目覚めた縁は、すぐ近くにあった白い額に、驚いた。
 日は既に高く、開け放したままの窓から暑さを含んだ強い日差しが部屋の中に入り込んでいる。蒸された空気のせいで、薫のやわらかい肌と触れあっているところが、汗ばんでいた。気が済むまで抱いた体を抱きながら眠りについたところまでは覚えている。そのまま薫がいたことに、縁は驚いていた。
 穏やかな寝顔だった。
 深く眠っている寝顔は、実際の年齢より幼い印象だった。やわらかな唇はそっと閉じられ、細い肩がゆっくりと上下しているのが手と腕から伝わってくる。あれほど泣いたからだろう、赤みを残している目元以外、薫が受けた暴行を物語るものはなかった。
 しばらく待っても、自分にもたれて薫は眠ったままだった。ゆっくりと腕から力を抜くと、縁の隣にころりと転がる。やわらかい肌の上に残る痕が、はっきりと見えた。苦い夢を打ち消すために抱いた、疲れ切って眠る娘がそこにいた。
 縁は思わず額を押さえた。確かに昨夜は獣が交わるように抱いたことを覚えている。懇願も一切聞かなかった。
(こいつ、本当に女か……?)
 とっくに逃げ出していると思っていた。
 薫が逃げこめる場所は確かに小さな屋敷にはなかった。が、二度と言葉を交わすことはないと、確信があった。頼んでもいない不味い食事を用意されることも、余計な世話を焼かれることもない。昨夜、ずっと物言いたげに自分を見上げていた大きな瞳を、縁は無視し続けた。すべては夢のせいだった。
 ――この女と最初に……
 もしも、や、万が一、という言葉が、縁は反吐が出るほど嫌いだった。考えるだけ無駄であり、一時の現実逃避をしたところで何一つ変わるものはない。過去と現在は一本の川のように定まり、後戻りなど出来ない。掌からこぼれた水は、二度と縁の元へ還ってこない。
 だが安らかな寝息を立てながら、薫はここにいた。疲れ切って深く眠っている。警戒心というものが丸々抜け落ちているのだろう。奪った側だという自覚はある。あるが、あまりの無防備さになぜか腹が立つ。腹を立てている自分にも腹が立つ。とうに捨てたはずの単純な怒りの感情が、忌々しくてならなかった。
 寝台を軋ませながら立ち上がると、電信機に簡単な指示を打った。これでしばらくすれば部下が寄越される。
 寝台に腰掛けると、不機嫌を隠さずに薫を眺める。長い黒髪は乱れ絡まり、かすかに性の匂いが残っている。要するに酷い有様だった。縁が薫をただの女として抱いた証が、逃げもせず、隠れもせず、ここにいる。
 姉以外の存在は全く不要だった。なのにこの喧しい女は、夢にも夜にも現れた。感情をそのまま現す瞳は閉じられ、何を考えているかは縁にはわからない。話がどうだとか言っていた気がするが、結局は己の熱くなった血を鎮めるのに使っただけだ。よりにもよって、この女が自分の夢に現れたから――
 ふと縁は顔を上げた。足音をさせずに近づいてきた気配は、扉を叩くことはせず、部屋に入ってきた。
 男にしては小柄な部下が、頭を下げる前に軽く目を見開いたのを縁は見逃さなかった。割合長く使っている部下だが、縁が夜明けまで女を傍に置かないことを知っているからだ。いくつか用事を言いつけると、部下は短く返事をしながら、薫へ僅かに訝しむような視線を向けたのがわかった。
 やはりこの状況は自分にしては珍しいらしい。
 扉が閉められたのを確かめてから、長く長く息を吐いた。起こさないように気遣いなどしなかった。なのにこの女は相変わらず眠ったままだ。とことん寝穢い。普通は起きるだろう。そして泣き出すものじゃないのか。
 ようやく縁は気が付いた。自分は相当に混乱している。狼狽が表に出なかったのは、長年身を置いた環境があったからだが、それが余計に気付くのを遅らせた。ヘマをし、後も先も考えられない子供でもあるまい。にわかに火照った体のまま勢いよく立ち上がる。寝台が揺れ、薫の体も僅かに動くが、やはりまだ目覚めない。縁の動揺など何一つ知らないで、至極呑気に眠っている。また息をついてから、縁は明るい日に晒されている体に手を伸ばした。



 温かいものに包まれている心地よい感覚が、薫をまだ夢の中にいるように錯覚させる。髪が宙に浮かんでいるように見えたのもある。はれぼったい目蓋をこすろうとすると、腕まで重たい。やっぱりまだ夢を見ているのだろうか。
「――やっと起きたか」
 すぐ後ろから聞こえた声に、薫は反射的に逃げだそうとした。だが体に巻き付いた太い腕のせいで思うように身動きが取れない。それでも罠にかかった小動物のように暴れながら、薫は逃げようとした。
「暴れるな、今更なにもしない」
 ようやく耳に音が届きはじめる。ばしゃりと湯が跳ねて、広い湯船から盛大にこぼれる音が室内に響いた。低い声で同じ台詞が繰り返された。
「なにも、しない」
 うそだ。よくよく見れば自分は裸だし、一回り以上大きな体の中に収まり、なぜか湯の中にいる。もう既に色々されているじゃないか。また頭突きをしてやろうかと、ぐっと肩に力を入れる。
「……」
 けれど暴れてでも逃げだしたいという気持ちを鎮めたのも、縁だった。声に悔恨のような響きがあるのを、薫はちゃんと聞き分けたからだ。もちろんこの男が昨夜の出来事を悔いるような性分ではないのは、よくわかっている。
(復讐にはならない)
 自分はあくまで手段であり、その効力は既に失われている。だから、なんの意味も持たない。
「……ふっ、う……」
 声がかすれる。目の奥から押し出される涙を止めることができない。どうして泣けるのだろう。なんの意味もないと、ちゃんとわかっている。よくわかっている。
 湯の上にぽたぽたと水滴が落ちる。それが情けなくて、余計に目の前がにじんでくる。薫は強く歯を食いしばりながら、泣き声を抑えようと両手で口元を覆った。手首がひりりと痛んだと同時に、大きな手が触れるのが見えた。湯で温もった大きな手が、傷を確かめるようにぎこちなく触れてくる。
(どうして、そんな、こと)
 身じろいで離れようとすると、縁はなぜか腕に力を入れてくる。逃げるなと言わんばかりの仕草がにくらしかった。
 ――そんな風にさわらないで
 悪い夢だったらよかった。なにもかもが悪い夢で、全部うそだったらいいのに。なのに縁はぴたりと体を寄せてきて、また薫が泣くのを黙って待っている。
「えっ、えっ」
 泣き声がばらばらに反射して聞こえてくる。縁に抱かれたまま、薫は泣き出した。考えるより前に涙があふれてしまう。結局は自分が納得したいが為に、縁まで巻き込んだだけだ。こうやって泣く資格などないのに、泣き声を全部聞かせている。
(勝手すぎる)
 自分がこれほど利己的だと思わなかった。なのに涙は止まらず、薫は泣き続けた。みっともなく泣いているのがうるさくて耳を塞ぎたいほどなのに、縁は薫が泣くのに任せている。我慢などできなかった。薫はこぼれる涙を抑えず、縁の手に爪を食い込ませた。自分のせいなのに、縁を責めて、泣き続けた。二度と人に涙を見せないと決めたのに、泣き喚いた。自分はなんにも悪くないのにと言わんばかりに泣き続けた。
 どれだけ泣いただろう。湯がぬるくなってきたのがわかるくらいまで泣いたら、自然と涙は引き始めた。
 こんな風に泣いたのは二度目だ。きっとひどい顔だろうと思ったが、うつむけば泣きはらした顔がそこにある。昨夜はこんな顔を縁に見られたのかと思うと、いろんな意味で恥ずかしくなる。目の前に手拭いを差し出され、薫はびっくりして何度かまばたきを繰り返した。
「使わないのか」
「いる、ちょうだい」
 乾いた手拭いを受け取り、濡れた頬にあてる。わざわざ渡してくれたのに、礼を言うのも忘れていた。涙を拭い、ふうっと息をつくと、ようやく落ち着いた気がする。湿った手拭いを口にくわえ、湯船の外で髪を絞る。手早くまとめて手拭いの中に髪をしまうと、背中にあった心地悪さがようやくなくなった。
「器用だな」
「べつに、普通だと思うけど」
 まだ喉が塩辛いが、割と普通に答えられた。よく考えれば真後ろにいるのだから、顔を直接見られたわけじゃない。裸であることも、もうどうでもよくなってきた。こんな状況なのだから、今更だという気がした。
「ごめんなさい、うるさかったでしょう」
「そうだな、頭と耳が痛い」
「我慢しなくてよかったのに。なんにも、あなたのせいじゃないんだから」
「……」
「そう、あなたのせいじゃないの。夜中に男の人の部屋にいくなんて、ばかをやったわ。どうして自分は大丈夫なんて思ったのかな。興味なんてこれっぽっちもないと思い込んでたの」
「……」
「わかってるわ、単なる気まぐれだったって。だいじょうぶよ、ちゃんとわかってる」
 ぞくりと体に奇妙な感覚が広がる。昨夜のことを思い出すと、なぜか体が妙な反応をするのだ。違う、もっとちゃんと雪代縁にわからせなければいけない。自分にもはや使い途などないのだと。
「でも復讐にはならない。何度あんなことがあっても、意味なんか……」
 寒くもないのに体が震え出す。自分の体なのに、全く抵抗できなくなったことを思い出したのだ。
「どうした」
 問いかける声に、かすかに案ずるような気配があるのは、きっと気のせいだ。
「だから私は――何をされたって平気だわ」
「は?」
「だって、その、男の人って、ときどき吐き出さないと辛いんでしょう? それだけのことよ、ただそれだけ……」
 こうして肌が触れあっているのが怖い。間近で感じた熱い吐息や思いがけず温かかった唇を嫌でも思い出してしまう。
 気持ちと体を別の場所に放ってしまったように、頭が働かない。これでは誘っているようだと嫌悪感がわくのに、寄り添いぴったりとくっついた肌を意識している。
 雪代縁が溜息をついた。
「お前も同じか」
 聞き返そうとしても、声が勝手にうわずる。
「お、おなじって?」
「盛りのついた犬と一緒にするな。穴があればいいわけじゃない」
「ねえ、おなじってどういう」
「抜刀斎を殺したら、お前は俺を討つか」
 息が止まりそうになった。この人は、何を言おうとしているのだろう。
「お前ならいい」
 耳のすぐ近くで囁かれ指先から冷えていく。初めて聞く、雪代縁の優しい声に、薫はますます混乱した。
「そん、な、できる、わけ――」
「出来る。逃げるな、考えろ。あいつの首を刎ねた瞬間からお前には権利がある。だからくれてやる。心臓を突き刺せばいい」
 首の後ろに雪代縁が唇を押しつけたのがわかった。体が硬くなる。
「なにもしないと言っただろう。お前が嫌がるならもうしない」
 では嫌がらなければどうなるのだろう。聞き返すのが怖くて、薫は口をつぐむしかなかった。それに答えるように、あっさりと縁は言い足した。
「抵抗しないならまた抱く」
 抵抗など出来はしないと、何かが遠い場所で言うのを薫は聞いた。
 雪代縁の息づかいや触れてくる大きな手の感触を、薫の体は嫌になるほどよく覚えている。そこには抗いがたいものがあって、薫を真っ暗な、だが心地よい場所へと連れていこうとするのだ。
「……っ」
 拭ったはずの頬に熱いものが伝う。あわてて手を当てようとする前に、縁の指が代わりに涙を拭い取った。たったそれだけだった。無造作で、特別優しくもない。なのに体の奥底が熱くなる。
 ようやく薫は気付いた。自分の体が、もはや自分のものではなくなりつつある。薫は心から怯えた。
「おねがい、東京へ帰して。今すぐに」
「お前が戻る必要はなくなった」
「どうして? 帰してくれるって言ったのにっ」
「状況が変わった。全てが終わるまでお前はここにいるんだ」
「いや! 帰るわ! もう私は役に立たないってあなたもわかっているでしょう、だから」
「何をされてもいいんじゃなかったのか。どこまでも面倒くさい女だな」
「うっさい、ちゃんと聞け! だって、だってこのままじゃ――」
 雪代縁に体を支配されてしまう。
 嫌だと血混じりに心が叫んでいる。なのに体は雪代縁を受け入れるのを拒めるか、わからない。いったい自分はどうしてしまったのだろう。
「安心しろ、お前以外に討たれてやるつもりはない」
 ちがう、と薫は首を振った。そんなことを聞きたいわけじゃない。
「もし、もしも、あなたが最後に立っていたとしても、私はなにもできない」
「待ってやるさ。どれほど時間がかかろうとな。お前が俺を殺すまで、俺は死なないでいてやる」
 言いたいことが終わったのか、縁が急に立ち上がった。湯船から出て体を拭き始めている。引き締まった背中についたひっかき傷の赤さが目につき、薫は慌てて顔をそらした。その動きを読んだように縁が低く笑った。
「頭を冷やせ。いいか、逃げられると思うな。お前が逃げる道など無いんだ」
 色違いの西洋浴衣を纏い、縁が浴室からでていく。鍛えられた広い背中を見送りながら、縁が触れた頬に手を当てる。あの大きな体の下に、ほんの少し前まで、自分はいたのだ。
(助けて、たすけて、剣心――)
 昨夜のことは、全て自分に力が無かったせいだった。そして、薫の体は既に受け入れてしまっている。もう誰にも縋ることなど出来ない。
 頭の中が黒々と塗りつぶされ、上手く考えがまとまらない。その恐ろしさに、薫は自分の体を抱く以外になかった。



 髪を拭きながら自室に戻ると、寝台は何事もなかったかのように整えられ、床に落ちていた硝子片も綺麗に片付けられていた。倭刀だけは場所を変えずに置かれている。
 長く手に馴染んでいるから重さは感じなかった。だが薫が持つには刀身が長すぎるかもしれない。
(くれてやる、か)
 不思議な感覚だった。今日に至るまで姉の復讐を代わりに遂げる為だけに生きてきた。姉の仇を討てばそれでよかった。その先は存在しなかった。
 だが夢に現れた喧しい女が、縁に初めて別の道を示したのだ。
 抜刀斎を殺した瞬間、自分はあの男と同じになる。
 その思い付きは、薫が泣き出したときに初めて頭に浮かんだことだった。自分に及びもしない剣の腕しか持たないくせに、逃げなかった女。
 手を取ってくれず、泣きもしなかった姉が、今も静かな表情で自分を見つめている。
 だが目を開けば、臆せず感情をぶつけてくる薫がいた。真っ直ぐに縁を見て、話し、笑いさえする。昨夜は、成り行きではあったが、存分に抱いた。少しずつ墜ちていく薫の姿は、底知れない愉悦にいろどられていた。柔らかくしなやかさを併せ持った体に溺れかけているのはわかっている。帰るなどと喚いていたが、つい先程まで腕の中にあった体を手放す気はなかった。
 薫は恐れ混乱しているが、それが幸いし、縁は先に理性を取り戻していた。いくつも手段を想定し、その上で別の手も用意しておくのは得意だ。さて、どう追い詰めてやろうか。
 軽い足音が聞こえる。今度は何を言い出すのかと、縁は内心楽しみにしていた。
「部屋に入れない!」
 開口一番、薫はきつく縁を睨みながら早口で言った。
「どういうことだ」
「こっちが聞きたいわ、私が使っている部屋に鍵がかけられてるの。窓も全部閉められてるし」
 おかしくて縁は薄く笑みを浮かべた。
「そいつは気の毒だな」
「他人事みたいに言わないで、あなたがやったんでしょう?」
「濡れ衣を着せるな。お前が締め出されたところで俺には関係ない」
「じゃあ誰がやるっていうの、あなた以外に考えられないのに」
「さあ、誰だろうな」
「包丁だって全部ないのよ。一つもなくなってる」
 それは命じた覚えがある。屋敷にあった刃物の類は、全て海に放り込まれて沈んでいる頃だろう。
「これじゃあご飯が作りにくいじゃない。素手で大根を切れっていうの? 嫌がらせにしたってもう少しやり方があるんじゃない? あなた、なにを考えてるのよ」
 半ば予想していたが、なぜ刃物を処分させたか、薫は理解していなかった。自害される可能性を考えて命じたが、やはり杞憂だった。この女が自ら命を絶つことなど考えられない。
 あれほど泣き喚き混乱を見せた薫が、今は真剣に怒っているのに、縁は無意識に目を細めた。
 呆れるほど生きる力を持った娘だった。汚泥の中を這いずり生きてきた自分と違い、陰のない光の下にいるのが相応しいように思えた。ただただ眩しかった。
 手に持っていた倭刀を、縁はおもむろに薫に放り投げた。流石に剣術を嗜んでいるだけあって、取り落としたりはしなかった。受け止めた倭刀と薫は似つかわしくなく、子供が大荷物を持たされた風に見える。
「あるのはそれだけだ。お前に扱えるかは……無理だな。抜くことも出来ないだろう」
 先程まで怒りを浮かべていた顔は感情を失っていた。震えているのか、倭刀がかすかに音を立てている。それも束の間のことで、大きく息を吸った薫は、ゆっくりとこちらに歩み寄ってきた。大切なもののように縁の倭刀を差し出す。
「――私は、あなたを憎んだりできない」
「へえ。立派な大義名分があるのにか」
「おおげさな言い方をしないで。そんなの、人が後になって見出すから生まれるものよ」
「ふん、随分な言い草だな。なら俺はどうなる。お前の言い分を借りるなら誰が見ても真っ当な生き方だろう」
 震えの治まらない華奢な手から受け取った倭刀を元の場所に戻す。
「もし私があなたの家族なら、泣きたくなるほど辛いと思う。もっと、しあわせになる道を探してほしい」
 家族。奪われたとても大切な姉を、手の届かない場所へいってしまった姉を思った。悲しげに目を伏せる姉がいるだけだった。
「姉さんは泣かなかった」
 顔を上げた薫が、瞳を曇らせた。
「許嫁が殺されたと報せが届いた夜も、京へ旅立つ前日も、俺には一切涙を見せなかった。何故だと思う?」
 縁は初めて誰かに問いかけた。もうすぐ姉と同じになる、自分と同じように混乱した薫がどう答えるかを待った。
 少しの間沈黙があったが、姉のように顔を伏せたりせず、薫は真摯に縁を見つめ続けた。
「……わからないわ。ただ……ただ、泣いているところを、見せたくなかったんじゃないかな。大切な家族に心配かけたくなかったのかもしれない」
 ふうん、と一応は納得してみせる。
「その家族に、何一つ話してくれなかったんだ。今思えば相談くらいしてもいいと思うがな」
「そう、かな」
「俺がまだガキだったからか」
「ううん、言えなかっただけだと思う。あなたが子供だったから。姉なら心配をかけたくないもの、弟には特にね」
「お前の話などしていない。いいか、姉さんと貴様などが同類だと思うなよ」
 目をしばたたかせてから、ふっと、薫が軽く声を立てた。また笑った。
「たしかにそうよね。ごめんなさい」
 手を伸ばし両頬を掴んで引き寄せる。爪先立ちになった薫は、すぐに笑顔を引っ込めてしまった。笑った顔をよく見たかったのに、瞳からやさしい色は失われていた。湯の匂いがかすかに漂っていた。
「んっ……」
 かすかに喘ぐ声を吸い取りながら、軽い体を持ち上げる。まだ日は高かったが、薫の笑顔を見るとどうしても血が熱くなるのだ。口付けながら寝台に横たえる。角度を変えながらやわらかい唇を貪っていると、弱々しかったが、薫の手が縁の胸を押した。
 仕方なく、忌々しげに体を離すと、薫は泣いていた。青ざめた頬が濡れている。
「……やめて」
 嫌だとは言っていないから、拒んでいるわけではない。こんな弱い力で男は止められるものではない。
 やわらかな膨らみに手を置いてみると、早い鼓動がはっきりと感じられる。なのに薫は首を振り、ますます泣き出す。
 なにもしないと言った手前、少々ばつが悪い。縁は行き場を失った熱を息に乗せて吐いた。
 立ち上がり乱暴に引き出しを開けて探すが、やはり薫の部屋だけ鍵がなくなっている。
「くそ、余計な真似を――」
 振り返った縁は絶句した。縁が押し倒した格好のまま、薫が目を閉じている。鼻先に手をかざすと、呼吸はしていた。濡れた頬のまま、眠っていた。体力が回復する間もなかったからだろう。薫はまだ混乱から抜け出せていないのだ。
 泣きながら意識を手放したからか、穏やかな寝顔ではなく、青白い頬のままだ。かすかに寝息が聞こえる。その寝顔に、縁は体を巡っていた熱が霧散していくのを感じた。
 隣に寝転がると、力を失った体を腕の中に引き寄せる。温かい。あふれるほど命を持った小さな体が、ふと哀れに思えた。他人への哀れみなどとうに捨て去っていた。なのに縁の夢に現れた薫は、思うより内側に入り込んでいるらしい。体の位置を具合良く変えながら、艶やかな黒髪に唇を寄せる。外から聞こえる葉擦れの音は丁度良い子守唄だった。この穏やかな時間を薫と共有したいと、今度ははっきりと思った。



 夢を見ていた。だが目を開けた瞬間に、どんな形をしていたか分からなくなった。
 日が落ちる前だろう。残暑の暮れの光が眩しい。なんどかまばたきを繰り返した薫は、危うく大声をあげるところだった。雪代縁に、どうしてか、抱きしめられている。慌てて自分の体を確かめるが、西洋浴衣に乱れたところはなかった。なにもしないと言ったのは本当らしい。小さく息をつくと、薫は少しだけ目線を上げた。
 整った顔立ちなのに、子供っぽい寝顔があった。
 狂気の色に染まった瞳が見えないせいだろうか。どこか気が抜けていて、ちょっとかわいらしい感じだ。間近で見ると睫毛が長いことがわかる。何の気なしに手を伸ばしてみる。縁の体はあちこちが堅かったのに、頬はやわらかさを薫の指先に返してきた。なぜか悪いことをしたような気がして、静かに手を引く。とりあえず起こさないように離れようとしたとき、雪代縁が小さくつぶやいた。
「――かおる」
 息を飲む。縁はどんな夢を見ていて、自分の名を呼んだのだろう。
 こうして共に眠っていたのに、見ている夢は全く違うのが不思議だった。夢の中で何をしていたか、もう覚えていない。縁はまた同じ夢を見ているのだろうか。冬の日に、自分と会ったという夢を。
 こうして傍にいるだけでも、空気は澱んでいて少し暑い。むしろ冬の肌寒さが恋しいくらいだ。
 いきなり縁が目を開いた。黒い瞳の中に、驚いた顔の自分が映っていた。
 だが縁は薫には目もくれず、上半身を起こすと、じっと扉を見つめている。ようやく薫も誰かが階段を上がってくる気配を感じた。起き上がろうとしたが、ぐっと肩を押され身動きがとれなかった。口を開こうとしても先んじて口元を押さえられる。起きるな、声も出すな、ということなのだろう。
 無遠慮に扉を開けて入ってきたのは縁の部下らしかった。薫にはわからない大陸の言葉で挨拶をしたようだ。対し、縁もやはり大陸語で返した。
 二人のやりとりを、薫は横たわったまま聞いているしかなかった。縁の声に苛立ちが含まれているのはわかった。ぽんぽんとやりあい、しばらくして、折り合いがついたのだろう。一瞬、肌の上を奇妙な感覚が走る。
 扉が閉まる音を聞いてから、薫はそっと縁の顔を盗み見た。そこには物思いにとらわれた顔があり、薫が見ているのに気付いていないようだった。
「……もう、起きていい?」
 体を丸めていた薫が声を出すと、縁は呪縛から解かれたように振り向いた。
「悪い人じゃないみたい」
 縁の部下すべてが忠誠心を持っているわけではないのは、なんとなく感じていた。実際、昨日もこの屋敷を訪れたヘイシンと呼ばれていた男は、縁に全く敬意を払っている様子がなかったからだ。
 でも今しがたまでいた人は、ちょっと違う気がする。
「お前が物珍しかったんだろう」
「失礼ね、人を見世物みたいに」
 さりげなく距離を取りつつ扉の方へ目をやる。
「さっきの、女の人?」
 へえ、と縁が面白げに喉の奥で笑った。
「何故そう思った」
「なんとなく、声がちょっと高かったし。あなたと話しているときも、重苦しい雰囲気じゃなかったから」
「……それだけか」
「そうだけど」
「つまらない女だな、お前」
 気圧されてしまい、言葉を失った。縁はさっさと立ち上がり、服を着替えはじめてしまう。見ているわけにもいかないので、目をそらすしかない。度々こういう態度をされると、薫も困ってしまう。何が癇に障ったのかわからない。
 重い溜息が自然ともれ出る。
 眠ったおかげか、体の疲れは少し取れている。
 今の会話を胸の中で繰り返してみても、やっぱり単なる世間話だ。
 縁が少しずつ話をしてくれるようになったことを、薫は安堵と共に受け止めていた。話が出来れば縁を止めることができるかもしれない。彼の口から聞く昔話や思いに触れ、人が本来持つ感情を、まだ全ては失っていないと、焦れるほど僅かずつだがわかってきた。だが途中で会話を切られたりしてしまうと、薫にはなすすべがない。
(昨日は、たぶん、人恋しかったから……)
 あ、と薫はようやく間違いに気付いた。もし女性だったのなら、自分はここにいない。手近なところで済ませたにしろ、ごく単純な思い違いをした察しの悪さに呆れたのかもしれない。
 そろそろと振り返ると、とうに着替え終わったようだ。不機嫌な表情の陰影がよくわかる。
(――怖い)
 見下ろしてくる縁の表情には、簡単に人を寄せ付けない威圧感があった。わずかでも彼に近づけたと思ったのは間違いだったかもしれない。だって縁にとって、自分は憎んでも殺しても足りない人間なのだ。甘い考えを捨てられない薫へ憎悪を向けるのは当たり前だ。
 また涙があふれてくる。思い直してもらえるかもしれないなど、どうして思ったのだろう。長く辛い時を、一人きりで生き抜いた人だ。無力な自分に、何が出来るというのだ。
「……お前は泣いてばかりなんだな」
 顔を上げられなかった。泣いても仕方ないことはよくわかっている。けれど、心はひどく疲れていた。
 縁が寝台に腰掛けると、薫の体は勝手に緊張した。うつむいた先に置かれた手が浮きかけ、躊躇ったように元の位置に戻る。頭を撫でようとして、途中で止めたみたいだ。
「お前、好き嫌いはないだろう」
 え? と薫は涙目のまま顔を上げた。途方に暮れたように、縁の眉間にしわが寄っている。
 袖口で涙を拭い、胸に新しい息を吸い込む。とりあえず頷いてみせた。
「だろうな。あれほど不味い飯を作る奴に食えないものなどあるはずない」
 あんまりな言われようだ。だが嫌みを言われ慣れすぎたせいか、自然と肩から力が抜けていく。縁は立ち上がると部屋の外へ行こうとした。ついて来いと振り返った目が言っている。
 自分の思い通りにいかないと、どうやらへそを曲げるらしいと、薫にもやっとわかってきた。
 床に足先をつけたとき、少しよろめいたが、腹に力をいれてしゃんと立ち上がってみせる。
「なあに。いっしょに、ご飯でも、ってこと?」
「しばらく何も食っていないだろう」
「あなたが包丁を隠さなければもっと早く用意できたのに」
「あれで喜ぶ奴がいるか。あそこまで不味い代物に出来るのは一種の才能だな」
「誰にでも得意不得意はあるじゃない。一生懸命練習すればおいしく……たぶん、少しくらいは……」
 縁の部屋からテラスへはすぐだ。二人分の食事が用意されていた。縁はさっさと椅子に座り、やはり目で促す。
 こうして一緒に食事を取るのは初めてだ。
 気楽な間柄ではないから当たり前なのだが、薫が戸惑い立ち止まっていると、縁の視線はどんどん剣呑になっていく。
 また腹を立てられるのを避けるため、縁の斜向かいの席に着いた。それで満足したのか、縁は用意された食膳に手を伸ばす。意外にも、といっては失礼だが、落ち着いた食べ方をするのに薫はちょっとだけ驚いた。昨夜とは全く違う。
 箸の持ち方だって綺麗で、椀物を口へ運ぶのにも音を立てない。薫が用意した食事も、こうして食べていたのかもしれないと思うと、なんだかくすぐったくなる。
「早く食え。冷めると食いにくくなる」
 慌てて手を合わせる。大きめの器に湯気の立つ粥がいっぱいに入っている。
 口にいれてみると、たしかに不思議な香りが鼻腔に届いた。塩粥と違う初めての味だが、嫌な風味ではない。漬物に似た副菜は思った以上に味が濃かった。慌てて茶を飲んでいると、縁が先程よりゆっくりと食べているのに気付く。直接食べるのではなく、お粥に乗せて口元へ運ぶ。同じように真似をしてみると、味の濃さが丁度良い。こういう食べ方もあるのかと、薫は素直に感心した。
「おいしい」
 なんの気負いもなく、声が出た。
「そうか」
 もったいなくて、ゆっくりと、色々と用意された副菜と粥を口に運ぶ。肉の煮込みの辛さは丁度良く、初めて見る揚げ物も絶妙に釣り合いがとれるようになっている。多いと思ったお粥も気付けば残り少なくなっていた。
 視線を感じ顔を上げると、先に食べ終わっていた縁がじっとこちらを見ている。かっと頬が赤くなった。
「あの、さ、冷めてもおいしいと思うけど」
 慌てて言い訳をする。ちょっとがっついていたかもしれない。
「大陸の飯だからと嫌がるのもいる」
「目がないのね、そういう人って」
「かといって食い意地のはった女はみっともないぞ」
「いいじゃない。おいしいものには逆立ちしたって勝てっこないもの」
 というのは薫の持論だ。初めて食べた異国の料理がとてもおいしかった。それでいいではないか。
 普段からこういうものを食べていたら、確かに自分の料理は口に合わないだろうなと、ちょっとだけ思う。半分食べるだけでも、縁なりの気遣いなのかもしれない。薫が考え込んでいると、ふっと縁が軽い笑い声を立てた。
「お前、本当にうまそうに食うな」
「だって、本当においしいから」
 しみじみ言われて、ますます頬が赤くなるのがわかった。日暮れ時でよかった。
「部屋の鍵を直すのには二、三日かかる」
「……そっか」
 薫は少し気落ちした。他の部屋にも寝台はあったが、誰も使っていないことは明らかだった。ほこりっぽい布団を日に当てようにも、もう時刻が遅すぎる。
 寝心地の悪さを思うと、残りの粥を口に運んでも、おいしさが半分になってしまった。ごちそうさまでした、と丁寧に手を合わせた薫を、縁はまだ見ている。
「なにもしない」
 え? と首を傾げる。縁が何度か口にした台詞だが、どうして繰り返すのか、わからなかった。
 だから意味を飲み込めたのは、夜になり、縁の部屋に連れて行かれたときだった。
「いや、絶対にいや!」
「黴臭いよりはマシだろう」
「だから、それは、我慢するって言ってるでしょう! 掃除して風通しを良くすれば……」
「ならまた鍵を壊させる」
「ほらやっぱりあなたがやったんじゃない! どうしてそういう子供みたいな真似するの?」
「全く五月蠅いな、ぎゃあぎゃあ喚くな。腹が膨れたら元気になりやがって」
「うるさくさせてるのは誰よ! いやなものはいやなのっ。あなたと一緒にね、ね」
「寝るだけだと何回言わせる。大体なにもしないと言っただろうが」
「簡単に言わないで! ね、寝るだけでも大問題なのよ!」
「他の部屋は使うなと主の俺が言っているのに従えないのか」
「なら私は外で寝る。それでいいでしょう?」
「星を眺めながらか……。悪くないが、準備が面倒だな」
「やだちょっと急に柄じゃないこと言わないで」
「ならじゃんけんだな。三回勝負だ」
「え、じゃんけんって」



 縁の方が必ず先に目を覚ます。夜明けと共に体が覚醒し、腕の中に薫がいるか確かめる。
 夜中に起きて出て行けばいいものの、律儀に朝までいる馬鹿正直な性格に、縁は起き抜けだというのに笑い出したくなった。三日目になる朝もまた、薫は縁に抱かれながら眠っていた。
 こうしていれば、一時だけ、寒い雪の日に見た紅い色が、甘い肌の匂いで満たされる。安らかな寝顔の薫を抱く腕に力を入れると、血の通った体を全身で感じることが出来る。
 豊かな体を持つ女は山ほどいた。それでも久しい安らぎをもたらすのは、代わりだったはずの薫だけだった。
 三つ編みにした髪に指を差し込みほどく。指先で掬い、簡単に収まらず逃げていく髪をまた掬う。
 黒い髪を指に絡めて落とすのを、無心に繰り返した。指通りが良くなっている。縁が刻んでやった生涯消えない裂傷は、緩やかに、かすかだが乾く気配を見せ始めていた。
 頬にかかった髪を耳にかけてやり、唇を寄せる。やわらかな感触は自分がけして持ち得ないものだ。温かくて心地良い。薫がくすぐったそうに身じろぎをした。穏やかな寝息が再び聞こえ、縁はつまらなそうに息をついた。薫は一度寝てしまうと中々起きない。夜に寝付けないせいもあるだろう。薫は呆れるほどに尽きない話をする。しつこく、繰り返し、なにを思っているか、考えているのかと尋ねてくるが、縁は特になにもしない。ただ薫の声を聞きながら、適当に受け流している。そんな奇妙な押し問答をしているうちに、四半刻、二刻と眠るまでの時が減っていくのも面白かった。
 薫を抱いている間は驚くほど気分が落ち着く。
 改めて腕の中にある寝顔を見つめる。至って呑気なもので、やはり幼い印象は拭えない。だが眺めていると、ならした砂のように気分が平らになっていく。
 疑うべくもなかった。唯の小娘が、縁の理解が及ばない力を持っている。
 殺されると理解しながら向かってくる蛮勇か、手酷く傷付けてやったのに折れない心根か、片時も復讐を忘れない自分を見上げる瞳の色のせいか。
 どれでもいいし、どうでもいい。
 おとがいを指で持ち上げ、触れるだけの口付けをする。こうすると、昂ぶろうとする血が一旦落ち着くのだ。
 安らかな寝息を聞きながら薫が目覚めるのを待った。昨日は昼近くになってからだった。今日はどうだろう。
 小さく息を呑むのが聞こえた。まだ暑くなりきっていない時分で、考えていたより早い。
 起きれば、縁はあっさりと離してやる。薫があまりに怯えるから、なにもしないと言ってやった。実際眠っている間以外は、指一本触れていない。
「あの、おはよう……」
「ああ」
 小さな声で呟くのに応えてやる。縁は既に起き上がり、倭刀を手に取っている。
「あ、ねえ、ご飯は」
「先に食べていろ」
 振り返らずに部屋を出ていく。ここ数日は慣れた味の、滋養のある食事を用意させている。変わらず包丁などは取り上げたまま、箸も強度の弱い木材のものを使わせていた。
 先にとは言ったが、薫は縁の言うことは聞かず、必ず待っている。
(俺の言うことになど従わないということか)
 空を切る音の中、考えは勝手に薫のほうへ向かう。
(生意気だな)
 振り上げた勢いに、名も無い小さな花が宙に巻き上がった。倭刀を突き出すと花は地面に落ちたとき、半分に割れている。刀身の長い倭刀は重さを倍加させることで威力を増すが、縁はそれに加え腕力だけでも扱うことが出来る。そう出来るほどに鍛え上げていた。
 一段落したとき、薫の声が聞こえた。屋敷を見上げると、テラスにいる薫の、まとめた黒い髪が揺れているのが見える。大げさな身振りと言葉で誰かに話し掛けていた。薫には接触するなと厳命していたのに、部下と鉢合わせたようだ。
「だからね、うーん、わからないか。んと、ありがとう、おいしい、助かります……あ、そう、そう!」
 喋っているのは薫だけだ。食事の礼でも言ったのだろう。必要も無いのに、笑顔を見せている。
「…………」
 身動きせずに待っていると、表口から小男が出てきた。顔色を失っているが、何か言うでもなく、すれ違いに屋敷へ戻った。ただ話しただけで、特段咎める必要は無い。テラスへ行くと薫がこちらを向いた。食事に箸をつけた様子はない。
「やっぱり悪い人じゃなかった」
 何の脈絡もなく薫が言い出す。
「とても丁寧にしてくれたの。こう、椅子まで引いてくれて。私はお客でもないのに」
 屈託なく、身振りを交え、どこか嬉しそうに話すのを、縁は黙って聞いた。
「良かった、ああいう人がいてくれて。あなたにとって良いことだわ。でも武器組織なのよねえ……」
 薫が、何の面白みもない男のことを考えている。品良く下唇に指を添え、眉をひそめて、小さな頭で考えている。
「うん、別の仕事をすればいいのよ、それがいいわ。あの人にも相談してみて、それから――」
 鼓膜を蛆虫に食われるような雑音だった。薫の声がこれほど耳障りに聞こえたことはない。不快でたまらない。
「ねえ、聞いてるの? ……顔色が悪いけど、あなたもしかして眠ってないんじゃ」
「五月蠅い」
「え?」
「五月蠅いと言ったんだ」
 片手で余るほど細い腕を掴み、無理矢理立ち上がらせる。はずみで椅子が倒れた。
「来い」
 いや、と薫は言ったはずだ。だが耳の中は蠅が集ったように雑音が渦巻いていて、声は聞こえなかった。
 広い寝台に転がしたが抵抗はなく、喚くこともなかった。縁が倭刀を置き直しているのを、目で追っている。
(怯えているな)
 縁は薫の瞳に現れている感情を正確に読み取った。よく確かめようと顔を近づけると、薫らしくなく目を逸らそうとする。短く息を吐きながら、柔らかい頬に手を当て、自分の方を向かせた。大きな瞳に涙が溜まっていく。
「お前の為に死なないでいてやると言ったのを覚えているか」
「やめて、もう聞きたくない」
「そうだ、覚えているな。お前は馬鹿な女じゃない。だが愚かだな。お前はお前が行く道を理解していない。この手を血に染め俺を殺すんだ、お前が、お前の意思で」
「そんなこと出来ない、あなたを恨みは」
「俺に墜ちたのにか」
 薫の瞳が凍りついた。いつになっても勢いを失わない晩夏の明るさの下で、青ざめていくのがよくわかった。頬に添えていた手を下に滑らせ、やわらかな胸の上に載せると、鼓動が伝わってくる。
「この体は俺に墜ちた。気付いていないとでも思っていたか。眠れなかったのはお前だろう。俺に触れられるのを待ち焦がれて……いじらしい程だったな」
 薫の鼓動がひとりでに早くなっていく。縁はおかしくてたまらないという風に笑った。
「まだだ。後でお前が飽きるまでいくらでも抱いてやる」
「や、いや、いや、たすけて――」
「はは、助けてか。だろうな、お前は初めから俺を恐れていたな。だが別の恐れが生まれたんだ。俺に堕とされたのが恐ろしくなったんだろう」
 震えだした細い両の手首を捕まえ、腹の上で押さえつけた。服の下にまだ隠れている双丘が持ち上がり、頂が縁に触れて欲しいと形作っているのがわかる。良い眺めだ。薫がまた顔を背けた。爪で傷付けてしまわないよう加減しながらまたこちらを向かせる。この体を思うままに陵辱したいという溶けた鉄のように熱い血が全身を巡っていたが、先に目を背けようとする薫に理解させなくてはいけない。
「俺に抱かれたいくせに、お前は愚かにも自分に暗示をかけたんだ。男の単純な気の迷い。確かに明白でわかりやすい。そうして立ち直ったと自分に思い込ませた。だが実際は俺に触れられるのを避けて、逃げようとするばかりだ。さっさと媚びれば耐える必要などなかったのに、よく堪えられたな」
「さっきから、ばかに、するな、離せぇっ」
「それも暗示の一つだ。お前が普段通りに振る舞っているつもりでいたから、俺も付き合ってやった。存外に楽しかったがな。ガキの頃に戻った気分だった」
 縁は声を低めた。
「そう悲観するな。墜ちたのはお前のせいじゃない。お前が笑ったからだ」
 縁を見上げる瞳がまばたきを繰り返す。
「笑った? それだけ?」
「――と思うだろうな。俺も同じだ、お前が笑うから混乱した。覚えていないだろうが確かに笑ったんだ」
 夢にも出てきたしな、と付け加える。
「全く、油断していた。どこにでもいる小娘だと思っていたのに」
「そう、その通りよ。私はただの小娘だわ」
「だが俺もお前に墜ちた」
 自分でも驚くほどあっさりと言った。薫が目を見開く。堕としたくせに、この娘は己の持つ力を理解していない。
「殺されてやろうと思ったのはお前が初めてだ。まるで魔術だな。お前はどうやってその力を得たんだ?」
「全然わからない、どういう意味?」
「力を持っているのはお前だ、俺にはわからん。お前は俺をも堕とした。俺達は踏み込んではいけない領分に墜ちたんだ。目を逸らすな、俺を見ろ。見るんだ」
 繰り返しながら縁は思った。嚇怒を越える先を与えてくれた薫は、一体どこでこの力を得たのだろう。
「二度と他の男と話すな。女でも駄目だ。お前の力は俺の為だけに使え。もし他の奴に使ってみろ、所構わずお前を抱き辱めてやる」
 捕まえている手首を強く握り直す。
「俺は別に外でも構わないがな。お前が一々嫌がるのが面倒だ。明るいのは気にするな、もう全部見た」
「なに、なにを、言って……」
「飽きるまで抱いてやると言っただろう。ああ、俺が欲しくて気を引こうとしたのか。下らないな。ガキみたいな手は二度と使うなよ、殺るのは容易い。どいつもこいつも虫けら以下だ。どうする。お前が手を汚す覚悟を一つ決めれば良い。虫けらの命をいくつも救えるぞ」
 歯を食いしばって、泣くのを堪えている。混乱しているのだろう。縁の指摘に頷けば、薫は墜ちたことを恥じ入り死ぬかもしれない。だが誇りのために命を絶つことは、心優しい娘に到底出来ないことだった。
「急ぐ必要はない。お前の覚悟が決まるまで俺は死なないでいてやる」
 ゆっくりと手を動かし、西洋浴衣を肩から脱がせる。明るい昼間の光に晒された細い肩は、血の気を失っていた。きつく手首を押さえすぎていた。逃がさない程度に力を緩めながら、温かい肌に唇を寄せる。自分もまた堪えていたのだと、体を巡る熱い血を縁は感じた。
「あ、やあ、ぁあ」
 自分に触れられるのを健気に待っていた頂を舐め上げると、薫は喉を反らせて声を上げた。舌の上で転がし、犬歯を軽く立てれば、薫の声に甘いものが混ざる。この躯が自分のものだとわかる。
「やめ、こ、んなこと、やめて――」
「うるさいな」
 頭を引き寄せ唇から言葉を奪う。逃げ惑う舌を捕まえ、絡ませ合う。まだ不慣れな薫の口の中へ唾液を注ぎ、拙く嚥下するのを首元に触りながら確かめる。こくりと喉が動くのを確かめ、縁は褒めるように舌先で上顎に触れてやる。震えながら受け入れるしかない薫が愛おしかった。先に息の上がった薫から一旦離れる。上気した頬に蕩けた瞳。ほら、ほんの少し口付けただけで、こうも墜ちるではないか。
 唇の端からあふれた混ざり合った唾液を親指で拭ってやると、抵抗しているつもりなのか、首を振った。
「ちがう、ちがうっ、全部間違ってるっ」
 薫はとうとう泣き出した。悔し涙が散る。
「嘘だわ、そんなちからな、んてない、あなたが、勝手に、いってるだけよっ」
 辛そうに、苦しそうに喘ぎながら、縁を必死に見上げている。年下の娘の強い眼差しに、縁はぞくぞくする。
「俺に抱かれても仕方ないと言っていたのにか」
 組み敷いた小さな体が震える。
「あれは……あのときは、ちがう、だって……」
「諦めろ。お前は俺に墜ちたんだ」
 自分の方を向かせながら言い放つ。額に張り付いた髪をかき分け、唇を順に落としていく。震える桜色の唇に辿り着き、触れるだけの口付けをすると、強張っていた華奢な体の震えが治まった。縁の与えるものを、薫の体が拒絶できるはずがない。一度受け入れたのだ。
 縁はふと気付いた。腰紐をほどき、西洋浴衣を開く。細い腕を袖から引き抜いて、一糸まとわぬ姿にしてやる。布きれになったものを邪魔そうに放り捨てた。自分もまた服を脱ぎながら、甘い匂いがする薫の肌と合わせた。柔らかい肌と硬い肌は、すでに汗ばんでいて、寄り添い合うと気持ちいい。
「くる、し、おもいっ」
「すぐ気にならなくなる」
 眠っているときと同じように、柔らかい頬に唇を寄せながら言うと、体の下で薫の体が震えるのがわかった。
「んっ……」
 頬から肩へ唇を落としていくと、細い指がきつく握られているのが見える。手を取ると、指先から咥えてやる。熱を持った指の腹から関節に舌を這わせて、熱の発散のやり方を知らない小さな手を、縁が助けてやらなくてはならなかった。薫の血は見たくない。
 手首を導き自分の肩にかけてやると、小さな体が、ひとまず縋るものを見つけたようにしがみついてきた。気丈に振る舞いながらひどく臆病でもある薫は、こうして自分が助けてやらなければ生きてはいけない。そう体に教えてやったのは縁だからだ。壊れやすい小さな体を慰めるように抱き寄せながら高く結わえた髪をほどいてやる。長い髪が白い肌に張り付く様が縁は好きだった。自分に縋る薫とよく似ている。明るいおかげでよく見えた。
 あまりに縋ってくるものだから、身動きが取れない。縁は薫の脇腹をくすぐってやった。
「ひゃぁっ」
 妙な笑い声に、縁はつられて口元を緩ませた。背中にごく軽い痛みを感じた。仕草がいちいち子供っぽい。
 鎖骨からやわらかな双丘へ、薄い下腹へを掌を滑らせていく。自分を受け入れる胎内の辺りで手を止め、温かさを確かめた。壊すのは容易いほど薄い肌が柔らかい。
 密やかに閉じられた帳は、縁が指先で触れると、つつましさをすぐに捨て去り、簡単に受け入れた。浅いところで指を止め、内側を掻き回してやる。短い吐息と声が混ざり、薫は喘いでいる。幼い寝顔とまるで違う女の顔は、次第に美しさを増していく。縁が見ているのに気付いたのか、頬を染め、また顔を逸らした。癖なのだろう。真っ直ぐに人の目を見る薫が、変化を見せるのは極端に嫌がる。
「いいのか、止めるぞ」
 縁は、薫が見ていなければ満たされなかった。薫は首をかすかに振ると、縁の視線を遮ろうと、細い腕で顔をかばった。指を抜き出し、細い腕をどけさせる。横顔は涙に濡れていた。
「いや……やだ、はずかしいっ……」
 明るいせいか、とふと思う。これからいっそう日が昇り、明るくなっていく。白日の下で理性を手放すのを薫は拒んでいるのかもしれない。
「随分欲張るな」
「……?」
 女の表情をしているのに、子供のように無垢な瞳がおそるおそる見上げてくる。こういう素振りに堕とされたのを思い出した。
「夜までねだられるとは思わなかった。構わないが先に音を上げるなよ」
「だ、だれが、んっ……」
 艶やかな髪の中に手を差し入れ、小さな舌を絡め取る。ここ数日の間、触れるだけでよく我慢できたものだ。合わせた唇から漏れ出る喘ぎまで吸い取ってやりながら、自分の我慢強さを密かに褒めた。
 息苦しいのか、時折薫の白い手が肩を押してくる。息継ぎの間を少しだけ与えてやるが、呼吸が整うまでは待ってやらない。苦しいままにしてやったほうが都合が良かった。
「は、ん、あぁ……あっ……」
 鼓膜を撫でる薫の声が甘いものに変わっていく。その声は縁が触れる場所を増やしていくほど甘やかになった。細い割に肉付きの良い乳房を持ち上げる。掌の中で赤く、固くなった頂を転がし、音を立てて吸い上げる。刺激に背を反らせるものだから、薫から誘っているみたいだ。膝を割り、下半身を擦り合わせると、薫が切なそうに喘いだ。小さく開いた唇の中で赤い舌が動いているのが見える。粘膜を擦り合わせ、互いの体液を混ぜ合わせながら、縁は薫が苦しげに息を吐くのを見ていた。上気した頬や瞳が潤んでいくのを、ずっと目を離さずに見続けた。
 縁に溶かされた小さな体が、切なげに震えている。見ている縁は薫が求めているのをわかっていながら、親指と中指で帳を開いた。先程よりも簡単に縁の指を受け入れた。熱く滑った帳の中の、ざらついた所を指の腹で弄ってやる。擦られる度に、薫の体がびくりと震える。中に入れている指を増やすと、それだけでびくびくと体を震わせた。中で蠢く指を受け入れながら、薫は一度だけ苦しげに息を吸い、縁の指をよりきつく締め上げた。くたりと溶けた体が下手くそな息継ぎをしている。そういう姿は、何よりも縁の気を昂ぶらせた。
「――悪くない、ヨク出来ました」
 逃げずに受け入れた薫の頬に口付けてやる。赤くなった耳を軽く食みながら続ける。
「っや、それ、や……」
「わかってるさ、まだ足りないんだろう。お前を堕としたのは俺だからな」
 ねっとりと濡れた指を目の前にかざしてやると、ぽうっと、また耳が赤く染まる。明るいおかげでわかりやすい。
「綺麗にしろ」
 有無を言わせず温かい口の中に指を差し入れる。逃げようとする舌を指で摘まむと、薫は小さく咳き込んだ。縁の指に唾液が絡まる。両手で手首を掴まれるが、元の腕力には天と地ほど差がある。縁が見下ろしている中、薫の舌は拙いながらも縁の指を清めはじめた。薫の舌先が爪の間に触れると、わかるほど体が熱くなる。
 誰が想像するだろう。生きる力を持ったこの体が、男の悦ばせ方などまだ一つも知らない薫が、大切なもののように自分の手を抱きながら、拙い動きで自分の指を舐めている。その光景に頭の芯が熱っぽく疼くのがわかった。動けないよう寝台に押しつけてめちゃくちゃにぶち込みたくて、勝手に喉が鳴る。
(……覚えたてのガキじゃあるまいし)
 縁のそういう衝動を察する余裕は薫にもないらしく、唇の端から唾液をこぼしながら、一生懸命きれいにしようとしていた。邪魔するように、白い乳房に触れ、上を向いた頂を掌で潰したり、きつく摘まんだりすると、一々動きが止まる。その度に潤んだ瞳が自分を見上げ、むくれるような色になるのが堪らない。さらさらした唾液の感触だけになると、縁は手をどけ、再びやわらかい唇を求めた。薫の味が少しだけ残っている。籠もった吐息を吸い取り、送りながら、唾液を貪る。
 そうしながら柔らかく砕けた膝裏を持ち上げ、濡れた帳の中にようやく挿れてやる。既に熱く溶けた粘膜の間を割って入ると、上手く呼吸が出来ないのか、薫はか細く喘いだ。
 ふうっと熱い溜息をついた縁は、華奢な腕を掴むと体を起こしてやる。長い黒髪が敷布から離れた。薫に繋がっている部分をよく見せつけると、小さく息を呑むのが聞こえる。体を引こうとすると細い腰が動いて、縁をより深く受け入れてしまう。深奥を擦った感覚は薫にも伝わっているはずだ。
「はぁっ、はっ、はぁ」
 性急にしたつもりはなかったが、薫は喘ぐのも拙かった。だが胎内は悦んで自分を受け入れているのがわかる。下手くそな呼吸をしながらも、縁を咥え込んで離さないからだ。薄い下腹を掌で擦ってやるだけでも刺激になるらしく、掴まれていない方の手が、敷布を握りしめている。縁がわざとゆっくり己を胎内から引き抜くと、小さな手はより強く敷布を握りしめた。数をかぞえられるほどゆっくり動いた。内側の粘膜をめくり上げ、また奥へと押し戻すようにしながら、ごくゆっくりと動いてやる。縁が与える快楽に薫は唇を噛みしめ、ときには息を吐くことで順応しようとしていた。墜ちたと思ったときの表情に、少しずつ戻っていく。
 おとがいを指で持ち上げ上向かせる。こぼれた唾液を舌ですくい取り、小さな口の中に戻してやる。水音が混ざり、上と下、どちらから聞こえるのか分からない。びくびくと小さな体が反応を示し、力を失いもたれかかってきた。体全体で呼吸を繰り返す薫の体を抱きながら、黒い髪に掌を滑らせる。
「言った通りだったろう。墜ちたと」
 潤んだ瞳が縁を見上げる。一応はまだ反抗しているつもりらしいが、荒く呼吸をする、陶酔しきった表情は縁を喜ばせるだけだった。
 もたれかかる体を押し、寝台の上に置き直す。髪の間から見える背はよくしなり、きれいな曲線を描いていた。挿れたままうつ伏せにさせたから、薫が苦しげに息を吐いた。さすがにもう加減してやれない。
 細い腰を掴み、縁は好きなように動いた。擦り合わせるだけで物足りなかった刺激をようやく得られた。異物を受け入れきれない胎内を掻き分け、広げることを繰り返す。
「や、おね……、あ……て」
「何か、言ったか」
 顔を敷布に埋めているから、薫の声は聞き取りにくい。わざとらしく聞き返すと、体を捻り、涙を溜めた瞳が縁を懇願するように見上げてくる。
「……あ、んま……り、はやく、しない、で……」
 気が付いたときには薫の体を引き寄せ、腕の中に収めていた。繋がった部分から体液が滴り落ちるのも構わず、縁は喘ぐ唇を食べるように貪っていた。まともに息が出来ずに苦しんでいるのも無視した。この体をどうしたらもっと堕とせるかで頭がいっぱいだった。自分がいなくては一秒も生きられない体にしてやる。縁が動く度に、胎内は収縮し、欲しがってさえいるようだった。擦れた声を上げ、薫の体が力を失う。
 力の抜けた体を寝かせてやり、自分もその隣に横たわる。浅い呼吸を繰り返す薫の頬にかかった髪を直してやりながら、肩や首筋に己のものである印をつけていく。こうやって毎日印を刻んでやろう。薫が心を決めるその日まで。
 肩を抱き寄せながらつい先程まで縁を受け入れていた帳を拡げてやると、胎内に溜まった熱い白濁液がとろりと垂れてくる。
「っ、や、やめ、やだっ……」
 薫が縁の胸に顔を埋め、小さな声で懇願するが、こうしなければすぐに溢れてしまうから仕方ない。あらかた指で掻き出してから、汚された粘膜の中に再び埋め込む。今度はすぐに奥に挿しこまず、先端で胎内のざらついたところを擦ってやる。ぐちゅと水音が派手に聞こえ、恥ずかしいのか薫が体をすり寄せてくる。その仕草に破顔しながら、縁は小鳥の嘴のように小さな芽に触れた。僅かに腫れているのが触った感覚でわかる。指先でごく軽く弾けば、腕の中に閉じ込めている薫が反応を返すのがよく分かる。入り口を違う方法で抉られるのが耐えがたいのか、薫も縁の腕にしがみついた。幼子のように必死に縋る姿が、ますます縁を悦ばせる。他でもない薫が自分を求める姿が堪らなかった。
「は、あっ――」
 足を開かせ、奥へと陰茎を沈ませていくと、小さな悲鳴と反対に、胎内は待ちかねていたかのように縁を迎え入れた。
 ぎゅうっと縁の肩に額をこすりつけ、薫は顔を見せまいと無駄な努力をする。軽く髪を引っ張れば、蕩けた表情はすぐに見ることができた。
「かおる」
 薫が目を見開いて縁を見つめた。縁も少なからず驚いていた。声が自分らしくなく、優しげな響きをしていた。
「くっ……ねだりすぎ、だろう」
 いきなり締め付けられて、情けない声が出る。意識してやったのではないのはわかるが、急かすように根元を締められると、自分でも制御できなくなる。
「ん、んんーっ」
 脳髄が溶けそうになるほど痺れ、かるい目眩がする。一度踏み込んでしまえば戻れない享楽を噛みしめながら、腕の中にいる薫を抱きしめ直す。この女と共に墜ちたことを、後悔などしていない。いつか己の身を地獄へ落とす小さな手を探り当て、強く握りしめた。

 告げたとおり、縁は暮れるまで薫を抱いた。抱きながら、より深く溺れていくのが自分でも理解できた。
 姉の代わりでしかなかった薫を、自分のものにするために、受け入れさせるために、繰り返し抱いた。
 とうに意識を失い、腕の中でぐったりとしている軽い体を抱え直す。
 部下が最後に確かめるように縁へ視線を寄越してから、屋敷に火を放った。
 縁が持ち出したのはこの華奢な体だけだった。倭刀ですら燃え尽き灰になろうが構わない。
 見る間に燃え広がった炎は、鋼の鎖で両手を結びあった二つの死体まで届いたろうか。
 名も知らぬ男と女は、骨になり、縁と薫の亡骸の役割を果たす。
 抜刀斎は、慟哭するだろうか。
 自分に奪われ、共に煉獄へ連れ去られた薫だと思い、焼け焦げた他人の骨を抱き、身も世もなく嘆くだろうか。
 無様な姿は一度想像するだけで充分だった。この腕に抱いた薫以外に、興味は無い。
 火の粉が夜へと舞い上がる。目を瞑れば、姉が目の前の炎の中に静かに足を踏み入れるところだった。楚々とした後ろ姿を追うことはなく、縁はまた腕の中にいる薫を見つめる。高く上がる炎に照らされた頬は、白く渇いていた。
 後を見ることなく縁は踵を返した。海上で自分達を待っている船は西へ行く。縁以外には手の届かぬ西の大陸へ。
 両腕に抱いた温もりと共に夜の道を歩きながら、全てが焼け落ちる音を、縁は聞いた。