた。
 横たわっていても張りを失わない、それでいて薄紅色の頂は縁を誘うように上を向いている。
 持ち上げるように白い乳房に指を埋めると、薫は小さく喘いだ。
「ふっ、あ……」
 一方で縁は妙なところで感心していた。ふわりと軽そうな見た目をしているのに、手にしてみると指が勝手に埋まる。
(……重くないのか? よくこれで刀を振り回せたな)
 体の造りの違いはわかっているが、胸の重さなど薫以外に気にしたことはなかった。
 些細な気掛かりはともかく、しっとりと手に馴染むやわらかい肌に、縁はすぐ夢中になった。
 焦らす真似はせず、存分に弄り倒す。縁の手の中で形を変えられ、指の腹で頂を押し込んだり、すこし力をいれて摘んだりしてやると、薫は掴まれていない手の甲で口元を覆い、声を押し殺そうとした。
 そういう仕草ほど男を誘うものはない。白い乳房のやわらかく薄い皮膚を舌で舐めあげると、びくびくと薫が震えるのがわかる。薫の動きにあわせ動く頂を舌の上で転がしたり、わざと音を立てて吸い上げた。
「やあ、あぁ……」
 耐えられず薫が声をもらす。丁寧に熱い舌で愛撫を続けていると小さな頂は固さを増し、縁から与えられる悦楽をねだっていさえいる。歯を軽く立てると、薫は一瞬背を反らし、小さな体は溶けるようにやわらかくなった。
 掴んでいた細い手首を離してやると呆気なく敷布の上に落ちる。顔を自分のほうに向かせても、抵抗はなかった。短い呼吸が雨音にかき消される。
「そんなによかったのか? なら何よりだ」
 縁が機嫌良く桜色に染まった頬や唇に口付けを落としていると、遮るように薫は口を開いた。
「かない……」
「ん?」
「からだ、うごかないの……どうして……」
 つい白いふくらみを弄っていた手に力が入った。早い鼓動が縁の手に伝わり、体中の血が熱くなるのがわかる。
「へぇ……」
 縁は感嘆したように息をついてから、艶やかな黒髪をかき分け白い首にも唇を寄せる。
「や、やだっ……」
「逃げてもいいぞ。逃げられるものならな」
 吐息ごと喰らいながら唇を合わせる。熱い舌同士が絡み合い、唾液が混ざり合う。充分に薬が効いている薫は面白いほど反応が良かった。舌先で上顎をちょっと擦ってやるだけで小さな体がびくりと震える。縁が快楽を少し与えてやるだけで、涙が散った。唇を離し改めて見直すと、上気した頬と混ざった唾液が口の端からこぼれている様子は、紛れもなく生身の女だった。あふれた唾液を舐めとり、小さな口の中に戻す。混ざり合った唾液を音を立てて吸い上げると、甘く渋い味がまだ残っていた。
 熱を持った舌を掴まえながら、縁は片手を薫の繊細な肌を覆う腰巻の中に潜りこませた。指先で触れるだけで体温より熱いのがわかる。薫が縁の体の下で身じろぎしたが、その力はひどく弱く、縁はくぐもった声で笑った。
「俺から逃げたいんだろう? なら昼間みたいにまた蹴り倒せばいい」
 額が触れそうなほど近くに顔を寄せ熱を持った頬に触れる。薫の瞳がもどかしげに揺れた。
「ねえ、なにしたの……。さっきまでは、うごけたのに……」
「ハハッ、いいな。今度は俺のせいか。敵にも情け深い優しい薫はどこにいる? お前が疑わず飲んだのは何だった?」
 墜ちてこい、一歩踏み出して墜ちればいい。影を、この身の毒ごとお前の中に堕としてやる。
「ゆきしろえにしは、こんな……こんなこと、しない……どうぐだから……」
 狂ったのかと思った。だが平坦な声で聞き返す薫の瞳は濁りもなく生気を湛えたままだ。
「……ああ……わたしが……そっか……」
 つうっと薫の瞳から涙が落ちる。縁は歯噛みした。薫はまだ神谷薫だった。あばらをこじ開け脈打つ心臓を取り出し、生身の女だと突きつけてやったのに、腕の中にある熱を持った体は確かに縁のものなのに、まだ墜ちてこない。
「……泣くな」
 触れるだけの口付けをすると、縁は潜るように薫と肌を隙間無く合わせた。二人の肌は同じくらい熱く、触れているだけで溶けだしてしまいそうだ。だがその熱がかえって心地よい。薫の肌の甘い匂いもより濃く感じられる。
 裸の胸同士が触れあうと、固さを持った頂がくすぐってきて、妙な刺激に首の裏が熱くなる。華奢な背中を自分の方に寄せると白いふくらみは縁の体に合わせ柔軟に形を変え、寄り添ってくる。温かく心地よい感触だ。薫の鼓動がすぐ近くで感じられる。
 頬に手を添え上向かせると唇を割り小さな舌を吸い上げ、絡ませる。苦しげな声が聞こえると離してやり、下手くそな息継ぎが終わらないうちに、また半分開いた唇から舌を差し入れ絡ませる。
「ん、ふ、あぁ……」
 女は口付けが好きだというが、薫の甘い声を聞いているとあながち間違いでもないらしい。縁はとろけた表情に見入った。どんな方法でもいい。温かい体と魂が自分を受け入れるのを諦められない。
 下腹の先に延ばした指先で繊細な帳を開き、熱を持った粘膜に触れる。充分に潤っているが、やはり入り口は狭い。
 自分の疼きは堪えられないほどではないが、できればあまり待ちたくはなかった。頭の隅でそんなことを考えながら、狭い入り口に指を埋めた。
「いやっ――
 閉じようとする膝の間に脚を差し込み、膝を掴んで開かせる。体を起こし薫から離れると、なぜだかひどく寒かった。
 男を受け入れる場所は改めて見ても狭く、指先で開いていても縁を受け入れるにはまだ早いようだった。ふと手が震えているのに気付いた。正確には薫が頬を赤く染め、羞恥のために体を震わせていた。
「やだ、そんなとこ、みないでっ……」
「見ないと何もできないだろう」
「やだ、や……はずかしくて、しんじゃう……」
 こんな程度で死ぬか、と至極真っ当に答えてもよかった。なのに男を悦ばせる手管をひとつも持っていない薫から目が離せない。背中がぞくぞくする。指を動かし、内側から敏感な部分を押し上げると、ぽろぽろと真珠の涙が落ちる。
 縁の指は熱い粘膜に締められて、動かし辛くなるばかりだ。だが簡単に追い返されては事が進まないし、これでは縁を受け入れるどころではなさそうだ。
「ひゃぁっ!?」
 細い腰を持ち上げ自分の方へ寄せると、薫の浮いたつま先が空中を蹴った。
 呼気があたるほど近くで触ると恥丘は驚くほどやわらかく、爪で軽く引っ掻いただけで傷付いてしまいそうだ。やわらかく閉じた繊細な帳を押したり摘んだりしていると、温かさが指先に伝わってくる。きれいだと縁は率直に思った。
 薫だからなのだろうか。与えられた分だけ水蜜で濡れているのに、帳は小さく淑やかに閉じている。
 薫に目を移すと、体をよじって顔を敷布に押しつけている。小さな泣き声が頑なに縁を拒んでいた。その態度が気に入らない。薫が手放そうとしない理性を、めちゃくちゃに壊してやりたくなる。
 小さな帳を押し広げ、狭い入り口に舌を差し入れる。
――やあ、ぁっ、ああっ」
 淫らな音をわざと立ててやると、薫はやっと顔を見せた。おそるおそる視線を上げたのを確かめてから、開いた帳から溢れる蜜を吸い上げる。
――っ!!」
 逃れようと小さな体がもがくので、縁は細い腰をより自分へと近づけると、薄い腹に片脚を回し、身動きできないようにしてやる。下半身が浮き不安定な状態にされた薫は嫌でも縁にされていることを見せつけられた。
「や、いや……こんな、ことっ……」
 縁が舌を動かす度に黒い髪がゆるく跳ね、赤く染まった頬に触れたり離れたりする。口を少し開き荒く息をつく姿がよく見えた。
「面白い味だな。さっきより赤くなってみたいだがお前がやってるのか?」
「しらない、わか、んない……!」
 溢れてくる水蜜を丹念に舐め取る度に脚の下にある薫の体が合わせて動くのがわかる。小さな入り口に指を差し込むと、案外するりと入った。体温より熱く、相変わらず狭いがぬるりとしていているので指が動かしやすい。
 くいと髪を引っ張られ、縁は顔を上げた。薫は片腕で体を支えながら、空いた片手を伸ばしている。器用だなと思いながら、体格がまるで違うせいで手が届かないでいる薫に、意地悪く笑みを浮かべる。
「なんだ、物足りないから催促か?」
「もう、やめてって、いってるの……!」
 薫の生気を持った強い眼差しを受けながら、縁は目を細めた。
 この女が娼婦にもならず、墜ちない理由がわかった気がする。薫はただいるべき場所へ帰ろうとしているのだ。むせかえる性の匂いに満ちたこの部屋ではない。いずれ帰してやると言ったのに、早く東京へ帰るのだと何度も息巻いていたではないか。縁は喉の奥で低く笑った。
「丁度良い、確かめたかったんだ。女の性感帯はここだと言うが本当か?」
 薄皮を剥き桜色の秘芽を摘むと、薫の体を支えていた腕から力が奪われた。また起き上がれないよう脚に力を入れながら、愉快そうに笑う。舌で舐め上げると薫の小さな体がびくびくと震えるのが伝わってくる。
「女は妙な仕組みだな。わざわざ広げてやらないと出てこないほど小さくて」舌の上で弄ぶように転がしてからふっと息をふきかけ「――簡単に噛み千切れそうだ」歯を立てた。
「ッ……――!!」
 飲みきれないほど水蜜が溢れてきて、縁は薫の小さな入り口から顔を離した。物騒なことを言ったが実際に傷付けたりはしていない。自分は、どうやっても薫を傷付けることができない。
 薫の中に入れていた指を荒っぽく舐めてから、元通りに細い腰を置いてやり、手放していた毛布を求めるようにまた肌を合わせる。薫の反応は薄く、仰け反った喉からかすかに呼吸しているのがわかる。構わずに柔らかな頬を引き寄せ、肌を重ねながら、手探りで水の入ったグラスを探す。倒れかけて水がこぼれたが、飲ませる分には足りた。乾いた土が吸い込むように薫は縁が与える水を飲んだ。それでもどこかぽうっとしていて、縁を見ずに天上ばかり見ている。
 すぐ近くにある細い肩に、縁は噛みついた。
「んっ……」
 薫がようやく縁のほうを見た。
 薫に噛みつかれたのと同じ場所に、うっすらと赤い痕が残っている。さほど強く噛んだわけでもないのに、薄明かりの照らされた白い肌に付いた痕ははっきりとわかった。
 自分と薫の体の同じところに、噛まれた傷口と縁がつけた痕がある。数日も経てば消える痕を、縁はゆっくりと指の腹で撫でた。くすぐったそうに薫が肩をすくませる。
 しばらくそうしながら、今までの行為を思い返し、縁は口を開いた。
「お前、痛くされるのが好みなのか?」
 薫は潤んだ瞳のまま縁を見返し、少しだけ首を傾げた。黒い髪がさらりと縁の肩に触れた。
「……違うならいい。いや、違ってくれないと俺も困る」
 心底困惑した口調で縁は呟くと、そろそろ耐えきれなくなった自身を外に出し、薫のやわらかい太股に擦りつける。
「ん……なんか、へん……なに……?」
「よりにもよって何か呼ばわりか」
 見えるように腰をずらし、薫の手を取ると先端に触らせる。不思議そうに視線を落とした薫は縁の手が邪魔をしてわからないらしく、固く滾った熱塊を細い指をまさぐるように動かした。
 縁は意地悪く笑い手を離してやる。薫が短い悲鳴を上げた。
 開いた唇に口付け、言葉を呑み込んでやる。いやだとかやめろだのは聞き飽きた。やわらかい下唇を食み、舌の表面同士を合わせながら、薫の小さい入り口に自身を押しつける。片膝を持ち上げると擦れ合う面積が増えて心地良い。
――お前も、お前のものも、全部燃やしてやる」
 よくほぐしたはずだが、入り口から先は抵抗が大きかった。
「んっ……!」
 破瓜の痛みに反射的に逃れようとする薫の体をゆっくりと引き戻し、温かい内蔵の奥へ沈ませた。きつくやんわりと縁の陰茎を包む快楽が背骨から骨を伝って全身に広がる。
「や、いたっ、あぁっ――
――はぁッ……」
 自分の形に道を造りながら最奥へ辿り着くと、縁は溜めていた息を吐きながら、組み敷いている薫を見下ろした。
 きつく目を瞑り、顔を背けている。なのに顔にかかった黒髪を直してやると、縁に視線を向けてくれる。その瞳には明らかな恐れの色が浮かんでいる。
 日毎に僅かながら接しているうちに、わかったことだった。縁が向けた狂気と凶刃の意味を薫は寸分違わず理解し、その上で縁に手を差し伸べてしまう、矛盾した性質を小さな体に内包していた。
 だから欲しい。体の内側が焼け焦げるほどに欲しくてたまらない。生身の女でいい、ただ傍にいてくれるだけでいい。
 薫は、毒を、抑えてくれるから。
 こうして抱いてみると、考えが変わった。薬のせいで女が欲しくなったのだと思っていたのに、薫の小さな体と素肌を合わせていると、ひどく温かいのだ。理由も理屈もなく体を寄せていたくなる。
 この小さな体のぬくもりが、どうやれば自分のものになるのか、縁はずっと考えていた。
 薫の中に入ったまま汗ばんだ肌同士を合わせると、びくりと薫が震えた。
「う……いっ……う、ごかないで……」
 喉を鳴らして縁は笑った。
「無理だな。言っただろ、男は途中で止められるように出来ていないんだ」
「だ、って……おなか、やぶけてない……?」
 そうだとしたら、とんでもない大怪我だ。今頃自分は恐慌に陥っている。
 包むように抱きしめると、今度は文句が飛んできた。
「……おもたい……」
 自分の固い皮膚と薫のやわらかい肌が触れあうと、やはり心地良い。温かく、収まるべきところに収まったような錯覚に陥る。――薫も同じだろうか。
「痛みなどすぐなくなる」
 抱き寄せたまま体を動かすと、薫は体を固くし痛みに耐えていた。小さな頭を左手で支えてやりながら耳や首の薄い皮膚に口付けを落としてやる。縁が最奥を突くと少しだけ薄い腹を盛り上がるのがわかった。縁を受け入れるのに薫の体は小さい。胎内が男を受け入れられるまで馴染むのを薬で飛ばしているから、痛々しさすらあった。
「っぁ、あぁ――
 甘い声が聞こえる。縁の形を覚えたのか、狭さはさほど変わらないが、薫の中は縁を受け入れ始めた。
 やわらかな胸が縁の動きに合わせて形を変え、頂がこそばゆい感触を伝えてくる。
 奥に触れるといちばん反応が良く、その度に体の横に置いた薫の手が敷布を強く握りしめる。薫を見つめたまま細い腕を辿り小さな手の在処を見つけると、指先を敷布と手の間に潜りこませ指を絡ませる。一回り大きい骨張った手に、細く白い指が縋り始めた。こんなにもか細いのに温かい。
「や、だめ、こわいっ……」
「……なにが、だ?」
 荒く息を吐きながら尋ねると、返事の代わりに薫の小さな手が縁の腕に触れた。稚拙だが確かに縁を求める仕草だった。すぐに小さな手を取ると、薫も縁の手を握り返した。男が女の体を貪る情事の中で、手を握り合うなど児戯に等しい。なのに縁が薫に向ける熱は一層高まるばかりだ。僅かにしろ、薫が自分を求めたことが血を熱くする。
「口を、開けろ」
 突かれる度に呼吸が上手く出来ないでいる薫が、縁の目を見た。潤んだ瞳が閉じられ、涙が押し出される。長いまばたきをしてから、薫は言われた通りに唇を開いた。遅いと叱るように小さな舌先を噛んでから、舌を絡ませる。体と舌を絡め合わると背骨と頭の後ろから痺れるような快感をもたらした。情事にどこか作業的な印象を抱いていた縁にも、初めて男と肌を合わせている薫にも同質の熱量を与える。
「ん、んー!!」
 慣れていない薫の体が、一度だけ跳ねた。ほとんど喰らうように触れている小さな体に、縁も新しい熱を押し込んだ。
 薫がまた体を震わせるのを感じながら、縁は壊しそうなほど強く握っていた手を離し、顎を上げさせる。腔内に混ざり溜まった唾液を細い喉に飲み込ませてから、ようやく唇を離した。
「はぁっ、はっ、はあっ……」
 新鮮な空気を求めた薫がけほけほと咳き込む。息を吸おうとして逆に詰まらせたらしい。縁は深く息を吸うと、唇を合わせゆっくりと息を吹き込んでやった。薫の呼吸が落ち着くのを、今度は肌を合わせたまま待つ。
 雨の勢いが弱まったのか、雨粒が地面を叩く音はどこか遠くで聞こえるようだった。
 長い髪は敷布の上に散らばり、白い肌は火照ってうっすらと血の色に覆われている。先に薫の体に張り付いた髪を直してやり、それから自分の腕や肩に寄り添っている髪を引っ張ってしまわないように離す。
 縁にしては慎重なその様子が珍しいらしく、薫が目で追いかけている。
「纏わり付いて邪魔なだけだ」
「……紐、見つからなくって……」
 結ばなくていい。化粧や香油なども必要ない。首元に唇を寄せればふわりと甘い肌の匂いが届く。
 薫の中から一旦離れると、白く濁った中に赤い色が混じったものが敷布に落ちた。薫の純潔を自分が奪った証。ひとまずはこれだけでいい。縁が直接刻んだものを薫はけして忘れられないし、忘れさせるつもりもない。
 西洋浴衣はほとんどはだけ、均整の取れた美しい裸体が晒される。恥ずかしそうに胸元を腕で隠し、膝を固く合わせる薫を、縁は眺めていた。若木のような少女の躯は無残に刈り取られた後だというのに、折られた枝から真新しい生気が漂っているようだった。簡単に見逃してしまう程度のかすかな変化が、縁の血を騒がせる。
 壁に背をつけ座り直した縁はぐったりと横たわった薫に手を伸ばした。
「んっ……」
 抱き寄せるのは簡単だった。また腕の中に収まった薫は抵抗もせず、くたりと縁にもたれかかった。
 わかっていたが、細い首に手の甲を当てると肌が熱い。制御できる縁と違い、薫は娼婦でもないただの少女だった。あれほど強烈な薬は耐え難いだろう。眠ることもできない薫に縁がしてやれることは少ない。
 顔を上げさせると、疲れが滲んだ瞳が縁を見返した。肩にかかった髪を耳にかけてやり、背中に流す。熱っぽい頬から細い首へと静かに手をすべらた。片手で余るほど首は細く柔らかい。気絶するまで締め上げるのもさほど力をかけなくてもよさそうだ。なのに、力が入らない。殺すわけじゃない。毒が沸いても構わない。薫の細い首にかけた手は、縁がいくら力を込めようとしても、労る程度に撫でるくらいだ。縁は驚かなかった。この唯の娘がどうしても欲しいのだと、余計に自覚するだけだった。肩の力を抜いて笑った縁に、薫がまばたきを繰り返した。
「わらった」
「ん?」
「あなたが、わらったの。みたのは……二回目」
「どういうことだ?」
「いじわるじゃなくて、いやみもなくて……」
 縁を見つめる瞳に明るい色が灯る。大きな瞳をまっすぐ縁に向け、薫は小さな声で続けた。
「ふつうに、わらったの」
 ほろりと微笑んだ薫の小さな頭を、とっさに自分の肩に押しつけた。そうしなければ存在が大きくなりすぎてしまう気がしたのだ。薫を受け入れることは出来ない。姉が見えなくなってしまう。自分にとって一番大切なのはたった一人の姉だけだ。失うのが恐ろしい。だから、薫はただ傍にいればいい、自分を温めるだけの役割を果たすだけでいい。
「どうでもいい、虫酸が走る」
「……ごめんなさい」
 普段なら言い返してくるのに、ただ謝るだけの反応に苛立った。人形より悪い。
「待ってろ、今眠らせてやる」
 細い腰を掴んで浮かせ、拓かれたばかりの入り口に己をあてがう。手の力を緩めると、薫の体がゆっくりと、自然に縁を受け入れた。
「は、あっ……」
「さっきより滑りがイイな。見てみろ、もう奥まで入ってる」
 薄くやわらかい下腹を撫でていると、薫が下を向いた。男と女が深く繋がった光景は刺激が強かったのだろう。
「や、やだっ……」
 耳まで赤くしながら顔を背けてしまう。腰から細いくびれ、脇腹へとゆっくり手をすべらせていくと、薫の中がいちいち反応して締め付けてくる。わざと快楽を誘っているとしか思えない。縁は体を引き、薫の軽い体を持ち上げ再び奥を突いてやる。ぐちゅりと小さな胎内で精液がかき混ぜられる音が響いた。
「誘って、るのか? ハハッ、まだ足りないらしいなっ」
「ちが、ちがう……」
 薫の中から抜けるとき、表情が切ないものに変わる。唇を結び、内蔵を引き摺られるのがたまらないらしい。逆に突くときは小さな体を震わせ、慣れない感覚に戸惑っているようだった。
 そういう表情の変化を縁はつぶさに見ていた。少し前まで喚くだけだったのに、薫を女の顔にしているのが自分だと思うと骨を焼くほどの熱が込み上げてくる。やわらかい肌を掴む手に力が入った。
「……や……お、おと、が……」
「音が、どうした? もっと聞かせてやろうか」
 水蜜と精液が混ざり合う淫らな音が部屋の中に響いているのはわかっている。遠くなった雨音では消しきれない淫靡で情欲を煽る音をわざと立てているのだ。縁を見上げた薫の懇願するような瞳に血が昂ぶる。緩く動きながら薫が繰り返す浅い呼吸を聞いていた。
「なあ、ねだってみろよ、そうしたら楽にしてやる」
「いや……そんなこ、と……」
「強情だな」
 薫が落ちかけそうになるとわざと奥から抜き、脊髄を登りかけた快楽を取り上げているのだ。やわらかな胸に指を埋めながら、触れて欲しいだろう頂に近づくと、薫の鼓動が強くなるのが直接感じられ、縁の征服欲を満たした。固くなった頂を親指で押し込むと苦しそうにし、涙を流す。
 女を溺れさせるの容易い。だが薫は簡単に墜ちないとわかった。なら時間をかければいい。
 これからは、欠伸が出るほど時間が余る。
「も、やめ……おねがい、やめ……て――
 焦らしすぎたせいか、細い腕が縁の首にしがみついてきた。裸の胸同士がひたりと寄り添う。ああ、温かい。
 慣れた女なら男を誘う言葉の一つや二つ知っている。けれど薫はなにひとつ知らない。子供のように縋り付く以外に思いつかないのだ。胸に満ちる熱い感情ごと、縁は薫の唇を貪った。小さな熱い舌を掴まえ、絡ませ合いながら上顎をなぞる。びくりと薫の体が震え、縁に縋っていた腕から力が抜けていく。
 両腕を掴まえて支えてやると、濡れた唇ととろけた瞳が目に入った。形の良い頬に涙が筋を作っていく。
「お前はほんとうによく泣くな。気持ちいいのか、俺に犯されているのが悔しいのか、どっちだ?」
「ちが、う、どっち、も、ちがう、から……」
 体をかがめて桜色の頂を口に含み、軽く噛んだり舌先で押したりすると、薫は声を出さずに泣いた。
 辛いのか感じているのか判断がつかない。やはりまだ薫が墜ちていないからなのだろう。
 ようやく縁は薫が欲しがるものを与えてやった。既に縁が汚した最奥を強めに押し、少し引いてからまた押してやる。
「はぁ、あぁっ!」
 ねっとりと絡まっていた薫の中が、きつく縁を締め付け、絞られるように熱を吐き出させられた。
 細い首が後ろに反り、支えていた腕が少しだけ重くなる。ゆっくりと背中を引き寄せ自分にもたせかけても、小さな体が物のようにくたりともたれかかるだけだ。
 静かに息をついてから、縁は薫の体を横たえてやった。自身を抜いたとき、溢れた白濁した液が糸を引く。
 惜しいような、落ち着いたような、複雑な気分だった。薫の西洋浴衣を直してやろうと手を伸ばしたが、やめた。広がった黒い髪と乱れた服を明るくなってから見たくなったからだ。
 泣きすぎて腫れたまぶたに口付けを落とし、床側に片腕を枕にして縁も横になる。寝顔はごく静かなものだった。気絶させたのだから当然なのだが、あまり可愛い寝顔とは言い難い。
 薫の安らかな寝顔を見たいと縁は苦しいほどに思った。毒のせいで浅い眠りしか得られなくなった日々も、薫がいればきっと終わる。
 小さな手を探り当てると、起こしてしまわないよう、そっとくるむように握った。
 目を瞑れば変わらず無表情な姉がこちらを見ている。
 薫の小さな手が伝えてくる温かさだけが縁に寄り添っていた。



 夜明けの薄い光に促され、縁はすぐに浅い眠りから覚めた。
 雨音はもう聞こえない。代わりに濃い霧を残したらしく、窓から差し込む日は白かった。
 握っていた手を離し、音を立てないよう寝台の端に座りながら、白く照らされた華奢な体を眺める。
 酷い有様だった。乱れた服装もそのままで、薄い腹とは対照にふっくらと盛り上がった胸が僅かに上下している。細い肩に噛みついた痕が思ったより赤く鬱血し、数日では消えないかもしれない。
 抵抗したときにぶつけたのか、白い肌にいくつか痣が浮き上がっている。艶やかな髪はところどころ絡んでいた。良い櫛を用意してやろう。下腹部はまだ濡れていて、純潔を散らされた色が浮かぶように見える。
 笑い声を立てそうになって、縁は慌てて口元を押さえた。薫を起こしてしまう。
 くしゃくしゃになった上掛けをかけてやってから、乾いた頬にそっと口付ける。塩辛かった。
 音を立てずに立ち上がり、脱ぎ捨てた上衣と壁に立て掛けてあった刀を手に取ると部屋を出た。倭刀に比べると刀は軽く感じられる。薫の手で振るうのはやはり似合わない気がした。
 水で顔を洗い、濡らした手拭いでざっと体を拭く。薫にも湯と着替えを用意してやらなければとぼんやり考えていると、ちくりと刺すような痛みが走った。薫に噛まれた痕のかさぶたが剥がれていた。小さな噛み痕から新しい血が盛り上がる。指でなまあたたかい血を取ると無造作に舌で舐め取る。この傷も、しばらく消えなければいいが。
 上衣を着ると外へ出た。
 雨が残していった濃い霧が一面に広がっている。足下ほど霧は濃く、目の高さになると薄れていた。風は無く、水気を含んだ空気はうずくまるようにじっとしていた。
 初老の小男と小柄な青年の影がまた時間通りに現れた。小柄な青年は刀袋を持っていない。日本刀はいくつか用意があったが、逆刃刀と同じ寸尺なのはこの一振りだけだからだ。
 初老の男がおべっかを言う前に縁は刀を抜き振り上げていた。薄く削がれた左手の肉が霧に覆われた地面にぽとりと落ちた。初老の男は縁の激しい怒りを感じ取り、骨が露出した傷を押さえ、深く頭を垂れた。
「俺が命じる以外に二度とあの女に余計なものを与えるな」
「申し訳ありません」
 冷たく言い放ってから、背の低い青年に向けて二度刀を振るう。左頬が割れ、歪んだ十字の傷が出来た。青年は驚きもせず、縁のすることを黙って見ていた。刀を納め、青年へと放り投げる。
『警察に潜りこんでいる男から報告はあったか』
『黒星が受けた連絡では四日後に日本の警察の船が二隻、この島へ到着します』
『その男も船に乗るよう伝えろ。乗るのは左頬に十字傷を持つ男が乗っていない船だ。海上で機関室を壊せ』
『はい。他に御用は』
『トウキョウへ行き、四日後に女の戸籍、死亡記録、家屋敷、関わりのある者を全て殺し灰にしろ』
 縁は小男へ視線を移した。
『詳しくはそいつが知っている。必ず終わらせ次の連絡船で戻れ。それから――
 口元が勝手に歪む。
『一、二体は刀傷の残った死体を残せ。まともな目撃者も一人。見られるときは赤い髪と……まあいい。どうせ用意してあるんだろう?』
 壊れた絡繰りのようにこくこくと首を振る小男に、縁はつまらなそうに息をついた。
『その辺に落ちた汚い肉と血を片付けるのを忘れるなよ』
 背を向けかけた縁は、ふと思い付き背の低い青年に言いつけた。
『適当な冷えた果物か飲み物を』
『はい。西瓜とレモネヰドをお持ちいたします』
 背の低い青年はしゃがむと頬から滴り落ちた血を土ごと掬い、地面をならしてから足早に戻っていった。小男は這いつくばり肉片を探している。

 後ろを見ずに縁は屋敷へと戻った。これで全て滞りなく済む。四日。あと四日。
 縁にもやることがあるから、薫の傍にずっといられるわけではない。やっておくべき後始末を順序立てて組みながら、新しい着替えを片腕に挟み、浴室で桶に湯を溜めた。自分のしていることに奇妙な違和感があったが、考えてみれば単純なことだった。薫のためにあれこれと用意しているのは初めてだ。抱いた後に甲斐甲斐しく動くのはそれほど悪い気分ではなかった。
 薫の部屋に戻ると、早々に目が合った。
 寝台の横にぺたりと座り込んだ薫は、縁が戻ってきたのに驚いたらしく、目を丸くしている。西洋浴衣はきちんと前を閉じ、整っている。
「あ……お、おはよう……」
 何を言っているんだと縁が眉をひそめると、薫も気まずそうな表情になる。立ち上がろうと寝台を支えにしようとするが、足はまっすぐにならず、すぐ床に膝をついてしまう。
「……立てないのか」
「ち、違うの、ちょっと足がしびれただけ。私、寝相が悪いから」
 慌てて言い繕いながらなおも立とうとする薫に縁は苦笑した。
 湯桶などを床に置き、近寄ると、怯えた目が縁に向けられた。構わず軽い体を抱き上げると寝台に腰掛けさせる。
「お前、西瓜は食べられるか」
「え、す、すいか?」
 疑問符だらけの表情がおかしくて、縁はつい笑ってしまった。自分の訊き方が悪いのはわかっているが、怯えたり不思議そうにしたりとくるくる変わる表情がおかしくてたまらない。
「なんで笑うのよっ。ええ、西瓜は大好きよ。それがどうしたの?」
「ならレモネヰドは」
「れも……なに? 食べ物のこと?」
「知らないならいい。楽しみにしていろ」
 着替えと多めに持ってきた手拭いを渡し、たっぷりと汲んだ湯桶を足元へ寄せると、薫は渡された物と縁を見比べた。
「え、と……これ……」
「間に合わせだが無いよりマシだろう。風呂に入りたいだろうが……」
 珍しく言い淀んだ縁は、薫のまっすぐな視線に耐えられずふいと顔を背けた。
――とにかく、今はこれで我慢しろ」
 そのまま部屋から出て行く。さすがに立てなくなるほど抱いた後でまた求めるほど図々しくなれない。なぜか薫にだけはそう思うのだ。
 額を押さえ溜息をつく。自分が墜ちてどうする。あの女を堕とさなくてはいけないというのに。
 と、背の低い青年が切り分けられた西瓜とオレンジ、レモネヰドを二本乗せた食膳を用意し玄関から入ってきた。
 自分はよほど険しい表情をしていたのだろう。背の低い青年が驚いたように立ち止まった。
『邪魔をいたしましたか?』
『構わん』
 霜のついた瓶と二人で食べるには少し多いほどの果物を食膳に乗せている。テラスに準備するよう命じるとやはりどこかうれしそうに請け負った。
 あの調子だとそのうち薫の衣装をどうするかだとか尋ねてきそうだ。
 薫のいる部屋の扉に背を預けていると、二階でがたがたと音が響いた。すぐにその音はすぐに止んだ。満足そうに階段を下りてきた青年は、縁が番犬さながらに立っているのに、それとなく察したらしい。
『他にご用意するものは――
『無い』
 縁が素っ気なく言うと、黙って頭を下げた。青年が出て行くと、薫のいる部屋の物音も落ち着いた。
 部屋に入ると、新しい西洋浴衣に着替え寝台に腰掛けていた薫が顔を上げた。髪を結う紐は用意しなかったから、そのまま長い髪を下ろしている。体を拭いた手拭いはきちんとまとめてあった。
「あの、ありがとう。おかげで少しさっぱりしたわ」
「……そうか」
 薬を飲んだからとはいえ、散々抱かれた後に言うことだろうか。呑気にしても度が過ぎる。
 試しに縁が薫の隣に腰掛けると、やはり怯えたように体を固くした。つくづく矛盾した娘だった。
「……ねえ」
 顔を向けると、薫は縁が反応したのに驚いたようだった。
「あ、えっと、ただの一人言だから。たまたまここにあった喋る木偶人形だと思って」
 もう薬が抜けたのだろうか。顔色は元に戻り、縁に向ける瞳は落ち着いている。縁がつけた痕も西洋浴衣を直したから見えない。
「私ね、雨の日はふっと心細くなるときがあるの。……お父さんが戦死したって報せを受け取った時も雨が降ってたからかな。遺品もなかった。ただ紙を一枚渡されて、それで、おしまい」
 なるほど、万民平等のお題目が飾りでしかなかったのをこの娘は思い知らされたのだろう。
「でも一人でいる時間は少なかった。門下生の人は、離れていってしまったけど、状況を考えれば仕方なかったもの。近所の人もいろいろお喋りに来てくれたしね。それからあの人と出会えて、また賑やかになったから、ずっと忘れちゃってた」
 じっと耳を傾けている縁に、薫は寂しく微笑んだ。
「ねえ、ほんとに大したことじゃないの。だから聞いてくれなくてもいいのよ?」
「いいから話せ」
「だって、お喋りは嫌いなんでしょ」
「お前の話なら聞いてもいい」
「……なにそれ、ずるい」
 我慢していたのだろう。薫は溢れる涙を隠すように顔を覆った。
「いきなり、そんなふうに、言わないでよ……そんなのずるい、ずるい……」
 泣き出した薫を目にした途端、小さな体を抱き寄せていた。手の甲を細い首元に当てるとまだ熱を持っていた。裸ではないからあまり羞恥がないのか、縁の肩に熱い頬を寄せ、薫が呟いた。
「……あったかい、ずるい」
「話を飛ばすな、どっちが話の核だ」
 すんと鼻を鳴らしながら薫が小さな体を縁に寄せてくる。押し倒したくなるような仕草は勘弁してほしい。
「両方かなぁ。お湯ってね、体温と同じに沸かしてもぬるく感じるんだって。なのに、こうして人とくっついてるとあったかいの」
「……そうだな」
「えっと、そう、だからね。雨の日はどうしようもなく心細くなるときがあって……誰かに、家族みたいに、そばにいてほしくて……」
 薫がそっと縁を見上げた。
「昨日も、きっとそうだったんだと思う。私、感傷的になってたんだわ。それにあなたを巻き込んで――
 薫が言い終わる前に抱き上げる。軽い。この小さな体のどこに毒を抑える力を秘めているのだろう。
「ちょっと、今度はなんなのよっ」
 廊下に出て階段を昇りながら、縁は低く呟いた。
「腹が空いているから訳のわからないことを言い出すんだ」
 テラスに出て、乾いた椅子に薫を座らせる。用意された果物に薫が目を見張った。取り皿とグラスまで用意してある。
「あなたが準備してくれたの?」
「いや、違う」
「……昨日の人達?」
「お前がガキと勘違いした奴だけだ。だから食べろ」
「食べろ、っていきなり言われても……」
 困ったように視線を彷徨わせた薫は、顔にかかるまぶしさに眼を細めた。
 霧が晴れ、雨が洗い流した夜明けの空が広がっている。水平線に沿って広がる美しい朝焼けに薫は目を奪われていた。
 縁も隣の椅子に腰掛けた。薫が昇る日に目を奪われているのを、じっと見つめる。大きな瞳が光を返し輝いている。そこに涙はなかった。
 ほんの少し手を伸ばせば届く距離だ。だが薫の話を聞いて、縁は怒りで頭がどうにかなりそうだった。
 縁がずっと薫を手に入れる方法を考えている間、薫は閨での行為にごく合理的な解釈をつけ己を納得させたのだ。あんな理由で納得などさせない。させてたまるか。
「四日後だ」
「え、なに? ごめんなさい。あんまりきれいで見とれちゃってた」
「さっさと食べろと言ったんだ。温くなるぞ」
「それじゃあ……遠慮なく。いただきます」
 きちんと手を合わせてから西瓜に伸ばす様子が新鮮だった。そういえば薫がものを食べているところを見たことがない。
「わ、甘い、冷たい」
 縁へ視線を向け、薫はまた笑顔になった。
「冷たくてすごくおいしい。ねえ、あなたも食べてみて」
「わかったわかった」
 西瓜ごときでこれほど喜ぶなら、オレンジを食べたら、レモネヰドを飲んだらどんな反応をするだろう。縁は少しだけ気が晴れた。
 四日。あと四日。抜刀斎を殺し、下屋敷にいる不必要な部下を始末し、次の連絡船で大陸へ戻ろう。黒星の後釜はあの爺にくれてやればいい。
(俺以外、誰の手も届かない場所へ――
 薫の帰る場所を灰にし、自分だけが拠り所となるのだ。どれほど長い時間をかけてもいい。どれだけ泣かれても構わない。狂うことで逃げることも許さない。薫は薫のまま永遠に傍にいさせる。
 その為の歯車は、既に動かしたのだ。